紅蓮の男   作:人間花火

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新年おめでとうございます。


51発目 飛翔

「オーディンさん、あなたは何を考えているのだ」

「む? なんじゃ紅蓮の小僧、どこぞ不服か?」

「不服というわけではありませんが。 私とて得手不得手はあるものだ」

 

スレイブニルという空を飛ぶ馬車に揺られつつ、ナインとオーディンは話していた。

雲上の道を走るこの巨大な馬車は、北欧神話から伝わる乗り物である。

 

しかしだ、紅蓮の男はこの状況に抗議する。 抗議と言っても、立ち上がって怒鳴り散らしたり嫌な顔をしながら文句を垂れ流すようなものではない。

むしろ表情は薄笑い、その抗議する状況に諦観と苦笑を織り交ぜているのだ。

 

「あのねぇ……」

 

チラリと、馬車の周りを飛行警護している祐斗、ゼノヴィア、イリナたちを一瞥した。

 

「ククク……これは新手の嫌がらせですか? 私が空を飛べると思っているのかい? 否、飛べないよ」

「にゃぅー」

 

膝の上で丸まっている黒猫を撫でつつそう言うと、不意に妖艶な声音が聞こえてくる。

 

『ふふ、いざとなったらぁ、私が足になってあげるけど?』

 

猫の姿を象っている際の彼女の会話は念話となる。 そして、この言葉はナインの耳にだけ入った。

 

――――が、無視。

 

「すまんの。 しかし仕方ないじゃろう。 人間界の娯楽はほとんど遊びつくしたし、あとは適当にドライブするしかやることがない」

「まったく、とんだ物臭だよ」

「でもよナイン、これは一般人を巻き込まないためでもあるんだぜ?」

 

隣に座っていたアザゼルがにやりと笑ってそう言う。

確かに、これほどの上空ならば、もし妨害工作の襲撃を仕掛けられても周りを気にせずに戦うことができる。

地上の場合もやれないことは無いが、守るものが多すぎるのはこちらとして不利な状況に追い込まれかねない。

 

「それに、空をこうやって優雅に飛べるなんて人生でそうそう無いだろ? 飛行機とかじゃ味わえないものがあるはずだ」

「どうしてこう、あなたたちはお遊び優先で物事を考えるんですかねぇ。 やれやれ、先が思いやられますよ?」

 

同じ堕天使でもこうも違うとは、と、厳格な空気を纏いつつ外を飛んでいるバラキエルを見た。 おそらくあちらとこれとではタイプが異なるのだろう。

 

ちなみに「これ」とはこの堕天使の総督のことである。 

 

「けっ、ほっとけ」

 

口角を上げて悪態を吐くアザゼルはそっぽを向いてしまう。 ナインとしては、ひとまず五月蝿いのが黙ったので良しとした。

 

「それよりもグレモリーさん。 それどうにかならないんですか?」

 

後部座席に居るリアスに声だけ向けた。 すぐに合点がいったのか、彼女は複雑な表情で小声で囁く。

 

「とてもデリケートな部分なのよ、あまり触れないで頂戴。 ……あなた、朱乃の事情は知っているのでしょう?」

「ええまぁ」

「なら聞かないで頂戴。 あなたみたいに悩みが無い人には分からないでしょうけれど、朱乃にとっては複雑なことなの」

 

あまりに真剣にそう言って来るので面倒くさくなったナインはああそう、とぶっきらぼうに返答した。

 

「時間が解決してくれるとは思えないけどねぇ…………まぁ当事者たちがそう言うなら何もしないよ」

 

朱乃とバラキエル。 これは件に話した彼女たちの家庭の事情というものだ。

堕天使と悪魔の混血。 これについてはやはり当人の問題なのでそう言われては引き退がる他ないのである。

ただ、あれから進歩がないことにナインにとっては失笑を禁じえなかった。

 

―――――と、そのときだった。

 

「うわ!?」

「きゃ!?」

「にゃーっ!?」

 

突如、馬車を引くスレイプニルがその歩みを止める。

八本足で前進していたスレイプニルの急停止で、皆が態勢を崩していた

 

「何事ですか!? まさかテロ―――――って、お二人はこんな時に何をやっているのですか! い、厭らしいっ」

「…………私は悪くない」

「急に止まるのが悪いにゃぅーん」

 

