東方千夢劇 ~Infinite DANMAKU for Lotus Land.   作:かぶらや嚆矢

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 序 ・幕の上がること、未だないままにして

 博麗神社。

 

 幻想郷の東の境に位置する神社である。

 

 雪が降ったと誰かが言えば酒を持ち寄り、月が麗しく輝くのを見れば誰もが誘われるように足を運び、花が咲いたと誰かに聞けば宴を期して人妖が集まる――普段は訪れる者が少ないとしても、雪月花が移ろい季節が変わりゆくに合わせ、その節目節目で酒宴が催される。

 それがここ、博麗神社における風物詩であった。

 

 寒さが緩み、どこかへと立ち去っていった冬の妖怪と入れ替わるようにして現れた春告精の姿が各地で見られるようになり、野に山に谷にこだまする「春ですよー」の声に伴って、色とりどりの花が一斉に咲き始める弥生の某日。白玉楼、無縁塚についで花の名所とされている博麗神社の桜もまた、開花の時期を迎えていた。

 

 その報せは、かかる神社に入り浸っている普通の魔法使いによって、もしくは清く正しい伝統の幻想ブン屋によってあまねく広められ、風の噂を聞きつけた妖怪たちは誰が音頭を取るまでもなく自主的に博麗神社へと集まってくる。そんな来訪者たちにせっつかれた神社の巫女は嫌そうな顔をして「あんたらのせいで人間の参拝客が来やしない」とか「準備を手伝わないなら後片付けくらいやりなさいよ」とか「せめてお賽銭入れてけ」などと文句をこぼすが、それでもしかし妖怪たちを無碍に追い返したりはせず宴会の支度を始め――かくて今年もまた、例年通りといえば例年通りに花見の宴が開催される運びとなっていた。

 

「……いつにもまして騒がしい」

 

 鎮守の杜、ひいては幻想郷を一望できる小高い丘の頂上に建つ博麗神社。その敷地の中央辺りに軒を構える拝殿にあって賽銭箱の脇に腰を下ろし、グラスに満たされた酒を、表面でたゆたう桜の花弁ごとぐいっと飲み干した博麗霊夢は物憂げな眼差しを境内の方へ向けると、いかにもうんざりした様子でそう吐き捨てた。

 

「いつにもまして楽しそうね」

 

 宴会もたけなわだというのに霊夢の表情は硬く、有り体に言えば仏頂面に近い。一方、唇をへの字に曲げている少女の側に寄り添う恰好で、宙に浮かんだ『スキマ』から上半身だけを乗り出している八雲紫はそう言葉を返し、空になったグラスを弄びつつ穏やかな微笑みを浮かべ、人妖入り乱れた宴で賑わう境内を見つめている。

 

 日は中天にあって柔らかく輝き、桜の花を散らす風はまさしく春風駘蕩。八分咲きの時を迎えた桜並木は巻雲が流れる春の青空を背景にして今を盛りと咲き誇っており、日の当たるところで眠りに落ちたら心地良い夢が見られそうな、実にうららかな春日の昼下がりである。

 

 それにも関わらず、霊夢の顔色は休日のおでかけ予定を大雨で潰された子供のように陰鬱としていた。ぬばたまの黒髪を照らす穏やかな日差しも、澄んだ瞳に映る桜吹雪も、彼女のトレードマークといえる大きな紅色のリボンを揺らす春風さえ気に入らない。そう言いたそうな表情でもって、ぶすっとふて腐れている。

 

「もう。せっかくのお花見なのにどうしてそんな不機嫌そうな顔してるのよ」

 

「不機嫌だからよ」

 

 楽しそうなトーンで発せられた紫からの指摘に、ひどい面持ちのままひどい声で応じる霊夢。

 

「今日も平和だお酒がうまい、ということで楽しんじゃえばいいじゃないの」

 

「いくらおいしいお酒でも、こうも妖怪に囲まれてちゃねぇ……」

 

 はぁ、と嘆息した霊夢は、前の方へとしだらなく投げ出した足を支えに頬杖をつくと、湿っぽい眼差しで境内を睥睨してみせる。

 

 野点傘よろしくパラソルとデッキチェアをしつらえ、遠目からは赤ワインに見えるが赤ワインではない、否、そもそもワイン以外の何かであろう赤黒い液体を飲み交わしている吸血鬼一派。

