ハリー・ポッター -Harry Must Die-   作:リョース

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15.始まり

 

 

 

 ハリーは呟いた。

 あまりにも自分の状況を理解できなかったからだ。

 

「……うそだ」

 

 ハリーは嘆いた。

 じわじわと理解し始めた自分の環境を、受け入れがたかったからだ。

 

「……こんなのって、信じられない。そうだな、有り得ないよな……」

 

 ハリーは拒否した。

 ゆえに彼女は認めなかった。

 自分の気に入らない現実を捨ておこうとする赤子のように、思春期の少女のように彼女は否定した。目の前に転がる肉の塊なんて、ハリーは知らない。もう戻らないかもしれない左目の紅色など、見えようはずもない。

 ハリーは両手を握りしめて地面へ叩きつけようとするものの、手に力が入らない。

 指がふるふると震え、うまく曲げる事が出来なかった。

 

「……夢だったら、はやく覚めないかな……」

 

 目の前でダンブルドアが周囲の人間へ何かを叫んでいるが、ハリーにとってそれはどうでもいいことだった。

 事実ハリーにとって、セドリックの死体を見て騒いでいる有象無象の雑魚どもなど至極興味のない虫けらだった。ハッフルパフの生徒たちが泣いている。セドリックの死に涙しているのだ。だけどお前ら、本当に悲しいのか? 自分たちのアイドルが消えてしまったとでも思ってるんじゃないのか。愛する青年の亡骸を目の当たりにして、チョウ・チャンが泣き叫んでいる姿が目に入る。かわいそうにね。だがおまえにはわかるのか? 好意を持ってもいいかもしれないと心を許した瞬間、その青年が目の前で死んだ、そんな笑えない喜劇を演じた気持ちが。

 ハリーが光を失った目で周囲を見渡していると、誰かが自分を突き飛ばしてきた。

 周囲が騒ぎ、うごめいている中を掻きわけてやってきたのだ。ハリーの身体も小柄で、軽い。意図してのことではないだろう。地面に寝転がりながら、ハリーはぼーっとその男を眺める。そしてその顔を見て、ああと納得した。

 彼にはもう、セドリックのことしか見えていないのだ。

 

「私の息子だ」

 

 エイモス・ディゴリー。

 彼はセドリックの父親であり、少々親バカなきらいのあった陽気な中年男性だ。

 眼鏡をかけていた彼は焦りのあまりそれを取り落とし、青ざめた顔をしている。

 そんな彼は、随分と軽くなってしまった自分の愛する息子を抱き上げて、ぽつりと漏らす。

 どろりと涙がこぼれれば、あとはもう止める術がない。

 息子を抱きしめて、自分の額を息子の額に当て、その手を真っ赤に濡らし、呟く。

 

「私の、息子なんだ……」

 

 彼の顔が、セドリックから離れてゆく。

 その表情はとてもではないが、何かに例えられるようなものではなかった。

 感情で歪んでいる。人間の顔に見えない。見ることが出来ない、見るに堪えない。

 そこには心の全てを悲しみ一色に染め、顔を歪ませた、独りの父親がいた。

 そして絶叫する。

 

「息子だ。わたしの、愛する、私の大切な、あ、息子なんだ。わ、わ、わたしの子だ、わたしの! わたしのッ! 息子なんだ! わた、わたしのォォォああああああぁ、私の息子がァァァああああああああッ!」

 

 しどろもどろに叫び、嗚咽を漏らし、絶叫を垂れ流す。

 一人息子が生まれ、どれほど喜んだのだろう。どれほど愛情を注いだのだろう。

 彼の息子は誰が見ても誰にとっても好青年で、彼にとって自慢の息子だった。

 好きな子がいるんだ。ということは、決勝戦が始まる前に聞いていた。それがハリー・ポッターだということも知っていた。だから息子が、彼女と一緒にこの場所へ転移してきたときは、思わず笑みを浮かべたものだ。

 そうか、おまえも、私と同じように好きな女の子をゲットしたのだな、と。

 愛する人に、自分の切ない気持ちを、伝えることができたのだな、と。

 孫の顔を見るのも、そう遠くはないのかもしれないな、と。

 エイモスはそう思ったのだ。思ってしまったのだ。

 だが、これはなんだ?

 目の前で死んでいるのは、自分の息子なのか?

 いや、そうだ。間違いない。間違えることなど、ありえない。抜けかけているとはいえ、このぬくもり、この甘いハンサムな顔。若い頃の自分にそっくりな、小さい頃からずっと見守ってきた、愛する、自分の大事な、息子なのだ。

 大事な、愛する、息子の。死体だ。

 

「私の! 大、事な、息く、くぁ、むすこ、息子がァァァアアアアアアアアア! セド、セド! セドォォォオオオオ! ぅぁあああああああああああああああッ! セド! 私の可愛いセドォ! ぅあ、ぁぁああ! うそだ! 悪夢だ、信じない! うそだァあ――――ッ!」

「エイモス、エイモス! 気を確かに持つのです! エイモス!」

「ワ、私はしっかりしているぞ大丈夫だぞ。ほら、大丈夫だ! セド! そうだ、ダンブルドア! この子の治療を! はやく、いまなら間に合う! 間に合うんだあ! 早くしてくれえ!」

 

 マクゴナガルにしがみつき、ダンブルドアのローブをひったくるように掴んで引きよせるエイモス・ディゴリーの目は血走っていた。

 ハリーにはわからないが、きっと愛する家族を失った者というのは、すべからくこうなってしまうのだろう。将来ハリーに息子が生まれて、その子が殺されでもしたらこうなるのだろうか? ……くだらないことを想像した。今はそんな場合じゃない。

 ふらりと立ち上がり、ハリーはマダム・ポンフリーの姿を探した。

 彼女の医療技術ならば、たぶん死んだ人間でも生き返らせてくれるだろう。だってマダム・ポンフリーなのだから。だから多分大丈夫だ。きっと。うん。

 一歩前へ踏み出そうとして、ハリーははたと気づく。

 そういや右足がなかったんだった。

 どうやって立ったんだっけ、と思いながら足を踏み外したハリーは地面に崩れ落ちる。

 しかしその小さな体を、受け止めてくれる者がいた。

 

「ポッター!」

 

 だれだっけ、と思いながらハリーはその人物を見る。

 青い目がぎょろぎょろと動き、ハリーの全身をくまなく観察していた。

 何だっけこの人、よく知ってる気がしたんだけど何だっけ。

 

「泣くな、医務室へ向かうぞ! その脚は放っておいていいものではない!」

 

 確かなんか闇祓い的なサムシングだったような気がしないでもないけれど、まぁマダム・ポンフリーの元へ連れて行ってくれるなら何だっていいか。

 不確かな意識の中、ハリーはその人物に連れられてホグワーツ城の中へと入っていった。

 横抱きにされたまま、がつがつと硬質な足音を立てて冷たい廊下を急ぎ足で駆けゆく彼も、確か片足がないために義足だったはずだ。思い出した。アラスター・ムーディだ、この人。

 

「座れ!」

 

 適当な丸椅子の上に放り投げられ、ハリーはそのまま床に倒れ込んだ。

 医務室ではない。どこだよ、ここ。

 不思議な部屋に連れ込まれ、ハリーはぼーっとした顔で当たりを見渡す。

 ムーディが適当な荒縄で自分の右脚をぎゅっと縛る様を、ただなんとなく見つめ続けていた。魔導の力が溢れるように流れ出していたのが、蛇口を絞ったように穏やかになったのがわかる。魔力は血に、つまりエーテルに混在している。その流出が収まっただけでも、ありがたいことだ。

 どこか興奮した面持ちのムーディは、ハリーの体面に座った。

 なんだか、らしくないな。と思う。この人物が落ちつかないのは、何か変だ。

 

「それで、だ。ポッター。闇の帝王はどうやって復活なされたのだ」

「……、……。なにが?」

「闇の帝王だ! あの方が復活されたその様子を、教えてくれ。さぁ、さぁ、さぁ」

 

 なんだこいつ。

 奇妙に興奮したムーディを相手に、ハリーは自分の頭の中が冷めていくのを感じた。

 セドリックが死んだのは、もう仕方がない。あの状態で自分に何か出来たかと自問すれば、無茶言うな馬鹿野郎と自答する事が出来る。

 精神状態に関しては平常通りとは口が裂けても言えないものの、くだらない思考にリソースを割くことで発狂するような無様を晒さないようにしていることから、だいたい自分の精神状態が回復へ向かっていることくらいはわかる。

 のっぴきならない状態だからこそジョークを忘れないのさ、というウィーズリーの双子の言葉を思い出した。セドリックの死によって現実逃避しようとした先程の状態を思い出す限り、全く以ってその通りである。

 さて。

 状況を整理しよう。

 様子のおかしいムーディは、自分にヴォルデモート復活の詳細を問おうとしている。

 闇祓いだというのならそれもむべなるかな、とは思うが、この四年間を生と死の間を行ったり来たりしているハリーにとって、人を疑うということは息を吸うことより容易い。

 偽者という可能性はどうだろう? ヴォルデモートももう一人死喰い人を潜入させていると言っていたこともある。だが却下だ。恐らく透明マントすら見破る術を持っているダンブルドアが見抜けぬはずがない。

 次に、マッド・アイというあだ名が示す通り本当に気が狂っている可能性。……否定しきれないが、恐らくそれもないだろう。右脚から余計な血が流れ出ないようにした応急手当ては完璧だ。正気でない者が出来る事とも思えない。

 

「ポッター。早く教えるんだ。さぁ、帝王はなにかおっしゃっていたのか。早く」

 

