『ピッチャー、太刀川さんに代わりまして、瀬尾君』
投手交代のアナウンスが場内に響く。
「瀬尾君!? 瀬尾君が投げるんだ……!?」
投手交代のアナウンスを聞き、おさげ髪の少女が驚きの表情を浮かべる。それに対し、隣に座る少女が声をかける。
「ねぇ、あおい? 瀬尾のやつ、もう投手はできないって話じゃなかったかい?」
「うん……確かにそう言ってた。でも……」
──戻ってきた。
中学時代、名門あかつきの試合を観戦した時のこと。味方投手の乱調で迎えたピンチ。その場面で現れた彼は、マウンドに上がると強打者たちをねじ伏せ、チームに勝利をもたらした。歓喜の輪の中心で、笑顔を見せていたあの姿が。
ねぇ、瀬尾君。あの時の君の笑顔、今もボクの目に焼き付いているんだよ。もう一度、あの笑顔が見たいな。だから……勝って。そして、とびっきりの笑顔をボクに見せてよ。
☆
5回表、3対3の同点。1アウト1・3塁のピンチ。この場面で俺はマウンドに上がる。
そして、駆け寄って来た小鷹さんとサインの確認。
「瀬尾、一応球種の確認をするわよ。あんたの持ち球はストレートの他にスライダー、シュートにフォーク……でいいのよね?」
「うん。それで全部だよ」
「……あんた、本当にいいの? あれだけ『俺は投手なんて』って言ってたのに……」
……確かにそうだ。
でも今は俺の気持ちなんて関係ない。どうだっていい。出来ることを精一杯やるだけだ。足を引きずりながらレフトの守備につく彼女のために。
「大丈夫だよ! それよりリードよろしくね! 俺、ピッチャーやるの久しぶりで心臓バクバクなんだからさ!」
会話を終え、小鷹さんが守備位置に戻る。
……どれだけ出来るだろうか? そんな不安を振り払う。おそらくこの試合で俺の欠点は露呈するだろう。あかつきを追われたダメ投手だということが、その理由がみんなに知られてしまう。でも、せめてこの試合の間だけは頼れるキャプテンでいなくちゃな。
外野陣の守備位置はレフト太刀川さん、俺が守っていたライトにレフトから移ってきた美藤さん。センターの矢部君は負傷している太刀川さんをフォローするためにレフト寄りに守っている。
さあ、外野フライで1点のこの場面。迎えるは猪狩守。打席に立つ猪狩は、早く投げて来いと言わんばかりの視線を送ってくる。これは、最初から全力でいかないとな……。猪狩から点を取れる見込みがない以上、失点は許されない。
猪狩に対しての初球。全力のストレート。
『カン!』
バックネットへのファウル。1ストライク。
……大丈夫、投げられる。このまま攻めていくぞ……! 猪狩相手にかわすピッチングでは通用しないからな。
2球目。
ここはまっすぐを続ける。
外角低めへの直球がストライクゾーンギリギリに決まる。
『ストライク!』
2ストライクと追い込んだ。
しかし、猪狩の性格からすると打ちにきてもおかしくなかったんだが、見送った。1回ボールを見られて、分析されたか? ……その可能性がある以上、この打席でこれ以上ストレートを投げるのは危険だな。
小鷹さんがサインを出す。俺はそれに頷く。
3球目に投じたボールはストライクゾーンど真ん中へ。待ってましたとばかりに猪狩はバットを振る。しかし、狙い打ちにいったはずの抜け球は、真下にストンと落ちる。
『ストライク! バッターアウト!』
フォークボール。俺の得意球だ。
想定外だった変化球に猪狩のバットは空を切る。それはそうだろう。ランナー3塁で、まともに投げられるかどうかもわからない投手が、落ちる球を投げるとは思わないはず。
これで2アウト。……結果的には打ち取ったが、油断も慢心もしてはいけない。意表をつかなければ、打ち取れる保証のない相手なのが、猪狩 守なのだから。
そして次の打者を迎える。
『5番 キャッチャー 猪狩 進君』
進君は卓越した打撃技術を持っている。どう抑えるか……。
小鷹さんのサインは内角へのスライダー。サインに従い、ボールを投じる。その内角への変化球を進君は、ライト線に引っ張る。
『……ファウル、ファウル!』
っ!!
強い当たりだった……!
