東方闇魂録   作:メラニズム

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第二十二話

上海租界。

 

1842年、アヘン戦争でイギリスが、中国から勝ち取った土地に自国の法律を施行したのが、

その始まりである。

イギリスの次はアメリカ、その次がフランス。

それから更にロシアにドイツに日本にイタリアにと、

年刻みで列強各国がこの土地に利権を持つようになった。

 

情勢と利権、そして土地の交通の便の良さ。

様々な視点で都合の良い土地であった上海に、人々と金が集まるのは半ば必然ですらあった。

 

あらゆる人種の、あらゆる事情を持った者が、この土地に集う。

その事情はそれぞれであったが、

大抵は安住の地を求めるか、金持ちになりたいという願望のどちらかに分類できた。

一般的な法が通じず、暗黙かつ独自の法を持っていた上海では、

確かにそれらの願望を叶えられる見込みは有ったのだ。

 

だが、見込みが有るという事が即ち確実に叶えられるという訳では無い。

 

成功した者、失敗した者、成功しようとする者。

この街で人間を区別するには、人種云々の前にそれら三種類に分類する必要が有った。

 

成功した者は沈むまいと、失敗した者は藁をも掴もうと、成功しようとする者は上に上にと。

誰もが必死であり、誰もが半ば獣のようであった。

 

様々な髪の色と眼の色をした者が、皆一様にぎらぎらと欲望に眼を光らせながら、生きようとする街。

 

それこそが、この時代の上海租界であった。

 

 

上海租界。

その海辺に面した、ガス灯で燦然と照らされる大通り。

 

夜闇とガス灯で、深い黒と鮮やかな赤の二色の色合いに染められた赤レンガがうず高く積み上げられ、建物が巨壁の如く佇んでいる。

 

その赤レンガの建物の眼前では、引く馬の居ない奇妙な鉄の馬車や、地に彫られた溝を沿って行く、人を満載した鉄の箱が、ちんちんと音を立てて行き交っていた。

 

ガス灯の元に居る者は、紳士服やドレスをガス灯の灯りに翻しながら悠然と歩いていく。

そしてガス灯の灯りを避けるように裏路地に潜む者は、闇の中に座り込み、寒々しい襤褸を体に巻き付けていた。

 

両者を分けたのは、一重に金である。

闇に潜む者達はそれぞれ十人十色の理由を持ってはいるが、そのどれもが、結局の所は金が理由であると言い切れる。

 

だが、どのような場合でも例外に類する存在は居る物だ。

 

侘しさと妖しさの芳香を漂わせる闇の中。

ガス灯に照らされぬ裏路地、大通りの脇から入れる、人が一人二人通るかという程度の幅の道。

そこから幾回か右に左にと曲がった先。

 

騎士は、そこに建っている娼館の屋根に居た。

 

隣には、神綺が呆れた様な視線を騎士に向けている。

 

淫靡な香りと阿片の匂いが入り混じった、吐き気を催す香り。

足元からは下品な喘ぎ声と、家具か何かが軋む音が絶え間無く響く。

それを我慢しながら、工場の煙突から吐き出される工業スモッグで出来た薄霧を見通すように、

娼館の下を見下ろす騎士。

そこには、甲冑姿の不審人物を探す、何処の国の者とも知れぬ警邏が血眼になって周囲を見渡していた。

 

無論、甲冑姿の不審人物とは騎士の事である。

 

穴の先は、上海の大通りのすぐ脇にある路地裏の入口であった。

 

神綺の身の着は、多少小綺麗過ぎではあるが、金持ちも溢れるこの上海ではそうおかしくも無い

派手さの衣服だ。

白銀の髪色も、ロシア人などプラチナブロンドの髪形を持つ者も居ない訳では無い上海では、

目に見えた異常というほどでも無かった。

 

だが、甲冑姿の者は流石の上海と言えど居るはずがない。

 

故に騎士は一目で不審人物と目され、

道行く燕尾服姿やドレス姿の者が助けを求めながら逃げ惑った。

大通りに面している為に、騒ぎは火に油を注いだかの如く広がり、

一分としない内に警邏の者達が集まって来たのだ。

 

騎士はその健脚を持って逃げ出し、神崎は他人を装い、周囲の目に気を配りながら飛び立った。

元より体力勝負の騎士という身分であった上に、ソウルの業で飛躍的に高められた体力は、鎧を纏っているとは思えないほどの走りを見せた。

だが、騒ぎを聞きつけて集まってくる警邏により、騎士は半ば包囲される形となる。

 

積みね、もうちょっとしぶとく逃げてくれれば面白かったのに、と呟きながら、神崎は騎士の襟首を引っ掴み、辛くも騎士は包囲を抜け出した。

 

そして騎士は暫くの間、落ち着かぬ浮遊感と人が己の欲望の赴くままに右往左往する様を

眺め続ける事となる。

騎士が眼下に見下ろす人々の見慣れない姿に慣れ始めた時に、神綺がようやっと騎士を降ろしたのが娼館の屋根であった、というのが事の顛末であった。

 

どこかで、罵声と銃声が木霊する。

しかしそれも、猥褻な喧騒と更なる罵声で直ぐに掻き消された。

 

最早、この荒々しい猥雑さはある種の安穏さをも生んでいた。

 

