東方千夢劇 ~Infinite DANMAKU for Lotus Land.   作:かぶらや嚆矢

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二ノ漆・

 人類史上最大の発明者と呼ばれ、ISの産みの親と呼ばれる。あるいはもっとシンプルに、天才と呼ばれることもある。応接室に突然現れた女性――篠ノ之束を指し示すキャッチフレーズはいくつかあるが、そのいずれも、彼女が並外れた才覚を有し、かつそれを目に見える形で結実させたことを称えているという点で共通していた。

 

 天井を仰いでいた千冬は片目だけ開き、闖入者である束の方へと視線を向ける。

 水色のワンピースと白いエプロンを組み合わせた恰好は不思議の国のアリスを想起させ、屈託のなく明るい、それでいてどこか退屈そうな面差しは、服装以上に無垢な印象を感じさせた――少なくとも外見だけに限っては。千冬のかつての親友は踊るような足取りでもってソファの方へ歩み寄ってくると、尻餅をつくようにして、先ほどまでヒカルノが着席していたところにぽすんと身を沈める。もちろん着席の許可を得ることなくである。そのことにまず千冬は眉を潜めた。

 何を目的として襲撃してきたにしても、少なくとも相手への礼儀は示してしかるべきであろう。とりあえず掛けろ。その一言があって、初めて話し合いが始まる。だが束はアポイントなしで押しかけて許可を得ることもなく入室した挙句、千冬の渋面に気付かないふりをして勝手に話を始める始末だった。

 

「んん? 2つのカップがオン・ザ・テーブル。ちーちゃん、誰かとここで話してたの?」

 

「知らんな」

 

 そう冷たく切って捨てた千冬は、冷ややかな声の度合いをさらに強めて束に問い返す。いわく、

 

「ジャマーは問題なく機能しているはずだが、私がここにいるとなぜ分かった」

 

「えっへん。ちーちゃんは束さんのソウルメイトなんだもん。センサーなんかに頼らなくても問題ないし、たとえ地球の裏側にいたって魂で引き合ってるのさ。ぶいぶい」

 

「――質問を変える。どうやってここまで入ってきた」

 

「歩いてだよん」

 

「寝言を遺言に変えたいのか」

 

「もー冗談に決まってるじゃん。ちーちゃんってば怒りっぽいなー。睡眠時間足りてる? カルシウムは? ストレスとか溜まってるんじゃない?」

 

「……そうだな。ストレッサーは、可及的速やかに取り除かなければな」

 

 答えにならない答えを受けた千冬は、ソファの背もたれに身体を預けていた恰好から渋々ながら姿勢を直し、億劫そうに首を振る。こちらの質問に対してまともな回答が返ってこないのは自分の伝え方に問題があるからなのか、それとも、実は束とは同じ言語で会話をしていないからなのだろうか?

 

 束の襲撃に千冬は、ことほどさようにうんざりしていたが、その一方で、篝火にファイルを持ち帰らせたのは正解だった、と安堵してもいた。

 

 もし今ここにファイルがあったならば束は間違いなくそちらに食指を伸ばしてきただろうし、中を見られでもしたら、流し読んだだけでも細部に至るまで把握されてしまうだろう。そういう意味では、千冬は幸運だったといえるかもしれない。もっともそれは、脇見運転のトラックに跳ね飛ばされて両手両足を骨折したものの命だけは助かった、という意味での幸運ではあるが。

 

「いったい何をしに来た」

 

「ちーちゃんの顔が見たくて南極からはるばるやって来たんだよー。はいこれ南極のお土産」

 

「いらん」

 

「まぁまぁそう言わず」

 

 明確に拒絶されたことにもまったく怯まず、手にしていた紙箱を千冬へと差し出してくる束。

 

 半ば押しつけられる形で受け取った箱の蓋には、アニメチックなタッチで描かれた白熊を模したロゴがあしらわれており、勘亭流で書かれた「銘菓・白熊まんじう」なる銘が入っていた。

 