進君はセンター返しや流し打ちだけでなく、強く引っ張ることも出来る打者だ。だから引っ張るだけのプルヒッターに比べて打ち取るために工夫が必要になる。投手が投げるコースを間違えなければ……という打者ではないのだ。
そんな打者に対して、小鷹さんの要求は、またしても内角球。
……今度はストレート、か。スライダーとの球速差は小さいため、緩急で打ち取るということは難しい。つまり、ビシッとインコースを突かなくては、打ち取ることはできないということ。
……小鷹さん、強気だな。
期待されているのか、それとも俺を奮い立たせようと厳しい要求をしているのか……。どちらにしても、小鷹さんのリードに応えたい。
2球目、ストレート。
しかし、小鷹さんの要求よりも甘いコースにボールが向かう。
『キンッ!』
鋭いスイングがボールに当たる。
強烈な打球は主審のマスクをかすめ、バックネットへ飛んだ。
マウンドからでも、主審が顔を歪めるのが見える。かなりの衝撃だったのだろう。
「……っ! ファウル!!」
危なかった……。ボールがあと僅かでも真ん中寄りに外れていたら、外野の頭を越える長打を打たれていてもおかしくなかった。打球が真後ろに飛ぶということは、タイミング自体は合っているということだ。スイングの軌道を調整されれば、ジャストミートされかねない。
……これは進君の評価を改めなくてはならない。パワーヒッターのような筋力がなくても、インパクトの瞬間にパワーを上手く伝えれば強い打球を放つことが出来る。それも、確かなバットコントロールでボールを真芯で捉えられるからこそ。『力で押し勝てる』なんて思わない方が身のためだ。
……だが、これで0ボール2ストライク。投手有利は変わらない。
次は3球目。
……1回外すか?
そんな俺の考えに対し、小鷹さんのミットは外角低めに構えられる。
サインはストレート。3球勝負。
セットポジションから投球動作に入る。
イメージは小鷹さんのミットに、まっすぐな線が引かれるように進むストレート。
……手が出ないほどに一直線に。あのミットに……届け!
リリースの瞬間に、指先に力を込める。そして、全ての力を一瞬でボールに乗せて、放つ。
そうして投じられた直球は、外角低めギリギリに構えられた小鷹さんのミットに向かい進んでいく。全力を込めた、渾身のストレート。しかし、進君はそれにバットを合わせてくる。ジャストタイミングのスイング。
……打球は直後にワンバウンド。俺の利き手である、右手側へのピッチャー返しになった。しかし打球に勢いはない。逆シングルで捕球する。
「くっ!」
進君は1塁まで全力で走る。俊足で、なおかつ左打者である進君だが、さすがにこの当たりで内野安打を狙うのは厳しい。ボテボテの当たりならば、まだ望みはあっただろうが……。
捕球したボールを1塁に送球。川星さんがしっかり掴んで3アウト。
「ふぅ……」と一息ついて、ベンチへ戻るため歩き始める。そんな俺の背中を誰かが『バシン!』と叩く。
「うぉっ!?」
「お疲れ! ナイスピッチ!」
そう言うと夏野さんは、驚きと衝撃で目を白黒させる俺を尻目に元気よく駆けて行った。
「ホント、よく抑えたわ。でも、ここで気を緩めないことね」
小鷹さんがそう声をかけてくる。その横では、太刀川さんがひょこひょこと、足をかばいながら歩いて来た。傍らでは、美藤さんが体を支えてあげていた。
そんな状態ながら太刀川さんは、
「瀬尾君、ごめんね……ピンチの場面で投げさせることになっちゃって……。ただでさえ試合で投げるの久しぶりだったのに……」
と謝罪の言葉を発した。
……投球の疲れもあるだろう。足の痛みだって、すぐに治まるようなものじゃないはずだ。それなのにこの子は、俺のことを気遣っている。その言葉を聞いただけで、誰がこのチームのエースなのかは瞭然だ。だからこそ俺は、そんな彼女から引き継いだマウンドを汚してはならない。こんなにも気高い心を持つ、背番号1の立っていたマウンドを……。汚すことは許されないんだ。
☆
「猪狩! 進! キミたち2人共がチャンスで凡退だなんて、そんなにすごいボールを投げているのかい?」
「麻生……」
今年の春からチームメイトとなった、他県からの野球留学でやって来た選手が話かけてくる。あいつは、ボクに対抗意識を燃やしているのか、よくつっかかってくる。
