大内家の野望   作:一ノ一

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その八十九

 南郷谷での戦いを終えてから、島津家は大規模な戦を控え続けていた。

 大内家と和睦したことで、肥後国南部の領有を幕府に認めさせることができたという点は、大きな収穫ではあった。その代償に、失われた将兵は数多い。論功行賞でも様々な利害関係の調整が必要になり、かなり紛糾した。力で家臣を押さえては、いらぬ反発を招くだけだが、かといってすべての望みを叶えてあげることもできない。

 島津家の重臣級の家格でも当主の討ち死にで代替わりしたところもある。その問題もあった。

 島津家にとって、南郷谷の戦いの影響は、想像以上に大きかった。

 悪いことばかりではないが、全体的に見ればマイナス面が目立つ。

 領土は確かに拡大した。

 あのまま戦域を拡大していけば、どこかで限界に達し、島津家は内部から瓦解していただろうというのは、冷静な目で見れば分かる。

 もともと、島津家は内輪の結束の強さが売りだった。それを有効活用し、薩摩隼人の勇猛な軍勢として島津四姉妹を中核として多くの戦を勝利してきた。

 島津兵は強い。それは、誰に聞いてもそう答えるだろう。ただ勇猛なだけでなく、それを的確にコントロールする頭脳を司る将もいる。全体的に高水準で纏った軍である。

 それゆえに九国三強の一に数えられるまでに成長することができたし、これからも成長し続けられるだけの力もあった。

 だが、それは長期的に見ればという前提があってのことだ。

 短期的に広域で戦い続けるだけの余力は島津家にはなかった。

 何故ならば、金も食料もなかったからだ。島津家は――――というよりも、薩摩国も大隅国も貧しい国だ。日本の最南端にあり、中央政治から最も遠く省みられることもなく、しかし降灰被害は止むことなく、毎年のように野分が上陸し、それによって降る大量の雨は大地を潤す前に地中に染み込み栄養分と共に流出していく。

 保水力の低い土地は稲作に向かず、農家は貧苦に喘ぐことになる。そのため、自然と肉食の文化が根付き、肉体的には強くなったのが皮肉なことではあるが、強くなった身体で内部抗争を繰り広げていたのだから救いがない。

 守護たる島津家が分裂を繰り返し、長年骨肉の戦いを繰り広げていたので、戦はなくならない。貧困なのに戦は終わらないという状況は、屈強で頑固な精神性を育てる養分となった。

 島津兵は、そうして育まれた。近隣の諸国人であれば、一溜まりもなく屈服させられる程度には強い。志を一つにして出陣すれば、自分達よりも遥かに強大な敵を打ち破ることもできるだろう。

 しかし、やはり貧しさからくる継戦能力の低さは弱点であった。

 人員も限られている。

 兵站が伸びきれば、容易く各個撃破されるだろう。

 島津家にとって――――振り返ってみればだが――――南郷谷以北へ進軍しなくて済んだのは、幸運な面もあった。

 自分達の能力以上に領土を拡大すれば、維持できずにジリ貧になるからだ。

 貧困から抜け出すには戦って、相手から資源を奪わなければならない。強いが故に、それが容易にできてしまった。大友家を耳川に破ったことで、将兵全体にまだまだいけるという自信がついた。日向国で大内家に跳ね返されたところで、止まればよかったが、そこで止まるには島津家は勢いを付けすぎた。全力疾走から急停止は不可能なのだ。そこで止まれば、領土拡大の原動力――――「現状への不満」がそのまま島津家に跳ね返ってしまうからだ。

 大内家との戦いで、領土拡大戦争が止まった。これで、対外戦争に力を使う必要はなくなったのだ。そこを素直に評価すべきである、と考えられるのは残念ながらごく一部の者だけであった。

「厳しいか」

 と、渋い声で呟くのは島津家に長らく仕えてきた重臣の一人、伊集院忠棟であった。

 戦を止めたとはいえ、島津家を取り巻く状況が厳しいことに変わりはない。

 現状を少しでも好転させるには、少なからぬ改革が必要だった。

 上方は三好家が将軍家を掌握し、その東に織田家が勢力を拡大している。そこに至る道は、すべて大内家の支配下であり、軍事力で大内家と相対するのは最早困難と言える。万が一、大内家が本気で島津家を潰しに来れば、極めて不利な戦いとなるのは言うまでもない。

