大内家の野望   作:一ノ一

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その九十

 降り注ぐ陽光が、夏の山口を暑くする。

 昨夜の雨で喉を潤した庭木も、すっかり晴れ渡った青空と高い気温には呆れていることだろう。

 アブラゼミとミンミンゼミの大合唱が、あちらこちらから聞こえてくる。 

 足を伸ばして田を見に行けば、青々とした稲の間から蛙の音もするだろう。

 うだるような真夏の日差しの下に佇む隆房の頬を汗の雫が伝っていく。

 彼女の手には大きな弓。直立のまま半身となって、ゆっくりと矢を番える。

 ここは、山口に設えた陶家の屋敷の矢場である。

 安土にかけた的に鏃を向けてぴたりと制止する。身の丈ほどの大弓だ。それを、一切のぶれなく完璧に支配下に置くのは並の技量と力では実現できない。

 キリキリと耳元で弦を引き絞る音がする。大きく吸った息を止め、目をしっかと見開く。一瞬を数十秒にまで引き伸ばしたような感覚の中で、隆房は手を離す。

 放たれた矢は真っ直ぐ飛んで、的の中央に突き刺さる。

 まるで、矢と的が紐付けされているかのようであった。

 隆房がふうと吐息を漏らし、弓を下げるとひりついていた空気が弛緩した。

「見事なものですね。的の真ん中を射抜くとは」

 感嘆の声を漏らしたのは、隆房の射を見つめていた宗運であった。

 真夏の炎天下で、陽炎の先にある的を射るのは並々ならぬ集中力と技術がなければならない。

「甲斐殿にお世辞でもそう言ってもらえると嬉しいよ」

「世辞などではありません。心から申し上げております」

 宗運は、大内家の中では新参者だが、武略に秀でた将として阿蘇家に長く仕えてきた。彼女自身が戦場で槍を振るい、矢を射て来たし、人を使う立場にあったのだからそれなりに目が肥えているという自負もある。

 その宗運から見て、隆房の武将としての実力は、極めて高い。多くの将を抱える大内家の中でも最上位を争うものであろう。

 聞けば、彼女の父も優れた武将だったという。

 先代の大内家当主、大内義興もまた天下に知れた名将だ。名将の下には名将が集まると言うが、まさに大内家はそういった家門だったのだ。 

 当代の義隆は、武ではなく文の武将だ。

 そのためか、戦場での功績は乏しく、先代ほど目立った逸話はないが、その一方で支配領域は過去の大内家のどの時代よりも大きい。恐らくは過去最高の成果を大内家当主としては成し遂げている。そういった意味では、彼女もまた傑物と言えるだろう。

 隆房はまだ若い。筆頭家老を父から引き継いでから日が浅く、家門と彼女自身の戦場での功績から、やっかむ声を封殺してきた。

「日々の鍛錬にも余念がないということですね。わたしも見習わなければ」

「まあ、そうだね。といっても、そろそろ射に力を入れておかないと二月に間に合わないからね」

「二月?」

「そっか、甲斐殿はまだ聞いてないんだ。大内家の年中行事の中で、一番大きな催しが二月にあるんだよ。氷上山興隆寺の二月会」

「興隆寺というと大内村の?」

「そうそう。よく知ってるね」

「さすがに、お仕えしているものとしてはそれくらいは」

 興隆寺は「大内氏」の総氏寺である。創建は七世紀にまで遡るとされ、本尊は釈迦如来だ。また、九世紀に大内茂村が妙見神を勧進し、大内家との関わりを強くした。以降、大内家が本拠地を大内村から山口に移した後も、その権威が衰えることはなく、大内家の勢力が強まるに従って、寺院の力も強く大きくなっていた。今では、氷上山全体が興隆寺となるほど隆盛を極めているのだった。