 南極土産であれば白熊でなくペンギンがふさわしいというか白熊は南極には生息していないし、そもそも南極の公用語は日本語ではない。だいたいにして、かかる和菓子が世界の果てと呼ぶべき極寒の地で販売しているなど聞いたこともなく、しかもよくよく確認してみれば「白態まんじう」と、表記が間違っている。

 

 この時点で猛烈に嫌な予感がしていた千冬だったが、念のために原材料表示に目を走らせると、生産者名はクロエ・クロニクルとあった。前に自分を殺そうとした少女の名前を見出した千冬は、列記されている原料についてチェックしてみる。そこに並んでいる項目は何の変哲もないものばかりだが、それらの中に「束さんの愛」という、禍々しい一語が紛れ込んでいるのがどうしても気にかかった。それでも、中身が何であるか知ったうえでパンドラの箱を開くような心境でもって蓋を開けてみれば、そこには外蓋に記された白熊と同じデザインの焼印が入った白いまん丸の饅頭が、5段2列に区切られたスペースに収まっていた。ということは本来ならば10個入りのはずなのだがすでに2つなくなっている。

 

 他人へ贈る土産と言っておきながら自分で先に食うとは何事だ! 千冬にしてみれば言いたいことは山ほどあった。ただ、どこをどう指摘しても束を喜ばせる以外の効果はなさそうだったので、彼女に出来ることといえば能面のごとき無表情を保って外蓋を閉じ、この、突っ込みどころの多さではタコ足配線にも引けを取らない物体をローテーブルの上にそっと返し置くことだけであった。

 

「えー、せっかく持ってきたんだから食べてよー。すっごくおいしいんだよー」

 

「……ああ、いただこう」

 

 防疫検査など諸々の安全確認を通過した後で、と付け加えるのを忘れていた。

 

「ダメだよちーちゃん! そこは『お主もワルよのう』って言って受け取ってくれないと!」

 

「黙れ――土産物は受け取ったし、私が息災だということが分かればもう十分だろう。気が済んだら帰れ」

 

「ひーん、ちーちゃんが冷たくするよぅ。ここ最近忙しそうにしてるちーちゃんを心配してせっかく会いに来たのに、邪険にされて束さんは激しくめらんこりぃ」

 

 顔を覆ってさめざめと泣く真似をしてみせる束だったが、千冬は背筋が薄ら寒くなるのを感じたものである。本人の申告を信じるならだが、今まで南極にいたという束が、なぜ千冬の近況を把握しているのか? 

 

「なるほど。私を監視していて何か気がかりが出来たため、直接問い質しに来たという訳か」

 

「惜しい、正解率66.6パーセント。ちーちゃんを監視してるのは本当だし、ちょっと気になることが出来たのも本当。でも、必ずしも問い質しに来た訳じゃないんだな」

 

 さっと顔を上げた束はまったく悪びれることなく白状するが、千冬も今さらうろたえはしなかった。対面している女性がどういう輩であるかということは、千冬の方でも重々承知している。

 

「1週間くらい前かな? コアネットワークがちーちゃんのバイタルサインを拾ったのね。それ自体は別に気にする程じゃないし、またISに乗ってくれるんだって喜んだんだけど、んー、何かね、

1分くらいの間隔で急にちーちゃん信号が乱れたり正常に戻ったりしてたんだよ。1回なんか完全に途切れたから、もう束さん青ざめちゃった。ちーちゃん死んじゃった! って」

 

 おそらく霊夢との弾幕ごっこにおいてフィールドが展開された時のことを言っているのだろう。思い返してみればシャルロットも通信機能がエラーを起こしたと話していたし、霊夢が展開する力場は概念的な事象、たとえばISのコアネットワークであっても遮断してしまえるようだった。

 

「でも変なんだよねー。そのとき確かにちーちゃんはISに乗ってて、周りでもいくつかコアの反応は拾ってたんだけど、信号異常があったのはちーちゃんだけだったんだよ」

 

(……裏目に出たか)

 