 今一度、島津家が将兵一丸とならなければならないが、すでにところどころで叛旗を翻している者もいる。忠棟自身、先日そういった手合いを成敗したばかりだった。

 領内にも、近々大内家が総力を上げて攻め込んでくるという噂が流れている。

 龍造寺家の内乱も、大内家と同盟した長信派が優位に進んでおり、島津家は孤立しつつある。

 島津家単独で、大内家と相対するのは不可能だ。

 しかし、有力な同盟相手だった龍造寺家はすでに味方とは言えない。

 繋がっていた尼子家も連携するには遠すぎる。

 将軍家との繋がりも大内家ほど強くはない。

 大内家と敵対するのならば、大内家の拡大を危険視しているであろう三好家と手を結び、将軍家を通して大内家に有利な対応をしてもらうしかないが、政治工作に於いて大内家を上回るのは現実的とは言えないのだ。薩摩国は中央から遠すぎる。地理的にも大内家に対して風下に立っていた。

「いずれにしても、家中の和を如何に保つか、だな」

 当主の義久は、先代貴久から当主の座を引き継いでから、島津家内部の勢力争いをほとんど経験せずに今に至っている。

 それは、貴久が薩摩国中に散っていた島津家の分家筋に対して島津姓を禁じ、それぞれの所領の名を名乗らせたことで、君臣の別を明確化したおかげであった。これにより、「島津」姓は大幅に減り、対抗馬がない状態で当主の座を移譲することができたのだ。

 それが、下手をすれば崩れるかもしれないという危機感があった。

 今、明確に島津家に敵対を表明したのは肥後国や日向国の島津領にいる新参の国人ばかりだが、これが、旧臣や一門衆に広がれば、大規模な内訌に発展しかねない。それだけ、島津宗家の求心力が翳り始めていたのだ。

 かといって、義久が責任を取って隠居というのは、さらに状況を悪くするだろう。

 あまり目立たないが、島津家は義久の器の大きさが荒くれ者どもを包み込んでいるから成り立っている面もある。

 義久は特定の誰かを贔屓したりはせず、大らかに、時に残酷に全体を俯瞰して物事を決める性質がある。おまけにそれを周囲に悟らせない強かさ。まさに当主となるために生まれてきた人物だ。それを失っては、いよいよ島津家は分裂する。

「責任を明確にしなければなりません」

 義久の前で、忠棟は言葉を搾り出した。

 忠棟は義久の筆頭家老として幼少期から彼女に仕えてきた。こうして、顔を合わせて直接、今後の舵取りを話し合う機会も多い。

 南郷谷の戦に参加した者たちの中には、大きな不満が渦巻いている。多くの死者を出したのだから、それに見合った報酬がなければならないと。肥後国南部の領有を認めてもらったとは言え、その不満のすべてを解消できるはずもない。誰かが責任を取らなければ、収まらないという状況が差し迫っていた。

「わたしが当主として責を負い、弘ちゃんに当主を代わってもらうって、考えていたのだけど」

「なりません。それでは、宗家を割ることになりかねません」

「どうして?」

「義弘様もご当主の器をお持ちではありますが、同時にすでに独自の家臣団を有しております。これは、歳久様も家久様も同じことではありますが、ともかく、義弘様がそうでなくとも、その下にいる者に野心がないとも限りませぬ。まして、今御身が義弘様に当主の座を明け渡しても、戦後処理を押し付けるだけとなりましょう」