 いや待て。

 ダンブルドアを信用し過ぎるのも如何なものか。

 ヴォルデモートの話を真実と仮定して考えるならば、彼はハリーを生かすことによって結果的にヴォルデモートの復活に手を貸すという大失態を犯している。曰く、彼の悪癖によって。

 今回もその悪い癖が出たとしたら、どうだろう。

 なにもチャンスを与えることだけではなく、身内には甘いあの男の性格を鑑みれば。

 ムーディとダンブルドアは随分と親しげな様子だった。恐らくなにか、闇祓いと魔法学校校長として以上の付き合いがあると見るべきだ。そうすると、どうだろ? チェックが甘くなっていたりしないだろうか? 例えば、変身術の達人がムーディに化けていたりとか。例えば、細胞ひとつ違わない変身を成しているとか。

 そう、例えばポリジュース薬、とか。

 

「……ヴォルデモートは、」

「ああ。帝王は?」

「……ぼくにお辞儀を……うっ、頭が」

「待ってろポッター今すぐ頭痛薬を持ってくるだから話すんだ」

 

 時間稼ぎをした方がいい。

 いつの間にかハリーの杖は、ムーディのデスクの上に置いてあった。本当にいったいどのタイミングで抜き取られたのか。まったく気付かなかった。ひょっとしたらハリーの精神状態は、思っているよりも弱っているのかもしれない。

 それもそうだ、ようやく認めることのできた青年を目の前で殺されたのだ。

 ヴォルデモートのもとで手にした、杖を使わない魔力の運用法。あれも今使えるとは思えない。あの時は咄嗟に『呼び寄せ呪文』を行使する事が出来たが、いまやれるかと問われればまず間違いなく無理だ。あの技術はもっと、それこそ年単位で練習を積む必要がある。

 だから今はきっと、時間稼ぎをするのが正解であるはずだ。

 ダンブルドアにマクゴナガルといった教師陣、それに、ロンやハーマイオニーがハリーの不在に気付かぬはずがない。あの衆人環視の中だ、ムーディがハリーを連れていく姿を誰も見ていないなどということは有り得ないだろう。

 

「これで痛くなくなったはずだ。さぁ、話せポッター」

 

 頭痛薬はダイレクトに頭へぶっかけるものではないはずだが、このムーディは正気には見えない。血走った眼は、明らかに狂人のそれである。

 下手に刺激しない方がいいだろう。

 

「やつは、復活した。それは、間違いない。目の前で話し、触れ、戦った」

「……そうか、そうなのか。それで、その方法はどのようなものだった。わしは正確に知っておきたいのだ」

 

 ムーディが蒼白な顔をしている。

 興奮のあまり、両手がわなわなと震えているのすら見てとれる。

 ハリーはその様子をちらと見て確認しながらも、言葉を紡ぐことを選んだ。

 

「失われた古代の魔術、そんな風に言ってた。父親の墓から、骨と。ワームテールから、肉を。そしてぼくから、血を抜きとった」

「……他には」

「インクを。奴の、記憶。それによって奴は、完全復活を果たした」

 

 パーフェクト・ヴォルデモート。

 奴自身、復活が嬉しすぎてハイテンションになってはしゃいでいたことから、余程計画が上手くいったらしい。腹の立つことだが、二桁の年単位で進行する計画を予定通りに組み上げて達成したとなれば、小躍りしたところで不思議はないだろう。

 それを聞いたムーディは、感慨深そうに頷いていた。

 こいつは隠す気があるのだろうか。まだ真偽がわからないため一応の警戒として偽者として考えているが、だとすればあまりにも迂闊すぎる。

 

「それで。死喰い人どもは戻ったのか」

「……うん、戻った。それも大勢、三桁はいたと思う」

 

 ムーディがその傷だらけの顔をゆがませる。

 怒りか、それとも他の何かか。

 

「それで? あのお方は奴らを許したか? アズカバンを逃れたカスどもを。裏切りの不忠者どもを、許したのだな?」

 

 興奮のあまり、もはや完全に自身の正体を隠す事を忘れている。

 間違いない。黒だ。

 そもそもの話、闇祓いとして数多くの死喰い人たちを薙ぎ払ってきたアラスター・ムーディがヴォルデモートを「あのお方」などと呼ぶはずがないのだ。中身が何者かはわからないが、こいつこそが死喰い人(デスイーター)だ。

 

「痛い目に遭わせただろう? ご主人様は、裏切り者を許しはしない。助ける者には褒美を与える。そうだ、そうだと言ってくれハリエット。俺に、俺こそが最高の忠義者だったと言ってくれていたのだろう?」

 

 ハリーは答えなかった。

 彼の顔が歪んでいる。ムーディの顔は元々傷だらけで歪んでいるようなものだったが、いまの彼はそのような歪み方ではない。別人のそれが、上書きされようとしているかのような……いや、元に戻りかけているのだ。

 やはりポリジュース薬か。

 それを奴も気付いているのか、一瞬だけ自分の頬に手を当てたものの、狂気的な目をまたハリーに向けてきた。歓喜と期待に満ちた目だ。おそらく、もうバレてもいいのだろう。彼の役目はなんだ? なぜヴォルデモートは彼を送りこんだ?

 

「……」

「沈黙は肯定と受け取る。ああ、そうか。そうかぁ……嬉しいなァ……。俺はようやく報われたんだなァ。思えば俺と帝王には、共通点が多かった。分かるか、ハリエット? わからんだろうな。俺も彼も、父親の名をつけられるという屈辱を味わった。俺も彼も、失望しきっていた己の父親を殺した。俺も彼も、闇の力に愛されている! そう、俺と彼は、闇の帝王こそが俺の真の家族なのだ! わかるか、ハリエット! 人形め! この歓喜が、この幸福がァ!」

 

 狂っている。

 分かってたまるか。

 だが、ハリーは間違ってもそのようなことは言わない。

 これ以上刺激すれば、真実十四歳の少女であるハリーに抵抗する術はない。

 杖もなく、魔力も底を尽きて、精神的にも肉体的にもずたぼろの、ただの女の子。

 ヴォルデモート戦の時に使ったように、杖がないまま魔力を運用する方法をいつでも使えるように訓練しなければならない。その為には、この場を切り抜ける必要がある。

 考えるのだ、ハリエット・ポッター。

 

「実はな、お前の名を炎のゴブレットに入れたのは俺だ。苦労はしなかったな、俺は『錯乱の呪文』が得意だったんだ。ゴブレットを錯乱させ、お前を七校目の生徒として誤認させた。七校目から一人しか応募がなければ、自動的におまえが選ばれる。そのあとは簡単だったな。俺が手を貸したのは水中競技くらいだ。ロングボトムに《鰓昆布》が載っている本をくれてやったのは、俺だ。それ以外はほぼ何もしていない。おまえは大した魔女だ。やはり天才か。イヤ、当然だな。あの人の傑作なのだから。全ての試練を当然のようにクリアしてゆくその様は、あのお方の素晴らしさを証明してくれるようで、俺としては実に観戦し甲斐があったぞ」

 

 聞いてもいないことをべらべらと。

 彼の眼窩から、青い《魔法の眼》がこぼれ落ちた。顔の傷も徐々に綺麗にふさがっていき、髪の毛も白髪交じりのそれから、艶のある薄茶色に変化してゆく。木製の義足が落ちた。そこからにょきにょきと正常な足が生えてくる。鼻もまともな状態に戻った。見れば、肌の色すら違うではないか。

 ハリーの目の前で得意げに語る男性は、間違いなくムーディではありえなかった。

 この男をハリーは知っている。 

 バーテミウス・クラウチ・ジュニア。

 記憶の世界でハリーが見た、逮捕されてしまったクラウチ氏の息子だ。

 獄中死したとの話だったがどうやら生き残っていたらしい。どのような手段を使ったにせよ、いまこの場では考えるべきではないことだ。考えるべきは、この男をどう乗り切るか。

 兄ハリーがハリエットの立場に居れば、きっと考えないだろうことも一応考えておく。

 すなわち、この男をどう殺すか。敵をどう無力化するか。

 

「最後の試練ではどうも他の死喰い人(バルドヴィーノ・ブレオ)による妨害工作があったようだが、まあお前なら切り抜けられると思っていたよ。クズめ、あの場で殺してしまっては帝王の意思に背くことになるだろうに。何度俺が殺してやろうと思ったことか。死んで当然だ、よくぞやってくれたハリエット」

「……褒めてもらったところで、嬉しくもなんともないね」

 

 ブレオを直接手にかけたのは、ハリーだ。

 最後の瞬間、ハリエットではない誰かの名を囁いて逝ったブレオ。

 彼も彼で何かがあったのだろうが、ハリーとしては自分の意思で殺した人間をバカにされるのは何故か無性に腹が立つことだった。

 彼を殺して自分が生き残ると決意した、その想いまで穢されたような気になるのだ。

 

「ああ、そうかい。だがまあ、うん。奴にもいいところはあったよ、結果的におまえがご主人様の元へ行く手伝いをしてくれたのだから。そして彼が盗んだ君の便利な地図によって、俺はかなり行動が楽になった」

「……便利な地図。って、おまえそれ……」

「おっと、俺は悪くないぞ。盗み出したブレオからちょっとだけお借りしたのだからな」

 

 腹の立つ奴だ。ブレオがいつの間に盗んだのかも知らないが、彼は頻繁にハリーへボディタッチを行っていたから、盗み出すことは可能なのかもしれない。魔法空間にしまっていたから、魔法的な盗みだとは思うが、さてどうだろう。彼の繊細な魔力運用なら可能かもしれないとは思う。