 こっくりと首を傾げて束が言い、探るような旧友の眼差しから視線を逸らした千冬は、ちっと舌打ちした。

 

 束がコアネットワークを介して全ISをチェックしていることは想定済みだったから、弾幕の測定が行われた日、自分以外に何人かの生徒を訓練用のラファール・リヴァイヴに搭乗させ、目眩まし代わりに第6小アリーナ周辺に配備してみた。だがその試みは煙幕にもならないどころか、逆に束の不審を招く結果になってしまったらしい。

 

「ねぇちーちゃん。ISに乗って何をしてたのかな?」

 

「……」

 

「あはははっ。ここで答えたらISに乗って何かしてたのを認めることになっちゃうからね。確かに何も言わないのが正解だけど、束さんには通じないよん。ちーちゃんがISで何かやってた証拠は、ちゃんと握ってるんだから。でも、答えてくれないなら別にいいよーだ。適当な誰かを捕まえて訊いちゃうもんね」

 

 お前のせいで他の誰かがひどい目に遭うぞ。言外でそうほのめかし、けらけらと笑ってみせた後で、束はもう一度、ISに乗って何をしていたか繰り返し問うた。それに対して千冬、答えていわく、

 

「服務規程上その質問には答えられんな。そもそもIS学園の教師がISに乗って何かおかしいのか」

 

「そりゃおかしいよー。だってちーちゃん、ここがよく分からないISに攻撃されたときだってISに乗らなかったのに、今回に限って乗っちゃってるじゃん。何かあったと思うのが普通だよぉ」

 

「あの無人機に襲撃された事件か。まったく、不愉快なことをする輩がいたものだ。犯人を見つけ出して八つ裂きにしてやりたいところだが、束、お前は犯人に心当たりはないか?」

 

「んーん。知らなーい」

 

 束は笑顔のままで、しれっと言ってのける。一方の千冬もそう訊きはしたが、この程度の詰問で束が自白するとは期待もしていなかった。

「でもねでもね、何をしてたかは脇にずずいっと置くとしても、ちーちゃんがISに乗ってくれたこと自体はむしろ願ったり叶ったりなんだよね。ちーちゃんが昔みたいになってくれることは束さんの望みでもあるもん」

 

「昔だと?」

 

「うん。いっくんの為にって頑張ってた時のちーちゃんみたいな、ね」

 

 無邪気そのものというべき笑みを閃かせる束とは対照的に、千冬の渋面がさらに苦々しいものへと変わる。まだ千冬が束と友誼を結んでいた頃を指したのか、それとも、視野狭窄に陥って力だけを渇望していた時期を指して昔と称したのか分かりかねたからだった。前者であれば昔話であり、後者であるなら嫌味である。一方の束は相変わらず張り付いたような笑顔を表情に湛えていたが、その内心は見た目ほどには穏やかではないようだった。

 

「だけど私が気に入らないのは、私が、たぶん私の知らない誰かに出し抜かれたことなんだ。私は昔みたいなちーちゃんと仲良くしたいのに、一体どこのどいつが割り込んできたんだろうねぇ?」

 

 千冬は唇を引き結んだまま束を見返し、彼女が言わんと欲している点を斟酌する。

 

 先ほど引き合いに出した無人機――ゴーレム襲撃事件は、束が首謀者だと千冬は睨んでいる。おそらく大きく的外れな推測ということはないだろう。そしてその目的が、束自身が告白した通りに千冬を再びISに乗せることだとしたら、弾幕を測定する際の的として千冬がISに乗ったことで束は霊夢に後れを取った形になる。仮にそれが、束が探し求めている暮桜ではなくラファール・リヴァイヴであったとしても、だ。そのことに対して束は、常人では理解できない理由でもって腹に据えかねているのだろう。

 

 ならば霊夢を束の前に突き出して一発ぶん殴らせればそれで決着するかというと、話はそう単純ではなかった。もとからして束は常人の知恵と発想力を3倍にし、常識と慎みを半減させたようなタイプの人間ではあったが、そんな彼女の狂性は、千冬はじめ身内絡みのことになると峻烈を極めるのである。

