東方闇魂録   作:メラニズム

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第二十八話

ここまで軽く、儚げだっただろうか。

 

紫を抱きしめながら、騎士は己の中の紫と、抱きしめている紫との差異に思いを馳せる。

 

暖かく、柔らかい肌触り。

その上で薄く香る香水。

そして伝う涙が少し濁っている事に、化粧をしている事を悟る。

 

昔は、化粧などしていなかったはずだ。

 

姿形は、記憶に残るその姿と変わりない。

しかし、この化粧こそが、確かにその流れた年月を現している。

 

本当にこの少女は己の娘なのだろうか?

どれだけ事実が並べ立てられた所で、似た所を探す事が難しいほどに似ていないこの様を見ると、どうにも疑問が絶える事無く湧き上がる。

 

その艶やかでさらりとした金髪も、月光のような柔らかい白の肌も。

人の腹を介さずして生まれたという事を考えずとも、似ても似つかぬ娘であった。

 

流浪の旅の果ての、この出会い。

それは、まるで夢でも見ているかのように、快くも腑に落ちない物だ。

 

否、違う。

夢では無い。

 

幻想だ。

そうだ、幻想なのだ。

 

己はこの世界に、幸福を見出している。

この世界はロードランやドラングレイグのように、高く積み上げられた悲劇に埋もれてはいない。

 

手を伸ばせば、起ころうとしている悲劇を否定することが出来る。

救うことが出来る。

それがどれだけ珍しく、夢のような事か。

 

その不可思議なほど優しい世界は、正に幻想と言うのが相応しい。

 

ならばこそ、だからこそ。

 

騎士は紫から伝わる熱を感じながら、己の決意に筋金を入れる。

 

さらり、さらり。

 

互いの布が擦れる音が響く。

互いの背に回していた手を戻し、おずおずと、どちらともなく間を開く。

 

日は昇っていた。

日を通さぬ障子は青白い色を湛えながら、その先にある木々を映し出す。

 

どちらが先に目を向けたかは、覚えていない。

だが、気が付けば、二人ともそちらを眺めていた。

 

音も無く風が吹き、葉が葉とぶつかり合い音を成す。

その音の中、二人は無言であった。

 

「……博麗の巫女」

 

障子越しの、薄らぼやけた木々を見つめながら、紫が口を開く。

 

「この神社の管理人であり、幻想郷の、人側の法の番人みたいなものよ。

妖側が、幻想郷にとって看過できないほどの"おいた"をしたら、制裁を加える」

 

この神社に人が居ず、そして"導き手"でもある天狗から連れて来られた少女。

 

つまりは、そう言う事なのだろう。

 

騎士は頷きながら、件の少女の事を思い出す。

 

紫は、呟くように言う。

 

「あの子のお守り。

頼めないかしら」

 

良いだろう、と騎士は間髪入れずに、また頷く。

その様に紫は少し驚いたような顔をしてから、何かを押し隠すような無表情を浮かべ、言う。

 

「……ありがとう」

 

かすかな声は、畳と障子に吸い込まれて消えて行く。

 

すくっ、と紫が立ち上がる。

直後、眼前へと隙間を出しながら、騎士へと顔を向けて紫は取り繕うように言う。

 

「……そうだ。

気が向いたら、あの子に名前を付けてみたらどうかしら?

博麗の巫女は、ただ博麗の巫女と呼ばれていて名前が無いのよ」

 

それだけ言うと、紫は隙間へと消えて行った。

 

行ったか。

 

騎士も立ち上がり、件の博麗の巫女が居る所へと、足を運ぼうとし……止める。

 

閉め忘れたか、閉じ切れていない襖、その間から見える二人の姿。

 

騎士は踵を返して母屋の外へと出て行った。

 

 

日は、天上へと上り詰めようとしていた。

障子から差す日の光が、室内の畳に浅い角度で差し込む。

 

