一人しか友達がいない彼女による、友達がいない日。

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この作品は小説家になろう、星空文庫、ピクシブ、ライトノベル作法研究所にも公開しています。


その日常は、まるで発酵食品のように。

 

「夏目漱石いわく、『精神的に向上心のないものは馬鹿』、らしい」

 放課後の教室で宿題にいそしんでいた私はふと、呟いた。

 同じように数学の宿題を解いていた境は動かしていた鉛筆を止め、私を見つめる。

発言の意図を考えるかのように、端正と言えるその顔を歪めながら。

 しばしの沈黙は苦手で、私は「何でもない」と話題を切り上げようと口を開いたが、その前に境の発言があったためそれは叶わなかった。

「じゃあ、俺たちは馬鹿か」

 境は何故か不機嫌そうな声で、何故かそんな事を言った。

 いったい何と返すのが正解なんだろう。というか、自虐するついでに私のことも馬鹿扱いしていないか。でもまあ、境が馬鹿なら私も馬鹿かもしれない。 

中間の点数は境に十点ほど負けていたし。とか考える私は馬鹿だ。いや阿保だ。

 頭の中で「馬鹿」がうねりを巻いている状態の私がどんな表情をしていたかは知らないが、境は私の肩を叩き「深い意味はない」と言った。私の初めの発言にも深い意味はなかったのだが、冗談でも自分に当て嵌められると気にしてしまう。

 馬鹿だからか。と考えてしまい、うんざりした気分になった。

 そんな私がいたたまれなくなったからか、はい、この話おしまい。とでも言うように境は私の肩を叩く。

 境は非力な部類に入る男子生徒だが、だからといって叩かれて何も感じないはずはない。痒いと痛いの境界線、ぎりぎり痛いといえる衝撃を受け、私の体は跳ねた。なんの悪びれも入れず、意図も言わないが、それで通じる。通じるけども。

「何すんだ馬鹿」

 頭を思いっきりはたいてやった。そしたら無言で頭にチョップされた。

「宿題、終るかねぇ」この調子で、とでも続きそうな調子で境は笑う。愉快、というか諦めて開き直ったかのような声色だった。

 あえて何も言うまい。私は再度、宿題に向かった。数学が苦手な境とは違って私は英語が苦手だ。他は普通で、現代社会と現代国語が少し得意、という程度。

「得意なことでも一番にはなれないんだよなぁ」

 その癖、苦手な物はひどい有様だ。なんだ受動態って。なんだ英語って。

 見るからに悪戦苦闘する私と違い、境は落ち着いて問題に取り組んでいる、のだが鉛筆の進みは早いのに問題の進みは遅い。

ちゃんと公式を覚えていないせいだろうな。

 そういえば、放課後に二人で宿題をやっているのはお互いにアドバイスができるから、という有意義な理由だったはずなのに夏目漱石の話しかしていない。私が馬鹿である可能性を深めたこと以外、何の役にも立っていない。

 まったく役に立っていないわけじゃないのかよ、と少し呆れた。

「そういや、来週は十月だな」

 行き詰ったのか、集中力が切れたらしい境は会話を持ちかけてくる。私はずっと行き詰っていたので喜んで会話に乗った。

「そうだね」

「オクトーバーフェストの時期だ」

「そうだね」

 何だか乗りづらい話だった。直訳すると十月祭り。何だそれ。

 頭に疑問符を浮かべる私を置き去りにして、境は話を続ける。

「まあ、それだけなんだけど」

 いや続かなかった。すぐに終わってしまった。気まずそうに顔をそらされると、何だか私も気まずい。結局、オクトーバーフェストって何だろうか。

 何となく気になったので携帯で検索してみると、ヨーロッパ辺りの祭りらしい。ビールの関連だった。話を広げろと言うほうが無理だ。明らかにミスチョイスだろう境さんよ。

 その境は無表情に戻り、淡々と数学の問題で行き詰る。二人とも会話に失敗すると、こうも沈黙が気まずいものか。英語の宿題に取り掛かったが集中できない。できていても行き詰るというのに、どうしようか。

「もう、帰る?」

「ああ」

 何だか色々と疲労の色を見せる会話だった。合計で十文字も言っていない。(句読点抜き)

 宿題は家でやればいいさ、と何か前兆めいたことを呟く。どうせ家は隣り同士なので何となく一緒にやりそうだ。それでもいいけど、何か話題でも用意しておこうか。

「もう冬が近いんだな」

 傾きかけの太陽を見て、境がそうつぶやいた。私はまだ二カ月以上ある、などと無粋なことは言わずただ「うん」と同意した。私たちはいつもこんなで、前に進まない。別にいいかな、と少なくとも私は思っていつも通り相槌だけを返す。

