大内家の野望   作:一ノ一

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その六十二

 島津家の阿蘇侵攻に際し、宗運より救援要請を受けた晴持は、座して事の次第を見届けたりはしなかった。

 今、晴持が即座に動かせる兵は少ない。筑後平野の国人一揆の鎮圧に隆房を向かわせていることもあり、大内家としてはかつかつの状態だ。

 晴持が在所とする豊後国府内を治める大友家も、島津家との戦で生じた損害を補填し切れているわけではない。どこもかしこも人手不足甚だしい状態であって、少ない兵力をやり繰りして軍を編成しなければならない状況であった。

 大きな戦での敗戦は、大家であっても衰退を招く。

 晴持の知る「正史」に於いては、島津家に敗れた大友家の転落は言うに及ばず、武田家、今川家、朝倉家……敗戦前夜までは大国であった勢力が、敗戦と共に瓦解して行くのが戦国の恐ろしさである。

 この世界では、まだ長篠の戦こそ起こっていないものの、今川家、大友家はほぼ史実に倣って衰退してしまった。

 これらの事例に共通するもの。

 それは、大攻勢からの敗戦である。

 兵力を大量動員した戦での敗北がどれだけ致命的なものとなるのかよく分かる事例とも言えるだろう。

 自前の勢力圏内から掻き集めた兵の統制を失えば、立て直しがそれだけ困難になる。巨大な兵力を催して勝てなかったという事実が、諸侯に広く伝わってしまうからであり、相手方は大兵力に立ち向かい勝利したという事実ができあがる。その後の勢いの差は雲泥のものとなるに違いない。

 ならば、戦に於いて重視すべきは第一に確実な勝利。第二に負けても防衛には影響がない範囲に損害を抑えることの二点だ。敗北時の保険をかけるのも必要であり、よほどの大事でもない限りは余力を残して戦をすべきである。

 理想は関東の北条家のように、守りに徹して時を稼ぐこと――――即ち、干戈を交えずして勝つのが最善だが、それを選択すれば島津家に襲われている諸侯の切捨てになる。大内家に見捨てられれば、彼等は島津家に従わざるを得なくなる。九国は瞬く間に島津家の旗に覆い尽くされることになるだろう。

 結論を言えば、晴持は阿蘇家の救援に兵を出さなければならない。

 大内家は自分たちに従う国人たちの領土支配を承認する代わりに、その力を我が物とする立場だ。いざという時には彼等を助ける義務がある。最低でも大内家は見捨てないというスタンスを取り続けなければ、独立意識の高い国人たちを従わせることはできないのだ。

「ここで弱みを見せることは、大内家全体の支配力に疑問符をつけることになる。厳しい状況だからこそ、我が身を削る姿を見せないとだめだ」

 晴持に与えられた選択は見捨てるか助けるかの二択であり、実質的に答えは決まっているも同然であった。

 すぐに阿蘇家の救援に向かえて、確かな実力を持つ者が必要だ。晴持が選んだのは、日向国北部に陣を構える長宗我部元親だった。

 

 

 

 元親が動かせる軍勢は、日向国から掻き集めた四〇〇〇余名。長宗我部家の直臣だけでなく、大内家、大友家からも参加している。さらに後日、豊後国より援軍が送られる予定だが、事は急を要する。

 先に先発隊として、元親は進軍を決定した。

「なかなか、追い込まれているな」

 集った兵を見て回った後、陣中で元親は呟いた。

 大内家に大敗し、臣従を余儀なくされた長宗我部家。あの当時は、大内家が守勢に回るとは露ほども思っていなかったが、世情の移り変わりは激しいものだ。飛ぶ鳥を落とす勢いで領土を伸張していた長宗我部家が躓いたように、大内家も今躓きかけているのをひしひしと感じている。