「二月会というと東大寺のものが有名ですが」

「お水取り? ああ、あれも大きい行事みたいだよね。あたしは見たことないけど、興隆寺のも負けてないよ」

「それほどですか?」

「もちろん」

 と、隆房は胸を張った。

「何せ、大内家も差配するからね。興隆寺は大内の総氏寺だから、年中行事もこっちにお伺いを立てなくちゃいけないことになってるの」

 大内家は、寺院の味方という印象が根強くある。遠く京にも、その姿勢は伝わっている。しかし、それだけではないのだ。大内家は寺院を保護しつつ、その内部にも深く食い込んでいる。興隆寺は長年、大内家と一緒に育ってきただけに、大内家からの干渉を強く受けているのだった。

「今、あたしがしてたのは歩射の鍛錬。二月会では、大内家から六人が選ばれて矢を射るの。今年はあたしも、その役を仰せつかってるから下手な射はできないってことで、今から気合を入れてるってわけ」

「ははぁ、なるほど」

 大きな武家には何かとしきたりや年中行事が多い。神官の家柄だった阿蘇家に仕えていた宗運には珍しいことではなかった。

 興隆寺の二月会では、隆房が言ったとおり大内家の重臣から六人が選ばれて矢を射る歩射が目玉行事だ。

 参加するのは大きな誉れだが、失敗すれば大きな恥となる。

 何よりも隆房は筆頭家老という重役中の重役だ。

 侮られないよう、できる限り「さすがは隆房殿」と賞賛される射を成功させなければならない。

 二月会の歩射は、身分を問わず解放される。

 高い身分の者は桟敷まで用意して観覧するほどで、山口に疎開している公家たちも見に来る。恥をかきたくはない。

「ずいぶんと気合を入れておられると思ったら、そのような理由でしたか。さしずめ、陶殿にとっては勝負の年といったところですか」

「まあね」

 はにかみながら隆房は手ぬぐいで汗を拭った。

 程よく日に焼けた小麦色の肌と天真爛漫の少女のような笑顔が眩しい。

 この少女とも見える姫武将が大内家になくてはならない筆頭家老の重責を背負っているとはとても思えなかった。

「ところで、甲斐殿。すっかり忘れてたんだけど、要件は?」

「あ、そうでした。晴持様から、書状を預かっていたのでした。今後の鷹狩りの件だそうです」

「ん、分かった」

 隆房の射に見とれて、すっかり要件を伝えるのが遅くなってしまった。宗運は申し訳ないと思いながら書状を隆房に手渡した。

「甲斐殿、今晩は予定ある? もしだったら、うちで一献どう?」

「……大変申し訳ありませんが、まだ仕事が残っておりまして」

「そう? 残念」

 隆房からの申し出を断わるのは気が引けたが、晴持から頼まれていた仕事がある。その上、新参者ということで、色々と学ばなければならないことも多い。

「じゃあ、しょうがない。返事は明日には出すからって若に伝えといて」

「承知しました」

 隆房は断われたことを何とも思っていないというように、宗運の背を叩いた。

 宗運の立場は、晴持の祐筆ではあったが、その武名を大内家にいて知らない者はいない。

 神代から続く阿蘇家を懸命に支え続け、しかし主家に裏切られた悲運の将――――そのような認識の者が多い。そのため、彼女は新参者とは思えないくらいに好感を持たれているのであった。

 恐縮しながら隆房の下を辞した宗運は、足早に晴持の屋敷に戻る。

 すでに太陽は中天に至ろうという頃合だ。そろそろ、腹の虫が鳴き出しそうだ。

 晴持の屋敷の前に牛車が停まっているのを見て、宗運は足を止めた。

「来客か?」

 牛車に乗って晴持の屋敷を訪れる人物として真っ先に思いつくのは義隆だ。彼女は、移動に牛車を使う。公家かぶれと揶揄される行動の一つだが、これはあくまでも高位の身分であるという自負によるものだ。