「う……まあ、確かに」

 厳しい状況に置かれている自覚は、義久も持っていた。だから、それを妹に押し付けるのは気が引ける。

 それぞれに派閥があるというのも問題をややこしくする。

 義久がこれらを統括し、上手く纏めていたから今までは問題なく回っていたのだ。義久は、三人の妹たちを奉ずる各派閥の者たちからも、そのさらに上の主として仰がれていた。

 義久が引退するということは、その求心力の中心がぽっかりと消えてなくなるということだ。

 そうなれば、各派閥が各々で相争う結果を生みかねなかった。

 姉妹仲と派閥仲はイコールにはならない。

 場合によっては歳久や家久を旗頭にする者たちの暴走もありえなくはないし、義久の引退によって立場を失う者もいる。当主の交代は、簡単には決められない。

 しかし、責任というのは明確でなければならないのも事実だった。

 ゆえに――――、

「辛いことを申し上げますが……此度の戦については、歳久様に責任を取っていただくべきかと」

 と、忠棟は言上した。

「……それ、本気で言っているのかしら?」

 底冷えのするような声音で、義久は言った。

 急激に室温が氷点下にまで下がったかのようだった。普段のおっとりとした表情が掻き消えて、まるで能面のように表情がそぎ落とされる。

 これだ、と忠棟は内心で頷いた。

 大声を上げずとも相手をひれ伏させるような威圧感を出せるのは、義久だけだ。義弘でも、歳久でも、家久でもこれはできない。

 これで、普段は明るく誰彼なく話しかけるのだから、驚きだ。

 しかし、ここで退いては忠棟が言葉を搾り出した意味がない。

「御意」

「あの戦の責任は当主であるわたしにあります。歳ちゃんにその責めを負わせることはできません」

「しかし、それでは歳久様をますます追い詰めることになりましょう」

「……え?」

「歳久様が、すでに自ら屋敷に篭られているのはご存知の通りです。敗戦(・・)の責任を痛感しているからです。義弘様はお怪我が癒えておらず、危うく命を落とすところでしたし、従っていた者たちも多くが討ち死にしました。その策を実行したのは歳久様です」

「わたしが許可をしました。乾坤一擲の戦いをしなければならないというのは、共通理解だったはずです。その上で、あの結果だったのです。大内との講和も含めて、わたしが最終的に判断をしたものです」

「それでも、歳久様があの戦の指揮を執っておられました」

 表向き、南郷谷の戦いは島津家が勝利し、島津家優位に講和したと発表しているが、それが目晦ましであるのは言うまでもない。 

 時間が経てば、大内家がほとんど無傷だったことが分かってくるし、龍造寺家も大内方が勢力を伸ばしてくるだろう。

 多大な犠牲を出したのに、勝ち切れなかった。その責を、戦の指揮官に求める声が出てくるのは自然なことだった。

 特に、最も犠牲者が多かった義弘の派閥からの反発がじわじわと島津家の内部に広がっている。表立っての非難こそまだないが、放置すれば爆発するだろう。

 義弘自身も重傷を負い、まだ戦線復帰が叶わないのだ。

 人情に篤く、家臣団の中で最も人気のある義弘が、歳久の策で死地に突撃して重傷を負った。そこで、多くの将兵が討ち死にした。これは、事前に覚悟していたことであったし、義久が言うとおり参戦した者の間では共通理解でもあったが、その家族や最下層の者たちは別だ。そこに、戦の流れや状況を無視した表面的な事実が伝わっているのであった。

 忠棟から見ても歳久は人望があるとは言えない。

 恐らく、四姉妹の中で最も求心力が低い。それは、性格的な問題だ。確かな戦略眼と冷徹な判断力は、味方にすら恐怖心を抱かせる。それで、人当たりがいいとはいえないので、明るい性格の義久や義弘、家久に人が流れてしまっていた。

 おまけに、作戦立案や総指揮を担当するという立場から最前線で槍を振るうこともあまりない。時に家臣と鍋をつつき、戦場では自ら危険に身を曝して戦う義弘と比較すると、どうしても評価が下がってしまうのだ。

 そこに、今回の南郷谷の敗戦が追い討ちをかけた。

 歳久がすべて悪いというわけではない。南郷谷の戦は、むしろ歳久が策を用いなければ、あそこまで善戦することはできなかっただろうし、責任というのはいくらでも追及できるものである。 