人が人を淘汰する風景に慣れ切って、故にどんな凄惨な事が起ころうともすべからく人々の心は平穏で有り続ける。

この場合の例外に当たるのは、淘汰された死人のみだ。

 

騎士は、この街での暗黙の義務は、無関心に起因する平穏を受け取る事なのだと感じた。

そして、その義務を拒否した事に対する罰則こそが死なのだ、とも。

 

騎士は、途方に暮れていた。

 

少しの間で、地上はこうまでも変わってしまったらしい。

 

無論、ここが己の居た、あの青々とした森と山が連なる地であるとは思っていない。

 

小耳に挟む程度でしか知らなんだ故に多くは知らないが、あの地は海に囲まれた、島の国であった事ぐらいは知っている。

ここは、その海の更に果てにある国なのだろう。

 

それにしたところで、この街の華やかさと騒々しさは、この世界で慣れ親しんだあの島国と比べて、余りにも常軌を逸していた。

かの国の都ですら、ここまで煌々と光を灯しても、夜にもかかわらず真昼間のような騒がしさでも無かったというのに。

 

騎士は、眼球を覆うように撫でた。

 

始まりの火。

 

それこそが闇と光を切り分け、ロードランに神々の時代を築く事となった元凶である、と伝承にはある。

 

では、始まりの火が消えたらどうなるか。

 

その時は世界に闇のみが残り、闇の申し子たる人の時代が来るのだ。

そう、とある息の臭い蛇が言っていた。

 

恐らくは、これこそがあの蛇の言っていた人の時代。

 

闇の時代なのだろう。

 

騎士が長い長い旅路の中で見て来た中で、ただ一つ言える事が有る。

 

闇に属する者が必ずしも悪だとは限らず、

同時に光に属する者が必ずしも善では無い、という事だ。

 

人々の言う悪に属する闇、そこに生きる者共は、確かに人に害を成す存在では有った。

しかし、それは明確な、人や神に対する悪意に依る物では無い。

 

例えば、騎士が対峙した中には、深淵の主とも言える存在が居た。

深淵といえば、神々の世において最も禁忌とされ、畏れられた悍ましい場所である。

騎士自身、その果て無い無間の闇を直接見聞きしているが故に、抱く恐怖は実感を伴って

その恐ろしさを増している。

それこそ、もう良い齢であるというのに、夜に眠る事を拒否する程度には。

 

ソウルとは、文字通り魂である。

それを所持すれば、仄かにそのソウルの持ち主であった者の感情が伝わってくるのだ。

その道の才が有り、熟達した者ならばその者が歩んだ後に残る、ごく微量のソウルの残滓だけでその時その者が感じた感情が解るというが、生憎騎士にそれだけの才は無い。

故にその剥き出しのソウルを触った時に、驚き、そして感慨に耽った。

 

その主である醜い化け物が持っていた感情は、愛しい者と別離した、悲痛な悲しみだったのだ。

それを感じた瞬間、あの死と恐怖を感じさせる苛烈な攻撃は、その感情の表れだったのだ、と直感した。

 

そうと解った時、騎士は最早かの者を伝承に残されているように悪し様に罵る気等起きなかった。

その異形の様と、闇自体が恐ろしく感じられるのは、今もなお変わりはしないが。

 

こうして見下ろしている彼らは、傍から見れば情の無い、誇りを持たぬ獣にも見える。

 

だが、人はそんな器用に情を捨てられるはずも無い。

 

闇に属する物である人が持つ物こそが人間性である。

だが、その人間性こそが情なのだから。

 

故に、これこそが闇の時代が顕在した物だとすれば、この街灯に照らされていない闇の中には、情が詰まっている筈なのだ。

 

しかし、騎士自身は頼まれた身とは言え、闇の時代の到来では無く、光の時代の存続を選んだ身。

 

故に騎士は、自分一人が裏切り者になったような、寂しい、侘しい気分であった。

 

騎士は気を取り直し、神綺に今が何時か問いかけた。

 

この国の発展した有り様は、己の体感した生半な時間で成せるような物では無いだろう、

と思っての事である。

最初の火による転移の時や、神崎の創り出した穴。

そのどちらでも、時間軸がおかしくなっている可能性もあるのだ。

実際、ロードランやドラングレイグは、最初の火によって周辺の土地の時間軸が捻れてしまっていたのだから。

 

騎士の問いかけに、神綺は不思議そうに首を傾げながら答える。

 

「えーっと……そんな事言われてもねぇ。

あなたの考えてる事はよく解らないけど、山の多い島国って事は、

つまりこの国の隣にある日本に居たのよね?

1920年代、って言って通じるかしら?

海の果ての聖人が死んで、1920年ぐらい経ったって事なんだけど。

まあ、解らないわよねぇ」

 

神崎は腕を組んで、どう説明した物かしら、と首を傾げる。

そして、思いついた、とでも言うように指を弾いた。

 

「ああ、日本にいたなら、天皇は知ってるでしょ?

今は大正天皇っていう、百二十三代目の天皇なのよ。

これなら、大体解るんじゃないかしら」

 

その説明に、騎士は己の覚えている天皇についての事柄を思い起こす。

確か己が覚えている限りでは、後鳥羽天皇という、八十二代目の天皇が現役であったはずだ。

 

人の寿命は人によって様々だが、

一つの家系が四十一世代も交代しているほど時が経っているとは。

 

この街の発展具合にも、納得がいくという物である。

 

「そんな事より、あなた何かちゃんとした服は持ってないのかしら?