 次いで、公家の誰か。

 京の動乱から逃れるため、大内家に寄食している公家は少なくない。

 突っ立っているのも不審だが、身分のある人と迂闊に顔を合わせて因縁をつけられても困る。対応次第では晴持の責任にされてしまいかねないので、触らぬ神に祟りなしと距離を置かせてもらうほうがいいか。

 そのように思案していると、屋敷から牛車の持ち主と思われる人物が出てきた。

「どなただろうか」

 今まで、宗運が見たことのない姫だった。

 公家の姫のように豪奢な着物を着込んでいる。

 遠目に見ても美しいと分かる。通った鼻筋に、意思の強そうな瞳。肌は白く、しかし頬の血色がいい。艶やかな髪の長さを見れば、彼女は武人ではないということは明白だった。

 付き人たちに付き添われた姫は、牛車に乗って去っていく。

 その背中を見送ってから、宗運は屋敷の門を潜った。

「あの、先ほどどなたか貴人がいらしていたようですが、何かありましたか?」

 と、女中に尋ねてみた。

「ああ、あの方は、大宮様です。吉見様の御正室で、御屋形様の姉君なのです」

「御屋形様の姉君? なるほど、道理で」

 義隆の姉には、吉見家に嫁いだ姫がいると聞いたことがある。普段は山口の吉見家の屋敷に起居している。高貴な身分ということもあって、あまり外を出歩かないので、宗運は顔を見たこともなかった。

「大宮様は、どうしてこちらにいらしたのだろうか?」

「さあ、わたくしには何とも」

 と、女中は答えにくそうにする。

 それもそうだと、宗運は時間を取らせたことを詫びた。

 吉見家に嫁いだとはいえ、義隆の実の姉なのだ。

 大内家の中では、極めて高位にいる人物である。

 一般人が直接顔を合わせるというだけで不敬とされてしまうこともある。

 その後、宗運は晴持を探して奥座敷に向かった。

 隆房への書状を手渡してきたという報告を、まずしなければならないからだ。ほかにも何かと処理しておきたい仕事がある。

「晴持様、いらっしゃいますか?」

「宗運、帰っていたのか?」

「はい、ただいま」

 晴持は、奥座敷に向かう廊下にいた。

 これから部屋に戻ろうというところだったようだ。

「急に隆房のところまで行かせてしまって、悪かったな」

「いいえ、これくらいどうということはありません。ところで、先ほど大宮様がいらしていたとか」

「宗運、大宮様の顔、知ってたのか?」

「いえ、先ほど女中から伺いました。わたしは遠目から、今日初めて拝見しましたが美しい方でしたね」

「ああ、義姉上とはそこそこ歳が離れていらっしゃるが、そうとは思わせない若々しさだ。俺も会ったのは久しぶりだけど、以前会ったときと大して変わっていないように見えたな」

 晴持は、長らく山口を留守にしていた。そのため、山口を出ることのない大宮姫とは疎遠となっていた。義隆は書状のやり取りをしているようだし、年末年始等では顔を合わせているようだ。

