東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals.   作:ハシブトガラス

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二日目―――The different side.

 私の一日の始まりは、主に二つのパターンに分けられる。

 文明の利器に頼らず体内時計に従って目を覚ますのが、1。今朝はこちらのパターン。手の内の書に栞を挟み、年代物の木の机に置くのが、2。そのどちらにせよ次の行動は、洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨く事。

 眠気を引きずる事は殆ど無いのだが、早朝の澄みわたる空気には、水の冷たさが良く似合う。

 蛇口を捻るだけで水が出る、水道とは魔術の一種なのではないか、と戯れの思考。地中に通した管の中を水が流れている、そんな事は知っている。知ってはいるが、こんな森の中の一軒家にまで、科学の恩恵は遍く行き渡っているかと思うと、水脈を探り当てて土を掘り進む、そんな魔術より余程不思議に感じられるのである。

 冷水を染み込ませたタオルをきりと絞り、目尻目頭、鼻、頬と個所を移して拭っていく。

 

「ここまでを10分以内……」

 

 時計を横目にキッチンに足を運び、市販のティー・バッグをカップに沈め、お湯を注ぐ。

 味と値段のバランスを考ると、別に1箱幾らの量販店で購入したものでも、目覚めの一杯には十分。これ以上の贅沢を味わいたい気分になったのなら、その時にその分だけの葉を購入すればいい。

 幸いに今の世の中、美味しいお茶の入れ方は秘伝とされず、世間一般に様々な手段で公開されている。知識は共有物、技術は個人所有、進歩した世界の在り方だ。

 

「……ここまでで15分以内、と」

 

 紅茶で体温を上げたのならば、また寝室にとんぼ返り。寝巻を制服に着替え、登校の準備を完了させる。

 体温の馴染んだネグリジェが肌から離れていけば、暖房器具の無い寝室の冷気が皮膚の下まで潜り込むようで、この瞬間を可能な限り短くしようと、細かい着こなしの調節も無しに居間へと戻った。

 テレビは有るが、朝のニュースは没頭しかねないのでパス。情報源として使用するのはもっぱら新聞、『朝刊虫の知らせ』は、午前4時には我が家の郵便受けに収まっている。

 隅から隅まで読む事は少ない。大見出しを抑え、気になった記事には少し時間を裂く程度。今朝の場合は、白玉楼通り方面での事故の話題に目を止めた。

 噂じゃ死後の世界に繋がっているとかいう、好んで住む者も居ない土地。近代的ビル群こそ立ち並ぶが、深夜の人口密度は、おそらく過疎村落よりも小さいのでは無いだろうか。

 

「へぇ、ガス漏れ事故、怖いわねえ……そろそろ30分」

 

 他人ごとの様な感想だが、知人に向こうで働いている者はいない。親身になって涙を流すなんて事は出来ず、それよりも時計の長針の行き先を気に掛ける。

 今から家を立てば、学校に着くのは35分後。常の例に照らし合わせれば、教室に生徒は1人か2人。始業までの時間を利用して、持ちこんだ本を何十ページかは読み進める事が出来る。

 鞄を手に家を出て、後ろ手に玄関のドアを閉める。

 

「『Assemble.』」

 

 居間のキッチンの寝室の灯りが消える、暖炉の火が消える。がちゃりと音を立てて玄関のロックが掛かる、窓の鍵が閉まる。

 今日も平常運転、万事が万事狂い無し。

 

 

 

 

 

 校門を潜り、校庭を横切る。のんびりのんびり、徒歩の道のり。雪を踏みわけ、白い息を吐く。

 目的の校舎からは、合唱部の朝練の美声が聞こえてくる。まっすぐ昇降口へ向かう筈だった足は、ふらふらと引き寄せられる様に校庭の一角へ進み、

 

「~♪ ……あ、おはようございます、先輩!」

 

 傍で見ているだけのつもりだったのに、挨拶をされてしまった。礼には適う様にと挨拶を返し、邪魔にならない様にそれ以上近づかずに居る。

 一年生ながら、彼女は合唱部でも指折りの美声の持ち主だという。素人耳にもそう思う、あと少しだけ技術を身に付けたなら、彼女は近隣校随一のソプラニストとなるだろう。

 確か、この後輩はミスティアとか言った筈だ。何の妖怪なのかよく分からないのだが、背中の翼を見れば鳥の仲間なのだろうとは推測できる。

 美声で獲物を引き寄せて喰う、などといった伝承は、どちらかと言えば人魚の類に似ている様な……ああ、そういえば彼女は『ローレライ』だった、これも忘れてた。

 