 これは、そんな私たちの関係を変えるきっかけとなった物語である。とか何とか。何となくそんな事を考えた私は秋にしては寒い気温のもと空を見上げた。

 前を歩く境が振り返り、手招きする。そんなに離れていないのに、と苦笑して私は小走りで境のもとへ駆け寄る。ずっと、こんな関係でいればいい。

 変化を嫌うものは退廃する。境と私はそれの典型で、ようするに精神的に向上心がない。

 距離はいつも通りで、位置関係もいつも通りで、歩く速度さえもいつも通りで。

 私は適当な考えに浸りながら、境と帰路をともにした。

「じゃあ、また後でな。夕食の後にでも」

 宿題の続きはやっぱり一緒にやるらしい。境の家だろうか、私の家だろうか。

「どっち?」

「お前」

「あ、そ」

 これで終わり。私と境らしい、それ以外に言いようのない会話。

境と別れ、私は帰りのあいさつもほどほどに二階の自室へ駆け込んだ。

 漫画が散乱し、衣服はベッドの上に置きっぱなし、他色々。電灯をつけてなくてもわかった。心の目とかじゃなく記憶から抜粋して。

 電灯をつけると、記憶通り。げんなりしたが、私は掃除を始めた。境の家の夕食事情についてはよく知らないが、遅いよりは早いほうがいい。持論だ。

 漫画を適当な棚に突っ込み、乱れたベッドをメイキングして一息ついてなぜかひっくり返っていた机を元に戻して。棚の上に置かれたトロフィーはクローゼットに放り込んだ。    

最後に制服からベッドの上の衣服に着替えて、部屋の中を見渡す。まあ見れる。正直な感想はそれだった。後は制服をハンガーにかければ完了だ。多分。

 自信はないので多分をつけてみた。

「あれ、涼が帰ってきてる」

 階下からの声に反応し、階段を下りると母さんの姿があった。エプロン姿で、においは特にしないのだが、料理していたのだろうか。

「帰ったら挨拶ぐらいしなさいな」

「はーい」

「はい。でしょ」

 私を見つけた母さんは不機嫌そうだった。間延びした返事を嫌う母親なので、ついでに怒られた。説教を覚悟していたのだが、トイレへ駆け込む途中だったらしく、それだけで解放してくれた。

 私は湧いたつばを飲み込んで、リビングに入った。

 ソファに寝転んでテレビを齧りつくようにしてみる弟の秀樹は所謂「不良」という奴で、何故か境との仲が悪い。一度、境の家へ殴りこんだこともあったが返り討ちにされて帰ってきた。あれでも合気道をたしなんでいたらしい。

「よう、姉ちゃん。帰ってたのか」

 いかにも不良っぽい声のかけ方だ、と言いかけたが飲み込んで、境との会話のように相槌だけを返す。秀樹は満足したような顔を見せ、テレビに目を戻した。

 帰ってきた母さんに目を向ける。やっぱり臭いがしないが、何の料理なんだろう。

「夕飯、なに」

「今日? 麩の味噌汁よ」

はいはい恐怖の味噌汁ね…………いや、そんな話じゃないんだけど。

そういや昨日そんな番組やってたね。

「冗談よ。出前でも取りましょ」

作ってねえのかよ。エプロン何だよ。

焦げたにおいもしないので、本当に作っていないだけらしい。境の見解によれば、母さんは家族の中で料理が二番目にうまいらしいが。一番は私だそうだ。

今日、私が夕飯を作らない理由は簡単なことで、当番じゃないからだった。

私の家は夕飯を当番制にしている。ただし、父さんは帰りが遅く、弟は死にたくなるような料理しか作れないため、主に作るのは私と母さんだが。

「出前は何がいい?」と母さんがきくと秀樹は「寿司」と答える。予算がないので却下されていた。私は 何でもいいので蚊帳の外で待機。聞かれた場合はきまって「何でもいいよ」と言うことにしていた。

 二時間後、出前と言えばこれでしょ、とでも言うように我が家の食卓にはピザが並んだ。ピザを待つ途中で境が来たため、境も一緒だ。秀樹がひどく睨んでいたが、まったく気にしていないらしく境は涼しい顔で水道水を口につけていた。ピザは食べないらしい。

「境君は本当にいいの?」

母さんが境に質問した。五分に一度は言われているので私なら無視するが、境は「はい」

とだけ言っていた。ついでに、境の家は鯖の味噌煮だったらしい。

 ずいぶんと渋い。なんとなくそう思った。

 オーソドックスなピザで、値段は約二千円なり。私は小食なので二切れほどしか食べない。成長期なのにと決まって言われるが、私は構わなかった。それに、秀樹は食べるのが早いので、時間的にも二切れが限界なのだ。