 例えば、大内晴持の首に後一歩まで迫った義弘に対しても、討ち損じた責任を追及することはできる。法に抵触せずとも、「あそこは誰誰も悪いだろう」という評価を周囲がすることは珍しくないのだ。法的に正しいかどうかは、そこには関係がない。苦境に置かれたときの人間の悪意というのは、そういうものだ。自分たちが苦しくなればその原因を他人に求め、対象をここぞとばかりに、必要以上に攻撃することがある。

 義弘は、彼女自身が重傷を負うほど奮戦しており、無謀な策の被害者という側面を周囲が見出したからこそ、同情を集めているのだ。そして、残念なことに歳久は、義弘が同情を集める分だけ、厳しい意見に曝されることになる。

 それは、義久も分かっていた。だからこそ、歳久が過大な非難を集めていることに不満があった。もちろん、大事な妹だからと贔屓する気持ちもなくはない。

「歳久様に甘い判断を下したと思われるのが、最も危険です」

「……叱るところはきちんと叱らないとダメってこと?」

「御意。そうして、責任の所在と処分を明確にすることで、戦後処理の第一段階がやっと終わるのです。ここで、義久様が責任を取ってしまいますと、それ以上の選択肢がなくなります。御身が責任を問われてはならないのです。当主が責任を取るのは、もっと重大な問題に対して切るべき手札です」

 言わんとすることは、義久もよく分かる。

 南郷谷の戦いの結果で、島津家が明日をも知れぬという状況になったわけではない。苦しい状況だが、大内家が大軍で押し寄せてきているということでもない。

 家臣の中に、義久を非難する声もほぼ皆無に近い。

 そんな状況で義久が「敗戦の責任」を取ってしまうと、当主の価値が暴落しかねない。今後、事あるごとに当主の責任が追及されることになっては、政治の混乱をもたらす。島津家の当主は、そう簡単に揺らいではならないのだ。

「歳久様にも、きちんと責任を取ったという事実が必要です。有耶無耶のままにしては、ますます問題が拗れてしまいます。そうなれば、さらに重い処分を求める声が出てくるでしょう」

「……ぅ、む」

 歳久が、一部の家臣から反感を買っているというのは、義久が頭を悩ますところではあった。それが、南郷谷の戦いの影響で表に吹き出てきたのだ。

 義弘は、怪我で動けない。命に別状はないが、動けるようになるまでまだ時間がかかる。歳久は今の時点で自主的に謹慎中である。当主の義久は、家中取り纏めのため本拠地を動くことができないので、四姉妹の中で戦に出ることができるのは家久だけとなる。

 四姉妹が力を合わせれば、万障を砕く力となったものだが、一度の戦で思いのほか手薄になってしまった。

 義久は、妹達の意見を聞きたかったが、皆傍にいない。

 正直、寂しいし心細いという思いは否定できないものであったが、島津家の当主として、ここが正念場だということも理解している。

 今後、島津家が弱体化したと風聞が流れれば、力によって屈服していた諸勢力が息を吹き返すのは想像に難くない。そうならないよう、今の内に家中を纏めなければならないという忠棟の意見におかしなところは何もない。

 そのための第一手が、歳久への処分だというのは納得しかねるところはある。これは理屈ではない。歳久の現状を知っているが故に、姉として彼女を支えたいと思うのは間違いではないのだ。しかし、それは当主として誤りでもある。忠棟は、言外にそう訴えていた。

 歳久を守るためには、歳久の問題を当主の立場から終わらせなければならない。

 一度、きっぱりと裁定を下せば、それ以上の責を問われることはない。

 悔しいが、忠棟の言うとおりではあった。

「……歳ちゃんは、しばらく蟄居、これでいい?」

「申し訳ございません」

「いいの。あなたが謝ることじゃないわ。わたしが判断しなければならないことでした」

 優柔不断な対応は、さらに問題を加速させる。

 決めるときには決めなければ、侮られてしまうだろう。また、親族だからといって甘い裁定をするのも、それはそれで反感を買う。

 蟄居は重い判断だが、所領没収に比べればまだマシだ。歳久には今後も働いてもらわなければならないのだから、彼女の戦力そのものは手付かずのまま残しておかなければならない。