「……あ、あの」

 

 然し、何と言おうか本能的に惹かれる声だ。

 人が技術の研鑽の末に辿り着く声とは、それは確かに至高の芸術の一に数えられるものであろう。目に見えぬ筋肉、肺、喉を思うが侭に動かし、自らを一個の楽器にまで高める声楽は、それこそ素人の私がどれだけ真似をしても足元にも届かないものだ。

 だが、彼女の場合は、彼女自身が楽器になるまでは至らない。声量、声質は上級生達と比べて弱く、また未完成。技術を競うのならば、彼女はまだステージに立てない。

 だというのにその声は、歌うばかりか言葉を発するだけで、如何な美声よりも真っ直ぐに心を掴み、引きずろうとする。

 その方角へ歩いていけば、一切の苦しみを忘れ、永劫の安らぎと共にあるだろう。彼女の声は、そんな絶対に有り得ないと断言できる甘美な誘惑を、四方八方に撒き散らしているのだ。

 

「あのー……先輩?」

 

 少し周囲に目を向ければ分かる、首は動かさずに視線だけを左右に振る。ランニング中の運動部も、ベランダに出てきている悪ガキ生徒も、喫煙中の教員方も、皆が彼女を見ている。

 どうせなら最前列まで聴きに来れば良い物を、ああして遠くから鑑賞するだけとは勿体無い事だ。折角、始業に余裕を持った日程を組んでいる。暫くは彼女の歌を聞いているのも――

 

「――ん? ああ、御免なさい。続けて良いわ」

 

 聴衆の欲の無さを悲しんでいたら、いつの間にか彼女の歌声が止まっていた。上級生が数mの距離で、無言で立ち止まっていたらそれは気にもなるか。邪魔をするつもりは無いのだ、軽く詫びて先を促す。

 

「いえ、あのー……歌、お好きなんですか?」

 

 歌が好きか――後輩に投げかけられた問いに、私は不動のままで思案を巡らせた。

 嫌いではない、自分で歌うのも聞くのも、人並みには好む方だと思っている。何もする事が無い夜には、テレビのチャンネルを回して歌番組を探したり、ラジオを聴いたりするくらいには好きだ。だが、そういう一般的な『好き』を、合唱部の彼女が訊ねてくるのだろうか?

 

「いいえ、そういう訳でもないわ」

 

 結論として、特別な感情を歌に抱かない以上、ノーと答えるのが妥当だと判断した。

 妙に自分の声が響くなと思って、周囲に目を向ける。校庭が静かだ、運動部の掛け声も無ければ、ベランダからの馬鹿笑いも聞こえない。これは聴衆に悪い事をしてしまった、あまり長い間、彼女の歌を止めておく訳にもいかないだろう。

 私の答えを聞いて、平均より二周りほど小柄なこの後輩は、表情を曇らせた……様に見える。言葉が少なすぎただろうか、傷付ける意図は無かったのだが。

 悪い事をしてしまったかなと思いつつも、今は聴衆の為に、この場を去る事を優先としていて、

 

「……それじゃ、どうしていつも、私が練習してるのを見に来るんですか……?」

 

 彼女に背を向け昇降口へと歩き始め、その時にもう一つ付け足された問いに、上半身と首だけ後方へ捻る。

 どうやら私は相変わらずの仏頂面をしているようで、ミスティアは怯えたのか怯んだのか、きゅっと身を縮める。私にそういう、彼女を害する意図はない。身体、精神の両面でだ。

 じゃあ、どういう意図があるのだろう、自問する、

 取り立てて興味が無いのなら、そもそも脚を止めるまでもない。その時間を自分の為に使う。

 何故、興味を持ったのか。それは彼女の歌が聞こえたからだ。とは言え、歌としての完成度を言うなら、彼女の先輩たちの方が数段上だ、それは客観的な評価として正しい筈。歌詞やメロディも、競技の題材としては優秀なのだろうが、盛り上がりに掛ける退屈な曲に聞こえた。

