東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals.   作:ハシブトガラス

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六日目、魔女の小屋

 ――遠巻きに見ている。

 

 魂魄妖夢は、その事に気付いていた。

 サーヴァントの目を以てしても見通せぬ程の闇が、白玉楼の階段に降りている。敵はその中に潜んでいる。

 攻め上がって来ないというならば、それでも良い。

 過去に於いては霊界に位置していたこの白玉楼は、こと霊体に対しては、幾千の城以上に堅牢な壁となる。

 白玉楼は、存在自体が、全ての霊体に対する〝令呪〟に等しい。

 所定の手順を踏まずして、近づく能わず、離れる事能わず――即ち、ただ一つの出入り口を除いては、侵入する事も、また退出する事も叶わない。

 屋敷の主の意思ではなく、〝冥界の管理者〟たるべく作られた結界は、サーヴァントでさえ踏み越える事は叶わない。

 いや――仮に複数画の令呪を以て、強制的に踏破せよと命じれば、サーヴァントはそれに従うだろう。

 だが、その結果は――現世に留まる事など、出来はするまい。

 たった一つ、定められた出入り口は、白玉楼の正面――階段を昇り辿り着く、正門。そこに妖夢は立っているのである。

 いかな暗殺者であろうと、魂魄妖夢の守りを欺き、その主へ辿り着く事は出来ない。

 そして、『不退転:A』を所有する妖夢は、正面からの戦闘に、絶対の自信を持っている。

 更に加えて、マスターの支援も有った。

 夜ごと弾き鳴らされるリリカのピアノの音色は、聞く人を夢遊病のように引き寄せる。彼等から、僅かずつでも吸い上げた魔力が、白玉楼に蓄積されているのだ。

 妖夢はそれを、自分の魔力のバックアップとして存分に使用できる。

 イレギュラークラスである為に、聖杯戦争の定石の中には無いが――ウォーリアの特性はランサーに近く、対魔力スキルこそ持たないものの、近接戦闘に於いて高い汎用性を持ち、魔力消費の効率も良い。

 リリカの魔術師としての技量は、決して卓越しているとは言い難いが、それを補って余りある優位が、妖夢には在った。その上で妖夢は慢心せず、最も自分が有利となる階段の頂上で、侵入者を待ち受けていたのだ。

 

 ――来い。

 

 寄らば、即ち斬る。

 完全な布陣であった――間違い無く。

 敵が、霊体であったのならば。

 

 ぶぅ、ぅ。

 ぶぅ、ん。

 

「……!」

 

 闇の中から、幾つも、幾つもの音がした。

 何かが震えているような――いや、違う。この音は、誰しもが必ず、生きている間に耳にする、慣れ親しんだ音だ。

 それは、羽音であった。

 そう妖夢が気付いた時には、その音は膨れ上がり、空気を揺らす程となった。

 幾十か、幾百か、或いは幾千もの羽音が固まりとなって――闇を抜け、妖夢へと迫っていた。

 

「蟲か!」

 

 知らぬ敵では無い――永い夜の下で、妖夢は一度、蟲の群の長と戦った。

 蟲の恐るべきは、数であり、また小ささである。一つ一つは決して、恐れるに値しない。

 過去の己ならばいざ知らず、今この時、サーヴァントとして現界している自分であれば――

 

「――しいぃっ!」

 

 なんの事は無い。

 一対一を、数千回も繰り返せば良いだけの事だ。

 なんの事は無い。

 牙も針も小さな蟲を、たった何千匹も切れば良いだけの事だ。

 妖夢は長刀・楼観剣を縦横無尽に振るった。

 6尺6寸6分の刀身は、針の穴を通さんばかりの精密さで、一閃ごとに十数匹の蟲を落として行く。

 

 ――奇妙な、蟲だ。

 

 斬撃を繰り返し、己の後ろにただの一匹も通さずにいながら――妖夢は、敵を観察していた。

 羽が有り、牙が有り、針が有る。自然の中で目にした記憶は無いが、こういう蟲が居るとして、何も不思議は無い程度の外観だ。

 だが――その牙と針は、英霊である妖夢の体に、確かに通じる武器となっている。

 つまり、神秘を纏っているのだ。

 幾百幾千の蟲全てに、魔術の強化を施し、使い捨てにする術者が――絶対に居ないとは断言しないが、存在するとも考え辛い。

 即ちこの蟲達は、自ら魔力を内包し、そして何らかの意思を以て妖夢に攻撃を仕掛けている。

 