ポジションは投手。まあ、ボクがいるために1年生投手のNo.2という、イマイチ喜べない評価を受けているのだが。だから意識されるのは仕方ないとは思うが、何も髪型や話し方までボクに似せなくてもいいのに……とは思う。
「ああ……。キミも同じ状況で打席に立ってみればわかるはずさ。瀬尾のピッチングのすごさがね」
その言葉に麻生は瞬時に反応する。
「……そうかい? 瀬尾……君だったかな? 彼は打者をねじ伏せるスピードボールを投げられるわけじゃないようだ。キミが三振に打ち取られたフォークボールにしても、最初からフォークがあると想定しておけば、手も足も出ないというような落差じゃない。コントロールだって『針の穴を通す』というレベルには程遠い。あれじゃあ、あかつきでは2番手の投手にもなれないよ。中学時代の途中から、主力投手の座から外れてベンチを温めていたという話だったけど、納得だね」
そう辛辣に言い放ったヤツに対し、意外な人物が憤りを露わにする。
「……おい。お前みたいな中途半端なヤツが、あいつを……瀬尾を語るじゃねぇよ……!」
「……滑川。今のはボクのことを言ったのか……?」
鋭い視線を向けられた滑川は、臆することなく言葉を続ける。
「あ〜そうだよ……! 猪狩の劣化コピーみたいなお前が、死に物狂いで自分の居場所を見つけ出そうとしていた、チームのために体を張り続けていた瀬尾をどーこー言える立場かよ?」
「……フン。そこまで言うなら、彼がどれほどの投手なのか見極めさせてもらうよ」
そう言って麻生は去っていく。
「意外だな、滑川。瀬尾のことを嫌っているお前が、あんなことを言うなんて……」
ボクの言葉を笑い飛ばすかのように滑川は答える。
「ハッ! 別に嫌ってるわけじゃねぇよ。……気に入らないだけだ。心底、な……」
踵を返してどこかへ歩いていく背番号6。
その背中からは、真意を読み取ることはできなかった。
☆
5回裏、聖ジャスミンの攻撃は9番の矢部君からの打順。
矢部君は相変わらずバットを短く持って、とにかく当てにいこうとしている。
初球、猪狩は強気にストレートを内角に投じる。
それに対し矢部君はセーフティバント。しかし球威に押し負け、ネットバック方向への小飛球になる。
そして、それを捕球しようと進君が落下点に急ぐ。タイミング的に捕球は間に合わない。すると、進君は落下点にスライディングで滑り込む。
そして、ファウルフライをもぎ取った。
『アウト!』
1アウト。
……今のは、進君以外の捕手では出来ないプレイだ。彼のように俊足を誇る捕手というのは珍しい。多くの場合その脚力を活かすため、外野手など他のポジションにコンバートされるためだ。
しかし、進君は捕手であり続けることができた。走力よりも打撃力はもちろん、リードやインサイドワークなど、捕手としての能力が誰よりも優れていたからだ。近い将来、走・攻・守の揃った新世代型の捕手としてプロの舞台でも活躍するのだろう。
そのスーパープレイの引き立て役となった矢部君は俯き加減でベンチに戻って来る。そして、「もう少しでやんす……」とつぶやくと、静かにベンチに腰掛けた。
打撃の粗さが目に付く矢部君だが、バントや右打ちなどの小技は器用にこなす。上手く転がすことが出来れば、俊足の持ち主の矢部君なら内野安打も狙える。その対策として内野が前進してくれば、ヒットゾーンも広がるんだけど……。
猪狩ほどの投手を攻略するには、一点特化した能力を持った選手が突破口を開くしかない。それは矢部君の足であったり、大空さんのパワーであったり……。とにかく、彼らのつくったチャンスを広げ、繋げることが俺の仕事になる。
矢部君を打ち取った後、猪狩は聖ジャスミンの1・2番コンビを簡単に打ち取り3アウト。
6回表、あかつきの攻撃。
先頭打者は6番の新田。太刀川さんの投球を見ていてわかったが、6番以降の打者は上位打線に比べて打力が明らかに落ちる。だからといって気を抜けるわけではないが、少しは余裕を持って投げられる。
初球、2球目と外角への変化球でカウントを稼ぎ、3球目。
インハイへのストレートを投げ込む。それに対して はバットが出かけたものの、途中でスイングを止める。
小鷹さんが「振ってるでしょ!?」と審判の方に向き直る。しかし判定はボール。
だが投手有利は変わらない。
4球目のサインはフォーク。それに頷き、投球に入る。
低めのストライクゾーンからの落ちるボール。
それが見送られてカウント2-2。
変化するのが早過ぎた。少し引っかかったか?