ロスヴァイセの、悲鳴にも似た怒号。

 

驚いた黒猫は、ナインの膝の上で変化を解いてしまっていたのだ。

むっちりとした太ももと尻でナインの膝上を絡め、さらには豊満な乳房を胸板でいやらしく潰すという淫靡な光景。 ロスヴァイセがまくし立てるのも無理は無い。

 

しかし、ナインは目を瞑ってそれら抗議を無視。

 

「揺れの原因を調べるのが先だ」

 

ハプニングをいいことに、そのままぎゅむーっとナインの胸板に顔を擦りつける黒歌。

 

抱きつかれたまま馬車の扉を開けると、そこにはすでに臨戦態勢をとっている外周り組がいた。

祐斗、ゼノヴィア、イリナ、そしてバラキエルがそれぞれ展開する。 その視線の先には、整った容姿をした目つきの悪い男が上空で浮遊していた。

 

男は羽織っていた黒いローブを広げると高らかにしゃべりだす。

 

「はっじめまして、諸君! 我こそは、北欧の悪神! ロキだ!」

 

その名乗りに一誠以外、皆、目元を引きつらせていた。

ナインもその名だけは知っていた。 過去にあの神狼を送り込んできた神の名であることを。

 

「これはロキ殿、このようなところで奇遇ですな。 何か用ですかな? この馬車には北欧の主神オーディン殿が乗られている。 それを周知での行動だろうか」

 

冷静に問いかけるアザゼルだが、僅かに怒気が含まれている。

しかしその警戒の念を軽くいなしてしまうように、腕を組んだロキは口を開く。

 

「なに、我らが主神殿が、我らが神話体系を抜け出て、我ら以外の神話体系に接触していくのが耐え難い苦痛でね。 もはや我慢できずに邪魔をしに来たのだよ」

 

堂々とした口上に皆呆気に取られていたが、ナインは笑みを絶やさなかった。

 

「言ってくれる…………」

 

完全に警戒態勢――――黒い翼を羽ばたかせ、馬車を出た。

どれほど鈍感な者ですら気づく程度にまでその怒気を膨れ上がらせるアザゼル。

 

「ふはははは! これは堕天使の総督殿。 本来、貴殿や悪魔たちとは会いたくなかったのだが、こうなってしまっては致し方があるまい。 ―――――オーディン共々我が粛清を受けるがいい」

「お前が他の神話体系に接触するのは良いのか? 矛盾しているな」

「他の神話体系を滅ぼすためならば良い。 でなれば、見たくもない北欧以外の神話体系とは話もしない。

我々の領域に土足で踏み込み、そこへ聖書を広げたのがそちらの神話――――そんな者らに、何故無条件で和平を結ばねばならぬ?」

「それを俺に言われてもな。 その辺はミカエルか、死んだ聖書の神に言ってくれ」

 

頭をポリポリとかきながらアザゼルはそう返す。

ロキは憎憎しげに言った。

 

「どちらにしても主神オーディン自らが極東の神々と和議をするのが問題だ。 ユグドラシルに勝るほどの情報など、このような国の神々に在ろうものか。 極東と北欧とでは格が違うことを自覚しておらんのか」

 

半ば独りごちる形の口上に、アザゼルはロキに向かって指を突きつけた。 聞きたいことは山ほどあるが、いまの悪神に大人しく数多の質問に応える殊勝さは持ち合わせていないだろうと察したのだ。

 

「ひとつ訊く! お前のこの行動は『禍の団(カオス・ブリゲード)』と繋がっているのか?」

 

ロキはおもしろくなさそうに返す。

 

「あのようなテロリストと我が想いを一緒にされるのは困るし不愉快極まりないところ。 己の意志でここに参上しているのだ、そこにオーフィスの意志は無い」

「神さまがテロリストなんかに加担したらそれこそいろんな意味で黄昏でしょうよ。 神の世界も終わりが近い」

「ナインも一応テロリストなんじゃ…………」

 

笑いをこらえるナインに一誠がツッコミを入れた。 しかし言われたその顔は笑っていて、この状況に対して高揚感を覚えていた。

場違いにも笑みを絶やさないナインを横目に、アザゼルが馬車の中に居るオーディンに問いかける

 

