そよ風高校との試合は最終回まで進んだ。
点差は1点…1-2で聖ジャスミン学園が追う展開となっている。
ここで追いつく事が出来なければ俺達の敗北が決まる。
「何としても、ここで追いつかないと…っ!」
そう俺が呟くと、
「『追いつく』じゃなくて『逆転するぞ』でしょ?」
太刀川さんが「ふっ」と笑いながらそう言ってこちらを見た。
自分でも知らぬ間に顔を出していた、弱気の虫を追い払うような心強い言葉。
それに小鷹さんや夏野さんも同調する。
「そうよ、何弱気になってるの!」
「あはは、瀬尾君怒られてる〜」
彼女達の姿に俺は苦笑した。
何だ、1番不安だった俺だったのか。
みんなを元気付けようとしたのに逆に勇気を貰ってしまった。
と、そこに雅ちゃんがすっと近づいて俺のユニフォームの袖をつまむとちょんちょんと引っ張った。
「ねぇ、瀬尾君?」
「?
どうしたの?」
「僕達、そんなに弱くないでしょ?」
…全くもってその通りです。
この答えに雅ちゃんはにっこりと笑った。
「…さあ、瀬尾君?」
そうして促され、俺は頷く。
「うん。円陣を組もう」
ザッとスパイクでグラウンドを踏む音がして、すぐに聖ジャスミンメンバーが集まり円を描いた。
…小さな円だ。
それはそうだろう。
控え選手もいない。
マネージャーの猫塚さんと三ツ沢監督を含めてもたったの12人の野球部なのだから。
だけどこのみんなで超えてきたのだ。
始めは部ですらなくて、なんとか仲間になって。
そして、ひとつになった。
見た目は小さくともこの輪は、この繋がりは強い。
だから俺のやる事は簡単でとてもシンプルなのだ。
分かりきっている事をもう一度なぞる。
それだけでいいんだ。
俺はその為の言葉を一言だけ発した。
「みんな…この試合、絶対に勝とう!
────行くぞっ!!!」
「おおぉーーっ!!!」
この声と共に9回表、聖ジャスミンの攻撃が始まった。
☆
「よっしゃー!
打つでやんすよー!」
聖ジャスミンの攻撃は1番の矢部君からの好打順。
彼が塁に出れば得点の可能性はぐっと高まる。
「頑張れ、矢部くーん!」
矢部君は打ち気満々といった様子でブンブンとバットを振ると打席に入った。
初級は外角、際どいコースのアバタボールを見逃しボール。
2球目も直球が外れ、2ボールとなった。
そよ風バッテリーも1点差の最終回を迎え慎重になっているのかもしれない。
「さあ来いでやんす!」
強気な言葉とは裏腹に矢部君も先頭バッターとして出塁という役割を果たそうとボールをよく見ている。
「頼むよ、矢部君…!」
しかしそよ風バッテリーは崩れない。
その直後の球でストライクを取るとカウント2-2まで持ち直してきた。
そして…。
『カッ!』
矢部君はアバタボールに手を出すもジャストミートは出来ず、擦ったような当たりがセカンド定位置へと飛ぶ。
その打球に対しセカンドは捕球体勢に入った。
『アウト!』
…1アウト。
あとアウト2つで試合が終わる。
しかしみんなの表情に諦めの色はない。
打ち取られた矢部君も、
「当たるでやんすよ!アバタボール!
オイラでもバットに当てられるんでやんすから、オイラよりバッティングがいいみんななら絶対打てるでやんす!」
とチームを奮い立たせている。
そして2番の雅ちゃんに打順が回る。
「よし…来い!」
初球。
『シュッ!』
投げ込まれたのはストレート。
これが高めに外れ1ボール。
電光掲示板に表示された球速は129km/h。
試合序盤からは10km/h以上球速が落ちている。
阿畑さんの顔にも疲れが見えるようになった。
滴る汗を袖で拭うと阿畑さんはサイン交換を行い、これに頷いた。
そして2球目。
「っ!?」
阿畑さんはボールをリリースする瞬間「しまった」という表情を浮かべる。
そしてそのボールはスピードもなく変化もしないままストライクゾーンへと向かう。
『カキーン!』
雅ちゃんはこの球を見逃さずバットを振り抜く。
打球はセンター方向へと飛んだ。
「お願い…超えてっ!!」
打球は中堅手の頭を超える…そう思われた。
しかしもうひと伸びが足りない。
中堅手は懸命に腕を伸ばしながらボールの落下点にグラブを差し出した。
『アウト、アウトーっ!!』
バッターランナーとして全力で走っていた雅ちゃんは、一塁ベースを蹴り次の塁へと向かう塁間のところでこの結果を知ると、がっくりと肩を落としながら方向を変えベンチに戻って来た。
「ごめん…」
「ううん、まだここからだよ!」
ネクスト付近で一言、二言と言葉を交わす。
そして俺は打席へと向かった。
『3番 ピッチャー 瀬尾君』
『ザッ…』
バッターボックス内の土をスパイクでならす。
そしてバットのヘッドをホームベースの両端にコツンと当たると「ふーっ」と息を吐き、そして構えた。
『プレイ!』
『シュッ…クンッ!』
阿畑さんは初球からアバタボールを投じる。
しかしこれは低めのボール球。
1ボール。
…この回、阿畑さんは対戦したバッター全員にボール球から入っている。
これはそういう配球なのか、それとも球数が増えて制球力が落ちているのか。
答えが後者であればさっきの雅ちゃんの打席のように失投が来る可能性もある。
…チャンスを逃してはならない。
2球目。
これもアバタボールだ。
1球目と同じく低めのボール球となり2ボール。
そして3球目も同じくボールとなり遂に3ボール0ストライクとなった。
☆
「ねぇ、あれってもしかして…」
「あの髭、瀬尾君との勝負を避けてるッスか!?