博麗の巫女は文の膝枕で眠りながら、その浅い日に全身を浸している。

それと対照的に、射命丸 文(しゃめいまる あや)は日差しに浸らぬ場所から、日に照り明るくなった次代の巫女の顔を撫でる。

 

博麗の巫女。

 

その名が持つ義務は、ただ一人の少女が背負うにはあまりに重すぎる物だ。

その義務を背負う為に、それまで生きてきた記憶を全て忘れさせられる。

役目は酷く危険な物で、狭い幻想郷では役目を捨てて逃げる事も出来ないのだ。

 

勝手に連れて来られ、記憶を消され、重く、降ろせない義務を背負わされる。

 

それは、自由を重んじる天狗としては。

 

「……窮屈そうねぇ」

 

無論、それを強いた一人でもある私が、言っていい事では無いのだろうが。

だが、それでも思わずにはいられない。

 

ただでさえ自由に生きられぬ人の身だというのに、と。

 

文は巫女の髪を指で梳く。

巫女はその感覚に、鬱陶しそうに顔を顰めた。

その顔と、絹のような手触りの髪を感じ、文は微笑む。

 

「……ホント、窮屈そう」

 

天狗として、解るのだ。

 

この子は、どこまでも飛んで行ける、そんな資質を持っている。

 

それが、こんな重荷などを背負わされる。

それは、天狗たる身としては同情の念を禁じ得ないほどに窮屈に思えるのだ。

 

文は、未だ眠っている巫女の頭を撫でる。

 

子供特有の、暖かい体温。

それは、日陰だというのに日向のような温もりで。

 

膝から、手から。

伝わる体温が、少し熱く感じられた。

 

少しだけ、火傷してしまいそうだ。

 

馬鹿げた考えだ。

自分を鼻で笑いながら、眠る少女を文は見つめる。

 

それにしても、良く眠る。

子供だからか。

 

どんな夢を、見ているのだろう。

 

夢。

ふと過ぎった思考から、その単語を拾い上げる。

 

この子は、生まれてから初めてする事に、夢を見る事を選んだのだ。

自由などとは程遠い所へと立った、この少女が初めて自ら選択した自由が、夢であった。

 

この少女が、意図せず掴み取った自由。

 

文はゆっくりと、丁寧に巫女の頭を膝から離し、布団へと戻す。

 

そして立ち上がり、母屋を出た。

がらり、と引き戸を引く。

 

引き戸の隣に、騎士が背中をもたれていた。

それに文は驚く事無く言葉を紡ぐ。

 

「夢。

あの子の名前には、それを入れなさい」

 

もたれていた騎士は驚いたようにちらりと文の事を見るが、それを文は鼻を鳴らして嘲る。

 

こんな静かな場所で、聞えていなかったとでも言うのかしら。

 

「……それぐらいの自由は、巫女にだって許される。

違うかしら?」

 

文の問いに男は首を横に振る。

違わない、と。

 

中々、話の分かる男らしい。

 

あの時の腹立たしいほどに冷静な判断、身のこなし、そしてあの八雲紫とそれなり以上に親しげな様子。

謎ばかり多くて気になってはいたが、どうやら人格は、この幻想郷では珍しいほどにまともなようだ。

一切話さないのが、キザったらしくて玉に瑕だが。

 

いつもならば、取材などして洗いざらい吐かせて新聞のネタの肥やしにでもするのだが……。

今はそんな気分にはなれない。

 

文は漆黒の翼を広げ、空へと飛び立った。

 

らしくない事をしたな、と思う。

 

巫女が死んだら新しく連れて来るだけ、というこの役目。

それ自体は手間ではあるが、役目の重大さによって天狗が本来しなければならない通常業務も大分免除される事も考えると実に楽だ。

だからこそ、この役目自体は気に入っている。

 

無論、巫女の役職の窮屈さには、一天狗として思う所は有る。

その楔を解き放てば、どれだけ爽快だろうか、と。

ついでに役職ごとぶち壊してしまえば、もっと爽快だろう。

 