 然し、まるで恐るに値しない。

 

 妖夢は刃と共に舞い続ける。

 蟲の牙はただの一つも、妖夢に届かない。

 蟲の針はただの一度も、妖夢を掠めさえしない。

 夜の中に、無数の薄羽が光を散らして、ぼんやりと、丸く塊が浮かんでいるように見える。それ程の数を以てしても、魂魄妖夢の裾にさえ、触れる事は叶わないのだ。

 英霊が二人で掛かって、一太刀と浴びせられぬ無双の英傑。知恵を持ち、魔力を持ったとて、有象無象の虫けら如きが及び立つ粋では無い。

 斬、滅。

 一閃が、数十の蟲を斬る。

 身の丈より遥かに長い長刀を、妖夢は己の指よりも軽やかに振るう。

 斬り捨てられた蟲は、屍を残さず、塵となって雪に消える。黒灰色の死の塵は、雪よりほんの少し暗く、雪より軽く舞い上がって消えて行くのだ。

 

「――如何なされた、竦みましたか」

 

 そして何時しか、蟲は居なくなっていた。幾千とも分からぬ蟲は全て、魂魄妖夢の長刀にひれ伏したのだ。

 妖夢は暗闇の向こうに、静かながら凛と通る声を向ける。

 

「元より、これで勝とうという心持ちではありますまい……来られませ」

 

 向こう側で、ざわ、と何か蠢いた。

 そして、近づいてきたのは――表現するなら〝闇そのもの〟であった。

 夜にも自然界の灯りは存在するが、誰かが人為的に灯り全てを取り払った時、そこには真の暗闇が生まれる。

 見通すどころか、顔の前に翳した己の手さえが見えぬ世界。そういう空間が、夜の中を近づいて来て――

 

「応じようか、分かり易く」

 

 球状の闇が晴れると、少女が独り、現れた。

 闇と同じように、黒い服を着た少女である。

 彼女は地に足を付けず、ふわふわと浮いたままで、妖夢の方へと近づいて来る。

 

「ほう。暗殺者が、堂々と姿を現しますか」

 

「アサシンと決まった訳じゃない。アーチャーかも知れないし、キャスターかも知れないよ」

 

「確かに。然しそのいずれであろうと」

 

 ――大差は無し。

 

 妖夢もまた、ふらりと歩くように進み出て、少女を出迎えた。

 歩いていたと思えば、既に空中に浮かんでいた。

 飛ぶとも無しに間合いに近づき、太刀を横へ薙いでいた。

 

「しゃっ!」

 

 横薙ぎの斬撃を、少女は上空へと浮かび上がって避け、妖夢はそれを追って同じく浮上して行く。

 その間にも妖夢は、眼前の少女の戦力を分析していた。

 武器、無し。

 爪、短くも硬い。

 牙――致命の凶器。

 けれども、それ以外に恐れるものは無かった。

 事実、少女はアサシンであり、姿を現した時点で、他に存在するどのサーヴァントにも、勝ちの目が見えない。

 だから奇妙に思うべきは、姿を現した事そのものである。

 飛び、斬り掛かる。

 縦に、横に、長刀を縦横無尽に振り回す。

 壁や大地という制約から解かれて、刀が描く軌道は、地に縛られた剣術では有り得ぬ多彩さを持つ。

 その何れも、アサシンを仕留める事は無かった――アサシンは間合いを遠ざけ、回避に専念していた。

 余裕で、とはいかない。

 腕や脚を、幾度も斬撃が掠める。

 攻撃を捨て、完全に回避だけに専念したとしても、そして己の主戦場である空中へ逃れていたとしても、アサシンは妖夢に斬られていた。

 

「その意気は良し――技量や、悪し!」

 

 既に現時点で、アサシンは全力を以て、妖夢の太刀筋から逃れようとしていた。

 だというのに妖夢の技量は、まだ二段、三段と、多重の底を残していた。

 元よりセイバー、黒鎧の狂霊と、二騎のサーヴァントを敵とし、余裕を残して戦い得る剣術使いである。暗殺者の一人なぞ、何と恐れる事も無かった。

 だが、慢心はしない。

 手を隠して戦ったは、万が一にも敵に手の内を読ませ、こちらの知らぬ技で奇襲を受けてはならぬと用心した為だ。

 現状、敵は防戦に全力を注いでいる。

 妖夢の実感では――近接戦闘に限るなら、己の四分の力と、アサシンの全力で、やっと釣り合うという程であった。

 