 しかし忍びの地図は、父たちの思い出の品だ。この薄汚い男に触れられたなど、業腹もいいところである。

 それに、ブレオの事を、欠片も何とも思ってはいない。

 仮にも同じ死喰い人だろうに。

 

「ハリエット、どうやら俺の言葉が気に入らないみたいだな? 当然だ、新興の死喰い人など、あの人への忠誠心があるとは思えない。それに、今まで帝王に仕えていた死喰い人たちはいったいどこへ行っていたのだ? 俺がアズカバンで苦しんでいた中で、奴らは? どこでのうのうと愉しんでいたのだ? 奴らが帝王に仕える資格はない。奴らが生きる資格もない。奴らが空気を吸う資格など、ありはしない! 決してだ!」

 

 ここにきてハリーは、目の前の男の感情を計り間違えていたことに気付く。

 ダンブルドアすら騙し切ってこんなところまで入り込んだ男なのだ。

 だから冷静沈着で、全てを計算し切って行動する慎重派なのだとばかり思っていた。

 しかしこの男、思ったより自分に酔うタイプだったらしい。

 ハリーへ説明しながら、彼は興奮して立ちあがった。バーティ・ジュニアの座っていた木製の椅子が蹴倒され、彼の両手がハリーの肩へ強く添えられる。

 その手が興奮のあまり震えていることから、首へと伸びるのは時間の問題だろう。

 目の前の男、バーティ・ジュニアを無力化するには。殺すにはどうすればいいか。

 手段は分かっている。だがタイミングがまだなのだ。

 

「さあ、ハリエット。ここで死ぬがいい。お前が死ねば、あの方はどれだけ俺を褒めてくれるだろう!? あの方はきっと俺を重用してくれるに違いない! 俺を、俺を愛してくれる! まるで息子の如く……いや、それ以上に!」

「それはどうかな」

 

 ハリーの言葉に、熱に浮かされたようなバーティ・ジュニアの動きが止まる。

 油の切れた機械のようにハリーを見下ろした彼に向って、ハリーは言葉を続けた。

 

「彼は、ヴォルデモートは他人を愛することはしない。断言しよう、彼は誰も信じていない。他人はもちろん、自分さえも。もちろん、おまえなんてただの駒だろうさ」

「……だまれっ」

「口から出まかせを言っているとでも思ってるのかい? それは有り得ないね。ヴォルデモートのことを世界で一番わかっているのは、このぼくだ。人形だからこそ造り手の気持ちはよくわかる、ということさ。胸糞悪いことにね」

「だまれ、だまれ、だまれ!」

「はっきり言ってやるぜ、バーテミウス・クラウチ・ジュニア。クソみたいな帝王に代わって、その分身みたいなぼくが断言してやる。おまえはただの捨て駒だよ、お人形」

「だァァァまれェェェえええええ――――――ッ!」

 

 ついにバーティ・ジュニアはハリーの首を絞めつけてきた。

 不必要なまでの挑発に顔を真っ赤にし、彼女の命を断とうと本気で殺意をぶつけてくる。

 杖もなく、足もないハリーにそれを回避する術はない。

 しかし彼を倒す手段は既に用意されている。

 術がなかろうが、なにも問題ない。

 なにせ、避ける必要すらないのだから。

 

「『ステューピファイ』! 麻痺せよ!」

 

 真っ赤な魔力反応光が、木製のドアをブチ破って飛んできた。

 反応光はバーティ・ジュニアの眉間に直撃し、彼を大きく縦回転させながら吹き飛ばして壁へと叩きつける。古い石製の壁はその一撃によって亀裂が入り、細かい石飛礫が部屋中に散らばってゆく。

 そのままずるりと床に落ちた彼は、魔法の効果もあって失神してしまったようだ。

 あの魔法は物理的な障害があればそれに阻まれて不発に終わるはずだが、いったいどれだけ人間離れしているのか。扉の向こうに仁王立ちしているアルバス・ダンブルドアの姿を見ながら、ハリーはそう思う。

 アラスター・ムーディの部屋には防犯グッズである《隠れん防止器(スニースコープ)》や自分に敵対する者の接近を知らせる《敵鏡》などが用意されており、いかにも神経質なムーディらしい……いや、ムーディを演じるのに必要な道具である。これらをムーディから奪い取り、設置してまで本人を演じたバーティ・ジュニアの演技力には舌を巻かされる。

 だが興奮と緊張のあまり、彼の背後にあった、そしてハリーの視線の先にあった《敵鏡》に目をやらなかったのは失敗だ。そこにはずっと、この部屋へ向かっているダンブルドアたちが映っていた。それが避ける必要すらなかった理由だ。

 結末の分かっているゲームほどつまらないものはない。ハリーは部屋に飛び込んできたスネイプが何やら床に座り込む彼の口に薬品をブチ込んでいる姿を眺める。

 あの小瓶は確か、ハリーに飲ませるぞと脅していた真実薬(ベリタセラム)だったはずだ。拷問でも始める気だろうか。

 

「セブルス、どうじゃ」

「彼奴めはしっかり飲み込みましたな」

「よろしい。これで彼は無力じゃ、放っておいても害はない」

 

 ダンブルドアの言葉に、スネイプは満足そうに応える。

 マクゴナガルに抱き起こされながら、ハリーは徐々に首を持ちあげるバーティ・ジュニアを見た。その目はうつろで、しかし随分とはっきり意識を保っているように見える。

 丁寧な手付きでハリーの背をさするマクゴナガルは、ハリーに優しく言う。

 

「さぁポッター、医務室へ行きましょう。その傷は決して浅くは有りません。足を失っていることを忘れているわけではありませんね?」

「嫌だ」

 

 しかしハリーは、それを切って捨てた。

 しかも尊敬するマクゴナガル相手に、乱暴な口調で吐き捨てた。絶句したマクゴナガルを放って、ハリーはダンブルドアへ鋭い視線を向ける。瞳は、血に染まり未だに赤いまま。

 彼女の意思をくみ取ったダンブルドアは、マクゴナガルに視線を向けた。それで意思を察したマクゴナガルは、まったくと小さく呟くとハリーの好きにさせるように決めたようだ。

 

「ミネルバや、そこのマジック・トランクを開けてやってくれ。わしの読みが正しければ、そこに本物のムーディがいるはずじゃ」

「……そうしましょうとも」

 

 不機嫌な言葉をぴしゃりと叩きつけ、彼女は足音高く去ってゆく。

 恐らくあのトランクには仕掛けがしてあって、中に牢獄でも入っているのだろう。知識がない以上構造も仕組みも分からないが、言葉通りに捉えるならばそうなる。

 マクゴナガルがトランクを開け放ち、中に入っていた本物のムーディへと声をかける。予想よりかなり衰弱していたため、いっそトランクごと医務室へ運ぶことにしたようだ。マダム・ポンフリーへ念話を飛ばしながら、マクゴナガルは同時に魔法をかけてトランクを医務室へと飛ばしてしまう。

 この状況に関しては、ダンブルドアがほぼ正しいであろう予測を語った。ほぼ間違いなくムーディが捉えられていた理由は、ポリジュース薬の材料のためだろう。ポリジュース薬は、禁術とされているだけあってダンブルドアの眼すら欺くことができる、数少ない変装手段のひとつ。

 それに要する材料の一つに、変身する人間の細胞が必要になってくる。恐らく髪でも切り取るために生かしておいたのだろう。殺され、死体から適当な肉が取られてしまうということになっていなかっただけまだマシだろう。

 

「その男のことはどうでもいい」

 

 ダンブルドアの話もそこそこに、ハリーが噛みつくように言った。

 スネイプが不機嫌そうにハリーに声をかけようとするものの、それすら無視してハリーはダンブルドアへその睨みをぶつけてゆく。彼女が何を言いたいかを分かっているのか、ダンブルドアは粉みじんとなった扉の外へと声をかける。

 そこで待機していたフリットウィックに頼み、夢現となったバーティ・ジュニアを連行してゆく。恐らく昨年シリウスが閉じ込められた牢にでもブチ込んでおくのだろう。

 

「ぼくの質問に答えろ、ダンブルドア」

「ポッター! なんです、その物言いは!」

「黙っててください、マクゴナガル先生」

 

 怒鳴りつけたマクゴナガルに対して冷ややかに流しながら、ハリーはダンブルドアを睨みつける。老人はどこか、老けこんだように疲れた顔をしている。

 なにをそんなに被害者面しているのだろうか。何様のつもりか。小声でそう吐き捨てたハリーの言葉を拾ったスネイプは、目を見開いて驚いてしまう。

 今までにない反抗的な態度に、マクゴナガルは本気で困惑してしまう。確かに苛烈な性格をした少女ではあるが、自分やセブルスなどといった尊敬する大人に対しては結構素直な子だったはずだ。

 

「まず答えてほしい。()()()()ことは、予測してた?」

 

 ほんの少しだけ、ダンブルドアの肩が揺れた。

 最早それが回答に等しい。直接言葉で語られなかった分、怒りがより膨らんでしまう。

 カッとなった感情を止める術を、ハリーは知らない。

 残った左足で思い切り立ち上がり、全力でダンブルドアの鼻を殴りつけた。非力な少女とはいえ全体重を乗せた拳は、老人には強烈だったようだ。バランスの取れないハリーと共に床にたたきつけられ、くぐもった声が出る。