何度もこんな事が有っちゃ、お人形を買う所じゃないわ」

 

確かに、これでは人形を買いに行く所では無いな、と騎士は己の衣服を見て思う。

甲冑姿は、この街では……いや、この時代ではいささか以上に異様な物であるようだから。

少なくとも、人々が叫んで逃げ回る程度には。

 

騎士は甲冑姿から、燕尾服へと身の着を変える。

 

ロングハットにロングコート、グローブにズボン。

 

その全てはとても質の良い物であった。

無論ただ仕立ての良い衣服という訳では無く、

戦闘に耐え得るだけの利便性と頑強性を兼ね備えている。

ロングコートに隠れているが、特にズボンの内股にはクロスボウの矢……ボルトを収められる仕掛けを施してある。

ズボンに付けられている精巧な銀細工は、あるいはクロスボウのボルトから眼を背けさせる為の物だろうか。

 

これは、元はチェスターといういけ好かない者の衣服であった。

名を名乗る時に自ら"素晴らしい"と付けてから名乗る、どうにも気障な男で、

騎士は辟易としながらもその者から品を買っていたのだ。

 

全ての品を割高で売ったり、矢鱈と居丈高だったり、闇霊として襲い掛かってきたり、撃退したら悪びれもせず拗ねたりと、正直言って碌でも無い奴ではあった。

だが、襲い掛かるのは闇霊の時だけで、行商中には不意打ちを一度もしなかったりと、何か己の中で一つの線を引いていたりもしていたようだった。

 

いけ好かない野郎ではあったが、その線引きには貴族然とした誇りを感じられた。

得てして、愛想の良いだけの者よりも、そういった自分の中で厳格な規則を決めている者の方が信用出来る物である。

 

故に売買を続けていたのだが、有る時に己の身なりを見て、その無駄に身分の高さを垣間見させる知性に富んだ物言いで罵倒すると、己の着替えをやる、とこの燕尾服一式を渡したのだ。

 

燕尾服を渡した後に奴は姿を消した為、どういう風の吹き回しかはついぞ知る事は無かった。

だが、騎士は割高に吹っ掛けられた金銭……かの場所では貨幣など塵屑同然であり、ソウルを通貨代わりにするのが暗黙の了解となっていた……の分と思って、こういったきちんとした衣服が要る時に着たりしている。

 

そういえば、あの気障野郎はどこに消えたのだろうか。

何だかんだと言って、彼奴は強かった。

故に、どこかでのたれ死ぬ事は無いだろう。

 

であれば、どこかへと帰って行ったのだろうか。

 

しかし、どこへ?

 

この燕尾服は、騎士の居た時代では有り得ないほど精緻な縫合で作られている。

騎士の知る限りでは、そのような高い縫合技術を持つ国の事など聞いた事が無かった。

 

そこで、騎士は一つの事を思い出した。

 

最初の火の影響か、ロードランやドラングレイグは時間の軸という物が曖昧になっている、というのは前述の通りである。

 

ソウルの槍や、ソウルの結晶槍。

それら強力な魔術を教えてくれた、騎士の魔術の師である、偉大な魔術師 ローガン。

彼も、騎士の居た時代には既に死んでいる筈の、伝説の人であった。

 

しかし、騎士は実際にかの老人と出会い、魔術を学んだ。

正確には買ったというべきではあるが、ローガンと出会った事には変わりない。

 

前例は有る。

ならば、有り得ないという事は言えない。

 

奴はかの土地がドラングレイグと呼ばれる前か後の時代からやって来たのではないだろうか。

 

騎士が思索に耽っていると、背中を小突かれる。

 

振り向くと、神綺が居た。

 

「うん、今だと多少古臭いというか、今から行く辺りを歩くには真面目過ぎるデザインだけれど、甲冑姿よりはまともだし、いいと思うわよ?

完全に服に着られてるのが玉に瑕だけど。

じゃあ、早速行きましょうか?

今度はちゃんと歩いて、ね。

あなたを吊り下げて飛ぶの、歩くよりも面倒なんだもの」

 

ああ、思索に耽っていたようだ。

偶に状況を忘れて物思いに沈む事が有るのが玉に瑕である。

 

自重せねばなるまい、と思いながら、騎士はまた神綺に襟首を掴まれて地上へと降り立った。

 

紅い衣服を纏った麗人に、その後を追いかける平凡な容姿の紳士。

 

上海租界では対して珍しくも無く、しかしながら多少の物語性を感じさせる二人の姿は少しばかり周りの者の眼を引いたが、過ぎゆく者は皆騎士たちを一瞥して己の足の向くままに歩く。

 

ガス灯の薄ら暈けた灯りの陰に、痩せ細った人の体が見える。

彼らの体の一部が、ガス灯の光に照らされていた。

 

手。

 

足。

 

あるいは頭か。

 

死体だろうか。

 

否、そのどれもがほんの少しだけ動いていた。

 