 

 誰彼構わず難癖を付けて歩く人間の魔法使いと、金切り声を上げてそれをたしなめる人形遣い。

 

 徒党を組んではしゃぎ回る氷精とその仲間たち。

 

 備忘録とカメラを携えて境内を所狭しと飛び回って新聞のネタをせかせかと集める、幻想郷最速を自称する烏天狗。

 

 満開の桜の下にあって日傘を手にして独り佇立し、何者も寄せ付けない雰囲気を醸し出している花の妖怪。

 

 それだけではない。無表情な面霊気が神楽を披露して喝采を浴びているのは可愛いものだが、それに感化された夜雀と山彦が揃いのパンクファッションに身を包んで即興のライブを開催すれば、騒霊の三姉妹が対抗意識を燃やし、和気藹々とセッションを始めてしまっていた。

 

 また別の車座の中心では冥界に建つ楼閣を治める華胥の亡霊と闇の妖怪、そして霊廟の死なない殺人鬼の三者が宴会の座興とばかりに凄まじい勢いで料理を平らげている一方で、妖怪の山の風神と地底の鬼は杯でも升でもなく酒樽を丸ごと抱えて飲み比べをしている。

 

 極端なレベルになると、汚仏は消毒じゃと息巻いている古代日本の尸解仙が妖怪寺の門徒たち目がけて皿をばんばん投げつけており、不死の蓬莱人と月人の姫に至っては、花も団子もそっちのけで殴り合いを繰り広げていた。

 

「百鬼夜行だわ」

 

「酒池肉林?」

 

「あんた、もう酔いが頭まで回ってるんじゃない?」

 

「美少女にお酌をされると、お酒の回りが普段より早くなるのよ」

 

 言い置いて、はい、と空になったグラスを霊夢の鼻先へと差し出す紫。

 

 半ば押しつけられるような形で眼の前に現れたグラスから顔を背けた霊夢は睨み殺さんばかりの目力でもって紫の澄ました横顔を憎々しげに睨め付けたが、紫はまったく動じなかった。霊夢から発せられる霊気は力ある妖怪でさえ震え上がるレベルにまで高まっていたが、それを間近で浴びせられているはずの紫は露ほどの関心も示さない。いわんや霊夢と視線を合わせるはずもなく、境内を見つめたまま微動だにしない。

 

「~~っ!」

 

「……」

 

 ひときわ強く、春の風が吹いた。文字通り風花のごとく桃色の花弁が舞い散る鮮やかな情景に、妖怪どもの集会場というべき様相を呈している境内から歓声が沸き起こる。

 

 そんな境内にいる者たちのうち誰ひとりとして目を向けない、ということは、なんら存在意義のない無言のせめぎ合いをしばらく続けた後、この胡散臭い妖怪に引き下がる気配がないことを見て取った霊夢はついに折れた。はあぁ、と盛大に、かつしっかり聞こえるようにわざとらしくため息を吐くと霊気を打ち消し、傍らの酒瓶を取り上げる。そして紫のふてぶてしい横顔めがけて酒瓶をフルスイングで叩き付けてやった――ただし想像の中だけで。

 

「ったく。しょうがないわねぇ……」

 

 負け惜しみめいた呟きをこぼしつつ、霊夢は暴行に及ぶかわりに酌をしてやる。

 

 瓶に残った酒はすでに僅かであり、ほとんど垂直近くまで傾けてやらないと中身が出てこない。そこをあえてちびちび注いでやる霊夢だったが、グラスの半ばぐらいまで達したところでとうとう瓶の中身が空になってしまった。

 

「あーあ。せっかくキープしておいた最後の1杯分だったのに」

 

 目の前から紫の口元へと運ばれた酒の行方を目で追いつつ、恨めしそうな声音で呟く霊夢。

 

「そう。最後の1杯だから私がいただきます」

 

 今にも涎を垂らしそうな顔をしている霊夢の視線は、紫にとって最高の肴になったことだろう。押し戴くように芳香を楽しんでから一息に呷って最後の1杯を飲み干してしまった紫はグラスを足下、もといスキマの下へ置いた。ついで、持って回った所作で奇術師のごとく掌をひらひらさせた後、自分の半身の根元にあたるスキマの中へと手を差し込んでみせる。

