東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals.   作:ハシブトガラス

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五日目、放課後――The Grimoire of 〝 〟

「小悪魔、紅茶を。二人分だけで良いわよ」

 

「はいはい、ちゃんと三人分ですね」

 

 赤毛の司書がぱたぱたと靴音を鳴らし、本棚の間をすり抜けて行く。その背を見送りながら、私は追い付かない思考をフル回転させていた。

 ここは――どういう空間なのだろう?

 紅塗りの壁以外には見所が無い、蔵書も僅かな退屈な図書館。その地下に広がっていたのは、数十m四方も有りそうな広大な空間で、大量の書物が並んでいる。

 天井も壁もガラスだが、水圧に負けて割れる様子は無く――そればかりか、明らかにこの空間は、本来あるべき場所から捻じ曲げられて配置されている。

 私達は、階段を下りてここにたどり着いた筈だ。現実的に考えるならば、ガラス天井の向こうには、上の階層の床が見える筈。だというのにこの空間では、上方を遮る何者も存在しないのだ。

 

「アーチャー、ごめん、説明して。流石に理解が及ばないわ」

 

「全く、魔術師のくせに柔軟性が足りないな。〝こういう場所〟なんだ、でいいだろ」

 

「いいえ。位相の転換に周囲の光線の屈折、見る者の認識を欺く永続の結界に、光質・気温・湿度・粉塵混合率の自動調節。

 大きな所だけでもこの数よ、あまり適当な数え方をしないで頂戴」

 

 車椅子の少女は、視線を本に落としたまま、アーチャーに不満気な声をぶつけた。

 両手は本のページに触れているのに、車椅子の車輪は自らくるくると回転し、少女を乗せて動いている。

 

「細かい事はどうでもいいだろ? 枝葉末節に拘るなよ」

 

「細かい事こそ重要なのよ。枝葉が無ければ光合成も出来ない、死ぬわよ」

 

 はは、と軽快な笑い声。アーチャーは冷淡に扱われて、尚も楽しそうだ。

 

「……用件は?」

 

「あんまりに急だな、らしくも無い」

 

 少女の小さな背を、それより小さなアーチャーが追う。その途中、車椅子の少女――パチュリーは、またぶっきらぼうに尋ねた。

 互いに視線も交わさない、挨拶さえ碌にしていない。まるで二人は、つい前日も会った知人であるかの様に、自然と会話をしていた。

 それが――私には、至極奇妙に映った。

 

「ええ、と。パチュリーさん?」

 

「呼び捨てが良いわ、落ち着かない」

 

「はあ……じゃあ、パチュリー? どうして貴女は――」

 

 遥か過去と成り果てた『幻想の幻想』、霧雨魔理沙はその時代の人間だ。彼女の生前の知人であるというならば、この少女の年齢は、私の数十倍にもなるだろう。

 そして――魔理沙と離別してから今までの年月は、長いという言葉で表せるような軽さでは無い筈だ。

 千以上もの年月を重ね、どうして彼女達は、こうも自然に振る舞えるのか。

 聞きたい事は、そればかりでは無い。

 思えば彼女達は、どちらもおかしいのだ。パチュリーが私に向けた第一声は「歓迎するわよアリス」、アーチャーの第一声は「よう、アリス」だった。

 二人とも、私が名乗る前に名前を知っていて、まるで旧知の仲であるかの様に呼び掛けて来ている。

 

「アリス・マーガトロイドという名前を知っているのか、かしら」

 

「――先回りされたけど、その通りよ」

 

 ファーストネームは、まだ良い。生まれてこの方、他に該当する者を知らないファミリーネームまで、この少女は淀みなく口にする。

 彼女達は、何を知っていると言うのだろうか。

 

「寧ろ、知らない道理が有るのかしら」

 

 それとも――私が、忘れているだけなのか?