人によっては口を押え、目を伏せるべき場面だろうが、人は慣れる生き物だ。

ソウルが尽き、死に過ぎて体の動かし方すら忘れた不死人達を腐るほど見てきた騎士にとっては、大して感慨を与える物でも無い。

 

それよりも、騎士はどこからか湧いてくる娼婦達を避けるのに気を向ける事で精一杯であった。

 

男性は強靭な肉体を持ち、女性はその柔らかく蠱惑的な肉体を持つ。

 

ただ生きる為に己の持ち得る武器を活用するのは、どのような国柄の者だろうと変わる事は無く、

外面こそ違えど、本質的には己の持つ武芸で持って苦難を切り抜けてきた騎士とて、同じ穴の貉であった。

 

故に、春をひさぐ彼女らには軽蔑の意を抱く事は無い。

 

だが道を塞ぐ彼女らが煩わしい事には違いなく、騎士は一時の間彼女らを掻き分けて神綺を追う事に必死であった。

 

騎士がこうまでも娼婦に纏わり付かれるのは、言うまでも無くその燕尾服故であった。

身の着とは、その者の金銭状況を表す物だというのが相場である。

少なくともこの時代ではまだ、上流階級の者は、その財が許す限りの金を掛けて身の着を仕立てるというのが常識だった。

 

故に、一目で分かる程に高い縫合技術により縫われているチェスター譲りの燕尾服は、己は金を持っていると宣伝しているような物であった。

そんな人間に、彼女らのような貧窮している者が群がらないはずが無い。

 

やはりこの服を着るのは止めておけばよかった。

あの時は考えてもいなかったが、多少時間が掛かってでも、どこか適当に衣服屋に寄る事を神綺に提案しておくべきであった。

 

騎士の後悔を知ってか知らずか、いや確実に知っているであろう神綺は、娼婦の海に溺れそうな騎士を一顧だにせずに歩いていく。

 

やがて神綺は路地裏へと歩みを進め、故に騎士の周りを取り巻く娼婦も少しずつ消えて行く。

終いには娼婦は誰一人として居なくなり、静まり返った路地を、騎士と神綺は奥深くまで歩んでいく。

 

娼婦の海に沈みかけた騎士は、最早這う這うの体で神綺の後を歩く。

そんな騎士をちらりと見て、笑いをこらえきれずに噴き出し、気を取り直してまた歩き始めた神綺の背中を、恨みがましげに見つめる騎士であった。

 

路地裏の、裏の、裏とでも言えそうな、無限に続く迷路のような路地の果て。

 

最早空は真上にしか見えず、そうして真上を見た所で、狭苦しく古惚けた建物が空を切り取る。

 

紙を握り潰したような、鋭角による雑な円状の空が見えた。

 

そうしてやっと見えた空ですら、口上の出す煙で煙り、薄ら暈けているのだ。

 

ここは、とてもでは無いが人が住む所では無いな。

 

絶対に住む事は出来ないと騎士が思わないのは、一重にもっと酷い人の住まう場所を見た事が有るからだ。

 

ロードランの地の底に在る、病み村。

 

そこは、このようにゆっくりと真綿で首を絞めつけるように人を害する場所では無い。

 

村の地は毒沼で埋め尽くされており、汚物から生まれ出でた様な不衛生な飛蟲がそこら中に居る。

沼に住む蛭(ヒル)は人の生き血を全て吸い尽くす事も容易に思えるほど大きい。

毒消しの苔……解毒の効能を持つ苔があるのだ……など毒に対する備えが無ければ、どれだけ強靭な肉体を持っていようとも半日もあれば毒死する。

 

そんな状況でも、ある少女の挺身によってまだ良くなった方なのだというのだから、病み村の毒気の凄まじさは想像を絶する物が有る。

 

やがて、神綺はある古惚けた建物の前で止まった。

 

空虚な街の喧騒が遠くに聞える為に、その静けさは際立つ。

 

しかし、その静けさの中に得体の知れぬ何かが潜んでいるようにも思えた。

 

「この中よ。

多分、私は顔を見せたらいけないでしょうし、ここで待ってるわ」

 

そう言って神綺は微笑みながら、騎士を建物の中へと誘う。

 

どうにもよからぬ予感に苛まれながら、騎士は建物の中へと入って行った。

こういった感は良く当たるのだ、とため息をつきながら。

 

半ばあばら屋であった建物だが、中は暖かくも寒くも無かった。

否、そんなモノに気を取られる事も無い程に、その建物の中身は異様な風景であったからだろう。

 

中は、悍ましい程の数の人形で溢れていた。

 

そのどれもが己を見ている気がする。

 

鉄の馬車……自動車というらしい……か、あるいは人を満載した鉄の箱……電車という物らしいが、いちいち説明するのは面倒だから後で自分で調べなさい、と神綺に言われた……か。

 

そのどちらかが地面を揺らし、置き場に困る程置かれている人形たちが揺れ動く。

 

揺れ動く為に人形たちの布地が擦れ合い、子供たちがひそひそと呟いているような物音が建物を満たした。

 

そんな気味の悪い人形に溢れた建物の中で、その一角だけが人形に溢れてはいなかった。

 

一人の男が、裁縫道具と共にそこに居る。

 

その男は針を縫いながら、騎士を一瞥して言葉を言い捨てようとし……騎士をじっと見つめ出した。

そして、その口元が、刃物で切り裂かれた様な深い笑みを浮かべる。

 