 成程、自己分析は終了した。ようするに私は、彼女の歌には愛着を抱けなかったが――

 四歩で遠ざかった距離を三歩で埋める程、大股で近づき、

 

「私は『貴女の声』が好きなの。良いから続けなさい」

 

「え――えっ!?」

 

 俯き気味なのが気に入らない、顎を引いて顔を上げさせる。額を軽く指で弾いてやってから、同じ速度で教室に向かった。

 ふと気付けば、校庭や校舎の賑やかさは、普段の二割増しくらいで帰ってくる。ミスティアの歌声が復旧したのは1分少々後の事であり、声の色は普段よりもむしろ鮮やかだった。

 

 教室に到着して自分の席に座ると、珍しく同級生に声を掛けられた。

 

「アリスさん、大胆だねー……」

 

「そう?」

 

 何に対して言われた事なのか、良く分からない。分からないがこの日以降、靴箱に忍ばせられるラブレターが激減した。メモ用紙の入手先が減った訳である、残念だ。

 

 

 

 

 

 授業4つを終え、昼休みに入る。進路に合わせて授業科目の変更を受ける我が学び舎だが、私の場合は基本的に、受けられるものは全部受ける。

 知識は多いに越した事はない。役に立たないと思っていても、どこでどのように生きるか分からない。どうせこれだけ詰め込めるのは学生の内だけだ、身分の特権を利用しようではないか。

 

「……見事な模範的学生だな、午前午後で合計6コマか」

 

「どうせ学費は同じよ」

 

「そういう事じゃない、ないんだが……間違ってはいないから困るぞ」

 

 別に友人が欲しくない訳ではない。ただ、何故か近づいてくる者が少ないだけだ。机に張り付いている彼女、犬走椛は、その例に該当しない珍しい妖怪だった。

 彼女は就職希望の様で、午前は一般教養二つ程度。午後は技術実習か、バイトに出るか部活動か、だ。そんな彼女から見れば、確かに私の日程は、過剰積載に映るかも知れない。

 実際、そういう事も無いだろう。私は学業が終われば、後は家での時間になる。それに、普通の学校ならこの程度の授業数は当たり前だ。翻って彼女は勉学を終えたなら運動、或いは労働を行い、帰宅後も近所付き合いで労働。合間合間に時間が入るだけで、彼女は私とそう変わらないか、それ以上に密度の濃い一日の筈だが。

 

「……隣の芝は虹色なのよ」

 

「紫色の芝生の上で野球はしたくないよ……どっかいくのか?」

 

「屋上。静かだもの」

 

 今朝、ミスティアの歌を聞いていた為、結局読書を進められなかった事を思い出した。

 平凡な恋物語だが、主人公の恋人の回りに、複数の女の影が見えてきた所だ。盛り上がりそうな部分なのだ。……ちなみに、主人公は女性であり、その恋人も女性である。ドロドロとした愛憎劇であることだなあ、などと古文風に感歎。

 置き去りにされた椛も、不平をこぼす事はない。彼女は私の行動に慣れてしまっているらしい。昼食なら誘っても良かったが、生憎と読書。沈黙が支配する場に、同行者を連れていっても仕方が有るまい。

 

「……いや、同じ本二冊で品評会を開くというのも……」

 

「お前の独り言は思考の経路が良く分からない」

 

「気にしないで、大したことじゃないわ」

 

 彼女を友人と呼ぶ事は正しいのだろうか。いや、呼んでいいなら喜ばしいのだが。まあ、休日に二人で買い物にでた事もあるし、こうして短い言葉のやりとりもする。これなら一般的な友人の定義に当てはまるのではないか、と信じたい。

 鞄から本を引きずり出して教室を出るまでの間、空腹の椛は学食へと幽鬼の様な足取りで進み始めていた。……普段なら、背筋を伸ばして歩いていくだろうに、どうしたのだろう。

 私自身はと言えば、体調良好の今日の事。歩幅も速度も平常通り、靴に一定のリズムを刻ませる。

 廊下の掲示物は、今日は張り替えられていないらしく、昨日と全く同じものばかり。これもそうだ、これも読んだ、これも読んでしまった、目を滑らせる程度に留めて、人の流れへ興味の方向性を変える。

 教室で感じた違和は、風邪の流行かとも思った。何せ、擦れ違う他の生徒にも何人か、椛と似た様な表情の者がいたからだ。人間よりは妖怪に、妖怪の中でも無機物の怪よりは半獣形の妖怪に、その割合が多かった気がする。

 自分自身が健康体だからだろうか、昼まで気付かなかったのは迂闊だった。帰宅したらうがいくらいはしよう―――

 

「あたっ」

 

「あ、ごめんなさい」

 

――廊下で話をしていた誰かにぶつかってしまった。詫びて直ぐに去ったが、顔を見る事もしていない。誰だっただろう?