 パチュリーは上体を捻り、後ろを歩く私に、やはり冷やかな視線を向けた。

 そこに一切の悪感情が無く、生来の顔立ちがただそうなっているだけだと気付くまで、暫く居心地の悪さを味わった。

 

 水中図書館の奥には、三角形の机が置いてあった。

 底辺だけが異様に長い、極端な角度の二等辺三角形。パチュリーは車椅子を、底辺に合わせて止めた。

 

「掛けなさい、立ち話も落ち着かない」

 

「おいおい、椅子が足りないぜ」

 

 机の形状を裏切るように、椅子は一つしか置いていない。その事を指摘されたパチュリーは、一拍の間を開けてから続けた。

 

「……ここ数百年、小悪魔しか椅子を使わなかったのよ。必要なら買いに行かせるけど」

 

「面倒だろ、私は床でいい」

 

 言葉の前に差し挟まれた空白、その意味を知る事は、私には出来なかった。

 寂寥感――だとは、思えない。魔術師の生に孤独は付き物だ。

 外界に触れることなく、自らの知的欲求を満たすためだけに活動するのが、初戦はそんなものが魔術師だ。

 そして彼女は――パチュリーは、如何にも魔術師〝らしい〟少女だったのだから。

 

 まず、体臭が無い。代謝さえ必要が無い為に、体が発するはずのあらゆる匂いがない。

 強いて言えば洗髪料の香りが漂うくらいで、吐き出す息にさえ外気との差が感じられなかった。

 顔立ちを冷たく見せる要因の目は、見開かれも細められもせず、あるがままの形で来訪者を――この場合は私とアーチャーを見つめている。

 細かに眼球の動きを追えば、彼女が僅かな時間の間に、どれ程多くの事柄を見ているかが分かるだろう。

 押すもの無く動く車椅子、触れることなく捲られる本の頁。単言の詠唱すら無しに、彼女は自分の周囲に、自立稼働する物体を侍らせている。

 

 ――ああ、私はこういうことがしたいのだ。

 私が得意とする魔術の分野は、〝支配権が自分にあるものの使役〟。つまり、自分の所有物や領域にあるものを動かし、或いは変質せしめる事だ。

 行く行くは自立行動する道具を、それも無詠唱(ノーワード)で全ての行程を終える道具を作りたい。それが私の目標だ。

 その完成図がここにある。私はなんだか、彼女が羨ましくて仕方がなかった。

 

「合格点かしら」

 

「え?」

 

 車椅子の車軸、自立駆動の起点に目を奪われていた私は、パチュリーの一言で引き戻された。

 合格――とんでもない、採点する事さえ不可能だ。

 現在の私の技量では、最低でも〝開始〟と〝終了〟の二点だけは、必ず一工程以上の詠唱を挟む必要がある。

 目視さえ用いずに何かを動かすのは、例えそれがスプーン一本であろうと至難の技なのだから。

 

「……やっぱり〝見比べる〟と劣るわね」

 

 だのに彼女は、首を左右に振って嘆息する。

 魔術師の見本の様な顔をして、どこか寂しげに溜息を付く。まるで真っ当な人間か何かの様に。

 私には、彼女が分からなかった。

 

 

 

「単刀直入に言う。私の治療をして欲しい」

 

「嫌。かつ、無理よ」

 

 結局赤毛の司書――小悪魔が、もう一つ椅子を持ってきた。椅子の上に胡坐をかくアーチャーの要求は、僅かに一言で突っぱねられた。

 

「おいおい、旧友に対してあんまりだな」

 

「仇敵に対して妥当な線よ。大方その単純無謀な頭で走り回って、壁の釘にでも刺さったんじゃ?」

 

「あんま間違ってない。ただな、釘が毒入りで破傷風が酷いんだ」

 

「おめでとう、壊死させればもう治す必要は無いわ」

 

 本の頁から視線を持ち上げる事も無く、取りつく島も無いパチュリー。

 然し、彼女が只管に拒絶を繰り返しているのは、単に意地が悪いからだけでも無いらしかった。

 

「……魔理沙。貴女は私に対して、どういう評価を下している?」

 

「体力無し、応用性無し、知識は有り。大体の事はお前に聞けば分かるし、困ったら頼れば大体解決する便利屋。違うか?」

 