「……成程、見えました」

 

 そして妖夢は、己が主への負担を強いぬように、八分の力までを費やそうと決めた。

 長刀を大きく振りかぶる、大上段の構えを取る。そして空中で、かなり急角度に、前のめりになった。

 これからそこへ向かうぞと、告げているような。

 然し回避を許さない、超高速の――もはや目にその影さえ止まらせぬばかりか、意識にさえ留まらせぬ程の速度を以て。

 最大速度なら、烏天狗には敵わない。されどたった一瞬、彼女達に肉薄する速度へ、魂魄妖夢は技量のみで到達する。

 それは大焦熱地獄の炎をさえ、瞬き一つで駆け抜ける、

 

「――〝二百由旬の一閃〟」

 

 斬、であった。

 妖夢はこの技を、霊体化してから放ち、アサシンを斬る一瞬で実体化せんと図っていた。

 何故か?

 白玉楼に、この技がどれだけの害を与えるか、当人が計りかねているからだ。

 周囲の木々も、門も、石段も、全てが妖夢の私物では無く、主の財である。

 超音速の踏み込みを以て、それらを粉砕するなどは――不敬。決して有り得ぬ罪。

 だから、魂魄妖夢は、一切の慢心を抱いてはいない。

 ただ――主家への忠義を、ほんの一瞬でも思った、それだけであった。

 

「がああああぁっ!!」

 

 アサシンは、超速の踏み込みに、真正面から向かって行った。

 左右にも、後方にも、どう避けても追い付かれて斬られる――これは、そういう技である。

 だが、たった一か所――妖夢の懐だけは、刃の届かぬ所であった。

 無論、容易くは入れない。

 的が動くに合わせ、太刀を振り降ろすタイミングをずらす程度、妖夢はやってのける。

 それでもアサシンには――ほんの一瞬の狂いさえあれば、それで良かった。

 アサシンは、妖夢の手首を掴んだ。

 抗い得ぬ刀身の速度に比べれば、まだ腕の動きは、見切るに容易い。そしてアサシンもまた、敏捷性に関してはAランクである。

 

「……捕まえたわ」

 

 そうなれば後は、力の勝負だ。

 妖夢の筋力はBランク。対するアサシンはCランクであるが――アサシンは『怪力:B』を保有する。

 力は十分に拮抗する――かに、見えた。

 アサシンが、妖夢を押し込んで行こうとする。

 妖夢は大地に根を張ったかのように動かない。

 そればかりか、寧ろアサシンの腕は、妖夢に押され、体へと近づいて行く。

 アサシンに『怪力』のスキルが有るなら、妖夢とて『不退転』スキルを持つ。

 敵が正面から襲撃し、そして正面に置いて戦っている間、筋力、敏捷、耐久の3ステータスに補正を受けるパッシヴスキル。

 単純な事だ。技量も何も関係無い、スペックを比べた時点で、妖夢はアサシンに勝っていた。

 

 そして、其処までが、アサシンの思惑の内であった。

 己が欺かれた事を、妖夢は知った。

 

「――――っ!?」

 

 サーヴァントとマスターは、魔力のパスで互いに繋がりを持っている。

 一方に何らかの異変があれば、それが大きなものであれば、自然ともう一方も、その事を察するのだ。

 異変は、結界で固く守られている筈の、白玉楼の内より起こった。

 

「……っ、かぁっ!」

 

 妖夢はアサシンの脚を払うと、戦場に在るとは思えない程、至極あっさりとアサシンに背を向けた。

 白玉楼の結界は、サーヴァントの侵入を決して許さない。

 侵入し得るのは、自分が守護していた正面の門だけだ。

 或いはマスターであれば、結界を堂々と通り抜けて入り込む事も出来るだろう。

 だが――人間大の生き物が、屋敷の内へ入り込もうとするのを、自分と主の双方が気付かぬ筈など無い。

 何故だ?

 何が起こった?