 髪を止めるあの大きなリボンは、確か同級生の博麗霊夢の筈だ。近くで何か打ちひしがれていたのは、隣のクラスの河城にとり。その2人を観察する様に、何か嗜虐的な笑みを浮かべていたのは、一年の古明地さとりだったと記憶している。

 我ながら、関わりの薄い人妖の名を、良くぞ此処まで覚えているものだ。先輩達の名前も顔も、普段は意識しないが、おそらくは8割方は覚えている筈。同学年は全員、後輩なら9割程……む?

 先輩と後輩で、記憶しているであろう割合が違う。それはつまり、興味の持ち方に差が有るという事だ。

 

「……そうか、私は年下好きだったのね」

 

 独り言を聞く者はおらず、ツッコミを貰う事も無い。屋上への階段を登り、躊躇う事も無く鍵を開けた。うっかり鍵を閉められても、実は私の場合、そこまで困りはしない。

 

 

 

 

 

 さて、私の半日を振り返ってみて、疑問を抱いた方もいるかと思われる。起床からの6時間、睡眠時間も併せて14時間(する事が無くて早く寝たのだ)、私は紅茶一杯しか口にしていない。

 それで、健康な体を保てるのか? 空腹で倒れはしないのか、と。端的に言えば、私には食事の必要はなく、本来なら睡眠の必要すらない。

 アリス・マーガトロイドは魔法使いという種族である。

 幻想郷に住む者を大別すれば、人間と妖怪の二種類に分けられる。多数派の人間、少数派の妖怪。私の住む地域では、むしろ妖怪の数の方が多い様にも思えるが、それに私を当てはめるなら、後者に分類されるのだろう。

 だが、私のご先祖――それが何代前かは知らないが――は、人間であった。人間が魔法を、現在の呼び方でなら魔術を身に付けた結果、食と睡眠が不要な存在となったモノ。それが魔法使い、私という訳である。

 かの『幻想の幻想』より更に昔から、幻想郷には魔法が当然の様に存在した。様々な文献に記述が残っているし、昔話の類にも語られている事が多い。歴史の教科書を紐解いてみれば、魔術史と題して数ページばかり、人名十数個が散らばっている。

 然し、今の幻想郷では、日常的に魔術を用いる者など殆どいない。何時の頃からか幻想郷は、内包する存在を、現実的なものへと変えてしまっていたからだ。

 長命の種族は過去に居た。今は、妖怪と人間の寿命に大差が無い。

 空を行くには飛行機という巨大な金属塊が必要になる。自力で飛べるのは、言葉を解さぬ鳥や虫だけだ。

 魔術という知識はあれど、実行する技術を持つ者が殆どいない。魔術が生む奇跡の代価、支払うだけの魔力を持つ者が少ないからだ。

 然し、例外はどの時代にでも存在する。

 例えば、『博麗の巫女』。幻想郷の守護者として定められた彼女〝達〟は、生まれながらに強い力を持つという。それは魔力の最大量であったり回復量であったり(彼女達なら霊力と呼ぶが相応しいだろうか)、勘の良さだったり頭の良さだったり運動神経の良さだったりするらしい。

 妖怪の脅威に、それ以上の脅威として相対するのが役目。そして彼女達は、それを苦とは思わない。彼女達が代々受け継ぐ術の数々は、今の幻想郷に於いて、対抗できる者は十を数えないともされる。……今の幻想郷とは、海の向こうの大陸やら何やら、兎角広い世界を示す言葉である。

 例外というなら、私も例外だ。私の場合は、生まれつき魔術を知っていた。

 赤ん坊がやがて立ちあがって歩くように、私は長ずるにつれて魔術を思い出し、扱えるようになってきた。

 身長が伸びるのに合わせて魔力の最大量も増え、体重が増えるに合わせて魔力の回復量も増え、過去の文献に記された魔術の幾つかも、今ならば十分に再現できるレベルの力を持っている。

