(まだ、やるべきことがある)
遠ざかるVTOL機を確認した当麻は、自らその救いの手に背を向けた。
半径40キロを超える『ベツヘレムの星』が地上に落下すれば、この地球にどのような被害がもたらされるか、見当もつかない。
それに、インデックスの遠隔制御霊装が、フィアンマの手から落ちた後、この要塞のどこかに転がっているはずだ。それを探そうと考えていると、声がした。
『とうま』
フィアンマの手から離れても、霊装はまだ起動していた。ただし、誰の手にも収まっていないため、ここにある意識が漂っているのだ。
『どうして脱出しなかったの?』
「何も終わっていないからだ」
当麻はそう答えながら、要塞の中を走った。目的地は、少女の存在が教えてくれる。
「お前の霊装のこともそうだけど、この要塞そのものの面倒も見なくちゃならないからな」
そう、上条当麻の行動目標は終わっていない。
この馬鹿げた戦争は、未だ終わりを告げていない。
「必ず、戻る」
そう約束した後、彼はこの要塞と通信するための周波数を彼女に教えた。スピーカーのロシア語は読めなかったが、その部分の数字だけは理解できた。
「イギリス清教の方に伝えてくれ。周波数50.9MHz。これでここのスピーカーと繋げられる」
これだけの大質量を安全に落下させる方法など、見当もつかない。きちんとした組織のアドバイスが、必要だ。
『できないよ。……私は自分の意志で、体に戻ることができない』
「だよな」
彼は忌々しい円筒型の霊装に手を伸ばす。
「だから、一足先に戻ってくれ」
霊装が破壊されたのと同時に、半透明の少女の体も薄れて消滅した。
それは、最後の戦いの始まりを意味している。
勝利の報酬として差し出されたのは、この惑星の命運だった。
ローマ正教とロシア成教が開示した資料によると、『ベツヘレムの星』は合計20基の大型上昇用霊装で空中を漂っているらしい。
しかし、動力源であったフィアンマを失ったことで、連鎖的に『ベツヘレムの星』の浮力は減少しつつあり、このままでは1時間後に完全に浮力を消失、地表へ自由落下していく計算だ。
そのため、大型上昇用霊装を破壊すれば、落下の向きと進行方向を制御することが可能である。つまり、
『詳しい位置は口頭で伝えるが、南方にある3番、9番、13番を破壊するんだ。北極海の端まで向かわせろギリギリまで速度を落とし、水面に着水することで衝撃を殺す』
「大型上昇用の霊装を壊すことで、かえって落下速度を速めることにはならないのか?」
『動力源は同じだ。数が減れば、ひとつごとの出力が増す。かえって、間引いた方が瞬間的な出力は上がるかもしれないな』
目的の3番霊装は、まるで工場のようだった。太いパイプが何十本も並び、中には金属製の階段や通路が並んでいる。
バン! と当麻がそれに右手を叩きつけると、パイプに無数の亀裂が走った後、内部で連続して爆発が発生した。それに巻き込まれないうちに、当麻はその場を駆け出す。
その時。
突如として、その場に虹色の輝きが現れた。そして、そこから1人の少年の影が姿を現す。
その姿は、よく知っているものだった。
「駿斗……!」
「よう、当麻。親友がわざわざ迎えに来てやったぜ」
当麻の記憶では、駿斗はあらゆる能力を使うことはできても、空間移動系統だけは『理解できても使うのは難しい』と使用を避けていたはずだった。にも拘わらず、いきなり上空数千メートルへの転移を成し遂げていることに、違和感を覚える。
「当麻、今はどんな状況なんだ? フィアンマの野郎は倒したんだろ?」
「ああ……それよりも、今はこの要塞を無事に着水させたい。駿斗も協力してくれ」
彼らは、共に次の9番霊装まで走り出した。駿斗が先に行くことで、最短距離を移動する上で邪魔になるものを排除し、移動をより効率化していく。
9番霊装を目の前にした2人は思った。ようやく、この長い戦争も終わる。でも、最後にはなんとかなるんだ、と。
しかし、
『何だこれは……。巨大な……
スピーカーから、ステイルの焦ったような声が聞こえた。
不吉な予感が、2人の中で増大する。