 そうして夕食が終って、私と境は二階へ上がった。

境は筆記用具は持ってきていないらしいので筆箱からシャーペンを二本取り出し、芯の出ているほうを境に渡す。

境は数学の宿題を、私は英語の宿題を卓上に置いてシャーペンを動かし始めた。

 お互い変に真面目で、宿題を交換するなどと言う発想には及ばないらしい。というより、及んではいても言い出さないというほうが正しいのか。

 私がピザを待っている間に教科書を読み返したように、境も自宅で公式を覚えなおしていたらしい。教室でやっていた時よりも問題を解く速度が速かった。

 私は変わっていないので、やっぱり根本から頭の出来が違うのだろう。くそ、電子辞書の電源が切れた。

「あれ、《こころ》だったんだな」

「うぇ?」

 突然だったので反応が遅れる。境の顔を見据えてから、さらに何の話かと考えた。

 精神的に向上心のない者は馬鹿。の話だった。

「ああ、うん。そうだね?」

 母さんが言っていただけだったので私にはよくわからない。こころって何だっけ。

 それは人間だれもが持っているもの、何て言ったら馬鹿にされるだろうか。

「何だ、やっぱり誰かの受け売りか」

「ぐむ」

 やっぱりって何だおい。

 困ったように何も言えなかった私を見て、境はケラケラと笑った。

一人で勝手に笑う事はよくあっても、境が談笑するように笑うのは珍しい。憤慨する一方で、なかなか見ることのできない物を見れた、という喜びが私の中で渦巻く。

「ま、初めから涼が本なんて読んでるわけないと思ってたけどな」

「うがぁー! 馬鹿にしすぎだろー!」

 名前を呼ばれたのが久々だったからか妙に照れ臭かったので大声で誤魔化した。

 境は一層笑みをこぼして指までさしてきて、もしかして宿題が行き詰ってるから暇だったりするのだろうか。だったら私と握手。電子辞書のない私は無力だ。

 そこからはやっぱり会話がなくて、私は仕方なく紙の辞書をぱらぱらと捲る。紙の辞書はなんだか苦手だ。先時代的だからだろうか、今の時代はデジタルだろう。

 要するに面倒くさかった。

 夜が更けて、外は真っ暗。一方宿題はページ一枚めくれば真っ白で、提出日は明日だというのに、今から言い訳を考えなければなるまい。

 すでに9割諦めてシャーペンを止めた私と対照的に、境は静かに芯を紙上に滑らせる。妙に早い。教室とは逆で、動かす速度は遅く、ページを捲る速度は速かった。

「やっぱり終わんなかったな」

「ああ、うん」

 境が私の宿題を覗き見て嘲った。お前はどうなんだよと思って境の宿題を見てみたら全部埋まっていた。一瞬で計算できるような立派な脳は持っていないので、ちゃんとやったかどうかは不明瞭だけど解答欄は埋まっていた。多分やってない。

「じゃあ、俺は帰るよ」

「また明日ね」

「ああ」

 時計の針は十時を過ぎていた。境はいそいそと宿題をまとめ、最後に手を振って階段を駆け下りる。

私は見送りもせずにベッドに仰向けで倒れこんだ。

 頭を使ったせいか、知恵熱めいた熱を頬に感じる。そうやって誤魔化して、実際に境が私を呼ぶのはいつ振りだったか。

名前にコンプレックスがあることは境も知っているので、極力呼ばないようにしてくれていたはずなのに。私はそれがいいと思っていたのに。

「馬鹿か、くそ」

 天井に向けて放たれた自虐は私の耳の中にだけ入ればいい。

 嫌に照れくさく、両手が髪をかき乱す。

 階下の家族が会話する声に交じり、扉が開き、閉じる音が聞こえた。

 本当に独りになった。私はそう考える。卓上に転がる電子辞書を見やり、充電器を目で探す。まあ、無い。ついでに私の部屋に充電器が無いように私には英語の宿題をやる気がなかった。

 また明日、と言えるのは案外幸せなのではないだろうか。ふと、頭によぎる。暇で、この上なく普通で、変わらない。それって存外に稀有なのではないだろうか。

 自分が馬鹿だという事を認めたくないだけだと気付く。

 下らない。考えるのを止めて、強い光で痛む目を腕で覆った。暗黒の中、服の裾が瞼に当たる感覚だけを感じて、完全に外界とシャットアウトされる。

 ああ、そういえばシャーペンは境が持って行ってしまったなぁ。どうでもいいけど

 

 涼川涼。上から読んでも下から読んでも涼川涼。

 私は自分の名前が好きじゃない。小学生の時はからかわれたこともあって、私は顔も知らぬ名付け親を恨んだものだ。

 中学生のころ市役所で名前を変えられると聞いて一目散に市役所へ向かったこともある。門前払いされた挙句、親からもらった名前なんだからもっと大切にしろだとか、毒にも薬にもならない説教をされた。赤の他人に。

