「駄目駄目っ!!
腕の振りが緩んでるわよ!」
「ストレートを投げる時と腕の振りが同じでこそ、チェンジアップは威力を発揮するからね…
難しいかもしれないけど、頑張ってみて!」
ボールを受ける小鷹さん、そして打席に立ってくれている雅ちゃんがそうやって声をかけてくれた。
先日の友沢との一打席勝負で彼から三振を奪ったボール…チェンジアップ。
あかつき戦以来初めての、完璧なチェンジアップを投げることができたあの時の感覚を体に覚え込ませるため、チームメイトを打席に立たせての投げ込みをくり返していた。
この練習にチームのみんなも時間を作って協力してくれている。
そのおかげもあり、少しずつではあるがチェンジアップの精度は向上し、完成まであと一歩というところまできていた。
だが気を抜くと…
『ガシャンッ!!』
ボールはすっぽ抜け、あらぬ方向へと飛んでいってしまう。
「…集中も切れてきたわね。
次で休憩にしましょうか」
「…うん、わかった」
そう頷いて区切りとなる1球を投げ込んだ。
『シュッ…!』
投じられた遅球はバッターの近くで沈み、下向きに構えられた小鷹さんのミットに収まった。
「OK!ナイスボールよ」
「それじゃあ休憩にしようか」
「そうだね、喉も渇いてきたし」
そう話していると、
「今こそネコりんの出番でござるな!
こんなこともあろうかとスペシャルドリンクを準備しておいたのにゃー!
ぜひ飲んで欲しいみゅん!」
そう叫びながら野球部のマネージャーである猫塚さんが駆け寄ってきた。
彼女の両手には人数分のタオルと紙コップ、それと大きな水筒がそれぞれ抱えられていた。
猫塚さんは俺たちにタオルを手渡すと、紙コップに彼女がスペシャルドリンクと呼んでいた、ほんのりと黄色がかった半透明の液体を注いだ。
「グイッといくにゃー!
大丈夫、体に悪いものは入ってないから安心して飲み干すといいりん!」
「…それじゃあ頂こうかな」
勧められるまま、そのドリンクを口に含む。
…レモン果汁の爽やかな酸味。
そしてその後からほんのりと自然な甘さが舌を優しく包んだ。
これはハチミツの味だろうか。
「美味しー!」
「甘過ぎず酸味も強すぎない…!
絶妙なバランスだよ!!」
女性陣はスペシャルドリンクの味を絶賛している。
確かにそれも納得のクオリティーだ。
「ネコりんは超高校級のマネージャー…
この程度のこと、何の造作もないでござるよ!
そのドリンクを飲めば、水分、塩分補給に加え疲労回復も期待できるりゅん!
いっぱい飲んで練習頑張るにゃー!!」
こちらの反応を見て猫塚さんはそうやって胸を張る。
猫塚さんはその言動や行動から一見はちゃめちゃな人に見えるが、実際は周りの人に気を遣い、その時必要なことを瞬時に理解できる視野の広さと頭の回転の速さを併せ持った人なのだ。
案外、この中で一番大物になるのは彼女なのかもしれない。
と、そこに、ウエイト練習を終えた太刀川さんがやって来た。
「ちょっとタカを借りていいかな?
投げ込みしたいんだよね」
「…あんた最近オーバーワーク気味なんじゃないの?
走り込みに投げ込み、それに今まであまりやってこなかったウエイトを使っての筋力強化…
どれも悪いことじゃないけどペースを考えないと…」
小鷹さんはそうやって太刀川さんを気遣う。
だが当の太刀川さんは、
「大丈夫だよ、自分なりに考えてメニューを組んでいるし、ちゃんと休養日も設けているから。
それより投げ込みだよ!
早くブルペンに行こうよ!」
早く早くと急かされ、小鷹さんもしょうがないといった感じでそれに頷いた。
「私はヒロの面倒を見なくちゃいけなくなったから、あんたはもう少し休憩してなさい」
そう言い残して、付き合いの長い幼馴染バッテリーはブルペンへと向かっていった。
…確かに最近の太刀川さんからは、何か焦りのようなものが伝わってくる。
元々多かった投げ込みの量もさらに増やしているみたいだし、小鷹さんが心配するのもわかる。
太刀川さん自身、あの西京高校との試合を経て思うところがあったのだろう。
実質的な球数制限のある俺は、太刀川さんから渡されたバトンを引き継ぐことしかできない。
俺が長いイニングを投げられれば、太刀川さんと交互に先発するなどして彼女の負担を減らすことができるのに。
現実的にはそれができない。
そのことが何より悔しいし、もどかしい。
だけど「それ」を諦めるわけじゃない。
やれるだけのことをやって、できるだけの努力をする。
そうじゃないと、俺は彼女に言い訳をすることもできないから。
☆
「みんな〜!
