ニルフィとアネット。彼女たちの最初の激突にはそれぞれ違う思惑があった。
しかし甘すぎる。
アネットを、かつての暴君を正面にしていながら殺す気のない攻撃など、悪手以外の何物でもない。
光刃と鉄扇が衝突した瞬間、それが明白になった。
ーー流……せない!?
あっさりとニルフィの腕は弾かれる。余波によって小柄な体が大きくぶれた。その姿は嵐に煽られる枯葉のようで、圧倒的な爆発力に成す術などなかった。
炎が眼前に迫ってきたことで強引に身を捻り後方へ跳ぶ。
「……ッ!」
服のお腹の部分が灰となりボロボロと砂の上に落ちた。少しでも遅れていればと思うと脚が震える。それを堪えて分身や幻影を生み出していき、砲台となる霊圧の塊をそれらすべての周囲に展開する。
アネットを中心として半径三メートルの位置から集中攻撃。幾本もの光の束が炎の壁を削らんと放たれるが、純粋な霊子の雨あられすらも灰となり余波によって散らされる。
まだニルフィは迷っている。
「…………」
覚悟は、できたハズだったのに。さっきとは別の苦しさが胸を締め付けた。
ーー私は……ッ!
噛み締めた奥歯がギシリと鳴った。このやり場のない感情をどうすればいいか解らなくなる。解らないまま、体だけは本能に従って強者を排除しようと勝手に動くのだ。
通常の技を使うだけでは力不足。
ならば、やることは簡単だ。
フードを目深に被り、さらに膨大な霊圧を練り上げて複数の技を強引に融合させた。
ググッ、と重心を落としたニルフィがその場から掻き消えた。
そして砂漠を包んだのは広範囲に渡る霧の海。朽木白哉を完封することが可能であった少女特有の
ニルフィは霧の奥から縦横無尽に蹴りや殴打を撒き散らす。その手足に込められた霊圧が空気を破裂させ、その破壊力すべてが霧を伝播してアネットに襲いかかった。それは白哉に対して使ったようなじわじわと甚振るものではなく、たったそれだけでほとんどの戦いに終止符を打てる代物だ。
しかしそれで仕留められるならば、アネットは
霧の中央から生まれた間欠泉のごとく空へと届く火柱。どれだけの特異性があろうと霧で炎に勝てるはずもなく、紅色の空白がミルク色の世界にできあがった。
衝撃を伝えるための触媒が消えたことでニルフィの攻撃が無効化される。
そのことに、ニルフィは眉をしかめる。できるならば先の攻撃で決着をつけたかったのだ。
「ハァ……。ちょろちょろチョロチョロ、
「ーーッ!?」
自分を取り囲む霧をイライラと見たアネットがしたことは、震脚ともいえない軽い足踏み。
だが背が粟立ったニルフィは本能的に空中へと跳んだ。その行動が命を救ったと気づいたのはすぐあとだった。そよ風のように足元すれすれを獄炎の薄い波が通り過ぎる。アネットを中心として波は広がっていき、しばらくして消え去ったあとに残ったのは白い砂漠ではなく、滅んだ世界を体現するような灰色の世界と化した光景である。
あれをまともに食らっていれば両脚が消えていた。
しかしニルフィに息つくヒマもない。
アネットの視線がニルフィを捉えている。しかしそれは正確ではないだろう。視線がぶつかることもなく、アネットはニルフィが
広範囲の空気を焦がす炎の奔流を身を捻ることで回避し、ニルフィは霊子の足場を踏み台にしてアネットの方向へと弾丸のように突き進む。わずか数瞬のこと。アネットは顔を上げたまま、少女を仕留めたかどうか確認できていない。ならばこれこそ好機。霧を引き連れ、
鎧のごとく女を守る炎の間隙を縫うようにし、霊子を込めた蹴りを振り抜いた。