 

 何もない空中に裂け目のように浮かんでいるそれは単に『スキマ』と呼ばれることの多い、今この場所と別の場所とをつなぐ『空間の境界』である。紫はこのスキマを用いて離れた場所へワープめいた移動をしたり、遠くにある物を手元へ引き寄せることが出来るのだ。かかる能力を用いて、紫はスキマの中から酒瓶を取りだした。霊夢に酌をしてもらったそれと同じ銘柄で、しかも、まだ栓が開けられたばかりと思しきものである。

 

「最後の1杯だけど、飲み放題でおかわり自由」

 

「なんだ。まだあるんじゃない……何か変なものとか入ってないでしょうね」

 

「ご覧の通り、蔵出しならぬスキマ出ししたばかりの新品よ――ほら霊夢。グラスが空になってるわ」

 

「そう? ま、まあせっかくだし? お返しって言うなら私も飲んじゃおうかな」

 

 まんざらでもない様子で、紫からの酌を受ける霊夢。

 

 駆けつけ、というわけでもないが、3杯をあっという間に飲み干し、酒と併せて紫がスキマから次々に出してみせる諸々の肴に舌鼓を打つ。もとからして霊夢は酒に強いうえピッチも早い方だが酒も肴も際限なくあり、そして霊夢本人は認めていないが、差しつ差されつの相手が気心の知れた紫とくれば、酒の進みも普段のそれよりハイペースになろうというものだ。1本、2本と空瓶が並べられていき、紫がお替わりをどんどん引っ張り出しては霊夢に供する。

 

 飲んでは食らい、ときに語り、また飲んで、笑い、茶化したり茶化されたり――そうこうするうちに7本目の空瓶が賽銭箱の脇に転がされる。その頃には霊夢の仏頂面もだいぶ柔らかくなっており、幼さが残る面差しにも花を散らしたような赤みが差し始めていた。

 

「あー、結構飲んだかも。なんだか気分良くなってきたわー」

 

「美少女にお酌をされると、お酒の回りが普段より早くなるのよ」

 

「美かどうかはともかくあんたは少女っていうような歳でもないじゃない。1000歳を軽く越えてる妖怪のくせに」

 

「年齢じゃなくて気持ちの問題ね。たとえアラサーアラフォーであっても心は少女のままよ」

 

「あらさ? あふぉ? ……何だって?」

 

 耳に馴染みのない言葉に目を丸くした霊夢はグラスを傾ける手を止め、そう訊き返してみせる。

 

「我、永久に若々しくあれかし――そんな意味を持った、外の世界で使われてる呪文よ。鏡の中の自分に向かって言い聞かせると効果があるけど、他人に言われると逆効果になる場合があるわ」

 

 紫は平然として嘘をつき、そうなんだ、と疑う様子もなく頷いている霊夢。

 

「これは余談だったわね。さあさあ霊夢もどんどん飲んで。杯を乾かすと書いて乾杯と読むのよ」

 

「はーい、かんぱーい。いやぁ、奢りで飲むお酒は美味しいわー」

 

「うふふ――ところで霊夢。ただより高いものはないという言葉は知っていて?」

 

「あー? また何か悪いことでも企んでんの? おかしなことしたら夢想封印よ、夢想封印」

 

「人聞きが悪いこと言わないで。私はいつだって悪いこと……企んでないわよ」

 

「ちょい待ち紫。今、聞こえるか聞こえないかくらいの小声で『しか』って言ったでしょ」

 

「ぐーぐー」

 

「寝てるのかお腹が空いてるのか……ていうかあんた2、3日前に冬眠から覚めたばっかりだって自分で話してたし、今年はすっきり目が覚めたって言ってただろ」

 

「春の二度寝って最高よねぇ」

 

「そこは同感」

 

 主に紫が話題を振って、霊夢がおざなりに言葉を返す。端から見れば素っ気ないやり取りだが、これがしかし、この2人の間では気の置けない会話なのである。最近の身の回りでの出来事。異変の気配。幻想郷の未来について。山の河童たちがしでかした笑い話の顛末。人間の参拝客が来ないという霊夢の嘆きとそれに対する紫の慰め。そういった四方山話を分け隔てない友人同士の口調で語らいつつさらに杯を酌み交わした後で、酒が過ぎたのかペースを落とし、ちびりちびりと味わうような飲み方にシフトした霊夢が、そういえば、と前置いて紫に尋ねた。いわく、

