東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals.   作:ハシブトガラス

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二日目、学校―――Jump the gun.

「―――セイバー!」

 

「任せてなさい! 霊夢は自分に結界!」

 

 黒いローブ、目深に被ったフード。足首まで黒い布に覆われて、止まぬ風に身を揺らす。左腕はローブの中に隠れていて、おどけた能の面は右手に。中指と人差し指に挟んで、振り子のように揺らしている。

 影に溶け込みそうな程に、その影は黒かった。

 

「マスターが結界、サーヴァントが攻撃? 成程成程、バランスが良いですねぇ。ですが御安心を、私はマスターを狙うつもりは有りませんので―――」

 

 霊夢が接近に気付かなかった訳ではない。その影は気配を隠す事もなく、魔力を抑える事もなく、轟音を立てて現れた。だというのに、霊夢が振り向くより先に、影が其処にいた、理由は一つしかない。

 

「―――いえ、まあ。狙うつもりなら、もう既に首を頂いております、が」

 

 その影は、霊夢の感知範囲外からフェンスの上まで――100m以上の距離を、霊夢が気付いて振り向くまでの間に埋めてそこに立ったのだ。領域を支配する結界術師の索敵を、全くの無用の長物とばかり嘲笑い、目晦ましも何も行わず速度だけで打ち破って現れたのだ―――!

 

「ランサーかしら、その速さ。霊夢を狙わなかったのは余裕って奴?」

 

「いえいえ余裕などございません、そうして良いならそうしていましたとも。ですが私にも、並々ならぬ複雑な事情がありまして……」

 

 黒衣の死神―――新たなサーヴァントは、よよとしなを作って目頭を抑える。……おそらく、目頭だろう。太陽に取って代わった遠くの街灯が、フードに大きな影を作っている。

 見た所では、目立つ武器は持っていない。過去に存在した幻想の一つならば、武器か術を見ればその正体は知れる筈だ。隠蔽していると見るべきか、武器を持たないサーヴァントと見るべきか。

 武器、というなら。セイバーは武器をどうするのか、霊夢はまだ知らなかった。

 剣士(セイバー)というからには剣を使うのだろうが、まさかいきなり正体を明かす事はすまい。

 何処かで武器を調達するか、或いは魔術で以て生成すると考えるのが自然だが、

 

「霊夢、事後承諾だけど借りたわよ!」

 

 からん。木製の鞘が、屋上のコンクリートの上に落ちる。セイバーは、一振りの刀を右手に構えていた。白木の鞘、片刃の反りの無い刀身。強度こそ低いが、どこか神聖な、懐かしい気配の――

 

「――って、それうちの神社の御神刀!?」

 

「なんか良い雰囲気出してたからね、借りてきちゃった。これいいわ、いけそういけそう。……それじゃ、始めようかしら。あんまり待つのも飽きたでしょう?」

 

――き、ぃい。

 前方180度、全てのフェンスが同時に軋みを上げた。

 

「ぉぉお、おっ? っととおっ!」

 

 敵のサーヴァントが飛び降りると同時、軋んだフェンスが「ずれる」。形状を保ったままで数センチ程ずれて、重力に逆らえず、張り出した3階ベランダへと落下していった。

 斬ったのか? そこに居ながら、刃も届かせず、金属製のフェンスを? にわかには信じ難く――いいや、疑う意味も無い。彼女達は、そも規格外中の規格外。理の外の存在である。

 

「……い、ぃいやあぁっ!!」

 

 敵が着地するまでにの時間、自由落下に身を委ねている内に、セイバーは己が身を弾丸と変える。一足未満で間合いを詰めて、余力で体を留め、前進の勢いそのままに敵の胴を横薙ぎに――

 

「危なっ! 加減ないですねえ貴女!」

 

 止められた。敵サーヴァントは刀の腹を蹴りあげつつ上体を逸らし、軌道の逸れた刃の下を潜り抜けて、セイバーの後方へと回り込んだ。振り向く間を惜しみ、目視を伴わず背後の空間を斬るセイバーの刀。それをまた、今度は足の裏で押し込む様な蹴りで打ち返す。

 弾かれた刃を引き戻して振り向くまでの、ゼロコンマにも満たない時間で、攻守は交代した。

 蹴る、蹴る、蹴る。手も魔術も使わず、そのサーヴァントは蹴りの豪雨を降らせる。脛を狙っての爪先蹴り、手首を狙う足刀、踵で鳩尾を打ち上げる背面蹴り、足の甲を用いた廻し蹴り。洗練された武術とは違う。高い身体能力で脚を振り回す、喧嘩にも似た野卑な蹴撃――!

