上条当麻おそらく16歳は、住み慣れた男子寮の自室で落ち着き無く立ち回っていた。
隠すべき物は隠した。ここ一週間近く放置していた冷蔵庫も整理した。部屋は特に散らかってないが、軽く掃除機をかけて今は換気している。
やるべきことはやったが、この焦燥は収まらない。人生初、部屋に女の子を招きあまつさえお泊りだなんて、正月とお盆が同時にやってくるより確立は低い。そして意識した異性なのだから、落ち着けと言う方が無理だろう。
なにもかもが始めてで、彼の頭の中身は爆発寸前。
断ればよかったのかもしれないが、恨みがましい視線や冷ややかな空気に生きた心地がせず、勢いでふたつ返事をしてしまったのが運のつきだった。
だが、麦野が手料理をご馳走してくれるらしい。というかするき満々だ。これが楽しみで、そわそわしているのも確かで、本人もそれは認めている。早く来て欲しいという気持ちと、心の準備をするための時間が欲しい、その相反する感情に板ばさみにされ窮屈なのだ。
「待つって辛いんだなぁ」
苦笑してしまう。着替えを取りにいった麦野がここに来るまであとどれくらいだろうか。
あと三十分は掛かるだろうか。
首を長くして待っているとインターホンのベルが鳴った。
慌てて玄関に駆け寄り、金属で出来て扉をあける。
「沈利!」
「残念! お隣の土御門ですたい!! ……あ、待ってカミやん俺が悪かった!」
そこに居たのは、軽くカールを巻いた栗色の髪をした女性ではなく、ツンツンとした金髪に身長180はある大男だった。期待を粉砕された腹いせにノーリアクションで扉を閉めようとすると、流石の土御門も焦ったように止める。
「なんの用だよ。新手のいじめか?」
「酷いにゃー。ここんとこ行方不明になってたカミやんが帰ってきたみたいだから、顔を見に来たんだぜい」
「行方不明にさせられてたのか?」
恐る恐る尋ねる上条を突き放すように、土御門は深く頷く。
「当ったり前だぜい。真相を知ってる俺と青ピは苦労したもんな。実は彼女の家でにゃんにゃんしてるだけ」
「それは! ………っ」
言いかけて上条は言葉を飲み込んだ。これは話してはいけない部類の話だ。
上条も麦野と出会わなければ、この世界の闇を知ることはなかった。出会って後悔していない。寧ろ最愛と称せる人物と巡り合えて幸せだと、胸を張れる。
しかし土御門は関係は無い。日常の中にいる彼をこっちの闇を覗かせるわけにはいかない、と上条は意気込む。だから、初めて作り笑いをした。
「いやぁ、悪いな。心配させて」
「むふふふ、その代わり夜の営みを」
「ないからな、言っとくけど無いからな!!」
呪うように土御門の口から呪詛の言葉が漏れた。
「…………へタレ」
「うるせぇ。順序ってものがあるだろう」
あくまでヘタレを否定する上条に納得いかない土御門は、友が行方をくらました日数を突きつけた。
「五日間も沈利さんの家にお泊りしたくせに、お手付きもなしってどういうことだにゃー!!」
「だぁー!! 分かったよ、分かりましたよ、分かりましたの三段階活用! 俺はヘタレだよ。もう帰れ茶化しに来ただけなんだろ」
「認めやがったなヘタレ! 因みに茶化しじゃないぜよ。はい、これ。五日間進んだ授業分だにゃー。吹寄に礼言っとけよ」
押し付けるように紙束を渡す。全教科をコピーした紙は流石に重たくよろめくと、土御門は悪戯が成功したように笑う。
「それじゃ帰るにゃー。彼女さんによろしく!」
「はいよ。明日、吹寄に礼を言わないとな。それにしても、アイツもマメだな」
「問題児を矯正すると言ってたからな」
不本意だが、言い返せないので上条は苦虫を噛み潰した表情をする。明日が少し憂鬱だと思うが、平穏に触れられると思うと、なんだかほっとした。
「迷惑かけたな。そんじゃまた明日」
「またな。きっと先生に絞られるぜ?」
さらに嫌のことを思い出し、上条は項垂れる。小学生にも見えるあの先生はやたらと上条に構う。親身なのだが、どうにも出来が悪い子が可愛くて仕方ないらしい。今回のことでもっと目を付けられるだろう。さらば、安寧とした学校生活。こんにちは地獄の勉強漬けの日々よ。
今になってだが、自分の馬鹿さが憎い。
扉を閉め、上条は手の中にあるコピー用紙に視線を落とす。