だが、無くす訳にはいかない類の役職である事には変わりなく、

仮に私がこの役職を辞めた所で別の天狗が変わるだけだ。

巫女も同じ。

別の巫女に変わるだけ。

 

だから、最適解は、事務的に事を成す。

それで良いのだ。

 

反抗した所でこの少しだけある苛立ちを解消する為にしてはどうにも採算が合わないし、いずれは死ぬ人にそこまで入れ込んでも仕方ない。

 

そう、仕方ないのだ。

 

私はもう諦めている。

この、少量だけれども溶岩のように熱を持っていた苛立ちは、もう冷え切って固まっている。

それは変わる事は無い。

 

だが、時々、思い出したようにまた熱を帯びるのだ。

そう、さっきのように。

 

それはいつも唐突で、特に理由と言う物を持たない。

だが、今回は違う。

 

あの子が、暖かかったから。

 

さて、と。

 

文はさらに加速する。

 

流石に、徹夜をすると眠い。

仕事は終わったのだ、帰って自由に惰眠でも貪ろう。

 

どんな夢を、見られるだろうか?

 

 

日は落ちる。

 

深く、深く、底の見えない、透き通った水面の底へと、沈んでいくように。

太陽に照らされる全てが、色の熱量を失っていく。

 

そんな濃紺の中に、一つの光が浮かんだ。

その光は、社の脇。

母屋から漏れ出ている。

 

そこから、良い香りが漏れ出た。

湯に溶かれた味噌と、蒸かされた野菜、そして米。

それらがない交ぜになった、日暮れを思わせる夕飯の香りだ。

 

食器が食卓へと置かれ、硬質な音を立てる。

それが数度続き、そこでようやく騎士は一息を付いた。

 

元より、騎士は食事の必要が無い。

腹は空くがそれによって死に至る事が無い、というのは、目的も無く旅を続けていた騎士にとっては都合の良い話であった。

調理し、食べる時間が無いだけで、人はそれなりの時間を稼ぐことが出来る。

故に騎士は所謂料理と呼べるだけの代物を創った事は久しくなかった。

 

だと言うのに騎士が料理を作ったのは、言うまでも無く未だ眠っている巫女の為である。

 

しかし、良く眠っている、と考えながら、未だ眠る巫女を騎士は見やった。

知らぬとは言え、己を人質にしようとして居た者と二人きりだというのに、

どうでも良いと言うように眠り続けている。

人質にしようとしていた者が言うのも何だが、随分と図太い物だ。

ごたごたの中でも尚、彼女は夢を見続けていたのだろうか。

 

夢、夢。

 

その一単語を思い浮かべながら、騎士はあの天狗の言わんとする事を今更ながらに把握する。

なるほど、この様ならば確かに夢という文字を入れたくもなるだろう。

 

最も、恐らくは女性らしい思考で以て、もっと深い意味が込められていたのやもしれない。

だが、己のその辺の妙を解さない、気の利かぬ男性的な鈍さ加減には、騎士は自信があった。

 

その無神経で以て、騎士は眠る巫女を揺すり起こす。

 

二度三度と揺すられた巫女は、やがて蕾の花が花開くように瞳を開けた。

琥珀色の深い色味が、覗き込むように騎士を見つめる。

 

何も喋らない。

 

かたや喋られず、かたや喋らず。

 

はて、どうしたものだろう。

騎士が掌を顎に当て考えあぐねると、巫女も同じ動作をする。

 

……試して見るか。

 

騎士がもう片方の掌を顎に当てる。

すると、巫女ももう片方の掌を顎に当てる。

 

元より十かそこらの齢に見えるが、それにしてもまるで童女のような仕草であった。

 

文字は読めるだろうか、と騎士が文字を書き、見せる。

"これがよめるか?"と、漢字を使わずに書いて見せてみたが、これには巫女は不思議そうに首を傾げていた。

 

文字も読めず、となると……。

記憶でも無くしたのだろうか、この少女……否、巫女は。

 