 忠棟は伏して義久に謝意を示し、辛い判断をさせたことを詫びた。

 義久がどれほど妹のことを想っているのかを知っているためだ。

 それから、しばらく忠棟は義久と雑談を交えつつ、今後の展望を話し合った。なかなか、よい未来のために何をすべきか曖昧模糊としていて判断が難しい局面であるが、これを何とか支えていかなければと気持ちを新たにする。

「これで、南郷谷の非難が義久様に向かうことはない。一先ずは安心か」

 屋敷に戻る道すがら、馬上で忠棟はポツリと呟く。

 長々と話し込んでしまい、気が付けば日が暮れそうだ。橙色の光が、西の空から差して、長い影ができていた。

 島津家にとって、そして義久にとって何が最もよいのかを考え、実行に移すのが筆頭家老の職務である。

 そのために粉骨砕身の努力をすることは厭わないし、自らが戦場に立つことも選択肢に入れることができる。そして、その俯瞰的視点は義久の妹達にも向けられる。

 本来、当主の兄弟姉妹というものは相続争いの原因として遠ざけられるものだ。歴史上、仲のよかったはずの兄弟が、長じて後に反目して骨肉の争いとなった例は枚挙に暇がない。

 また、あるいは当主に万が一のことがあったときのための予備でもある。

 個々の人格や能力を考慮に入れないとすれば、義弘も歳久も家久も義久という当主を守り、島津家という家を維持するための部品なのだ。

 南郷谷での損害は、肥後国南部を得たという程度で帳消しになるようなものではない。

 戦力の低下は明白だし、何よりも不平不満が高まっているという事実がある。この矛先が義久に向いては困るのだ。

 義久のことだから、南郷谷での責任は自分にあると言い出しかねなかった。そうなると、今度はその責任をどのような形で取るのかという問題が生じるだろう。いつの間にか、当主の責任を家臣たちが追及していくことになってしまう。

 義久の政治的影響力の低下は免れない。それを阻止するためには、明確な「悪」を用意しなければならなかった。

 歳久には悪いとは思っている。しかし、歳久には現場で実際に指揮を執っていたという事実があるのだ。義久が当主としての責任を取っても、歳久の指揮官としての責任が不問になるわけでもない。誰かの不満は燻り続ける。ならば、歳久が責任を背負えるうちに背負わせてしまったほうが都合がいいのである。

 義弘が政治の舞台に戻ってくるのは、もうしばらく後になるだろう。島津宗家の中で戦に出られるのは家久だけだが、彼女はまだ若い。能力もあるが実績の積み重ねは、義弘に遠く及ばない。義弘であれば、ただそこにいるだけで離反を牽制することもできただろうが、家久では侮られることもあるだろう。

 これまで、姉妹で担ってきた役割を、重臣たちが背負わなければならないということになるだろう。

 その重臣たちも、各々の立ち位置がある。

 忠棟を筆頭とする義久派。これは所謂主流派だ。次いで勢力を誇るのが義弘派。これは、南郷谷で大きな損害を受けているが、義弘の命懸けの突撃と大内晴持に最も迫った実績もある。義弘の人柄を慕う者が多いので、むしろ結束が強まっていると言える。歳久派は少数派だが、不思議と結びつきが強い。歳久の内面を知る者たちの派閥である。家久派は新興勢力だ。派閥に中道的な考え方の者が多く、別の派閥と自由に行き来している者も少なくない。

 これらの派閥が、姉妹の意思とは無関係に形成されてしまっている。これを上手く回していくのは、義久だから可能な芸当である。忠棟はそう信じて疑わないし、実際そうだろう。よほど手ひどく打ちのめされて、当主交代を余儀なくされるようなことがない限りは、義久が当主である今が最も安定するはずだ。

 大内家が本腰を入れて侵攻してくれば、今の島津家にこれを凌ぎきる力はない。

 義久を当主として仰ぎ続けるためには、当然の策として大内家と敵対しないような立ち居振る舞いを検討する必要も出てくるだろう。

 もちろん、それを快く思わない者が大勢を占めるのであろうが――――。

 


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