 このままずるずると戦を続けていれば、いずれ大内家は瓦解する。そんな未来が現実のものとなり得ると元親は直感している。

「――――さて、どうするか」

 もともと敵対者。忠誠心など口にできる立場ではないし、実際そこまで大内家のために身命を賭そうなどとは思っていない。

 元親の夢を潰した大内家が苦慮する様を見ているのも、悪くなかったりする。

 自分の中にそうした黒い感情があることに驚きながらも、元親は現実を見据えた。

 今は、まだ下克上という段階ではない。

 元親の本領である土佐国とこの日向国は海路を行くしかなく、土佐国の真上には大内家に完全に従属している河野家がいる。元親は本領から引き離された上に土佐国を河野家に監視されている状態なわけだ。

 晴持にそんなつもりがあったかどうかは不明だが、捉えようによっては領土そのものを人質にされているようにも見える。

 いや、それはあまりにも穿った見方ではあるか。

 ともあれ、元親は格上の敵に度々勝利して領土を広げてきた経験がある。仕掛けるべき時期というものを見抜く目には自信があった。

 その上で言えば、この戦は厳しいものとなることが容易に予想できる。

「元親。こっちの準備はできたぞ」

「ありがとう、親信」

 兵を集めたのは日向国高千穂。神話に舞台にもなった歴史ある地であり、長宗我部家が預かる領地でもある。高千穂に集った手勢を確認した久武親信は、元親の親友であり、兄貴分であり、頼れる重臣の一人である。

「ここから阿蘇までは目と鼻の先だ。岩尾城は、さらにその向こうだ」

 これから向かう南阿蘇は、以前の島津家の肥後侵攻で島津軍が踏み込んだ地域の中では北限になる。

 龍造寺隆信が討ち死にしたことで島津家はこの地域に留まることを否とし、阿蘇家の本城である岩尾城よりも南まで兵を下げていた。

 南阿蘇は今、かつて島津軍に破却された城を建て直したり、砦を設けたりと再整備を進めており、次の侵攻に備えていた。

「ああ。だが、時間がないぞ。島津家は圧力を強めている。阿蘇の家臣も、次々と寝返っていると聞いているしな」

「そう。辛いね、それは」

 長宗我部家とは比べ物にならないほどの長きに渡って阿蘇の地に君臨してきた阿蘇家。人々の信仰と尊崇を一身に受けてきたはずの名家が、今、屋台骨から崩れようとしている。

「栄枯盛衰か。平家のそれよりは見劣りするけどね」

「こんな時代だ。力のある者が上に立つのは仕方がない。乗り切るにも力がいる」

「うん」

 親信の言葉に、元親は頷いた。

 力がある者が力のない者を支配する戦国の世にあって、阿蘇家は旧来の権威しか残っていない。実行力が求められる時代に、彼等は対応できていないのだろう。

 彼等のあり方は、飾りと成り果てた幕府や朝廷によく似ている。そして、その権威すらも、島津家の猛攻の前に失墜した。

「よし、じゃあ行こう。立花殿の援軍を待ちたいところだけれど、そうも言っていられないからね」

 今の元親の軍勢では、島津家に単独で勝負を挑めるはずもない。戦うのならば、大友家からの援軍を待たなければならないが、阿蘇家は少しでも早く援軍が欲しいと思っているに違いない。

 ならば、危険を冒すことにはなるが救援を急ぐことにする。

 元親率いる阿蘇救援軍は、高千穂を出て阿蘇山の南に再建した高森城を目指すこととした。途中、社倉城に到着して早々に、高森城へ向かう柳谷の道が山崩れで塞がっていることが分かったため、やむを得ず宇奈月山の東麓を縫うように北上して高森に入り、そこから直線距離でおよそ二里弱離れた高森城を目指す迂回路を選択した。