 殴り合いなどしたら、非力な私では、校内ですら下から数えた方が早いだろう。

 だが、事が全力の―――互いの存在の否定し合いとなるなら、私に勝るのは校内で1人だけだ。そう、先に名を上げた博麗の巫女、博麗霊夢。客観的に彼女には勝てそうにないが、その他の誰に負ける気もしない。

 飛ぼうと思えば、何時かは飛べるようにもなるかも知れない。今は無理だが。もしかしたら何処かの文献に、小さな魔力消費での飛行技術を発見できるかも知れない。

 得た知識の数だけ、私が出来る事は増える。こんな楽しい事、そうは見つかるまい。だから私は、1人でこうして読書をするのが気に入っているのだ。

 

「……でも、寒いもんは寒いのよ」

 

 ここは校舎の屋上、季節は冬の真っただ中。制服は冬服だからと言って、完全に寒風をシャットアウトしてくれる訳ではない。

 習慣だから此処で読書を楽しんではいるが、我ながら半分程意地になっている気がする。雪が積もった時など、座る事が出来ないからと、直立したまま昼休みの終わりまで過ごした。

 そろそろ新しい定住地を見つけよう。いっそ校内に図書室の設立を要求してみようか―――在学中に叶うのか?

 ぱたむ、適当な所で紐の栞を挟み、B級恋愛小説を閉じる。屋上は一応立ち入り禁止の場所、階段を降りた時に教員に出くわすのは御免だ。たしか5歳ごろには使えるようになっていた、探知魔術を発動させて……

 

「……?」

 

 屋上に、何か有る気がした。

 何も無い、目に見える範囲では。だが、私の探査網には、確かに魔力の塊が引っ掛かる。いや、塊というよりは図面、複雑な図形を描いた様な……?

 意識して探知範囲を広げていけば、似た様な形状のものがもう1つ、2つ、3つ、校舎の様々な個所に。まだ有るだろうと網を広げていって、その内に私の探査限界距離に達してしまう―――と、いうのと。

 

 きーん、こーん、かーん、こーん。

 

「……あ、始業5分前」

 

 時間的な限界もあり、それ以上屋上に留まっている訳にもいかなかった。

少なくとも昨日、こんなものはなかった筈。昨日の夜から今朝に掛けて設置されたものだろうか。学校に仕掛けられた魔術の匂い、これはどういう目的で用意されたのか? 知的好奇心が猫ならぬ己を殺す羽目になろうとは、流石に私も予測していなかった。

 

 

 

 

 

 幸運だったのは、今日は6コマ目を終えた後は、先生方もほぼ全て学校を離れる日程だった事だ。生徒の家を回ったり、何処かに出張したり。学校の守りは防犯装置にお任せ。完全に学生がいなくなった6時半ごろ、用務員が鍵を掛けにくるらしい。

 この季節なら、その時間はもう完全に夜。確かに学生は残ってはいるまい。いや、部活動もこの季節だと、明るさと足場を求めて、校外で行う部ばかり。

――或いはこの特異な学校の体質が、餌場として狙われた原因かも知れない。

 校内をくまなく歩き回り、違和を感じたのは、屋上を含めて8か所。校舎を立体的に感じれば、それぞれの間隔はほぼ等しい。

 8つの魔力の塊は、相互に何か繋がりを持ち、魔力を送信しあっている様だった。

 それは、監視カメラの様でもあり、警報装置の様でもあり、何らかのトラップの様でもあった。正体がまだ分からないからこそ、私はそれに気を惹かれた。

 魔力探知の種類を切り替える。生物非生物を問わず〝動くもの〟を捉えていた今までの探査網から、魔力だけを見る、より限定的なものへ。何処から何処へ、どういう目的で魔力が流れていくのか、それを探る為だ。

 

「……外部から魔力を注がずに作動する……自家発電?違うわね、これは……」

 

 設置型の術式は、発動時に注がれた魔力が無くなったのなら、外部から補給をしなければならない。ところがこの術の場合は、どうやら術自体が魔力を収拾する事で、術者からの補給を不要としている。

