東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals.   作:ハシブトガラス

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六日目、明け

 何にも代え難く、美しい瞬間がある。

 それは、決して留まらないが為に、永く触れる事は叶わない。

 だが、この瞬間を永遠にと、願ってしまう程に――目を、心を、奪う。

 それは、〝境目〟だ。

 何かから、何かへ、世界が非可逆的に変化していく刹那こそは、正に何にも代え難きもの。

 雨が川へと落ち、やがて海に辿り着くように。

 花が咲いて、散るように。

 人が生まれて来て、何時か死ぬように。

 流転こそ、美。

 留められぬからこそ、貴きもの。

 何時か醒めるからこそ、愛おしき、幻想(ユメ)

 

 

 ――夢を、見ていた。

 

 

 それは、遠い昔の事。

 歴史の中に閉じ込められ、物語となってしまった、過去の記憶。

 後世の人間は、その悲劇性を愛し、涙する事を楽しみ、仰々しくも言の葉で弄んだ。

 だが、事実は単純で、それ故に残酷。

 彼女は、抑えが利かなかった――それだけだったのだ。

 

 一人の少女が居た。

 貴く、強い血の下に生まれながら――彼女は生まれついて、〝狂って〟いた。

 愚かであるなら、ただの狂人として朽ち果てただろう。

 けれど彼女は、極めて敏かった。……或いは、彼女を取り巻く誰よりも。

 思考の速度は極めて高く、自らの舌が追い付かぬ程。

 発する言葉は混迷を極めたが、然し自らの中の秩序には、完全に則っていた。

 舌が間に合わぬなら、どうすればいい。

 自らの言葉を、誰も秩序として受け取らない。どうすればいい。

 そんな問いに〝彼女〟は、〝自分がもう一人いれば良い〟と結論を付けて――何時の間にか彼女は、自分の姿をそっくり映した影と、日夜問答を続けるようになった。

 眠り、目を覚まし、喰い。その間、引っ切り無しに問い続ける。

 

 

 

 そも己が問うのは、問わねば己が成り立たぬという厳然たる事実が故の行為であるのだ。

 僅かにでも疑問を抱いたとして、その疑問を解かぬままに生きて新たな疑問を積み重ねる事は、やがて真実を覆い隠す虚偽の瓦礫に埋もれて死ぬ事と同義。然らば虚無の蓄積に励む愚行を遠ざけて賢明なる事に努めよう。

 諦観傍観の一切は無益思想。健全に。思考せよ、現身の我。

 結論を求めるに過程の用不用を導き出すは数百年を遅れて巡る知的遊戯のムーブメント。現在必須と言えようものは即ちリザルトに他ならぬ。

 

 我は、正常の一個である。

 

 正常と異常の境界とは即ち、世界の〝常識〟の中にある。

 周囲から外れていれば、つまり異常。周囲と等しく在れば正常。

 然し我が世界とは、小さな館の一つに過ぎぬ。意思を持つ四個と、同じく意思を持つ我とが構築する五つの思想の集合体にしぐぬ。

 その集団がこぞって我を狂と見なしたとて、集合体の二割が否を唱えた常識を疑わぬ事こそ狂ではないか。

 増してや我は一個にして、四個の知性に分かち得る者。四と四が対立したなら、道理は平等におかれる筈では無いか。

 

 それらの思考全てを評し、周囲は彼女を、狂っていると言ったのだ。

 

 

 

 彼女の何が狂っているかと言えば、己の狂気を自覚せず、自らは正常であると信じていた事だろう。

 狭い世界の中で育ち、それは終に改善される事が無かった。

 理解されぬ事に怒り、癇癪を起こした。

 それが理性的な行為でないと気付けば反省し、心から詫びた。

 全てが全て、彼女の中の道理に基づいた行為でありながら――誰にも彼女は、理解される事が無かった。

 理解されぬからまたフラストレーションを溜めて――そんな事を繰り返しながらも、良くはなっていたのだ。

 人と触れ合い、広い世界を知った。

 世界は広く、たかだか数百年の思考遊戯程度で計り知れるものでは無く、彼女より賢い者は幾らでも溢れていた。

 だから彼女は、その生のうち数十年程は、平和に生きていられたのだ。

 然し彼女を取り巻く環境は、あまりにも早く流れていく。

 数百年を経て、彼女はやっと、大人になった。

 彼女が親しんだ人間は、数十年で、老いて死ぬ。

 ほんの気紛れに数年、地下に閉じこもった事が有った。

 久しぶりに外へ出た時、己の名は忘れられていた。

 そうしてまた、彼女は安定を失っていき、やがて――。

 