 

「知ってるかな? 人間っていうのはね、ちーちゃん、6つの種類に分けられるんだよ。1番上はやらなくても何だって出来ちゃう、ちーちゃんや束さんみたいな天才。2番目はね、何でもやれば出来るいっくんや箒ちゃんみたいな頑張り屋さん。3番目は自分が出来ることだけやる普通の子。その下は、やるんだけど出来ないダメな子――」

 

 やめろ。千冬は短く言い、続きを語ることを制する。しかし束は自らの饒舌を止めず、心底楽しそうな面持ちで、心底楽しそうにヒエラルキーへの考察を締めくくった。

 

「残りは出来もしないことばっかりやる馬鹿と、何かをやることさえ出来ない屑」

 

「……」

 

「この世界はちーちゃんと私、いっくんと箒ちゃんの4人がいて、あ、あと私の両親も一応その中に入れていいかな。とにかくその他には、私たちみたいになろうとして足掻く馬鹿と屑以外は必要ないんだよ。もともと人間の区別なんか付かないし、ちっちゃな世界だけを右往左往してる普通の子とダメな子なんか無視しちゃって全然ノー問題だもん」

 

 夢を語る子供のごとく混じり気のない口調で、その舌鋒による臓腑をえぐるような一撃をもって束は自身の言を終えた。

 学生の時分、かかるヒエラルキーに当てはめ周りにいるのは普通の子とダメな子ばかりと断じ、誰に対しても完全に無視を決め込んでいた束をさんざんに殴りつけて軌道修正したものだが、どうやら束は、昔から抱いている強烈な選民思想に逆戻りしてしまったらしい。かくのごとき極論を聞かされた千冬は両目を伏せて束の主張を聞き流している風を装っていたが、傍目から見ても明らかにそうと分かるほど苦々しい面持ちをしていた。

 

「さっきも訊いたけどもう一回訊くね、ちーちゃん。ここで誰と会ってたのかな?」

 

 黙して答えない千冬。そして千冬の返答を待たず束はさらに質問を畳みかけてくるが、その言葉には問い質しではなく、警告のニュアンスが込められていた。

 

「それともうひとつ。ちーちゃん、馬鹿な奴にそそのかされて、何か出来もしないことやろうとはしてないよね?」

 

(霊夢しかり篝火しかり、むしろ唆したのは私の方だが)

 千冬はよっぽどそう答えてやろうと思ったがしかし、答えたら答えたで面倒なことになる。目の前にいる手合いは一を聞いて十を知り、そのうえ百まで予測して探りを入れてくるようなタイプなのだ。そして何かがあると嗅ぎつけた場合、それが何であるかを見極めるため手段の合法非合法を問わずあらゆる手を打ってくるだろう。

 

 それこそ、セキュリティを麻痺させてIS学園内へ侵入してくることなど問題にならないほど非道な手段でさえも。

 そんな厄介者を追い返すにはどうすれば良いか? このまま貝のごとく口を閉ざしてやり過ごすことも考えるがしかし、何か答えないことには解放してもらえそうもない。観念して口を開いた千冬がまず最初に発したのは聞こえよがしな溜め息であった。ついで束をじっと見やりながら千冬、答えていわく、

 

「馬鹿と天才は紙一重という言葉を知らんのか? お前が馬鹿だと思い込んでいる奴は、実のところ、お前や私では及びもつかんような傑物かもしれんのだぞ」

 

「へー。まるで、そんな誰かがちーちゃんの近くにいるような口振りだね?」

 

「すでに知っているだろうが、私は嘘をつくのが苦手でな。これ以上は何も言わん。あとはお前で好きなように解釈しろ」

 

「ありゃりゃ。あっさり終わらせちゃうんだね。せっかくちーちゃんと駆け引きを楽しめると思ってたのに」

 