『何で今更、ミーシャ=クロイツェフが浮上しつつあるんだ!?』
そのころ、ロンドン、聖ジョージ大聖堂では、20歳程度のシスターがうめき声を上げた。ロシアの魔術的な力の流れをモニターしていた人間だ。
ミーシャ=クロイツェフが、北極の氷を手に入れようとしている。
「新たな力を……いや、肉体を補充するつもりか」
あの天使が北極の氷を溶かしてしまったら、北極海に面する地域では大規模な津波に呑み込まれる。
しかも、今のミーシャ=クロイツェフは手綱が握られていない状態だ。それが、今以上の力を手にした場合、どれほど被害が拡大するのかも分からない。
そもそも、この世界にある物質だけで、神が作った大天使の全容量を抱えられるとは思えない。『
つまり、この世界にある物質で構成された肉体に新たに莫大な天使の力を流し込めば、耐えきれずに大爆発を起こすはずだ。
北極点を中心にした、惑星の起爆。
最低でも、北半球の生命体は死滅。下手をしたら、その衝撃で惑星の公転軌道そのものに影響が出る恐れもある。そうなれば、地球は海が干上がるほどの灼熱の星になるか、あるいはすべての海が凍り付くほどの極寒の星になるか。
(しかし、どうやって止める)
旧来のミーシャでさえ、全ての力を結集したところで、食い止められるかどうか分からない。かといって、手をこまねいていれば、破滅的な結末を迎えてしまう。
その時。
「……おい、何をしている?」
ステイルは思わず呟いた。
『ベツヘレムの星』の落下軌道が変化している。
要塞に不具合は見られない。それは、明確に制御を握っている者の手で、安全なルートを外れていた。
そう、ミーシャ=クロイツェフへとまっすぐに向かっていたのだ。
高速で移動する大天使は、進路上の白い雪を吸い上げていた。そのため、その移動の軌跡がはっきりと地表に残っていた。
その進行を止める者はいない。魔術らしき光を飛ばす影もあったが、ただ通過しただけで、攻撃ごと人間も吹き飛ばされた。
大天使が、沿岸から北極海へ到達する。
同時。
真上から、『ベツヘレムの星』がそのまま落下した。
大天使ごと、要塞が海に落ちた。その上を、二人の高校生は懸命に走る。極寒の海水が流れ込んでくるのも気に留めず、ひたすら。
その先には、月のような青白い光があった。
ここに来るまで、いろいろなことがあった。
かつて救えなかった教え子を守るため、大勢の学生を利用しようとした先生を、電撃の少女と止めた。そのすぐ後に、白い修道服の少女と出会い、魔術との邂逅を果たした。特別な『血』を持つ少女を助けるため、錬金術師と戦った。電撃の少女とその妹達を助けるため、暗部組織と命がけの戦いをした。その中で見つけた幼馴染の少女を『裏』から『表』の世界へ引きずり上げるため、第四位の
そして今。
それらの行動で、少しでもこの世界のくだらない幻想を打ち砕き、優しい幻想を生み出してきたと思っているから。
最大の敵、大天使に向かってまっすぐ突き進むことができる。
(……確かに、この世界はいつか滅んでしまうのかもしれない)
惑星にだって寿命はあるし、その前に地球の表面から生き物がいなくなってしまう可能性の方が高いのかもしれない。
でも、
何も、こんな悲劇的な結末じゃなくてもいいはずだ。
そいつを食い止めるために、戦ったっていいはずだ。
ドン! と3つの影が一か所で交差した。
そして。
10月30日。
ローマ正教とロシア成教。
イギリス清教と学園都市。
ふたつの勢力が争った第三次世界大戦は、終結した。
終戦間際、北極海に要塞『ベツヘレムの星』の着水を確認。しかし、沿岸部での若干の水害があったものの、死者は確認されなかった。
着水の時の衝撃で要塞は完全に崩壊し、同時にミーシャ=クロイツェフの消失も確認された。
――そして、同海域における十字教三大宗派の連合捜索隊の努力も虚しく、水温2度の海水の中から生存者が発見されることはなかった……。
逃げるためのアシを探さなければならない。
浜面仕上は、太い枝を使って雪を掘っていた。『細菌の壁』をしかけた工作部隊が使っていた車が、学園都市による空爆で雪の下に埋まっているはずだった。