背骨を狙った凶悪な一撃。しかし殺すことはしない、そんなーー腑抜けた手段がアネットに通用するはずもなかった。
「くぅッ!?」
アネットの背に炎が
予想だにしなかった行動にニルフィの回避が遅れ、獄炎によって押し返さてしまう。
辛うじて顔を腕で守った。だが肉体の表面が灰になる苦痛がニルフィを襲った。砂漠の上に転がったニルフィは悲鳴を上げる。
涙で歪む視界の中で、炎の壁から腕が伸びたのが見えた。
ガッ、と無造作に首を掴まれ、はずそうにも万力のような握力で喉が潰れそうになった。
「カ、ァ……ッ」
「もがきかたも道化みたいね……。このままポッキリ逝くってのも楽でーー!?」
悪あがきのように、指に霊子の針を生み出すとそれらをアネットの腕に突き刺す。その途端、霊子の針が弾け飛び、内側からの破壊によってアネットの片腕が破裂した。
舌打ちと一緒にはずれる拘束。そのまま砂漠に落ちかけたニルフィ。しかし眉をしかめているアネットによって、はるか後方へとボールのように蹴り飛ばされる。途切れかけた意識は、蹴られた箇所の激痛で皮肉にも繋げられた。
砂の上で
「甘い。まるで甘いですよ、ニルフィ。アタシの喉を狙うくらいじゃないと。こんな絶体絶命の状況でありながら、まだアタシを殺さずにすべて解決できると思ってるのかしら。そこまでバカだったとは思えないけど」
そう言いながら、アネットは肘から消失した片腕に軽く力を込める。
獄炎がそこから伸びるとあとには元通りの腕が残った。当然ながらアネットは超速再生を使えない。そもそもが、こんなデタラメな光景もまた彼女の能力ゆえである。
“破壊”と“再生”
それこそがアネットの炎のチカラだ。
なにも炎によって燃やされた物体は本物の灰となったわけではない。炎と接触した瞬間に物体を構成する霊子はバラバラに分解されることで、それはコンピューターにたとえるならばデータを破損させゴミにさせるような行為に等しい。だからこそ灰に見えるものすべては、強制的にデリートされた意味のない情報そのものだ。ヒトであろうと無機物であろうと、そして純粋な霊子であろうと、すべては同一の存在と成り下がってしまう。
“破壊”が分解であれば、“再生”は構成としてもいい。
欠損部分を霊子で即座に組み立てることで、まるで何事も無かったかのように傷が消えていく。
これこそがアネット・クラヴェラの、能力。
「ゲホッ……、ケホッ。……おかしいよ、そんなの」
搾り出すようにニルフィがうめく。
「キミたちにとって邪魔なら、私は
「所詮は口約束でしょ。それにあなたが『殺し合いはヤダー』とか言うのは、アタシを殺したくないからって心の裏返しですか?」
「…………」
「それが
ニルフィが得たのは生きることへの渇望であり、他者を、それも特に親しかった仲間を殺すことではない。少女には覚悟が無かった。まだ平和的な解決をすれば、またもとの日常が戻ってくると心のどこかで望んでいるのだ。
ふらふらと立ち上がったニルフィは体に霊圧をまとわせる。
割り切れない彼女の内心を表しているかのように、その霊子は
ーーーーーーーーーー
「そろそろドンパチやってる頃か……」
十枚限定で発行され、血で血を洗う奪い合いの末に獲得したプレミア写真を懐に仕舞い込みながら、気の抜けた声で蛇男が呟いた。
おそらくアネットは外で戦っているのだろう。そして、それは間違っていない。
彼女は唯一、
実際そうなったことがある。怒りを静めることができる少女は消えたあとであり、暴君のチカラはただ理不尽だったと刻みつけられた。
