雅ちゃんが帰ってきてから数ヶ月がすぎた。
季節はすっかり春めいて、過ごしやすい気候になっていた。
「よーし、もう一丁!」
雅ちゃんは今日も元気にノックを受けている。
…雅ちゃんが聖ジャスミンに帰ってきたあの日。
雅ちゃんは勇気を持って自分が実は女であることを告げた。
「嘘つきと非難されることも覚悟している」と言っていた雅ちゃんだが、返ってきたのは彼女にとって予想外の、俺にとっては想像通りのあたたかい言葉だった。
「帰ってきてくれてありがとうッス!」
「やっぱり女の子だったんですねー!」
「だってミヤビン、男の子にしては可愛すぎるもんね。
嘘になってないよ、それ!
見たまんまだもん!」
「まあ何にせよ…これでまた一緒に野球ができるんだ!
こんなに嬉しいことはないよねっ!!」
そう言って彼女たちは雅ちゃんを優しく迎えた。
結局みんなの中で、雅ちゃんは雅ちゃんのままだったのだ。
野球部の中で、雅ちゃんへの対応が変わったところと言えば、俺と矢部君が彼女のことを「雅ちゃん」と呼ぶようになったことくらいで他はそんなに変わらなかった。
雅ちゃんが戻りたかった野球部は、そのままの姿で彼女を受け入れたのだ。
学園側も特例として制服や体操服は男子のもののまま、体育の授業などは女子として受けるということが決まった。
本人の気持ち…男として生きてきたことを考慮したとのことだったが、それも元お嬢様学校である聖ジャスミン学園ならではの繊細な対応があってこそだろう。
雅ちゃんも、
「僕が女の子だって学園に伝える時、おばあさまとお父さんが一緒に謝ってくれたんだ!」
と嬉しそうに言っていた。
双厳さんのことを「父さん」ではなく「お父さん」と柔らかい口調で言ったことが、小山家が少しずつ再生していることを表しているようで、雅ちゃんが元来の女の子らしさ…優しさを素直に出せているようで、少し嬉しかった。
そうは言っても、さすがは人気者の雅ちゃん。
彼女のカミングアウトは影響のあるところでは猛威を振るったようで、日頃の雅ちゃんの人柄をよく知る男子生徒からは「彼女こそ理想の女性だ!」という声が多く上がった。
その結果、彼女は本人の知らないところで「学園のマドンナ」的ポジションに登りつめることとなった。
それとは反対に雅ちゃんが男子でなかったことに落胆している少数の男子生徒もいたのだが…
その理由は考えても俺にはわからなかった。
女子ではなく、なぜ男子がショックを受けるんだ?
矢部君に聞くと「オトコノコじゃなかったからでやんすよ…」と言い残し、どこかへ行ってしまった。
いや…「男の子」じゃないからって……何だ?
とにかく雅ちゃん本人が思うよりウエルカムな反応で、学園は彼女を受け入れたのであった。
☆
「やっぱりだめでしたか…」
2月も終わりに差し掛かったある日。
監督から「春の選抜高校野球」への出場は叶わなかったとの報告を受けた。
高野連からの連絡では、部の大半が女子部員であり、その部員の数自体も9人という試合ができるギリギリの人数であることから21世紀枠での出場も検討されたそうだ。
だが出場枠の関係やチーム力を総合的に判断して見送りとなった、とのことだった。
「惜しかったッスね〜…」
「うん…秋の地区大会で帝王に勝ててればなぁ〜」
「終わったことを悔やんでも仕方ないわよ。
それに、もし今回選ばれていても勝ち残るのは厳しかっただろうしね」
本音を言えば甲子園で野球をしてみたかったけどね。
小鷹さんはみんなを励ましながらも、ほんの一瞬だけ悔しそうな表情を覗かせた。
…帝王戦の敗因。
それはリリーフとして登板した俺の乱調だ。
あの日の悔しさは忘れられない。
それを教訓に、更に実力を磨く必要がある。
俺の場合は血行障害からくる球数の制限を少しでも延ばしたい。
打者を少ない球数で打ち取ること。
そして、負担の少ない球種を多く配球に組み込むことが当面の課題だ。
根本的な治療をするのが本当は一番いいのだが、俺の症状では外科的な手術が必要になるという話だった。
だけどそんなことをしたら、高校生の間に野球部に戻れるかもわからない。
だからそれ以外の方法をいろいろ工夫するしかないのだ。
さて…どうしようか?。
☆
相談の結果、小鷹さんにバッテリーでのミーティングをする場を設けてもらうことになった。
太刀川さんも「じゃあ、あたしも混ざってもいいかな?」と言うので、3人での話し合いが行われた。
「うーん…
キャッチャーとしては、ストレートを多く要求したいところなんだけど…
やっぱり負担が大きいわよね?」
「…そうだね。
カウントを取るための抜いたストレートなら大丈夫だけど、全力のまっすぐはちょっとね…」
「じゃあ自然と変化球が多くなるよね?
スプリットとチェンジアップを多めにすればいいんじゃない?