 当時はかなり怖かったのだが、今見たらよぼよぼの爺さんだった。

 そう、中学生まで私は自分の名前が嫌いだった。それが変わったのは、高校生の入学式。

境にあったせいである。

 当時は名前を知らなかったし、お隣さんだと気付かず、声を掛けられたときは何だろうと訝しんだ。突然、知らない男に話しかけられたのだから仕方ない事だ。

 制服で同じ高校だということが分かったので通報しようかなどと言う考えはなかったが、身構えてはいた。人見知りだったんだろう。

 明らかに無理している敬語口調で話していた彼は私が警戒している事に気付いている様で、半歩さがる。そして遠慮がちな声で私の名前を読み上げた。

「これ君のだよな?えっと、涼川涼さん」

 春先で寒いというのに心情的な暑さを肌に感じていた。名前を呼ばれたからだ。

「名前は嫌い」

「何で?」

 嫌悪を隠さずそう言うと、彼は半壊した敬語で私に聞いてくる。悪ふざけやからかい。そう言った悪意を含んではおらず、純粋な好奇心だと気付いたのは五分後ぐらいだ。

「私の名前、変でしょ?」

 上から読んでも下から読んでも同じなんだぜー。ついでに男みたいな名前なんだぜー。

私は卑屈に笑った。いつもどおりに、有象無象と対するように。

 そうした裏など気にも留めず、彼は「どこが?」と聞いてくる。まあ、イラッとした。

子供の癇癪に似ていて、何で分かってくれないのか。同意だけを求めていた。

「あんたの名前何よ」

「は?」

「名前」

 意図とすれば、自分の名前がどれだけ恵まれているか教えてやろうと思っていた。今思うと物凄く馬鹿みたいだけど、当時の私は真剣だった。そして勿論、境が私の思惑にそんな事など気づくはずもなく、彼は自分の名前を呟く。

少し後ろめたそうに。

「さかいきょう、だ」

 さかいきょう。あまり聞かない名前だった。外見から優介とかそんなんだろうと思っていた私は少し言葉に詰まる。それでも口を開いた私に向けて、彼は生徒手帳を向ける。

 喉まで来ていた罵詈雑言を飲み込まざるを得なかった。

「堺境」字面だけで判断したら漢字辞典の様だ。

 やっとでた私の反応は「その、良い名前ね」だった。私の反応は予想通りだったらしく、彼は「ああ」と返す。

 爽やか軽やか、そんな言葉の似合う新一年生が通る中、同じ一年生でも失業一年生と言った雰囲気で、私と堺境の二人だけが明らかに浮いていた。

 出会いとすれば、そんな物。

 私と境は類で友だと気付くまでそう時間は掛からず、クラスは同じで、境の席は私の前だった。初めに仲のいい人間が居ると、他の友人はできにくい。当然のように、今になってもなお。私と境は唯一無二の友人同士だ。

 その友が学校を休むというならば、私は見舞いに行くべきだからだろう。他意はない。

 七時ちょい過ぎ、境から休む旨を伝えられた。登校まで余裕はあったので、私は隣の堺家にお邪魔することにした。

インターフォンを押し、シャワーを浴びたせいか湿り気のある髪をいじりながらしばし、待つ。少しして、境母が現れた。初めて会ったのは入学式その日で、その時と同じように、天然と言うイメージを持たせる笑顔を浮かべている。

 微笑ましい。とでも言われているようで、私は何となく俯いた。

「境なら二階よー。あ、マスク持っていきなさい」

 そう言って見送られ、私は階段を上る。嫌にゴワゴワしたマスクだ。

 境の家は母子家庭で、境母は作家さんらしい。売れっ子で、ペンネームはなんだか長ったらしい横文字だった。

 境の名付け親は父親で、相当酷いやつだったという。ある日、突然に心臓発作で死んだそうだ。そのことを話していた時の境は悲しそうでもなく嬉しそうでもなく。どうでもいいことを話すような調子だった。

 境と私の部屋の位置関係は漫画で見るような感じではなくて、同じ極の磁石のように離れている。ほんの少しそういうのに憧れていた私としては残念なことだ。

「思ったより辛そうね」

 何時もよりほんの少し。と付け足すのはやめて、嘲笑するように境を見る。境は首をこっちに向けて、何でいる。と口を動かした。喉が痛いらしい。

「大したことない。お前は学校行け」

「まだ時間に余裕あるから」

 行きたくないから、とは言わなかった。言ったら境が行かないから行かないとでも言っているみたいじゃないか。そんな根も葉も土もないようなことは絶対ない。

 喉が痛いのに無理をしたからか、境が二,三度咳をする。水を渡すと、味噌汁でも飲むかのようにズズッと啜った。

 まさか本当に行かないわけにもいかない。境の部屋でひとしきり暇をつぶした私は、学校に行こうと立ち上がった。それと同時に境が咳をして、私に何やら冊子を渡す。

「それ、頼む」

「オーケー」

 生返事を返しつつ見てみると数学の宿題だった。病欠なら待っていてくれそうなものだが、オーケーと言ってしまった手前言いにくい。たいしてかさばるわけでもないし、私はそれを学生カバンにしまった。

 今日は木曜日。来週は十月で、何かあったような気がするが何だったか。学校の事は大体うろ覚えなので大して気にせず私は登校した。結構、境の部屋で時間を潰したので遅れないか心配だったが、早すぎるぐらいだった。

 昇降口で靴を脱いで、いつも前にいる存在が今日はいない事を感じる。何か空気のような感覚が私の内部をかき回し、私は顔をしかめた。さっさと今日が終わればいいのに。

 いつもは境がいる。言い方を変えて、いつも境が居た。男女別の体育を除けばずっと一緒だったのだ。

境が休んだことはなく、それは今日で皆勤賞は逃したという事。

 嘆くだろうな、あいつ。その表情を思い浮かべて私はムフフと笑う。自分で言うのもなんだが気味悪いし、性質が悪い。

 訝しげにこちらを見ている女子が居たので笑いを引っ込めて、サッサと教室へ逃げ込んだ。戦略的撤退という奴である。誰と戦ってんだとかそんな事は知らない。

 境がいれば適当に話したりしているのだが、いない。なので私は机に突っ伏してHRをやり過ごした。教室の居心地が悪い。何故だ。

 一時限目は移動教室だったので、私は教科書を持って歩き出した。そういえば、言い訳をどうしよう。考え事をしていたせいで下を向いていた私は盛大に前を歩いていた女子にぶつかってしまった。小柄な体のせいか、私だけが倒れて尻もちをつく。