 マクゴナガルの慌てた声と、スネイプの鋭い声。そしてダンブルドアの小さな謝罪の声を聞きながら、ハリーは一気に気が遠くなっていくのを感じた。

 何故だろう。怒りのあまり気絶など、聞いたこともない。

 ふと気がついて自分の右脚があったあたりを見てみれば、椅子の下が血で真っ赤に染まっていた。当然である。いくら縄で縛って止血してあるとはいえ、片脚を失って平気でいられるほど人間とは頑丈な生き物ではないのだ。

 何のことはない、出血多量による失神であった。

 

 

 四日ほどで意識が戻った。

 もう知らない天井などとは言えない。慣れ親しんだ友のような、医務室の天井だった。

 目を開けた瞬間、傍に居たハーマイオニーによって抱きしめられてわんわんと泣かれてしまう。ハリーはそれをあやすように栗色の髪の毛を梳いて、抱きしめ返した。その後ろでは、泣きそうな顔をして笑って安堵しているロンの姿がある。

 数人の代表選手たちがたいそう心配していた、と告げられてハリーは少しだけ罪悪感にかられる。そのうちの何人かを、ハリーは本気で殺そうとしていたのだ。

 ふと他のベッドを見てみれば、いくつか埋まっているものが散見される。ロンに目を向ければ、少し気まずそうな顔をされた。恐らくまだ目覚めていない代表選手がいるのだろう。『服従の呪文』と、ハリーによる攻撃の後遺症が残らないといいのだが。

 しかしそれより何より、ハリーにはやるべきことがあった。

 

「ダンブルドアは」

 

 ハリーが静かにそう言うと、カーテンの向こうから老人が現れる。

 不穏な空気を感じ取ったのか、ハリーを抱きしめたままハーマイオニーが不安そうな目で二人を見つめる。ロンは少女二人を庇うように、ダンブルドアの前に出た。

 しかしハリーは親友二人を無言で制する。

 小さく、二人にしてほしいと頼めば、親友たちは渋々ながらハリーの望み通りにしてくれるようだった。何度も心配そうに振り返りながら、カーテンの向こうへと姿を消していった。

 

 ハリーは部屋の中で、ダンブルドアの顔を眺める。

 疲れ切った老人の顔に覇気はない。むしろ今すぐに老衰死してしまうのではないかと思わせられるほどに老け込んでいる。二人きりになって既に数分は経っている。ハリーは彼から話し始めるまで、口を開く気はなかった。

 やがて彼女の視線に耐えかねたように、ダンブルドアは口を開く。

 

「……ハリーや」

「ええ、なんでしょうダンブルドア先生」

 

 殊更に冷たい声が出る。

 もはやこれは仕方のないことであり、自重することもできない。

 ヴォルデモートの影響で彼へ悪感情が出やすいのかも知れないが、しかしそうだとしてもハリーはダンブルドアへいい感情を抱いてはいない。

 なにせ、十四年間騙し続けてきた大詐欺師なのだから。

 

「……まず話すのは、ヴォルデモートのことじゃ。次に君のことを、そして最後に今後のことを話そう」

「そうですか」

 

 ヴォルデモートのこと。

 これからどちらかが死ぬまで殺しあうことになるだろう人物の情報だ。

 些細な情報でも知っておいたほうがいい。

 

「まず、君の話を聞いて確信した。彼は完全復活を果たしたのじゃな」

「ええ。三〇代前後の肉体年齢で復活しました。彼自身の父親の骨、しもべたるワームテールの肉、ぼくの血、そしてトム・リドルの記憶を宿したインクで」

「……なるほどの。まずそこから説明しようか」

 

 ダンブルドアはそう言うと、杖を一振りしてホットチョコレートの入ったマグカップを出現させた。ほかほかの湯気が揺れている割に、実に飲みやすそうに見える。

 魔的干渉における物理歪曲の原則を完全に無視している。いったいどうやったのか、魔法式を視てもわからないというのは少々どころじゃなく異常だ。やはり世界で一番優れた魔法使いという触れ込みは真実なのだろう。

 彼が飲むよう勧めてくるも、ハリーは断った。別に意地悪な気持ちからではない。いまは何を摂取しようとも、気持ち悪くて吐き出す自信があるからだ。

 

「まず、ヴォルデモートが使用したのは君の血ではない。わしの血じゃ」

「……? ぼくの体から抜き取っていましたが」

 

 そう言ったハリーに対して、ダンブルドアは杖を羽ペン代わりにして空中に魔法式を描く。

 人体構造に関する公式や、闇の魔術に関する文言が混じっている。まず尋常な魔法に使われる魔法式ではないだろう。

 直感で察した。これは、この魔法式は……。

 

「……ぼく、か?」

「その通りじゃ。これは君の、当時ゼロ歳の君の身体情報をすべて解明した結果じゃ」

 

 様々なパラメータが書いてある。魔力値や、魔力生成量。身長体重はもちろんのこと、内臓の稼働数値までもが詳細に書かれている。ハリーからすれば何が何だかさっぱり分からないほどに難しい内容ではあるが、魔法的側面から科学的側面にかけて当時ゼロ歳の『ハリエット人形』の情報の全てが記載されていることはわかった。

 ところで何故スリーサイズまであるのか。最近のデータだったら殺してやるところである。

 

「ヴォルデモートが言ったかもしれんが、わしはジェームズとリリーが殺害されたそのあと、ゴドリックの谷へ『ハリー・ポッター』を迎えにいった。しかしそこにあったのは血と肉の惨劇じゃった。そして残されていたのは、造られた人間である『ハリエット・ポッター』しかいなかった。つまり、君じゃ」

「……随分とあっさり言うんですね」

「前にも言ったかもしれんが、君に対して隠し事は無駄だと分かっているからじゃ。それになにより、このことに関してだけは、わしは絶対に、君に隠し事をするべきではなかった。決して嘘をつくべきではなかったのじゃ」

「……、そうかい。じゃあ続きを」

 

 ダンブルドアがハリーに対して、この事実をひた隠しにしてきた理由は、ハリーとて十分に理解しているつもりである。十四歳になった今でさえ、自分が自分ではなく、誰かの代替品として造られた存在であることを突きつけられてしまい、自我やら精神やらが崩壊しそうな状態になっているのだ。そんな恐ろしい真実を子供に突きつけることができる度胸は、ダンブルドアにはなかった。

 精神と生命を結ぶ糸がかろうじて繋がっているのは、父ジェームズと母リリー、そして兄ハリーの霊魂が家族として受け入れてくれたからだ。恐らくあの出来事がなければ、ハリーの心はバラバラに砕かれていたことだろう。

 そうだ、仕方のないことだ。

 仕方のないことではあるが、許すかどうかはまた別の問題である。

 とにかくこの老人には、喉を嗄らしてでも全てを説明してもらわねばなるまい。 

 

「わしは迷った。悩んだ。ヴォルデモートが造り上げた人造人間である君を殺すなどという選択肢を、取れるような勇気がわしにはなかった。だから、君が生きていける環境を用意するしかなかったのじゃ」

 

 曰く、『ダンブルドアには悪い癖がある』。

 ヴォルデモートの言ったとおりであり、ハリーの評価通りである。

 誰にでもやりなおさせるチャンスを与えたがる優しさ。それがダンブルドアの偉大な魅力であり、そして同時に最大の弱点でもあるのだ。

 甘さとはすなわち死と同義である。それも、他者にまで及ぶ猛毒を孕んだ死の雨を周囲にばら撒くことになる。彼ほどの魔法の腕がある偉人ならば、その被害を抑えることは十分に可能であろう。だが完全に防ぐことは、無理だ。できるはずもない。

 

「まず、君に仕掛けられたであろう呪いを調べ尽くすしかなかった。幸いにして、見つかった呪いはひとつきりじゃった」

「おいおい、呪いが仕込まれていたのに生かしたのか? ……ですか?」

「……そういう言い方をするでない。そうじゃ、それでもわしは君に生きて欲しかった」

 

 恐らくはジェームズとリリー、そしてハリー少年を護れなかった後悔。純粋にハリエットへの想い。または罪滅ぼしのようなものも含んでのことだろう。ダンブルドアへ苛立ちと怒りを抱いている今でも、そこを突き刺すようなことはしない。ハリーは別に、目の前の老人をいじめたいわけでも、ましてや心を殺したいわけでもないのだ。

 無言で話の続きを求めると、ダンブルドアは哀しげに口を開いた。

 

「君に仕掛けられていた呪文は、実に複雑怪奇なものであった。健康に何ら影響なく、しかし感情のみをコントロールしてある一点の目的だけを遂げさせる、心理誘導のような魔法じゃ」

「それが『命数禍患の呪い』ですね?」

「さっき嘘をつくべきではないと言ったばかりじゃが……すまん、そりゃウソなんじゃ」

「こんのクソじじい!」

 

 思わず叫んでしまうのも仕方のないことだと思う。

 この四年間、ハリーがその呪いについてどれだけ調べたのか。

 それの真実をさらりと暴露するあたり、この老人は本当に喰えないクソジジイである。

 柔らかく微笑むダンブルドアの意図は分かる。二人の間にある空気は、あまりに張り詰め過ぎていた。一色即発のそれとは言えないものの、円滑に話を運べる類のものではない。

 ゆえにジョークを混ぜて和ませた、ということに気付きながらもそれを言葉にするほど、ハリーは愚かでも意地悪でもない。言ってやりたい苛立ちはあるけれども。

 話を続けろと無言で睨むと、相変わらずの微笑みを浮かべたまま彼は話を続けた。

 その笑顔に無理があると感じるも、その言葉も唇の奥に秘めておく。

 

「実際には『運勢を左右する』ような呪いではなく、君に自身の正体を隠すための方便、つまり嘘じゃが……あながち全くの虚偽でもない。この魔法に名をつけるとすれば、まさにその『命数禍患』じゃろう。君にかけられていた呪いは、わしに対する悪感情の増加(ヘイトブースト)じゃ」