結局、何も見つからなかった。
細菌兵器の散布の阻止、第4位との戦い、
その結果だけ見れば、凄まじいものだった。しかし、肝心な『学園都市との交渉材料』が見つかっていなければ、本末転倒だった。
「はまづら。これからどうする。襲撃部隊が使っていた『仮面』でも回収して、交渉材料への足掛かりにする?」
「拾えるもんは拾っておくけど、たぶんそれだけじゃ足りない」
「私の血を保険にしよう」
麦野も太い枝を動かしながら参加する。
「第4位のDNAマップよ。私たちそれぞれで持っておけば、けん制できるチャンスが増えるかもしれない」
「……クソったれ」
すると、浜面が別の方向を向いていることに、彼女たちは気が付いた。他の6人も、その方向へ視線を動かそうとする。
その時、ザザッ! と雪を蹴散らす足音が複数響いた。気づいた時には、周囲10メートルほどを、半円状に男たちが取り囲んでいたのだ。白い服装で統一された暗殺部隊は、カービン銃を握っている。
麦野沈利や『仮面』の男たちに比べれば、今回は非常にシンプルな構成をしていた。しかし、女性たちは一層嫌な表情をしていた。
「AIMジャマー……最新型を超投入してきましたか」
物理攻撃を完全に防ぐ最愛の能力さえ封じてしまえば、あとはどうとでもなる、ということだろう。最愛以外に防御能力を持つのは霧丘だか、彼女もそこまで得意ではない。
となれば、霧丘が3人ほどの銃を封じたところで、他の3人は倒れることとなる。そうなれば、霧丘も複数の方向から同時に打たれれば対処できない。
しかし、ここで倒されれば、この場にいるほとんどの人員は『回収』されることとなるだろう。そして、その中で利用価値が低いフレンダと浜面は、この場で処分される。
「……まったく、めんどうなことをしてくれましたね」
10人の男に取り囲まれる浜面達の前に出てきたのは、チョコレートのような色合いの、上品なスーツを着た女だった。ただし、その雰囲気を台無しにするような、フルフェイスのヘルメットを着用している。
「今後の『振り分け』は大体想像できていますね」
「……、」
「麦野沈利と滝壺理后、霧丘愛深は即時回収。絹旗最愛と黒夜海鳥に関しては、指示を待つということになるでしょう。フレンダ=セイヴェルンと浜面仕上に関しては難しいところですが……まあ、条件は合致しないでしょうねえ。そもそも、滝壺理后の基本的な運動性能は低い。精神的な枷を用意しなくても、コンクリートの部屋に隔離するだけで研究は進められますし」
「待て」
浜面は遮るように言った。
今の台詞には、確かに聞き逃せない言葉があったからだ。
「研究? 滝壺を? 麦野じゃなくてか?」
「少なくとも、そちらの人々は気づいているかと思いますが」
垣根帝督から抽出した『
しかも、その状態では滝壺は『体晶』を使用していなかった。
「本来は滝壺を『8人目』にする計画は『体晶』とは切り離されていたんですがね」
しかし、『
「……にも拘わらず、お前たちは滝壺の体をいじり続けた」
「あまりにも惜しい可能性だったからですよ」
それは、滝壺が麦野に行ったことを考えれば、当然だった。
『自分だけの現実』は、この世界にあらゆる能力・現象を生み出す源となるものだ。それを完全に制御できるということは、もはや学園都市で行われている能力開発を超えることを意味する。
学園都市よりもはるかに高度な超能力開発。
学園都市に対する、学園個人。
「元々滝壺には稀な『素養』があったのですが、開花させるのが難しかったんです。……けれど、これで『8人目』への道は開けました。あなたたちの美しい人間関係と、この過酷な戦争のおかげでね」
しかし、浜面はそれ以上に驚いていた。
『8人目』というインパクトに押されて隠れそうになっているが、絶対に看過できない言葉を。
「……元々、滝壺には稀な『素養』があった?」
震える声で、浜面は確かめる。
そう、
「つまり、
地獄よりも恐ろしい答えだった。
努力をして
なら。
生まれた時から無能力者と決めつけられた人間に、希望なんてあるのか?