「あ、ごめんなさい」

 痛む尻を撫でながら立ち上がる。顔は知っているが、名前はうろ覚えの相手だった。確か、佐原さんだったか。とりあえず佐原さんで良いや。

 教科書を拾っている途中で上から「いやー、ごめんね」と声がかかる。顔を上げるとぶつかった佐原さんと目があった。と、相手が目を丸くする。

「あれ、あなた涼川さん?」

「え?」

 苗字を呼ばれたことで少々の嫌悪を覚える。もしかして中学が一緒だったりするんだろうか。だとしたら気まずい。会話なんて続くわけない。

「堺君といつも一緒にいるでしょ?」

「うん」

 堺。そういえば境は私が名前をコンプレックスに思っている理由を話すと「違うじゃん。下から読んだら《うょりわかずす》じゃん」などと言っていたものだ。一発で発音できたことにまず驚いた。すげえ。

 それよりも、相手が家族でも堺家の方々でもないとこうも冷や汗が出るものか。社会進出がちゃんとできるか何となく心配なんだけど、大丈夫か?

「今日はあれ? 風邪とか」

「ええ」

 大正解なので肯定する。すると佐原さんは驚いたように目を丸くした。

「本当に知ってたんだ。何? 付き合ってるの?」

「友人です」

 突然の発言に少し面食らったものの、私は努めて冷静に説明した。境は友人以外の何物でもない。ほかの名称で関係を説明するなら「親友」とかそういうのだ。

「何だ、つまんないの」

「はぁ」

 別に佐原さんを喜ばせるために境と一緒にいるわけではない。

 微妙に軽蔑の意をこめて見る。佐原さんはそんなことには一切気づいていない様子で移動教室先である美術室へ足を向けた。

「さて、私も行くべき場所へ行きますか」

 目的地は同じだけど。

 遅れてきたせいにしたいところだが美術の授業はたいてい二人組を組む。当然のように私は何時も境と組んでいた。しかし今日はあいつがいない。どうしたものか、と美術室をうろうろしていたら佐原さんに話しかけられた。

「組む相手がいないなら私と組まない?私もちょうど、余っちゃったから」

「よろしくお願いします」

 私がぶつかったせいかもしれないし、断れる立場ではない。

 天の恵みだと思って喜んで組ませていただいた。

 お互いの似顔絵をかく、というのが授業内容で、私はいつもよりも筆の進みが遅い。原因?そんなものは明白だ。相手が佐原さんだからだろう。境が相手ならめちゃくちゃを書いて「境の心」ぐらいは言っている。

 そういえば、佐原さんは佐原さんではなかった。いや哲学の話をしているわけではない。彼女の名前が原さんだったというだけの話である。うむ、惜しい。

 

「涼川さんは、絵とか好き?」

「うぇ?」

 変な声を出してしまった。境が相手の時も話しかけたりはしてこないからだ。あいつは淡々と描くだけで、やたらと上手い。私は絵が上手くないので並べると映える。

「何それ、涼川さん面白いね」

「ああ、うん。有難う」

 原さんは心底おかしそうに口に手を当てる。上品、という言葉が似合うやつだと思った。

 名前を呼ばれ慣れていないため、反応がおかしくなるのは仕方のないことなのだ。

 境は私のことを「お前」とか「おい」とか呼ぶ。たまに「涼」と名前呼びになる。家族はやっぱり「涼」で、秀樹は「姉ちゃん」と呼ぶ。昔はお姉ちゃん呼びだった。

 それにしても、原さんはいちいち絵になるやつだ。絵を描く姿は見た瞬間に画家が天職だと言いたくなるほど似合っていて、そういえば境にもそんなところがある。のだが、原さんと境はゴッホとピカソぐらい違う。私は境の変なところを見すぎた。

「それで、絵は好きなの?」

「そこそこ」

 小学校の宿題以外で美術館に行ったことがある程度には好きだ。

「それなら、これをあげる。チケットよ」

 あまりに脈絡がないので一瞬、思考が停止してしまった。それにしても、そこそこ絵が好き、という程度の相手にチケットを上げるだろうか。もしかしたら最初からあげるつもりで、嫌いと言ったらいったで何かしら理由をつけて渡すのかもしれない。

 餌付け、という単語が浮かんだが自分がペットというイメージはわかなかった。

「はぁ、くれるというなら受け取りますが」

「が?」

「受け取ります」

 私の言葉に原さんは満足げにうなずく。何故かは言わないが、何だか母性を感じた。

 まあ、人間体の一部で決まる訳じゃないし?