「おい、笑ってるが。 ナインはこいつのことを知っていたのか? 要するに、これが北の抱える問題なんだよな」

 

問われたオーディンは、ロスヴァイセを引き連れて馬車から出、足元に魔方陣を展開して空中を移動していく。

未だ馬車に乗ったままのナインの横に近寄った。

 

「ふむ、まぁの。 こやつとロキは面識こそ無いが、名だけ知っておる――――どうやらロキはそれだけではない心情を持っているようじゃがな。 まったく、頭が痛いわい。 そんなことで自ら出向いてくる視野の狭い大馬鹿者め…………」

「ヴァルハラでの為政も大変のようですね。 まぁ、いつの世も、外法を取り入れることを良しとしない者が居るのは当然の流れだと私は思うよ。 古き良き世界が恋しいのだ、気持ちは分かりますよ」

「ロキさま! これは越権行為です! 主神に牙をむくなどと、許されることではありません!

しかるべき公正な場で異を唱えるべきです!」

 

スーツから鎧姿に変わり、ロスヴァイセも物申していた。 すると、ナインが首をもたげ、やる気無さげに手を振った。

 

「公正な場では勝てないと分かっているからこのような強行に出たのではないですか?」

 

神もそこまでバカではないはず、と続けた。

もっとも、だからと言って単身で、それこそ他神話体系に入り込んで武力行使をしようとしてくるのは、よほどの自信家か愚か者しかいるまい。

 

「一介の戦乙女が我が邪魔をしないでくれたまえ。 オーディンに訊いている。

まだこのような北欧神話を超えたおこないを続けるつもりなのか?」

 

返答を迫られたオーディンは平然と答えた。

 

「そうじゃよ。 少なくともお主よりもサーゼクスやアザゼルと話していたほうが万倍も楽しいわい。 日本の神道を知りたくての。 和議を果たしたらお互い大使を招いて異文化交流をしようと思っただけじゃよ」

 

ロキはそれを聞き苦笑。 しかしそれは、怒りを含んだ呆れ笑いに近かった。

 

「……認識した。 なんとおろかなことよ――――ここで黄昏をおこなおうではないか!」

 

巨大な敵意に空間が比喩ではなく振動している。 オーディンの発言でついに火が付いてしまったようだ。

しかしその直後、ロキに波動が襲い掛かる。

 

馬車の中からすでに小石を構えていたナインは、その波動の主を一瞥すると構えを解いた。

 

「これはこれは、一番槍を取られてしまいましたか――――ゼノヴィアさん、やりますね」

 

聖剣デュランダル――――ゼノヴィアの持つ聖なる波動がロキを吞みこんでいたのだ。 大質量のオーラはその強大さを物語る。

 

兵は拙速を尊ぶを見事に表した行動である。

 

「先手必勝だと思った、後悔は無い!」

 

ナインに視線を移しつつそう叫ぶ。 しかし、悪神の影は先と変わらず立っている。

 

「歴然たる差の力に対するは先手。 思考などなんの役にも立たない――――ゼノヴィアさんを見習ってほしいものだ、グレモリー眷属」

「うぅ、ナインが辛辣だよぅ…………」

「ちょっと、あなた最近私たちに対して棘が多いのではないの!?」

 

リアスの追及に、すでに馬車の上に昇り立っていたナインが鼻を鳴らす。

 

「相手は神、出し惜しめば死ぬね」

「む?」

 

その瞬間には無数の小石がその影の周りで滞空していた。 デュランダルの攻撃の余韻が残ったままに、ナインは攻勢を開始。 そのあまりの次手の早さにリアスは息を吞む。

 

聖剣の波が晴れ、姿を現したロキが薄ら笑む。

 

「貴殿か――――しかしこれでは我は斃せぬぞ」

 

さながら機雷のようにばら撒かれていたそれらは、ナインの指鳴らしを聴くと一斉に弾けた。 爆風は大規模に及び、辺り一帯に見えていた雲は吹き飛ばされる。

 

そこで爆煙に巻かれていたアザゼルが、障壁を展開しつつ困り顔で口を開く。

 