 狭く険しい山道を抜けて高森まで指呼の間に迫った元親の下に、先行させていた物見が戻ってきた。

「元親様! この先に、島津の手勢がおります!」

「何ッ!?」

 慌てた風に走ってきた物見が、息も絶え絶えに叫ぶ。

「数は二〇もおりませぬ。おそらくは山狩りの最中であるものと思われますが地元民と言い争っている様子」

「そうか……ん? 山狩り? ……いや、よし、このまま兵を進めるぞ。島津の現状を知る好機だ。その島津兵、生け捕りにするんだ」

 違和感を覚えつつも元親はそう厳命し、兵を進ませた。

 元親の手勢は野山に紛れて集落を包囲して逃げ道を封じた上で、威圧するように堂々と集落に踏み入った。

 高森に来ていた島津兵は、末端の末端であった。徴用された農兵で、しかも元は相良家の領内で生活していた者だという。

 彼等は山狩りに駆り出された兵で、本隊から離れて略奪行為に及ぼうと騒ぎを起こしていたところだったようだ。

 大半は長宗我部軍を目の当たりにして戦意を喪失し、逃げ散ってしまったが、元親が回りこませた部隊の強襲を受けて壊乱、十五の屍と五人の捕虜ができあがった。

 元親はそうした騒ぎから距離を取り、このまま高森の地に陣を敷いた。地元の中心地でもある小さな神社を本陣として、捕虜のみならず地元民からも聴取を行ったところ、衝撃的な事実に接してしまった。

「……阿蘇家がすでに降服している?」

 拝殿前に張った天幕の中で、元親は絶句した。

「間違いないのか? 流言の類ではなく?」

「間違いございません。島津兵、高森の領民共に阿蘇家が島津家と繋がったと証言しております」

「早すぎるだろう。島津軍が北上しているとはいえ、篭城すれば十分に持ち堪えられるはずだ」

 島津軍本隊の攻撃があったわけでもない。島津軍は、阿蘇郡の一歩手前で圧力をかける姿勢を取り続けている。

 だが、島津兵の取調べを行った家臣によれば、一日前に阿蘇家は島津家に臣従しているという。

 だとすれば――――、

「調略に応じたか」

「はい。そのようです。阿蘇家は島津家に心を寄せる者の働きかけで甲斐宗運殿を放逐し、島津家と好を通じたとのこと」

 元親は舌打ちをした。

 甲斐宗運ほどの名臣を、家中のゴタゴタで失うとは、名家の失墜は名臣を切るところから始まるのは世の常だろうに。

 家臣に支えられているという自覚のない当主を元親は好まない。

「そうか。うん、阿蘇がわたしたちの手を離れたということだけ分かれば収穫だ。このまま、事実確認を進めてくれ」

「はッ」

 元親は物見の報告を聞いた後で、近くにいた親信に視線を向ける。

「どうする?」

「俺たちの目的は阿蘇家の救援だ。救援対象がいなくなったんじゃ、兵の進めようがない」

「うん、同感」

 岩尾城が島津家の手に落ちたのならば、そのままの勢いで島津家は北上してくるだろう。阿蘇山周囲の城も、そう遠くないうちに攻撃対象になるに違いない。

 肥後国の国人としては最大勢力だった阿蘇家が島津家に靡いた以上、肥後国内の世論はなし崩し的に島津家に流れていくことになる。

「でも、一応わたしは大内家に属しているわけだからね。高森城までは行こうと思う」

「危険だぞ」

「阿蘇山が大内家の防衛線だ。ここを死守するのが、今のわたしたちの仕事だ。このまま退いても、後が怖いでしょ」

 どうしたところで島津家は来る。ならば、その影響を最小限に抑えるのが元親の役割ではないだろうか。完全な現場判断になるが、高森城を前線基地として情報収集に当たり、周辺諸城の離反を防ぐ。