麦野が、何かを思い出すように言った。
「……そういえば、おかしいとは思っていたわ。第三位が幼少期の頃に騙され、提供したDNAマップを基に軍用の体細胞クローンを量産する計画。……でも、
つまり、あらかじめ超能力者になることが分かっていたから、DNAマップの値が上がる前に手を打ったということだ。
「まあ、『
「……、」
「しかしまぁ、総合的に見ればプラスに働いているとは思いますよ。最初から伸びもしない人間の分を有用な能力者へ重点的に割り振った方が、はるかに効率的でしょう」
「こ、の……野郎……ッ!」
その言葉に激昂したのは、浜面ではなく麦野だった。
「つまり、浜面がこんな所まで落ちちまったのは、お前たちが勝手に諦めちまったからじゃねえか! 確かに、
そうだったら、浜面仕上は
「良いんだ。俺たちは『アイテム』だ。そのことに後悔はしていない
麦野が怒ってくれたことが、彼にとってはうれしかった。
「それより、気になることを言っていたな」
『素養格付』。
それは、学園都市中の学生を、どん底に突き落とすことになるだろう。そして、上層部が街の機能が止まるほどのリスクを望んでいるとは思えない。
「不確定な情報ならともかく、現物を手に入れる機会があるとでも?」
女の合図で、金属音と共にカービン銃が彼らに向けられる。
これで終わりだ。
「お前こそ、忘れてるんじゃないのか。俺が今立っている場所は学園都市じゃない。そもそも、俺は単なる
そう。
浜面は、超人的な力を持ったスーパーマンではない。
ピンチになった時、突如として謎の力が覚醒するようなご都合主義的主人公ではない。
ならば、彼がこの場から生き残る手段は、たったひとつ。
タァァァァン! と。
雪原に響いた銃声と共に、複数の肉体が地に伏せた。
「な……」
驚いた声を出したのは、ヘルメットの女だった。銃声と共に倒れたのは浜面達ではない。彼らを取り囲んでいたはずの、10人の男たちの内の数人だったからだ。
そう、彼らは気が付かなかった。盛り上がった丘の向こうに伏せるように、30人ぐらいの男女が取り囲んでいることに。
「生きているか、浜面!」
ディグルヴが叫ぶ。
その脇で同じようにライフルを掴んでいたグリッキンが、舌打ちをする。
「お前は逃げろっつったけどよ、結局みんなで舞い戻って来ちまったよ。お前を見捨てることはできないってな! で、そいつらがスチームディスペンサーを仕掛けようとしている工作部隊の仲間か!?」
「……ズレたことを言っているが、ありがとう。お前たちのおかげで命拾いをした」
浜面がヘルメットの女と話していたのは、単に情報を知りたかっただけでない。彼女たちの背後で、彼らがそれぞれの配置につくように動いているのが見えていたため、その時間稼ぎを行っていたのだ。
「……何故?」
しかし、ヘルメットの女は現状が理解できていないようだった。自分たちが窮地に陥ってしまったことが、信じられないのだ。学園都市は、ロシアに対して常に一方的な戦いを展開してきたにも拘わらず。
彼女たちは、敗北した。
なぜなら、
「学園都市が戦争の中で優位に立っていられたのは、大規模な連携行動で互いをフォローし合っていたからだ」
浜面は、その事実を突きつけた。
そもそも、学園都市が無敵状態なのだとしたら、彼らがこの場所まで逃げること自体、とてもできたものではなかったはずなのだから。
だが、これで終わりではない。
彼らによる浜面の始末と滝壺たちの捕獲作戦が失敗しても、学園都市はいくらでも増援をよこすだろう。それだけの価値がある『学園個人』なのだから。
だから、その前に片をつける必要がある。
「ディグルヴ、グリッキン。お前たちは白い戦闘服の連中を縛り付けて、妙な動きをしないように見張っててくれ。麦野たちは滝壺を押さえてろ。これからちょっと刺激の強いことをしてくるから」
「何を……」
何か言いかけたヘルメットの女を遮るように、銃声が鳴り響いた。浜面が拳銃を引き抜き、女の右ひじと右膝を一気に撃ち抜いたのだ。
「……100メートルぐらい先に、ちょっとした洞窟がある。続きはそっちでやろうか」
浜面は平たんな声でそう言いながら、女の襟首をつかんで引きずり歩き始めた。