「……仲違いさせて、信頼関係を築かせないつもりだった?」

「いいや、ことはそう単純ではない」

 

 ダンブルドアが見舞いの品の中にあったフルーツバスケットから、小型の果物ナイフを取り出す。するりと鞘から刃を取りだすと、己の人差し指をちょんと突いた。

 刃によって血管から雫が押し出され、ダンブルドアの指の腹に小さな赤い玉が現れる。

 それを見つめながら、ダンブルドアは言う。

 

「復活の儀式に必要なものは父親の骨、しもべの肉、敵の血じゃ。そのうち父親の骨は、彼の実父であるトム・リドル・シニアの遺骸がある。しもべは恐らく、哀れなピーターあたりを使ったのじゃろう。そして敵の血。彼は君から血を抜き取って、儀式に使用したのじゃな?」

「リトル・ハングルトン村……だっけ。そこで実際に、この目で見た。間違いない。ぼくの身体から血を抜き取って、儀式に使用した」

 

 召喚されたヴォルデモートの容姿が二〇代後半から三〇代前半のいけすかないハンサムであったことを伝えると、やはりかとダンブルドアは小さく呟く。

 彼が強化されて帰ってくることも、この老人はお見通しだったようだ。

 しかし見通していながら何故、どうして防ぐことができなかったのだろうか。

 

「まず君は、わしへの怒りや憎しみといった感情が増幅するようになっておる。恐らく君の中でのわしの評価は、『力はあるが信用ならない耄碌ジジイ』あたりじゃろう」

「……、」

 

 図星である。

 

「ちとショックじゃな。まあ、よい。そして君は、ことあるごとにわしに殴りかかっておった。魔法を習得し、より攻撃的な呪文を覚えた今でも、おそらく『直接殴ってやりたい』と思うことじゃろう」

「……つまり、ぼくにアンタを殴らせることが目的だったのか?」

「そうとも言える。そしてなにより重要なのは、出血させることじゃ。わしの血を出させ、君の皮膚に付着させること」

 

 ダンブルドアの指先に乗っている雫がハリーの手の平に押しつけられると、彼が指を動かしたことでするりと線を引く。しかしその赤い液体は、見る見るうちにハリーの皮膚へと吸い込まれてしまった。

 魔法式などは見当たらない。つまり見えない部分、臓器かまたは精神か、そのあたりに刻まれているのだろう。または、そもそもハリエットという人形がそういう機能を有しているのかもしれない。男ならば胤を造る機能、女ならば子を産む機能。ハリエットならば血を取り込む機能。だいたい、そういった具合だろう。

 

「なるほど。……要するに人形ハリエットは、仇敵アルバス・ダンブルドアの血を手に入れるための採血装置として造られていたのか」

「……残酷なことじゃが」

 

 セドリックの死によって心が麻痺しているだけかもしれないが、然程ショックではない。むしろヴォルデモートならそのくらいやってのけるか、という納得がある。

 自分の感情までも奴の利用するところに合ったのかと思うと、苛立ちが募る。ならいっそダンブルドアを愛してみるか? いや、くだらない。冗談にしてもつまらなかった。

 鼻で溜め息を漏らし、ハリーはそれで、と言葉を紡ぐ。

 

「ぼくの現状に関しては、それだけ? 『命数禍患の呪い』がぼくへの不幸増幅ではなく、ダンブルドアに対するヘイト感情増幅と血液吸収で、それを利用してあんたの血を採取するための呪いであったと」

「……うむ、その通りじゃ。額の傷として残されたそれ以外に呪いはない。問題があるとすれば、君という人間を製造するにあたってジェームズにリリー、ヴォルデモートの生体情報が使われているため、時折彼らの思考を君がトレースしてしまうことがあるということかの」

 

 覚えはあるか、と問われれば、かなりある。

 ダンブルドアへ感じる苛立ちなどは、きっとヴォルデモートの感情をトレースしたものだろう。クィディッチワールドカップの時、死喰い人の姿を見てカッとなったのは恐らくジェームズ。生前にも闇の陣営と死闘を繰り広げていたのだろう。

 

「いや、あとひとつだけ懸念がある……」

「懸念?」

 

 自分がこれから言うことは不可解なものであるとでも言いたそうな顔をしたダンブルドアは、続きを促されて少し躊躇う様子を見せた。

 ダンブルドアもハリーが問いを取り下げるつもりはないだろうことを理解しており、彼は渋々とヒゲの奥から自身の考えを述べる。

 

「わし自身、不愉快な考えではあるのじゃが、彼奴の行動に不可解な点があるのじゃ」

「頭の中身が一番不可解だと思うけど」

「そこ以外でじゃ。まず、採血を行う人員として『ハリー・ポッター』の複製、つまり『ハリエット』、君じゃ。君を造りあげる際の判断も、イマイチわからぬ」

「……そういえば、なんでぼくは女なんだ? ただ複製を造るだけなら、性別を変更する必要はないはずだ」

「そこじゃよ」

 

 基本的に人間というのは、母親の体内にて卵子が精子を受精し、その受精卵が十ヶ月ほどをかけて細胞分裂を繰り返し、ヒトの形となって世に生まれ出てくる。

 性別の決定方法としては、男性の精液に含まれる精子が関係していると言われているが、二〇世紀となった今でも確かなことは判明していない。最初は全て女性でありそこから枝分かれするなどという説まで発表されており、専門的な教育を受けたわけではないハリーにはダンブルドアの話は難しすぎた。

 ただ、魔法的側面から見てヒトは基本的に女性体であり、男性的機能はこの世に生まれ出るまでの間に付与されていくのだという。

 一から造られたというハリーには、三人の人間が材料に使われている。すなわち、ジェームズ・ポッター、リリー・ポッター、そしてヴォルデモート卿である。

 医学的に説明できるかは怪しいものであるが、要するに簡単に人間を作れるとしたら女性の方が容易なのだ。そう言った面から見れば、なるほど『ハリエット・ポッター』が女性であることも納得できる。

 しかしヴォルデモート、トム・リドルは完璧主義者だ。

 ハリーの身代わりなのだからしっかり男性として造っておこう、というのが彼の通常の思考回路であるとダンブルドアは語る。つまりハリーが女性として造られたのはおかしいのだ。何かわけがあるに違いないと判断するくらいには。

 

「さらにじゃ。失礼を承知の上で言うが、ハリー、君は月経が来ておるかね」

「ぶっ殺されたいのかセクハラジジイ」

 

 ヴォルデモートの呪い関係なく殴ってもいいと思う。

 セクハラ発言に反して、ダンブルドアの顔は至極まともなものであるため行動に移せないのが実に惜しい。これがロックハートやブレオならば、遠慮なく蹴りあげることができたものを。

 

「真面目な話じゃて」

「……まあ、アー、うん。そりゃあ、十四歳だし。来てるさ、悪いか」

「そうか、やはり来ておるか。ハリー、月経というのは女性が子を産むための能力のひとつであることは、当然知っておるね?」

「そりゃあ、知ってるさ。少なくともそこらへんの男の子よりはね」

 

 月経とは。

 別名を生理と呼ばれる、哺乳類のメスが持つ子宮から起こる出血のことである。

 大雑把に説明すれば、子宮内でほぼ一カ月周期でつくられる卵子は、受精しなければ排出される運命にある。それが子宮内の膜ごと剥がれおち、血と共に膣から排出される。それすなわち月経である、といった具合だ。

 つまり月経がある以上、ハリエット・ポッターには子が産める可能性があることになる。

 何故だろうか。偽装にしては手が込み過ぎている。

 ただ単なる採血装置として造りだすだけならば、十七歳程度の年齢で活動を停止する(こわれる)人形くらいがちょうどいいはずである。もしそうであれば、子を産む機能など必要ない。しかも彼の言によればハリエット人形を製作する際に、わざわざ霊魂以下の存在になった状態でこのような処置を施したことになる。

 ダンブルドア含め、ゴドリックの谷にあったポッター家跡地からハリエットを回収した者たちは考えた。吐き気を催す邪悪を平然とやってのける巨悪であるヴォルデモートが、自身の造った人形にダンブルドアへの悪感情増幅以外に、なにも特別な魔法を施さないまま、そのような能力をつけるだろうかと。

 よもやハリエットに生殖機能をつけることによって、何かおぞましい闇の秘術を実行するのではないかと。想像することさえ罪となり得ることを、やらかす気なのではないかと。

 

「……」

 

 ぞっとする。

 ハリーは自分の下腹を、無意識に撫でた。

 いままで己が通常の人間として生きてきたことに疑問を持たなかったが、ただの女の子の日がおぞましいものに思えてきた。あの男は、いったい何を思っていたのだろうか。

 何を思って、ハリーに子を産む機能をつけたのか。

 何の目的で、ハリーを女性として造ったのだろう。

 

「確証はない。悪戯に君を不安にさせただけかもしれぬ。しかしあ奴は、ヴォルデモートは我々の想像を超える男じゃ。出来得る限り、知っておいてほしかったのじゃよ」

「……言わんとしてることは分かるけどね」

「さらに先ほど言った通り、寿命の心配もある。こればかりは魔法的検査を以ってしてもわからないことじゃ。マグルの現代医学でも、魔法族の現代()()でも、人間の残り寿命など計りしれることではない。だから、君には残酷な真実でも、留意しておいてほしいのじゃ」

「そう、ですね。……心の片隅には、とどめておく」

 