その瞳は、瞳孔が開き切っている。

前触れも無く、目玉が飛び出た。

目玉は眼孔に収まっていないにも拘らず、垂れ下がらずにぎょろぎょろと動く。

眼孔へと目玉を戻そうともせずに、男は話し出した。

 

この男は、半ば正気では無いだろう、と騎士は直感する。

 

「帰れ、人間に売ってやる人形はここには無い……と、言うつもりだったんだけどな。

ああ、旦那は"特別"だ。

三顧の礼に関わらず、旦那には人形を作るとしましょうか」

 

三顧の礼、という言葉は知らないが、文脈から意味を想像するに三回訪問すれば応じてやる、とでも言った所なのだろうか。

であれば、この言い草から察するに、この男は人妖問わずに三回訪問すれば人形を作ってやるという決まりを設けていたようだ。

 

だが、神綺はこの男について妙に詳しく知っている様子だった。

であれば、己を連れて来ずとも後二度訪れれば良かったはずだが。

 

ならば何故、神崎は己にこんな依頼をしたのだろう。

知らずに蜘蛛の巣にかかった獲物にでもなった気分の騎士だった。

 

だが、神綺のアリスに人形をやりたいという目的だけは何の曇りも無く真実であると解る為に、此処を去るのは憚られる。

 

嵌められたな、と思いながらも、紙を取り出し人形を作ってくれと書いて手渡す。

 

「では、そのあげたい子にまつわる何かを貰いましょうかね。

……意味が解らない、って顔ですなぁ、旦那?

だが、常軌を逸するほど良い人形ってのは、尋常な方法じゃあ作れないんでさ。

ああ、俺のこの"能力"には、そういう物が必要なんですよ、旦那」

 

では、この男も紫や依姫、諏訪子や建御名方神のような人知を超えた能力を持っているらしい。

 

なるほど、そのような力で人形を作るならば、それは神崎が見初めるほど傑作にもなるのだろうな、と騎士は思った。

 

しかし、アリスに関わりのある物品など、己は持っていただろうか。

神綺ならば確実に持っているだろうが、此処を出て貰いに行くのは駄目だろう。

わざわざ此処には入れないと神綺自身が言うのだから。

 

さて、何か持っていただろうか、と騎士はしばしの間悩み、一つの物品を思い出す。

 

騎士がソウルから取り出したのは、一枚のハンカチであった。

アリスがコルクスクリューで己の腕を傷つけ、流した血が付いている。

 

これならばどうだろうか、と騎士は男にハンカチを手渡した。

 

男は満足気に頷き、懐へとそのハンカチを仕舞い込む。

 

「ああ、血が付いているならば充分ですわ。

喜んでくだせぇ旦那、恐らく俺が作る"まともな"作品の中で、最後にして最高傑作が出来上がるでしょうぜ。

ええ、旦那のお蔭だ、感謝してますぜ」

 

そう言って、男はへらへらと笑う。

その纏う雰囲気や表情が、更に人を逸脱しようとしている事が、素人目にも推し量れた。

 

「で、ここからが本題なんですわ、旦那。

といっても、大した事じゃありません。

俺は旦那にまつわる何かが欲しいんでさ」

 

己に関わる物。

つまり、この男は己の人形が作りたいとでも言うのだろうか?

 

「ああ、どういうのが望ましいか言わなけりゃ、解りませんわな。

そうだなあ、例えば眼球とかが良いですな。

いや、耳も悪くない。

心臓なんかどうだろう」

 

「……違うな、何と言えばいいだろう、俺が最も使いたい旦那の部位は……。

何か確信だけが有るんだよな、旦那の持つ"何か"を人形の材料に使えば、最高の人形が出来るっていう。

ああ、面倒だから全部頂いても良いでしょうかね?」

 

にじり寄る男に、騎士は少しばかり寒気を覚えた。

 

血だけで人形を作るには十分では無かったのか。

 

何故人の臓腑が要るというのだ。

 

やはりこいつは狂っている。

 

こんな面倒な輩に付き合う必要は無い、さっさと逃げるのが良いだろう。

殺しても良いが、そうすればアリスの人形を創る者が居なくなってしまう。

かの少女がこのような者の作った人形を喜ぶかは知らないが、少なくとも親であるはずの神綺が選んだのだ、質は良いはずだ。

あれだけ人形を待ち望んでいた少女に、代替品が渡されると思うと、どうにも心苦しい。

 

少なくとも、己と神綺が知り合いであるという事はこの男は知らないはずなのだ。

故にその辺りで難癖を付けられる事は有るまい。

契約を破る事にはなるが、神綺には自分でどうにか人形を入手して貰おう。

 

騎士は後退り、建物を出ようとして、何者かにぶつかった。

 

衝撃を受けたのは足から腿にかけてで、その体躯から察するに童か少年少女と言った所であった。

 

騎士は振り返り、ぶつかったであろう子を見る。

 

驚いた事に、ただの子供では無かった。

 

否、子供かどうかも怪しい。

 

何故ならば、その薄桃色のドレスの背から、蝙蝠(コウモリ)のような羽が生えているのだから。

 

頭に乗せるように被っている帽子から覗く髪は、空の色を更に煮詰めて濃くしたような、濃いとも淡いとも言える不思議な色合いであった。

 