 やがて、その空の下に、辿り着く。

 

 

 

 博麗霊夢は夢を見ていた。

 誰かの生に寄り添い、その生を追いかけて行く、奇妙な夢。

 数日前も、こんな夢は見た。

 サーヴァントとマスターは、魔術的に深い繋がりが有る。魔力をつつがなく供給する為のパスが、時折だがこうして、意識まで共有してしまうのだろう。

 原理は分からねども、霊夢は〝そういうものなのだろう〟と思いながら、自分が夢を見ているという自覚の元、セイバー――フランドール・スカーレットの生を見ていた。

 彼女の孤独、彼女の孤立を、早回しの映像を飛び飛びに見るように追いかけて行く。

 周囲が、ある時は怒り、ある時は苦悩しながら、フランドールを説き伏せようとする姿に触れる。

 霊夢にはまるで理解が及ばなかった。

 フランドールは何故、自分が正しいと信じつづけたのだろうか。

 周囲が正しく、自分が間違っているかも知れないと、一瞬でも考えなかったのだろうか。

 〝世間〟とは〝常識〟とは、常に多数派が構築するものである。

 そして世界は、多数派を優先するように作られているものだ。

 秩序もまた、多数派が定めたルールに基づく。

 少数派を顧みる事は、秩序の維持には繋がらない。

 意見・利害の対立が見られた時、多数派の守護者と成る者――それが秩序の担い手、博麗の巫女であると、博麗霊夢は信じていた。

 だから彼女には、フランドールの思いが分からない。

 自分と世界が食い違った時、優先されるべきは世界だ。

 フランドールにとっての世界とは、或いは幻想郷であり、或いは自分を中心とする小さな集団――紅魔館である。霊夢の見解としては、フランドールはそれらの為に、自分を抑えるべきであったのだ。

 だが、そう出来なかった。

 霊夢は彼女の目を通し、彼女の世界が崩れていくのを見ていた。

 

 切っ掛けは――ほんの小さなもの。

 些細な言い争いであったかも分からないし、もしかすれば、思考が行き詰った挙句の癇癪であったかも知れない。

 だが、理由はさておき、フランドールは激昂したのだ。

 誰かが彼女を止めようとした――それには些かならぬ実力行使が伴っただろう。

 然し、誰がフランドール・スカーレットを、力で大人しくさせられただろうか。

 その頃の紅魔館は、人間や妖精を、従者として雇っていた。日々の雑事をこなす者達だが――彼女達が束になったとて、僅かにも止められるものではなかった。

 寧ろ、抵抗する力を受けるごとに、フランドールは狂っていった。

 彼女の道理の中で、彼女は完全に正しかったのだ。

 だのに周囲の全て――世界の全ては、彼女を妨げる。

 要か、不要か。

 この世界は、留めるに値するか。

 いいや――要らない。

 こんな世界など、別に――

 

 それから先は、フランドール自身さえ、覚えていないのだ。

 

 夜空が赤く燃えていた。

 大地が紅く焼けていた。

 形を留めぬ屍が、いくつも、いくつも有った。その全てが、フランドールの記憶に有る顔で、記憶に無い行為であった。

 屋根も壁も、彼女を封じ込める筈の一切が無くなっていた。

 フランドールの世界は、フランドールの力で〝破壊〟されていたのだ。

 

 ――こんなことは、違う。

 

 嘆いた。

 そうしていれば、最善とは言えずとも、誰かが手を打ってくれていたから。

 方法は多岐。

 自分を閉じ込めるなり、魔術による封印を施すなり、或いは懇々と道理を説いて説き伏せるなり。

 これまでは、そうやって、誰かが対処していたのだ。

 その夜、フランドールに立ち向かえるものは、もう誰も――館の内には――残っていなかった。

 

 ――こんな事は、望んでいない!