 再整備した城と自分の手勢、そして後日到着する大友軍を合わせれば島津家に伍する戦いができると踏んだ。

 何よりも今の長宗我部軍は、元親の手勢ではあるが名目上は大内軍である。軍勢の中には長宗我部家に所縁のない者もいる。

「ともかく、情報だ。島津家があえて北上しないということも考えられる」

「それは?」

「阿蘇家の情報をひた隠しにして、わたしたちのような援軍を誘き寄せるために、わざと膠着状態を演出している可能性も否定できないということだ。事実、さっきの島津兵が口を割らなかったら、わたしたちは無警戒に敵の網に飛び込むところだった。もちろん、それが島津兵の嘘だっていうこともあるけどね」

 本当に阿蘇家が島津家に降服しているのか、それとも島津兵が言っていることがそもそも元親に阿蘇家の現状を誤認させるための嘘なのか、情報が出揃っていない今、確実な判断は下せない。

 確実なのは、岩尾城の阿蘇軍と島津家に流血を伴う戦が起こっていないということだけだ。これを膠着状態と見るか、そう見せかけて元親たちを誘い込む罠なのかはこれから探りを入れる必要がある。

 とはいえ、それは確実を期すためのもので元親自身は阿蘇家の背信をほぼ確信していた。

 家を安泰に保つことが当主の務めでもあるし、阿蘇家は別に誰の下にも就いていない独立大名だ。阿蘇家の行為を裏切りというのは、少々的を外しているようにも思える。救いの手を差し伸べない相手に尽くす必要などないというのも戦国の倣いである。この点は、きっちり救援できなかった大内家に非があると言えよう。が、その一方で直前までは味方だったのだから、もう少し信じて欲しかったという思いもある。

「阿蘇家には使者を出して真意を探らせてもらう。それと、甲斐殿の捜索を。島津兵が甲斐殿を探してここまで来たのならば、甲斐殿が近くにいるかもしれない」

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 岩尾城を脱出した甲斐宗運と相良義陽は、着の身着のままで北に向かって走った。

 岩尾城内でも宗運の失脚は想定外だったらしい。惟種の唐突な路線変更に家臣たちが困惑している間に、宗運たちは何とか死地を脱したのだ。

 家臣たちに守られているとはいえ、落ち延びるようにして城から飛び出したため手勢は僅かだ。追っ手を食い止めるため、岩尾城でわざと騒ぎを起こした甲斐家の臣も多く、有能な家臣たちの多くを義陽と宗運は瞬く間に失ってしまった。

 宗運は阿蘇家の中でも名の通った武将だ。道中に設けられた関所を通ることは造作もないことだったが、それが通じるのも時間の問題だ。宗運の失脚が地方にまで広まれば、関所を封鎖して宗運を捕縛することだろう。宗運の失脚が、なし崩し的な展開だったため、情報が伝達されていないのだ。

 だからこそ、宗運と義陽は阿蘇家の手が回る前に、阿蘇家の領内から出なければならなかった。

 少なくとも阿蘇家の影響を受ける城に助けを求めることもできない。外輪山を越え、南阿蘇の南郷谷を流れる白川で喉を潤し、疲弊しながらも阿蘇山麓のあばら家に逃れた。風雨を凌ぐことができれば儲けものだ。

「阿蘇家に仕えていた者が、家を追われてこの山に入ることになるとは……」

 自嘲気味に宗運は呟いた。

 崩れた壁の隙間から見上げる阿蘇山は、物言わぬ父のような偉大さで眼前に聳えている。

 古くから九国を見守ってきた守り神でもある山だ。阿蘇家はこの山と共にあり、宗運もまた同じであった。

 頼りとなるのは阿蘇山。この山中に逃れれば、万が一にも見つかることはないだろう。それだけ険しい山道だ。自分が遭難して死者の列に加わる可能性も低くはないが、もはやここ以外に逃げ込める場所がない。

 今でこそ、南郷谷の領民たちも宗運らを見逃してくれたが、阿蘇家の触れが回れば忽ち彼等は敵となる。

 主君に追われ、領民に追われ、忠臣をたくさん死なせてしまった。

 ――――わたしは一体何をしてきたんだ。

 心の底から憂鬱な気分に支配されていく。必死になって、ここまで走ってきた。気力も体力も使い果たし、足を止めたこのあばら家で全身が溶け落ちてしまいそうな倦怠感に襲われている。

