『カキーン!』
快音が響く。
「うわっ!?やってもうたか〜っ!?」
聖ジャスミンの4番、大空さんが放った打球はレフト方向へ。
大飛球を左翼手が懸命に追う。
「レフト、バックバック〜!!退がれー!」
そよ風の司令塔の声がグラウンドに響く。
「あんだけ大口叩いてて初回に炎上はシャレならへん!
捕ってくれー!!」
レフトは打球を追いながらグラブを差し出す。
そして…
『パシンッ!』
『アウト、アウト〜!』
打球を掴み取った。
「あー…」
「惜っしい〜!」
「すいませんー…。
せっかく絶好球が来たのにホームランに出来ませんでしたー…」
「いや、ナイスバッティングだよ。
2ストライクに追い込まれていたところに突然の失投だったんだから。
よく対応したと思う。
打球自体は長打コースに飛んでいたんだし」
「うん。あれはレフトの守備を褒めるべきだね」
太刀川さんもこの意見に賛同し頷いた。
…やはり、いくら阿畑さんといっても完成したばかりの球種をミスせず投げ続けるのは難しいんだ。
それがナックル系のボールであれば尚更だろう。
チャンスは必ず来る。
辛抱強く待てば、必ず。
☆
1回表は無得点で終了。
そしてそよ風高校の攻撃。
そよ風のトップバッターが左打席に立つ。
太刀川さんは積極的にストライクゾーンに投げ込んでいく。
そして、たった2球で2ストライクと追い込んだ。
「ナイスボール、ヒロ!
ボール走ってるわよ!」
小鷹さんも認める好調子。
だがバッターも粘りを見せる。
3球目、スクリューはカットされファウル。
4球目、5球目はストレートが外れボールとなった。
これでカウント2-2。
『…よし!』
5球目。バッテリーが選択したのはカーブ。
前球まで続けていたストレートとの緩急と軌道の差からか、バッターはスイングをしない。
『ボール!ボール!』
「えっ!?」
「…ギリギリ外れてますか?」
そうだね、ボール半個分だけ低めに外れているよ。
この主審の返答に小鷹さんは一瞬両目を閉じると、すぐに気持ちを切り替えた様子でボールを太刀川さんに投げ返した。
「変化球もキレてるわ!
自信持って投げて来なさい!」
そして6球目。
「…んっ!」
投げ込んだのはストレートに近い速度のシュート。
これがバッターから見て外角のボールゾーンからストライクに入った。
『ストライク!バッターアウト!』
小鷹さんは予想外といった表情を浮かべたがバッターは手を出さず、結果的に『バックドア』―外角にムービング系の球を投げ、ボールからストライクになる軌道で曲げ凡退を誘う配球―のような形で見逃し三振を奪った。
キャッチャーも予想していなかったコースだ。
粘りを見せていたバッターも意表を突かれたのだろう。
先頭打者を三振に切って取った太刀川さんは続く2番打者もショートゴロに打ち取った。
しかし…。
「結構な球数を投げさせられたな…」
2番を打ち取るために費やした球数は7球。
2つのアウトを取るのに既に13球を投げている。
…これは2番手投手の俺の出番が早めに来るかもしれないな。
そして3番の江窪の打順になった。
彼も粘り強いバッターだ。
簡単にはアウトにならないだろう。
江窪が左打席で構える。
初球、低めのシュート。
これが決まり1ストライク。
2球目はストレート。
これが高めに外れる。
カウント1-1。
3球目。
『シュッ…クククッ!』
投じられたボールは弧を描きミットに収まる。
カーブだ。
江窪はこれを空振り2ストライクと追い込んだ。
4球目。
外角へと投げ込まれたボール球が曲がりながらストライクゾーンに入ってくる。
1番打者に投げたのと同じ、シュートボールを使っての『バックドア』だ。
しかしこれは意図的に、投げようとして投げたボール。
抜け球とはキレが違う。
江窪はバットを出したものの力ないゴロを転がすのが精一杯。
サードゴロに倒れた。
『スリーアウト!チェンジ!』
「…よし、これは使えるわ!」
小鷹さんは手応えを感じた様子で太刀川さんに呼び掛けた。
「ヒロ!今の球、積極的に使っていきましょう!」
それに太刀川さんは「でもそんな繊細なコントロール、あたしに出来るかな…?」と答え不安を見せた。
「今はたまたま上手くいったけど、あたしはコースにボールをバシバシ決めるタイプじゃないし…。
ストレートは走ってるんだから甘めでもストライクゾーンで勝負すれば…」
