未来人の選択   作:ホワイト・フラッグ

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40.リフレイン

 松永久秀の見送りを受けながら多聞山城を発って数日。途中何度か宿をとりつつも晃助と頼隆は雑賀の荘に辿りついた。

 

「ようやく着いたな。土橋の拠点に……」

 

 二人がいるのは雑賀の荘の中の土橋家の縄張りだ。人の往来は少なくない。街道が整備され、海の道も確立され、何より商人の町である堺に近いのが理由だろう。かの自由貿易都市ほどではないが賑わいをみせている。

 

「たぶん向こうの屋敷よ。行きましょう」

 

 頼隆が先導して馬を進める。土橋の屋敷の場所は先ほど休んだ茶屋の主人に聞いた。主人の話によると雑賀衆の傭兵活動は一部だが、町の組合や貧しい者に分け与えられるらしい。その中でも土橋傭兵団は活動が盛んで、土橋の縄張りは雑賀衆の中で最も栄えているとのこと。

 そういった町の繁栄に関わる話を聞かされた晃助はそういう統治もあるのかと感心したと共に、自分たちにはできないと思った。

 海上交易によって得られた資金、海を渡って来た新兵器:鉄砲、優れた技師と射手、これらを揃えられる条件があったから彼らは鉄砲傭兵ができるのだ。そのような条件と幸運に恵まれたのは雑賀だけだろう。

 

 土橋の屋敷の門前に行くと中から番人が来たので用件を言うと取り次いでもらえたが、代わりに出てきたのは気楽な笑顔を浮かべた青年だった。

 

「やぁやぁ織田家の使者だって? ようこそおいでくださいました」

 

 佐竹義昌と名乗った男に馴れ馴れしいと思いつつ晃助は自分の口で依頼内容を説明する。

 

「近々、織田家は武田家と戦いになりそうだ。そこで誉れ高い雑賀衆の力を……」

「あ~すいません。今、指揮官格の人が殆ど出払っていてあんまり出兵できないんですよ」

 

 晃助の口上を遮って紡がれた義昌の言葉に頼隆が恐る恐る尋ねる。

 

「えっと……どのくらい出してもらえます?」

「正直。一兵も出したくないですね」

 

 義昌は事情を説明してくれた。土橋傭兵団の指揮官は左官・尉官を中心に各地に出兵するらしいが、二人いる左官が二人共、尉官も一人出向いており、残りの尉官は縄張りの治安維持と防衛に割り振られているとのこと。

 

「出しなに『留守番ヨロ!』と言われたのでそう簡単に兵を出せないのですよ」

 

 ちなみにヨロとはヨロシクの略だそうですと付け加えられたが、晃助は知っているとサラリと流して一考する。信奈からの命令は雑賀衆を雇う事だ。土橋を訪ねたのは活動が最も盛んで勇名を馳せているからだ。何も土橋に固執する必要はない。

 

「じゃあしかたないな。他の雑賀衆を当たるよ。邪魔したな……」

「他の雑賀の者はみんな本描寺に行っているみたいですよ」

「はあ!?」

 

 雑賀衆のまとめ役として孫一なる人物がいる。孫一(孫市ともいう)という名前は特定の個人を指すモノではなく世襲制らしいが、今代のその人物が本描寺に入り浸って長期の漫才大会を催しているとのこと。その為他の集落に行って出兵依頼をしようにも肝心の戦力がないので話にならないと義昌は諭す。

 

「そのような孫一の(めい)があるから本来、傭兵活動をやっちゃいけないんですが、うちの大佐が『あの女アホじゃねえの?』って一蹴しちゃいまして、土橋(うちら)がそこそこ名を売れているのはそういう背景があるからなんです」

 

 これまでの畿内の戦で雑賀衆としてではなく土橋傭兵団の名ばかりあがっていたのは単に他の雑賀衆が活動していないからだと義昌が苦笑いで事情を話してくれる。

 

「つまり……今の雑賀衆はどこ行ってもお断り?」

「残念ながら、そうかもしれませんね」

 