 思ったよりハリーの現状には未来がない。

 ヴォルデモートを倒さねば、とりあえずお先真っ暗が確定。

 倒したとしても、もし彼がハリーに寿命を設定していればタイムリミットで死亡。

 ハリー自身にもまだまだ謎が残されており、その謎に関しても不安要素だらけである。これがコンピュータゲームのシナリオならば、ハリーはコントローラーを窓から投げ捨てているところだ。とんでもないクソゲー仕様な人生である。

 

「次は、ヴォルデモートに関する話じゃな。実を言うと、わしはこの話を決勝戦当日に話したかった。一時的に眠り、君の心と身体は休息を得たことじゃろう。しかしこうして間をおいてしまえば、事実という刃が君の心に刻む傷は、より深くなると……わしはそう思うのじゃ」

「……心配はいらない。いまのところ、麻痺したままみたいだから。麻酔が効いてる間にさっさと言ってくれ。……ください」

 

 その言葉に頷いたダンブルドアが、さっと手をあげる。

 するとカーテンの向こうから大きな――ハリーが直立していれば腰ほどはある――生き物が入ってきた。何だと思って見てみれば、なんと、犬だ。

 しかもハリーには、その犬に見覚えがあった。

 思わずベッドから身体を起こし、愛しい彼を抱きしめる。

 

「シリウス。ああ、シリウス……」

「……わふん」

 

 ぺろ、と頬を舐めてくれた。

 しばらく彼の首筋に顔をうずめ、その温もりをたっぷりと味わう。心の氷が解けてしまいそうになるが、必死でそれを我慢する。これから辛いであろう話をするというのに、気を緩めてはいけない。麻酔が切れてしまう。

 ハリーが腕を離して彼を解放すると、犬はするりと人間に変化せしめた。ヒゲを丁寧にカットし、服装も上下黒のシャツとスラックス。以前と比べれば、見違えるほどに清潔感のある格好をしたシリウス・ブラックがそこにいた。

 

「久しぶりだ、ハリエット」

「うん、久しぶり。元気だった? ちゃんと食べてる? 無茶してない?」

「君は私の母親かね? ま、ほどほどにね。ハーマイオニーに言われた通り、野菜もきっちり摂っているよ」

 

 これだけの他愛ない会話を、ダンブルドアは許してはくれなかった。

 シリウスへ視線を送った彼の意図としては、先程ハリーが自分を戒めた理由と同様だろう。ついうっかり和もうとしてしまったハリーは、自分の意思の弱さに呆れてしまう。

 我ながらシリウスに懐き過ぎである。

 

「おほん。まず。ヴォルデモートは現在、最盛期の肉体と精神を得ていることじゃろう。暗黒時代の蛇のような顔ではなく、魅力的で、男女問わず惹きつける怪しい色気を持った男性として復活したはずじゃ」

「うん、それで間違いない。……蛇のような顔?」

 

 ハリーの疑問には、シリウスが無言で答えてくれた。

 ポケットから取り出した手帳の中に、よれよれになった一枚の写真がある。新聞の切り抜きのように見えるその中には、なんというか、ハリーの見たヴォルデモートとは似ても似つかない男が写っていた。

 いまよりも青白く人とは思えぬ血色をした肌に、剥き出しの歯茎と鋭い牙を持った歯。鼻はノミで削いだかのように消え失せており、蛇そっくりな鼻孔が切れ目としてあるだけだ。そんな彼に「お辞儀をするのだ」と言われれば笑ってしまいそうな、まったくもって現実感のない滑稽な容姿をしている。しかし実際に目の前で会ってしまえば、恐怖で震えるだろうおぞましい容姿である。現実に存在する人間に許される容姿ではない。

 ダンブルドアに目を向ければ、これがシリウスによる場を和ますためのジョークではないことが分かった。あの男がハンサムでよかったかもしれない。少なくとも目には悪くないことは確かだ。

 

「これによって、あの男は実に恐ろしいパワーを手に入れたと言ってもいい。ハッキリ言ってしまえば、いまの若いあ奴には、老体になり衰えてきた今のわしでは勝てるかどうか怪しいかもしれぬ」

 

 ハンサムじゃない方がよかった。

 

「彼奴めは、わしの血を取り込み、そして同時に過去の自分の(インク)を取り込んだ。ハリーや、秘密の部屋での出来事を覚えているね?」

「……そりゃあ、まあ」

「では、クィリナス・クィレルが何かもわかっているね」

 

 その名が出た瞬間、ハリーの脳裏に嫌な予感が駆け巡った。

 ご冗談でしょうと目を向ければ、ダンブルドアはやはり笑っていなかった。

 シリウスが疑問を向けてきたので、説明する必要がある。

 

「シリウス。簡単に言えば、クィレルってのは元ホグワーツ教師で、ヴォルデモートを宿していた吸血鬼だ。一年と二年生のときの二回戦って、ぼくに敗れた後リドルに喰われて消滅した死喰い人だよ」

「……ハリエット、よくぞ無事でいてくれた」

 

 抱きしめられた。

 確かに言葉にしてみれば、とんでもない奴と戦ったものである。

 今であれば『身体強化呪文』や『投槍呪文』といった強力な魔法を得意としているが、初戦の時はそのような魔法などない。まったく、よく五体満足で生きているものである。

 五体満足と言えば、自分の足の事を思い出す。いつの間にか斬りおとされており、そして目覚めた今では何時の間にか生えてきている。全くもって魔法界の()()技術はわけのわからない領域に達しているようだ。

 

「その血を得て受肉したトム・リドルの魂情報をたっぷりと含んだインクを、自身の構成に使った。すなわちヴォルデモートは、吸血鬼の特性をも得ている可能性がある」

「……では、ダンブルドア。奴に弱点が増えたと考えても?」

 

 シリウスの期待するような言葉に、彼は首を振った。

 わかっていたことではあるだろうが、一瞬だけ見えた光明に縋りたかったのだ。

 

「いいや。まず間違いなく、彼は吸血鬼の情報を取り込む際に取捨選択をしているはずじゃ。圧倒的なパワーとスピード、無尽蔵とも言える体力、吸血能力。それらメリットのみを引き出して、紫外線への極端な弱さや流水への強い恐怖といったデメリットは、まず間違いなく捨てておる」

「なんだ、それは。……ふざけている。まったくもって、ふざけている……」

 

 ズルい。生物としてあってはならないズルさである。

 しかしそれが彼の目的なのだろう。恐らくヴォルデモートはこの世に存在する全ての生物、その頂点に立つつもりなのだろう。実際にそうなれば彼の野望を阻むことなど、出来ようはずもない。未来永劫、世界は彼のおもちゃと化す。

 そしてその一端を担ったのは、誰あろうこのハリエットだ。

 ハリーは嫌な顔をして、青白い肌に黒い真ん中分けの髪型をしたハンサムを思い出す。爽やかで人好きのする笑顔を浮かべながら、それでいて一切の温かみを感じられない酷薄な男。

 その男が吸血鬼の能力を持つのか。あまりにも似合いすぎていて笑えない。

 

「じゃあまとめると、ヴォルデモートの奴は全盛期の力を取り戻した上に、吸血鬼としてのメリットを手に入れ、魔導の極地に至る『魔人化』を果たしているため魔力もほぼ無尽蔵に使用することができる。……こういうことだな、ダンブルドア」

「うむ。付け加えるならば、『死の呪文』を喰らっても生き延びる何らかの方法を確保していることも忘れてはならぬのう」

「……つくづく化物だな、あいつ」

 

 果たして勝つ方法は有るのだろうか。

 もし彼がただの人間だとしても勝利する確率は低いというのに、状況は絶望的である。

 更に彼ひとりが相手ではない。彼を信奉する死喰い人どもにもまた、彼に及ばずとも凶悪かつ強力な魔法使いや魔女がいるはずである。それらを乗り越え、ボスたる彼を殺害せしめねば、英国魔法界に未来はない。いや、彼の荒唐無稽なまでの残虐さを鑑みれば人類の存続さえ怪しいものである。

 ではいかにして彼を死に至らしめるか。

 それについては全く考えが及んでいない。これからあと何年か以内にその方法を見つけ出し、なおかつそれを実行可能な実力を手に入れ、そして奴を殺さなければ。

 どうしようもなくお先真っ暗である。

 

 あの夜、何があったのか。

 ハリーを心配しながらもシリウスが聞きたがったので、彼女はその詳細を口にした。まずは情報の整理も必要である。話すことで心の整理にも、なるだろう。

 六大魔法学校対抗試合、その決勝。

 巨大迷路の中でハリーは、セドリックを除いた代表選手たち全員に襲われることになった。ビクトール・クラム、フラー・デラクール、ソウジロー・フジワラ、ローズマリー・イェイツ、バルドヴィーノ・ブレオ。特に戦闘に長けた能力を持ち、かつダームストラングと不知火という出身校からして実戦経験もあるだろうクラムとフジワラが面倒だった。

 そしてそれらを脅威的な魔力と精密操作技術で『服従』させていたのが、ディアブロ魔法学校のバルドヴィーノ・ブレオ。

 彼が死喰い人であったことを話すとシリウスが驚き真偽を問うてきたものの、試合が終わって一週間も経っていれば調査もしてあるだろう。恐らくその結果を知っているダンブルドアによって首肯、その情報は肯定された。

 

「信じられん……。ブレオは、まだ十七歳だろう? 暗黒時代にはまだ幼児であったはずだ……。両親が死喰い人だったとでもいうのか?」

「いいや、彼に両親はおらん。ブレオ家はイタリア魔法界における純血の一家であり、英国でいう闇祓いに近い仕事をしていたようじゃ。両親は暗黒時代『事故に遭って』亡くなっておる。そんな両親を持った彼が死喰い人というのは……皮肉なものじゃ」