「女同士の戦いなんてローションの上だけでニャンニャンやってればいいのになァ」
「そりゃお前の多大な趣味が入ってるだろ」
ムッツリな腐れ縁に呆れたようにして隣を歩く犬頭が返す。
だが蛇男は肩をすくめるだけだ。
「まァ、平和で終われば万々歳って言いたいのさ。綺麗だとか醜いとか以前に、そもそも起こらなければイイんだよ」
「たしかに一理ある」
「だからな、ローションにまみれた美女と美幼女ってイイよなって話に繋がるワケでな」
「ヒュー、思わず舌打ちしたくなるほどバカが隣にいるぜ」
一回こいつは死んだほうがいいんじゃないか。いや、俺が殺したほうが世間のためになるんじゃないのか? と犬頭が考え始めたところで、覚えのない霊圧が急速にこちらへと接近してくることに気づいた。
「おい」
「……ああ」
ふたりは通路の影に身を隠し、その霊圧の主が通り過ぎるのを待った。
爆走と評したほうがいいだろう。犬頭たちに気づいた様子もなく、自分たちを跳ね飛ばしたアネットにも迫る勢いでソイツは去っていった。
「ありゃ、ジャパニーズマフィアの親玉かよ」
犬頭は悪態をつき、走り去っていく死神の背中を見送った。
グリーゼに対して石田たちが持てる手段は早期決着である。必要以上に長引かせてもデメリットしかなく、それは言われずとも誰でも理解していた。
立ちふさがる長身の
グリーゼは巨大な
そこへ茶渡が一気に間合いを詰めた。両腕は異能の発現により変化しており、茶渡は黒い左腕、
剣を捨てた右手でその一撃をグリーゼが受け止める。生まれた余波によりグリーゼの背後で舞っていた塵が、口を開けた髑髏のような形になった。その一撃は並の
グシャリ、と茶渡の鎧に包まれた左手が握力だけで握りつぶさた。
反射的に茶渡は右手の
水風船が破裂したような音。
さながら大砲の弾のごとく、茶渡の巨体が踏み越えた線の向こう側に吹き飛んだ。
「……脆いな」
彼にとって、人間の渾身の一撃などその程度しかなかったようだ。
ーーあれは、武器が変わったのか!?
雨竜は茶渡が倒されたのを尻目に見ながら冷や汗を流した。最初は大剣から
そして次はーー雨竜への当てつけなのか、グリーゼが構えたのは剛弓である。
「くっ……!」
弓を引くのは同時。そして弦を放すのも同時だった。
最初と同じように弓の雨で対抗しようとした雨竜。その連射数は最大で1200発の連射が可能である。しかし一瞬にして全弾を撃ち尽くすワケではない。雨竜とは違いたった一発、しかしグリーゼの放った超高密度の一本の矢を撃ち落とすことはできなかった。
雨竜の肩を巨大な矢が貫通する。
肩を押さえて激痛に歯を食いしばりながら、自分の矢が少しは当たったおかげで相手の矢の軌道がずれたことを幸運だと思った。でなければ、巨大な矢は自分の頭部を違いなく撃ち抜いている。
ーー当たったのは、向こうも一緒のハズ……!
最初と違い剣で叩き落とすことなどできなかっただろう。ならば、グリーゼにもいくらか矢が刺さったはずだと目で確かめた。だが現実は無情だ。
「クソッ……、最初から避ける必要も無かったのか……!」
弓を構えたままのグリーゼは見るからに無傷である。
「……霊子の矢、か。珍しいな、今の時代に
「だったらどうしたんだ」
「……悪いが、先に殴り飛ばした人間より、どうやろうとお前では俺に勝てないと判断する」
どういう意味かと口を開きかけた雨竜は瞠目する。
グリーゼの左右にペッシェとドンドチャッカが接近していた。彼らはそれぞれ、霊子で構成された剣と鬼の金棒のような武器を手に、双方から攻撃によって派手な爆発を引き起こす。