「ナイン、頼むから程ほどでな。 俺はともかく、爆風で飛ばされちまうやつがいつかは出てくる」

 

ここは空中。 皆、翼を使って方向転換や移動をしている。 ゆえに、空中を足場に羽ばたくリアスたちにとっては爆発による突風は鬼門そのものだった。

 

「それもそうでしたか」

「――――先の聖剣よりは効いた。 だが、まだまだ指を掛けた程度ではな」

 

爆発の灰はマントを汚すが、ロキ自身は健在。

腕を組んだまま空を浮遊して平然と立っていた。

 

馬車の上に立つ紅蓮の男に、悪神は愉悦と不敵の笑みで視線を移す。

 

「貴殿もよく来られた、周りが悪魔や堕天使ばかりで息苦しかったろうに。 なに、我は人間を害する気など毛頭無い、どうだね、ここで敵対行動を辞めるのならば貴殿の身は保障しよう」

「…………」

「ナイン…………!」

「おいおい、そこでそんなのありかよ!」

「俺がいま嵌ってる歴史シュミレーションゲームで言えば忠誠心5段階中1のナインだぞ。 やばいな」

 

ナインの沈黙に、ロキがにやりと口角を上げた――――のだが。

 

「どうだ、神に敵対するなど人のすることではなバ――――」

 

直後、口上の最中のロキの顔面に、火炎爆弾が叩き込まれていた。

チュドンッ、と燃え上がる悪神の姿を見遣った紅蓮の男は、小石をぽんぽんと弄びながら片眉を吊り上げる。

 

「神に対し、人間の私がこんなことを言うのは憚られますがあえて言いましょう。 旧態依然とした思想には賛同できかねる。 なによりちっとも面白くないしね」

 

言いながらくつくつと嘲笑う。

 

「「ナイン……!」」

 

胸を撫で下ろすと同時に、晴れやかに笑うゼノヴィアとイリナ。

 

日進月歩を望むナインの思想に、旧態依然とした閉鎖思想の悪神は合わない。

ここに、宣戦布告は成った。

 

「ぐっぅ………………っ――――認識した。 ――――紅蓮の錬金術師ぃッ!」

 

端正な顔を爆撃されたロキの顔は、灰で汚され頬は切れていた。

アザゼルがゆっくりと目を見開く。

 

「…………あいつ、神に攻撃を通しやがった」

「ぬぅ、妄執しか無いはずの貴様の錬金術に、どんな神秘があるというのだ…………!」

 

不敵に笑む紅蓮の男。 だがすぐに笑みを止める。

 

「妄執ですか…………まぁ確かにね」

 

未だ真理に辿り着けず、オーフィスから言われたことも理解できずにいるいまのナインは、ロキの言う通り妄執で戦っているに等しい。 この業がどうして神へのダメージに変換できたのか、なぜ自分の錬金術は法則を悉く覆して駆動されるのか。 実のところ術者のナインはその理由を解っていない。

 

ただナインは己であろうとした。 何があっても曲げず、逸れずに信仰してきた。

解らない。 問われれば答えられない。 しかしだからと言って、立ち止まって困惑する理由など無かった。

ナイン・ジルハードという男は、じっとしていられない人間だから。

 

「むず痒くはありますがね。 しかしそれが生き残る術として私の人生に働きかけてくれたなら御の字だ――――私はもともと、生き残るために戦っているのだから」

 

いまは糸口すら掴めていなくとも。

 

「生き方を変えなければ、いつかきっと答えは見つかる。 ――――ならばこの戦いにも意味はある。 来てくれて感謝しますよ、悪神殿。 あなたが居てくれて――――本当に良かった」

「…………よく分かった。 そうか。 我が息子は、貴様のそういうところが――――」

 

そう瞑目したロキの傍らで、空間が大きく歪み始める。

 

「だが解っているのか? お前は自分で自分を破滅の道へ向かわせていることを。

生き残りたいなら、何もせず生き続ければ良いではないか。 人並みの幸せを得て、人並みに生き、人並みに死んでいく。 人間とはそういう生き物だろう?」

 

歪んだ空間から先に出てきたのは獣の足。 神聖さを感じさせる白銀に染まったそれは厳かに空地を踏む。

 

