大内家の野望   作:一ノ一

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その五十一

 源氏とは、時の天皇の子らが臣籍降下した際に与えられる氏の一つであり、嵯峨天皇が自身の子に源姓を与えたのが始まりであるとされている。

 以降、源姓を賜った氏族はそれぞれの祖となる天皇の号を頭に添えて源氏を名乗ってきた。有名所は清和天皇を祖とする清和源氏で、恐らくは源氏の中で最も繁栄した氏族であろう。源頼朝も足利尊氏もどちらも清和源氏であったため、武家の棟梁として歴史に名を残してきた。

 そして、清和源氏でなくとも天皇を祖としているというだけでも大きなブランド力が血に宿る。下克上の時代を迎えたこの時代であっても、名門というのは強い。

 戦乱の世では力を持つ者が正義ではあり、歴史ある家が打倒されうる時代でもあったが、同時に歴史はあっても権力の下で燻っていた名家が一挙に頭角を現す時代でもあった。

 結局のところ下克上をするにも兵がいる。兵を集める事ができるのは、一定以上の影響力を持つものだけなので、下克上をされるほうもするほうも、どちらも皇孫であるという場合が多かったのだ。

 西国の雄である尼子家もその例に漏れず源氏の家系であった。

 尼子家は宇多天皇を祖とする宇多源氏であり、その中でも近江国を領有した佐々木氏から発生した佐々木源氏である。

 尼子という姓は南北朝時代に近江国、飛騨国、出雲国、隠岐国、山城国、石見国の計六カ国の守護となった佐々木源氏京極高詮の弟高久が守護代を務める近江国尼子郷に館を構えた事に始まり、尼子高久の次男持久が守護代として出雲国に下向した事で、今に繋がる出雲尼子氏が興る。以降、月山富田城を拠点として権力闘争、領土獲得競争を繰り返し、一時は国を追われるという困難に見舞われながらも出雲国を中心に戦国大名として花開いた。

 尼子家は守護代が在任地で主家に当たる守護大名から独立して戦国大名化した例の一つであり、その中でも特に成功した例であるとも言えよう。

 そんな尼子家の現当主である尼子晴久には、一つの悩みがあった。

 他所からすれば取るに足りない、人に相談するようなものでもない悩みではあったが、決して無視する事のできないものでもあった。

 それは先代、尼子経久があまりにも有能すぎたという事であった。

 無論、晴久が無能というわけではない。

 経久存命中は、若気の至りで毛利家に攻撃を仕掛けて手ひどい反撃を受けた事もあった。ほんの数年前の出来事だが、晴久にとってあれは痛い教訓となったのだ。

 敗北も大内家との和平も晴久のその後に暗雲を立ちこませるものではあったが、そこから立ち直る事こそ重要であるとばかりに晴久は政務に明け暮れた。一族の不穏分子――――新宮谷の新宮党を謀略を駆使して滅ぼし、国内を引き締め、大内家との和平により西の不安を抑えたを好機として東へ兵を差し向けた。

 伯耆国、美作国、因幡国を武力で切り取り備後国、備中国へも食指を伸ばしている。尼子家の領土拡大は大内家に比べれば遅滞しているが、それでも着々と勢力を押し広げている。

 さて、そんな晴久がここにきて大内家との不戦和議を破棄した。

 家臣達と幾日も話し合い、自分達と大内家の戦況を鑑みた結果の判断であった。

 理由は簡単で、金が必要だったからだ。

 尼子家の財力は決して弱くはない。しかし、戦線が拡大し動員兵力が大きくなればそれだけ財政負担も肥大化する。大内家ほど産業に強いわけではなく、かといって尼子家の領土は農業生産能力が高いほうではないとなれば、鉱山からの収益が見込める大森銀山はやはり手放せない。