吹き上がる煙の中、ペッシェがどもり気味に声を張り上げた。
「フ、フッハハハハ! 我が刀である
ポージングを決めかけたペッシェが、脳天を潰しにかかってきた
「……少なくとも、なんだ?」
「む、むぉうっ、そ、そのっ」
武器で防御したらしく無傷のグリーゼに、ペッシェが顔を青ざめさせた。
「ーー不意打ちの
とっさに口から吐いた触れたものをぬるぬるにした液体は、
「カッコつければ倒せると思っていたがそうではないようだな!」
「全然攻撃が通らないでヤンス~!」
「…………ッ」
予想以上にペッシェたちは戦えるようだが、グリーゼの戦闘能力はそれを軽く超えている。
早くも倒された茶渡のことも心配だ。やはり時間を掛ければ掛けるだけ、どんどんこちらの不利になっていくだろう。これで相手が
出し惜しみは悪手。そう確信した雨竜は厳しい表情でペッシェたちに質問する。
「ペッシェ。……あいつを何秒、足止めできる?」
「ゼロ秒だな」
「そこは嘘でも少しなら可能だと言って欲しかったよ」
彼らの視線の先ではグリーゼが
「だが、雨竜よ。そう言うならばなにか秘密兵器っぽいモノでもあるのか?」
「それは……準備に時間が必要なんだ」
「信じてもいいのか?」
「…………」
「そう暗い顔をするな。それこそ、愚問だったな。我々に手を貸してくれる者を信じないのはまさしく侮辱だ」
普段ネルには見せない真剣な表情で、ペッシェがドンドチャッカに顔を向けた。
「いくぞ兄者!」
「いつでもOKでヤンス!」
次の瞬間、ペッシェがドンドチャッカの肩へと飛び乗りーー二人はそれぞれの前面に収束させた霊圧を共鳴させ、周囲の霊子を取り込みながら数倍にまで増幅させる。
「貴様に頼らずとも、コレで決めてくれる!」
そして二人が同時に叫んだ。
刹那、圧縮された霊力が一気に放出され、通常とは比べ物にならない威力の
グリーゼが
彼の長身は閃光に飲み込まれて視界から一時的に消え去る。
修練の末に生み出したペッシェたちだけが使用できる新たな
「ば、馬鹿な……!?」
しばらくして、煙幕のなかで未だに立っている影が見えたことでペッシェたちは狼狽えた。最高の切り札を切ってなお、グリーゼを倒すには至らなかったようだ。
しかし、まだ切り札を持つ者はいる。
「ーーいや、十分だ」
時間は稼げた。雨竜はグリーゼより少し離れた前方に現れながら、指に挟んだ銀筒を傾けようとしていた。
それは、
準備に時間が掛かるために普段は使えないが、発動するならば現在雨竜の所持している武器の中で最大の攻撃力を発揮する。
ペッシェたちの攻撃で怯んでいるのか煙幕の中から動かないグリーゼを中心とし、暴走に近い形で破壊の光が満たされた。
冗談でもなく、
だからだろう。
雨竜たち侵入者全員が勝利を疑わなかったのは。
鳥が鳴いたような甲高い音がした。風を切る音だ。そちらへ目を向けるとペッシェたちが胴から血を噴き出して砂漠へと崩れ落ちていく。白い砂が赤く染まった。そこで、その赤には自分の全身に空いた風穴から流れた血も混じっていることに、雨竜は気づいた。
弓を取り落としながら、雨竜が倒れこむ。
「……お前たちの危険性を見誤った。防衛から迎撃に変更する」
死覇装からホコリを払いながら現れる、負傷すら負っていない巨大な
ーー無傷、だって……?
現実は非情だ。雨竜たちの決死の攻撃はわずかたりとも届いていない。
それこそありえなかった。いくらグリーゼが強かろうが、あれほどの攻撃を喰らって服も含めて無傷で済むはずがない。なにか、能力でも使わない限り。
ーー失念していた!