 大気中の魔力を回収するだけでは、最終的に赤字になる。密度が薄すぎる為だ。霊地にセッティングするならば兎も角、謂れも無い土地の学校の大気など、ただの酸素でしかない。

 この術は、術の効果範囲内に存在する生物全てから、継続的に魔力を吸い上げているらしかった。これならば、吸い上げられる側が持ちさえするなら、確かに効率は良いのだろう。一人一人の所有魔力量が微弱になった時代でも、常に200人近くから魔力を吸い上げ続けられる。帰宅して1日休めば、一般人ならばまた、所有する魔力の量は最大まで回復している筈だ。

 ……以上が、私の見立てである。全て正しいという自信はないが、6割方は真実に近づいている筈だ。誰が仕掛けたかは知らないが、あまり気分の良いものではない。撤去できるなら、それに越した事はない。

 とは言え、私の得意とする術の分野は『使役』、自分に権利が有る物を扱う技術だ。他人の土地で、他人が作った術をどうこうするというのは、正直な所、苦手な部類に入る。

 まずは帰宅しよう、明日になったら図書館へ向かおう。過去の文献をあさり、解呪の術を中心に調べ、この魔力塊を除去する。正義の味方を気取るでもないが、自分の周囲にこういう事が起きるのは耐えがた――

 

 が、しゃあん。

 

「――……?」

 

 鉄板を床に倒してしまった時の様な、けたたましい音が聞こえた。校舎の外だろうか、音源はなんだろう。あんまりに、危険な音に感じた。

 近くの教室のベランダから覗いて、考え違いに気付く。私がいた3つ向こうの教室のベランダ、屋上のフェンスの一部がそこへ落下していた。

 あまりに、状況の変化が急すぎる。何が起こったのかを正確に理解出来ぬまま、落下してきた金属フェンスへと掛け寄った。

 

「斬られてる……!?」

 

 ニッパーで1つ1つ切断したり、重機で纏めて引きちぎったり、そういう痕跡はない。鋭利な刃物で一息に切断すれば、この様な断面が生まれるだろう、そう推察できる。

 フェンスを、誰が斬るというのだ。意味が分からない、目的が分からない。いや、考えるべきはそこではない。

 誰が、フェンスを斬れるというのだ。

 細くとも金属、戯れに刃物を振り回して切断できる代物ではない。長さも長さだ、普通に手に刃物を持って振り回して、届く範囲を超えている。

 危険だ、と思った。探知魔術も用いる事なく、階段を駆け降りた。昇降口まで駆け降り、靴を履き換え、直ぐにでも家に帰ろうと決めた。一晩過ぎれば、その異常ももしかしたら収束しているかも知れないと、期待を抱いたのだ。

 

 

 

 

 

 昇降口の直ぐ外には、見知った後ろ姿が立っていた。長めの髪を止める大きな赤リボン、やや高めの身長、同級生の博麗霊夢だ。彼女は、私が探知を行わずとも感じ取れる程の魔力を、自らの周囲に巡らせていた。

 術の種類も、見れば分かる。『結界』―――外と内を分断する、守りに長けた術。彼女は、何かから自分の身を守っている。

 その〝何か〟が1体ではなく2体だという事に気付くまで、暫く時間が掛かった。私より数m先に霊夢、その数十m先に人影1つ。夜ではあれどその姿は、手にした刃から散る火花に照らされて映し出される。

 成人女性、だと思った。きっとインドア派なんだろう色白で、細身で、出来の良いドールのよう。ここから見える情報には限りが有るが、彼女の手足が、まともな人妖のそれと作りが違う事は分かる。

 柔らかそうな肌、薄くしなやかな筋肉、骨格から華奢な腕が、相応の重量を感じさせる刀を振りまわしている。戦闘行為を行う為に必要であろうと予測されるシルエットから、それは大きくかけ離れていた。

 纏う衣は、袖丈が二の腕の中程までしかないワンピースドレス。薄緑色の布地は、きっと絹か何かなのだろう。白い布を花の形に作り、またレースにして、所々に装飾を散らした彼女の服は、普段着にしては小洒落ていて、フォーマルな場には品格が足りていない。時折こちらに背を向ける時、背面の大きな汚れが目立ち、それが彼女にそぐわぬ風に映る。