悠久の時を生きる彼ら神にとって、人間の生は短すぎる。

そう嘲笑いながらロキはナインを見詰める。

 

「……お前は人間の癖に強欲だな。 お前の望みは、定命では叶えることはできない。 それが人だ」

 

神聖さを感じさせながらも、暴力性をも持ち合わせる魔獣。

空間を震え上がらせる唸り声もロキの比ではない。

 

「こりゃ…………まずいな」

 

アザゼルの冷や汗もずいぶん久しいだろう。

 

全容が顕になった。 足の巨大さを先に見せ付けられて、それが現世の獣ではないことは皆理解していたが、この存在を前に平静を保てる生物はそう居ない。

 

「………………ぬぅっ」

 

――――神ですら総毛立つのだから。

 

「否、神であるならばこの姿を前に恐れおののくべし! フェンリルよ!」

 

父親の号令に呼応して轟く神殺しの咆哮。

空間に亀裂を入れ、オーディン並びに護衛の者たちの前に伝説の魔獣”神喰狼”フェンリルが立ちはだかった。

 

「先生! あれって!?」

「イッセー、これはよく覚えとけ」

 

腕で顔を覆いながら、堕天使の総督は赤い龍の宿り主にあれの危険性を説いていく。

 

「神は殺せる。 あいつの牙だ」

「オーディン殿、お退がりください! 危険です!」

 

場の空気が変わると、バラキエルはいち早く北欧の主神の護衛のために側に侍る。

元教会の二人――――ゼノヴィアとイリナも手に持つ剣を握り直す。

 

「あれが、神を食い千切ることができる牙…………!」

「それを持つ伝説の狼……初めて見たわ…………!」

「お前ら! あのでかい狼には絶対に手を出すな!」

 

アザゼルが遅れて皆に伝達する。

しかし、ナインと黒歌。 この二人だけは無表情にフェンリルを見据えていた。

 

「さて、まず手始めに魔王の血筋を味見してみるとしよう。 紅蓮の男よ、貴殿はオーディンとともにディナーにしてやる」

「え…………」

「ゆけ、フェンリル!」

 

巨体がその場から姿を消す。 兵藤一誠はそこで目を見開いた。

 

「てめぇぇぇぇッ!」

 

憤怒と怒気を孕んだ咆哮が赤龍帝からも放たれる。

ロキの言った魔王の血筋――――それは一人しか居ない。

 

「あ――――」

 

呆気に取られるリアス・グレモリー。 完全に反応が遅れた。

フェンリルの威容恐るべしと、硬直を余儀なくされたいまのリアスには死相が出ていた。

普通に反応しても迎撃すらできないのに、そこに一瞬でも躊躇いが生まれればどうなる。 無論のこと回避も遅い。 待っているのは死である。

 

「触るんじゃねぇぇぇぇ!」

 

しかしそこに、考えるより先に動いていた兵藤一誠がリアスを守らんと立ちはだかっていた。

彼は悪魔の翼のコントロールができないため空を飛べないが、禁手化(バランス・ブレイク)の状態に限りジェット移動が可能であった。

 

それを駆使し、迫り来るフェンリルの顔面を正面から殴り飛ばした。

 

「ぶ、部長、大丈夫ですか!?」

「え……ええ、あなたが守ってくれたから大丈夫よ。 ありがとうイッセー」

 

一瞬のことで何が起こったから解らなかったリアスだが、一誠がフェンリルの突撃から守ってくれたことは理解できた。

呆けながらも礼を言うリアスに、一誠は照れ笑い――――

 

「ぐぶ…………え? 血…………」

 

しかし、己の口より噴き出る血糊に一誠は瞠目していた。 実はこちらも、リアス同様何をしたのか解らなかった、その反応は当然。

 

「イッセー、そ、そんな……!」

 

守護の代償として、一誠は腹部を引っ掻かれて(・・・・・・)いた。

そう、あの怪物にとってみれば一誠の咄嗟からの拳など痒くも無いし、あの瞬間に軽くど突き返す程度のことは容易だったのだ。 つまり…………

 

「ごふッ…………」

 

膝から崩れ落ちる一誠を、リアスが抱きとめる。

完全に舐められている。 フェンリルからしたらいまのは攻撃ですらなく、まさに引っ掻くレベルのじゃれ合い。

 