 

「マスター!」

 

 妖夢が戻った時、リリカ・プリズムリバーは、まだ湯船に浸かっていた。

 浴槽の縁に頭を乗せ、両腕を湯の外に出し、くつろぐような恰好で――顔を青ざめさせていた。

 

「マ――リリカ、どうしました!?」

 

 湯から引き揚げ、横たえさせる。

 体に目立つ傷は無いが――腕に、小さな、ほんの小さな刺し傷があった。

 

「――その毒は、自然には治らない」

 

 妖夢の後を追って来たものか。何時の間にか屋敷の内には、アサシンと、そのマスターが上り込んでいた。

 斬る事が出来る距離である。だが、妖夢は、長刀に手を伸ばせない。

 リリカの顔は蒼白になり、呼吸は速く――そして、体全体が恐ろしく熱かった。

 湯に浸かっていたから、というものではない。体の中に火が有って、延々と熱を吐き出しているような熱さなのだ。

 これは、病に似ている。

 だが、平凡の病では無い事は、幾多の死に近い所で暮らしてきた妖夢には、嫌という程に分かっていた。

 

「数日持てば、運が良い方です。この毒を知っている人は、多分、誰も居ません」

 

 アサシンのマスター――彼女の名前を、妖夢は知っている。〝こちら〟では初対面だが、見覚えのある顔だ。

 リグル・ナイトバグは、夜に紛れる為か、黒いマントを学生服の上に羽織って、アサシンの後ろに立っていた。

 リグルの肩には、小さな蟲が止まっていた。蜂のように見えるが、針はかなり細く、羽も小さな、奇妙な蟲である。

 

「貴様っ……!」

 

 長刀の柄を握りしめ、然し斬りかかる事は出来ない。

 結界を抜けたのは、この蟲だ。妖夢は、その事に気付いた。

 人が抜けたのならば、警戒もしよう。だが、蟲の一匹や二匹を――それも、魔力も何も纏わぬただの蟲を、警戒する結界など、考えた事も無い。

 静かに蟲は入り込み、リリカの腕を刺し、その体を毒に侵したのだ。

 

「何が欲しいっ……言え!」

 

 これは交渉であると、妖夢は察した。

 手に刃を持ったままの、英霊の怒気。並みの胆力であれば、それだけで胆を潰して死にかねない。

 然しリグルは平然として――それどころか、嘲るような笑みを浮かべたままで答えるのだ。

 

「勿論、私は治療法を知ってるけど……教えてはあげない。貴女が他のサーヴァントを、全て倒すまでは」

 

「全て――馬鹿な、そんな時間はっ!」

 

 無茶だと不平の声を上げるが、人質に取られているのは、主の命である。

 昨夜、空に紅い光を見た。きっとあれで、サーヴァントが一騎脱落した。

 しかし、それでも残数は6。自分とアサシンを除いて、残り四騎を、数日で発見し撃破――出来るものか?

 無理かも知れない、だがやるしかない。何も言えず、唇をぎりと絞った妖夢に――

 

「……ああ、でも。アリス・マーガトロイドのサーヴァントなら、治せるかも知れない」

 

 リグルは、希望を与えた。

 

「――は?」

 

「博麗の巫女のサーヴァントが、セイバー。彼女と同盟を結んでいるアリス・マーガトロイドが、アーチャーのサーヴァントを従えてる。……そして、アーチャーとして召喚されているのは、霧雨魔理沙」

 

「魔理沙……白黒の」

 

 魂魄妖夢は思い出す。

 確かに、そういう人間が居た。魔法を、何かのコレクションのように集め、整頓するのが好きな、おかしな人間だった。

 彼女が持つ雑多な知識の中に、蟲の毒を散らす術が有るとしても、不思議では無い。

 思考に用いたのは数秒。その間にリグルは、アサシンが作った闇の中に溶け込んでいく。

 

「ま――待てっ!」

 

「私を殺すのは得策じゃないですよ。貴女のマスターがいよいよ死にそうな時に、治せるのは私だけかも知れないですから」

 

 追う足を言葉一つで止めて、リグル・ナイトバグは――〝夜の蟲の女王〟は、白玉楼より去った。

 後に残されたのは、傷一つ負わぬままに敗北したサーヴァントが一人と――

 

「……よう、む……っ、ぅあ、はぁっ……」

 

「リリカ……!」

 

 熱と痛みに呻き苦しむ、彼女のマスターであった。

 

 

 

 