「目標は『
「ひ、ひ」
「人間ってのは怖いよな。……大切な者を守る、って言い訳ができれば、どんなに残忍なことでもできる。今から人間がどんなに残酷なのかをみせてやる」
雪の上に倒れる
あの要塞から放たれた黄金の光と激突した後、どうなったのか分からなかったが、ギリギリでも最悪の破壊は食い止められたようだ、と彼は理解する。
回収に来た部隊の男たちは、彼をストレッチャーの上に乗せると、大きな分厚いベルトで固定した。彼もまた大きな抵抗はせず、そのまま巨大なヘリの中へと収容される。
派手な揺れと共に、ヘリが宙へ浮かんだ。
「あのガキどもは?」
「別動隊が」
短い返答に、一方通行はふん、と鼻を鳴らす。
「……なら、これだけ確約しろ」
そして、自分と同じように、何かしらを盾にして穢れ仕事を行うこともまた、気にくわなかった。そんなものは、自分から進んで行うような狂人に任せておけばいいのだ。
「何も分かっていないようですね。取引ができるような立場とでも?」
「オマエの方こそ、何も分かっていなェよォだな」
その一言に、防護スーツの研究員は警戒を深めた。念のために、彼は一方通行の電極のスイッチを確かめようと、その首元に手を伸ばす。
しかし。
よりにもよって、一方通行はその心理を逆手に取った。
研究員の指先がスイッチを押さえた瞬間、一方通行は首を大きく振った。そのことによって、研究員の指は彼の能力の引き金を引いてしまう。
ベルトが一瞬ではじけ飛び。防護スーツの男はヘリの壁に叩きつけられた。
「これは、交渉でも、提案でも、取引でも、懇願でも、協定でも、妥協でも、降伏でもない」
立て続けに、ヘリの壁が破られる。通常ならばバランスを失ってヘリが落下しているところであるが、それは一方通行自身が、その能力でバランスを保ってみせた。
一瞬で、機内を畏怖が支配し、その上に王が君臨する。
「凱旋だ、クソ野郎」
右方のフィアンマは、震える手で鉄の扉を内側から開けた。
全身を蝕むダメージのせいで、起き上がることもままならなかったので、転がるように外に出るしかなかった。
自らが作り上げた『ベツヘレムの星』は、すでに墜落したのかどこにもなかった。いや、戦争ならどこからか聞こえてくるであろう砲撃音すらない。静寂に包まれた真っ白な雪原だけが、フィアンマを包み込んでいた。
全てが、終わったのだ。
転落を続けているこの世界。しかし、こんな世界を生きて行けと、あの男は提示した。ただの綺麗事ではなく、フィアンマに最後の脱出の機会を譲ってまで、あの男は貫き通した。
なら、これからたくさん確かめてみろよ。
あの男の最後の言葉が、やけに耳に残った。
フィアンマから『聖なる右』そのものが失われたわけではない。しかし、明確に弱体化していた。克服した使用回数の制限も、復活してしまっている。
これから先の逃亡生活に、希望は見えない。
しかしフィアンマは、あの男から与えられた可能性を簡単には捨てられなかった。先のことは、先に進んでから決めればいいのだと、そう思えた。
だから、自分の足で、よろめきながらも立ち上がり、一歩目を踏み出す。
同時に、フィアンマの右腕が肩のところから切断された。
魔術の発動、その予兆を一切感じさせない一撃だった。己の象徴を失ったフィアンマは、白い雪に赤い血をまき散らしながら絶叫した。
異様な魔術師が、いつの間にか存在した。
長い銀色の髪に、表情が一切見えない顔。緑色の手術着をまとったその人間は、男にも女にも、大人にも子供にも、聖人にも罪人にも見える奇妙な雰囲気を持っていた。
右方のフィアンマはこの魔術師を知っている。
「……アレイスター=クロウリー……?」
「やはり『容器』を抜けると正しく認識されるらしい」
彼は、魔力の源である生命力を、生命維持装置を用いて機械的に生み出している。そのため、あらゆる魔術的な探査を逃れることができた。
しかし、その理論だとここにいる理由が説明できないはずだが。
「何もおかしなところはなかろう」
学園都市の中心部、窓のないビルの中にいなければおかしいはずの魔術師は、さも当然のように話す。