そこで雨竜は己の失策を悟った。
彼はグリーゼのことを直接攻撃タイプの
ここで倒れるわけにはいかない。
だが質量を減らした体では起き上がることもままならなかった。
グリーゼは嘆息する。無謀に挑んできた地に倒れふした眼鏡に目をやり、そして、自分の剣を受け止めた刃こぼれの激しい刀を手にしたーー眼帯の男を見下ろす。
「……その羽織、隊長格と判断する」
剣戟の衝突によって空気が、チリン、と眼帯の男の十一本に束ねられた髪の先端を飾る鈴を揺らした。
「……お前が探している相手はここには居ない。立ち去れ」
「いや、てめえのことも探してたんだよ。恋次を斬った奴がどういうのか知りたかったんだ」
「……男に探される趣味はない。最終警告だ、立ち去れ。必要ならばそこで転がっている人間を連れてな」
「ハッ、なら尚更引けねえな。てめえの剣を受け止めてるから解るぜ。ーーてめえが強え野郎だってことをなァッ」
眼帯の男ーー十一番隊の隊長が喜色に染まった叫びと共にグリーゼの剣を弾き返す。長ドスに変えた斬魄刀でグリーゼが迎え撃ち、鍔迫り合いとなった。
「
剣八は歯をむき出しにするようにして笑う。
そして、これでもかというほど明確に、己の目的、欲望、存在意義ーーそうしたものを全てひっくるめた言葉を口にした。
「てめえを……ぶった斬りに来た」
首をゴキリと鳴らしたグリーゼが簡潔に返す。
「……グリーゼ・ビスティーだ」
剣八と違い、グリーゼには目的というものがなかった。
何かを成し遂げたいという欲求も無ければ、野望すらなかった。
さながら機械のごとく、言われたことを言われたままにこなす、そんな表現はやはり従者の鏡ではあった。
だからこそーー。
「……仮に俺を斬り捨てたあとは、どうするつもりだ?」
「あ? そりゃあ」
剣八が答えようとしたした時、壁の向こう側から空気を鳴動させるような霊圧が伝わる。足元の砂が逃げるようにして煽られていた。凄まじいという言葉ではとても足りないような暴君の覇気が、肌を痛いほど突き刺していく。
それに死神も気付いたのだろう。
獣そのものを体現するかのような歯をむき出しにする笑みを浮かべ、首をそちらへとしゃくる。
「向こうにも強そうな奴がいるじゃねえか。てめえを斬ったあとも、まだ楽しめそうだ」
「……そうか」
さらに斬魄刀を変化させたグリーゼが手にしていたのは、穂先が一メートル以上もありそうな
「……俺の倒れる理由は、どうやら無くなったようだ」
脅威となる存在をこの先に進ませない。
たとえ誰であろうが物語の筋書きを乱すのなら、あるいは邪魔しようなどと無粋な真似をするならば、機械的に破壊するのみ。
「ーー排除する」
規格外と規格外の対戦カード。
広大な城の一角で、戦いの火ぶたが切られた。
ーーーーーーーーーー
そこから少し時間が戻り、再び視点は
ニルフィの死覇装はところどころ消失している。肌が露出している部分も多くあった。常時霊圧を放出することで炎を一瞬だけ防ぎ、紙一重で回避しながら立ち回っているのが戦いに均衡をもたらしている。それもいつまで続くのだろうか。
だが、自分は生きなければならないのだ。
炎の間隙を縫うようにしてアネットに接近する。
霊圧で炎をふき飛ばし、神速にものを言わせて間合いに入り、右手の
アネットの喉を切り裂こうと彼女の顔を見て、
「ッ~~~~!!」
好きだと言ってくれたとき。優しく抱きとめてくれたとき。より深く愛してくれたとき。
今までの思い出が頭にちらつき、朱色の髪を
逃げるようにしてニルフィは炎の壁から離脱した。
右腕が腰のうしろに引っ掛けた斬魄刀の柄に当たった。悪魔が耳元で囁く。使えばいい、と。出し惜しみしてアネットを無力化しようなど最初から無理だったのだ。
しかし聞くだけで恐ろしい言葉に従いたくなかった。たとえ解放をしたところで、アネットを倒せるか解らないと思考の逃げに徹した。
「逃げてるだけじゃ、本当に逃げることには繋がらないわよ」
思考を読んだようにアネットが言った。
「それともアタシを確実に殺せることを考えてるってワケ?」
「……そんなこと!」