 そして、何よりも大内家の勢力が無視できない規模となった事が大きな理由であった。

 かつての大内家も中国の大国ではあった。尼子家と互角の戦力を誇る名門であり、文字通り中国地方の覇者であったのは事実だ。

 しかし、この数年の大内家はかつてないほどの隆盛を誇っている。四国の半分を支配下に置き、北九州を事実上制圧した。南方から攻め上る島津家を倒してしまえば、東進するだけとなるだろう。そうなれば、尼子家は西と東の敵に挟まれる形になる。

 島津家を滅ぼした後の大内家は西側の敵を一掃している。ゆえに尼子家との和議を継続する必要性がない。つまり、時間をかければかけるほどに大内家は強大化して尼子家の背後を脅かすのだ。

 よって、晴久だけでなく重臣一同の心は一致した。

 東側の諸勢力は後回しでも問題ない。西の大内家が、九州に力を注いでいるうちに叩けるだけ叩いてしまわなければならない、と。

 強大化した大内家はもはや和議を結んでいるから安心していられる相手ではなくなった。血縁関係すらも容易く血みどろの争いにもつれる時代にあって、不倶戴天の敵との約定ほど信じられないものはない。

 尼子家、大内家に並ぶ大国を巻き込んだ三国同盟にでもすれば、否応なく同盟維持に努めただろうが、生憎とそのような都合のいい家は中国近辺には存在しない。

 よって、尼子家と大内家の和議は、両者の力関係がある程度つりあった状態でしか維持されない不安定なものであった。

 それが、大内家の急速な強大化によって崩壊した。

 いつの日か訪れる破綻が、やって来ただけの事。尼子家中には動揺はなく、積年の恨みを晴らせるとばかりに勢い勇む者がいるほどだ。

「やはり、こうなりましたか」

 陣中で熱い湯漬けを一飲みにした老将が、数里先に聳える山城を見上げて呟く。

 老将の名は亀井秀綱。

 祖父の代から尼子家に使える重臣の一人であり、石見遠征軍の先手を任された身でもある。

 祖父と父は経久の月山富田城奪還作戦に参加して功を上げたという。秀綱自身もかつては大内義興に従って上京した経久に随行し、将軍家や管領家を相手に大立ち回りを演じて見せた事もある。

 あれからずいぶんと時は流れて、世の中は様変わりした。長寿を保った主君は逝去し、その後継者が尼子家を大きくしようと知恵と勇気を振り絞っている。老骨に鞭を打つには、それだけでも十分であった。

「やはり、大内とは雌雄を決せねばならぬ」

 口内で小さく自分に言い聞かせるように秀綱は言った。

 国境を越えて大内領へと攻め入った秀綱は、手早く大内方が設置した砦のいくつかを破却して地盤を固め、尼子方に寝返るように国人達への圧力を強めた。

 大内家とて、近日中には彼の前に現れるだろう。九州に全軍を送り込む、などというヘマをするはずがないからだ。

 それまでに、足元を固められるだけ固めておく。石見国はもとより大内家と尼子家が奪い合いを続けてきた地域だけの、どっちつかずの国人が多いのが特徴である。

 それ故に、尼子軍の来襲に対してまともに防備を固めるという対応をする者は少なく、挙って尼子の陣営に駆けつける始末であった。

 国境付近に生きる国人の処世術である。かつての毛利家がそうであったように、一時であってもその瞬間の強者の側に付く事でしか、生き残りを図る術がないのである。

 こうして、出雲国を出た当初は一二〇〇〇人であった尼子軍は数を増し、現段階で四〇〇〇人は兵力が上乗せされた形となった。

 それなりの山城であっても、攻め落とせるだけの兵力であるといえよう。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 尼子家の石見国侵攻は、隣接する安芸国にも動揺を広げていた。数年前に尼子家が侵攻してきた際に二つに割れた安芸国人も、今の段階では大内家への臣従を定めている。今や安芸国の中心人物と言っても過言ではない毛利元就の下には、連日安芸国人の使者が訪れていて、情報収集を活発化させていた。