「昔ならばそうだったわ。今は違う……見て分からない?」

 

 パチュリーは、台詞に似合わない微笑みを見せた。

 微笑みの意味を、そのまま受け取れない事は分かっていた。声の調子があまりに淡々と、感情を込めないものになっていたからだ。

 

「自分の脚も治せない、もう何百年も歩いてない。外の事は新聞と伝聞、それからテレビのニュースで知るくらい」

 

「バラエティは見ないのか?」

 

「5年前に飽きたわ、医療ドラマなら好きだった。知ってる? 『保証は有りません』は成功の予兆よ。

 私の脚は『治らない保証が有る』だから、どうしようも無いのよね」

 

「……何が有った?」

 

 アーチャーは、普段より数段も低い声で尋ねた。

 私の知るところでは無いが、パチュリーが車椅子を使っているのは、昔からという訳ではないのだろうか。

 軽い態度と口調ばかりのアーチャーが、深刻な声を漏らしているのは、私には少しばかり驚きだった。

 

「聞いても仕方が無いでしょう、過ぎた事よ。それより重要なのは、私が貴女を治療出来ないという事ね。

 具体的に言うならば、世界全体に存在する魔力の量が少なすぎる為に、自然蓄積の量を自然消費量が上回って――」

 

「意識的に収束させても無理か?」

 

「器自体が壊れているのよ、注いでも水は溜まらないわ。ただの人間や魔女ならば兎も角、祭り上げられた幻影を弄り回す様な、大それた真似は出来ないわね」

 

「……そろそろ、私も会話に入っていいのかしら」

 

 あまりに置き去りにされている感が強くて、私は思わず口を挟んでしまった。

 彼女達が話している内容は分かる。早い話がパチュリーは、私やアーチャーより、魔力の浪費が激しいのだ。

 何もしていないでも魔力を消費してしまうから、自然回復に任せていては、やがて魔力が枯渇する。

 例えるなら、中程に大穴が、底には針の穴が開いたグラスだ。大量に水を注げば側面から零れるし、少量だろうが放置すれば、やがては全て流れ落ちる。

 それだけの不利を背負って、尚もこれだけの空間を作り出すからには、パチュリーはやはり相当の術者なのだろうが――

 

「パチュリー、で良いのよね。貴女は本当に、アーチャーを治療出来ないの?」

 

「ええ、確証が有るわ。死んだ筈の霧雨魔理沙が、〝射手(アーチャー)〟と呼ばれてここに居るのなら」

 

 彼女は試しもせず、治療は出来ないという。そればかりか――どうも、気になる事も言っている。

 

「寧ろ、アリス。彼女を治せるのは、今は貴女しかいない。貴女が求める物は、外では無く内に有るものよ」

 

「……今の状況を知ってるの?」

 

 パチュリーは、私の右手を指さして言った。包帯の下に隠された令呪の存在を、あたかも知っているかの様に。

 自分の名前を知られていた事、自分が身を投じている戦争の事、疑念の材料は愈々増していく。私の腰は椅子から浮いて――アーチャーに肩を押され、その事に初めて気が付いた。

 

「間違いなく、読んだ記憶が有るわ。だけど、『その記述がある本』を『入手した記憶』は無いのよ。……私自身、おかしな事を言っていると自覚は有る。

 ああ、脱線はしないわ、自分で引き戻す。〝聖杯戦争〟に関する知識を、私が持っているかどうか……それが質問の趣旨よね」

 

「相変わらず自己完結が過ぎるぞ」

 

 茶々を入れるアーチャーに、パチュリーはじっとりと湿って冷たい視線を送る。

 

「自己完結が魔術師の理想像よ。……端的に言うわ、『令呪で命じれば治る』わよ」

 

 重っ苦しく発せられた言葉は、思った以上に短かった。

 

「え? それだけ?」

 

 つい、聞き返してしまう。命令すれば治るというなら、そうしない理由はどこにも無いのだから。

 数日間の危険に怯えるよりは、今すぐに令呪とやらを使ってアーチャーの回復を――

 

「――いや、そもそも」

 

 そもそも、令呪とはなんだろう?