 生まれてから今まで、持ちうるすべてを費やして阿蘇家を盛り立ててきた。主家に背いたとなれば、親族であっても切り捨ててきた。すべては主家のためと思い、その一心で駆け抜けた半生であった。

 時にその行動が苛烈に過ぎると非難されることもあったが、宗運は信義の下に己を律し、常に自ら困難に立ち向かう姿勢を見せ続けてきた。

 その結末が、主家からの追放。あまりのことに現実が受け入れられず、流されるままにここに来てしまった。

 ただの政策変更ならば、まだ受け入れられた。その上で、阿蘇家にとっての最善を尽くせばよいのだし、過ちがあればそうと指摘することもできた。

 しかし、主家から命を狙われ罪人として非難されたとなれば、宗運に返す言葉はなくなってしまう。

「宗運、あまり考えすぎたらダメよ」

 そう言って義陽は竹筒を差し出してきた。

「水、飲まないとね」

「ありがとう」

 宗運は受け取った竹筒から水を一口飲んだ。冷たい水が、疲れた身体に染み込んでくる。

 義陽は宗運の隣に腰掛けた。

「大丈夫?」

「……ああ、わたしは大丈夫だ。それより、ん……」

 義陽が宗運の頬を指でつついた。

「いきなり、何をするんだ?」

「だって、宗運があんまりな嘘を言うから」

「嘘?」

「大丈夫って、こんな状況で大丈夫なわけないでしょう。あなたって、本当にどこまでも自分を追い込むんだから」

 呆れたような怒ったような、そんな表情で義陽は言った。

「まあ、それがあなたのいいとこでもあるんだけど……結局、人よりも自分の無力さのほうが憎らしいんでしょう」

「……そういうわけでは、ないけど」

 口篭る宗運は、視線を下に向ける。膝の上で作った握り拳。その関節が白くなっていた。胸が酷く痛んだ。

「あれ……?」

 手の甲に雫が落ちた。

「わたし、なんで……こんな」

 零れた涙の意味を、宗運は理解できなかった。止めどなく流れる整理できない感情に押し出されるように涙が溢れてしまう。

「ごめん、義陽。わたし、疲れてるのかも。こんな風に……なんで……」

 戸惑うを隠し切れない宗運は、涙を拭い無理に笑おうとする。こんな自分を見せてしまって、義陽を不安にさせては申し訳がない。

 そんな宗運を、義陽は自分の胸に抱きしめる。

「ばかね。そんなになってまで頑張らなくてもいいのに。ほんと、不器用なんだから」

「義陽……」

「人払いはしてあるから、泣いたって誰にも分からないわ。吐き出すものをきちんと吐き出してから、明日のことを考えましょう」

 義陽の心遣いが胸に染みた。

 彼女自身、多くの仲間を失っている。宗運がもっと上手く立ち回っていれば、このようなことにはならなかったのか。

 忠義に見返りを求めたことはない。宗運の思いは「御恩と奉公」の関係にはない、無私の奉公であった。そのように生きていながら、主家に見限られて裏切られたと感じてしまう。それは自分が主家から見返りを求めていたからではないのか。自らの浅ましい思いに心が捩れてしまいそうだった。

 義陽はそうではないと言ってくれる。宗運の思いは何も間違ったものではないと。今回の件で宗運に非はないのだと。諭すように囁いて、義陽は宗運を抱きしめる。

「わたしは、どうしたらいいのか分からないよ」

 生来生真面目な宗運は、主家を恨むことすらできないのだ。彼女は人に悪感情を向けられない。事が上手く運ばなかったのならば、自分のやり方に不手際があったのだと考えてしまう。とりわけ阿蘇家に対する思いは、ここに至っても消えていない。だからこそ、空しいのだ。阿蘇家は宗運を放逐して島津家に就いた。そうして生き残りを図った。新しい生き方を選んだ阿蘇家の中に、自分がいないというのが何よりも悲しかった。