次元が違う。

 

「だが、フェンリルのスピードに少しでも追いついた。 それは恐るべきことだ…………息子よ、標的を変えよう。 赤龍帝から血祭りに上げる」

 

ロキの指示が飛んだ。

再びフェンリルの突撃が来る。

もう一度赤龍帝の血で、己が爪を潤そうと赤い瞳が妖しく光った。

 

「………………」

「…………む? どうした息子よ。 早く止めを刺さないか。 でなくば悪魔どもの治療を受けてしまう、それでは面倒だ」

 

アーシアの治癒を受ける一誠を見遣りながら、ロキはフェンリルに視線を飛ばした。

 

「フェンリルの動きが…………止まった?」

「バラキエル、行くぞ!」

「うむ!」

 

アザゼルとバラキエルがフェンリルに攻撃を仕掛けようとしたが、悉く振り払われる。

 

「ぬぅ…………」

「くそっ…………そう簡単には隙を見せちゃくれねぇか…………あ?」

 

難なく二人の堕天使を振り払ったフェンリル。 しかし再び立ち止まり、ある一点のみを見詰めて動かない。

かの者の異様な挙動に、皆は疑問を抱かずにはいられなかった。 彼の生みの親、悪神ロキを除いては。

 

「なぜ動かぬフェンリル…………」

 

これは単なる疑問ではない。 天地がひっくり返っても有り得ない光景を見た反応。

一向に動く気配の無いフェンリルに、苛立った悪神は業を煮やして叫びだした。

 

「父が命じているのだ! 赤龍帝を始末せよ!」

 

不動。

まるで太陽が西から昇ったのを見たようにロキは唖然として佇む。

 

「…………一体、どうなってんだ」

「なぜ、父の命令を飲み込まない…………っ」

 

思えばあの時もそうだった。

オーディンが興味深そうにしつつも口を開く。

 

「あのときは現場にロキがおらなんだからナインを殺さなかったと思うておったがなぁ。 ここに来て確信できたわい…………父親の命令とナインとの優先順位がフェンリルの中で逆転しておる。 どうやら偶発的なものではなかったようじゃのぅ」

 

フェンリルの見詰めるその先にはナインが居た。

ナインも同様、微動だにせず馬車の上から伝説の魔獣を睨み上げている。 そのままの状態で、ポケットに手を入れた。

 

「私はあなたを意識している」

 

初黒星の敵手。

ナインは、フェンリルとの戦いで敗北を味わっている。

編み出した錬金術は破れ、その爪で、牙でズタズタに引き裂かれた屈辱。

しかしそのとき、屈辱のほかにもう一つ、得るものがあった。

 

福音である。

 

「私は生まれてこのかた、負けることはあろうと屈辱感を味わったことがなかった。

自分の生存を念頭に置いておけば、自ずと引き際を見定めることができるからだ」

 

戦いに負ければ死ぬ。 ナインはそういった環境で戦いを繰り広げていたが、負けても死ぬことはなかった。

ナインの中では死ぬことこそ敗北。 己は死んでいないから負けていない、そんな子供じみた愚かな理論。

敵が勝ちを確信したころには、ナインはあの手この手を使って逃げおおせている。

 

「必死に逃げるなんて……クク、なんとも情けない光景が浮かぶでしょう。 だが私はそれで良いと思っている。

命は脆い、弄くるだけで爆発する。 しかしそれゆえ尊い。 生き恥は晒せばよろしい」

 

さも死が尊そうに嘯く敗北主義者は銃殺刑だ。

 

「私に死は想えない。 あなたに死に際まで追いやられて改めて分かりました…………」

 

生きることは素晴らしい。

 

「ところで…………」

 

ふと、ナインがフェンリルをもう一度見詰めた。

 

「あなたはなぜ喋らない」

「――――――――」

「え…………?」

 

それはこの男の素朴な疑問だった。 自分を一度殺しかけておきながらも見逃したとき。

ではどうして見逃した? 獣の本能や、単に興味を失くしたというのが理由ならばナインもこのような問いは投げかけない。

 

明らかにそのときの銀狼の目には意志が宿り、意図した行動に見えた。 自惚れだろうか?