 もっと遊んでよー、と頬を膨らませ、束は不満そうに足をばたつかせた。その頭頂部、兎の耳を模した形状のセンサーが、彼女の落胆を現すようにしょぼんとうなだれる。

 いかにも打ちひしがれているように見えるが、それに振り回される千冬にしてみれば業腹だったに違いない。片手で顔を覆った千冬は、ちら、と窓の方へと視線をやった。銃弾も通さない強化ガラスがはめ込まれていたり、損壊が確認されたら即座に警報音が鳴り響くセキュリティシステムが完備されてさえいなければ今すぐ拳でガラスをかち割り、束の襟首を掴んで窓の外へと投げ捨ててやれたのだが。

 ただし結果として、千冬はピカレスクな行動は起こさなかった。その代わり束の誘い込みに応じて、もう少しだけ会話に付き合ってやることにする。束が言いたい放題に言い垂れたのと同様に、こちらとしても、束に言っておかなければならないことがあるのだ。

 

「……前に海で会った時、お前は私に訊いたな。今の世界は楽しいかと。あの時はごまかしたが、その答えは近いうちに出させてもらう。私が何をし、何を願い、どこで生きていこうとしているのかを」

 

「ふぅん? どうせだったらそれが、束さんの思ってるものと同じだといいんだけど」

 

「期待に応えられるか分からんがな。それと最後にひとつ、古き誼を偲んで忠告しておいてやる」

 

「わーい。なになに?」

 

「IS学園に織斑千冬という女教師がいる。そいつにはせいぜい気をつけることだ」

 

 持って回った千冬からの忠告に対して束は笑顔を保ったまま、こっくりと首を傾げる。かつての親友が見せた困惑の仕草には委細構わず、千冬は束を真正面から見据えて言葉を続けた。いわく、

 

「お前はまだ、個人としての私しか知らんだろう。だがIS学園教師としての私は苛烈だぞ。これからISに乗ろうとする青二才どもに範を示すため、まして不逞の輩に手引きされ、本来入学するべきではないIS学園に入学せざるを得なくなった奴らを守るためならば、決して手段を選ばん」

 

「……」

 

「お前が何を望んでいるのか私は知り得ないし、何かをしようとしていても、それを止める権利は私にはない。そして「ちーちゃん」へと個人的に干渉してくるのであれば、笑い話で済ませてやることも出来る。しかしこれだけは覚えておけ――貴様がIS学園に害を成し、後進どもを誤った方へ誘導しようとするのならば、私はIS学園に属する教師として、ありとあらゆる力を行使して貴様を叩き潰しにかかる」

 

 千冬は硬い声でそう宣言したが、想定しうる様々なシチュエーションの中で最悪の結末――切り札としてIS学園の地下で今なお眠っている暮桜を身に纏った自分が束の首を刎ねる光景を想像し、吐き気が込み上げてくるほど嫌な気分になったものである。しかし、それでもしかし、千冬は荒れ模様の内心を鋼の表情で覆い隠し、束へと最後通牒を叩き付けた。

 

「一夏をISの渦中へ巻き込み、箒に道を踏み外させかけた。仏の顔も3度までというが次にお前が何事かを成した暁には、私は鬼にも仏にもなる。そう警告しておこう」

 

 かつての友から宣戦布告を受けた束の内心は、いかなるものであったろうか。常人であれば青ざめてうろたえるか、あるいは真っ赤になって逆上するかしただろう。だが――束は常人ではない。かかる宣告を受けた束は喜色満面、いかにも嬉しそうな面持ちでもって身を乗り出してきたのだ。

ついで千冬の手を取るとぶんぶんと上下に振りつつ、束は声を弾ませる。いわく、

 

「うんうん。ちーちゃんもやっと、本気で私の相手をしてくれるようになったんだね! 束さんは激しくはっぴーだよ!」

 

 かくのごとく、束は平然としていた。

 

 長く使っていなかったせいで視殺戦のスキルが衰えていたせいか、単純に束が並外れて強靱な精神力をしているためかは判断しがたいところだが、千冬の警告が伝わることは伝わっただろう。無理やりのシェイクハンドをゆっくりとほどいた千冬、答えていわく、