 

 フランドールはその時初めて、後悔という感情を知った。

 反省も、悔恨も、一切合切、誰もが当然のように生まれ持つもの全て、嘘のようにかっちりと当てはまった。

 もしかすれば、彼女に蓋をしていたのは、この紅い壁と屋根であったのかも知れない。そして、一度蓋を開けたなら、もう元に戻す事は出来ないのだ。

 

「――フラン」

 

 冷たい声が、彼女を呼んだ。

 紅魔館の当代の主は、その日、館の外に出向いていた。

 瞬き程の間に人里を駆け抜ける俊足で、己が城に辿り着いた時には――全てをありのまま、理解した。

 

 そして姉妹は殺しあった。

 互いに泣き喚き、言葉を失いながら、

 四肢を削ぎ、

 首を潰し、

 臓腑を引き抜き、

 骨を噛み砕き、

 それらを直ちに修復しながら、二人は長い夜を殺しあった。

 

 やがて、日が昇る。

 フランドール・スカーレットは、幾重もの鎖で瓦礫に繋ぎ留められ、そして心臓を槍で貫かれていた。

 見えるものは、色の変わり行く東の空。

 見慣れた暗闇が消えて、藍色が広がり、そして白い光が空を這う。

 生まれて初めて見る夜明けだった。

 

 嗚呼、こんなにも。

 フランドールは嘆息した。

 太陽はこんなにも暖かくて、空はこんなにも広い。

 小さな世界の、紅や黒ばかりの天井より、何千倍も、何万倍も広い。

 あの空を飛んで、何処かへ行けたのなら。

 何処か知らない広い大地に降りて、本でしか知らない木々を探して、思いっきり駆け回ってみよう。

 綺麗な花を見つけたら、それを摘んで持ち帰る。

 誰の為に?

 それは――

 

「――ごめんなさい」

 

 自分の為に、じゃない。

 世界の広さを、一人では味わい尽くせない。

 けれど、分かち合うものは

 

「ごめんなさい……!」

 

 もう、何も、無い。

 陽光の中にフランドールの身体は、灰となって溶けていった。

 その最後の時まで、深い後悔に溺れながら。

 次があるならと、強く、強く願いながら。

 

 

 

 

 

「おはようございます。今は午前4時38分、良い目覚めでしょう?」

 

 博麗霊夢が目を覚ますと、ほぼ垂直の角度で、東風谷早苗に顔を覗き込まれていた。

 邪気の無い顔で、早苗は笑っていた。

 

「……何処がよ」

 

 この、素性のなんとも分からぬ女に見守られての目覚めは、霊夢には居心地の悪いものであった。

 そう望めば、首を落とせる状況だった――自分は簡単に殺されていたのではないかと、思わされるのだ。

 無論、その発想は突飛なものである。

 故無く人を殺すような相手ではないし、自分は彼女と敵対していないと、霊夢は正しく理解している。

 ――監督役。

 聖杯戦争を見守り、衆目より秘匿する為に尽力する者。

 絶対の中立者である彼女が、自分を害する筈が無いと知りながら、然し霊夢の目覚めは心地良いものではなかった。

 

「いいや、良い目覚めの筈だ。貴女が私の元を訪れる時は、夜分遅くに唐突にと定まっているようですが、その上で大の字の高鼾。これで心地良くない筈が無い、そうでしょう?」

 

「長ったらしい嫌味は結構。……まぁ、床の寝心地は悪くなかったわ」

 

 むくり、と霊夢は床から起き上がった。

 身体の節々が痛むのは、硬い床で寝たからか、それとも運動量の為か。

 然しそれ以上に、左手が痛んだ。

 

「……あいつ」

 

 鋭い牙を突き立てられた傷口は、僅か数時間の間に、早くも膿み始めていた。

 常に湯に浸かっているような熱さと、鈍痛――じくじくと肉の奥から湧き出してくる痛みが有った。

 

「『孤狼の隠し太刀』とはまた、古風な友人を持ったものです。数百年に渡って研鑽された毒は、博麗の巫女にも届きますか」

 

「毒……?」

 

 歯に塗布し、咬傷より染み込ませる激毒『隠し太刀』。犬走椛はそのような武器まで、霊夢に用いたのだ。

 これは、一朝一夕に用意出来る武器ではない。

 歯に毒を塗れば、当然のように自分も、その毒を飲み込む事になる。毒に体を晒し、何年もの歳月を経て、徐々に毒の濃度を上げ――免疫をつけて、やっと有効な濃度の毒を用いる事が出来る。

 日常とは相入れない、害意の塊が如き秘伝。犬走椛は、聖杯戦争の何年も前から、なんらかの戦いに備えていたのだろうか?