 

しかし、そう思考していたとき、彼の父ロキが一瞬だけ歯軋りをしたのが見えた。

そして、一言。

 

「…………殺せ」

『――――――――!』

 

ロキの声音が激変した。 地の底から搾り出したかのような呪詛の言葉は彼の息子を動かす。

オーディンは目を細め、アザゼルは舌打ちをした。

 

駆動(・・)せよフェンリル! お前は私の息子! 私の歯車!

命令を突っぱねるなど父が許さぬ! 屠れ! 人間が豚を、牛を、屠殺するように…………お前はその人間を八つ裂きにしろ! その男はお前の糧にならぬ……食い殺せば獅子身中の虫になる…………! 骨まで残さず、奴のすべてを鏖殺しろ!」

「フェンリルが動いたぞ、全員警戒!」

「さっきまではロキの命令でも動かなかったのに……突然どうして聞くように!?」

「解らん!」

 

言う通り、先ほどまで父親の言うことすら聞かずに紅蓮の男と対峙していた神殺しの狼が、何かを押さえ込むように身悶えしたあと、何事も無かったように殺意に従い、動き始める。

 

「天国へも地獄へも行かせぬ…………! 貴様はここで存在ごと消えるがいい……」

「どうやら、喋れないのは父親にその原因があるようですね。

おかしいと思ったのですよ。 それほど知性に溢れた魔獣殿が、神仏や父親の敵を噛み殺すだけのただの戦闘マシンとして使われる不幸。

私ごときが解せぬくらいの絆が、あなたたち親子にあると言われればそれまでですが…………どうやらあなたはご自分の息子さんを真に愛しておられぬ様子」

「黙れ、人の子に愛など説かれて堪るものか………………!」

 

ヒュッ――――銀色の巨体が殺意とともに消え、瞬間にナインの目の前に迫り来た。

ギロチンのごとく鋭く巨大な上下の顎に、ナインの首から上を丸ごとを捉える――――

 

「死ね、我が息子を迷わせる害悪は取り除く。 死後も彷徨え」

『ナイン、危ない!』

 

張り裂けるような声で、ゼノヴィアが、イリナが叫ぶ。

 

「くそっ速過ぎる!」

「間に合わんっ!」

「くっナインさん!」

 

神殺しの威容は、いつも飄々としている者をも焦燥させるほどの怪物。 これだけは洒落では無く、本物の死を与える存在ゆえに。

 

「なにっ?」

 

しかし、死の顎は落とされることなく――――突如爆発した。

爆発の火炎とともにフェンリルの巨体が僅かにぐら付く。 煙の中にはナイン。

 

「私に対して不用意に口を開けない方がいいと思うなぁ。 何かと突っ込みたくなるじゃないですか」

 

ナインが馬車の上で薄ら笑む。

 

先ほどまで、彼は小石を手で練り続けていたのである。 片手の中でごりごりと、集まったそれらは紅蓮の理を刷り込まれ練り込まれていく。

 

先ほどロキに放ったのは、まさに小石の一投にすぎない即席の爆発物。

しかし、反対の方の手で弄り続けていた小石はすぐには放たず、小一時間手元で育て続けていたものだ。 それ投げ放っていた。

 

唖然としていたアザゼルがにわかに顎に手をつける。

 

「な、なるほど……つまり、同じ質量を持つ材料でも、ナインが時間をかけて錬成すれば強大な爆弾になるのか…………」

「あんなちゃちい石ころが…………すげえ爆発だったぞいま…………」

 

いまので完全にスイッチが入ったフェンリルは煙から復活して再びナインに狙いを定めた。

 

「黒歌さん、協力しなさい!」

「にゃ!」

 

命令口調のナインの言葉に反応した黒歌は、彼の側に素早く駆けた。 背中には悪魔の翼。

 

「場所を変えましょう…………これより私は飛び降りる」

「………………にゃん?」

 

その突然の飛び降り宣言に、黒歌自身「聞き間違えかにゃ?」とナインを二度見する。

 

自殺志願としか、思えない。

 

「いまあいつ、飛び降りるって言わなかったか?」

「おいおい…………ここが上空何万メートルあるか分かってんのかあいつは…………!」

「生憎、この馬車にはパラシュートは常備しておらんぞ」

「ちょっとナイン、あなた何を考えているの!?」

 