これは、少しばかり厄介だ、と思いながら、騎士は食卓へと巫女を手招きして呼び寄せる。

少しの間を置いて近づいてきた巫女は、また小首をかしげた。

 

その少女に騎士は箸を持たせる。

二本の箸を拳で握り込む巫女に苦笑しながら、きちんとした持ち方をして、騎士は巫女に見せた。

 

結局、二人が夕食を食べ始めたのは、味噌汁が少しばかりぬるくなってからであった。

 

 

巫女は、むくり、と起きた。

 

眠れない。

 

昼間散々に寝たからだ、などという論理的な理由など巫女は持っては居ないが、ただただその身を包んでいた眠気が消えてしまったのだ。

 

やる事も無く周りに眼をやり、そして布団に自らを放り込み、とんとんと背中を叩いて眠りへと追いやった男が居ない事に気付く。

 

巫女は不思議を感じ、そしてその不思議を抱きながら障子を透かす淡い光を見つけた。

己の中で動き出した興味のまま、巫女は布団の中に未だ入っていた下半身を引き抜く。

 

そして、その淡い光の方へと、巫女は"飛んだ"。

唐突に、当たり前のように。

 

障子を開け、寒さに少しだけ体を震わせながら、巫女は光の方へと飛ぶ。

 

光は地面に広がっていた。

その光の根源は、神社の中。

 

ふわりふわりと巫女は飛び、神社の中を覗き見る。

 

そこには、かの男と剣と火が有った。

 

剣を巻くように立ち上る火に当たるように、男は座り込んでいる。

 

その光景に、巫女は、ずるい、という感情をそれと解らぬままに抱き、引き戸を開け放って中に入った。

 

男はぎょっとした表情を浮かべた。

そして空を飛んだ巫女がその火に当たって、暖かくも寒くも無い、と微妙な表情を浮かべているのに苦笑する。

 

男は片手で巫女の頭を撫でながら、不思議な物を取り出した。

 

簡素な……足すら二本でなく、ただの下半身とだけになっているような……、格子で形作られた、掌に収まる程度の大きさの人型。

影のように暗いそれは、見つめていたら何か人の姿が浮かんでくる気がする。

 

それを男は剣を巻く火の中に放り込み、ぶわっ、と何かが広がったように、巫女は感じた。

 

その感覚に驚きながらも、温いようなそうで無いような火の温もりと頭を撫でる男の手の温もりに、意識がとろけてくる。

そして、ついにとろけ切った意識は、深い深い眠りへと落ちて行った。

 

 

眠りこけた巫女を抱え、騎士は立ち上がる。

これで、しばらくは闇霊への心配はいらないだろう、と思いながら。

 

騎士の持っている物の中で唯一、闇霊の出現を抑制する物品。

先ほど騎士がくべた"人の像"がそれである。

そしてこれと篝火の存在こそが、騎士が紫の頼みを聞き入れた理由であった。

 

人間性が型だけになり、枯れ果てたような見た目のそれは、闇霊の出現を抑制する以外にも、亡者へと傾いた不死人の姿を常人のそれへと戻す効果が有る。

だが、死しても亡者へとなる事が無くなった騎士は、ただ溜め込むばかりであった。

 

母屋の縁側に上がり、眠りこけた巫女を布団へと戻す。

 

どうにも使い処を見いだせなかった人の像だが、今回はそれが幸いした。

溜め込んでいる人の像によって、数年ほどは闇霊の出現を抑制する事が出来るだろう。

 

その数年の間に、"準備"を済ませ、やり遂げねばなるまい。

 

眠る巫女を眺めながら、騎士はロングソードを鞘ごと取り出して抱えながら壁にもたれ、座り込む。

 

すう、すう、と一人分の吐息だけが響く。

そして、日が開けるまで、その部屋は静まり返っていた。

 

 

日がまだ上がり切らぬ頃。

鳥居は、丘の上から照らされ始めた下界を見下ろす。

その中には騎士の知る人里よりも、随分と広さを増した人里が鎮座していた。

 