 晃助は苦い笑みを浮かべて義昌に尋ねるが爽やかな笑顔で返された。隣の頼隆の顔を盗み見るが、困惑した表情で何も案が無いと目で知らせてきた。

 信奈の主命に対して「傭兵、雇えませんでした」と事情をそのまま伝えれば「いない者はしかたない」として許しはもらえるだろう。だが、仕事の失敗には代わりないので後々この件は尾を引くだろう。帰る足が重いと感じつつ晃助は頼隆を伴って踵を返そうとする。

 その時、義昌の背後から男がやって来た。その手の訓練をしてきたのだろう。足音もたてず、顔も笑っているようで真顔のような、顔を覚えにくい表情をしている。その男は義昌に何かを渡し、耳打ちすると去って行った。義昌は手の内の巻物を見て眉をしかめながら晃助を呼び止める。

 

「お待ちください。先代さまからこれを見せるようにと……」

「先代?」

「はい。ちょっと変わっているのですが、ともかく見るだけ見て下さい」

 

 晃助は渡された巻物を広げるが、そこに書かれていたのはミミズのようによれたアルファベット。戦国時代に来てからおよそ半年ぶりに見る文字に懐かしさを感じた。頼隆が横から覗き込んで羅列を見る。

 

「なぁにコレ? 南蛮の文字かしら」

「いや……ちっともわからん」

 

 未来の学校で英語の授業を殆ど寝ていた晃助でも主語になる単語くらいは覚えている。それでも知っている英単語は一切なく意味が読み取れない。それに雰囲気からして英語ではないなと晃助は判断した。

 

「……っ」

 

 晃助は頭痛と胸痛を同時に感じ一瞬、目眩でふらつきかけた。本能とでも言うのか。この巻物は見てはいけない。触れてはいけない。それに従い、巻物を義昌に突き返すように渡した。途端に体の不調も遠ざかっていったので、小さく深呼吸すると異変を悟られないようにした。とにかくこの場から、巻物から離れたかったので気を使われたくなかったのだ。

 

「……アルファベットで書かれた巻物なんて珍しいな。でも読めないよ」

「そうですよね。すいませんね引き止めてしまって。それでは、今回は残念でしたが武運をお祈りします」

 

 義昌はそう言って今度こそ晃助と頼隆を見送った。

 

 

 

 

 

 

 追い返す形になってしまったが、二人の客を送り出した義昌は巻物を返しに先代の元へ向かう。彼女がいるのは屋敷の離れだ。廊下を歩いていると相も変わらず天井や床下から気配がする。地侍・傭兵の屋敷だというのにここだけは忍者屋敷になる。この離れも呼ばれもしない尉官が歩こうものには彼女の従者が現れて追い返される。その従者達が現れないという事は義昌は通行を許可されているようだ。

 

「失礼します」

 

 離れの部屋の襖を開けると簾の向こうに小柄な影がいる。先代の土橋傭兵団の頭領:土橋重隆だ。義昌が部屋に入ると影の従者が襖を閉めてしまい、部屋の四隅にある蝋燭が火を揺らしているだけの薄暗い部屋になる。相変わらず目に悪そうな部屋だと思いながら義昌は目の前の盆に巻物を提出する。

 

「して、どうであったか?」

「読めないと言ってましたよあの少年」

 

 簾の向こうからため息が聞こえた。恐らく読めると期待していたのだろう。あのような奇天烈な文字を読める人はそういないだろう。

 

「それには何て書かれているのですか?」

「話したところで意味を解することはできんだろう。我らでも読み取れるだけで、真の意味まで到達できておらんからな。下がってよいぞ」

 

 予想通り答えてもらえず義昌は肩をすくめる。興味本位で聞いてみたが理由を知らされただけマシだろう。一礼して部屋を辞すると義昌は巻物の発見者にして先代と同じく内容を知っている少女の無事を祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「面倒ね……」

「そうだな……」

 

 紀伊から京へ、同じ道を戻る道中で頼隆の呟きに晃助は気だるげに返事する。結果的に数日費やしての弾丸旅行になったのだ。骨折り損となれば清廉な頼隆でもうんざりするだろう。その道中でトラブルが起きたりしたら軽く不幸だ。

