あの気まずいまま家に帰ると、ヒカルはつい手に取ってきてしまったチラシをぐしゃりと握りつぶした。手の中には子供囲碁大会と明記されている。
体をくの字に折り曲げ机に額を押し付けたまま唸ると方針を決める。子供大会には行かない。せっかくの大会に水を差す真似はしたくないし、塔矢の様子は気になるもののヤブヘビになることだけは避けたかった。
というより、色々理由をこじつけたものの、ヒカルが知っている塔矢アキラであるのなら、そこから必ず立ち直っている筈という意識が強かった。
しかし、その後も大丈夫だからそっとしておこうと思ったのとは裏腹に囲碁サロンの方へと足が向く。何をするまでもなくぼーっと眺めていた時だった。
不意打ちで人ごみの雑踏から目が合った。
「おが、緒方さん?」
「君っ!」
あの白いスーツ姿は見間違えるはずがなかった。何で緒方さんが? と思考が回るとハッと我にかえる。この展開はマズイ!
このまま連行されたら塔矢名人と対局になる。確かに名人との対局は望む所だけど、何もあんな気まずい雰囲気の残る場でやることはない。もっと違う、ちゃんと本気と本気でぶつかり合える場所がいい。
ヒカルはそう考えるや否や、背を向けて逃げ出した。待て! と呼び止める声を全力で無視して走り出す。大人げない本気の鬼ごっこが始まった。
人ごみに紛れながら隠れようとするものの特徴的な前髪が目立っているのか、緒方がこちらに徐々に近づいている。
もうダメだ。と思ったときだった。視界の端に、見慣れた人物が目に入った。―――桑原本因坊だ。
見つけた瞬間、咄嗟にそのまま桑原の後ろに隠れていた。そこへ間一髪、息を切らせた緒方が駆けつける。
「おや、緒方君じゃないか。君も暇な奴じゃのォ」
「そんな訳がないでしょう。その後ろの子供に用があるんです」
「小僧に?すまんな。こやつは、これからワシと約束があってな」
わざとらしく小首を傾げながら告げる桑原に対して、慌ててヒカルも平然とした顔をしながら頷いてみせる。
(このジジイ。これみよがしに隠しやがって。やはり、この子供には何かあるのか……)
緒方はそう感じながらも手出しができなかった。渋々といった風体で去っていくと、ほっとヒカルが息をついた。
「ある意味災難じゃったな、小僧。緒方くんは、あぁ見えてねちっこい」
「はぁ……しかし、助かりました。ありがとうございます、桑原本因坊」
「ふひゃひゃ。固い却下じゃ。なに、ジジイで構わんよ」
「じっ?!」
余りな言い方に固まっているヒカルに桑原は愉快そうに笑っている。
「代わりにワシもヒカルと呼ぶでの」
「桑原のじーさんって呼ぶの? 俺が?」
「中々良い呼び名だと思わんかね。 で、じゃ。緒方君に説明した手前、一局打ってから帰らんか?」
ウキウキとしたオーラを
連れて行かれたのは誰も居ない碁会所だった。桑原の友人の物らしく、既に碁会所を閉めてしまった場所らしい。合鍵まで渡され、腕が錆びない様にしばしば鍛錬も必要じゃろうて。と朗らかに告げるこの人物はどこまで見通しているのだろうかとヒカルは考えるも、想像がつかず、そのまま有り難く頂戴するに至った。
◇◆◆◇
「ヒカル!」
「ん? なんだよあかり」
ある日、公園で気晴らしをしているとあかりに呼び止められた。
「最近、碁にハマっているの?」
「まーな。意外と面白いんだぜ」
「ふーん」
あかりは半信半疑な様子だ。今までのヒカルを思えば無理はない。しかし、気を取り直すと洋服のポケットからチケットを取り出した。
「これ、たこ焼きのチケットなんだけど、お姉ちゃんの中学校で創立祭があるんだって。一緒に行かない?」
「おう。じゃあ、今度の日曜に葉瀬中の門の前で待ち合わせな」
あっさりとヒカルが頷いて見せるとびっくりしたのか未だあかりはポカーンとしている。大丈夫だろうかとヒカルが顔の前で手を振ってやると今度は顔が赤くなった。
「待ってるから、きっと来てね! きっとだよ!」
「そんなに心配しなくたってすっぽかしたりしねぇよ」
そんなやり取りをして日曜日。門の前で待ち合わせをして、創立祭の屋台を回る。お目当てのたこ焼きが食べることが出来てヒカルは幸せそうだ。そんな機嫌の良い様子をみて、あかりも同じくにっこりとして幸せそうである。
二人は歩き回ると、各部活がやっている屋台のブースへと向かっていた。
「あれって、ヒカルが好きな囲碁じゃない?」
「おっ、そうだな。良くわかったな、あかり」
「えへへー」
「けど、あっちにも色々出てるみたいだ。行くだろ?」
「えっ、ヒカル。囲碁やってるのに行かないの?」
「…………行っていいのか?」
「うん」
一応これはデートなのだ。囲碁が好きで好きで堪らなくても、この時ばかりは若干控えようと考えていたにも関わらず、あかりはあっさりと頷いてみせた。
「サンキューな」
「ううん。だって、ヒカルは囲碁が好きなんでしょ。気にしないで!」
その会話を聞いていたちょうど、挑戦をしていたおじさんが微笑ましそうな顔をして席を譲ってくれた。
(筒井さん若い!)