「何か、ご用でもあったのですか?」

「いや、ただの世間話だったよ。九国での話を聞かせて欲しいだとさ」

「九国の話ですか」

「ま、あの人は基本的に外に出ないからな。義姉上と違って、姫としての立場を堅守されている。だから、まあ、外のことが気になるんだろう」

「そうですか。ええ、気持ちは分からなくもないです。未知の土地に関心を持つのは、珍しいことではありませんし」

「宗運もそうなのか?」

「はい。やはり、京には興味があります」

「京ねえ」

 晴持は京の荒廃ぶりを思い出してしまった。 

 日本の中心地ではあるが、公家が屋敷の雨漏りを修繕できないほどに困窮しているという惨状だ。病や飢餓で倒れた遺体は放置され、風向き次第では死臭が漂ってくる。

 もちろん、きちんと整備されている場所もあるが、残念ながら三好家でも京の状況改善には手が回っていない。

 きっと、宗運も京に足を踏み入れれば、理想と現実の差に愕然とするだろう。

 遠方の武将のほうが、京を理想化しやすい傾向にある。

 奥座敷に戻って、晴持は宗運から報告を受けた。

「隆房は、歩射の鍛錬をしていたのか」

「はい。それはもう、ずいぶんな気合の入れようでした」

 武術について、隆房は研究に余念がない。

 自らが身体を動かすのは、昔から得意で、槍も刀も弓も上手い。晴持は未だにどれをとっても彼女には敵わない。

 男として恥ずかしいという感覚は、もう持っていない。

 この世界に、そういった感性を持っている者はそう多くない。

 隆房のみならず、異様に強い女性が多い世界だ。

 応仁の乱以後、姫武将の台頭が進んでいる。今となっては主要な大名家の多くが姫武将という有様で、中国から九国にかけては、ほぼ姫武将が当主を勤めている状況だ。

 晴持も負けてはいないと思ってはいても、現実に歯が立たない相手はいる。

 身近なところでは隆房の名が挙がるが、大内家の外でも立花道雪や島津義弘といった次元違いの実力者がいる。

 宗運も単純な一対一の戦いでは彼女たちに劣るところがあるが、勝ち目がないわけでもない。勝負事に、運は付き物だ。時には実力差を覆して勝利する事もありえるだろう。強い者の勝率は高いだろうが、だからといって絶対に負けないということもありえない。

 そういうわけで晴持は腐らずに鍛錬しているところだが、才能ある隆房が鍛錬を怠っていないのなら、差は縮まるどころか広がっていくのではないだろうか。

「二月会は大切だからな、うちにとっては」

「とても大きな催しであると聞きました」

「そう。大きな行事だ。見ている分には楽しいが、参加する側はかなりの緊張を強いられるだろうな。義姉上も、七日も篭らなければならないしな」

 二月に入ると大内家の当主は二月七日から十三日まで、興隆寺の護法所に参篭する。十三日が二月会の最終日で、歩射はこの日に行われる。

 二月会における歩射は、一年の領国経営の安定を祈る儀式のフィナーレを飾るものなのだ。鍛錬に力が入るのも当然だろう。

 晴持への報告を終えた宗運は、足早に次の仕事に向かう。

 晴持が経営する福崎から使者が来たとの報せがあったためだ。

 福崎の代官は、相良義陽だ。

 宗運にとっては親友に当たり、九国の情勢に対応するため苦楽を共にしてきた人物である。大名相良家の当主と阿蘇家の重臣という異なる立場にあった二人だが、今となっては同じ主を戴く身となっていた。

 福崎には最近、一人の姫武将が送り込まれていた。

 黒田官兵衛という少女だ。

 何でも、晴持が堺で雇い入れたのだとか。

 元は播磨国の小寺家に仕える重臣の娘だったが、遠ざけられたのをきっかけに出奔したという。

 晴持が直々に雇ったのは光秀に続いて二人目である。

 光秀も当初は晴持に美貌で取り入ったのではないかと侮られたが、すぐに実力を示してこうした声を黙らせた。官兵衛が果たしてどのような人物で、何を期待されているのか分からないが、晴持がかなりの期待を寄せている人物であるということは近くで見ていて理解できた。

 宗運は使者と面会し、義陽からの書状を受け取る。そこには、福崎の様子が流麗な筆致で記されており、新たに開墾した田の状況や人口が増加傾向にあることなどが報告されていた。加えて、黒田官兵衛の働きぶりを賞賛しており、晴持の下で働かせるべきであると進言していた。