 晃助は先ほどの不調を誤魔化す為になんとなく空を見上げる。気持ちよく広がる青い空に白い雲がポツポツとあるだけで太陽の温もりを遮るモノは少ない。十二月の寒い時期に恵まれた天候で良い旅日和だ。旅に限らず何をするにしてもいい日かもしれない。

 

「へっへっへ。お二人さんちょっと待ちよ」

「ちょいと俺達と遊ばねぇか?」

 

 そう。仲のいい仲間と集まって何か楽しい事をやるといいだろう。晃助の周りで複数の男達が金属の長物で肩を叩いている。皆一様に笑っている。現代で週末の終わりを告げるアニメでよく少年たちが友人を誘って遊んでいたが、晃助はお断りしたかった。何故なら彼らの持つ金属はバットではなく抜き身の刀で、笑顔の種類が悪意だからだ。

 

 

 要は晃助と頼隆は強面の野盗に囲まれていた。

 

 

 松永久秀の城から出立した後は紀伊の村まで出稼ぎから帰るという商隊と同行し人数を増やした。人数が多いと逃げられる確率も抵抗できる勝ち目もあるので、盗賊の類いは警戒して襲って来れなくなる。それが、帰りの紀伊から京方面の商隊がおらず、しかたなく二人で進んでいたらこれだ。野盗からすれば若い女を含めた二人の旅人などカモだろう。

 

「なんだか喉が渇いてきたんだが」

「この先に川があったでしょ。終わったらそこで休みましょう」

 

「おい! 何くっちゃべってんだ!」

「大人しく馬も身ぐるみも置いてけや!」

「逃げられると思うなよ」

 

 軽く雑談していると野盗の一人が突然叫び出す。恫喝の意味を含んでいるのだろう。無力な商人なら竦み上がって大人しく荷物や着物を置いて行くかもしれない。

 だが晃助と頼隆は冷静に周囲を観察する。野盗は前に三人、後ろには二人いる。山道はあまり整備されておらず、足元は雑草だらけでいくつか木の根が出っ張っており、左右には木々が生い茂り先ほどまで野盗が隠れていた。

 

「逃がす気は無いそうよ。やるしかないわね」

「そうだな」

 

 頼隆は馬を前に進めながら溜息を吐く。自分自身も野盗の獲物だというのに落ち着いた振る舞いで感心する。戦で何人もの敵と戦う姫武将なのだから当然だが。

 

「私が前をやるわ。晃助は後ろを」

「……わかった」

 

 一瞬迷ったが晃助は彼女の案を受け入れた。馬から降りた二人はそれぞれ前と後ろの野盗に向けて歩きだす。獲物に反抗の意思ありと読み取った二人の野盗は定石通りに左右に分かれて同時に晃助に迫る。

 晃助はゴクリと喉を鳴らして口内の唾を飲み込む。野盗に会った時から酷い渇きを感じるのだが、雀の涙ほどの唾ではその渇きは癒えない。これまでの戦や訓練で緊張からくるのか喉が渇くのは多々あった。今回もそれだろうと雑念を消化する。

 

「やるのか小僧?」

「いい度胸だ。ぶっ殺してやる!!」

 

(……右からだな)

 

 左右同時ではあるがズレがある。いくら息のあった者でもそれぞれの意思をもった人間だ。例え達人でもその差が僅かであるだけでどうしてもズレは生じる。晃助は遅れている左の野盗は放置し、速い右の野盗に構える。

 縦に振り下される力任せな刀を相手の左側に寄るように踏み出して躱す。反撃として左手で鞘を抜き刀の柄で胸を打つ。抜刀しなかったのは間合いが近すぎて刀身を完全に抜けないと判断したからだ。

 

「ガハッ……!?」

 

 胸を打たれた野盗は背を丸めて呻く。相手が怯んだのを確認しながら晃助は左足を引くことで間合いを作り抜刀する。流石に抜刀術を修めている訳ではないので、ただ刀を抜いただけだ。

 それでもこの一瞬で二人の野盗は縦に並ぶようになり、立ち位置は優位になった。

 

「野郎!」

 