 

「命に関わる程の毒ではありません。日に日に痛みは増し、寝床でのたうつ程にもなりますが、貴女であれば死ぬ事は無いでしょう。これで死ぬのは単純に生物としての出来が悪いものばかり……弱い人間だけですから」

 

「知ったような言い方をするのね」

 

「無論。私は山の巫女ですので」

 

 それが当然であるというように、早苗は霊夢を見下ろしたままで答えた。

 此処は守矢神社――妖怪の山の〝麓〟に有る。

 霊夢は、白玉楼通りでの戦闘の後、霊体化したセイバー――フランを伴って、此処へ駆け込んだのだ。

 先に言うべき事は多々あったが、それを伝えるより先、疲労しきった霊夢は、床の上で眠ってしまった。そして目覚めたのが、この深夜であったのだ。

 

「……その、山の巫女に――ううん、監督役に頼みがあるの」

 

「ほう?」

 

 手の傷を目に入れないように、両手とも背中の方へと回して、霊夢は立った。

 立ち上がってみると、霊夢と早苗とは、背丈も殆ど変らない。同年代の少女二人が、顔を突き合わせているようでもあり――姉妹が向かい合っているようでもあった。

 

「聞きましょう。事と次第によっては、私の力を振るう機が来るやも知れない。」

 

「……今回の聖杯戦争は、明らかに人を巻き込み過ぎた。これ以上の巻き添えを防ぐ為に、あんたから宣言して欲しいのよ」

 

 不思議と二人は、適切な間を取るように動こうとしなかった。

 早苗が、霊夢に向かって一歩近づく。

 霊夢は動かぬまま、額がぶつかるに任せて、その場に立ち続ける。

 

「〝聖杯戦争の舞台を、市街地の外に置く〟と。森林か、孤島か、何処でも良いから……誰も巻き込まないような場所を選んで、そこで戦わせるように」

 

 霊夢のすぐ目の前に、早苗の両目が有った。

 鳶色では無い――紺碧。いや、それよりはもっと透明な、名づけ難い薄蒼の瞳。それが瞼にぐうと細められて、何かを隠す様な笑みを作った。

 

「……あんたは〝監督役〟なんでしょう!? だったら、その程度の事――」

 

「そもそもにして、霊夢さん」

 

 声を止めたのは、声と指。早苗は、霊夢の唇に指を当て、言葉の先を封じていた。

 

「確かに私は監督役として、中立的立場から聖杯戦争を監視し、随時必要な支援を行っています。……が、それは何故だと思います?」

 

「……何故?」

 

 早苗は、所以を問う。

 その時に初めて――本当に初めて、博麗霊夢はこの聖杯戦争に、〝何故〟という疑問を抱いた。

 それは、そういうものだと思っていたのだ。

 記された手順の通りに動けば、サーヴァントなるものが現れる。

 そのサーヴァントを駒として運用し、勝ちあがる事で、望みが叶えられる。

 そういうシステムが有り、監督役という役職が居て、自分はマスターという役職にある。

 おかしな事に霊夢は、そういった全ての仕組みを、〝そういうもの〟と認識していた。

 

「……何故、って……?」

 

 だから、分からない。気付かない。気付かなかった。

 

「そもそもこの聖杯戦争に、監督役など不要なのですよ。……というより、監督役というシステムを内包する〝聖杯戦争〟なるゲームが、全て、この世界にそぐわぬ借り物なのです」

 

 世界は常の侭、常の如く在るべしと、霊夢は常々信じていた。

 その前提は、既に崩れ去っていたのであった。

 

「順を追い紐解きましょう。そも、この幻想郷に於いて、聖杯戦争というゲームの存在を秘匿する理由は?」

 

「それは……」

 

「極端に言えば、〝そんなものは無い〟のです。争いを隠せば平穏を得られると、貴女の個人的心情が訴えていたとして、それを斟酌したゲームシステムが組み立てられている道理は無いでしょう?