その鳥居の下。

そこには、親子かと見紛う齢の二人の人間が居た。

 

騎士と、巫女である。

巫女は母屋から適当にサイズの合った服を着込み、騎士は放浪者装備一式に身を包んでいる。

 

騎士は、これから人里へと向かうつもりであった。

放浪者一式を身に付けているのは、過去に人里を訪れた時に着けていた為である。

当時と同じ身の着で身を包む事で、門番とのやり取りを楽に済ませる事を企んでいた。

 

無論、過去に人里を訪れた時からは随分と時が経ってしまい、当時から生きている者は居ないだろう。

だが、己の事が文献に残っている事も少しばかり期待できる。

 

阿一が丁度転生して生きていれば、事は楽に済むのだが……。

まあ、ここで考えていても仕方が有るまい。

 

行くぞ、とでも言うように手招く騎士の後を、ふわりと飛んで巫女は後を追う。

それを見た騎士は立ち止まり、巫女の手を掴んで地面へと降ろした。

 

何をする、とでも言いたげに頬を膨らませる巫女の手を握り、騎士は歩き出す。

 

無論、飛行という移動手段は歩行よりも優秀である。

だが、体は使わねば衰える。

 

仮にもその身を預かったのだ、手を抜かず、きちんと育てねばなるまい。

その思考に紫への負い目が有る事を意識しながら、騎士は下り坂を一歩一歩降りていった。

 

 

元より、こうなる事は予想していた。

 

騎士は巫女を背負いながら考える。

 

幾ら体力の有り余る年頃と言えども、あの神社から人里までは余りにも遠い。

故に、途中でへばり、己が背負う。

そこまでは、予想していたのだ。

 

だが、背負っている時に、見るからに己達を喰おうとする妖怪に出会ってしまうとは。

更に言うならば、巫女は己の背で眠っている。

歩いた疲れと、昨夜の夜更かしが響いたか。

 

なんとも間の悪い事だ、と頭を掻く。

眠っていなければ、空を飛んで逃がす事も出来ただろうが。

起こすにしても、そんな事が出来るほど妖怪と己の間合いは開いていない。

 

妖怪は二体。

どちらも五体を持ち人型であるが、血色は悪く如何にも妖怪、と言った出で立ちである。

 

その口からはよだれと形容しがたい呻り声を漏らし、己の隙を窺っている。

 

それを見ながら、騎士は片手で巫女を支え、もう片手に斧槍を……ハルバードを持ち、その柄尻を地面と衝突させる。

 

知性、経験、力量。

 

何時もならば、こうして様子を窺うまでも無く切り捨てている。

そう言い切れる程度には実力差は歴然であった。

 

だと言うのにそうしない理由は、言うまでも無く巫女である。

 

例えどのような資質を備えていたとしても、その肌は己と違い柔らかい。

あの妖怪の攻撃が掠るだけでも危険だ。

 

うらびれ、草木と地面に呑み込まれかけた石階段上で奇声が響く。

二体が同時に騎士へと飛び掛かって来たのだ。

 

騎士は後ろへと飛び退き、同時に最も手前の妖怪に対してハルバードを切り上げる。

腰の入らない攻撃は、しかし騎士の腕力とハルバードの重量、長い柄によって妖怪へと届く。

ハルバードの斬撃によって、妖怪の片腕は斬り飛ばされた。

 

ハルバードとは、槍と斧を組み合わせた、長柄の武器である。

それ故に至近距離には弱いが、逆に言えば間合いを支配し続ければ、凡庸な斧槍は下手な名剣よりも強力になる。

 

獣のような知性ほどしか無いならば、腕を斬られれば痛みに動きが止まる。

 

騎士は、そう予想していた。

実際、旅の最中でこういった事は何度かあり、そのたびに同じ判断をし、その予想は的中していた。

それは騎士の経験知であり、その点においては些かも過ちは無い。

 

故に、それは運が悪いとしか言いようが無かった。

 