リアスの問いに、ナインはため息を吐いた。

赤いスーツが夜風に吹かれて揺らめくと、目をつぶって自嘲気味に言う。

 

「私にとって、ここは足場が悪すぎる」

「あ――――」

 

言葉を聞いたリアスははっとして黙り込んだ、そして辺りを見渡す。

この中で唯一、空を移動する術を持っていない。 いまもナインを支える足場は、悪神と神狼の出現で動揺しているスレイプニルの引く馬車一台。

 

「だから私は地上に戻る、人間は人間らしくね。 足が地に付いてないんじゃあ仕方がないでしょうに」

 

この悪条件下で戦おうとするほどナインは死にたがりではない。

人間は空を飛べない、これは摂理である。

 

「…………」

 

だからと言ってその場から飛び降りて地上に戻ろうとすることも十分狂気の域にあるだろうという言い訳は皆が胸に懐いていた。

 

「黒歌さんが適任だ」

「即答の指名、嬉しい限りだけど………」

 

大丈夫なの? と上目遣いで黒歌は訴えてくる。

もとより命懸けの対戦カードだ、覚悟はしている。 だが初めの相手が、夜空が綺麗な大自然であるなどやってみる方からしてみたら洒落にもならない。

 

しかも、十中八九地上に着くまで空中戦をフェンリルと争うことになる。

 

「未知だぞナイン」

 

アザゼルが真剣な顔でナインの背に語りかけた。

 

「さすがにロキも、飛び降りる奴が居るなんて予想してないと思うが、空ってのは何も無いだけに恐ろしい。

何も無いところで、お前、錬金術師でいられるのか?」

「その言葉はまさか、私に対する挑戦かい?」

「………勘ぐるな、一人飛べんで何ができる!」

 

馬車の縁にナインが立ったところでアザゼルが怒号を飛ばした。

優しいなぁと、すごい形相で必死に引き留めようとするアザゼルを見ながら思う。

 

「黒歌さん」

 

横目で見ると、黒歌が体をぷるぷるさせている。 クク、とナインの表情に悪そうな笑みが浮かんだ。

 

「……ぅぅ、も、もうーっ! 付いていけば良いんでしょ! 行ってやるにゃ!」

「………すみませんね」

「………ナインが謝っても………面白くないもん」

 

ふくれっ面になる黒歌を宥めるように彼女の頭に手を乗せるナイン。

するとその瞬間、横合いから神速が突っ込んできた――――。

 

フェンリルの猛攻一撃が、二人の間を間一髪で擦過する。

ここは大空。 雄叫びは目印になるし気づきやすい。 そして明らかに強くなった風の流れを読んだナインは、寸前に黒歌を自分とは反対方向に押し飛ばしていた。

 

「さて、行きましょうか――――しばらく後に、よろしくお願いしますよ黒歌さん」

 

その言葉を最後に、ナイン・ジルハードはその場から居なくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おいちょ――――ナイン………あの馬鹿野郎、マジで飛びやがった! 黒歌は行ったのか!?」

「『突き飛ばすならそう言ってお願いー』とか言いながら落ちてったぞい」

「落ちてったのかよ!」

「だがアザゼル坊、おかげでワシも動きやすくなった」

「なに?」

「フェンリルが居なくなったいま、ワシも戦線に出るぞい」

「!」

「やはりフェンリルは、何らかの理由でナインさんを狙っているのでしょうか………ロキさまの支配を撥ね除けるほどの執着…………並ではありませんよ、オーディンさま」

「ナインに何かがあるのじゃろうて。 ま、今更あやつが何者でもワシは驚かんわい」

「くそっ、こっちよりあっちの方が心配になってきたぜ。 なぁ、爺さん居るんなら俺はここに居なくても問題ねえよな?」

「戯け、おぬしは場の指揮を執れ。 数で押せる相手でもないのじゃぞ」

「………ちっ。 つか爺さんよ、あの二人のことだ、追加で何か要求してくるかもしれないぜ?」

「そのときはそのときじゃ。 …………………………………フェンリルを二人で抑えてくれるなら儲けものじゃよ」




Dies iraeが放送される年になりました。 秋だけど待ち遠しいなぁ。

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