 ならば、何故にサーヴァントが夜に跋扈し、マスターが市井に隠れ、私が監督役として隠蔽工作に努めるのか――それはひとえに、聖杯戦争とは〝そういうもの〟として作られているからなのです」

 

 早苗の言は、まともに受け取ってはならぬ類の――霞が掛かったような声で紡がれる言葉であった。

 だが然し、霊夢は早苗の言葉を、一言一句逃さず聞き取り――そして、理解していく。

 

「このゲームの形を真似ようとするなら、監督役という駒が必要だった。だから私は此処に居ますが――そも幻想郷の聖杯戦争に於いて、何故〝ただの山の巫女〟の私が、名だたる英雄七騎に命を下せると思いますか?

 恐らくは、霊夢さん。私に何らかの権力があり、私ならば誰かを制御できると思っているのは、参加者達の中でも貴女だけでしょう。他の五名は誰も、私を重要な駒と認識していない筈です」

 

「……つまり、あんたは」

 

「監督役の名を冠しながら、ただ個人的に聖杯戦争の運営に手助けしているだけの酔狂人。誰かが借りてきたシステムの中で、居場所を見つけた人間に過ぎないのですよ。

 霊夢さん、貴女の望みは、貴女以外に叶えられない。私が貴女を手助けし、聖杯戦争を秘匿し、世間的には何事も無く戦いが終わるなど――決して、有り得ない」

 

 東風谷早苗は、邪気の無い顔で笑っている。

 悪意無く、霊夢の心の、触れてはならぬ部分を、土足で踏み躙っている。

 それが壊れたら、彼女は、彼女で居られなくなるだろう部分を――

 

「貴女が、叶えなければならない。

 聖杯を勝ち取り、願うのではなく。貴女自身が戦い、敵対者を捻じ伏せ、貴女自身の名の元に――博麗の巫女の名の元に、全ての奇異を秘匿し或いは粉砕し、不倶戴天の思想を根絶しなければならない」

 

 ――いともたやすく、東風谷早苗は踏み躙る。

 

「貴女が、幻想郷の秩序でなければ、叶わない」

 

 唇の隙間から這い出した、長い、先の割れた舌。

 早苗の舌は己が首を這ってから、霊夢の喉へと伸びて行く。

 それが触れる寸前――ほんの僅かに手前で、霊夢は袖を払って早苗に背を向けた。

 

「どちらへ?」

 

「〝異変〟を終わらせに」

 

 それは良い事だと、早苗は手を叩いて笑う。

 その頃には、宝具による消耗が激しかったセイバーも、最低限の戦闘行為――防御や回避程度なら出来るまでに回復していた。

 霊地の一つである守屋神社の中は、霊体であるサーヴァントを回復させるのに都合が良いのだろう。

 だが――それも、マスターが霊夢だったからこそ、である。

 他のマスターであれば、フランドールの『紅く禍為す禁忌の剣(レーヴァテイン)』が要求する魔力を捻出したら――二日や三日、動けなくなってもおかしくは無いのだ。

 

「セイバー。動けるわね」

 

「……ええ、霊夢」

 

 霊体化を解かぬまま、フランドール・スカーレットは博麗霊夢の傍らに立ち――

 

「……ごめん、霊夢」

 

「何が」

 

「黙ってた事。真名は誰にも――出来るなら、貴女にも知られたくなかった。私の事を知られたら……信じてもらえなくなるって、そう思ってたの」

 

 ――消え入るような声で、詫びた。

 姿を現していたのなら、頬に涙さえ伝っていたかも知れない。それ程にフランドールは、己がサーヴァントである事にさえ、疾しさを感じているようであった。

 

「別に、良いわ」

 

「霊夢……!」

 

 だが、今の霊夢は、セイバーの素性など気にならぬ事であった。

 

「あんたが誰だろうと、私に従ってくれるなら、それで良いの」

 

 〝駒の素性〟なんて、〝そんなもの〟は、全く霊夢には無価値に成り果てたのだ。

 破壊しか出来ぬ駒であるなら、徹底的に、破壊の為に使う。

 親しい者を裏切った逸話が有るなら、裏切りは事前に算段に入れて、令呪の使用を控えるだけで良い。

 最悪、他にまだ、サーヴァントは何騎も居る――取り替えられないとも限らない。

 例え己がサーヴァントが、最悪の破壊者であり、主殺しの剣を握る者であったとしても、

 或いは最強の宝具と高いステータスを兼ね備えた、聖杯戦争最優のサーヴァントであったとしても、

 霊夢に必要なのは、己の意思を実現する力――ただそれだけであった。

 