 東風谷早苗――監督役と名乗ったあの女に、簡単な説明なら受けている。確か『サーヴァントへの絶対命令権にして、マスターの証』と、そんな言い方だった筈だ。

 この言葉をそのまま受け取ると、令呪というものは『私から』『アーチャーへの』一方的な優越権に聞こえる。が、今の時点で私には、そんなものを使う予定が無い。

 何せ私は、とりあえず生きてこの聖杯戦争を終わらせられれば、それ以外に望むものも無いからだ。

 これがマスターの証だとは言うが、では無くなったらどうなるとは聞かされていない。そもそも、無くなって困るものなのか?

 

「パチュリー、これって使い捨てなの?」

 

「三回使えるお徳用。再利用の目途は立ってないわ」

 

「……意外に庶民派な発言ね」

 

「どうでもいいわ。令呪は三画を以て一つの図柄を為す。一度の命令に一つを消費し、全て失ったら命令権が無くなるだけ。別にマスターの権限の剥奪とか、そういう事は無いらしいわよ」

 

 なおさら、使う事に躊躇する必要が無い気がした。

 それならばすぐにでもアーチャーを回復させ――それから霊夢に伝えて、セイバーも回復させればいい。私と霊夢を合わせて、命令権はまだ4つも残るのだから。

 右手の甲から始まり、指に絡まる令呪を眺め、私は命を発しようとし――パチュリーの物言いたげな目に引き留められた。

 

「……駄目なの?」

 

「貴女次第だけど、もう少し考えてからでいいんでない? そこの白黒が何を企んでるのか、分からない事なんだし」

 

 彼女の目に促されるまま、アーチャーの呑気な顔を見た。企てを抱え込めるような、複雑な顔はしていなかった。

 

「サーヴァントとして呼び出される? 私だったら死んでも嫌よ――死ななきゃ呼ばれないけど。誰かを主と仰いで、他の誰かと殺し合って、馬鹿馬鹿しい、徒労だわ。

 そこの白黒は喧しいし鬱陶しいし窃盗癖のある駄目人間だけど、ただの馬鹿じゃなかった。『余程の事』が無い限り、自分の自由意思を他人に――回数限定でも――預け渡してまで、のこのこ墓から這い出す筈が無いのよ」

 

「おっ、お前に褒められてる。珍しいな」

 

「貶してるのよ。死んで喜ぶ馬鹿の頭には、ブックエンド程度の価値も無い」

 

 仲の良いことだ――私は呆れ果てつつ、少し笑ってしまってもいた。

 二人の声は、重なる事が無い。一人が確実に話し終わるまで、もう一人は相手の言葉を聞いている。拍子が狂わず続く掛け合いは、気心の知れた仲なのだろうと伺えて、内容の如何に関わらず心地良かった。

 不思議な事だ。初対面の誰かと、出会って数日の誰かの会話を、ただ居合わせて聞いているだけなのに、退屈とは感じないのだ。やけに口に合う紅茶を飲みながら、零れる笑いは抑えきれずにいた。

 

「大体貴女は、不要な事に出向いて行くくせに、私の本は返しに来ようともしない。優先順位がおかしいんじゃないかしら、全くアクティブな面倒くさがり屋め」

 

「勤勉な引き籠りとどっちが良いんだろうな。私は出かけてるんだから、お前も出てくれば良いだけじゃないか。移動距離が半分で済むぞ」

 

「盗人猛々しい。こんな事なら蔵書全てに、さかむけの呪いでも掛けておけば良かったわ」

 

 だけど――パチュリーの毒舌が生易しくなる程、私は彼女の事が分かってきた気がして、逆にアーチャーが分からなくなって行く。 目の前に居る魔法使い二人のうち、パチュリーは、かなり分かりやすい存在だ。

 一見して分かる異質――住まう空間も雰囲気も、周囲に漂わせる小物に至るまで、常人とは異なると、全力で主張するかの様。けれどその実、内面は――こう言うのもなんだが、素直になれない子供の様だ。