 あのフェンスはおそらく、彼女がやったのだ。何の変哲もない刀にしか見えないが、彼女が手にしていたのならそれも頷ける。外見は只の女性だが、まさかその通りの存在だと思える筈もない。

 彼女は、妖怪ですら有り得ぬ程の速度で動いている。生物が、あの様な無理のある速度で動ける筈がない、と私は思っていた。現実に動いてしまっている彼女は、私の知識と常識の遥か外に存在するらしい。

 見えぬ〝圧〟と衝突する度、彼女はか弱い脚に掘削機械も斯くやと力を込めて踏みとどまり、押し返している。

 〝圧〟の正体が、そこにいたもう1体。刀を持った彼女を襲う火花の製作者。

 それを、私はまともに目視出来ていない。黒い風景に黒い線が惹かれる、一瞬一瞬を見ていただけだ。どうやらそれは、彼女を左右から襲っているらしく、そしてどうやら人型の何かであるらしい。

 空間に引かれた黒線を追って、視線を横へと走らせる。一秒程度も有っただろうか、それを観察する機会が与えられた。

 黒かった、としか言いようがない。頭から足首まで、一枚の黒布に覆われている。手足をどれだけ動かしても衣は剥がれず、痩躯に黒は張り付いたまま。周囲に比較対象が無いから確実ではないが、私や霊夢より背は高く、刀を持つ女性よりは低い様に見える。フードの隙間から見えた顔はいやに白く、おそらく面を付けているのだろうと思われた。

 私は動けないし、霊夢も動かない。あの戦いに、割って入る術が無い。

 どちらが優勢なのか、それすらも分からない。

 ただ、見ている事を知られてはいけないと、何故だろうか、悟ってしまう。

 あんなものは、そもそも今の幻想郷に存在出来る筈がない、外れに外れた規格外の常識外れ。座して待てば首を掴まれ、引きずられて何処か知らぬ場所へと捨てられてしまいそう。

 そうなれば私は朽ちた人形となって、倒木に背を預けるのだろう。水気を失った眼球が、眼窩を転がってからりからり。見ているだけでもそうなりかねない、瞬きも出来ず目が乾く。

 そうして、逃げようという思考と、その試みに従わない体との葛藤を繰り返す事数度。黒い影はとうとう脚を止め、周囲に暴風を散らし始めた。

 陸上部の練習風景で見かける、クラウチングスタートの構え。その意図は明明白白、最大の速度で跳びだし、駆け抜ける為のものだ。先程までの視界に止まらぬ速度を、更に増して、自らの質量をそのまま凶器に変えてしまえば? それはきっと、機械仕掛けの巨大な鉄杭となって、刀を持つ彼女を貫くに違いない。

 そう、あの構えを見た瞬間に、私は其処まで想像してしまった。私に理解出来なかった彼女達の優劣は、この瞬間に限っては明確になる。黒い影がスタートを切った時、火花散る戦いは終わるだろう。

 

 終わった時、私は? ここにいてはいけない筈の私は、どうなる?

 

 逃げよう、あの2人の決着が付く前に。彼女達から見えない場所まで逃げよう。昇降口に留まっていてはいけない、上の階の教室に隠れるのだ。太陽が再び登れば、影も光に照らされて、居心地の悪さに消え失せるだろう。

 そうだ、時間が解決策となる。此処から逃げれば助かる。私は、足音を立てない様に最大限の注意を払い、且つ迅速にその場を去った つもりで居た。

 10mも行かず、階段が有る。階段は音が響く、慎重に、慎重に。1段、2段、3段、一歩ごとに脚を休ませ、音の反響が無いか耳を澄ませる。

 大丈夫だ、これならいける。4段、5段、6段、更に登り続けて踊り場に辿り着いた。まだ半分でしかない、ここから先はまだ長い。

 自らの安全と成功の確認の為、私は不必要に後方を顧みてしまい、

 

――ぐしゃ

 

 その瞬間は私には知覚出来ず、理解したのは、胸と背中がほぼ同一箇所に移動させられたという事。一秒未満の時間の中で、黒い布の隙間に覗く能面が、本来のそれよりやけに白く見えた事。

 なにがおこったんだろうな、なんて、言葉にする暇を貰えなかった。

 

 電源を落とす様に、全てが消えた。


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