ふざけんなッス!!」
「まさか、あれだけのボールを投げられる投手が、そんな負けを認めるような真似をするなんて…!」
ジャスミンベンチが騒がしい。
いや、ワイが落ち着いている…もしくは、
何とでも言え。
ここで打たれてみすみす勝ちを逃す訳にはいかへんのや。
…もうワイには瀬尾を確実に打ち取る手段がない。
普通に勝負すれば打ち取れるかもしれん。
三振を奪れるかもしれへんし…ホームランを打たれるかもしれん。
そんな賭けは出来へんねん。
ただ、全面降伏した訳やない。
スコア上ではどうであろうとその意思だけは見せなアカン。
『ザッ…』
ワイは4球目に予定通り、ボール球を投じる。
ボール球にしようと思って投げる球。
それにワイは三振を狙う時のように力を込める。
そして、投げ込んだ。
…全力のアバタボールを。
☆
『グッグッグッ…グンッ!』
阿畑さんが投じた4球目のアバタボールはまるで生き物のように揺れ動いた。
『…ボール、フォアボール!』
しかしストライクゾーンからは外れたボール球となり、俺は四球で塁に出た。
「まだあんな変化をする球を投げられたのか…」
俺はネクストの大空さんの方をちらりと見た。
元々が色白の彼女の顔は、普通よりも更に青白くなっており血の気が引いているのが分かった。
あんな球が打てるだろうかと不安になっているに違いない。
俺は歩かせたものの、最後のあの球は次のバッターである大空さんを牽制するには十分の効果を発揮していた。
「大空さん、大丈夫だよ!
よくボールを見ていこう!」
大空さんは頷くものの、その顔からは自信は完全に失われていた。
俺は大丈夫だと励ますが根拠のない言葉では大空さんの不安を拭う事は出来ない。
大空さんは何とか笑みを作ってこれに応えようとしたが、その表情は明らかに強張っていた。
「お願いします…!」
大空さんが右打席に入る。
そして阿畑さんが投じる初球。
アバタボールに大空さんは空振り。
1ストライク。
そして2球目。
低めいっぱいへのアバタボール。
難しいこの球に大空さんは手を出した。
『ゴンッ…』
打球はボテボテとファーストの方へ転がる。
そよ風の一塁手は打球に対し勢いよく飛び出す。
「あっ!?
ダメッ…!!切れてーーっ!!」
大空さんはそう叫びながら一塁へ走る。
そして一塁手はボールをミットに収まると大空さんにタッチをしてアウトをアピールする。
「そんなっ…!」
大空さんはすがるような目で一塁塁審の方を見る。
目線の先の塁審は僅かな秒数の沈黙の後、両手を大きく開いた。
「ファウル、ファーウル!!」
打球は辛くも一塁線ファウルゾーンに切れたようだ。
これには大空さんも安堵の表情を浮かべる。
しかしこれで大空さんは2ストライクと追い込まれた。
…このままではいけない。
だがどうすればいい?
彼女に勇気を与えるには、どうすれば…。
考えを巡らせる中で俺の目は大空さんがバットを普段よりも一握り、そして二握りと短く持ち、何とかバットにボールを当てようとしている姿を捉えていた。
彼女はまだ諦めていない。
彼女だけではない。
聖ジャスミンのメンバー全員が、だ。
みんな大声で大空さんにエールを送っている。
ならば俺に出来る事は?
彼女に、チームに何が出来る?
そう考えを巡らせる。
そうしているうちに、脳裏に矢部君と小鷹さんの姿が浮かんでいた。
ダイヤモンドを駆け巡りチャンスを作ってくれた相棒と、機動力によって惑わされながらも立ち直りリードと言葉で俺を引っ張ってくれた女房役。
…その姿が。
「…そうだ、これしかない」
そう呟き覚悟を決める。
そして、阿畑さんがセットポジションからモーションに入った瞬間に俺は走り出していた。
『ランナー走ったぞ!』
「っ!?」
阿畑さんは外角にアバタボールを投げる。
外角低めに外れるボール球。
これを大空さんは見送る。
捕手の江窪は左投げという事もあり、右手のミットでそれを捕球するとそれを左手の方に引き寄せる。
そして右打者の大空さんを送球の範囲から外すために一塁側にステップするとセカンドベースへとボールを投げた。
しかし送球は高めへと大きく逸れる。
これを見て俺は二塁ベースを回った。
『センター!カバーやカバーっ!!』
その声にそよ風のセンターは転がるボールを捕球すると三塁へ力強くボールを送る。
「っのぉぉぉーーーっ!」
俺は頭からベースに滑り込んだ。
際どいタイミング。
だが俺には確信があった。
三塁手のタッチより先にベースへと辿り着いたという確信が。
そして塁審は両手を大きく広げると『セーフ』という判定を下した。
『ワァーッ!!』
ベンチ、スタンドが大きく沸く。
その中で俺はベース上から大空さんに言葉を送る。
「大空さん!俺、ここまで来たよ!