 最後に泣いたのはいつだっただろうか。堰を切ったように溢れ出る涙を宗運は恥ずかしげもなく流し、義陽は何も言わずに宗運の背をさすり、彼女の涙を受け止め続けた。

 宗運と義陽の一行が、元親の手勢に保護されるのは、ここからさらに数日を経てからのことであった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 激動の時代を迎えた西日本の中でもとりわけ先行き不透明な状況に置かれているのが、肥前国の国人たちであろう。

 龍造寺隆信という強者の下での結束は、彼女の死によって瞬く間に瓦解した。

 後継者を指名しないままに死去し、政治的発言力を持っていた慶誾尼が討たれた今、それまでの龍造寺という枠組みが事実上崩壊してしまっていた。

 隆信の急進的な政策と戦によって傷付けられた諸侯も多い。それが結果的に隆信の死によって表面化して、反龍造寺という第三勢力の発生に繋がっていた。

 龍造寺家の跡目争いは、この第三勢力を如何に懐柔するかにかかっていると言っていい。

「状況は一進一退。木下殿がこちらに来たおかげで、肥前国内の味方は一気に増えました」

 話しているのは、鍋島直茂だ。木下昌直のとりなしにより蟄居を解かれ、再び軍配者として辣腕を振るっている。

 もとより劣勢の戦だ。

 各人ができることできる範囲で最大限の行わなければ勝利はない。

 直茂の復帰に異を唱える者は誰もいなかった。先の敗戦は決して直茂一人の責ではないと誰もが理解していたし、讒言の類は敵を利する結果しか生まないと冷静になれば分かるからだ。

 直茂が就いた長信派と相対する信周派は小競り合いを繰り返しながらも対立を深めているが、本格的な戦には発展していない。

 現状は味方を増やす外交での戦いが中心で、度々発生する小競り合いも敵を倒すためのものではなく、取り込みたい相手に対する示威行為が主であった。

 そのような状況下にあって、四天王の生き残りがこちらの味方になってくれたのはありがたい。昌直は四天王としては未熟な面も多々あったが、気さくで分け隔てのない性格から多くの将兵に慕われていた。人望と実力のある昌直が長信に就いたのは、少なからぬ動揺を信周派に与えることになり、長信派を鼓舞する結果となったのだ。

 残る問題は兵力差を如何に埋めていくのかという単純なものだが、これが難しい。当然ながら徴兵できる範囲は肥前国内に限られ、兵を内部で取り合っているのだ。肥前国の中だけで、これ以上味方を増やすとなれば、どうあっても信周に味方する敵を攻めて降服に追い込むしかない。だが、それをすれば、こちらの準備が整わないまま敵と本格的な会戦に発展する恐れが生まれてしまう。

「オレを呼んだのはまたどういうわけだ?」

 例の如く臆面もなく直茂の前にどっかと座った昌直は、直茂の私室に呼び出されたことを奇妙に思い首を傾げている。

「一つ、頼まれていただきたいことがあります」

「……うん? わざわざ、人払いまでしてか?」

「あなたが、こういったことを苦手に思っているのは存じております。ですが……」

「あ゛~~分かった分かった。導入から長いんだよ、軍師殿は。手早くいこうぜ」

「……分かりました」

 昌直の裏表のない性格に、直茂は多少の心配がある。

 これからの相談は決して彼女にとって快いものではない。好き嫌いがはっきりしている昌直に持ちかけた場合、それをきっぱりと否定してくる可能性もあるのだ。そうなれば、泥沼である。はっきりしていることは、長信派の中での昌直の影響力の強さと直茂の立場の悪さだ。下手に昌直を敵に回せば、直茂自身の首を絞めることになりゆくゆくは敵の思う壺となりかねない。