確かに太刀川さんはストライクゾーン内で強くて動くストレートと緩い変化球とのコンビネーションで打ち取るタイプの投手だ。
そして、フォーム改造を行いストレートの球速を飛躍的に向上させた事と引き換えにコントロールは少し悪くなった印象がある。
制球力が必要なボールの出し入れに不安を持つのも無理はないだろう。
小鷹さんは太刀川さんの言葉に理解を示しながらも理由を説明する。
「確かに細かい制球が苦手なのはわかる。
でもこれだけ待球されて追い込んでもカットされるんじゃ球数がかかり過ぎるわ。
でも『ボールからストライクになるムービング系のボール』ならカットするのも難しい。
ファーストストライクを打たないならせめて3ストライク目になる球を結果球にしていくしかない」
そして小鷹さんはうつむきながら言った。
それが俺には敢えて俺を視界から外したように見えた。
「アンタにもここまでの蓄積疲労があるし、もし早い回で捕まったら…。
…うちにはもう瀬尾しかピッチャーがいないのよ」
「……」
だから多少のリスクを取ってでも勝負を仕掛けないといけないのよ、と小鷹さんは太刀川さんの肩に手を置いた。
…俺の血行障害がなければ2人にあれこれ考えさせる事もなかったし、太刀川さんに『長いイニングを投げなければいけない』というプレッシャーを与える事にもならなかっただろう。
いつも迷惑をかけて申し訳ないと思う。
でも、だからこそ俺は出来る事をやらなくては。
今考えるべきは先制点を取り太刀川さんを楽にする事だ。
そしてマウンドに上がったら、その1点のリードを守り切る。
このチームを甲子園に送り届ける。
…本当は胴上げ投手は太刀川さんこそが相応しいのだけれど。
もしそれが叶わないならばせめて勝ち投手であって欲しい。
だってこの野球部の始まりは、俺が野球をもう一度始めた理由は…彼女なのだから。
☆
試合は息詰まる投手戦の様相を呈する。
阿畑さんのアバタボールにジャスミン打線は攻略の糸口を掴む事が出来ない。
それに対し太刀川さんは『バックドア』、それとは逆に内角のボールゾーンからストライクゾーンに変化していく『フロントドア』を活用し粘りの打撃を見せるそよ風打線を打ち取っていく。
そして互いに得点を奪う事が出来ないまま、試合は4イニング目に入った。
『ストライク、アウト!』
先頭の雅ちゃんが凡打に打ち取られ1アウト。
そして俺にこの日2回目の打席が回る。
『ザッ』
バッターボックスに入り足元の土をスパイクでならす。
そうして自分を落ち着かせてからバットを構えた。
聖ジャスミンは初回のヒット以降、誰も出塁出来ていない。
そしてチームとして狙っていたアバタボールの投げ損ないは、これまでに数球あったもののストライクゾーンに来たのは初回…大空さんの打席だけだ。
…チャンスは少ない。
ここもアバタボール一本に狙いを絞っていこう。
初球。
『ブンッ!』
アバタボールにバットが空を切る。
今のは比較的フォークに近い動きだったが右打者の外角に逃げるように曲がった。
2球目。
先程とは異なる、揺れる軌道を捉えきれない。
この球も空振り、2ストライク。
…だめだ。
どうやってもこの球に対しては軌道を予測して対応する事は出来ない。
そして3球目。
アバタボールがストライクゾーンに来る。
…アバタボールの変化は不規則。
予測も出来ず、今の俺では軌道の先を瞬時に捉えるのは難しい。
だったら…っ!
俺はミートポイントを1打席目よりも前にしてボールを前で捉える。
アバタボールが大きく変化する前…曲がり鼻を叩いたのだ。
『ギュンッ!』
ボールを前でさばき、バットで捉えたところで両手に力を込め身体ごと前に押し込む。
『カキーン!』
腕が伸びたところで捉えた打球は想像していたよりも遠くへと飛んだ。
そして『ドン!』という音を立ててスタンドへと飛び込んだ。
☆
『ホームラン!ホームランです!
瀬尾選手、難攻不落のアバタボールを見事に打ち崩しましたっ!!』
『ワーーーッ!!』
客席がドッと沸き、歓声と拍手の音が鼓膜を揺らす。
「あのアバタボールをホームランにするとはね!」
「むっ…やるな、先輩!」
「やったね、光輝君!さすがだよ!!」
本当にすごい…!
でもボクのマリンボールを攻略した君だもん。
ボクは絶対に打つって信じてたよ!
ボクたちが感嘆の声を上げている中、みずきちゃんは彼のバッティングの変化に言及した。
「あ、あれは『前手ギュン』打法じゃない!