 だが、セイバーも負けてはいない――いや、技量では勝っていると言ってもいい。敵が放つ蹴りの全てを、後退する事なく左手で打ち払い打ち落とし、合間に刀で突きを放つ。線の斬撃に比べて攻撃範囲は狭くなるが、一度に加わる力は比較にならない、突き。

 然して突きを回避するだけならば、軽く刀の側面を叩いて、自分自身の体をずらしてやればそれでいい。黒衣の影は余裕を以て対処する。後退しながら蹴りを放ち、突きを避ける為に側面へ動き、時折は背後を取ろうと潜り込み。

 セイバーは引き離されただけ踏み込み、横へと跳躍し、振り向きざまに首狙いの斬撃を放ち。

 二者は決して必殺の間合いを外さぬまま、立ち位置を変え続けながら斬り蹴り結ぶ。

 

「斬れないわね、どういう足をしてるのよ?」

 

「自慢の美脚ですとも、はい」

 

「馬鹿にして!」

 

 敵サーヴァントの減らず口を叩き潰さんと、セイバーは大上段から刀を振り降ろす。悪手だ。破壊力こそ比類無いが、相手はセイバーを速度で上回る。唸りを上げて振り下ろされた刀が、敵サーヴァントの頭が有る筈の空間に到達した時には、

 

「……若い子は堪え性が無いですねえ」

 

「なっ……!?」

 

 能面を紐で顔に固定し、両手を空けた敵サーヴァントは、セイバーを背後から抱きしめる様に組みついていた。左腕で左肩を抑え、右手で刀を持つ右手首を掴み、胸を背に押し付けて大きく動く隙間を潰す。

 組み打ちで勝とうというつもりではあるまい。この短時間の攻防、力ならセイバーが数段上だと見えた。なら、自らの最大の武器である速度を殺して、黒衣の狂鳥は何を企む?

 跳んだ。セイバーが斬り裂いたフェンスを背面跳びで、彼女を掴んだままで、敵サーヴァントは学校の屋上から、我が身を大地へと投げ出した。階数にして四階、十数m。早送りされた映像の様な、不自然な加速で、二者は絡み合って落下する。

 

「セイバー!?」

 

 彼女の事は心配いらない、霊夢の理性はそう伝える。この程度の落下なら致命傷にはならない、敵とのスペック差は歴然。寧ろ、マスターという枷を失った彼女は、遠慮無しに周囲を巻き込みかねない攻撃すら放てる筈で――

 問題というなら霊夢の方に有る。彼女自身、感知の対象範囲には自信がある方だ。地上で戦闘を再開した2人を、霊夢は今も補足している。

 だが、彼女ははっきりと理解させられた。サーヴァントには人間の術など、破るまでも無い児戯なのだと。セイバーから離れてしまえば、霊夢を守る者は誰もいない。彼女は、害意を持つ者に背後に立たれるまで気付けないかも知れない。

 危険だ。ここに一人で居るのは、漁夫の利狙いのハイエナに、わざわざ新鮮な肉を喰わせる様なものだ。二人が視界から消えて、探知網に反応するだけの存在となった瞬間、霊夢は階段を一足抜かしに駆け降り始めた。

 日の短い冬、夕暮れの境界は夜に浸食された。廊下も教室も照明を落とされて、自分の足が何処を踏んでいるか把握し辛い。こうして視界に制限を加えられて初めて、自分がどれだけ経験則に任せて歩いているか再認識する。慣れ親しんだ廊下をブレーキ無しに曲がり、靴箱から外靴を引きだした。