地区予選の日程が決まったにゃ〜!!」
7月の2週目。
夏休みが目前に迫り、校内に浮かれた雰囲気が漂い始めたある日。
猫塚さんが大きな声でそう言いながら部室に入ってきた。
彼女の手には夏の大会のトーナメント表が印刷された用紙が握り締められていた。
どうやら猫塚さんはここまで走ってきたようで、風圧を受けた用紙の端は折れ、全体にしわが入っていた。
「うちは春季大会を勝ち進んだおかげで、シードされて試合があるのは4回戦からでやんす!
楽ちんでやんす〜!!」
矢部君はそう言いながらトーナメント表を覗き込んだ。
俺もそれに続く。
「西京高校とは決勝まで当たらないようでやんすね。
これはラッキーでやんす! 」
「いや、そうとは限らないよ。
ほら、ここと…ここ」
俺はトーナメント表に書かれたいくつかのチームの名前を指差し、そのチームが順当に勝ち進んだ場合の道すじをなぞっていく。
「俺たちが5回戦に進出したら、そこで聖タチバナと当たる可能性がある。
そしてそこで勝っても…」
「……っ!?
準決勝で恋々高校と当たるでやんす!!」
「そう。
そして決勝では…」
俺は矢部君と話しながらトーナメント表を横目で見る。
おそらく決勝で対戦することになるのは西京高校、もしくは阿畑さん率いるそよ風高校の2チームに限られるだろう。
シードされたチームが初戦で敗れることはそれほど珍しくない。
予選を勝ち進んできたチームの勢いに、初戦でうまく試合に入れなかったチームが飲み込まれてしまうのだ。
俺たちはその難しい初戦に勝ったとしても、あとの3試合で強敵との戦いが待っているのだ。
「…矢部君」
俺は視線で矢部君に訴えかける。
すると彼は
「瀬尾君、オイラも同じ事を考えていたでやんす」
そう言ってふっと微笑んだ。
「こうしちゃいられないでやんす!」
「そうだね!
行こう、矢部君!!」
俺たちはグラブを手にはめると弾けるようにグラウンドへと飛び出していく。
試合までの残り少ない時間で少しでも成長するために。
そして、練習による疲れを感じることで、今もこの身体にのしかかっている重圧をごまかすために。
…それから数時間後。
練習が終わりみんなが帰った後も俺は1人素振りを繰り返していた。
「ふぅ…
そろそろ終わりにするかな」
すっかり暗くなったグラウンドを見渡し、そろそろ帰ろうかと後片付けを始めたその時。
暗闇の中、誰かがグラウンドに入ってくるのが見えた。
誰だろう。
眼を凝らしてその姿を見つめると、こちらに向かって走ってきているのが俺のよく知る人物であることがわかった。
「太刀川さん!?
どうしたの、こんな夜遅くまで?」
俺がそう聞くと太刀川さんは「それはお互い様でしょ?」
と言いながらふふっと微笑んだ。
「なんだかじっとしていられなくて…家から学校までの道を走ってたんだ。
…大会までそれほど時間もないから、意外と緊張してるのかもね」
彼女は「あはは…」と微妙な笑みを浮かべながら頭を掻いた。
「それより瀬尾君の方こそ頑張ってるじゃない?