 

「アーチャー、まだ見つからない?」

 

「今まで見つからなかったものがそんな簡単に見つかるか。私の魔法はカップラーメンじゃない」

 

 雪積もる魔法の森の中、独り住まいの――今は二人住まいの家の中。私は長椅子に腰掛けたまま、アーチャーが魔術を行使するのを観察していた。

 漫然と眺めるのは勿体無い。呼吸一つ、指先の数ミリの移動まで、全て見届けなくては損をする。そうと気づいたのが、遅過ぎたのが口惜しい。

 そう、私は後悔していたし、その分を取り返す為に焦っていた。

 現代に突如現れた神秘の塊――聖杯戦争。思えば思う程に、この形は異質で歪だ。

 夜が明けるまでを思案に用いて、私が辿り着いた結論は、『聖杯戦争は幻想郷にそぐわない』というもの。有り得ないものが何処かからか、突然に世界に入り込んだのだ。

 万能の願望機? 聖杯? それを魔術師が奪い合う? 英霊を呼び寄せ? そんな発想は〝何処から来た〟というのか。かの霧雨魔理沙が魔法を体系化し、魔術として学問に仕立て上げてより、過去の人物を使い魔として召喚しようなどと考えた者の話は、ついぞ見聞きした事が無い。

 それが、完成系として、此処にある。

 主体たる召喚者より数十倍も高位の存在を当たり前のように使役し、あろうことか自害さえ強制し得るシステムが、全て完成している。

 何処から流れ込んで来たものかは知らない。けれど、聖杯戦争はこの世界にとって、異物である筈だ。

 除外される前に〝知〟らねばならない。

 消えてしまわない内に、英霊という神秘に近づかねばならない。

 だから私は、焦っていた。

 

「まだ?」

 

「まだ」

 

 アーチャーは今、方々に使い魔を飛ばしている。

 これまでの私達は、数の優位が有ったからではあるが、さして積極的に敵陣営を探してはいなかった。

 勿論、全くのノータッチだった訳じゃなく、アサシンの拠点も、白玉楼に誰かが陣取っている事も、地図から割り出してはいる。

 けれども、今回行っているのは、そういう事じゃあなくて――もっと本気の、徹底したやり方だ。

 

 実は、私も幾つかの使い魔を飛ばしている。

 私が得意とするのは、自分が支配権を持つモノに対する〝使役〟の術。機械的に、インプットした動作を繰り返すだけのものであれば、使い魔を作るくらいは出来る。

 然しこれは秘匿性が低く、〝魔術師か英霊ならば〟対処は容易いだろう。

 逆に言うと、この使い魔に何か反応を示すなら、敵対勢力の誰かである可能性は高い。つまり、監視カメラでありながら、疑似餌でもある訳だ。

 私の使い魔に何らかの反応をした相手を、アーチャーの使い魔――本命の、完全な秘匿性を持った使い魔で探り当てる。その為に敢えて私の使い魔は、出来損ないの、目立つものにする。

 

「まーだー?」

 

「まだもマーダーもレッドラムも無い」

 

 私の使い魔――人形達を、アーチャーの、不定形の雲のような使い魔が追う。

 感覚共有、有人制御、隠蔽、複数の魔術を、アーチャーは事も無げに並行する。

 とは言え、流石に数キロ単位まで距離を開けるのは難しいのか、アーチャーは目を閉じ、不要な情報をシャットアウトして、集中に努めていた。

 

「ああ……遅かったかしら、勿体無い……もっと早くに気付くべきだった。聖杯戦争! こんな未知の塊からどうして私は逃れようとしてたのかしら……!

 ねえアーチャー、きっとこんな神秘、貴女の時代にも無かったわよね? 無かった筈よ、どんな文献にも見つからない!」

 

 けれど、一秒だって待っていられない。たった一秒待つ事さえ息苦しい。

 不安に胸を潰されるという表現があるけれど、期待が膨らみ過ぎて、胸を内側から押し広げているようだった。

 

「……楽しそうだな」

 

 だというのに、アーチャーの顔は、私が感じる高揚の一欠片さえ感じていないようだった。

 

「貴女だって、興味深いとは思わないの? 貴女の時代にさえ無かった神秘を、当事者として眺められる機会なのに」

 

「全く、これっぽっちもそうは思わん」

 