 履き替える時間が惜しい。だが、内履きの耐久性で外に出るのも、万が一を考えると良しとは出来ない。戦えないなら一瞬でも長く逃げなければ。靴に足を取られてお終い、では間抜けすぎるではないか。

 学校指定の内履きが並ぶ下足箱。ただ一足だけ残されたブーツ、それを見落としたのは迂闊だったと悔やむしかない。

 

 

 

 

 一分も掛からずに、霊夢は屋上から校庭まで駆け降りた。だがその時間は、サーヴァント達には長すぎる程の時間だった筈だ。

 互いに広いフィールドを好む為だろう。戦場は、校庭の中央へと移動していた。

 常に踵を浮かせ腰を落ちつけさせず、数分の一秒も止まらずに馳せる敵サーヴァント。大地に根差した両足を柱とし、鉄槌の如き一撃でそれを迎撃するセイバー。

 人間である霊夢の目には、行動の後の残像が線として映るばかり。空を支配した夜陰が、視認の難易度を跳ね上げる。屋上での戦闘より、両者とも数段速い。主という足枷が無ければ、彼女達はこうも化け物じみているのか。

 取分け敵サーヴァント、黒衣の影の速さは、霊夢の認識速度を遥かに越えている。

 視界の右端に影が映ったかと思えば、その時には左端で方向転換を終え、また姿を消す。

 昇降口から彼女達までの距離は50m以上。人の視界が120°程とするならば、かのサーヴァントは200m近い距離を瞬時に消し去る。彼女が道を行くのではなく、道が彼女の為に自らを消滅させているのでは、と思わされる程だ。

 駆け抜ける侭に脚を突き出し、爪先を鏃の如く突き出す。地に伏せ、跳ねると共に脚を振り上げ、足甲で顎を打ち抜かんとする。急ブレーキでセイバーの空振りを誘い、肘を狙って後ろ廻し蹴り、踵にて砕こうと企む。反射速度と卓越した敏捷性、バランス感覚は、如何なる場面からでも攻撃に転ずる事を可能とする。

 それでも霊夢は、これならば勝てると安堵していた。

 敵サーヴァントの蹴りは、チェーンソーよりも鮮やかに木々を両断していくだろう。だが、あの死神の脚が伐採機なら、セイバーの剣はビル解体の鉄球だ。迎撃の度に轟く金属音は、これだけ離れていても隣室の事の様に聞こえてくる。ただの神社の御神刀が、彼女の手に有るというだけで、岩塊をすら砕く兵器となる。

 如何にあの死神が強靭な脚を持とうとも、1秒ごとに数百mを休まず駆け続けている。疲労は少なからず蓄積する。その上でセイバーのあの一撃を、〝彼女に向かって進みながら〟脚だけで受けているのだ。

 あれだけの速度が有れば、壁にぶつかるだけでもダメージは大きいだろう。増してやセイバーの振るう刀の衝撃は、壁が自分から高速で向かってくる様な物。自らの武器である速度が、自らの脚を痛めつける。このままに均衡が続けば、数分の後には勝敗は決するかに見えた――セイバーの勝利という形で。

 だから黒衣の死神が立ち止まろうと、その位置がセイバーより十数mも離れた場所であろうと、霊夢の警戒心は正常に機能しないままに勝利の確信ばかりを告げていた。

 

 

 

 

 

「やっと止まったわね、疲れた?もう二度と走らなくても良い様にしてあげるわ」

 

「御冗談を。私は30分以上動かずに居ると死んでしまうんですよ」

 

 動きを止めた敵を前に、セイバーは漸く息を吸い込んだ。

 屋上から転落し砂利の上に叩きつけられ、更に蹴りの暴風を防ぐこと約2分、全身の重さを一転に集中し速度と併せるあの一撃を防ぎ続けるには、力を入れ続ける他は無かった。刀を振るう毎に吐気、鉄脚を止める毎に吐気。息を吸おうとしたのなら、その瞬間の脱力を狙われる。負ける気はしないが、あのままならばセイバー自身も体力を削られていき、何処かで大きな負傷をしていたかも知れない。