腕を斬り飛ばされた妖怪は、怯む事よりもその痛みによる怒りの方を優先した。

片手のみで騎士へと殴りかかる。

 

騎士は予想が外れた事に顔を険しくしながら、振り上げたハルバードから手を放す。

ハルバードは慣性のままに宙を飛び、空いた片手で持って腕を斬り飛ばされた妖怪を騎士は殴り飛ばす。

 

強力な腕力で持って叩きつけられた拳は、妖怪の鼻を折り頭蓋を折り、その意識を彼方へと飛ばした。

 

片腕の妖怪は崩れ落ちる。

だが、その後ろから五体満足なもう一体の妖怪が躍りかかってきた。

 

突いた拳は、引くにはもう遅い。

 

しくじったか。

 

思いつつ、騎士は背の巫女を庇うべく立ち止まり……。

 

白い閃光と共に、妖怪が弾け飛んだ。

同時に、放り投げたハルバードの穂先が片腕の妖怪の頭に突き刺さる。

 

同時に、ふああ、と耳元から欠伸が聞こえる。

 

見れば、巫女が寝ぼけ眼を擦りながら、手を己の前方へと伸ばしていた。

周囲を見ても、誰の姿も見えない。

 

つまり……。

 

騎士は殴り飛ばした時のままの手を、後ろ手に巫女の頭へと回し、撫でる。

巫女は、ん、と声を上げ、更に深く騎士の首に手を回す。

そして、早く行け、とばかりに騎士の背中を蹴り上げた。

 

分かった、分かった、と頷きながら、騎士は妖怪の顔面からハルバードを引き抜き、ソウルへと仕舞い込む。

そして、騎士はまた人里の方へと歩き出した。

 

それにしても、このような齢の娘子が、無造作にこれだけの事を成せるとは。

 

これが、博麗の巫女、か。

 

騎士は巫女のどんどん、と蹴る感覚を背中に感じながら、人里へと向けて歩いていった。

 

 

「でー、つまり?

あんたは稗田のお嬢様の"前の"知り合いだ、と?」

 

そうだ、と騎士は頷く。

 

人里の門は、前見た時よりも大きくなっていた。

しかしそれに反比例するように、門番達の態度は緩い物となっている。

 

人里の防備と言う点では相反する二つの事柄だが、事幻想郷の治安と言う点で見れば、この二つは総じて幻想郷が前よりも格段に平和になっている、という事が窺える。

 

しかし、人里は本当に大きくなった物だ。

阿一の願いは、今どれほど叶っているのだろうか。

 

「つってもなぁ。

よしんばあんたを信じたとしても、そこの娘っ子の正体も解らんし……。

……あんた、名前は?」

 

そう聞かれ、騎士は答えようと手元の紙に筆を押し付け、止まる。

 

己は、どのような名だっただろうか?

 

事、日の光を憚り、方々を歩き廻る身であると、名と言う物は使う機会が無い。

更に言葉を喋る事が出来なければ、更にその機会は減るという物だ。

 

そして、記憶と言う物は思い出さなければ消えて行くもの。

 

そう思えば、思い出せない事は不思議では無く、むしろ道理であった。

 

ああ、そうか。

己は、とっくの昔に取り落としていたのだ。

名前と言う、自分を現す為の額縁を。

 

「……で、あんたはなんて名前なんだ?」

 

門番の男が、待ち疲れたように眉尻を下げながら言う。

その問いに、騎士は文字では無く二つの物品を取り出して差し出す事で答えた。

 

冷え切らぬ溶岩と蜘蛛の外殻が混じった様な見た目の曲剣と、日の当たり方によっては血のように赤く輝く黄金の曲剣。

 

クラーグの魔剣と黄金の残光を騎士が門番に手渡すと、門番は狼狽した面持ちで声を荒げる。

 

「え、いや……何だよこれ。

お、おいあんた、これを俺に渡してどうしろってんだよ」

 

これが証拠だ、と騎士は紙に書き、門番へと見せる。

 

「……つまり、これが証だ、ってか?