 

「さっきアラなんとかって、外の世界の呪文だかを言ってたけど」

 

「言ったかしら」

 

「自分が言った言葉ぐらい覚えとけ!」

 

「冗談よ。アラサー、アラフォー。はい、言ったわ」

 

「まあ呪文自体はどうでもいいんだけどー。外の世界ってどんなとこなのかなと思って」

 

「あら珍しい。あなたが何かに興味を持つなんて」

 

 からかうようなイントネーションを含んだ紫の言葉を受けた途端、霊夢の恵比寿顔が再び渋面へと戻った。

 

 この万年脳天気そうなイメージのある巫女はへそを曲げた時、あるいは照れくさい時は決まってこんな表情になることを紫は知っている。今回の場合は前者だろう。霊夢は柳眉を吊り上げたまま八つ当たりのようにして酒を一息に飲み干すと、ずいと紫の鼻先に空のグラスを突き付ける。

 

 気色ばむ霊夢とは対照的に紫はあくまでも飄々としていた。はいはい、と応じると、先に境内を眺めていたときよりも楽しそうな、それでいて優しげな笑みを浮かべ、意趣返しとばかりに眼前に突き付けられたグラスに気分を害した風もなく酌をしてくれる紫。その余裕ありげな態度が霊夢をより苛立たせた。

 

「早苗とか白蓮とか妹紅とか、最近だと神子とか、もともとは外の世界にいた連中が興味深い話をしてくれるって阿求とか霖之助さんが言ってたのをたまたま思い出しただけよ!」

 

「そうだったの。それは残念だわ、霊夢もようやく異変解決と参拝客のこと以外にも興味を持ってくれたと思って喜んだのに」

 

 失礼な、と霊夢は言い返すが、紫が挙げた項目のほかにはあらゆる事象に対して関心がほとんど沸かないことは真実なので、あまり強く否定することはできなかった。

 

 そしていつもの霊夢だったら外の世界についての言及をここで打ち切り、話題を変えた紫が語る脈絡のない与太話にまた適当に相槌を打っていたことだろう。だがこの時の霊夢は珍しくテーマを変えず、議論を続けることを望んだ。大酒を飲んで気分が良くなっていたせいか、春の陽気に浮かれたせいか、あるいは会話のどこかで紫を言い負かしてやろうと欲したためか? その理由は彼女自身でもよく分かっていなかったかもしれない。いずれにしても霊夢は、紫のグラスへと酒を注ぎ返しながら、外の世界の話を進めるように自分から促していた。

 

「で、どうなの? あんただったら外の世界がどんなところか知ってるはずでしょ」

 

「知ってはいるけど……そう、ねぇ――」

 

 いったんグラスを置いた紫は瞑目し、下唇をなでるように人差し指を当てて押し黙ってしまう。

 

 瞳を伏せて思索に耽る紫の姿は、へらりへらりと胡散臭く微笑み、立て板に水とばかりに喋りまくる平時のそれとは打って変わった、妖怪の賢者と呼ばれるに足るだけの風格を感じさせる。彼女がこんな表情を見せるたび、思い付きで行動する姿と深慮遠謀を巡らせる姿のどちらが本当の紫なのだろうと考えさせられることがしばしばあった。

 

 手酌で注いだ酒をくぴくぴやりつつ、目を伏せた紫の横顔に何となく見入ってしまう霊夢。

 

 ただ外の世界はどんなところかと訊いただけなのに、紫はやけに考え込んでしまっている。何か変なこと言ったのかしら、と霊夢は自身の言動を振り返ってみたが思い当たる節はなく、紫が何を考えているかを推し量ることも出来そうにない。とはいえ紫の方も、自分の生涯の50分の1も生きていない人間ごときに考えを読み取られるほど底が浅くはないだろうし、霊夢としても、大妖怪の思案顔の裏に渦巻いている思惑を看破するには人生経験があまりにも不足していた。

 

「……」

 

 間を持たせるように酒を飲みながらじっと託宣を待ってみたものの、紫はいつまで経っても話し始めそうにない。しびれを切らせた霊夢は肩をすくめると紫からいったん視線を外し、改めて境内を見やった。

 