その少女は傲慢さと気高さを合わせたような仕草で、己を見上げている。

 

その顔には、恐らくはぶつかられた事による不快感と驚きとが浮かんでいたが、その表情にもどこか気品と優雅さを匂わせる。

 

「……火?」

 

少女が呟く。

だがその呟きは、後ろから聞こえてくる物々しい音に掻き消された。

 

その音で騎士は我に返り、騎士は少女に向き直り頭を下げ、非礼を詫びた。

 

今の状況では暢気に過ぎる行いだ、と騎士は頭の片隅で思うが、騎士の理性はその意見を封殺する。

 

目の前の妖怪らしき少女を怒らせるのと比べればあの矮躯の男など危険ですら無いだろう。

妖怪の一撃ならば死ぬやもしれないが、矮躯の男の背後からの一刺し程度ならば、どう悪く転んでも死ぬ事は無い。

少なくとも、ソウルで下駄を履いた己の肉体の強靭さならば、それぐらいは耐えてくれる。

 

矮躯の男から貰う一撃よりも、明らかに妖怪である少女の機嫌を損ねて交戦状態に陥る事の方が、よほど危険であった。

 

頭を下げている故に少女の表情は解らないが、彼女の物であろう声音に怒りは無く、面白がっているような声音であった。

 

「あら、こんな年端もいかぬ少女に謝っていて大丈夫なのかしら、Mr?

背後の彼、人形屋なのに大型の肉斬り包丁なんて取り出してるけれど。

まあ、ちょっと今からだと、逃げるには遅い気もするけれどね」

 

「ああ、スカーレットの御嬢さんか。

人形は出来てる……ほら、その棚に載ってる奴だ。

だが、ちょっと待っといてくれ。

俺ぁ、この旦那の体で人形を作ってみたくて堪らんのだ」

 

ふうん、とスカーレットと呼ばれた少女が呟く。

 

「ま、どっちの邪魔もしないでおいてあげるわ。

この変に落ち着いてるジェントルマンからはぶつかられた事についてきちんと謝罪されたし、あなたからは毎回人形を作って貰ってるし。

あなたへの義理とこのジェントルマンの礼節、どちらも無碍にする気は無いからね」

 

そう言って、少女は瞬く間に彼女が座れる程度に開いた、男と己の邪魔にならないような場所に座る。

 

ほら、どっちも頑張りなさい、と他人事のように暢気に……実際他人事ではあるのだが……少女は煽っていた。

まるで演劇でも見ているような態度であり、騎士はどうにも気が抜ける。

 

にわかに騒がしくなったからか、少女の後ろから神綺が様子を見に来た。

その姿を見て、男は舌打ちをする。

 

「ああ、なるほどな。

人形をこの旦那に代理で頼んだって訳だ。

その態度は気に入らねえが、この旦那をよこしてくれたから、その分に関してはチャラにしてやるよ。

人形は作ってあんたに渡してやるから、その代わり、邪魔立てすんじゃねえぞ」

 

「んー?

よく解らないけど、人形作ってくれるのなら何でもいいわ。

人形作るのに、結構時間かかるかしら?」

 

「ああ、一、二週間ってところだ」

 

「あらそう、じゃあそれぐらいにまたお邪魔しに来るわ。

……何か変な事になってるけど、依頼はきちんと完了した、って事で、よろしくね。

勿論、人形が受け取れなきゃ駄目だから、彼の事は殺さないでね?」

 

めっ! と子供を叱るような、この状況に似合わない仕草をした神綺は、また穴を開けて帰っていった。

 

最早ため息も出ない。

どうしてこうも面倒事に巻き込まれるのか。

 

少女が退いたので、このまま逃げても良いだろう。

だが、男が追いかけて来たとすれば、まず男がそこらの警邏辺りに掴まるのが落ちだろう。

そうなれば、この男が人形を作る事は出来まい。

 

つまり、この男を死なない程度に倒してから逃げる他無いのだ。

 

何で己を襲ってくる相手にこのような手心を与えなければならないのだろう。

 

ため息交じりに愚痴を吐いた所で、騎士が男に手心を加えてやる理由は、一つしか無い。

一重にアリスの人形の為である。

 

その性根こそまとも過ぎるほどまともであるが、騎士とて常時死地にいた身だ。

己の行動がどれだけの危険と利益を生むか、

という事ぐらいは、その磨き上げられた直感で持って推し量る事が出来る。

その直感が確信を持って呟くのだ。

 

男を殺す事と、男を無力化する事。

それにかかる手間は、大して変わらない、と。

 

男は肉斬り包丁を両手で持ちながら床に引きずり、騎士に近づく。

 

「ああ、旦那、動かないで下さいよ。

下手に切れちまうと、人形の材料にするには難しいんでねェ!」

 

そして、円盤投げのように全身を使って、横薙ぎに切り払ってきた。

 

騎士は無造作に拳を打ち上げる。

 

肉斬り包丁は、騎士を真二つに分かちはしていなかった。

 

男の手から肉斬り包丁がすっぽ抜け、天井へと刺さる。

 

上げられた拳は、肉斬り包丁の刃の腹を殴っていた。

 