「義陽にここまで言わせるとは、相当の人物なんだな」

 と、宗運は呟く。

 もしも、晴持が義陽の進言を受け入れれば、すぐにも官兵衛は山口にやって来るだろう。

 義陽の下で、どの程度できるのか確かめさせるというのが福崎に送られた理由だ。できるとなれば、山口に呼ばない理由はない。

 晴持は試用期間を半年と言っていたが、先ほど話題に挙がった二月会が控えていることを考えると、さらに短縮される可能性はなきしもあらずだ。

「はあ……」

 無意識のうちにため息が漏れた。

 このままではダメだと思った。まだまだ、自分の努力は足りていない。能力のある人が集まるこの大内家で立場を確立するのは、並の働きでは評価されない。

 宗運は、まだまだ仕事を頑張らなければと気持ちを入れ直した。

 官兵衛が優秀な事務方だというのなら、今の宗運の立場や仕事にも影響が出るかもしれない。

 そのことに、宗運は息が詰まるような不安を覚えていた。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 晴持がやりたいと言い出した鷹狩りは、公務というよりも趣味の範疇のものだ。そこまで大々的にするようなものではなく、山口の郊外にふらりと出て行って、愛鷹を放つという程度である。

 しかし、それはそれとして晴持の行動は多かれ少なかれ人目を引く。鷹狩りが個人的な趣味であるということは、逆にそこに同行する者は個人的に親しい間柄であるという認識を持たれる。

 政治的に晴持に取り入りたい者たちは鷹狩りへの参加をそれとなく求めてくるし、それが叶わないのなら周囲を固める側近と親しくなろうとする。

 このように、ただの趣味による行動も、最終的には仕事との関わりを余儀なくされる。

 鷹狩りは一人ではできないし、護衛も必要。となると、今から行くぞとは言えない。それなりに計画し、準備を整えてから行うことになる。

 実行するのは二ヶ月ほど先になるだろう。

 鷹狩りの季節は一般に木々が葉を落とし、雪がちらつく頃だ。

 葉が少なくなることで、見晴らしがよくなるからだ。

 そのために、夏の間から鷹の餌の量を調節したり、狩りの練習をさせたりと調整を行うのである。

 晴持は、来る鷹狩りに隆房を誘っていた。隆房は鷹狩りにも造詣が深く、彼女の知るいい狩場を案内してもらおうとしたからである。

 領内の視察に託けて、山口の外に出る機会を虎視眈々と狙っている晴持であった。

 野分がやって来る季節でもある。

 今年は気候が穏やかで豊作が期待されているが、しかし野分の直撃ですべてが水泡に帰す可能性も捨てきれないのである。

「それにしても暑い日が続くとキツイ」

 戦国時代にクーラーはない。

 外気温が生活環境に著しい影響を与える。

 風通しのよい造りになっている屋敷は、戸を全開にすることでより多くの風を受け入れようとするが、同時に蜂やら虻やらが屋内に侵入してくる。この前は、知らない間に書庫に蜂の巣ができていて騒ぎになった。

 そして、今日はあまり風がない。それが、不快指数の上昇に一役買っている。

 じっとしていると余計に暑く感じる。運動をしていると、暑くても平気なので雰囲気次第なところもある。ともかく、部屋に篭っていても気温が下がることはないので、水を飲みに行くことにした。

 廊下を歩いていると、前方から宗運が歩いてくるのが見えた。巻物の束を盆に乗せて運んでいる。

「晴持様、おはようございます」

「ああ、おはよう、宗運。どうしたんだ、それは?」

「これは、お借りしていた巻物をお返ししようと。中国方面の地理や諸勢力について、まだまだ不案内ですので」

「それで、これで勉強してたのか」

 日々の仕事で忙しいだろうに、勉強までしているとは。大内家に仕える以上は、九国の外まで知っている必要があると考えるのは当然ではある。

 まして、晴持の祐筆となれば、諸国人へ文書を発給することもある。それぞれの事情や力関係、所領の状況等の知識があれば、心強い事この上ないし、晴持も十分に安心して仕事を任せられる。