 ただでさえ賑々しい境内ではいよいよ宴席が最高潮になりつつあり、一部では早くも弾幕が飛び交い始めていた。不死の蓬莱人と月人の姫を筆頭に、人間の魔法使いと人形遣い、妖怪寺の住職と霊廟の聖徳道士、氷精と妖怪の山の土着神、亡霊少女と夜雀など、ひとたび触れ合えば化学反応を起こす組み合わせはいくらでもあり、無責任に囃し立てるギャラリーはいても、隣人愛を説いて争いを止めようという手合いは皆無である。

 

 いや、仲裁に入ってくれそうな者もいることはいるが、その役割を担うべき心穏やかな現人神はすでに酒に潰されており、目を回してひっくり返ってしまっていた。

 

「あーうー……空も地面もま、回ってるから……私も、回ら、ないと……うぷっ」

 

 などと青い顔でのたまい、風に煽られたタンブルウィードのようにころころ転がっていく商売敵の姿を目にした霊夢は呆れきった溜め息をこぼす。確かもろきゅうとピクルスを肴にして酒を飲まされ慣れていたはずだと思っていたが、どうやら彼女は未だに自分の酒量の限界をつかめていないらしく、完全に悪酔いして我を失っている。

 

(面倒だけど、この辺で止めておくか)

 

 ローリングクレイドル風祝を含め、揉め事ご法度の境内で好き勝手に暴れる妖怪どもを制裁するべく、霊夢は腰を上げかけた。

 

 怠け者で面倒くさがりな印象の強い霊夢だが、妖怪退治と異変解決をもって旨とする博麗の巫女としての仕事だけは極めて真面目にこなす。この時もまた使命感から、魑魅魍魎の運動会と化している境内へと割って入ろうとしたが、それと同時に、ようやくにして沈黙を破った紫が話し始めたために行動を起こすタイミングを逸してしまった。それどころかさんざん焦らされたせいで巫女としての職務より、紫の話を聴くことをついつい優先してしまったのだ。

 

「――あなたがもし、外の世界のことを知りたいなら」

 

 耳をくすぐるような声音でもって紫が呟き、動きを止めてしまう霊夢。上げかけた腰をすとんと落とすと紫の方へ身を乗り出し、急かしていわく、

 

「し、知りたいならっ?」

 

「答えは、あそこまで行けば見つかるわよ」

 

 全身これ耳にしている霊夢とは裏腹に、とことんマイペースな姿勢を崩さない紫はそこで言葉を切って、す、と一点を指さした。

 

 白い長手袋に包まれた細い指先は境内よりも先、博麗神社の鳥居の向こうを指し示している。

 

「あそこが幻想郷と外の世界との境界。常識と非常識の分かれ目よ」

 

 紫が真顔でそう言うと、こらえきれない、といった様子で霊夢は吹き出してみせた。彼女は紫が言い放った冗談を面白いとは決して思わなかったが、あまりの荒唐無稽さに、笑わずにはいられなかったのだ。そして紫が「なーんちゃって」と言うのを待ったが、紫の表情はしかし、わずかにも変化しない。まさか本気で言ったのではあるまいと思いながらも霊夢、返していわく、

 

「何言ってんのよ。鳥居から外へ出たぐらいで幻想郷の外まで出られるわけないっての」 

 

「そうね。それは幻想郷に住む者にとっての常識。でも、あなたは気付いていない? 外の世界は幻想郷の常識が当てはまる場所ではないことに。外の世界から来た少女でさえも、この幻想郷では常識に囚われてはいけないことに気付いてるのに」

 

「……う」

 

「そして――私たちが今いるこの場所は幻想郷でもなく外の世界でもなく、同時に幻想郷でもあり外の世界でもある博麗神社の境内。だというのに、あの鳥居の向こう側が外の世界につながってないとどうして言い切れるのかしら?」

 

 淀みのない答えが返ってくるに至って、霊夢は言葉に詰まった。半笑いの表情を引きつらせて、ほとんど凝視するようにして紫の顔を見つめてしまう。

 

 紫もまた顔を巡らせ、霊夢を見返してきていた。

 