「詰碁の正解者に景品をあげてるんだ。挑戦しますか?」
「挑戦する。けど、やるなら一番難しいのがいいな」
周囲が沸いた。ボウズがやる気だ!やら、無理だからやめておけ!やら声を掛けられるも、ヒカルは堂々としている。逆にあかりが心配そうだ。そんなあかりに大丈夫だって、と一言告げると改めて碁盤と向き合う。
思考をしようとして影が差したことに、ヒカルは逆に気を引き締めた。そして、有無を言わさずタバコを碁盤に押し付けようとした手首を握って直前で止めてみせる。
加賀は目をぱちくりさせていたものの、その後大声で急に笑いだした。
「何だよ、お前。良い反射神経してんな。けど、囲碁なんて辛気くせーもんは辞めちまえ」
「君、良く加賀をとめてくれたね。ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
「かーっ。何で囲碁なんだよ。将棋の方が1000倍オモシロイのによ」
そこからの加賀はマシンガントークだった。碁を石ころの陣地取りと表現してみたり、囲碁部の実情を並べ立て、条件次第で出てやってもいいぜと言い出してみたりと主張をしている。
「さっきから黙って聞いてたけど、何言ってるんだよ。囲碁の方が将棋の1000倍オモシロイぜ」
あれだけ上機嫌に笑っていた加賀の笑が止まった。徐々に無言になり無表情になり凄んでみせるも、ヒカルは一向に譲らない。
「フン、ならこうしようぜ。対局で決着を付けるとしよう。オレは将棋だけじゃなく碁も打てる。そんなに大口を叩くんなら、当然オレには勝てるよな?」
「勝てるさ」
「言ったな? お前が負けたらオレの言うことを聞いてもらうからな!」
「それはこっちのセリフだぜ」
両者の間でバチバチと火花が散った。どちらも譲らず、売り言葉に買い言葉の状況を筒井とあかりがハラハラとして見ている。そんな中、対局が始まった。加賀は強いものの、ヒカルの方が圧倒的なまでの実力がある。
形成は明らか。中押し勝ちでヒカルに白星だ。
「ぐ……っ。悔しいがお前の実力は確かだ」
心底悔しくて仕方ないという加賀に、ヒカルは追い打ちをかける。
「負けたら言うことを聞いてくれるんだよな?」
「…………あぁ、二言はねぇよ」
「じゃあ、囲碁部の団体戦の大会に出てあげてよ」
「は?」
「だから…―」
「いや、意味は分かるが」
理解が出来ないという風に頭をかく加賀。俺なら真冬のプールに飛び込ませたりするが。とぼやいている。ちなみに、横で筒井がヒカルの優しさに感動をしていた。
だが、ここで黙ってやられているのは加賀のポリシーに反した。なので、
「分かった。賭けに負けたんだ。このオレが囲碁の団体戦に出てやる。けどな、ちゃんと出たのか見届ける役が要るよなぁ~」
『え?』
ヒカルと筒井の声が被った。
「ってな訳だ。お前も出て見届けろ!!」
将棋と書かれた扇子を突きつけられて、ヒカルは複雑そうな顔をした。別に普通に観戦しに行くよと言いたいのだが、何だかんだで囲碁部に関われるのは嬉しいのだ。加賀の思惑通りにことが進むのが微妙なだけで。
「筒井! お前も頼め。コイツが居たら大会優勝も夢じゃねーかもな」
「えっ、えええ~~~~」
嬉しさと戸惑いがごちゃまぜになっている筒井の声を聞きながら、ヒカルはどうするか思案するのだった。