さっそくテーブルの前に腰を下ろして、ノートとシャーペンを取り出してノートに書き写す作業を開始した。
「上条当麻って人間は、この世界の方が輝いてるだろ? なぁ第四位」
「で、だからなに? そこ退いてちょうだい」
「まぁ急かすな。どうして『暗部』が表側の人間を巻き込むんだ?」
歩みだそうとした足がコンクリートの床に縫いとめられた。呼吸が止まり、心臓が異常な速さで鼓動を刻む。寒いはずなのに、麦野は汗をかいた。
「巻き込んでるつもりは、ない」
「面白いことをいうな。なら、
決定的な一撃でもあり、どうしてこの男がそのことを知っているのか疑問に感じる。『暗部』だと分かったが、そこまで重要な位置に居るとは思えない。手札が見えない相手に特攻する気も無いし、ここで荒事を起こせばこれからのこと全てが水の泡だ。
殺害対象と定めながら麦野は、ぐっと堪えた。そして事実を突きつけられ、足元が僅かに揺らぐ。
それを見逃す土御門ではない。
「お前の存在が、アイツをさらに不幸にする。最悪、殺すかもしれない。その場合を想定して、俺はある答えを導き出したわけだが」
「ネチネチうぜぇぞ。はっきり言えこの糞へタレ!」
この言葉を起爆として、土御門はサングラスの位置を直すと鋭く捲くし立てる。
「なら単刀直入に言わせて貰おうか。お前が死ぬか、上条当麻から離れろ。お前には過ぎた代物だ。上条当麻という人間は闇を選んだ人間には相応しくない」
心が血を噴出したんじゃないかと、思わず錯覚した。最も弱く柔らかい場所を派手に抉られ、切り刻まれたのだ。普通の精神力ならここで、大泣きしてしまうだろう。それを堪え、戦慄く体を落ち着かせる為に、深呼吸をした。
まだ震える唇を無理に動かし、喉を震わせた。
「分かってる。似合わないって、人並みを棄てて生きてきたんだ。でも、あと二週間待って」
「そうやって女はずるずると延長させていく。二週間待ってそうする気だ」
「言えない」
土御門の思った通りの答えが返ってきた。あまりにその通りだったので、逆に面白いくらいだ。
「話にならんな。それに二週間後本当に上条当麻から離れるのか?」
「えぇ、そのつもりよ。それでも離れなかったら殺しなさい。未練がましく男に引っ付いてるのは、私に似合わないもの」
「ほぉ、ならお望み通り殺してやるさ。しかし第四位をこうも懐柔してしまうとはな。恐れ入ったぜ」
最後は茶化すように締めくくると、土御門は麦野の隣の通り過ぎた。最後まで不敵な笑みを貼り付けたまま夜の闇に消えていく。
完全に気配も消え、静寂そのものが帰ってきた。緊張や敵から解放され、気が抜け麦野は一旦、冷たいコンクリートに腰を下ろした。ぽたぽたと透明な水が落ちていく。はらはらと溢れ出るそれを、止める術を知らない彼女は声もなく泣いていた。
元に戻れない罪悪感と、どうしようもない恋慕が混ざり合う。
いつからこんなに脆くなってしまったのだろう。どんなに問いただしても、答えが見つかることは無く嘆きだけが、降り積もっていった。
だが、それでも愛してしまったのだ。
「行かないと、上条が心配するわね」
荒っぽく目元を拭い、歩き出す。
廊下は夜風に晒され、寒くて体を抱いた。内側まで染み渡る冷たさは、土御門に抉られた傷を悪化させる。それでも歩いていくうちに、ざわめきも収まり漸くいつもの自分を保ち始めた。
長く感じられた道のりの先には、どこにでもある扉が待っていた。
手鏡で目を確かめる。特別腫れてもいないので、安堵するとノックも無しにいきなり扉を開け放った。
「来たわよ!」
「うおお!!」
吃驚した上条は立ち上がった勢いで机がひっくり返った。乗せていたコピー用紙が宙を舞い、シャーペンが吹っ飛んだ。
勉強していた事が意外だった麦野は目を丸くした。
「勉強するんだ。てっきりしないもんだと思ってた」
「失礼だな! 驚いたぞ、いきなり開けてくるなよ」
「まぁ、吃驚させようと思ったからね」
「まったく。ほら、上がれよ」
「ありがと。それじゃ早速つくるから。座っといて」
馴れない部屋に戸惑いを隠しながらキッチンを確かめる。ガスのコンロを興味津々に見つめ、冷蔵庫に手をかける。開くと今日買ってきた食材が並んでいた。