 

 そういえば彼は最後の最期に「ハリー」と、同じ名の誰かを呼んでいた。

 きっと何か事情があったのだろう。殺してしまった今となっては、知ることはできないのだが。そのあたりの事情も加えて話したところ、ダンブルドアは哀しそうな顔をして、シリウスは無言でハリーの頭を抱きしめた。

 確かに初めて人を殺してしまったが、あの状況では仕方なかったと思う。

 軽いトラウマにはなってしまうかもしれない。だがそこまで悲観する事でもないとは思うのだ。これからハリーは死喰い人たちと戦う以上、何人を害するのか分かったものではない。

 それにリトル・ハングルトンの墓場で何人の死喰い人を巻き添えで殺ったのか、わかったものではない。敵対した以上は殺すことに躊躇しない。いまは、それでいいのだ。

 ブレオを殺害した後、ハリーとセドリックはともに優勝するため、同時に優勝杯を握った。それがポート・キーとなっていたため、リトル・ハングルトンの村にある寂れた墓場に転移してしまったのだと。

 そこで行われたのは、ヴォルデモート復活の儀式。

 先述の材料を用いての儀式召喚により、全盛期のパワーと肉体、そして吸血鬼のメリットを兼ね備えた完全体のヴォルデモート卿が降臨したのだ。

 

「ワームテール……」

 

 シリウスが憤った、それでいて寂しそうな声を漏らす。

 かつて友情を共にした友人であり、しかしその実向こうはそんなことを露ほども思ってくれてはおらず、それどころか憎悪までしていた男。裏切りの張本人であり殺人の罪を着せてきた、複雑な思いを向けてしまうには十分な理由を抱える魔法使い。

 ここに至って再びハリーを傷つけ、あまつさえヴォルデモート復活の儀式を行った当人とあらば、やはり思うところがあるのだろう。しかしそれに触れてやるには、今のハリーにはどうすればいいのかわからなかった。

 

「あとは、知っての通りだよ。セドリックと共に逃げようとポート・キーとして設定されてた優勝杯を握って、空間を転移する、最中に、ヴォルデモートに割り込まれて、そして……、」

「もういい、ハリエット。そこまでだ。それ以上は話さなくていい……」

 

 優しく抱きしめてくれる彼の体温がありがたい。

 やはり平気だの気にしていないだの言っておきながら、ハリーの中においてセドリックの死はかなりのトラウマになっているらしい。ハリーはシリウスの背中に腕を回し、非力ながらも力いっぱい抱きしめ返す。

 一緒に優勝杯を掴もうと提案したのはハリーであり、つまり彼を死に導いた遠因はハリー自身なのだ。それに気づいたときは心臓がきゅっと縮みあがって、一瞬だけ自分を正当化する情報を探してしまったほどには、最悪な気分だった。

 しかし聞かなくてはならないことが、あと一つ残っている。

 ハリーはダンブルドアへ目を向けた。

 

「ダンブルドア先生。……ディゴリー夫妻は?」

「……ミスター・ディゴリーは仕事へ戻った。何かをしていなければ、気が休まらないのじゃろう。……、ミセス・ディゴリーは現在、聖マンゴへ入院中じゃ。最愛の息子の無残な姿を見てしまったのじゃ、無理もない……」

「……」

 

 それも、そうだろう。

 家族ではないハリーでさえこの調子なのだ。

 生まれた時から、いや、生まれる前からセドリックを愛しているディゴリー夫妻ならば、気が変になってしまっても不思議はない。後を追っていないだけ立派である。

 ここ最近ダンブルドアが妙に老けこんで見えることが多かったが、いまの彼は今すぐにでも老衰で亡くなってしまいそうな顔をしている。まず間違いなく心労だろう。世界最強の魔法使いと謳われながら腹黒い面を持つダンブルドアでも、本質はそこらへんにいるただの優しい爺さんだ。子供たちの手本たる教師であろうとし、そして他者が傷付くことを哀しむ男だ。

 教え子の一人が殺され、そしてその両親が嘆き悲しんでいる様をずっと見ていたのだ。その気持ちは察するに余りある。しかしその真の気持ちは、ダンブルドアにしか分からない。ゆえにハリーは、そこに挟む言葉を持たなかった。

 

「告白しよう、ハリー」

 

 ダンブルドアがぽつりと漏らした。

 罪悪感に溢れた、ひとりの老人の顔である。

 

「わしは怖かったのじゃ」

 

 老人の過ちであると彼は言う。

 滴る涙が銀のヒゲを濡らし、より一層彼の顔に刻まれた皺を際立たせていた。

 そこに居るのは世界最強の魔法使いでも、魔法魔術学校の校長でもない。

 ただ小さな子供に罪を告げる、ただの男がいた。

 

「きみのエメラルドグリーンの瞳が感情の高ぶりによってワインレッドに変わるたびに、君の瞳の奥にあやつを見た。怖かったのじゃ。君を殺さず、生かしたことで、君を通してあやつがわしを嘲笑っているような気がした。だからわしは、わしが出るべき場面で人任せにばかりしてきた」

 

 ハリーの紅い瞳が、ダンブルドアを見据える。

 心の中に怒りはない。だというのに、老人のブルーの瞳に映る自分の瞳は紅いままだった。

 

「君に出会って以来、君を避けていたのはこれが理由じゃ。老いぼれの失態を、許さなくてもよい。ただ、君に知っておいてほしかったのじゃ」

 

 彼女に老人へ返す言葉は、やはり持っていない。

 ただただ黙って、彼の言葉を耳に入れるしかないのだ。

 無力なのは、誰もが同じことだった。

 

「わしは、老いぼれじゃ。もう君達のような若さはない。だが君には、友がおる。大切な、心を許すことの出来る、かけがえのない友達が。君はひとりではない。ひとりではないのじゃ……」

 

 また一年が終わる。

 大広間へ向かえば、そこでは学期末パーティを行っているはずだ。

 そんな中でハリーは一人、ホグワーツの中庭に佇んでいた。泥のように濁った目を空に向ける。白い雲が流れるよい天気が見える。そこに何も感ずるところはない。ただただ、ひたすらに綺麗な光景が広がっているだけである。

 よくよく見てみれば、上空を白フクロウが飛んでいる。自分がヘドウィグを見間違えるわけもない。視線を向けたことで気付いたのか、彼女もハリーのもとへと舞い降りる。

 左腕に乗せ、喉をくすぐってやれば嬉しそうにホーと鳴いてくれた。それがなんだか嬉しくて、ハリーは静かに目を細める。薄く開かれた瞼の奥からは、真っ赤な瞳が覗いていた。

 ダンブルドア曰く、ヴォルデモートへの憤怒と憎悪が消え去らぬ限り彼女の瞳は戻らないだろうとのことだ。なんともはた迷惑な男であったが、よもやハリーが自信を持っていた数少ない外見的な自慢まで奪ってゆくとは、真に女の敵である。妄想でいくら殺しても殺したりない。やはりいつかは実際にこの手で殺らねばなるまい。

 暗い笑みを浮かべて陰気にフフフと笑っていると、ヘドウィグが何かに驚いたかのように飛び立った。その様子に片眉をあげて見上げれば、黒い和服を着た少女が目の前に立っていた。

 

「……」

 

 ハリーの目をじっと見て、そして何も言わずに隣に腰を下ろしてくる。

 それに対して何も言わないまま、ハリーは目を閉じて嘆息した。一人になりたかったのに、これではその目的も達せられない。いっそこの場から去るべきかと腰をあげたところ、ふいに肩へ置かれた手に体重を乗せられたせいで持ちあげた尻がまたベンチにつく。

 今度こそ何事かと思って見上げれば、豪奢な金髪をポニーテールにした少女が珍しく真面目な顔でハリーの瞳を見つめていた。笑えば快活な彼女も、真顔でいれば美人である。

 

「……、」

 

 それに対しても何の言葉も返さないハリーは肩の上の手を振り払うと、無理矢理立ち上がろうとして、またもや失敗した。今度は後ろから伸びてきた細い手に抱きしめられ、力尽くでベンチに座らされたのだ。

 憤懣やるかたなしといった具合に首を曲げて見上げれば、銀髪の美しい少女がにこにこ顔でハリーの顔を覗きこんでいた。眉間にしわが寄るものの、意地でも反応を返さない。

 

「…………」

 

 彼女からの親愛と信頼を感じる笑顔に、ハリーは直視する事が出来ずに目を逸らす。

 すると向こうには黒髪をポニーテールにした青年と、坊主頭のがっしりした青年が壁に背を預けてこちらへ視線を投げていた。そしてその二人の間からこちらへ歩み寄ってくるのはのっぽな赤毛の少年と、ふわふわな栗色の髪の少女。

 彼らから向けられる目は、何も言葉を発さずとも、ハリーからの言葉を待っていることが分かった。この一年間でもっとも接した時間が長いであろう者たちである。

 きっと学年末の、最後のパーティに行くために呼びに来たのだろう。しかしその集まりが楽しいパーティになるかは怪しいものだ。

 なぜなら、ここに居るべき人間があと二人ほど、足りないからだ。

 一人は目の前で亡くしてしまった。一人はこの手で奪ってしまった。

 左右に座る黒髪と金髪にがっちりと腕を組まれ、背後の銀髪に抱きしめられている状態では身動きしたくとも微動だにできない。いい加減鬱陶しさより怒りが湧いてきたハリーは、袖の中に仕込んだ杖を握って無言で身体強化を発動。魔力によってブーストを得た膂力をもちいて両側の二人を振りほどき、背の少女を無視して立ち上がる。