 鉱石にも似た独特の光を宿した双眸。引き結ばれた唇。蜂蜜を練り込んだように鈍く輝くブロンドヘアが春風になびく様子は、ざわつく霊夢の心境を現しているようでもある。そんな、穏やかなままの無表情の裏側にある紫の真意は、霊夢にはまるで見当もつかなかった。例えるならば泥沼の中に顔を突っ込み、沼底に沈んでいるコインの向きが裏か表かを当てようとしているような錯覚にさえ陥りかける。

 

(な、なによ紫ったら。いつになく真面目な顔しちゃって……)

 

 何とはない気後れを感じた霊夢は紫の視線から逃れるように顔を背けて境内の、ひいては鳥居のある方へ目を向けた。ついで、先の言葉の真偽について考えを巡らせる。

 

 どう見ても、そして何度見てもあの鳥居が幻想郷と外の世界とをつないでいるとはとても思えない。霊夢はいつしか、冗談だろうと決めてかかっていた紫の発言を冗談であってほしいと願うようになっていたが、紫が適当なことを言っている様子はなかった。しかし、だからといってこの胡散臭さが服を着て、息を吐くように他人を煙に巻く妖怪が真実を話しているとも限らないのだ。

 

 彼女の真意がどこにあるにしても、考えているだけでは埒があかない。なるべく紫の方を見ないようにしながら霊夢が荒っぽく言葉を紡ぐが、隠しきれない困惑が声に滲み出てしまっていた。

 

「……ば、バカ言ってんじゃないわよ! だいたいね、博麗大結界を少し緩めたぐらいでも文句を言いに来るあんたが、幻想郷と外の世界がつながってるのを黙って見過ごすはずがないでしょ!」

 

「春雪異変の時に言ったこと、忘れたの? 神社の北東側の結界に穴を開けてみせたように、私は任意の結界を意図的に操作することが出来るのよ」

 

「だから、どどどうだってのよ――まさか本当に幻想郷と、そ、外の世界を繋げたっていうの?」

 

「そうは言わないけど、いかが? 本当に外の世界と繋がってるかどうか行って確かめてみたら」

 

 優しく促すような口ぶりだったが、霊夢はむしろそれを挑発と受け取ったらしかった。そもそも彼女は結果を恐れて行動しないというような性質ではないし、どちらかといえば短気な方である。ましてや妖怪風情に舐められたまま引き下がれるほど、博麗の巫女の矜恃は安くはない。はっきり言おう、キレたのだ。みきり、とこめかみに癇癪筋を浮かび上がらせた霊夢は手に持ったままだったグラスの酒を一気に飲み干すと縁台に叩き付けるように置き、勢いよく立ち上がって声高に吠えた。いわく、

 

「あーもう、じゃあ行ってやるわよ! だけどあんたの言うことを信じたからじゃない。あんたが口から出任せ言ってるって証明してやる!」

 

 まさに噛みつかんばかりの気魄でもってそう宣言し、霊夢は憤然として一歩踏み出す。

 

 そして二歩目が出ることはなかった。

 

 鳥居の方ばかりを睨み付けるあまり、すぐ足下に穿たれていたスキマに気がつかなかったのだ。

 

 たたらを踏むような格好でスキマの中へ落下していく霊夢。弾かれたように紫の方へと振り返った霊夢は、彼女にしては珍しいことに驚愕した表情をしていた。何か言おうとして口を開いたようだったが、それも一瞬のこと。スキマに飲み込まれた霊夢の姿は熱も光も、音すら発することなく博麗神社から消え、そして霊夢を捕食したスキマもまた一瞬で消え失せてしまう。

 

 かまびすしく賑わう博麗神社の境内から、神社を治め、幻想郷の鎮護を担う巫女がいなくなったが、それに気付いた者はスキマを開いた張本人である紫のほか、1人を除いて誰もいなかった。

 

「歩きながらの天文観測に没頭するあまり、足下の溝に気が付かなかった西洋の賢き古代人の例もあるわ。ひとつのことに集中するその時こそ、広い視野を持つ心のゆとりが欲しいものね」

 

 教訓めかして口ずさんだ紫は、酌をしてくれる者がいなくなったグラスを脇にどけ、自身の問わず語りを締めくくった。ついで、霊夢と入れ替わるようにして自分の背後に現れた新たな気配の方へ、視線を向けることなく静かな声音で呼びかけてみせる。

 

「藍」

 

「――八雲藍、ここに」

 