 筆を動かしつつ原さんを見やり、卑屈な笑みを浮かべた。

 そうして書きあがった絵画を見て、うへぇ、と顔をしかめる。私の絵はひどいものだ。福笑いに失敗した様になってしまっている。

 境に見せたら人の形なだけましだとかいわれそうな絵だ。

 嘆息し、原さんの絵と交換する。原さんは一瞬「えっ」という顔になったものの、あとは穏やかなものだった。反対に、原さんの絵は凄い。時間の問題があるため写真のよう、とまではいかなくとも最高の能力で最善を尽くした、という感じだ。

「個性的な絵だね」

最後にそういった原さんの笑いが微妙にひきつっているのを私は見逃さなかった。

 なんだか申し訳ない。

 美術が二時間連続で続いたため、次は三時間目。教科は英語だった。何か忘れているようなと首をひねった結果、言い訳を考えていない事を思い出す。

 どうしよう?

 どうしようもないので耳栓が欲しい。が、そんなものは持っていないし持っている人間に心当たりはないしあったとしても境以外から物を借りるのは無理。

 なぜ、といわれたらノーコメントと言うほかないが。

 英語の石井は短気な性格なのが有名で、割と頻繁に怒鳴る。この間など滑舌が悪いというだけで女子生徒に怒鳴っていた。その娘は思いっきり泣いていた。

 教育委員会に持って行ったら面白そうな話だ。

 私自身、英語は壊滅的な部分があるので良く怒鳴られる。ただ、私は他人の憤怒の表情に笑いを見出してしまうタイプの人間なので怒鳴られたことよりも笑いすぎて涙が出た。

無論、その場で笑うようなことはしないが、タコみたいで面白い。

「ふっくく……」

 思い出し笑いをもらしてしまう。周りにばれないように口元を手で覆う。なかなか口が元の形に戻らないのでグニグニと指で口をこねくり回した。

「忘れたってどういうことだ、ゴラ!」

「すいません」

 結局、宿題は忘れたという事にした。もし半分もやっていない事で石井に癇癪でも起こされて英語の宿題を破られたら嫌だからだ。

 石井の怒鳴り声を受け、私は表面上は平静を取り繕った。が、内心は大変なことになっていた。どうしよう笑い漏れそう声出そう。頬の裏を噛んでなんとか耐える。

「そういうのがなってないんだよ! お前は!」

「すいません」

そういうのって何だ。

 内心で石井をこき下ろし、謝罪の言葉を繰り返す。頬の裏を噛んでいたのにも拘らず無理に喋ったせいか薄く血の味が口内に広がった。

 どうでもいいが、足が疲れてきた。体力が無いからだな、と考えつつ時計を見る。石井が怒鳴り始めてから二分ほど経過している。授業はいいのか。というか、疲れないのか。これで疲れないなら劇団員でもなれるだろう。

 謝罪の言葉を言い返すのも飽きたのでじっと石井が怒鳴るのを止めるまで待った。

「もう良い。座れ」

 息も絶え絶えに石井が言う。足が棒、とまではいかなくともしばらく立ちたくないと思える程度には疲れた。笑いをこらえるのも大変で、着席した私はすぐさま口元を覆う。

 意味も分からず黒板の文字を映し、何となく思い出す。

 境は英語が苦手ではない。得意でもないが、テストは平均を上回っていたはずだ。

 元より口数が少なく、私と話すときもテンションの差異はあれど発言は大抵十文字を下回る。つまり、余計な事を言わないというわけで、必要な事も言わないわけで。

 石井が境に怒鳴ったのは一度だけだった。日常生活は別として、境は割と真面目に学業へ取り組んでいる。私の主観とかではなく、客観的に見て。

 そのため、境が提出物を忘れたり、どこかに空欄を作ることは無く、必然的に石井に怒鳴られることもない。

 その境が怒鳴られたのは確か、私のせいだったか。

 入学から二か月ほど経った暑い日で、雲を見ながらアイスが食べたいと思っていた私は宿題を忘れていた。もちろん石井は私を怒鳴りつけた。

 まあ、分かっていた事なので特に驚くようなことは無く、私は無言で石井の怒鳴り声を受け流していた。

 その態度が気に食わなかったのか、真っ赤になり、怒鳴り声もヒートアップ。見えている腕の他に見えない腕が二本あったなら耳を塞いでいただろう。

 はぁ、と私が嘆息していた時である。石井の頭にボールペンがぶつかった。こつん、と軽い音を立てて、スイッチが消されたかのように石井が黙る。誰のものか判断しようとしていたのだろう。意味はなかったが。

「あ、ごめんなさい」

 間抜けた声で境が謝罪した。私はお前かよ、と呆れ半分を顔に浮かべ、石井は謝罪など存在していないかのように怒鳴った。

 境は涼しい顔でそれを聞いていて、私は余裕綽々とはこういうことかと思ったものだ。

 因みに、後日話を聞いたところによるとボールペンはわざと投げたらしい。「むしゃくしゃしてやった。後悔はしていない」などとふざけたことを抜かしていた。

 多分、すっぽ抜けないかなーぐらいの気持ちでインクの出ないボールペンを振っていた、とかその程度の物だったんだろうけど。

 ああ、確かその時に境が「とりあえず謝っとけ」などと言ったから私は石井に謝ったのだった。いや、宿題を忘れたのは私なので謝るのは当然と言えるが。

「そうだ、あいつ昼ご飯どうするんだろ」

 境母は多忙な人なので朝しか家にいないはずだ。一体どうするのだろう。

 朝見た限りでは起き上がれないほど体調が悪いというわけではなさそうだが、そもそも境が料理をできるとは思えない。境母は物凄く健康管理の行き届いている人なのでインスタントラーメンとかそういった類のものはないだろうし。