 嫌な相手だ、心底そう思った。博打に出てくれるなら、そこに全力を注いで一太刀に斬り潰す。最良の安全策を、更にリスクを薄めて行使してくるが為、捉える事も儘ならない。

 然しリスクを冒さない以上、総合的な能力で勝る自分が最終的には勝てる、それも事実だろう。

つまり敵サーヴァントは、決して勝利に繋がらない戦法を何時までも続けていて、セイバーは勝利の瞬間をずるずると引き延ばされながら体力を消費させられているのだ。漁夫の利を狙う第三者など居たのなら、垂涎物の好機と映っただろう。

 焦らず、だが迅速に勝たねばなるまい。相手も流石に速度は落ちてきた、後十数回の接触で捉えきれる筈。刀を受けさせて脚を止め、掴んで地面に引きずり倒し、急所を貫いて一撃で仕留める。組み合えば力の差は、勝負にもなるまい。赤子の手を捻るより容易く組み伏せられる。ならば先手を取り行動を誘発すれば、体力の回復を計らせず――。

 

「……ううん、困っちゃいましたねぇ。私じゃどうも勝ち目が薄い様で……」

 

 だというのに、踏み込めない。こちらが動けば向こうも動く、向こうはこちらより速い――そんな、物理的な話ではなく。

 間合いを詰めるな、過剰に接近するな、セイバーの中で誰かが叫び、心を掴んで押しとどめる。私が勝つには今までの戦法を捨てず、あの展開を繰り返せというのだ。

 そうすれば勝てる、勝てるのだから動くな。絶対に動くな。止めろ、考え直せ。本能は勝利を告げるのではなく、負けを恐れて彼女を引きとめている。

 

「きっと、私の知り合いの誰かなんでしょうねぇ。お互いに正体を明かせないのは寂しいものです。どうです、ここは一つ昔馴染みのよしみ、今夜を無かった事にしてお互いに手を引くというのは――」

 

「笑わせないで。今の状況が対等だと思う? 貴女を斬るわ、斬って私は凱旋するの」

 

 ふう。黒衣の死神は、子供を宥める親の様な態度で溜息をつく。交渉の決裂、いや交渉のテーブルにつくだけの条件を用意出来ていない事を知ったのだ。

 速度の差はあれ、背を向けて逃げようとするならば、振り向く間にセイバーに背中を斬られるだろう。セイバーの力なら、その一撃を十分に致命傷に出来る。戦闘を継続すれば、聖杯戦争初日にして、最初の脱落者が生まれる筈だ。

 ……筈、だった。と言い変えるべきだ、訂正する。

 

 

 

 

 

 砂塵が舞う、風避け代わりに植えられた木々が悲鳴を上げる、校舎の窓ガラスが軋む。『それ』を中心として円形に発せられる圧は、空気の流動を因とするもの。

 

「――仕方ないわね、手加減したげないわ」

 

 黒衣の死神、風の暴魔は、圧の発生源に立ちながらローブを揺らす事も無かった。

 

 屈みこみ、地に両手を付ける。人差し指と中指、親指に体重を被せる。薬指と小指を、バランスを保つ為だけに添える。左膝を胸に抱え込み、右脚は後方に軽く曲げたままに置き、踵を持ち上げる。

 

 前傾姿勢――いや、低すぎる。

 獣の狩り――いや、まだまだ低い。

 

 例えるならば――陸上競技のクラウチングスタート。速さを追求した人間達の、一つの答えの形だった。

 

 

 

 

 

 サーヴァントの争いの射程外(或いは射程という概念すら無為やも知れぬが)にいた筈の霊夢は、平和的な競技の為に発展した筈のその構えが、如何な拳足よりも恐ろしい物に思えた。

 汗が冷える、汗を掻いていた事にすらこの瞬間に気付く。背に氷柱を突き通された錯覚すら有る。

 あの黒衣のサーヴァントは、数値を見るならばセイバーに遠く及ばない。遠距離、補足している時間が短いからだろうか、幾つかのステータスは虫喰いの様になっていて見えないが、筋力と魔力、攻撃に影響するだろうステータスは何れも、セイバーを下回っている。