「まず、わたしたちと敵との戦力差ですが、肥前国内に於いてはほぼ拮抗状態に持ち込めました。これは木下殿の功績です」

「ん? そうなのか?」

「はい、間違いなく。さすがに四天王の名は強い」

「へへへ、そう誉めるなよ」

 嬉しそうに昌直は頭を掻いた。実に単純である。

「ですが、それは国内にあっての話。外まで見れば……」

「島津、な」

「はい」

 信周派はすでに島津家と約定を交わしている。詳しいことまでは分からないが、肥前国内に一部地域、天草などの割譲を条件に攻め寄せてきた島津家と和睦し、さらに後援を得ているという。

「信周殿は、島津家との繋がりを持った状態を維持していますが、徒に領内への侵攻を許していません。島津としても信周殿が明確に劣勢になるまでは手を出すつもりはないのかもしれません」

「同盟してんのに? なんで?」

「もともと信周殿が有利だからです。今のままでも島津家に不利益はないのですが、そこからさらに利を上げようとするならば信周殿が助けを求めてきたときが都合がいいですし、何より大内家との戦を想定している島津家としては兵力は温存したいでしょうしね。漁夫の利を狙っていると考えられます」  

 肥前国の戦にまで兵を出せば、大内家と同様に多方面での戦を強要される恐れもある。島津家の国力では、そこまでの余裕はないのだ。島原半島の領有化に力を注ぎつつ、成り行きを見守るのが島津家の方針と考えられた。

「よく分からんが、あれだ、とりあえず戦う気はないってことだな?」

「そうですね。信周殿としても、島津家に早々に介入されては立つ瀬がない。今は背中を支えてもらうだけでいいのでしょう。ですが、どちらにしても島津家が向こうについている以上戦力差は歴然です。いざとなれば、島津家は権益を守るため、あるいは同盟者を守るためと称して肥前に兵を送り込むでしょう。今で五分五分の戦況は、瞬く間に塗り替えられてしまいます」

「……だろうな」

 少し前の昌直ならば、ここでも否定しただろう。自分が槍を振るい、敵を押し返すのだと。だが、致命的な敗戦を経験した昌直は少しだけ謙虚になった。少なくとも彼我の実力差、兵力差は一騎当千の武将だけでは覆しようがないと理解したのだ。

「それでも勝たねばなりません」

「当然だ。負けるためにこっちにきたわけじゃねえ」

「はい。ですので、わたしたちにも強力な後ろ盾が必要です。先代の御屋形様がそうであったように、そして御屋形様――――隆信様がそうであったようにです」

 苦難の歴史を歩んできた龍造寺家は、力がない時には大内家や大友家に結びつき、肥前国内での力を付けてきた。その例に倣うほか道がない。やっと手に入れた独立大名の地位ではあるが、そこに固執するだけの力はすでにないのだ。

 だが、それは大きな方針転換であった。少なくとも、龍造寺家に残された選択肢としては最も選び難いものである。

「……後ろ盾なんて、もう大内しかねーじゃねえかよ」

 理解を示した昌直は見るからに不機嫌そうな顔をする。九国内で覇を競うのは今となっては島津家と大内家の二つだけだ。島津家が敵に味方をする以上、こちらが同盟を組めるのは大内家だけである。

 おまけに大内家とは、龍造寺家から縁を切った過去がある。その上で、都合が悪くなったからといって庇護を求めるのは、何とも浅ましい行為ではないか。

 そして、何より、大内家は龍造寺家が零落した最大の原因である。隆信が大内家に討ち取られたから、彼女たちはこうして苦境に立たされることになったのだ。

「勝つために残された唯一の手立てです。尼子家と結ぶことも考えましたが、九国との距離が開きすぎていますし、畿内方面に彼等は進むでしょう。結局、大内家以外に選択肢がないのです」

「ほぼ、禁句だぞ、それ」

「分かっています。相手方は大内家を打倒するという方針を掲げていますしね。わたしたちからしても大内家を敵視する見方が強い。ここで大内家と結ぶなどと言えば、首が飛びかねません」