シャケと豆腐と豚ばら肉を取り出す。
上条は心配そうに窺いながらテーブルを直し、紙を集める。吹っ飛んだシャーペンの捜索を一時諦め、クッションを用意した。布巾を洗面所で濡らしてテーブルを水拭き、それから直ぐに暇になった。なにもすることが無いのが苦痛になってキッチンを見ると、麦野は手際よく豆腐の水を切っていた。
これだとやることがないな、と確信した上条は落ち着かないまま腰を下ろす。
「手伝うことあるか?」
「ないわよ。ここ狭いし」
「なんかグサッときたぞ」
確かに、麦野のキッチンに比べればこの空間は狭い。もともと独り暮らしを目的とした構造で、二人が同時に使うことは想定外だ。
もう一人入れないことも無いが、やり難さはニ倍になるだろう。つまり一人も二人も対して変わらない。
「なにかあったら言えよ」
「はーい。なにかあったらね」
肉を焼く音が聞こえた。麦野も鼻歌を歌いながらフライパンの上の肉の様子を確認すると、シャケの焼き具合も見る。ひっくり返すと、手早くレタスを千切りキャベツを切っていく。きゅうりを薄く斜めに切り、プチトマトを取り出す。
そこで肉をひっくり返し、底の深い器に醤油とみりん、砂糖と酒を加えかき混ぜると手に取りやすい場所に置く。今度はシャケを取り出し、皿に乗せ上条を呼んだ。
「ごめんけど持って行って」
「おう任せとけ!」
なにかやりたくて仕方なかった上条は嬉々としてシャケを運ぶ。
テーブルに置くと急いでキッチンに入り冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、食器棚からコップを出してまたテーブルに向かう。
「はい、御飯と味噌汁」
どこから掘り出したのか、お盆に二人分の御飯と味噌汁を乗せて麦野がテーブルの上に置く。
「ウチにお盆ってあたのか」
「あったわよ。埃かぶってたからびっくりしたけど」
次にサラダと肉巻きのような物を持ってきた麦野はクッションの上に座り並べていく。
「それじゃ食べましょうか」
「そうだな。いただきます」
「いただきます」
早速、上条は肉まきに手をつける。豚ばら肉を齧ると、中には豆腐が入っていた。こってりとした外側と淡白な内側のバランスが取れて絶妙な味わいに箸が進む。ほとんど、無我夢中で食事をする上条にサラダを装う麦野は微笑んだ。
「美味しい?」
「美味い! でも本当に久しぶりだな、自分じゃない他の人が作ってくれたメシって。味付けも好みだし、沈利は料理上手なんだな」
「久しぶりね。でもこれからは学校があればお弁当つくってあげるわよ」
シャケの身を解していた箸の動きが止まった。
「いいのか? 忙しくないか?」
「あー、そんくらいの時間は余裕であるわね。………学校ないし、予定としては仕事もないし」
話によると、『アイテム』の仕事は全て本名不詳が受け持つらしい。入院費といい仕事といい、彼女は知らず知らず自分の首を絞めていた。
しかし、その分有り余った麦野の時間はラブコメに費やされるのではなく、本来なら暗部から抜け出す策を練る時間に当てられるはずだ。
今日だけ、おやすみで普通の女の子でいると誓った彼女は明日から『アイテム』にも内緒で活動しなければならない。ここで肩の荷を降ろしても罰は当たらないだろうと、麦野は考えていた。
「やっぱり学校には行って欲しいな」
「まだ言うか」
本当に心配性だと思いながら麦野は自分が作った物を食べてみた。やっぱり美味しいとは思えなかった。
「今度は俺が作るよ。食べてくれるか?」
「勿論よ。なに作るかは任せるから」
でも、いつか食べた彼の味は好きだった。優しい味がした。久しぶりの味。
誰かが心から自分の為に作ってくれた味は、今でも忘れられない。
自分が作れば砂のように、無味なのに。これを貴方が美味しいと、言ってくれるだけで嬉しかった。
「食べてくれて、ありがとう」
「ん、どういたしまして。弁当期待してるぞ」
涙の代わりに、微笑が溢れ出した。
食べ終わると、上条が皿を洗い麦野はテレビの前でお風呂が沸くのを待っていた。特に好きなバラエティーもないのでニュースを見る。連日の様に
どうでもいいのだが、少々気になることが麦野にはあった。