「魔術師の始祖が、欲の無い事を言うわね。本を書くのは好きだったって聞いたけど」

 

「……あのな、アリス」

 

 アーチャー――霧雨魔理沙は目を開き、使い魔の制御を一時的に放棄した。

 

「あ、ちょっと」

 

「私はな、人間なんだ」

 

 手を休めるアーチャーへ不平を言う私に構わず、彼女は声を低く――何時もより覇気無く、呟いた。

 

「……今は違うんじゃないの?」

 

「正確な分類はどうでもいい。私は、生れてから死ぬまで、私は人間だと思い続けてたし、一度死んだ今だって、自分は人間だと思ってる。だから私には、こんな聖杯戦争なんて儀式、興味深いとも楽しいともちっとも思えない」

 

「論理の繋がりが見えないわ」

 

「論理じゃない、感情だ。人間が簡単に死んじまうような儀式、誰が認めてやるもんか」

 

 ――その答えは、私の考えの外に有った。

 言葉が出て来ずに、二度、三度と瞬きを繰り返す。そうすれば視界に映るものが変異し、目の前の少女が、もっと頼りない存在にでもなるんじゃないか、などと思うように。

 勿論、そんな事は無い。

 霧雨魔理沙はサーヴァントとしての力に満ち――

 

「いいか、思い違いが無いように言っておくぞ。魔法とか魔術ってもんは、人間が楽しく生きる為にあるんだ。人間を死なせる為にあるもんじゃあないし、無理に生き延びさせるもんでもない。自然に生きて、自然に死ぬ、それ以上に大事な事があるもんか」

 

 ――それだけでは無く。

 言い表しにくいけれども、何か、もっと人間的な力を感じる。

 少し考えて――それは、年長者に対して感じる畏怖と同じだと気付いた。

 

「でも、貴女は現に、聖杯戦争に参加しているじゃない。呼びかけに応じて召喚された、それは間違い無いわ」

 

「そうだな、確かにそうだ。だがそれでも、私はこの聖杯戦争ってシステムが気に入らん! だからお前がはしゃいでるのも、何時もの事ではあるが、全く気に入らん!」

 

 私は叱られている――或いは、窘められているのだ。

 驚く程に感情的な物言い――人の命が奪われる状況を楽しむなと、アーチャーは私を叱っている。

 ……まさかアーチャーは、私が、誰かの死という事象を楽しんでいるのだと、本気で思っているのだろうか。

 

 ――誰かが死んでいる。

 

 そんな事は私だって知っている。

 ただ――実感が薄いだけだ。

 昨日、通っている学校がサーヴァントに襲撃され、何人もの生徒が病院に送られた。

 東風谷早苗が言うには、ガス管が破裂して有毒ガスが漏れたという体裁を取り繕って誤魔化している最中らしいが――

 その中で、何人かは死んだだろう。

 床に落ちていた、〝引き剥がされた顔面の皮膚〟には見覚えが有った――良い声で歌う後輩のものだった。

 

 ――確か、名前はミスティア・ローレライ。

 

 認識する。

 あの皮膚が、ただのタンパク質の塊でなく、人格ある一個の生物の、残骸であると認識する。

 その瞬間に、私の胸に覆いかぶさるこの重さは――

 なんだろう、なんと言えばいいのか。

 彼女と親しい間柄であったか? 否、だ。名前を知っていて、顔を知っていて、声を知っている、それだけだ。

 彼女の死は、私の生き方に何も影響を及ぼさない筈だし、彼女の死を愉快に感じる事も無い。

 

 けれども――彼女の歌はもう聞こえない。

 

 何日か後、曲がりなりにも日常を取り戻した風に見せて、学校が再開した時――

 学校の敷地へ入り、玄関口まで向かう間、私が聞く音は少し足りなくなっている。

 その事実を認識しても、きっと私は、普段と同じ表情を保っているだろうという予感がある。

 同時に――その時に受けるだろう、喪失感さえを予感している。

 どんなに、彼女個人への興味関心が薄かろうと、彼女の声は人を聞き惚れさせる天性の資質を持っていた――その事実だけは忘れられない。

 親しい間柄であれば、悲痛に泣き叫ぶ事も出来た。

 それが出来ないからこそ、私の胸は苦しさを感じているんだろう。

 自分が必ず、何日か後に、吐き出せない感情に苦しむと分かっているから――私の胸は、重圧に苦しむ。

 