 狼の毒は、牙を通して肉に沁み込んだ。

 蛇の毒は、音に乗って心を蕩かした。

 博麗霊夢は修羅の顔となって、己が霊地――博麗神社への道を、〝それが当然であるように〟飛んで帰った。

 

 

 

 

 

 冥界町は白玉楼通りの、小さな山。

 無数の桜の樹に雪化粧が施されて、暗闇の中に浮かぶ、墨染の山。

 長い階段の他に、積もる雪を退けた道も無く、人も好んでは近寄らぬ、市中の孤島となった山。

 その頂上には、水の澄んだ広い池と――広大な屋敷が、一つ、有る。

 数十年――或いは百年以上も主を持たず、地元の名士により管理されている和風建築。

 ――白玉楼。

 通りの名前の由来となった屋敷は、怖気さえ感じる程の清らかさで、昇りゆく太陽に照らされていた。

 

「マスター」

 

「………………」

 

「マスター、もう夜が明けましたよ」

 

 魂魄妖夢は、主が奏でるピアノの音に、夜通し耳を傾けていた。

 〝主〟とは、白玉楼の主では無い。今生に於いて、魂魄妖夢の主を務める少女――リリカ・プリズムリバーの事である。

 日が暮れてから、再び日が昇るまで――僅かにも休まず、リリカはピアノを弾き続けていた。

 

「少しご飯を食べて、眠ってください。ピアノは逃げないように見張っておきますから」

 

「……なんだか、止めるのが惜しくって」

 

 窘めるように妖夢は言うが、その頬に浮かんだ笑みは、主の熱中を好ましく思うものである。

 リリカは、奏でる曲の音を極力崩さぬように、後ろ髪を引かれる様を見せながら、鍵盤から指を離した。

 

「思い出せましたか?」

 

「ううん、全然……ちょっと、お風呂入って来るね」

 

「また湯船の中で眠らないようにしてくださいね」

 

 長時間の演奏で、リリカの頬には汗が伝い、髪が張り付いている。妖夢はリリカにタオルを渡し、汗を拭くように促した――丁寧に洗って乾かした、新品のように柔らかいタオルだった。

 それを受け取って、リリカは風呂場へと向かう。戸の向こうでシャワーの音が聞こえ始めると、妖夢は脱ぎ散らかされた服を拾い集め、洗い物の籠に入れ、代わりに着替えを用意していた。

 マスターとサーヴァント――というよりも、主人と家政婦と呼んだ方が、まだ似合いの関係性。だが、甲斐甲斐しく働く妖夢に、辟易の表情など微塵も浮かんでいないのだ。

 

「……ごめんね、こんな事に付き合せて」

 

 脱衣場と風呂場を仕切る戸の向こうで、リリカは小さく、水音に掻き消されそうな程に小さく呟く。

 

「いいえ、良いんですよ」

 

 妖夢は、洗い物を畳む手を止めて答えた。

 

「妖夢だって、叶えたい願いが有るんでしょ。……本当は、私も戦いに出ないと無いんだよね」

 

 リリカにも、魔術の素養は有る――寧ろそれを持たない者は、聖杯戦争のマスターたり得ない。

 だが彼女は、この戦いが始まってからというもの、白玉楼の外に出ていなかった。

 食糧や生活必需品は、業者に電話して階段の下にまで届けさせ、妖夢が受け取り、屋敷の中へ運び込む。資金は――リリカ一人では、使い尽くせぬ程に有った。

 

「思い出せれば、いいんだけど……」

 

 

 

 

 

 リリカ・プリズムリバーの記憶は、酷く断片的である。

 自分の名前は覚えているし、言葉も話せる。自分が立っている場所が何処か、正しく言葉に出来る。

 だがリリカは、自分が何か大事な事を忘れてしまったという喪失感、空虚さに捕らわれていた。

 そもそも自分が、白玉楼の中に一人で立っていた理由も、良く分からない。

 自分の家は、寂れた洋風の館であり、この和風家屋では無い筈だ。だが、自分は確かに此処に居る。

 呼べど叫べど、誰も答えない。寂しさが募った彼女が見つけたのは――

 ピアノ、だった。

 屋敷の持つ空気に合わぬ、だが無粋とはならぬ楽器に触れ、鍵盤を指で弄んだ。心地良い音色が、リリカに応えた。

 リリカは心の空虚を埋めるべく、断絶の多い記憶を辿り、一つの魔法陣を思い出す。ピアノを中心にその陣を描き――言葉は紡がず、ただ思うに留めて、思うが儘に音曲を奏でた。