 放置されていた野盗は晃助に迫ろうにも目の前にいる仲間が邪魔で直線で動けない。しかたがないので迂回しようとするが、その前に晃助が呻く野盗の膝裏を蹴る。重心が前に傾いていたこともありその野盗はひっくり返った。

 

「うわっ!?」

「お、おい!?」

 

 ひっくり返った拍子に野盗は手の力を抜いてしまったようで刀を手放してしまった。その刀は回り込もうとしていた野盗の方へ飛びその野盗は驚いて踏鞴を踏んだ。晃助はその好機を見逃さずに刀を振るう。

 

「ああああッ!? 足が! 足があああ!!」

「がああっ!?」

 

 一振りで驚いて踏鞴を踏んだ野盗の大腿を切り裂き。返す刀で手放した刀を拾おうとしていた野盗の腕に刀を突き立てる。

 二人の戦闘力を奪った晃助は自らの刀を引き抜き野盗が取り落した刃こぼれだらけの刀を拾って、その刀を持ち主の首に突き刺して殺す。足が使えず這いながら逃げようとする野盗が刀を構えているが、その刀を持つ手を蹴り飛ばし刀を振るう。無防備になった首から盛大に血を零しながら二人目が死んだ。

 

 数度の戦と訓練でここまで強くなれるものかと晃助は我が身を疑ったが、目の前で雑草が血を浴びて紅くなっていくのを見ると事実だと受け入れた。

 

 いける。

 

 自分はできる。仲間の助けを受けずに二人がかりで襲われても戦えた。ちゃんと自分の身を守れる。ちゃんと殺せる。そう思うと気分が高揚した。

 

「貰うよ」

 

 晃助は二人目の野盗の刀を拾うと頼隆の助けに走る。

 頼隆は三人相手にも表情を崩さず、上手く囲まれないように立ち回っていた。しかし、その均衡が崩れた。晃助が倒した後ろの二人の悲鳴を聞いて三人の野盗が晃助を見たからだ。

 

「な!? お前……!?」

「隙を見せたわね」

「ぐっ!?」

 

 野盗たちの注意が晃助にいっている隙に頼隆は一番近くにいた野盗を斬りつけるが、野盗はギリギリ防御した。

 晃助は刃こぼれだらけの刀を投げ頼隆にと鍔迫り合いする野盗の右腕を傷つけ、こちらに応じようとする野盗に突進する。

 助走の勢いをぶつけるのではなく、敵の側面を駆け抜けるために刀を打ち付ける。どっしりと腰を落としていた野盗は晃助の一撃が予想に反して軽い事に目を丸くした。

 

「お、俺っ……!?」

 

 その背後には仲間の加勢に入るため頼隆に斬りかかろうとしていた野盗がいて、彼は自分が攻撃されると思っていなかったらしく、驚きの相を浮かべながら晃助の刃を首に受けて死んだ。

 晃助に抜かれた野盗は振り返ろうとしていたが遅い。

 

「あっ……うぅ……」

 

 薙いだ刀はそのまま野盗の脇に向けられ、その肉の壁を無理やり裂き通る。肋骨に当たらないように腸から胃へと突きあげるように押し入った刀は訪問相手の命を奪って、さっと帰った。

 あと動けるのは頼隆と攻防する一人だけ、晃助は最後の野盗に背後から近づくと左手で野盗の目元を押え、右手の刀を首に押し当てた。そして勢いよく引くとその体は一瞬大きく震えた。最後の野盗は僅かに残った意識で抵抗しようと目元を抑えている手を掴んだが力が籠っていない。そして血の(あぶく)が弾けて晃助の手を汚す。直ぐに小さな痙攣を繰り返し始めた。

 晃助は動いているが死んだ体を横たえると、その服に手を擦り付ける。血がボロ着に拭われて手が綺麗になる。

 

「あなた……随分強くなったのね」

 

 唖然とする頼隆の驚きはもっともだろう。未だに彼女に勝てない晃助が五人の野盗に刃を入れて全滅させたのだから。勿論、彼女が三人もの敵を引きつけていたからこの結果なのだが、これまで傍で見てきた頼隆が驚くほどの成長だ。

 

 