 そう考えると、なんだか心配になってきた。購買で何か買ってやるか。

 気付いたらまだ書いてない部分が黒板から消されるところだった。しまった、と思ったがもう遅い。duplicity、と一単語書いた時には完全に消し去られていた。

 ノート提出もあるだろう。今から石井に怒鳴られることを覚悟しなければなるまい。

今から笑いをこらえる必要はないのに頬の裏を噛んだ。

 休み時間、境が居ないせいか暇な私はノートに落書きをしていた。集中していて、近づいてきた原さんに気付かなかった。

「何を書いてるの?」

 初めは自分に話しかけているとは思わなかったので何も言わなかった。原さんはそれを気にも留めず、再度同じ台詞を吐く。RPGの住民のように。

 ようやく気付いた私は勢いよく顔を上げ、訝しげな表情を作って原さんを見る。今まで何か親交があった訳ではないのに、どうして話しかけてくるのか。それが分からなかった私は困惑してまた変な声を出してしまう。

「うぇ?」

「言いたくないなら言わなくてもいいよ」

 何と答えようか、と困惑する頭で考える。実をいうと、何か意味のあるものではなかったからだ。境が相手なら何か適当な事を言っているだろうに。

 何も思い付かなかったので、「はい」と言葉を添えてノートの内容が原さんに見えやすいようにした。解けた糸を投げたような絵がそこにはあった。ぐちゃぐちゃと塗りつぶしただけにも見える。精神病院においても違和感がないだろう。

 原さんはそれを一瞥し、視線をすぐに外す。会話の足かけに使っただけだと察した。私や境ではまずできないようなことだ。今度挑戦してみようかな。

「そうだ、お昼、一緒にどう?」

「はぁ」

「じゃあ決まりね」

 原さんは笑顔でそう言った。

 昼休みまでまだ一つ授業がある。少し気が早くはないか。いつもは何も考えず境と昼ご飯を食べているので誘われるというのは馴染みの無い事で、ついそんな事を考えてしまう。

 返しが淡泊になるのも仕方あるまい。いや、それはいつもなのか。

「はぁ」

 原さんが去った後、今度のは溜息だった。

 四時限目は現代国語で、時間の進みが早く感じられた。単純に物語を読むのが好きで、教科書に収録されている「トカトントン」が好みだったという事もあるだろう。

 授業の内容も黒板の文字を写すだけなので、結構自由に過ごせた。

 特に待っていたわけではないが、昼休み開始直後に原さんは私の席の近くへやってきた。両サイドに一人ずつ女子生徒が控えている。

 右側の子は近くの席から椅子を拝借し、左側の子は私の隣の席に腰を下ろす。原さんは境の席に座った。何故だか嫌な気分になった。

 それを口には出さず、顔にも出さないように努める。成功したかどうかは知らないが、誰も何も言ってこなかったので、大丈夫だろう。

 弁当箱を開き、何となく黒板を見やる。五時限目は数学か。

「涼川さんに聞きたいことがあったんだ」

 わざとらしく原さんが話を振ってくる。原さんの脇に控えていた二人は特に何も言わない。聞き耳は立てている様で、耳を傾けるついでに体も傾いていた。

「何ですか?」

「あ、その前に。堺君とは付き合ってないんだよね」

 一度聞かなかったか。そもそも、質問の意図が分からない。この手の話題は苦手なのでそういうことにしておいた。

「はい」

 私の返事に原さんがほらね、とばかりに左側の子の顔を見る。

 何となく察した。境は割と顔が良いので中学時代はよく告白もされていたらしいのだ。高校に入ってからは不自然な位にそう言った機会がなくなったらしい。

 原因は私だろうな、と思ったが口に出して言うのは自意識過剰が過ぎるだろうと思って何も言わなかった。

「堺君の事についていろいろ教えてくれない?」

 原さんが面接の人みたいな口調で言うと、左側の子が顔を逸らした。

 愛は憎悪の初め、何てことにならなきゃいいが。

 まあ、境なら大丈夫だろう。そんな感情が私の中にあった。交際したいタイプはどんなか、と言う質問に対して「とりあえず、サカイさんではない」などという奴である。まず、誰かと付き合うなんてことは無いだろう。