「はい……あ、申し訳ありません、失礼します」

 宗運は頭を下げて、晴持から離れていく。

 その頬に紅みが差していたのが気になったが、その時は敢て止めなかった。

 ガタンと、大きな物音がしたのは直後のことだった。

 何事かと振り返ると、宗運が跪くような姿勢で倒れていて、巻物が散らばっていた。

「宗運!?」

 驚いて、駆け寄った。

 晴持は宗運の背中を支え、様子を確認する。

「あ、晴持様。あれ、わたし……」

 宗運は自身の状況が掴めていないらしく、目を白黒させている。その顔は真っ赤で、とても尋常のものではなかった。

「宗運、大丈夫か!? 急に倒れたんだぞ!?」

「倒れ、え? ぁ……」

 起き上がろうとする宗運は、身体が上手く動かせないのかまごついている。

 これは重大事だ。

 晴持は宗運の額に手を当てる。

「熱い。熱があるじゃないか……!」

「いえ、大丈夫です。大したこと、ありませんから。申し訳ありません。ご心配をおかけしまして」

 と、宗運は立ち上がろうとしている。

「何を言っているんだ。そんなになっておいて、大したことないなんてありえないだろう」

 宗運が何やら意地を張っているが、ばたりと倒れたところを見ているのだ。これで、宗運の言を鵜呑みにすることはできない。

 まだ会話ができているが、だから安心かというとそうではない。容態が急変する可能性も否定できないし、熱の原因もはっきりしているわけではない。咳や鼻水といった風邪の症状がないので、熱中症の類だろうと予想はしても、それが正しいかどうかは晴持には何とも言えない。

「誰か、いるか!? 手を貸せ!」

 晴持はとにかく誰でもよいので人を呼んだ。

 呼びつけられた家人たちは、何事かと飛んできた。晴持がこのような形で人を呼びつけるのは滅多にないからだ。

「あ、甲斐様!?」

「何事ですか!?」

「これは、大変だ。すぐに水をお持ちします!」

 バタバタと家人たちが走り回る。

 ふらつく宗運を抱きかかえ、比較的涼しい部屋に運んだ。

 

 

 

 ■

 

 

 

 宗運を運んでからすぐに晴持は、宗運から引き離されてしまった。

 侍医によれば、もしも夏風邪であれば移ってしまうかもしれないからとのことだ。

 この時代の風邪は侮れない。ちょっとしたことで命に関わることになる。

「宗運は、大丈夫なんだな?」

「はい。このところ、暑い日が続きましたので、熱に当てられたのでしょう」

 と、侍医が言った。

「今は、濡らした手ぬぐいにて身体を冷やしております」

「そうか、大事がないのならそれでいい」

 一安心した晴持は、侍医を下がらせた。

 予想したとおり、軽い熱中症だったらしい。もちろん、熱中症は侮れるものではない。あまり、この時代だと理解がないので、水分と塩分の補給を周知徹底するべきかもしれない。

 それからしばらくして、回復した宗運が晴持の元を尋ねてきた。顔色は大分よくなっていて、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「もう動いて大丈夫か?」

「はい……この度はご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 と、晴持の前で深々と頭を下げる。

「体調不良は誰にでもあることだから、いちいち謝らなくてもいい。まあ、事前に水を飲んでいなかったというから、そこは注意しなければならないところだな」

「重ね重ね申し訳ありません」

 水を飲まなければ倒れるというのは、熱中症の原理を知らなくても経験的に知られていることだ。というよりも常識の範疇である。それを、宗運は仕事に熱中する余り怠っていた。この暑く、風のない日に部屋に篭っていれば、倒れるのも当然であろう。