 そんな頼隆の珍しい称賛を受けた晃助は居心地が悪そうに目を逸らしながら、馬の方へ走る。

 

「……川へ行こう」

「何よ。照れてるの?」

 

 馬に跨りながら珍しい反応をする晃助を頼隆はからかう。晃助は頑なに目を逸らしながら顔を赤くしている。馬の歩測も少し速くさせている。頼隆は気になってずっと晃助を見ていると、ときどき頼隆の方を見ては目を逸らすという行動をとっている。気になるがずっと見てられない。そんな意思が伝わり頼隆はクスリと笑う。

 

「なーに?」

「……いや……何でもない」

「私があなたを褒めたのがそんなに珍しい?」

「……まぁ、そうだな」

「私だって良いところがあればちゃんと見てるわよ。ただ、あなたが悪いところばかり見せるから追い掛け回すのです」

 

 そこで一拍おくと頼隆は笑った。

 

「また褒めて欲しい?」

「……そうだな、叱られるより悪い気はしない」

「じゃあ、もう少し真面目にして、カッコいいところを見せて頂戴」

「……ぜ、善処する」

 

 そんなやりとりをしながら少し脇道に入り休憩地に着く。行きの時も利用した場所で脇道なのであまり人が来ず、木陰も豊富なので快適に休める場所だ。

 

 

 晃助は馬の手綱を木に結ぶのを頼隆に任せ、川へ走る。刀を濡らさないように腰から抜き傍に置き、まず拭ったとはいえ血が付いていた手を洗った。そして水を掬って口に運ぶ。気候の関係もあって冷たい水が頬を冷やし、舌を湿らせ、喉を伝って胃に落ちていく。二度掬い、三度掬い、四度掬うが、煩わしくなり頭から川に突っ込む。

 

 渇きが癒えない。

 

 いくら水を飲んでも喉が、胸が、ざらつく感覚が消えない。体内に水が溜まってタプンと胃袋の中で揺れるのを確かに感じるが、渇きが一向に消えない。

 

「カハッ……」

 

 水面から顔を上げて荒く呼吸する。顔を伝い顎に集まった水滴が川にボタボタ落ちるのを眺めながら原因と解決法を考える。なんとなく予想はついている。今日という日にあった特別な事など土橋の屋敷であったことぐらいだ。あの読めない巻物。原理不明だがアレが原因に違いない。

 

 同時に何かの歌と音、そして声が聴こえる。ノイズのような物が混じって擦れていて、聞きとりにくいが確かに聞こえる。

 

 

 だが、そんな物よりも不快感を払いたい。そして方法も心当たりがある。渇きを覚えてからその感覚が無くなった時がある。いや、それを上書きする想いがあった。

 

 

「あなた余程、喉が渇いていたのね」

「智慧……」

 

 柔らかい布が頬を撫でる感触に晃助は緩慢と振り向く。そこには呆れたような困ったような顔をしながら頼隆が晃助の濡れた頬を手拭いで拭っていた。右の頬、右耳、左の頬、左耳、ついでに前髪の水滴も拭きとられる。

 

 

 美しい女の声で歌が聴こえる。女神や聖女の声と言われても納得してしまいそうな美声。だが、断片的に聞こえる詩はどう聴いても残酷な(おぞ)ましい歌。その歌の導きに身を任せれば渇きは薄れた。

 

 

「うん。これでよし。どうしたの?」

 

 頼隆は浮かされたように目を細めている晃助の様子が気になり声をかけたのだが、晃助は彼女の声を聞き流した。何かを話しかけたのはわかっている。口が動いていたのを見えていたから。だが、晃助は彼女の口を見ていたのではなかった。解決法は目の前にある。道中ずっと気になっていた。何度も否定しようとしたが、体は渇きを癒そうと動く。

 晃助は頼隆の右手を左手で掴んで引き、右手で肩を押して彼女を押し倒した。突然の事に頼隆は成されるがままだ。

 

「ちょ、ちょっと!? あっ……」

 

 慌てる頼隆をよそに晃助は頼隆の首筋に顔を埋め唇で啄むように首筋に触れる。首に触れた柔らかい感触に頼隆は思わず身を震わせる。

 

 