 

「……セイバー」

 

 勝てる筈、そう信じたい。信じたいのに、勝てないと『勘』が訴える。あの構えに勝つには、今のセイバーの刀では駄目だ。その様な貧弱な武器では、持ち主ごと破壊されてしまう。

 アレは『宝具』だ。サーヴァントが最悪の兵器である所以の、形を為した伝説。真名を解放されずして渦を巻く暴風、敵サーヴァントの黒に染まった魔力、その規模。一人の術者が数度の生涯を経て、尚も蓄積出来ぬ程の、器を逆に飲み干さん程の常識外れ。

 

「セイバー、宝具を――!」

 

 霊夢(マスター)の言を待つまでも無い。彼女(サーヴァント)は御神刀を捨て、両手を体の前で組み合わせた。

 彼女の宝具は、発動までに時間を要するのか。それでは足りない、足りないのだ。仮に瞬時に転送されたとして、それを振り上げるまでのタイムラグすら惜しい。それだけの時間があれば、あの死神は――

 

「……あら、お客様」

 

 校庭が、爆ぜた。瞬きはしていない、視線を外してもいない。だが、そこに〝居た筈〟の敵サーヴァントは〝居ない〟し、セイバーもまた其処にいる。異常が起こったとするなら、霊夢の後方、校舎の方から聞こえた音くらいで、

 

 

――あんな音を、昔々に聞いた気がする。私の手を引いていた人が、私の目の前で吹き飛び、物言わぬ赤い塊になったあの時の、小さな子供の目から見れば世界の全ては巨大に過ぎて肉親とは最も近くに居るが故に常に視界を埋めてそれは巨大で強大でだからその強大な存在がより大きな鉄の塊に弾き飛ばされた時に子供の小さな世界は理解不可能の境界線を踏みにじられてしまって、平等平等人類一切皆平等、下賤高貴上等下等老若男女に分け隔て無し骸は肉と骨の塊皮膚で覆われ血の袋破けて弾けて赤紅朱

 

「――いむ、霊夢!」

 

 肩を揺す振られ、霊夢は思考を戦場に引き戻した。敵が視界の中に居ない事に、改めて気付いた。

 

「セイバー、あいつは!?」

 

「校舎に飛び込んで、屋上から何処かに飛んだ! 逃げられた! ……違う、そんな事より、あいつが……!」

 

「何、どうしたの!? 分かりやすく説明して!」

 

 霊夢にもセイバーにも怪我は無い。真名の解放は行われず、黒衣の死神は撤退したらしい。

 あの爆発的な速度はなんだったのか? 逃げるための目晦ましに土を巻きあげるなど、中々に姑息なやり方だ。どうしてわざわざ校舎の中を通って行ったのか、進行方向に有ったからなのだろう――

 そんな思考も、自分への誤魔化しでしかないと、霊夢は自覚していた。。

 

「……誰かに見られた、私より先にあいつが気付いた。私なら脅すくらいにしたかも知れないけど、あいつは逃げたいからって面倒を避けた……!」

 

 階段を駆け降りた時より、霊夢の脚は速く動いていたかも知れない。逃げ出してきた校舎へと舞い戻り、靴は履き変えず、最短距離で『其処』へ。非情口のランプの下、鉄の悪臭振り撒かれる、階段の踊り場へと馳せた。

 

「……なにやってんのよ、もう」

 

 もう『それ』と形容した方が正しいだろう『彼女』を見つけて、霊夢はそんな言葉を口にしていた。

 〝死因〟は腹部への打撲による内臓の破裂、出血多量だろうか。鑑識ならぬ身で分かる事ではないし、知識があろうと、『彼女』は背中も潰れてしまっていて、手で触れても何が何だか分からない。

 比喩ではなく目に止まらぬ速度で腹を打たれ、壁に背を叩きつけられ、『彼女』は破損していた。手足も無事、首から上も無事、彼女が誰なのかは、階段の下から見上げただけでも理解出来た。