肉斬り包丁の勢いに体が取られて姿勢が崩れた男に、騎士は被ったロングハットの縁が男の髪に触れるほど近づく。

 

そして片手で男の頭を押さえながら、開いたもう片方の拳で男の顎を強かに殴りつけた。

 

頭を押さえられている為に、殴打の衝撃で吹き飛んで頭をぶつける事も、首がおかしな方に曲がる事も無く、その衝撃は脳を揺らす。

騎士の腕力、そして拳の当たり方からしても、男が意識を飛ばすのは不可避なように思われた。

 

しかし、男は意識を朦朧とさせつつも、意識を飛ばしてはいなかった。

 

騎士はこの華奢な体躯の男が見せた意外なタフネスに驚きながらも、再度拳で顎を強かに打ち、今度こそ男の意識を刈り取る。

見ると、男の額には、瘤のような物が出来ていた。

それは己の打撃による物では無く、さながらそこから角でも生えてくるかのように、縦に長い。

 

異形に成り掛けていた、という事か。

かつて酒呑童子から聞いた、鬼の生まれ方を思い出す。

 

鬼に成り掛けるまでに強い人形への執念とは、一体何なのだろうか?

 

男と騎士の大立ち回りが終わると、拍手が響き渡った。

 

拍手の主は、言うまでも無く蝙蝠羽の少女であった。

 

「仕立ての良い燕尾服の割には、並外れて着慣れてないと思ってたけど、荒事で成り上がったのかしら、あなた?

何にせよ、なりかけとは言え、異形の者に手加減出来るまで手練れとは思わなかったわ。

あの銀髪の女も化け物だったみたいだし、不思議な人ね、あなた」

 

けらけらと笑いながら、少女は言う。

 

笑い終えた後も楽しそうにしながら、少女は受け取りに来たのであろう人形を取る。

そして開いた手で、懐から取り出した分厚い札束を、男の裁縫道具の上に投げ置く。

 

少女は人形を腕に抱えながら、騎士に振り返った。

 

「もし良ければ、私の家にでも遊びに来ない?

あなた、色々な物を見聞してそうだし、色々と面白い話でも持ってるでしょう?

勿論、相応の持て成しは期待してくれても構わないわ」

 

騎士は頬を掻く。

 

確かに己は色々な体験をしてきた。

そして解る者は解る様で、たびたびこうやって聞かれる事もある。

例えば阿一のように。

 

だが、そもそも己は口を利けないのだ。

そうやって聞かれるたびに毎度毎度口を開くのも、少しばかり面倒ではある。

まあ、口を開かずには説明も出来ないのだから、仕方のない事ではあるのだが。

 

騎士は口を開き、少女に舌の無い口腔を見せつける。

 

少女は品の無いその仕草に顔を顰めたが、その口腔を見て騎士の言わんとする事を察する。

 

「口が訊けないから話す事は出来ない、って?

そういった類の話を持っていない、とは言わないのね」

 

少女は少しばかり何かを考えた後、口を開く。

 

「あなた、字は書けるかしら?

よほどマイナーな言葉じゃない限り、どんな言語でも構わないわ」

 

騎士は少女の問いに頷く。

 

伊達に長い間日本を歩き廻っていた訳では無い。

ソウルによって底上げされた記憶力も相まって、物を書くのに不自由しない程度には書く事が出来る。

ただ、時代からして言語としては古臭い物かもしれないが。

 

騎士の返答に少女は笑みを浮かべた。

 

「それなら問題無いわ。

私の家に逗留して、あなたの見聞した面白い話を書けばいい。

ああ、別に嘘を書いてもいいわよ?

面白ければ真偽は問わないわ」

 

騎士は腕を組み、考える。

 

まず、嘘をさも真実のように書き連ねるような器用な事など、己は出来ない。

故に、書ける事はドラングレイグやロードランで見聞した事程度だ。

 

神代から永い時間が経ったこの世界では嘘臭く感じられてしまうだろうが、幸いながら面白ければ良いと言ってくれている。

かの土地での体験談が面白いかどうかは解らないが、詰まらない故に追い出されれば、それはそれでまたどうするか考えればいい。

以上の事から、書く事自体には問題は無い。

 

問題は、闇霊だ。

 

闇霊の事が有るから、長い間逗留する訳にはいかない。

故に、己のロードランやドラングレイグで見聞した事を、全て書く事はまず出来ないだろう。

 

だが、そこは少しばかり切り口を変えて書けば良い。

いつでも彼女の元を出る事が出来るように、短く纏めた物を数多く書けばいいだろう。

幸いにして、闇霊が出てくる直前ならば、感覚的にその兆候を察知する事は出来る。

察知してから全力で離れれば、大した被害は出ないだろう。

 

次に、彼女の家に逗留する利点だ。

 

まず、己はこの街の事と、この時代について何も知らない。

 

ただこの街に潜むだけでも、これだけ興隆した所ならば容易な事では無い、

得てして、街の大きさに比例するように、その暗部も複雑さを増す物だ。

下手に歩けば、それだけで致命的な面倒事に巻き込まれるかもしれない。

 

故に、この街について、そして流れ去ってしまった数百の年月について、知る必要がある。

 

これまでの彼女の様子だと、仮にも客人として迎えた者を襲ったりなど嵌めるような事はしないであろうし、何も知らずこの街を歩き廻るよりは安全だろう。

 

逗留している間に、ここ一帯の情報を安全に収集する事の出来る、良い機会だ。

 

少女の提案を呑む事への利益と不利益を、丁寧に騎士は検討する。

その上で、騎士には、彼女の提案を呑む理由は有れど、蹴る理由は無いという結論に至った。

 

騎士は少女の提案に頷く。

 

「じゃ、決まりね。

着いて来なさい、Mr。

悪魔の家に案内するわ」

 

店を出る少女に、騎士は付いて行く。

 

店を出た所で、少女は一つ思い出したように振り返る。

 

「そう言えば、まだ自己紹介してなかったわね。

私、レミリア・スカーレットと申します。

宜しくお願いしますわね、Mr?