 そして、元就を訪れるのは安芸国人だけではなかった。

 入れ替わり立ち代わり人がやって来る。慌しい一日の中で、最も厄介な情報を持ち込んだ者がいた。

 額に巻いたサラシに赤黒い染みができている。一目で戦で傷ついたものと分かる。まだ若い武者であるが、勇猛そうな顔つきであった。

「お久しぶりです、山内殿」

「このような姿をお見せして申し訳ない、毛利殿」

「何を仰います。戦で付いた傷は誉れも同然。尼子の大軍を相手によくぞ戦ってくださいました」

 若武者の名は山内隆通。備後国の北方、出雲国との国境にある恵蘇郡に根を張る国人であった。

 地理的に尼子家の影響下にあった山内家だったが、隆通の祖父は強かに立ち回り尼子家と大内家の重臣の両方と姻戚関係を結ぶ事で独自の立ち位置を確立していた。その祖父が、尼子家により追放されたため隆通が跡を継ぐ事になったのであった。

「尼子は備後の深くまで踏み入っているようですね」

「某らを攻め立てた時点で一五〇〇〇を越える大軍でした」

「石見攻めよりも力を入れているように思えますね。ふむ、彼等の目的は、備後を押さえる事でしょうか」

 備後国は以前から大内家と尼子家の間で揺れ動いていた地域だ。突出した大名がいないため、周辺の大名の影響を受けやすいというのは、国人領主がひしめき合う地域には珍しい事ではなく、国人相互の連携は拙く、武威を示せばすぐに味方に引き入れる事ができるという点で攻め込みやすいと言える。

 大内家の優先順位は、間違いなく大森銀山を有する石見国の死守である。備後方面は手薄になると踏んでの進軍であろうか。

 もしも備後を手に入れれば、尼子家は瀬戸内海に進出する事となる。水軍の面で遙かに大内家が有利とはいえ、京への通商路に悪影響を及ぼすのは疑う余地がない。

「二方面、いいえ九州を含めれば三方面作戦を大内家は強いられるという事になるわけですか。なるほど、確かに……」

 元就は状況を噛み砕くために動いていた唇を止める。不用意な発言は控えるべきであった。安芸国に尼子家が踏み入ってくる可能性は、現時点では低いが備後国も石見国も隣国である。落ちれば安芸国は尼子家の勢力に挟まれる形となってしまい苦しい戦いを強いられるだろう。

 せっかく安定した安芸国が揺れるのは元就の本意ではない。

「ですが、驚くには値しませんね」

「さ、左様ですか?」

「はい。動員された兵力も、こうして兵を差し向けてくる事も十分に予想できた事。石見と備後に同時に攻め寄せるのも、不思議ではありません。それだけの戦力の余剰はあるでしょうから」

 仮にも尼子家に従っていた時期もあったのだ。元就にとってみれば、以前よりも勢いの増した尼子家ならば、最大四〇〇〇〇、いや無理をすればそれ以上の大軍を持ち出しても納得できる話であった。

「大丈夫でしょうか。このまま尼子が勢力を拡大するというのは……」

「大内様も警戒はしておいででした。直に石見、備後双方に派兵するはずです。それまで、備後の皆様には持ち堪えていただかねばなりません」

「しかし、持ち堪えるにしても敵は万を越えております。奴可の者どもなど、真っ先に尼子を引き入れる始末」

「承知しております。大内様が兵を纏められるまで、我々安芸の者どもが備後の後背を支えます」

「毛利殿が、出馬されると?」

 元就はゆっくりと首を振った。

「わたしは石見と備後の両方に目を光らせねばなりません。代わりにわたしの娘を行かせます」

「ご息女を」

「小早川を継いだので毛利ではありませんが。ご不満が?」

「滅相もありません」

 小早川隆景は、元就の三女。最前線で戦い武功を重ねているという吉川元春と異なり、安芸国に留まっているが、その実力は確かである。まだ若いのに、養子に入った小早川家を取りまとめる政治手腕は内外で高く評価されている。