 衣服の上から、左胸に触れる。流れた血が冷え固まり、冷たくてガサついた衣服。拍動は感じられない。鼻や口に手を向けても、いつまでも呼吸は行われない。顔に死の絶望は浮かんでおらず、『彼女』は赤に染まって尚、何時もの表情を保っていた。

 ああ、戦争なんだなあ。他人事のように、霊夢は嘆息した。

 無関係な誰かが巻き込まれて、何も分からずに死んでいく。そういうのは自分の知らない所で起こってくれれば良かったのに。

 戦争の参加者である霊夢は、自分に都合の良い願望を、加えて大きな後悔を抱いた。日常は平和に平穏に、些細な変化だけを伴って繰り返されなければならない。一個の人間の死という変化は、あまりにも大き過ぎる。

 認められる筈がない、認めてはいけない、認めるものか。あの破壊者を、許しては――

 

「霊夢、治癒の術は? 私だと、本当に些細な事しか出来ないの」

 

「……え?」

 

「治癒。助けたくない? 目撃者だから、死んでしまった方が良いって言うのは分かるけれど。こんな危険な遊びだもの、世の中に知られたら大変だわ。こういう事は秘匿すべきで――」

 

「ま、待って! 治癒? 蘇生じゃなく?」

 

 出来ない事はない。専門ではない、応急処置の為に身に付けている程度だが。

 本来は病を払う為、病を患者と切り離す、結界術の応用の技術。負傷に対して用いるなら、概念的に死と危険を遠ざけ、自己治癒への道を繋げるものとなる。

 死の概念を完全に払うには、人1人を蘇生させるのと対して変わらない魔力や霊力の消費が必要だが、遠ざけて回復を祈る程度なら、私の魔力残量全て注ぎ込めば十分。

 

「ええ、治癒。生きてるわ、ギリギリだけど。死に限り無く近づいてて、でも生きてる。命さえ繋ぎとめられるなら、優秀な治療術者の所に運びこむだけの猶予は作れるわ。」

 

「分かったわ、運んで頂戴。貴女に供給する魔力、最低限まで抑えるわよ。妖怪の山まで行けば、そういう事が出来る奴に心当たりが――」

 

 本当に生きているとは、思っていなかったし、まだ思えない。人間、こうも壊されたら死ぬしかないだろう。一目見てそう思う程、彼女は潰されていた。だが、助かるかも知れないと聞いたなら、それを試してみるしかない。

 道中の危険を思わない訳では無かった。魔力不足の侭に襲われれば、セイバーも全力を発揮できない。先程の敵が戻ってきたならば、逃げるという手段すら行使できずに殺されるだろう。

 知った事ではない。

 

「尊命、謹み承る。世を分かつ神、事分かつ言、川を隔てて三千の灯。流れに委ねて万の大火、億の対価を置き留む――」

 

 『彼女』を、ネガティブな概念から可能な限り『切り離す』。あらゆる災厄は彼女の外にあり、遠く無関係な場所へと打ち捨てられる。たった三の小節で、もう魔力の数割を持っていかれた心地だ。

 彼女の存在は世界から隔離する事なく、負の概念だけを選択して遠ざける為の結界。それはさながら、夜道に煌々と明かりを灯し、地を這う虫を駆逐する様なものだ。人の目と手では追いつかない、だから自動索敵・排除の術を組み込む。結界への侵入者を探知する術も、転ずればこの様に使用出来るのだ。

 

「――彷徨う勿れ、祈りは此処より彼方に。惑う事勿れ、彼方の地は汝の為には在らず。

 我が言に依れ、依りて留まれ、留まるならば与えられん。内は外を知らず外は内を忘る、汝は知らぬまま赦される者なり。

 『単層隔離結界・祓(やくさいなんじをしらず)』」

 

 魔力探知網、正常作動完了。自動索敵・迎撃(フルオートアクション)スタート。

 博麗の結界術は簡略化されたプログラムだ、システマチックに合理的。発動させたのなら後は魔力を流し込み続けるだけで、装置は動作を続ける。

 『彼女』の骨格は既に元の形状を取り戻しつつあり、セイバーはそれに気付きながら、それを霊夢に伝える事はなかった。


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