全体練習が終わった時には…」
『俺はあと少しだけ残っていくよ、キリがついたら帰るから』
「…なんて言ってたのに、結局こんな時間まで居残りしてるなんてさ!」
「うん…
やっぱり出来ることはやっておきたいっていうか、出来ることが増えてきた気がするからその分頑張らないといけないかなって…」
「チェンジアップも完成間近だしね。
あれを自由に使いこなせれば瀬尾君も一流投手の仲間入り…
でもあたしだって負けないよ。
まっさらなマウンドを任せられるのに相応しい投手になるために、ここまで頑張ってきたんだから」
太刀川さんは俺に背中を向けてそう言うと、くるりとこちらを振り返り、
「だからね、瀬尾君。
その努力の成果を、バッターに立ち向かうあたしの背中を…見守っていて?」
そう言って小さく笑顔を浮かべた。
☆
夏の予選、第4回戦。
今日、聖ジャスミンと対戦するのは大漁水産高校…数十年前に甲子園に出場したことのある歴史のあるチームだ。
近年はやや低迷していたものの、今年入学してきた1年生投手、松崎の活躍もありここまで勝ち進んできた。
しかしその松崎は「三振を奪るが四球も出す」という速球派にありがちなタイプの投手で、松崎を援護する打撃陣もとにかくバットを思い切り振ることを重視した「マン振り打線」だ。
相手の隙を突ければ難しい相手ではないだろう。
試合は聖ジャスミンの先攻で始まった。
松崎は1番の矢部を変化の大きいスローカーブで三振で切って取る。
だが続く小山にはフォアボールを与え、1アウト、ランナー1塁という状況でクリーンアップを迎えた。
そして…
『キィィン!』
3番の瀬尾が甘く入ったストレートをセンター前に運び、ランナー1・3塁。
そこからはワイルドピッチ、フォアボール、内野の頭を越えるラッキーなヒットが重なり一挙に3点を奪った。
そして1回の裏、大漁水産高校の攻撃。
聖ジャスミンのマウンドにはいつもの通り太刀川が上がっている。
そう、いつも通り。
そつのない攻めも含めて、ここまでのプレイを見ている限り聖ジャスミンはいつも通りの安定した試合運びをしていた。
…ここまでは。
太刀川はボールを握った手をグラブに収めると、一呼吸置いてから投球動作に入った。
「これは…っ!?」
太刀川は顔を少し俯き加減にすると右足を高々と上げた。
それこそ顎に膝が当たるのではないかと思うほどに。
そのフォームはまるで、アメリカ・レギュラーリーグでシーズン、そして通算で最も多くの三振を奪い、その豪速球から『Express』と称された大投手を彷彿とさせた。
そうして上げた足を踏み出すと、太刀川は溜めた力を一気に解放するかのように腕を鋭く振り抜いた。
『ズドンッ!!』
捕手のミットから今までの太刀川のボールでは考えられない音が鳴った。
バッターも予想外の威力を持った球に目を丸くしている。
「決まったな…」
スタンドでこの様子を見ていた、無精髭を蓄えた青年は関西弁のイントネーションでそう呟いた。
そしてその言葉の通り、聖ジャスミン学園は初回の先制点を守りきり勝利を収めるのだった。
☆
『ゲームセット!』
「ふぅ…」
試合が終わりタオルで汗を拭う太刀川さんに俺は声をかた。
「太刀川さん、今日のピッチングはすごかったね!
新フォームもバッチリだったし」
太刀川さんが連日遅くまで取り組んでいたフォームの改良も実を結び、彼女は今日の試合で見事なピッチングを見せた。
6回1安打、奪った三振は二桁10個を数えた。
「まあ打たれはしなかったけど、フォアボールも4つ出しちゃったし…」
太刀川さんのこの言葉に小鷹さんが素早く反応する。
「フォアボールは実質6つでしょう?
ボールゾーンの球をバッターが振らなければあと2回は四球でランナーを許していたわよ。
それに、5回を過ぎた頃にはヘロヘロだったじゃない」
「うん…タカの言う通りだよ。
改善点はまだまだたくさんあるね」
太刀川さんがこう答えると小鷹さんは、
「わかってるならいいのよ。
…まあ、フォームを変えて初の実戦だということを考えれば十分合格点だし…ね」
と優しく微笑むとそれ以上は何も言わなかった。
…太刀川さんがフォームを変えようとしたきっかけは、NPBでのある投手の活躍だった。
身長が170㎝をわずかに越えるほどのプロでは小柄な体格にも関わらず、足を高く上げ体全体を使うフォームから繰り出すストレートでバッターたちを圧倒する姿。
それを見て、ボールの球威を増したいと思っていた太刀川さんはそのフォームを自分のものにしたいと考えた。
そのプロ選手のことを調べていくうちに、彼にもフォームのモデルとなった選手がいたことがわかったそうだ。
その選手はアメリカ球界で伝説として語り継がれる速球派の大投手。
そんな大投手が出版した『ピッチングバイブル』を参考にして、作り上げたのが太刀川さんの新フォームなのだ。
試行錯誤を繰り返し、彼女は大きく成長した。
誰もが目を見張るほどに。
このチームのエースである太刀川さんの覚醒は、過酷な予選を勝ち抜いていくうえで大きな力になるに違いない。
俺はそんな確信を覚えるのであった。