「なら、なんでそんなことを言ったんだよ」

「勝つためです。大内家と結べば勝機が見えます。実際のところ、大内家を敵視しているのは龍造寺家の譜代衆が中心です。国境近くの国人たちの中にはすでに大内家と連絡を取っている者もいる。大内家と結べば、そういった国人たちも取り込めるはずです」

「オレにわざわざ話したのは?」

「内部の反発こそが最大の問題点。それを抑えるために、内々に話を通しておかなければならなかった。特にあなたには」

 軍議の場で突然この提案をされれば、昌直は間違いなく反発しただろう。じっくり考えることもできず、その場の感情で否定したはずだ。この直茂の私室で一対一で面と向かっているからこそ、直茂の真意まで問い質せるし考える余地も生まれるのだ。

「生き残りを図るため、皆が必死になっている。わたしたちもまた形振り構わず使える手を使い潰す気概がなければこの苦難を乗り切れません。わたしたちは今、取捨選択の時に来ているのです」

 真っ直ぐに直茂は昌直を見つめた。声は小さく、外に漏れない程度に抑えているが、その覚悟は本物だった。

 直茂の提案は長信派にとっては劇薬にも等しいものだ。

 隆信を討ち取った勢力の庇護を得るなど、正気の沙汰ではない。

 だが、現実的にはそれ以外に頼れる味方がいないのだ。誇りを取って敵に押し潰されるか、誇りを捨てて家名と血を存続させるかの二者択一である。

 長信を初めとする味方からも異論が噴出するのは間違いない。そのための昌直だ。彼女さえ首を縦に振ってくれればどうとでもなる。長信派の軍事力は昌直に依存するところが大きいのだ。

 昌直を口説き落とせば、当主との交渉も進めやすい。後は大内家との交渉に入るだけだが、彼等も今は仲間を欲している時期のはずだ。名前だけの同盟であっても周囲に与える影響を考えれば前向きに検討してもらえるはずだ。

 昌直は苦虫を噛み潰したような顔をした後、何も言わず黙り込んだ。腕を組み、じっと考え込む。重苦しい沈黙がしばらく続いた後で、昌直は大きく深呼吸をした。

「話は分かった。次の軍議でそれ、提案するだろ?」

「そうですね」

「オレは、賛成すればいいんだな?」

 直茂は驚いたように目を見開いた。

「よろしいのですか?」

「よろしくねえ。よろしくねえけど、他に何も思いつかねえ。大内家と組むなんて最悪だけど、負けないためにはやっぱりそれしかねえんだってな」

 感情論で言えば、やはり大内家と結ぶのは論外だ。感情だけで物事は動かないが、感情を考慮しなければやはり動かない。人間とは感情も含めた理屈の上で行動を決するものだからだ。

 今、長信派に求められるのは感情論を超えて一致団結できるのかどうかという極限の判断だった。

「間違いなく非難を受けるでしょう。内部調整から難航する可能性が高い策ですが……」

「いきなり弱音を吐くなっての。軍師殿の復帰を進言したのはオレなんだぞ。もう一蓮托生? 運命共同体? みたいなもんだろ。水臭いことは言いっこなしにしよーや」

 さきほどまでの暗い表情が嘘のように昌直はさっぱりとした笑顔を浮かべた。

 この切り替えの早さもまた彼女の長所だ。大内家への蟠りを残したまま、それでも次のために汚名もやむなしと割り切れる力はかけがえのない武士の素養であるとも言えた。

「大物になりますね、あなたは」

「だから誉めるなってーの」

 直茂にとっての大きな関門を一つ越えた。だが、ここから先は家中の意見を取り纏め、大内家とも交渉しなければならない。

 昌直に事前交渉をしたからといって、それですべてが解決するわけではなく、むしろここからが本番なのであった。

 

 


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