その後ファウルで2球粘られ、迎えた7球目。
選んだ球種はシュート。真ん中低めから内角低めに食い込むボールで、サードにゴロを打たせた。
「大空さん!」
ボテボテのゴロにサードの大空さんが突っ込み、捕球した直後にファーストに急いで送球する。
「あっ!!」
「あっ!!」
ボールを投げた大空さんと、捕球の体勢に入っていた川星さんが同時に声を上げる。
大空さんの送球がすっぽ抜けたのだ。ボールは川星さんの頭上を越えて転がる。その間にバッターランナーは1塁を回る。
フェンスに当たり、ボールの転がる方向が変わる。必死に追う川星さん。それよりも早く打球に向かう人影が、彼女の前を通り過ぎる。
カチャカチャと防具を揺らしながら、ボールを捕球した彼女の姿を見て、川星さんは驚きの声を上げる。
「美麗ちゃん!?」
小鷹さんはバッターランナーを視界に捉えると、素早く2塁に送球する。そのボールを小山君が掴んで、ランナーにタッチ。際どいタイミング。
判定は……!?
『……セーフ!!』
この判定を聞き、小鷹さんは悔しそうに顔を歪め、舌打ちをする。
ノーアウトランナー2塁。だが、ここからの相手は7、8、9番の下位打線。投げ損ないさえしなければ……。
「タイム!」
あかつきの監督が主審のもとに向かう。そして、何かを告げた。
『あかつき大附属高校、選手の交代をお知らせします。バッター、木村君に代わりまして三浦君』
代打で登場した打者がバッターボックスに入る。バッターの三浦は、右投げ左打ち。シニアリーグで通算打率.400をマークした巧打者だ。名前だけなら俺でも知っている。外野手なのだが、肩の弱さが響きスタメンではなかったんだろう。だが、打撃は本物だ。このクラスの打者が控えているなんて、あかつきの選手層の厚さは頭一つ抜けている。
だけど、三浦に長打はない。外角のボールに対する流し打ちに気をつければ……
小鷹さんも同じ考えのようで、内角にミットを構える。
サインはストレート。1球目はインロー、2球目はインハイに投げ込み、ファウル2つで2ストライクと追い込んだ。さすがに空振りは取れなかったものの、投手有利の展開。
そして追い込んでからの3球目は外角ボールゾーンに逃げるシュート。
『カキン!』
三振を奪えるだけのキレはあった……のだが、打球はレフトライン際へ。
「やば……!」
小鷹さんがマスクを脱ぎ捨て、打球の行方を目で追う。
『……ファウル!』
打球は僅かに切れて、ファウルとなった。
「ボールでも構わず打ってくるなんて……やっぱり、狙われてるわね」
マウンドに来た小鷹さんは、ミットで口を隠しながら言った。
「うん……。内の厳しい球をカットして外角球を流し打つのが三浦のプレイスタイルだけど、わざわざ外角の難しいボールを、カウントを犠牲にしてまで待つ意味がない。確実にレフトへ打球を飛ばせるように、左打者は外角狙いの流し打ちを狙ってるんだ……!」
「……嫌なバッターね」
つまり三浦の狙いは、足を痛めている太刀川さんの方に打球を飛ばすことなのだ。
「……」
どうする……? 今の太刀川さんの状態ではとてもじゃないけど打球の処理なんてできない。でも、それよりもっと怖いのは、無理をして怪我が悪化してしまうことだ。何か対策を考えないと……。
そうして考えを巡らす俺の胸に、小鷹さんのキャッチャーミットがポンと当たる。
「な〜に神妙な顔してんの! 狙ってるコースが分かるんなら、その逆をガンガン突いていけばいいだけでしょ?」
そうやって笑みを浮かべる小鷹さん。
そうだ。まだ、打たれたわけじゃない。いちいち不安がってちゃいけないよな。
……外野までボールを飛ばさせない。初志貫徹だ。強気でいこう!