投げた感触も悪くないんでしょ?」
あかつきとの練習試合で偶然習得した球種が、スプリットとチェンジアップだ。
スプリットはフォークに比べて握りが浅くて負担が小さい。
投げてみての変化を見ても、ボールを深く握っていた頃と落差は変わらないようだったので、今ではスプリットが持ち球になっている。
チェンジアップは、小鷹さんから言うと「ばらつきの多いボール」らしい。
抜け方はいいが、コントロールや変化の量が投げる度に変わっているらしく、決め球で使うには不安があった。
「俺のまっすぐは猪狩みたいに速くないし、変化球が安定しないとね」
落ちるボールのクォリティを安定させることが必要…か。
「専門的なアドバイスができたらいいんだけど、あたしはどっちも投げられないしなあ…」
「変化球に詳しい人がいればいいんだけどね…」
「詳しい人か…」
結局、ミーティングではっきりした答えは出なかった。
…投げ込みの数を増やしてみるか。
☆
「ゴンッ!ゴンッ!!」
「うん?何の音だ?」
部活が終わり一度家に帰ってから、俺は自主トレとしてランニングに出かけていた。
「どこから聞こえるんだ?」
俺は音の方に向かって歩き始める。
まるで壁に何かをぶつけているような音が一定のリズムで鳴り響いていた。
「こっちか?」
今まで立っていた土手を駆け下りる。
すると音の発生源はすぐに見つかった。
河川敷の橋の下。
コンクリートでできた壁に向かって、誰かがボールを投げていたのだ。
俺はその姿に違和感を覚えた。
というのも、ユニフォーム姿のその男は、まるで小さい子どもとキャッチボールをする父親のように、緩くふわっとした軌道のボールを何球も投げ続けていたのだ。
「何やってるんだ、あの人…?」
「…んっ?
誰やお前!何見てんねん!?」
男は気配に気づいたのか、急にこちらを向くと関西弁でまくし立てた。
「あっ…いや、怪しい者じゃないんです!
何か音がするなと思って…」
「…何や、ヤンキーとちゃうんか?
びっくりして損したわー!」
男は大きくリアクションをとった後、こちらに歩いてくる。
「…あれ?
お前、聖ジャスミンの瀬尾やろ?」
「えっ…何で知ってるんですか!?」
「そんなもん、同じ地区のライバルやからに決まってるやろ!
ワイは阿畑(あばた) やすし!
そよ風高校のエースであり変化球のスペシャリストや!
ちなみにお前より1つ年上や、よろしくな!!」
高校生だったのか…?
頭にタオルを巻き無精ひげを生やした姿は、実際よりもかなり年上に見える。
「変化球のスペシャリスト…ですか?」
「そうや!
今も変化球の練習をしてたんやで!」
「えっ、今のが?」
「おお、変化球のリリースの確認をな」
「へぇ…」
そんな意味があったのか…
「興味持ったか?
何ならお前にも手ほどきしたろーか? 」
「…いいんですか?」
「おう、かまへんで!
実はお前のチェンジアップに興味があってな」
「チェンジアップに?」
「そうや」
阿畑さんはそう言うとボールを手に取る。
「お前のチェンジアップの握りは鷲掴み…こうやろ?」
阿畑さんは実際にボールを使って、俺のチェンジアップの握りを再現してみせる。
「は、はい!
でも、何でわかったんですか?」
「お前のチェンジアップは縦に大きく沈むやろ。
それやったら親指と人差し指で「OK」の形をつくって握るサークルチェンジとは違うと思ってな」
…すごい。
この人は口だけじゃない。
変化球の知識がずば抜けている。
「お前のチェンジアップは、普通より大きく落ちる。
でもお前のピッチングを何試合か見たら、その度に変化の幅が変わっとる。
正直な話、投げてみんとどう変化するかわからんのやろ?」
「そ、そこまでわかるんですか?」
「それやったら話は簡単や。
変化が安定せえへんってことはリリースがばらばらってことやからな」
「リリース…」
「握りと腕の振りはそのままで、回転を少しかけてみたり、力を入れる部分を変えてみたり…いろんなバージョンを試せばええ。
変化球…特にウイニングショットなんてもんは試行錯誤のくり返しやで!!」
「…っ!!
はい、試してみます!!」
そうか…
俺は「チェンジアップは抜いて投げるもの」という固定概念に惑わされていたんだ。
「阿畑さん、ありがとうございます!
きっかけが掴めそうです!」
「ならよかったわ」
「でも…何で敵チームの俺に指導をしてくれたんですか?」
「そんなもん決まってるやろ!
変化球について悩んでるやつは、みんなワイの仲間や!
仲間が助け合うのは当たり前やろ?
それに…これでお前がもっといいピッチャーになっても関係あらへん」
阿畑さんの顔から、今まで浮かべていた陽気そうな笑みが消える。
「ワイの魔球が完成したら、お前らみたいなもん、相手にならへんからな」
そう言い切った阿畑さんの顔は勝負師のそれになっていた。
☆
ワインドアップからボールを投じる。
鋭い腕の振りとは裏腹に、勢いの殺されたボールはゆっくりと進み、ホームベースの付近で急激に大きく沈んだ。
「瀬尾、すごいじゃない!
チェンジアップ…だいぶ安定してきたわね!」
「うん、教えてもらった通りにいろいろ試してみたら、しっくりくる投げ方が見つかったんだ!」
「阿畑…だっけ?
その人に感謝しないとね」
「うん…そうだね」
変化球のスペシャリスト…阿畑 やすし。
俺は彼に感謝しながらも、彼が聖ジャスミンの前に立ちはだかることを確信するのだった。