 柔らかい肌。その下を流れる温かい血潮。これだ。これが癒しをくれる。道中ずっと彼女の首ばかり見ていた。うなじとか鎖骨だとか女としての魅力を感じる部位ではなく、単純に多くの血が通っている首という部位が気になって気になって仕方がなかった。

 

 

「いきなり何を……い、痛っ」

 

 

 口に含んだ肉に歯を立てると頼隆は当たり前の反応をする。どんどん早くなる首の血流を舌で感じながら、左手で拘束していた彼女の右手を左膝で抑え、空いた左手で紅潮する頬を撫でる。

 

 

「……が……」

「……え?」

「……欲しい」

「!?」

 

 

 気づけば擦れた声で聞こえた歌の極一部を口にしていた。目の前の少女の顔がみるみる赤くなっていく。その素晴らしき紅の根源は何処だろうと求める。左手を頬から首へなぞる。まだ下だ。更に左手を下げていき鎖骨を掠め、着物に触れる。

 

 

「あ……やぁ」

 

 

 波を、脈を、動悸を辿るのに邪魔な布を掻き分けて首よりも柔らかい肌に触れる。顔を背けてか細い声で鳴く少女がいるが、より強くなった鼓動に触れると歌が鮮明になってかき消される。

 

 

 

〈血 …… 血が欲しい ……に注ごう 飲み ……渇きを癒す…… 血……〉

 

 

 

 祈り? 祝福? 恨み? 呪い? 一体何を想ってこんな悍ましい歌を歌っているのかわからない。

 わからない。わからないが、この歌の通りに血を得れば恐らく渇きは癒される。五人の野盗を斬り捨てた時に自分の中に何か(●●)が満ちて渇きを忘れさせた。だから目の前の少女(コイツ)で、少しは楽になるはずだ。

 自分の刀は手に届かない位置にある。少女(コイツ)の腰を見やるが差していない。だが問題ない。左手には武器が、暗器がある。一度も実戦で使っていないが、何度も練習してスムーズに使えるようにした。探し当てた鼓動の根源に近づけるように三本の指を柔肌に沈めていき、刃を出す為に左肘を捻る。

 

 

「待って! 待って、お願い!」

 

 我に返った頼隆の声に晃助は腕の動きを止める。相手の状況や勢いに流されかけたが、頼隆は左手の拘束を振り切って晃助の肩を掴んで訴える。

 

「さっき血を見て昂っているのはわかるわ。わかるけど、こんなの嫌よ。だってコレって一時の気の迷いみたいじゃない」

 

 頼隆は晃助の体を揺すって自分に馬乗りしている少年を振り落そうとするが、体格の問題で晃助を振り落せない。だから、自分の思いを訴える。何処を見ているかもわからないような目つきをした少年に必死に訴える。

 

「いくら姫大名、姫武将の時代だからって私達も女よ。武家に生まれた以上、難しいかもしれないけど結婚や恋にだって夢があるわ。初めてにだってそうよ」

 

 

 何を言っているのかサッパリわからない。相変わらず断片的に聞こえる歌が大きくて聞こえない。だが、拒んでいるのは表情からわかる。表情? 自分は一体何をしている? どうして智慧を組み伏している? そうだ、渇きを癒す為に自分は彼女の心臓(いのち)を欲して……待て、どういう事だ!? ふざけるな! 何故左手が彼女の胸に置かれている? このまま肘を捻ると刃が出て彼女の心臓を停めてしまう。

 

 

「だから、こんな形で私を抱くのは止めて。これは家臣としてではなく女の子としての蜂屋頼隆の願いよ」

 

 

 体の自由が利かない!? 頼む智慧。左手が動かせるなら俺の左手を退かせ! そうすれば俺はお前を傷つけないから! 五月蠅い。うるさい。ウルサイ。歌が邪魔だ聞きたくないんだよ。お前が原因か? お前のせいなのか?