小鷹さんはオーバーなくらいにミットを内角に構える。セットポジションから、あのミットに向かって腕を振る。
内角、胸元を厳しく突くスピードボール。見逃せばボールになる、そんな軌道で進んでいた球が、突如曲がる。
『ストライク! バッターアウト!』
見逃し三振。
球種はシュート。ただ先程とは使い方が違う。外角に投げて空振りを誘うのではなく、内角ボールゾーンからストライクゾーンに食い込ませた。
シュートで強い打球を打たれたら、シュートをもう一回投げ返す。強気のリード。小鷹さんの真骨頂。
「1アウト〜! このピンチ、守り抜くよ〜!!」
夏野さんの声が響く。それに応えるようにファースト、ショート、サード、そして外野陣が声を出す。
「よし、いこ〜!」
「頑張り時ッスよ!」
「守備は任せるでやんす! 絶対捕ってやるでやんすよー!」
活気が出てきたな。いいムードだ。
だが、相手ベンチも流れを渡さないように采配を振るう。
『あかつき大附属高校、選手の交代をお知らせします。バッター、飯山君に代わりまして中山君』
コールに従い登場したのは、大袈裟なほどに豪快な素振りを見せるバッター。
この中山は右のプルヒッター。どんなボールにも強振で立ち向かう積極的な打撃が持ち味の選手だ。彼とは中学時代に対戦したことがある。
右のプルヒッターということは、レフト方向に強い打球を飛ばす打者ということ。先ほどの流し打ちの得意な左打者の三浦に続き、レフト線に打球を打つのが得意なバッターが続く。
初球からガンガン振ってくるこの打者に対して、小鷹さんからサインが出る。
それに頷き、投球モーションに入る。初球、ボールはど真ん中の甘いコースへ。中山はそれに食いつき、フルスイング。だが、ボールはそれを躱すようにストンと落ちる。
『ストライク!』
フォークで空振りを取り1ストライク。
……それにしても、豪快なスイングだ。代打で出てきて、1球目だぞ……!? 様子を見る気なんてさらさらないんだろう。
間髪入れず小鷹さんがボールを投げ返し、サインを出す。
2球目。
外角へのフォークボールを続ける。これに対し中山はまたもや空振り。悔しそうに天を仰ぐ。
だいぶイラついてるな……。まっすぐを思い切り引っ張りたいんだろうが、投じられるボールはベース近くで変化するフォークばかり。狙い球が来ないもどかしさと、もう狙い球を投げてこないのではないかという迷い。それは2球目のフォークを空振りした時の、崩されたアッパー気味のスイングにも表れている。
その迷いを突く。内角に構えられたミット。
サインは……全力のストレート!
それにに応え、投じた渾身の1球が『ズバン!』とミットを鳴らす。
『ストライク! バッターアウト!』
中山は手を出すことも出来ず立ち尽くす。プルヒッターにとっては大好物の内角ストレート。そのボールで、見逃し三振に打ち取られた屈辱が、隠しきれていない。小鷹さんは、その様子を見てほくそ笑む。
……怖っ! うちの正捕手超怖っ! 短い間とはいえ、彼女たちと対立していた自分に拍手を送りたい気分だ。
……まあ、これで2アウト。
あとアウト1つでピンチを脱することが出来る。この場面でもあかつきベンチは動きを止めない。
『あかつき大附属高校、選手の交代をお知らせします。バッター、野田君に代わりまして……麻生君』
麻生……? 見覚えがあるような……
……。
…………。
………………ああ、思い出した。
あいつだ。猪狩に敗れ、そして憧れを抱いていたであろう、あの男じゃないか。
★
……中学1年の時だ。
練習試合が行われ、麻生は相手チームの4番 ピッチャーとして出場していた。しかし、当時1年ながらあかつきの4番でエースだった猪狩相手に3三振に抑えられ、投手としては2ホームランを含む3安打6打点と打ち込まれた。
それ以来、麻生は猪狩を過剰に意識するようになった。ピッチングフォームやバッティングフォームの模倣から始まり、そしてなぜか口調や態度も猪狩に似せていった。丸刈りだった頭も髪を伸ばしていき、1年が経つ頃には、ぱっと見では完全に猪狩と同じになっていた。試合で会うたびに、猪狩に似ていく麻生の姿を見るたび、俺は開いた口が塞がらなかった。
★
……完全に思い出した。なぜ忘れていたのだろうか?