 彼女が兵を率いてくれるのであれば、心強い事この上ない。

 隆通が去った後、元就は隆景と安芸守護代弘中隆包に向けて急使を走らせた。

 元就が勝手に兵を備後国に入れれば、守護代の面目を潰してしまう。現時点でも、様々に動いている元就は、これ以上隆包に睨まれるような動きはできないのだ。しかし、安芸国内で兵を素早く動員する事ができるのは吉川家と小早川家を事実上支配している毛利家だけだ。よって、隆包に間に入ってもらう形で大内家を立てつつ、毛利家主体の軍で備後国に援軍を送るしかなかった。

 いっその事、自分が守護代であればと思ったが、所詮毛利家は外様である。欲を出せば、即座に斬り捨てられる程度の存在でしかない。

 毛利家がより大内家に必要とされる存在になるには、功を立てる必要があるが、今回の大内家がそうであるように、あまりに過剰に力を持ちすぎると周囲から叩かれる原因になってしまう。

 ならば、力があって然るべきという立場を手に入れねばならない。

 だからこそ、長女の隆元あたりには晴持に取り入って側室にでもなってもらいたいところなのだが、それもなかなか難しい。色仕掛けができる性格ではないし、こちらから攻勢をかけても余計な火の粉が舞うだけだ。

 女の争いに巻き込まれて娘が苦しむのも見たくはないので、何とも歯がゆいところであった。

「ずいぶんと楽しそうですな」

 しわがれた声が元就にかけられる。

「広爺、楽しいではなく大変なのですよ」

「言うほど大変でもないでしょう。少なくとも、此度の戦程度ならばずいぶんと経験したではありませんか」

「そうですね」

 兵乱の規模は桁違いだが、毛利家が未熟な時期のほうがずっと大変だった。大内家が十二分に成熟し、その庇護下に入ってからは、幾分か楽になったのだ。

「広爺はこの戦、どのように思いますか?」

「大内様の出方次第といったところ。もともと御屋形様は九州よりも尼子を警戒しておいででしたので、対抗する兵力は十分残しているでしょう」

「その通りです。義隆様にとっては島津以上に尼子のほうが危険だと思われていたのでしょう。まあ、分からなくもないですが」

 実際、元就もそう思う。毛利家は尼子家と領土を接しているので、九州に兵を奪われるよりも尼子家の動きに逸早く対応できる体制を整えて欲しいところだった。義隆も南の果ての国人が台頭してきたからといって、本拠が即座に脅かされるわけではないのだから危機感は抱けない。龍造寺家のように、大内家から離反して一大勢力を築こうとしている連中は別だが、島津家は義隆の関心をそれほど引いてはいなかったのだ。

 九州の戦も大内家の戦というよりも大友家を救援しただけであって、主体は大友家にあったはずだ。

 龍造寺家が大人しくしていれば、戦端を開く必要性すらない。大友家が往時の力を大内家の下で取り戻せば、大友家、龍造寺家、島津家の三国の睨み合いとなり、北九州の安定化を図る事もできたはずだったのだ。

 龍造寺家が大きく勢力を後退させた事は、九州の泥沼化を招きかねない失策だった可能性もある。

 尼子家の出兵は、そうした状況を招いた原因――――龍造寺隆信が討ち取られた事に起因している可能性が高い。

 しかし、龍造寺隆信を討たなければ北九州の親大内派は壊滅していただろう。ままならないとはこの事だ。

「おそらく、島津は島津で攻勢を強める事でしょう。北九州はまだまだ荒れます。こちらはこちらで対処するしかありません」

「左様ですね。大内家の来援も、そう遠いものではないでしょうな」

 尼子家に裏切られた形となった義隆が、座して尼子家の侵攻を無視するはずがない。即応して反撃に出る事だろう。

 石見国が先か、あるいは備後国が先か、その両方を同時に叩くか。今の勢いならば、石見国よりも備後国のほうが先に尼子家に降る事になろう。それを押し留めるのが当面の元就の仕事となるか。

 


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