 

「ふん……相変わらず食えない奴だな」

 

「ちーちゃんの考えは分かったよ。でもさでもさ、それを知った上でどうするかは束さんの自由。それでね、それに対してちーちゃんがどうするかも自由。そうでしょ?」

 

「お前というやつは――まぁいい、今さら言い出したところで詮無いことか。とにかく、次に何か面倒事を起こしたら見逃してやれんのかもしれんのだぞ。そのことだけは忘れるんじゃない。いいな?」

 

 はーい、と応じた後、束はローテーブルに手を突いてさらに身を乗り出し、千冬に顔を近づける。

 

「ねぇねぇちーちゃん。最後に私からも、ひとつだけいーい?」

 

 千冬は何も答えず、束の顔をちらと見返しただけである。それを、話を進めるように促すサインだと受け取った束はにっこりと笑いかけた後、朗々として言葉を紡いだ。

 

「『こんなにみんなにみまもられながら/おまえはまだここでくるしまなければならないか/ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ/また純粋やちいさな徳性のかずをうしない/わたくしが青ぐらい修羅をあるいているとき/おまえはじぶんにさだめられたみちを/ひとりさびしく往こうとするか』――」

 

 突然にして束が詩を口ずさみ始めたことに面食らいはしたが、千冬は黙って耳を傾ける。

 

「『信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくしが/あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれていて/毒草や蛍光菌のくらい野原をただようとき/おまえはひとりでどこへ行こうとするのだ』」

 

 同じ信仰を抱くかけがえのない妹が自分を遺して死んでいくのを、強い心で見送ることが出来ない兄の心痛を綴った詩だ。題名は確か、無声慟哭といったか。千冬は詩歌を愛吟するような風流の心得を持ち合わせてはいなかったが、かかる詩とそれを記した詩人のことは知っていた。そして、千冬が思い違いをしていなければまだ続きがあるはずだが、千冬の双眸を覗き込むように見つめたままでいた束の歌唱はそこで切れた。ついで束いわく、

 

「よく覚えておいてねちーちゃん。束さんはいつも、いつまでもちーちゃんのソウルメイトだよ」

 

「――ふ、そうだな。よく覚えておくことにするよ」

 

「……?」

 

「何だ」

 

「ちーちゃん、何か変わったような変わってないような……昔みたいな目標に向かってまっすぐな感じに戻ってくれたのは嬉しいけど、昔みたいにギラギラしたところがなくなっちゃった感じ。何かあったの?」

 

「ノーコメントだ。お前も私も互いに言うべき事はすでに言った。これ以上話す必要はない」

 

「ちーちゃんがそうなっちゃったのも、私が知らない誰かから影響を受けたから?」

 

「答えられんな」

 

「むー、何かやな感じーっ! いいもんいいもん、もうちーちゃんなんか知らないもんね! カドミウム汚染されたお豆腐の角に頭ぶつけて中毒になっちゃえ! ばーかかーばあっかんべーだ!」

 

 変わらぬ友情を誓ったはずの前言を束はあっさりと翻した。子供でも恥じ入るほど幼稚な口調でもって、分別ある大人が青ざめるような不謹慎きわまる捨て台詞を残すと、足音荒く応接室を出て行ってしまう。

 

 あまりにも凶悪な暴言にさすがの千冬も唖然としていたが、ややあって、ふう、と息をつく。

 

 だが頭痛の元はまだ退散していなかった。開け放しにされた応接室のドアのスキマからひょいと顔を覗かせ、頭上のセンサーをひこひこと動かしながら言葉を発する。いわく、

 

「いま謝るなら、ちーちゃん大好きでとっても優しいらぶりぃ束さんは許してあげちゃうよ?」

 

「分かったから帰れ」

 

「ふーんだ。つまんないの」

 

 じゃあねー、と言い残し、束の顔とセンサーがフレームアウトする。ついで空気音を発してドアが閉められ、今度こそ千冬は胸を撫で下ろし、疲れ切った溜め息をこぼす。だがそれも束の間のこと、再びドアが割り開かれ、はた迷惑かつ局地的な台風が勢い込んで戻ってきた。