 最後まで徹底できない罵詈雑言と、その中に混じる旧友への愚痴と――それから、何故か私には少しの善意と。魔女というには平凡な、ただの少女らしい感情だった。

 翻って――アーチャー、霧雨魔理沙は、至って平凡な少女にしか見えない。

 学生服を身に着けてしまえば、背が低いだけで、違和感なく周囲に溶け込んでしまう。ソファに寝転がって新聞を読み、煎餅を齧り散らすのが良く似合う、少しがさつなだけの少女――少なくとも、外面は。

 じゃあ、内面は? 心の内に問いを作ると、答えが見つからない事に気付いた。

 

「ん。どうした、アリス?」

 

 ――私はやっぱり、こいつを良く知らない。

 知識だけなら有る。霧雨魔理沙という人間が誰で、何をした人物なのかは知っている。でも、彼女の人間性を何も知らない。

 さっぱりと思い切り良く、些細な事は気に掛けず――そんなものは表層的な部分でしかない。肝要なのは、何故そういう傾向に至るのかだ。

 博愛は八方への見得からも、また平等の無関心からも生まれ得る。心の発露の形状は、必ずしも一つとは限らない。何にも縛られない彼女の精神の在り様は、果たして何を支えに立つ物なのだろうか。令呪に束縛される身と堕ちて、彼女は何を思うのだろうか。

 彼女は、霧雨魔理沙は何を望みとして、こうして地に立っているのだろうか――?

 

「……あら。貴女達、日が暮れる前の帰宅を勧めるわよ」

 

「え? もう、そんな時間だったかしら……」

 

 不意に投げつけられた声。窓の外を見ようとしたが、この空間から見えるのは水中の景色ばかり。

 透明度の高い水は、まだまだ空からの光を通している。

 

「いいえ。けれど、間に合わなくなるわ。小悪魔、アレを持ってきて。1号書架の4番目」

 

「はいっ! ……長かったですねえ、しみじみ」

 

 だがパチュリーは、思わせぶりな事を言いながら、赤毛の司書を走らせた。

 

「どうせまた、暫くは合わないでしょう。だから先に言っておく。

 魔法使いの行き着く先は、自身の昇華と保身の両立。だから私はまだ生きている、自分で歩けなくなってもね。

 そこの白黒だって、大きく違えている筈じゃなかった――けれど、無様にも死んだのよ。

 若さにも生にも価値を見出さなかったそいつが、どうして貴女に膝を屈すると思えるかしら?

 ……分からないでしょうね、別に良いわよ。せいぜい二回目の死が、少しでも遠くなる様に働かせなさい」

 

 きい、きい、と車輪が軋み、車椅子が図書館の奥へ消えて行く。パチュリーは再び、膝の本に視線を落とすと、それっきり言葉を発しなくなった。

 遠ざかってしまえば、言い知れぬ威圧も感じない。ただ、ただ、小柄な少女だった。

 

 

 

「貴女の知り合い、相当な難物ね」

 

「そう思うか? 同感だな、全く変わってないぜあいつは」

 

 背後の扉は固く閉ざされている。長い長い階段を、私は汗をかきながら登っていた。

 冬だろうがなんだろうが、この運動量はインドア派に堪える。横のアーチャーがまるで平然としているのも、疲労感に拍車を掛けた。

 

「本当に、相変わらず物持ちの良い奴だ。見ろこれ、新品同様じゃないか」

 

 アーチャーに疲労感が無いのは、もともと生物と呼んで良いのか分からない境遇だからというのもあるのだろうけど、やはり手にした一冊の書物が理由なのだろう。

 見る限りでは、分厚い手帳の様に感じられる。少し品数の多い書店へ行けば、似たようなものが見つかる筈だ。

 明確な違いと言えば、これは〝数百年以上前の〟書物だと言う事だろう。

 

「おー、懐かしいな、見ろよこれこれ! 資料集めの筈が、気付いたら死霊を呼び集める羽目になっててさぁ……――」

 