「じゃあさっさと死んでくださいよ」
また頭痛がする。苦しくて悲しかった。暑さ以外の原因もあって気持ち悪い冷や汗が止まらない。
今のニルフィは辛うじてアーロニーロとの約束を守るために立ち上がっている状態だ。それはあまりにも細い糸であり、本来ならば心が壊れていてもおかしくなかった。
少女は迷い続けたまま炎を避け続けた。
しかし唐突にアネットを守っていた炎が
アネットが軽い動作で手を広げた。
「ほら」
「なに、してるの」
「裏切ったアタシのことが憎いんでしょ? だから、好きに壊しても構わないわよ。そのあとあなたは他の
「……嫌だ。嫌だよ、そんなこと、したくないよ」
「そういう可愛いセリフは刀に手をかけないで言ってほしいですね」
おそるおそる、ニルフィは自分の右手を見下ろす。強く柄を握っている腕は今にも刀を抜きそうで、ニルフィは短い悲鳴をあげて慌てて放した。自分のカラダが自分のモノでないような恐怖がある。心の底で渦巻く殺意がはっきりと意識できてしまった。
「なんで」
表面では殺したくないと言いつつも、ニルフィは本能からもアネットに殺意をぶつけていたようだ。
これ以上アネットの言葉に耳を貸してはいけない。
それでも内なる殺意は今にも爆発したさそうに、強制的に見たくもない現実を突きつけてくる。
「ま、そういうことよ。裏切ってるアタシを薄情に思ってるだろうけど、こうして泣きながら牙を剥いてるあなたも薄情ってコト。少しのきっかけさえあればアタシを殺せるから、なんて思うと怖いですねー。こんな娘と今まで一緒にいたなんて」
「…………」
「別にアタシを殺すことに心を痛めなくてもいいんですよ? こっちは
限界だった。ニルフィは歯をむき出しにして噛み締める。憎悪で歪んでいるのか大義名分を得たから
一時的に視界が暗転する。
けれど聴覚だけは生々しい音を伝えてくる。
それからゆっくりと視界は色を取り戻していき、
「……あ」
血に汚れた自分の手を見下ろした。
アネットを押し倒し、腹の上に馬乗りになっていた。ニルフィの右手はアネットの心臓に突き刺さり、左手はもうしゃべらせないようにするために無意識にやったのか、少し前に躊躇した喉を切り裂いていた。
噴水のように吹き出した血がニルフィの顔を盛大に汚す。
殺した。殺してしまった。自分はいとも簡単に好きだった相手の命を奪ったのだ。
段々とアネットの目から光が失われていく。
「ひっ」
紅色の目がひどく恐ろしいもののように見えて、言葉を知らない子供のように悲鳴が喉の奥から出る。今更ながらの自己満足な後悔が押し寄せてきた。
そのままもがくようにして一歩でも死体から離れようとし、
「ーーはい残念」
突然頭を掴まれて砂に押し付けられた。
「ッ!?」
そのままニルフィは頭から砂漠に何度も叩きつけられてゴミのように投げられる。
しかし今はそれどころではない。
喉が裂かれ、穴の空いた心臓を空気に晒している女が、まるで何事も無かったかのように立っていた。
「どうして……」
「どうして? 殺そうとしておいてその言い草はないでしょ」
切り裂いた喉が炎に包まれると完治した。さらに心臓のあった場所も同じように炎が揺らめくと、死覇装までも数分前と同じ状態に戻っている。
ーーまさか、そこまで……。
なぜアネットがわざとらしい隙を作っていたのがようやく解った。
簡単なことだ。心臓を潰そうが、おそらく脳を破壊しようが、アネットはそれさえも再生してしまうのだ。それをわざわざ見せるためにニルフィに一度殺されたのだろう。
これこそが、ザエルアポロの語った“不死”の正体である。死という概念がなければ、最初から死なないのだから。
「ただの余興ですよ。アタシを殺す殺せないで葛藤してるトコ悪いですけど、そもそもあなた程度がアタシの命を普通に奪えるワケがない。でも殺しにかかってきたのは素直に評価してあげるわ」
憂いを帯びた瞳で暴君が見下した。
「でも、仲良しごっこなんて、もう終わりにしましょう」
広げられた鉄扇を交差し、過去を再現するようにあらゆる感情に塗りつぶされた声で、紡ぐ。
「ーー