「シークレットチーフとの『窓口』としての役割を全うし、『黄金』の結社の設立にも協力したアンナ=シュプレンゲルという女は、最後には実在すらも怪しい存在と称された。……私もまた、シークレットチーフの一学説であるエイワスの『窓口』として機能していた者だ。となれば、〇と一だけで表現できる域を超えていたとしても、何ら不思議ではあるまい」
アレイスター=クロウリーという魔術師は、こうしている今も学園都市の中央に存在する。しかし同時に、この場所でフィアンマの前に姿を現してもいる。
クローンなどという陳腐なものではない。同一の人間が、複数の場所で同時に存在する。『
まさに次元が違う。
「……何故だ? 俺様にはできなかった。『神の子』と同じ、この世界を救うだけの力があったはずなのに。俺様にそれはできなかった」
「それは、力の質や量というよりも、使い方の問題に過ぎんよ」
アレイスターは、つまらなさそうに答える。
彼が記した『法の書』は、紐解けば十字教の時代は終わりを迎えるとされているが、彼にとっては完成した時点で十字教の時代は終わりを迎えていた。
アレイスターの言葉を借りれば、オシリスの時代からホルスの時代へフォーマットを移していたのだ。その点が違うというだけであり、そのほかは似ていた。
科学の力で異能をつくる。
その集合によって天使を築く。
それは単に人外の存在が誕生するということだけではない。この世界のシステムへ、根幹から干渉するということだ。
神が構築したものに、人為的に歯車をねじこみ、オルゴールを時限爆弾へと変えるような所業だった。旧時代であれば、考えるだけで処刑されるだろう。
「……エイワスは、そこまで魅力的な存在か」
聖書や神学では説明のできない天使。
『法の書』を授けるほどの異形の天使。
それが、アレイスター=クロウリーが求めたもの。
フィアンマの言葉に、史上最悪の魔術師は肯定も否定もしなかった。
「まあ、本来ここは私の出てくるべき段階ではないのだがね」
魔術史上最悪と称される魔術師は語る。
「ものの価値も分からんとはいえ、君は少々あの右手に深入りしすぎた。単なる『異能の力を打ち消す右手』として認識されていればよかったものを、君はその奥にあるものを垣間見ただろう。さすがに放置はしておけん。私の出る幕となったわけだ」
「奥に、あるもの……?」
「それは同時に、あの肉体に宿るものまで理解される可能性を意味している。おかげでだいぶ『回り道』をしなければならなくなった。……そうか、私という生き物は、月並みに怒りを自覚しているのかもしれん」
フィアンマが思い出すのは、あの少年の右肩を切断した時にあふれ出した『何か』。
先ほどもアレイスターが述べたように、フィアンマがやろうとしていたことは、似ていた。
異形の力で満たされた神殿を用意し、その中で右腕と特殊な肉体の力を精錬し、その力でもって位相そのものの厚みを再調整し、結果として世界を変ずる。
ただ、基幹となるフォーマットが時代遅れのものだっただけだ。
だからアレイスターは出てきた。フィアンマが起こした不出来な事件から、アレイスターの計画が逆算される可能性を、少しでも確実に叩き潰すために。
「そうか」
片腕のない状態で、しかしフィアンマはゆっくりと首を横に振った。
「……だが、もはやそんなことはどうでもいい」
その顔からは、これまでにあった熱のようなものが、不思議と全て引いていた。
この銀の男の顔を、おそらくはかつての自分と同じ表情を見て、フィアンマは自分がやってきたことの虚しさを覚えていた。本当に世界を救う男は、こんな顔をしない。
「……あの時、あの場所で、あいつは誰も追いつけん場所に立っていた」
自分に足りないものを、少しだけ理解したような気がした。
フィアンマは、出来損ないの『第三の腕』をかざした。己の血で輪郭が浮かび上がるそれは、もはや自らの意志で制御することもままならない。
「無駄だと思うがね」
対し、アレイスターは手の中にある杖を握るようなしぐさをした。そこには何もない。
しかし、フィアンマの目には、なぜか存在しないはずの銀色の杖を見た気がした。視界には映っていないはずなのに、気配や雰囲気といった未分類情報によって、『銀』という色がついているように錯覚したのだ。