 ぱらぱらと捲られるページ、その一つ一つから重厚な力を感じる。

 当然だろう、これは〝魔術書(グリモワール)〟。

 魔法使い霧雨魔理沙が、その術の粋を集めた――おそらくは現存する中で、最古の魔術書だ。

 

 そも魔術師というものは、多かれ少なかれ知識を増やすことに喜びを感じ、そして他者には己の知識を秘するものである。

 排他的な環境に居を構え、日夜己の研究に心を傾ける。

 古い絵本に出てくるような、森の奥の小屋に潜み、大鍋で奇妙な薬草を煮詰める姿――あれは、そう的外れでも無い筈だ。

 実際に私は、森の小屋で一人暮らしをしているし、薬草は使わないが人形の部品に囲まれている。良く良く考えてみると、夜中に覗き込みたくない光景だと思う。

 兎角、私達は新たな知識の獲得に努めるものなのだが、誰かと共有できる機会は殆ど存在しないのだ。であれば、研究結果は特に念入りに、自分の為に記録しておくものだろう。

 それがグリモワール。言うなれば魔術師の、生きる目的と生きた成果、全てを収めた書物。万金を積まれても売り渡せない、魂と同価かそれ以上の宝だ。

 

「そんなもの、良く残ってたわね……大概は散逸してると思ったけど」

 

 グリモワール・オブ・マリサ。

 〝魔術師の始祖〟にして〝最後の魔法使い〟、霧雨魔理沙のグリモワール。許されるならば今すぐにでも、彼女の手から引っ手繰って読みたい様な代物だ。

 驚いたのは、彼女が自分の死に備え、グリモワールを処分していなかった事だが――

 

「残させたんだ、何時かまた使うかも知れなかったしな」

 

「え……生き返る前提だったの?」

 

「まさか。焼くのも勿体無いだろう?」

 

 ――この答えは、予想できていた。

 彼女が語り継がれる存在となったのは、一重に〝学問としての魔術の体系化〟という功績によるのだから。

 

 元来の魔法は、生来生まれ持つ素質に依存するか、或いは口頭による伝授が主であったという。魔法書というものも存在はしたが、それらはどちらかと言えば、一つの分野に対する論文の様な物だった。

 即ち、〝着火〟の魔法に関する書物であれば、数百ページの全てを、単一の魔法の為に。深い理解の助けとはなるが、その一冊から魔法使いを志すのは、あまりに壁が高すぎた。

 その有り方を変えたのが、霧雨魔理沙が書き記した、数冊の魔術書群だったという。

 一般的な魔法の基礎知識に加え、各種属性魔法の基本体型、物理法則に魔力干渉を行う事への注意喚起。自己に存在する魔力の発見と行使から、魔法使いになる為の体質改善方法――練習メニューや献立表に至るまで。多岐に渡る項目を纏めれば、この一言に尽きる。

 即ち〝やる気有る者が誰でも、そこそこの魔法使いになれる〟本。魔法が不可思議な存在でなく、学問や武術と同系列の存在――〝魔術〟となったのは、この時からであるらしいのだ。

 

 伝聞系ばかりになるのは、私もその時代に生きた訳ではないからだ。

 古い建築物の地下だとか、その手の古書を扱う商人からだとか、回りくどい方法でかき集めた書物から――それらさえ、『幻想の幻想』より百年も後のものだったが――得た、裏づけの無い知識に過ぎない。

 それでも霧雨魔理沙の名前は、この時代にも僅かに残る、魔術を志すものであるならば、必ず知っている。アスクレピオスの杖が医術のシンボルである様に、彼女の名と黒い帽子は、魔術師のシンボルなのだ。

 

「で……ここへの用件って、それだったの?」

 

「ああ。正確には、こいつを使ってこれから始める、一連纏めてが目的だ」

 

 閉架図書を完全に抜けて、雑談に花を咲かせる主婦達も横目に過ぎて、今は湖に掛かる橋の上。日は少し傾いているが、まだ明るい内に、市街地へは戻れる筈だ。

 横を歩くアーチャーが、グリモワールのページをぱらぱらと捲る。身長差を利して、肩の上から覗き込んでやると、丸っこい文字の走り書きが大量に踊っていた。

 