……あー、じゃあ俺稗田のお嬢様の所行ってくるわ」

 

「ああ、行って来い」

 

そう言って、クラーグの魔剣と黄金の残光を恐々と抱えながら門番の一人が門へと消えて行った。

残ったもう一人の門番は、つまらなそうに無言のまま遠くを見つめている。

 

それにしても、と騎士は背中の温もりを感じながら思う。

 

名前が無いというのは、このような気持ちなのか。

 

ここまで心もとない、寂しい物だとは。

だから、昨日は篝火に当たりに来たのだろうか。

 

そうであったとしても無かったとしても、早くこの子の名前を決めてやらねばなるまい。

 

唐突に、背後から、くう、と音が響いた。

 

巫女の腹が鳴ったらしい。

 

見れば、日の光は真上へと差し込もうとしていた。

 

こうもなるだろう、と作って来て良かった。

騎士は懐からお握りを幾つか取り出し、その内の一つを巫女へと渡す。

 

御握りに齧り付く音が背中から響くと同時に、腹の鳴る音がもう一度響いた。

 

「……」

 

音が鳴った方を見やると、そこには残った方の門番が居た。

心成しか、先ほどよりも更に彼方を眺めている気がする。

 

「ん」

 

背後から手が突き出される。

漸く喋ったか、と思いつつも、騎士はまた御握りを一つその手に手渡す。

 

そしてまた御握りに齧り付く音が響く。

同時に腹の音が一際大きく響いた。

 

騎士は門番を見やる。

最早門番は首が辛かろう、と言うほどにまでそっぽを向いていた。

 

「…………」

 

門番は沈黙を保ちながら、器用に眼球だけをこちらの御握りに向けている。

 

騎士は門番へと御握りを一つ差し出した。

門番は御握りを受け取り、良いのか? と視線で訴えかける。

有り難い、と頭を軽く下げ、門番は御握りへと齧り付いた。

 

「……お゛っ!?」

 

すると、寡黙を貫いていた門番は、眼を見開き声を上げる。

こちらと御握りを交互に見やり、顔を蒼褪めさせながらもう一度齧り付く。

そして食べ進めて行ったが、その表情は拷問に耐える捕虜か何かのようだ。

最後の一口を食べる頃には、表情こそ変えない物の、纏う雰囲気は一気に疲弊していた。

 

その動作に気だるい物を漂わせながら、門番は騎士へと向き直る。

 

「……味見は、してみたのか?」

 

していない、と騎士は先の無い舌を門番へと見せつける。

それを見た門番は、そうか、と顎に手を当て、少しばかり考え込む。

そして決心したように顎から手を離し、門番は話し出す。

 

「……喰わせてもらって、こういった事を言うのも申し訳ないのだが。

正直な話、不味……美味しくは無かった」

 

ああ、そうだったか。

騎士は頷きながら、後ろの巫女へと首を回す。

どうかしたのか? と言わんばかりに首を傾げる巫女の姿が其処には有った。

 

元々、予想出来ていた事ではあったのだ。

事、料理の味と言う物は嗅覚だけで判じられる物では無い、という事は。

 

だからこそ、人里の中の食事処に連れて行けるよう、人里に早々と入れるように姿見を当時の物へと変えたりなどもした。

元々握り飯は、間に合わなくなった時の為の、云わば予備であったのだ。

 

「いや、失礼だという事は重々承知だ。

だが、この御嬢さんの飯を作るのは、あんたなんだろう?」

 

そうなるだろう、と騎士はまた首を縦に振る。

 

「なら、悪い事は言わない。

人里に入ったら、誰かに料理を習うと良い。

自分の舌で味を判ぜられないなら、それしか上達する手段は無い、と俺は思う。

あんただって、そこの御嬢さんに不味い飯を食べさせ続ける気は、無いんだろう?」

 

「おーい、あんた!

稗田の御嬢さんから許可は出た!