あとは頼んだ!」
大空さんは驚いた様子で目を丸くする。
そしてふっと笑うと「任せてー!」と答える。
彼女の表情が強張ったものから、いつもの自然な、緊張しつつも何とか打ってやろうという闘志を感じるものに変わっていくのが分かった。
大空さんは4球目のアバタボールをカットすると、5球目、6球目もファウルで逃げてチャンスを待つ。
そして7球目。
『ボール!ボールツー!』
大空さんが平行カウントまで持ち込んだ。
「ナイセン!よく見たよー!」
三ツ沢監督からも賞賛の声が上がる。
大空さんは打席を外すと三塁ランナーのこちらをちらっと見る。
そしてヘルメットのつばに手をやりしっかりと被り直すと、右手で左胸の辺りを「トントン」と叩いた。
そして打席へと戻っていく。
そして8球目。
それを合図にサードランナーの俺は走り出した。
「スリーバントスクイズッ!?
ツーアウトからっ!!?」
聖ジャスミンベンチは総立ち。
驚きと声援が飛ぶ。
大空さんが打席を外して行った動作はスクイズのサイン。
しかもこの場合は
「こんなプレイ、野球やってて初めてだっ!!」
だが根拠はある。
この回の阿畑さんはボール先行の投球内容だが、俺に対する意図的とも思える四球以外ボール球は2つまでしか投げていなかった。
直前がボール球である以上次はストライクが来るという読み。
次は守備の陣形。
ツーアウトという事もあり内野陣の頭にはスクイズはなかった。
サードがチャージをかける様子もなく、その際にショートがベースカバーに入ろうという意識も感じられなかった。
そして大空さんがスラッガーであるという事。
これにより内野は通常の守備シフトではあるが、ほんの少しだが後退し深い守備位置となっていた。
これだけ条件が揃っていてもまだ『ギャンブル』と言える戦法だ。
だがこのサインは他の誰でもない、ジャスミンの4番から出たものだ。
チームの主砲が、試合の勝敗や投手との力関係を考慮して。
そして何が一番大事か選択したのだ。
ならば走らなくてはならない。
俺は息を切らしホームを目指す。
そして大空さんはアバタボールを何とかバットに当てる。
打球は投手と三塁線の中間へ力なく転がる。
ボールに捕手の江窪が向かおうとした、その時。
「どけぇっ!!
ワイが捕る!!」
阿畑さんが江窪を制し自ら打球に向かう。
左投げの江窪が仮にボールを捕ったとしてもステップを踏む余裕のない状況では強いボールは投げられないという判断だろう。
阿畑さんはボールをグラブに収めるとホームに目をやる。
しかし江窪はタッチに行ける捕球体勢を取れていなかった。
半身になって直ぐにタッチに行けるように構えるべきだったが、正対に近い形でミットを構えていたのだ。
「クソォォーーッ!!」
ホームは間に合わない。
そう判断した阿畑さんは反転し一塁へと狙いを定めた。
その際に見せた必死の形相に鳥肌が立ちながらも俺はホームへと滑り込んだ。
…っ、一塁は!?
俺は即座に目線をファースト方向へと向ける。
その時目に入ったのは阿畑さんがボールを投げ、ボールが手を離れたところだった。
バッターランナーの大空さんは懸命に走る。
その斜め後ろからボールが一塁手のミットに向かう。
「ミヨちゃーん!走れーっ!!」
「間に合うぞーっ!!」
「諦めるなぁーっ!!」
「…っ!!
大空さぁーーんっ!!!」
「───うああぁぁーーっ!!!」
大空さんはベース手前で頭から滑り込む。
『ザザザザッ!!』
大空さんは土埃を上げながら勢いよく身体をベース付近に叩きつける。
そして顔が土に
「……………」
ゴクリと喉を鳴らす音が聞こえる。
グラウンド上、そして両ベンチが判定を固唾を飲んで見守る。
判定が下されるまでの数秒間。
本当に心臓が止まるのではないかという緊張のあと。
俺たちに訪れたのは……。
歓喜だった。
『セーフ!セェーーフッ!!』
「やった…?」
「ナイスラン、大空さん!
同点だよ!
試合はまだこれからだっ!」
「や…、やったーー!」
聖ジャスミンメンバーからも歓喜の声が上がる。
試合は振り出しに戻った。
俺たちはまだ終わりませんよ…阿畑さんっ!!