 そして、魂魄妖夢は呼ばれた。

 自分を主と仰ぎ、命を待つ妖夢に――リリカが最初に告げたのは、〝お腹が空いたからご飯を作って〟であった。

 戦いと全く無縁の願いを受けて、妖夢は面食らい――それから晴れやかに笑って、その願いを十全に叶えた。

 

 それからは、只管、防戦の日々であった。

 セイバーも、黒鎧の狂霊も退けた。

 様子を窺いに来たアサシンは、そも近づけさせなかった。

 リリカはただの一度も、攻撃に転じようとはしなかったし、妖夢も何処かへ攻め入るべしとは主張しなかった。

 

 リリカは、ピアノを弾いていただけである。

 音と交わり、音に遊ぶ時、リリカは何かを思い出しそうになる。

 結局は何も思い出せず、音と共に、脳裡に描いた絵も消えてしまうのだが――リリカはその記憶を、どうしても手放したくなかったのだ。

 

「妖夢は、どうして戦うの?」

 

 リリカは何時か、そう聞いた。そしてこの日も、戸の向こうで控える従者に、風呂場の中から訊ねた。

 一度目は――答えは無く、妖夢は微笑んで誤魔化すだけだった。

 

「きっと貴女と同じです、主よ」

 

 この日、魂魄妖夢は、偽り無く本心を述べた。

 

「……? 私は、自分の願いも分からないんだよ……?」

 

「いいえ、貴女は望んでいらっしゃる。自分が思い出せなくても、何か失ったものがあると知っていて――それを取り戻そうとしている。

 私も同じです、失ったものを取り戻す為に此処に居る。……そして私も、一度、全て何もかも忘れたのですよ」

 

「えっ……?」

 

 から、と、戸が開いた。

 妖夢は長い髪を背で纏め、バスタオルを体に巻いて、洗い場へと入って来た。

 

「お背中、お流しします」

 

 リリカは、髪を無頓着に、がしがしと指先を立てて洗っている。

 その後で妖夢は、リリカの小さな背にハンドタオルを当て、石鹸を泡立てて、洗い始めた。

 二人の何れも、これが当たり前の事であると信じているように――そしてこの時に心底安堵しているように、安らいだ目であった。

 

「生前の私は――晩年、酷く老いました。剣を極めねばならぬと思いながら、それは何故か、遂に思い出せなかった。何の為に刀を取ったか思い出せぬまま、技量だけを磨き――そうして今に至りました。

 けれど今、私は全て知っている。私が何を求めて刀を取り――そして今、なんの為に刀を振るうのか」

 

 ざばっ、とリリカの背に湯を被せて、湯船に浸かるように促し、妖夢は言葉を続ける。

 

「貴女が思い出すまで、私は盾で在り続けます。貴女が願いを取り戻した時、私は刀となりましょう。だから、マスター、貴女はあの美しい音を奏で続けてください」

 

 そして妖夢は、結んだ髪を解き、軽く手で絞るようにして水気を落とすと、風呂場を出て行く。

 

「……妖夢?」

 

「招かれざるお客人がいらっしゃいました。……お引き取り願いましょう」

 

 薄桜色の振袖を纏い、6尺6寸6分の化け野太刀を携えて、魂魄妖夢は屋敷を出た。

 山の麓から、長い階段を上った先には、分厚い扉の正門が有る。

 その前に妖夢は立ち、まだ暗闇の中に潜んだままの、禍の気配と対峙した。

 

「名乗られませい、ご客人。ならぬと仰いますならば」

 

 野太刀を正眼に構え、イレギュラークラス・ウォーリアは、戦に臨む。

 

「我が(マスター)に時来たるまで、半霊を尽くし遮りましょう」

 

 誰何に応えるように――

 

 ぶぅん、

 

 と、羽音が鳴った。


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