「……けど、でもっ」

 

「でも……?」

 

 それでも私は、どうしようもなく〝私〟だ。

 

「知る事は、諦められないのよ!」

 

 書を紐解くように、私は私を理解していく。

 古明地さとりの悲劇に同情し、ほんの一瞬でも、アーチャーに手を緩めさせようとした――それも、私だ。

 後輩の死を悼み、苦しむ予兆を感じながら、何も出来ずに立ち尽くすのも、私だ。

 

「知りたいの、私が知らないものを! 私が取りこぼしているこの世界の全てを、この世界の外にある全ての不可思議を、余さず知りたいの! 我慢出来ないのよ!」

 

 その全てを上回る絶望的な飢餓――知的好奇心。

 それが私の根幹を成すものだと、私は昨夜、初めて知った。

 

「ねえアーチャー、沢山人が死んだんでしょ!? この〝聖杯戦争〟というゲームの元になったシステムは、こんな非常事態にどう対処していたのかしら!? 建造物や個人資産の被害の補填は、修復は、その費用の出所は!? 数百人単位で人が死んだら、どうやって秘匿するの!? それとも秘匿を諦めてしまうの!? それに、ああ、それに――」

 

 同級生や他人に興味が薄かった――違う。

 いつかの時点では、興味を持っていた。知り終えたから、どうでも良くなったのだ。

 少ないながら友人はいる――違うのだろう。

 知り尽くせない彼女達を、もっと知りたいと思うから、近くで観察を図った。

 私はどうやら健全な少女として、あらゆる感性が働いているが――そんな自分さえも興味の対象に留める程、私はただ、何もかもを知りたいのだ。

 

「英霊七騎! 一人呼ぶだけでも、方法論さえ見えないような超然たる奇跡! それを七つも呼び集めるような力が、何処から供給されているの!? 私の見立てが正しいなら、私どころかアーチャー、貴女の力を以てしても、英霊の一騎も時の彼方から呼び出すなんて出来ないわ!」

 

「――アリス?」

 

 訝る声――異常なものを見る目。異常の最たるもの、サーヴァントが、私に向ける目。

 そんなもの、どうでも良い――私は今、幸福と焦燥の最中に居る。

 

「全て、このゲームシステムが補っているのよ!

 マスターは誰でも良い、私でも、霊夢でも、昨日死んだ沢山の誰かの内の一人でも――ほんの少し、システムにアクセスするだけの力があればそれで良い! 英霊の召喚、契約、現世を生きる為のサポート、全てシステムが網羅している――このゲームデザイナーは天才だわ!

 このシステムがある限り、永遠に聖杯戦争というゲームを繰り返す事が出来る――なのに、なんてことかしら、〝このシステムはこの世界に存在する筈が無い〟!!」

 

 誰に叱られようが、誰に止められようが、この絶望的な飢餓は抑えられない。

 私は、知りたい。 

 このゲームシステムの成り立ちを、運用を、盲点を、改善策を、過去の稼働時に発生した現象を、未来の稼働時に予測される現象を、ありとあらゆるものを――

 私が、このゲームシステムを知り尽くして、興味の欠片も持たなくなるまで、解き明かしたい。

 私の心は、天上の楽を聴くようだった。

 

「でも……その前に無くなっちゃったらどうしよう……私が解き明かす前に、私が知り尽くす前に、この奇跡が終わっちゃったらどうしよう……?」

 

 一方で――そんな事を思い煩いもする。

 

「……終わったら、めでたい事じゃないか。もう誰も傷付かない、誰も死んだりしない、平和な日常だ」

 

「そうね、平和になる、悲しい事なんか何も無くなる……けど、寂しいじゃない……」

 

 こうと定まっていない事にあれこれ思い悩んで、胸が締め付けられるような想いに苦しむ。

 こんなに辛いのならば、聖杯戦争の事など想わなければ良いのにとさえ思う程、聖杯戦争が潰える事に怯える。

 

「どんな後悔をする事になったって構わないから……私は! 今! この気持ちを抑えたくないの!」

 

 きっと、この気持ちをこそ、恋と呼ぶのだろう。

 聖杯戦争の生む痛みが、自らを焼くと知っていながら、私はどうしようもなく、聖杯戦争に恋い焦がれていた。

 嗚呼、なんて素敵な初恋!