 

 

 晃助の葛藤を頼隆は知る訳もなくその顔を見つめている。僅かに目が泳いでいるが自身の胸に置かれた三本指は退けられる気配がなく、より強く深く沈んでいく。それを答えと受けて頼隆は少年の肩を掴んでいた手をはらりと放す。

 

「……わかったわ。じゃあ好きになさい。ただし、後で酷いわよ」

 

 そう言うと頼隆は覚悟を決めて目を閉じた。こういう時の男というモノは自制が利かなくなるものだと知識で知っていたし、知らない男よりはマシだと諦めがついた。

 

 

 何をしている? どうして手を下した? 何を諦めている? 今お前の目の前にいる男は気が狂っているんだ。殴ってでも噛みついてでも殺してでも拒め! 抵抗しろ! 俺を止めてくれ! ウルサイ黙れ! その歌を聴かせるな!

 

 

 晃助は必死に己の体を取り戻そうと足掻いているが、左腕は止まらず刃を出し続ける。やがて黒い刃の切っ先が頼隆の肌に触れた時、その体が僅かに震えた。このままの調子で刃が出れば数秒で一つの命が失われる。晃助は己を叱咤する。

 

 

 ふざけんな! 何を人に頼った!? 俺の体は俺の物で、俺だけの物だろうが! 訳のわからん歌に操られたり、自分の過ちを他人に止めてもらうな。俺がやるモンだろう! 止まれ、止まれ、止まれ。勝手な事してんじゃねえ左手。誰がそんな事を頼んだ? 許した!? 動け、動け、動け。何をしている右手。止まらないなら止めてやればいい。

 

 

「う……ぐぅっ……」

 

 晃助は頼隆に振り払われた右手を懸命に動かし、左手の元に導く。その途中、頼隆の肩や胸をなぞることになり、その度に彼女の体が震えたが、少しでも早く左手の元に行くのに致し方なかった。

 やがて晃助は右手で左手を掴むことができた。そこからは引き離しにかかる。鉄の塊を持ち上げるように重いができないことはない。ゆっくり、ゆっくりとだが三本の指は少女の胸から離れていく。晃助は自分の体を掌握できている当たり前な事に安堵したが、それが気の緩みとなった。

 

 

 

 動きを止めていた左腕がいきなり再動し、暗器を完全に突きだし、肉を抉った。

 

 

 

「……?」

 

 自身の体に降りかかる熱を不審に思い頼隆は目を開けた。

 

「あなた何して……」

 

 晃助の左手首に仕込んであった暗器が彼の右手を刺し、その右手から零れた血が頼隆にかかったと彼女は気付き、目を丸くした。口を開こうとする頼隆を置いて晃助は立ち上がる。

 

「オオオオオッ!」

 

 雄叫びと共に晃助は走り出し、川へ飛びこむ。辛うじて右手を滑り込ませることで頼隆を傷つける事はなかったが、この体はまだ取り返せていない。寝ぼけた体を起こすのに水で顔を洗うが、そんな生易しい事で済むならこんなに苦労しない。冷たい水が全身の細胞を叩く。

 渇きはまだある。歌が聴こえる。それらの苦しみから晃助は川の中で暴れ回る。

 

 

 

〈血 …… 血が欲しい ギロチンに注ごう 飲み ……渇きを癒す…… 血……〉

 

 

 

 聴きたくない。聴きたくない。止めろ、止めて、止めてくれ。

 どうして美しい声でそんな悍ましい歌を詠うんだ。いったい何の為に歌うんだ? いったいどんな想いで歌うんだ? いったい()のために歌うんだ?

 

 

 川の中で手足をバタつかせながら、いくつもの疑問が浮かぶが最後のモノはよくなかった。歌が遠ざかり、代わりに男の声がするようになった。

 

 

 

〈あなたに……をした。……せていただきたい、花よ〉

 

 

 

 その声は老人のようにも若者のようにも聞こえ、賢者の様で愚者のようにも聞こえる。気だるげな声ではあるが、強い熱意が籠っている。何か誓いのような強い意思が感じられる。

 だが、その声を聞いた途端に渇きは吹き飛び、代わりに全身の身の毛がよだつような恐怖を感じた。歌の比ではない真に恐ろしきモノ。

 

 

 

〈では今宵の恐怖劇(グランギニョル)を始めようか〉

 

 

 

「うわぁぁぁ! ああァァァァッ!」

 