いつの間にあんな打ち方身につけたのよ!?」
『前手ギュン』とは日本代表不動の三塁手になったスラッガーが提唱する理論だ。
大きくない体でボールを飛ばすために、ボールを体の前の方…投手寄りの位置で捉えて両手でギュンと押し込む。
それが『前手ギュン』打法。
この打法でその選手は、プロ野球で統一球…飛ばないボールが導入され一流のバッターたちが軒並み成績を落とし本塁打が激減した中でも長打力を発揮し自己最多の本塁打数を記録。
以降のシーズンで試合球が再度変更されてからも変わらぬ強打を発揮し、通算で300本以上のホームランを放っている。
言葉にするとシンプルではあるが、腕を伸ばし体の前でボールを捉えようとすると「インパクトを前でしよう」という意識が強くなり、体が前方に流れがちになる。
それを堪えて体重を軸足に残し、なおかつスムーズに体重移動をしなくてはいけない難度の高い打法である。
しかも、だ。
「あれはボクのマリンボールを打った時の打ち方とは根本的に違う」
光輝君がボクのマリンボールをホームランにしたあの打席。
彼は変化するボールをギリギリまで引きつけ、スイングスピードとバットコントロールの融合で弾き返した。
今のホームランとは打つまでのプロセスが全く違う。
…確かにボクのマリンボールは自分でもウイニングショットと呼べる自信のあるボールだ。
だが変化は一定…それは精度の高さの証でもあるのだけれど、打てるかどうかは別にして軌道の予測までは出来るのかもしれない。
それに対してアバタボールの変化は不規則。
手元まで呼び込んでも想像とは違う軌道を描く。
それだったら変化のピークを迎える前にポイントを投手寄りに置いて打つというのは確かに理に
「だけど打撃スタイルを根底からガラリと変えるなんて出来るものなの?」
普通に考えて簡単であるはずがない。
ボクの言葉にみずきちゃんは頷いた。
「打撃フォームを何種類か持っている…例えば2ストライクからノーステップに切り替える美藤先輩みたいな選手は稀にいるけど、これはそういった類じゃない。
引きつけて打つのと前めのポイントで捉えるのではバッターとしての『質』がまるで変わってしまうって事なんだから。
それを試合中どころかその打席の間に切り替えられるなんて誰にでも出来る事じゃないわよ!」
しかもそれは、どうしようもなくなっての苦肉の策ではないだろう。彼は相手を攻略するための最善の選択として、勝算を持ってトライしているはずだ。
「そしてそれぞれのスタイルであおいさんや阿畑さん…トップクラスの投手を攻略した。
複数のスタイルを持っていて、それぞれが武器になるだなんて…それだけで特筆すべき能力、他人とは違う
みずきちゃんはそう言うと『観戦者』としてだけではなくいつか戦う事になるであろう『プレイヤー』としての、見定めるような眼差しで光輝君を見ていた。
…もちろん、抱いている感情がそれだけではない事は、彼女の目の輝きと「本当にすごい」とつぶやく姿を見れば明らかだったが。
「…厄介なバッターだな。
投手のタイプやその投手の持っている特定の球種に対してバッティングを変えられると、捕手としてはどのようにリードをすればいいか困るぞ」
「裏をかくか、わかっていても打たれないボールを投げるかしかないね」
「だが『わかっていても打てない球』の代表であるナックル…その進化形のボールを瀬尾先輩はホームランにした。
これは…」
そう。
彼はアバタボールを攻略出来なかった西京の滝本、清本と並んで…いや、ひょっとしたら彼等すら超えて。
一躍、高校トップクラスのバッターに躍り出たという事になる。
光輝君はバッターとしてまた一段上に行った。
次に対戦する時には簡単な打席はひとつもないだろう。
…その時までにボクももっと力をつけなくちゃね。
「そよ風にしてみれば先制点を献上するという予期せぬ展開になった訳だ。
この試合、想像していたよりも荒れるかもね」
幸子は戦況を鑑みての印象を口にした。
「そよ風打線もまだ真価を発揮していないからね。
あとは広巳ちゃんがどれだけ粘り強く投げられるか、光輝君にいい形で繋げられるかだけど…」
好投手の投げ合いだからといって試合のテンポがいいとは限らない。
むしろ…
「試合後半からのそよ風の攻撃は長くなる」
連打とか大量得点をするからって事じゃなくて、逆にたった1点をもぎ取る為に。
「攻撃側が取れる手段全てを使って、
だからこそ、根負けしないで。粘り強く戦って。
「……頑張ってね、みんな!」