「……不思議なもんだよなぁ、こいつは昔のまんまだ。霧の湖だって、地形も変わっちゃいないんだぜ」

 

「ええ。そんな古書が原型を保っているなんて、どういう術を使ったのかしら……冷凍保存?」

 

「違う違う違う。アリス、お前は何時も何かずれてるぞ」

 

 私の言葉を笑って受け流しながら、アーチャーは手の中の書を――愛おしげに、とでも良いだろうか、眺めていた。

 

「グリモワールも湖も、空も山も変わらない。だけど、あいつは随分弱そうになっちまった――元々ひ弱な奴だけどな。

 皆、そんなもんだ。長生きしようがなんだろうが、死ぬ前は誰でも枯れ木みたいで、折れないだけが精いっぱいだった。

 沢山の奴が死んだのを見てきたが……もっと沢山、私の後に死んだんだよなぁ」

 

 陽性の感情ばかり発している彼女の、情感籠った表情。あと一時間後に見たかったと、変な事を思った。

 だって、そうだろう。あと一時間もすれば、茜色の夕日が湖に反射する。森の木々を遠くに見ながら、照らし出される彼女の横顔はきっと――きっと、素晴らしく絵になった筈なのだから。

 

「アーチャー。貴女は、死にたくなかったの?」

 

「生きてりゃ死ぬんだ、仕方が無い。誰だって同じじゃないか。

 ただ――仕方が無いんだったら、悲しいのだって仕方が無い。だろ?」

 

 だから、彼女の目の縁の涙を、私は拭ってやりたいと思わなかった。

 気付かない振りをして、ちょっとだけ眺めて――後は黙って、街までの帰路を歩いた。

 積もった雪も、道路沿いに歩く分には邪魔にならない。少し遠回りして、ゆっくり帰りたいと思った。

 

「……ん? おい、アリス」

 

「どうしたの?」

 

 ――往々にして、些細な願いは叶わないものらしい。

 

「霊夢に張り付かせてた『テストスレイブ ver 4.9.102』がおかしい。何か……強力な魔力源に近づいてるような……?」

 

「何よそれ、面倒くさい名前――ちょっと待った。強力な、魔力源っていうと」

 

 何時の間に施したものだろうか。アーチャーは同盟相手である霊夢をさえ、使い魔で監視していたらしい。

 遠隔からタイムラグ無く、主人に各種の情報を伝達する使い魔――驚くのも飽きてきた頃合いだが、少なくとも私には到底作れそうもない。

 だが重要な事は、アーチャーの技量の再確認よりも、私にさえ伝えず霊夢を監視していた事よりも――この街に存在する魔力源など、何種類あるかという事だった。

 

「ああ、サーヴァントだ。器用に気配を消してる……セイバー、気付いてるんだろうな……?」

 

 果たしてアーチャーは、思案さえせず断言した。

 霊夢は早々に帰宅したのではなかったか――そう本人に聞いていた上に、最優たるセイバーの存在。彼女達への心配など抱いていなかったが、然し思えば彼女達も私達同様、万全とは言い難い状況なのだ。

 

「アーチャー、飛べる? 遠すぎる、急ぎたいわ」

 

 市街地まで、歩けばおそらく30分以上。全力で走り続けるのは、雪道と私の体力を考えると不可能だ。

 それをアーチャーも理解していたものだろう。既に箒を魔力形成し、私がまたがるスペースを用意している。

 

「遮蔽、暴風、対加速。使う魔力は大量だ、いざとなったら覚悟してくれよ」

 

「構わないわ、途中で落ちないなら」

 

「そいつは簡単だな、行くぞ!」

 

 地を蹴る音は、小さく軽い。

 全身に加速度を感じながら、アーチャーの駆る箒は上昇する。私は、自分の手が透明化し、西日を透かすのを見ていた。

 空の茜は――血の色に似てるな、なんて感じていた。


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