だから早くこれを仕舞ってくれぇ!」

 

元より考えていた事だ、と門番の提案に首を振ると、同時にもう一人の門番が人里の門から息せき切って走り込んできた。

そして騎士へとクラーグの魔剣と黄金の残光を押し付けると、大きく息を吐く。

 

「こんな高価そうなモン、証なんぞにしないでくれ。

無くしたらと思うと、肝が冷えた……」

 

そう言う門番の額からは、脂汗がじわりと流れ出ている。

門番は脂汗を手で拭いながら、そのまま自分が出て来て、そのまま開け放たれている門を指差す。

 

「じゃあ、入っても良いぞ。

ああ、だけど最初に稗田の御嬢さんの所に行ってくれ。

一応言っておくが、稗田家の屋敷は昔から場所は変わって無い。

だから、案内しなくても大丈夫だよな?」

 

そう言いつつ、門番は腰に下げていた竹筒を傾け、水を飲む。

そして懐から笹の葉で包んだ御握りを取り出し、食べ始めた。

 

「あ、俺にもくれ」

 

「あん?

お前だって持って来てんだろう?」

 

「それはもう朝に食べた。

それに、腹自体は減っていない」

 

「じゃあ、何でだよ」

 

「……口直しだ。

甘ったるくない握り飯を食べたいんだ」

 

門番達の会話を尻目に、騎士と巫女は門へと入り込んでいった。

 

 

「お久しぶりです。

丁度転生八回分くらいですかね?」

 

そう言って騎士と巫女を迎えたのは、うら若き……という表現すら、まだ過小なほどに幼い……少女であった。

無論、騎士はその少女の事自体は所見である。

だがその姿見はかつて見知った彼女の物と似た所があり、その立ち振る舞いも見た目不相応なほどに落ち着いている。

 

騎士は九代目の稗田、稗田 阿求(ひえだの あきゅう)へと、軽く頭を下げる事で出迎えの返礼とした。

それを尻目に、巫女は何の気無しに詰まれた書物を触って崩し、素知らぬ顔をしてそっぽを向く。

 

「……随分とお転婆ですが……娘さんで?」

 

阿求の問いかけに、騎士は少しばかり間を置いてから紙に博麗の巫女と書き、首を横に振った。

 

親のような事をしてはいる。

だが、己はあくまでも保護者のような物であり、親では無いのだ。

そのような身の上で親と名乗るのは、あまりにも烏滸がましい。

 

「あら、そうなのですか。

確かに、先代はこの間老衰で死んでいましたね。

……人は移り変わりますが、あなたは相も変わらず御節介焼きのようですね」

 

阿求は微笑みを洩らした。

同時に、少しだけ巫女の腹が鳴る。

 

「このまま、世間話と洒落込みたい所ではありますが……そうはいかないみたいですね?」

 

どうやら、握り飯二つでは足りなかったらしい。

年相応の健啖家、と言うべきか。

 

阿求の生暖かい視線を物ともせず、詰まらなさ気に巫女は天井の隅を見つめている。

 

「……で。

今回は何用ですか?

私が協力出来る事ならいいのですが。

ああ、対価とかは要りませんよ?

気にしないでください、私達は"共犯者"じゃないですか。

私が死ぬ前に、ふらっと何処かに行ってしまいましたけど」

 

別にそのような約束はしていないが、それでも騎士は決まり悪げに頭を掻く。

同時に差し出された紙を阿求は受け取り、浮かべていた苛めっ子のような嗜虐的な笑みを掻き消した。

 

「……え?」

 

駄目だろうか、と騎士は小首を傾げながら阿求を見る。

 

「いや、無理でもありませんし、駄目でも無いですけど……。

何と言うか、意外で」

 

良かった、と胸を撫で下ろす騎士の姿。

それを見て、阿求は変わらないな、と微笑んだ。

 

それにしても、驚いた。

 

まさか、博麗の巫女を寺子屋にやりたいだなんて。


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