 不思議と結婚だけはしそうな気もするが。

「堺君の趣味って分かる?」

「読書」

 正確に言うと、趣味ではない。境は飽きっぽいところがあり、一か月に一度くらいの感覚で趣味が変わるのだ。この間は銃器に凝っていた。

 その点、読書は昔から好きらしい。学校帰りによく本を買いに付き合わされた。

 続いて第二問。

「堺君の好物って何かなぁ」

「果物全般」

「逆に嫌いなものって分かったりする?」

「特にない」

「あとは…………」

 とまあ、こんな感じで十個ほど質問された。

 そして十一個目。

「堺君の好きなタイプって分かる?」

「ん」

 言葉に詰まった。境は自分の時間が好きで、談笑するよりも沈黙を好む。趣味はころころ変わるが、好きなことは一貫していて、何気に芯のある人間である。いろいろと推察はできるが、確実ではない。そもそも境が誰かと付き合うとは思えない。理由は他にもいろいろあったが、中心にあったのはもやもやとした、嘘のようなものだった。

「分かんない?」

 私は肯定する。何故か左側の子に睨まれた。思わず顔を逸らしたが、確かに見られている。原さんが気づいて、左側の子の頭を小突いた。

 質問が終わったようなので箸を白米の中に突き刺す。口に運ぶと、冷たくて硬かった。美味しくもない。抱いたのはそんな感想だったはずなのに、何故か白米がひどく不味い物のように感じられた。

 米の問題じゃないんだろう。心当たりはあったのでそれ以上は何も考えなかった。

「そうだ。涼川さんの事も教えてよ」

「いやです」

 他人の事は明かすのに、と思われても仕方ない。しかし、自分の事を誰かに話すことは苦手だった。質問形式であっても、それは変わらないだろう。

 意外だったのか、原さんがそんな顔をする。しかし何も言及はしてこなかった。

 有難い事だ。

 そして遅まきながら、自己紹介があった。

 原さんの下の名前は愛夏と言うらしく、趣味は絵画だそうだ。分かり易い。

 次いで右側の子。本当に何も言わずご飯を食べていただけだったので私は存在を忘れかけていた。名前は佐藤義美だそうだ。ごめんなさい。佐藤さん。

 最後に左側の子、私を睨んだ彼女の名前は榛野千尋だった。自己紹介時にも睨まれて、この子は苦手だ。 

 目つきが悪いのはもともとらしいが、嫌悪のようなものも含まれている気がしてならない。

 私も自己紹介させられた。名前だけ一言、「涼川涼」と言った。自分で自分の名前を言うのは酷く久々で、昔だったら吐き気すら催したかもしれない。

「でも、本当に境君の事をよく知ってるんだね」

「そんな事ない」

 私と境が過ごしたのは精々が六か月だろう。妙に冷めた考えを抱き、その一方ででも、と考える。原さんや榛野さんはその六か月を知らないわけで。そう考えるとまるで自慢でもしていたみたいじゃないか。

 考えただけでも嫌な気分になった。

 後味の悪い昼休みが終わり、一人になるといろいろ考えてしまう。質問なんて答えなければよかった。と思う傍らそれを否定する自分が居る。

 色々なものがぐちゃぐちゃで、私は思わずノートに書いた自分の絵を頭の中に浮かべた。

 数学の時間、学生カバンから自分の宿題と境の宿題を出す。パラパラと捲って二つを見比べてみるとやっぱり境の方は答えが適当のように思える。

 私には関係のあることではない。境の宿題のみ閉じ、自分の方を見直した。

 間違いを正すような時間はないので見ただけだ。一通り確認を終え、境の宿題と重ねて前に送る。二つ前の席に座る斉藤君は一瞬変な顔をしたものの、特に何も言ってはこなかった。

 ふと、視線を感じて周りを見る。

 榛野さんだった。私の方を顔面を酷くゆがめて、見ている。殺されそうなほど強い視線で、気付かなければよかったと後悔する。

 それからずっと、授業中は机に突っ伏していた。

 

 帰りに購買でパンを買い、自分の家より先に境の家へ上がる。

 部屋に入ると境はベッドに腰掛け、漫画を読んでいる最中だった。私の姿を見て境は何故か慌て、漫画を読んでいる理由を説明しようとする。

「腹が減ったのを紛らわそうとしてたんだよ」

 休んでいるのに漫画を読む、という事は境にとっていけない事に該当するらしい。

 じゃあやるなよ。面倒くさいやつだな。

 そんな事は口に出さず、学生カバンをあさり、パンを取り出す。二カッと笑い、それを境に向けて差し出した。

「そんな事だろうと思って、パン買ってきてやった」

「いくらだ?」

 私が百五十円、と言う前に境はパンの包みを開き、中身も確認せず頬張る。

 がっついて食べ過ぎたのかむせた境を見て、私は思った。

 私は馬にでも蹴られるべきなのだろうか。

 別に榛野さんの恋路を邪魔したわけではない。応援していないだけ。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られる。なら知っていて、応援しないのはどうなんだ?

 榛野さんの恋情。原さんの思惑。私の、何だ?

「ふぅむ………………ま、いいか」

 うんいいやいいやともう考えない事にした。馬鹿で良いよもう。転がっていた漫画を一冊手に取り、適当にページをめくる。

 こうして、今日も変わらない。境と私はゆっくり、ゆっくりと腐り果てていく。なら腐り落ちてしまうまで、放っておくことにした。

 きっとそーゆー関係を、私は望んでいるんだろうから。

「あ、そうだ。次、境が休む時は私も休むから」

「何じゃそりゃ」 

 

 



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