究極の悪人とされたクロウリーが、純粋な尊敬から師と仰ぐことを決めた古い魔術師の伝説にある、一本の杖。
「無駄かどうかは問題じゃないんだ」
本当に助けたいという思いがあれば、勝算など二の次三の次にならなければおかしいのだ。そのことすら、自分は知らなかった。
踏みにじらせるわけにはいかない。
たとえ、正真正銘の怪物と戦うことになっても。
勝敗など、一目瞭然だった。
ただ、片方の影だけが、山の斜面を転がり落ちていった。
勝者はその影を見送りながら、空気に身を溶かし呟いた。
「……たかが十字教程度で、あの右手や
アレイスター=クロウリー。
かつて、イギリス清教の刺客の手で葬られたはずの魔術師。
しかし、彼の後継を名乗る魔術結社や彼自身の生存説に対処するため、クロウリー専門の部署は存続していた。
そして、
「反応ありました! 700秒程度ですが、この波長は間違いありません。魔術師アレイスター=クロウリーのものです!」
個別に設定していた探査用の霊装が思わぬ結果をはじき出したのだ。
部下からの報告に、イギリス清教
(……やはり、生きたりていたか)
やはり、と彼女は前置きをした。つまり、あの男の消滅を、彼女を信じていなかったのである。
この戦争において、イギリス清教は学園都市の味方をした。そのため、一見すれば戦勝国ではある。
しかし、学園都市が科学サイドの一強であるのに対して、イギリス清教は十字教『三大』宗派の一角に過ぎないのだ。
そのため、戦争が起こった場合には、イギリスは弱体化を余儀なくされると思われていた。それは、戦争に勝とうと負けようと、だ。第二王女などは、そのためにクーデターを起こしたはずだ。
しかし、ローラ=スチュアートはその答えを用意した。
戦勝国である学園都市から、何もかもむしり取れば良い。イギリス清教は対魔術師機関という役割を担っており、そして処刑した魔術師の財産を保管する権限があるのだから。
「……さあて。面白くなりけるのはこれからよ、統括理事長アレイスター」
学園都市のビルの屋上に、二人の人影があった。
「……楽しそうですね」
そう問いかけたのは、風斬氷華。普段怯えたような様子の彼女には珍しく、眼鏡の奥の瞳には眼光があった。
そんな彼女に対し、エイワスは両手を軽く広げて言う。
「愉快だとも」
正確には、愉快な時間が長引きそうで喜んでいる。
アレイスターの『
家畜は太らせてから食べるに限る。
「私の出現の有無に拘わらず、あの司令塔は長持ちしなかった」
だから、必要な強度を与えるためのヒントを与えた。
それもまた、彼が価値と興味を感じたというだけの結果だった。
「あなたはもう少し、人間というものを知った方がいいと思います。私たちの肉体は、彼らの力によって支えられたもの。……侮っていると、あっという間に胸を突かれるかもしれませんよ」
「何を言う」
エイワスは、風斬のその忠告にすら昂揚感を押さえずにこう答えた。
「もしも、本当に、脆弱な人間にそんなことができるとしたら……それもまた興味深い事例だとは思わないのかね?」
そして、少年たちの意志とは関係なく、時代は次なる場所に向けて動き出す――。
……という訳で。
以上が、『とある神谷の幻想創造』になります。
二次創作自体、この作品が初投稿だったので、いろいろ模索しながらの執筆でした。
言葉では分かっていたものの、小説を書くって大変なんだなあ……なんて、
月並みな感想を抱いたり。
ですが、たとえ大学の課題に苦しめられようとも、就職活動や卒業研究で
執筆がほぼ完全に中断されようとも、それでもお気に入り登録から外さずに
待ち続けてくださった方たちには、本当に感謝の言葉しかありません。
神の右席編に入る前の『とある神谷の幻想創造』の第1話投稿が2013年6月7日でした。つまり、私の中に神谷駿斗という構想ができてから、5年半以上経っています。
そのことに改めて驚愕しました。
末尾になりましたが、素敵な作品を読ませていただいている原作者の鎌池和馬さんと、
拙作を読んでくださった皆さまに感謝の言葉を申し上げます。