 かかる呼びかけに応じて姿を現したのは、紫の式神である長身美貌の女性だった。主と式の関係図を意匠にした文様が入った青色の前垂れを白い導師服の上から纏い、紫と同じく光を撚り集めたような金髪に護符の貼られた二又帽子を被せている天狐、八雲藍は、本性である九尾の狐ではなく人間の形をもってその姿を具現化させると紫の方へと数歩寄り、粛々として傅く。

 

「まずはお疲れ様。霊夢も喜んで料理を食べてたわ。あれだけの量をひとりで作るのは骨が折れたでしょう?」

 

「恐れ入ります。橙も手伝ってくれたので、それほどの手間ではありませんでした」

 

 跪いたままでいた藍は拱手の姿勢を取り、恭しく一礼してみせた。

 

「あの子も労ってあげましょうか。今はどこに?」

 

「神具一式が必要になると思い、私の判断で取りに行かせております。まもなく戻ってくるかと」

 

 自身が命令していない行動を報告された紫は体ごと藍の方へと向き直ると、彼女の独断に対し、満足そうな面持ちでもって鷹揚にうなずいてみせる。

 

「さすがね。式とその式が優秀だと手間がいらないから助かるわ」

 

「勿体ない御言葉にございます。すべては紫様の、ご薫陶の賜物でありますれば」

 

 紫の称賛を受けた藍はますます低頭し、完璧な臣下の礼を取った。その表情は凛として変わることがなく、アルトヴォイスに近い魅惑的な声音にも感情が表れるようなことはなかったが、藍の背後にあって、金毛九房の狐尾が彼女の歓喜を体現するようにゆらゆらと左右に揺れている。

 

 嬉しいときに尻尾を振って喜ぶのは犬も狐も同じであり、そしてそれは、1000年の永きに亘って力を蓄えた天狐であっても変わらないのだろう。

 

 優秀なのは有り難いけど真面目すぎるのも考えものね、と、紫は笑いをかみ殺すしかなかった。

 

 顔を上げなさい、と笑み混じりの声で紫が言ったところで、忠実にして堅物な式はようやく顔を上げた。艶然と微笑んでいる紫を、その金色の瞳に深い畏敬と尊崇の念をたたえて仰ぎ見たあと、藍は緩やかに立ち上がり、恐れながらと前置いた上で紫に尋ねる。いわく、

 

「かねてからのお話通り、博麗の巫女はやはり外の世界へ?」

 

「そうよ。……うふふ。なぜこんなことを? と訊きたそうな顔をしてるわね」

 

「い、いえ、そんな。紫様のお考えに異を挟むようなことは決して」

 

 藍の狼狽をおかしそうに見つめる紫は、いいのよ、と応じた後で口元を隠してくすくすと笑ってみせる。その後で、式が抱いただろう疑問に問わず語りで答えた。いわく、

 

「可愛い子には時として試練を与えることが、保護者としての私の流儀だと思っておきなさい」

 

「左様でございましたか。なればこそ、私に厳しく当たるのも紫様のお心配りであるのですね」

 

「ううん。それはただの気晴らしよ」

 

「しゅ~ん……」

 

 いよいよ笑いをこらえきれなくなりながら、冗談よ、と釈明してみせる紫。真面目ゆえにただの軽口も真面目に受け取り、尻尾をしおれさせて落ち込んでしまう藍もまた、紫にとって霊夢には後れを取るとしても心の底から愛しく、そして大切な存在である。

 

 冗談でしたか、と、嬉しそうな困ったような複雑な面持ちをしている藍をよそに紫は残り少なくなった酒瓶を取り上げ、霊夢のグラスに酒を注ぎ入れた。

 

 飲む者がいなくなったグラスを、いつも霊夢が中身を覗き込んで溜息をついている賽銭箱の隣、先ほどまで霊夢が腰かけていたあたりに陰膳がわりに供えてみせる。ついで鳥居よりも先、結界の向こう側には外の世界が広がっているであろう方へと視線を向けながら、紫はここにいなくなった巫女の少女へ、届くはずのない壮行の言葉を投げかけた。

 

「さて。海の広さは、ただ空の高さだけを知る蛙にどんな影響を及ぼすか――博麗霊夢。あなたを再び幻想郷へと迎え入れる日を楽しみにしてるわよ」

 

 


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