「それに、あれこれと聞いたが、人の仕事まで手伝っているらしいな」

「それは、はい」

「手伝いをするなとは言わないが、自分の身体を第一にしないと。それで、体調を崩していたら元も子もない。最近、寝不足なんじゃないか?」

「……そのようなことは」

 こうして見ると、宗運の目元に隈があるようだ。今まで気が付かなかったことは、素直に反省すべきだった。

「夜遅くまで仕事をしているというのなら、それはそれで問題なんだ。手に追えない事務があるのなら、きちんと報告してもらわないと」

「そ、そのようなことはありません! 仕事については、問題はないのです! 本当です!」

 と、宗運は身を乗り出して言う。

「そ、そうか。なら、寝不足の原因は」

「それは、何とも……その、最近は寝つきがよくないので……結局、睡眠時間が少なくなるのです。早く就寝しようとしても……でも、大したことはありません、大丈夫です」

「そうか……」

 たぶん、大丈夫ではないのだろうなと晴持は思う。

 こうして見ると、最近の宗運は取り憑かれたように仕事に当たっていたようにも思う。現在の彼女の状況を無理矢理に結び付けてしまっているだけなのかもしれないが、いずれにしてもいい傾向ではないのは確かだ。

「それじゃあ、今日のところは帰って、休んでくれ。疲れも溜まっていることだろうし」

「あ、いえそれは……半日も休ませていただいたので、日が暮れるまでは」

「ダメだ、それは」

「あの、しかし……」

「体調不良を押して仕事をしても、いい結果にはならないし、周りに気を遣わせることになる。まして、倒れたばかりだ。俺の評判にも傷が付く」

「……あ、ぅ、申し訳ありません」

 宗運は、声を弱めて誤った。

 ずるい言い方だとは思う。宗運は、どうにも自分を省みていない。どうして、こうなってしまったのかは分からないが、自分をどこまでも追い込もうとしている。そういう状態の人間に、自分をもっと大事にしろと言っても効果は薄い。とことんまで自分を酷使して倒れてから後悔するものだ。だから、真面目さに付け込むしかない。こういう手合いは人に迷惑をかけることを嫌うから、それを突いて説得するのが無難だ。光秀にはこれが効く。似通った性格の宗運にも同じように効果があった。

 宗運の仕事ぶりは目を見張るものがあったのは事実だ。

 そこまで追い込んでいるという自覚はなかったし、仕事量が過大だったとも思えない。

 しかし、彼女はどうも他人の仕事を手伝ったり、自分で空き時間に勉強していたりと晴持の見ていないところでも動いていた。

「仕事も努力も大事だけど、倒れたら元も子もないし、大事なときに病気で動けないということになったら目も当てられない。宗運は人の上に立っていたのだから、家臣の体調がどれだけ大切か分からないわけじゃないだろう。今日の仕事はもういいから、必ず帰って休むことだ。後で、侍医を行かせるからな」

「……はい」

 納得できていないような表情で、宗運は引き下がった。

 日が暮れた頃に侍医を行かせよう。その上で宗運が万が一にも仕事を持ち帰っているようなことがあったら報告させなければ。

 今の宗運の状況は決していいとは言えない。

 しかし、何がそこまで宗運を追い込んでいるのか。これは、晴持にも分からなかった。本当に、気が付いたらこうなっていたのである。日頃から彼女の仕事の早さと正確さを頼りにしていたが、そこに甘えていた部分もあったのかもしれない。

 話をした限りだと、宗運は今の状況がおかしいと気付いていない。恐らくは、周りの者も宗運は働き者で立派な人だ、という程度の認識だろう。

 だとすると、このままだと同じことを繰り返すだけだが、内心に抱えたものを晴持に吐き出すことはないだろう。宗運にとって晴持は雇い主だ。その雇い主に直接、自分がこういう理由で追い込まれていますと直訴するのはやはり難しい。

 まして、労使間の契約など口先一つで覆るような時代だ。

 働けないとか能力がないと看做された新参者が、職を解かれるのは珍しい話ではなかった。

 となると、晴持が取れる手段は限られている。

 できる限りそれとなく、働きながら休めるようにするのだ。


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