 私が見つけた白馬の王子は、ヒトでもない、生物でもない、ただの異界の概念に過ぎないなんて!

 殺風景な魔女の小屋も、陰鬱とした魔法の森も全てが彩色され、七色の光に輝いて見える。

 私の想いが恋ならば、日々の戦いは逢瀬――長く永く続けと、夜明けの光に恨み言を吐く、愛しい時間。

 早く逢いたい。

 一時も長く睦みあいたい。

 歌いながら走り出し、抱きしめてキスをしたいくらいに、私は聖杯戦争の全てが愛しかった。

 何も言わないアーチャーと、胸から湧き出す感情に身悶えする私の間に、奇妙な沈黙が広がる――

 私の使い魔が、異変を感知したのは、その時だった。

 

「……!」

 

「アリス、敵だ。サーヴァントだ」

 

 私が接近に気付いたのと、アーチャーが腰を上げたのは、殆ど同時だった。

 私が雑に作った監視人形が認識できるという事は、つまり、相手は隠れようとしていないのだ。

 

「アーチャー、相手は分かる?」

 

 逢いに来てくれた――心を躍らせながら、私は出迎えの用意を始める。

 使役可能な人形全ての機能モードを監視主体に切り替え、小屋の周りに飛び回らせて――私自身は、身を守るだけに留めて。アーチャーがこれから繰り広げるだろう戦いの全てを、この目に収める構えを作った。

 

「妖夢だな……なにかおかしいぞ、戦いに来た様子じゃない。移動速度も遅すぎる」

 

「遅い?」

 

「遅いと言っても自動車並みだけどな。あいつが本気出したら、白玉楼の庭を須臾に抜ける」

 

「見たいわね、体術の域を超えてるわ……」

 

 何とも心躍る話をアーチャーは聞かせてくれるが、それに耽溺するより先、接近する気配は、小屋の前でぴたりと止まり、

 こん、こん、こん。

 と、律儀にノックの音が聞こえてきた。

 

「……扉に近付くなよ、アリス」

 

「手は出さないわ、見たいだけ」

 

 この扉一枚の向こうに、魂魄妖夢がいる。アーチャーに止められなければ、扉を開け放ち、小屋の中へ迎え入れたいくらいだった。

 だが、扉は向こうから開かれる事も無く、また三度、扉がノックされる硬質の音が聞こえる。

 

 ――何か、おかしい。

 

「おい、妖夢! お前の主人なら此処には居ないぞ!」

 

 アーチャーが、八卦炉を扉へ向けたまま、外の気配に呼びかける。

 僅かの沈黙の後、答えは、小さく震える声と共に返ってきた。

 

「……私の主人は、私の背にいます。敵意は無い、此処を開けてくれませんか」

 

「信用できんな、断る」

 

「その声は霧雨魔理沙さんですね? 私と貴女と、どちらが嘘が得意でしょうか」

 

「間違い無く私だ」

 

 違いに名を知り――おそらくは、手の内をも知った者同士。再会を祝す言葉は無く、空気も凍て付かんばかり。

 先に動いたのは、アーチャーだった。

 扉の方へと無造作に歩いて行き、ドアノブに手を掛けて、

 

「開けるぞ、間合いの外まで下がれ」

 

「二十歩までは間合いの内ですが」

 

「じゃあ三十歩だ」

 

 そう言い終わるより先に、アーチャーは扉を蹴り開け、八卦炉に魔力を集束させた。

 然し、それが放たれる事は無かった。

 そこに立っていたのは、ただの、悲痛な面持ちの少女だったからだ。

 幾千万の夜を経て再臨した、遠く古の英霊――そんな気配は、微塵も感じない。人知を超えた魔術儀式の産物、使役者を遥かに超えた従者(サーヴァント)――そう思わせる覇気が、彼女には無い。

 

「恥を忍んで頼みます……助けてください……!」

 

 そこに居たのは、青ざめた顔の少女を背負って、夜道を馳せて来た少女でしかなかった。

 けれどもその事実は、私の落胆を呼ぶものでは無かった。

 

 そこに居たのは、誰かの死を恐れて戸惑い嘆く、臆病な少女でしかなかった。

 だから私は、それを英霊に戻してやらねばと、義務感さえを抱いて――来訪者を抱き締め、出迎えたのだった。


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