それはおそらく、余りに猪狩に似せていったために逆に印象が薄くなっていたのだろう。本物の猪狩の前にしたら、模造品など霞んで目に入らない。光輝く才能を前に、挫折を味わったということに関しては俺も麻生と同じかもしれない。
ただ、麻生が天賦の才を持つ者に少しでも近づこうとしたのに比べ、俺はその才能が放つ光が届かない、目に入らないところまで距離をとった。その光に照らされて、自分の駄目な部分が浮き彫りになるのが辛かったからだ。
……麻生と俺、どちらが健全かは言うまでもない、か。
麻生は、真似た手本がよかったのだろう。バッティングもピッチングもハイレベルだ。右投げ右打ちで、スケールを少し小さくした猪狩みたいなものだからな。このレベルの選手を相手に油断はあり得ない。
初球は外角低めにストレート。ボールでもOK……か。
『シュッ! …… バシン!』
小鷹さんの注文通り。アウトロー、ぎりぎりボールというコース。しかし麻生はピクリとも動かない。
選球眼がいいのか、ただ単に初球は見送ると決めていたのか……? 次で確かめる。
2球目は右打者の外角、ストライクからボールになるスライダー。麻生はこれも見極める。
ボール球を振らせるのは難しそうだ。
ここで小鷹さんの配球が変わる。……次は内角、ボールからストライクになるシュートか。
こういうボールゾーンからストライクゾーンへと変化する球はコントロールするのが難しい。外れすぎるとストライクにならない。逆にストライクを狙いすぎるとストライクからストライクへの変化、つまり真ん中に曲がっていってしまう。使いこなすには並外れた制球力が必要となる。だがその分使いこなすことが出来れば大きな武器になる。
セットポジションから3球目を投げる。
狙い通りのコース。シュートがストライクゾーンをかすめるように変化する。ミスのないピッチング。だかそのボールに対し麻生は、躊躇なく踏み込んで打ってくる。
『キィィン!』
打球は1塁線切れてファウル。
あのボールにも対応してくるのか……! でも、それなら打てないボールを投げるだけだ。
審判から新しいボールを受け取る。
そしてボールを手に取った、その時。
ボールに触れた指先に感じる違和感。
「くそっ、もうなのか……!?」
☆
『ボール!』
11球目のスライダーは外れて、これで3ボール2ストライク。
この麻生ってバッターは確かにいいバッターね。対応力は高いし、難しい球はカットされて粘られている。でも、瀬尾のボールからストライクになる変化球は、カット出来てもヒットを打てるわけじゃない。根負けしなければ打ち取れる。
「……タイム!」
……? 瀬尾がタイムをとって、こちらを見ている。
私を呼んでる? 急いで瀬尾のもとに駆け寄る。
「どうしたの?」
「小鷹さん……もう歩かせた方がいいんじゃないかな? いつまで経っても埒が明かないし、次のバッターと勝負すれば……」
その言葉に私は首を振る。
「あり得ないでしょ!! このまま我慢比べをしていれば、先に折れるのはあっちよ? それなのにわざわざ歩かせて、塁が埋まった状況で上位打線を相手するなんて……馬鹿げてる」
私は瀬尾を諭すように語りかける。
「瀬尾、あんたのボールはそう簡単には打たれない。受けてる私が保証するわ。次のボールからはストライクゾーンにストレートを投げていきましょう。四球で無駄なランナーは出したくないし、変化球を続けてまっすぐへのマークも緩んだはずだから」
そうして私は守備に就いた。でも……あの時もう少し瀬尾のことを見ていれば、話を聞いていれば。異変にも気づけたはずだったのに。
☆
『ファウル!』
……結局、麻生はストレートにも食らいついてきた。でも、負けちゃいないわ。もう一度ストレートよ!
このサインに瀬尾は頷く。セットポジションから、普段と変わらないフォームでボールを投げた。
「えっ!?」
投じられたのは、明らかにストレートではないスローボール。そんな遅い球が、真ん中低めに向かってくる。打たれる……!
『ブンッ!』
しかし意外にも麻生のバットは空を切った。私も驚いたが、麻生もまた目を丸くしている。
『ストライク! バッターアウトォ!』
……結果オーライ! ランナー2塁のピンチ、しかもあかつきの代打攻勢を三者三振で切り抜けた。この上ない内容じゃない! 失投についてはお咎めなし……にしてやるか!
そんな、柄にもなく浮かれていた私のところに瀬尾が歩み寄って来る。
「瀬尾! よく投げたわね!」
賞賛を受けたというのに、それに相応しくない深刻な表情で、瀬尾は言った。
「ごめん……大事な話があるんだ。後でベンチ裏に来てくれない?」
青ざめた顔をしてそう言った彼の右手の指先は、小さく震えていた。