 

「第2ラウンドかいしー! ちーちゃんやっほー! お邪「さっさと出て行かんか!」

 

 ただでさえ眠気をこらえていて苛ついているところに度重なる侵攻を受け、さしもの千冬も我慢の限界に達したようであった。応接室のガラスをびりびり震わせるような怒声を上げるとソファのアームレストをぶっ叩いて立ち上がる。激怒する千冬を見た束はけらけらと笑いはしたが、特に用件はなかったらしい。まったねー、と言い残して、本当に退散してしまう。

 

 ぜいはあと肩で息をしていた千冬は再度ソファのクッションに腰を下ろし、ようやくにして安堵するが、黒幕が接触を試みてきた状況でなぜ安堵できるのかと複雑な心境になったものである。

 精神的な疲労を感じた千冬はインターバルを取ろうとしたが、コーヒーで一息つくという気分にはなれない。そうでなくても、すでにカフェインを過剰に取りすぎているのだ。何か気分転換になるものは、と視線を巡らせた千冬の目と、アニメタッチで描かれた、白熊によく似ている白態という名称である生物の目が合う。

「まぁ、さすがに毒が盛られているわけではなかろうし――」

 

 テーブルボードに置かれたままの紙箱の蓋を開くと饅頭を取り上げ、ひとつ口にしてみる千冬。

 

 素朴な味わいで、菓子店で販売しても遜色のない出来映えである。しかも上皮にかすかに塩味が感じられる千冬の好みの味付けであり、空腹であることも手伝ってついもうひとつ食べたくなってしまう。

 

 だが千冬は、その手を止めた。体型維持や健康を気にしてではなくて、束が言うところの千冬に食べさせようとして持参してきた土産をまんまと食べてしまったうえにお替わりまでしようとしていることに気付き、何となく癪に障ったのである。

 

「残りは霊夢に食わせてやるか」

 

 このまま何もかも束の思い通りにされるのは気に入らない。千冬への土産として持ってきた饅頭を、束が存在を知らない霊夢にくれてやることで、ささやかな仕返しをしてやることにした。

 

 親指でもって唇をぶっきらぼうに拭った後で、千冬は、糖分補給を済ませて機能を取り戻した思考力で今後について考えを巡らせる。

 

(束が接触してくるのはもう少し後になると踏んでいたが、どうも読みが甘かったようだ)

 

 束の来襲は予想外だったがしかし、逆に言えば、わざわざ直接乗り込んできたと言うことは、千冬が何をしようとしているかを束は完全には把握していないということの証明でもある。いわんや博麗霊夢の存在をや、である。

 

 霊夢と束の間に関係があるという疑念は、とりあえず晴れた。知りたがっていた答えが飛び込んできたことは一応の幸運と言っていいだろう。

 ただ禍福は糾える縄のごとしという。束に狙いをつけられるという不幸を経たことと引き替えに今回の幸運を得られたのか、それとも、今回の幸運を得たことは何かの不幸が起きようとしている前兆なのだろうか。だが千冬はそれ以上は考えなかった。未来どころか10分後に起こることすら分からない身で、どうしてこの先に起こりうることを予見などできようか? 

 

「何にせよ、あまり悠長に構えてはいられんな」

 

 短兵急な行動は望むところではないが、仮想敵である束が動き始めた以上、前倒しに出来るものは少しでも前倒しにするべきだろう。紙箱を手に取ってソファから腰を上げると、千冬は足早に応接室を出ていく。

 

 厳しい表情でいる彼女を先ほどまで蝕んでいた眠気は、すでに跡形もなく消し飛んでいた。その代わりに小さい、本当に小さいが、しかしどうしても無視できない小さな疑問が自分の胸中に浮かんでいるのを千冬は自覚していた。

 

 ――篠ノ之束はいったい何をしに、わざわざIS学園内部にまで乗り込んできたのだろうか?

 




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