あなたの運命と、私たちの運命が絡み合っている間は、ね」

 

騎士は、レミリアの言った最後の言葉の意味が良く分からなかった。

何を指しているのかも、何を思って言ったのかも。

だが、どうせ貴族の好む迂遠な言い回しだ、とだけ思って追い掛けた。

 

そうして、二人は上海の闇へと消えて行った。

 

 

二人が立ち去ってから、暫く経った後。

 

人形屋の男が、むくりと起き上った。

辺りを見渡し、己が殴り倒され、逃げられたのだと察する。

 

「……ああ、慣れない事はするもんじゃあねえなぁ。

やっぱり、こういう事はその道の奴に頼まにゃあいかんな」

 

顎を擦りながら男は立ち上がり、備え付けられた電話機でどこかに電話を掛ける。

 

「……ああ、俺だ、俺。

ああ、今回もちょっとばかし殺しを頼みてえ。

金は弾ませるから、一等腕の立つ奴を頼みたい」

 

「……ああ、あいつが空いてんのか、それはいい。

俺ぁあいつも人形に使いてぇんだがな、顔立ちも良いし綺麗な銀髪だぁ……。

あ? 冗談だよ、俺に殺せるはずがねぇだろ?

逆に殺されるのが落ちだろうよ」

 

「にしても、洒落てるよな、あの女も。

"切り裂きジル"なんて名乗って、しかも本物みてぇに女しか狙わねぇってんだから。

ああ、そうだ、そうだった、忘れてたぜ。

今回頼みてぇ奴、男なんだよ」

 

そう男が言うと、電話機の向こうからの声は渋い色を覗かせる。

その様子を見て取った男は、電話に向かってまくし立てた。

 

「……あ? それじゃあ厳しい?

金は既定の何倍でも払うし、どんな小さな部位でも何でも、頼みてぇ奴の物ならそれで良いって言っとけ。

馬鹿みてぇに吹っかけられても、あいつが依頼を受けさえすりゃあいい。

あの女以外じゃ、まともに俺の依頼を達成できた試しがねぇからな。

足元見られても構わん」

 

「……ああ、じゃあ頼むわ。

じゃあな」

 

男は電話を切り、店の奥へと歩んでいく。

 

その部屋は薄暗く、部屋の中の物に覆いかぶさるように闇が包んでいた。

だが、咽返るほどの血生臭さと腐臭だけは、その暗闇の中でも隠し切れない。

 

男はその臭気を気にする事無く、部屋の隅に置いてある電灯を付けた。

 

部屋の闇は取り払われ、全容が明らかとなる。

 

部屋には、歪な人型が所狭しと置かれていた。

 

臓物を露見している人型、達磨となっている人型。

手が無い者も有れば、足が無い者も有る。

手が有る者も、縫われた様な跡が腕に有ったりと、男の職種も鑑みれば、何が行われていたかは想像に難くない。

 

そのどれもが、人形を作っている最中か、失敗して諦めたかの如く中途半端な様相であった。

 

その中の一つ。

いや、一人と言った方が良いだろうか。

 

金髪の少女の形をしているソレだけが、まるで眠っているかのように傷一つ無く横たわっている。

周りの人型の様子を鑑みるに、ソレも同じような"処置"を受けている筈だが、その跡が見られない。

そこに、男のソレに向ける熱意を垣間見る事が出来る。

 

ソレに男は歩み寄り、愛おしげに頬を撫で、呟く。

 

まるで親が子に寝物語を聞かせるように。

その男の纏う雰囲気は、先ほどまで醸し出していた異形の者の雰囲気など微塵も無かった。

 

「ああ、聞いてくれよ。

今日、魅力的な旦那が店を訪れたんだ。

あの旦那を使えば、お前も"目覚める"事が出来るだろう。

だから、もう少しだけ待っていてくれ」

 

「"切り裂きジル"が旦那の体を持ってくるまで、お前の名前を考えておかないとな。

ああ、そうだ。

この前本屋に、有名な占い師が書いたっていう姓名付けの辞典が売ってたんだよ。

それでも買ってこようかな。

いや、俺が考えて付けた方が良いかな?

名前ってもんは、一度しかつけれねぇもんなぁ。

俺の、お前にあげる最初のプレゼントだ、ちゃんとした物にしないとなぁ」

 

男は返事を求めるようにソレの頬を撫でる。

ソレは返事を返す事は無いが、男は満足そうにソレの額に接吻をする。

 

男は死体に囲まれながら、飽きる事無くソレの髪を愛おしげに撫で続けていた。


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