連日のように、こうして報道されていたので、ちょっとした好奇心で事件の事を追ってみたら、最初の被害は公衆のごみ箱に爆弾が仕掛けられていたらしくそこで爆発。しかしその規模は、ニュースで報じられているように負傷者が出るほど大きなものではなかった。
それからも小規模爆発が至る所で起き、その被害規模は右肩上がり。事件が起こる毎に被害が増してる。
唯一の不可解な点に自慢の脳を使ってある程度、理論を組み立ててみたが、一番納得できる理論は、犯人が徐々に本気になって破壊活動をしている、というくらいだ。
「まぁ、一番考えたくないのは、本名不詳みたいに誰かの能力を底上げできる奴が協力しているくらい、か」
そこまで考えて麦野は、それから先の思考を放棄した。考えたところで彼女には関係がないのだから当然と言える。
それからは、危ない事件の報道は無く日常にあるニュースが流れる。学園都市ならではの事柄もあれば、政治についてもあった。
画面に出てきた面々を見て、麦野の瞳は真剣さを帯びた。
「親船と塩岸」
麦野にとって敵に等しい二人は、温和な雰囲気で柔和な微笑のまま話していた。
液晶の向こう側の話に興味がない彼女は電源を落とす。そこに上条がやって来た。
「面白いテレビ無かったのか?」
「バラエティーに興味がないのよ。ニュースを見たり放送される映画を観賞するくらいが家のテレビの役目かしら」
「そっか。ちょっとテーブル借りるぞ」
「どーぞ。アンタのでしょう」
場所を譲ると、上条はコピー用紙を取り出し、それをノートに写していく。流麗な字は丸くなく、少し厳格であった。
「ふーん。そこやってんだ」
「麦野はもうやったのか?」
「えぇ、小学校の時には終わってたわよ」
「…………」
惨めとはこんな時に使うのか、と上条は思いながらシャーペンを動かす手を止めなかった。
隣でまだ写していない紙を手に取り、懐かしいとか、やったやったとか言う麦野は上条の裾を軽く引っ張る。
「シャーペンかペン貸して?」
「ほれ。なにするんだ?」
「後で分かるって」
ペンを受け取ると紙に文字を書き込んでいく。鼻歌をまでやって上機嫌な様子に首を傾げる。もしかして三度の飯より勉強が好きな人なのだろうか、と思ったが麦野から見ればこれは勉強と言えないのかもしれない。上条が小学生の時に習ったのは足し算・引き算・掛け算・割り算など。昔は難しいとも思えたが、大抵のこれらは暗算で答えが求まる。子供の遊びや軽い運動のようなものだ。
それと同じで麦野も遊び感覚で、注釈や飛ばされた式などを書いている。見やすく説明も書き添えられ、カラーペンを使い文字の下に波線、下線を引く。
数学には式や聞かれている意味が書き添えられ、生物にも単語の意味や法則を書き込み、生物の繁殖条件も詳しく載せられていた。
「麦野って理数系なのか?」
「能力上そっち系が得意なのは認めるわ。物理だったり数式の方が面白いしね。一番だるいのは世界史と政治経済よ。在りのままを暗記するだけじゃない」
「普通の人はそれを暗記するのでも大変なんだけどな」
頭脳明晰と言われることはある。しかしこれが彼女が持つ知識の氷山の一角だと思うと、LEVEL5の底は知れない。
水の音が聞こえた上条は顔を上げた。
「風呂溜まったみたいだな。入ってこいよ」
「いってきまーす。シャンプーは勝手に持参させてもらったから」
ビニール袋を持って、風呂場に向かう麦野を見送り上条は今いない彼女が書いた紙を見てみる。女の子らしい丸い字体で、解説された式の傍にファイト! と書かれていた。
「可愛いところあるじゃないか」
その言葉の本意は、コピー用紙の裏に小さく書いてあった“貴方が好き”
本人は気づかれてないと思っていたらしいが、たまたま裏になにかを書いてるのを見てしまい気になったのだ。まさかこの歳になって、真っ赤になるとは思わなかった。
赤いペンを取り出して、近くに返事を書く。
沈利が好きだ。
満足したが、急に恥ずかしくなり消そうとして愕然とした。なにを血迷ったか、自分はペンで書いている。
「……はは、馬鹿だ」
心は言うほど、重たくは無かった。むしろすっきりとして軽い。
隣の風呂場で麦野が死ぬほど後悔しているとは知らずに。