 同じ声で芝居がかった調子で紡がれるハッキリとした言葉。何故かその言葉にとてつもない恐怖を感じ、晃助は川から上半身を出して叫ぶ。

 これまでに体験したこともない恐怖でありながら、この世でこれ以上無いほどの恐怖ではないかと錯覚するほどだ。何故これまで聞いたことも無い声や言葉にこんなにも恐怖するかなど知る由もない。だが、確信がある。アレこそ真に恐ろしい者だと。近づいては駄目だ。アレを排除しなければ安息は無い。

 

 晃助が川の水以上に冷たい恐怖に身を震わせていると、温かいモノに包まれた。奇行に次ぐ奇行を繰り返している晃助を頼隆はその腕で力強く抱きしめる。頼隆はそのまま川から晃助を引きづり出す。川に浸かりすぎて体を壊してはならないから。

 

「智慧……智慧……」

「どうしたのよいきなり!?」

「怖い……怖いんだ……あ、あの……あの声が恐怖を……」

 

 晃助は恥も無く頼隆に泣きつく。ずぶ濡れの衣服を乾かさなければならないが、晃助の尋常じゃない怖がりように頼隆は落ち着くまでその背中を抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 土橋重隆は暗い部屋で巻物を広げて文字を追っていた。

 

「あの者には読めなんだか……」

 

 佐竹義昌を通して晃助に読ませようとした巻物だが、この巻物を読めた物は土橋重隆と遠野宮透子の二人だけ。透子が試しに真喜にも巻物を見せたが、彼女は読むことはできなかった。重隆と透子は巻物を見たり文字をなぞったりすると意味が頭に浮かんで読めるのだが、真喜にはそんな事ができなかった。

 

 

 

 それは何度も観る光景。悔しい失敗。痛い幸福。それらは僅かに形を変えて私を苦しめるが、それらだけは不変で。だからこそ際立つ地獄。

 美しく、恐ろしい歌。その歌に惹かれるように声が来る。それは老人のようで枯れておらず、若者のようで弾みの無い忌まわしき声。私はもう聞きたくないッ!

 

 

 

「いったい何に怯えておるかわからんが、コレが読めないと言っておったか……」

 

 屋敷に[白カラス]と呼ばれる五色の一角が来たと知らせを受けた重隆は、本当は透子と晃助を引き合わせてみたかったものの、透子が居ないので代わりに先日、影たちが見つけた巻物を見せてみたのだ。

 

「まぁよい。そう遠くないうちに再会するだろう」

 

 重隆は巻物を閉じると、そう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 日の暮れた紀伊にて二人の男女が焚火の準備をしていた。

 

「帰りの工程が伸びちゃったわね」

「ごめん」

 

 結局。この時間になるまで晃助は頼隆の胸で泣いていた。晃助はまるで子供のようにどうして怖いだの、離れないでくれなど口走った事を今更ながら後悔している。それだけでなく暗闇を旅するのは危険なのでこの場で野宿する運びとなった。火を焚きながら頼隆は拗ねたように言った。

 

「私すごくあなたの為に色々したわよね」

「はい」

「むしろ酷い事もされたわよね」

「はい」

「私の言う事一つなんでも聞く?」

「はい」

 

 出発前の逆風呂覗きのオウム返しかと晃助は頭を掻く。自分は抜けた事をしてしまったが、頼隆は的確に自分が得する事を要求するだろう。

 

「あの手の悩みが起きたら私に必ず相談しなさい」

「……え?」

「だから、また怖い歌や声が聞こえて泣きつくなら私のところに来なさい」

 

 てっきり、帰ってからの書類仕事の大半を押しつけられるか、何か飯をおごるとかだと思っていた分、晃助は呆気にとられた。

 

「あなたの事だからどうせ下らない要求をすると思ったんでしょう?」

「はい。その通りです」

「あんなみっともない姿を大勢の前で見せたら恥じゃない。そんな大将を頂く家臣の身になりなさい」

 

 早口にそう理由を告げると頼隆は荷物から鍋を取り出して夕食の準備を始めた。

 

 

 




七月に投稿できず申し訳ない。

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