 その際に痛みを感じたのか、小さな呻き声が聞こえてきた。それを耳にしたハリーは一瞬だけ肩を震わせるも、無視して前に歩を進める。だが、またもやハリーの行動は妨害される。目と鼻の先にまで近づいてきた栗色が、ハーマイオニーがハリーを抱きしめたのだ。

 身長差で彼女の首に顔を埋める形になるも、今はひたすらに鬱陶しいだけである。

 いい加減いらつきが頂点に達したハリーは、ハーマイオニーに文句を言うため彼女の目を直視する。怒っているわけでもないのに紅く染まったままの瞳を見て、彼女が哀しげな顔をした。

 それですら鬱陶しく、ハリーの神経を逆なでする。

 

「……ひとりで行くよ」

「だめよ、一緒に行きましょう」

 

 ことさら冷たく言ったものの、彼女らが離れてゆく様子はない。

 ハリーの知っている友人たちがこの程度で諦めるような人間ではないことくらい、彼女は知っている。だから彼らを退かすならば、力ずくでやるしかないのだ。

 だがそれが出来るのかと問われれば、無理だと即答するしかない。

 自分自身の出自がヒトではなかったというのは、軽く受け止めるにはあまりにも酷な事実だ。気にしていない、と言えばそれまでだろう。しかしハリーとしては、そんなことは口が裂けても言うことはできない。

 人間ではないことだけは、もう変えようのない事実なのだ。

 そんなハリエット人形を受け入れてくれる者が、この中にどれだけいるのか。

 

「行きましょう、ハリー」

 

 そして恐らく、彼らのうち何人かはそのことを知っている。

 問題は、信用できるかどうか。

 ロンとハーマイオニーは大丈夫だろう、そう信じることができるくらいの信頼はある。

 残りの代表選手たちは、……どうだろうか。

 ハーマイオニーに腕を組まれながら、代表選手たちも含めた全員で大広間への道を歩んだ。

 大広間の席に着く頃には、もう誰もが黙りこんでいた。

 ハリーの座った場所には誰もおらず、結果的に代表選手全員とロンにハーマイオニーとユーコがそこに座ることになる。

 ダンブルドアは彼女たちの到着を待っていたようで、壇上からこちらを哀しげに見下ろしていた。

 それに視線を返すと、ダンブルドアは口を開く。

 

「悲しい、……知らせを告げよう」

 

 重苦しい声が大広間に響く。

 ダンブルドアの話となると鼻で笑うスリザリンの生徒も、今ばかりは静かだ。下品なヤジを飛ばす者など、誰ひとりとしていない。

 

「セドリック・ディゴリーは我等の友だった。優しくて勤勉で、誠実。誰へも公平に接する事のできる、正義感の強い青年じゃった」

 

 ところどころから、啜り泣く声が聞こえてきた。

 例年ならば寮対抗によって優勝した寮旗が飾られている天井からは黒い垂れ幕が存在し、その下で少年少女たちが涙している。

 

「彼が如何にして死を迎えたのか、わしは包み隠すつもりはない。魔法省はわしに口止めをしたいようじゃが、これを隠すことは彼への冒涜であるとわしは考えておる。だからわしは、わしと同じ悲しみと喪失感を抱く君達に、真実を伝えることにする」

 

 彼は本当に慕われていたようだ。同級生たちは当然として、上級生たちも、そして彼の世話になった下級生たちも悲しんでいる。ホグワーツ生だけではない、ボーバトンや不知火の者たちすら彼の死を悼んでいる。特にハッフルパフの者たちはその全員が彼と交流をもっていたようで、全員がさめざめと泣いていた。

 何も映していないような瞳で、ハリーはその光景を眺める。

 まるで心に穴が開けられたようだ。

 

「彼は殺されたのじゃ。ヴォルデモート卿によって、セドリックは害された。我々は友に同じ痛み、同じ悲しみを感じておる。例え国や言葉が違えども、我らの気持ちはひとつであるとわしは信じておる」

 

 ついに泣き崩れた女生徒がいた。

 チョウ・チャンだ。彼女の彼に対する愛情は本物だったのだ。

 友人たちが彼女の落ちつかせるために背を撫で、抱きしめる。愛する人を失った喪失感とはどのようなものなのだろうか。ハリーもいつか、それを味わう日が来るのだろうか。

 涙は出ない。

 嗚咽も漏らさない。

 代わりにハリーは、光を宿さぬ濁りきった瞳で、虚空を見つめていた。

 

「決して、彼の死を無駄にしてはならん。いま一度、彼をたたえよう。彼の誠実さと、優しさ。勇敢な彼の心を、君たちも受け継ぐように。素晴らしい生徒であった彼の事を、いま一度心に想おう」

 

 ダンブルドアの隣で燃えていたろうそくから、灯火が消える。

 それを合図にしたかのように、生徒たちから嗚咽が漏れ始めた。

 亡き友の名を呼ぶ者。よくしてくれた他国の友を想う声。各々がそれぞれのやり方で、彼の死という痛みを乗り越えようとしていた。

 

「セドリック・ディゴリーに祈りを」

 

 最後に放たれたダンブルドアの言葉が、妙に耳の奥に残った。

 

 

 中庭に集まった生徒たちが、思い思いに言葉を交わしていた。

 その多くは再会を誓い合う言葉だったり、愛のささやきだったりと、様々だ。

 ふとハリーは、何時の間にか隣に居たユーコとローズマリーに視線を向ける。今年はハーマイオニーと大喧嘩するという、これからの人生であるかどうかもわからない一大イベントがあったため、女三人でこの面子でいる時間が多かった気がする。

 幾分かハリーの目から険が取れているのか、ふたりの態度も柔らかい。

 ハリーからの視線に気づいたユーコが首をかしげ、ローズマリーがどうしたと声をかけてくる。さて、なんと言ったものか。

 

「……ディアブロのみんなは、大丈夫なのだろうか」

 

 ハリーのこぼした言葉に、ローズマリーが眉をしかめた。

 この中庭には、各校の生徒たちが大勢揃っている。その中には当然、イタリアのディアブロ魔法魔術学校の者たちもいるのだ。

 彼らの代表選手だったバルドヴィーノ・ブレオは死喰い人だった。ハリーが殺害したその死体を取り調べたところ、右腕にあった髑髏と蛇の刺青、つまり『闇の印』が見受けられたためにその罪が確定したのだ。

 よってディアブロの人気者だったブレオの存在は、彼らにとって悲しいモノへとなってしまった。だというのに、彼らはブレオの死を悲しみ、悼んでいる。反撃の末にハリーが彼を殺害したことはさすがに伏せられているようだが、人の口に戸は立てられぬもの。どこかれ漏れだしたのか、ハリーへ突き刺さる憎悪の視線も時折感じられた。

 だが大半は、純粋に哀しみ、その死を乗り越えようとしているようだった。

 

「どうだろうな。だけどハリー、おまえが責任を負う必要はないんじゃねえか」

「それは違う、ローズ」

 

 気遣うように言った彼女の言葉に、ハリーはぴしゃりと返す。

 その強い言葉に、ローズマリーは目を見開いた。

 

「ぼくは覚悟を持って、彼を害した。彼に関係する人間から受ける憎しみも怒りも、全部背負う覚悟をしたんだ。アイツとは違う」

「ハリー……あなた強いのね」

「強かったら、殺さずに済んだと思うんだよ」

 

 ユーコの言葉に冷たく返すハリーを、ローズマリーが抱き寄せた。

 周囲から見れば、仲の良い少女たちが抱き合って別れを惜しんでいるようにしか見えないだろう。不必要な諍いまで呼ぶ必要はない。

 ハリーの額にキスをして、ローズマリーは言った。

 

「これ、あたしのアドレスと、フクロウ便用の住所だ。何かあったら絶対連絡してくれ。ハリー、遠慮とかそういうのはナシだからな。あたしはお前に頼られたいんだよ」

「こっちは私の住所。フクロウ便だと日本まで届かないかもしれないから、電話番号も書いておくよ。シーズンオフだからクィディッチ選手は暇なのよ。だから連絡してよ」

 

 ぎゅっと手を握ると同時に、それぞれアドレスの書かれたメモ用紙を握らせてくる。

 いい友達だ。ハリーの事を慮ってくれているのが分かる。

 ダンブルドアによる国の垣根を越えて友情をはぐくみ、絆を造ってほしいという彼の願いはここに達成されているのだ。この様子を彼が眺めていたとするならば、きっととても嬉しげに微笑んでいたことだろう。

 時間だ、と言うようにソウジローがユーコの肩に手を置く。

 黒い詰襟の制服にマントを羽織った彼は、ハリーを一瞥して不知火の生徒たちが集まる方へと歩みを進めてゆく。その際に気障ったらしくハンドサインをして去っていったのは、彼なりのジョークだろう。

 

「またね、ハリー。きっと会おう、きっとだからね」

「……うん。またね、ユーコ」

 

 最後に力強く抱きしめてきたユーコと別れを告げると、セーラー服のスカートを揺らして走り去っていった。ローズマリーと一緒に彼女の後姿を眺めていると、ふいに真横から抱きしめられる。

 驚いて横を見てみれば、フラー・デラクールがにこにこと微笑みながら腕を回して熱烈なキスの嵐を降らせに来ていた。その向こうでは頬を抑えたロンがぼけっとした顔で突っ立っており、不機嫌そうなハーマイオニーが隣で睨みつけていた。こいつやりやがった。

 鬱陶しそうにフラーの肩を押して離れさせるも、それでもフラーは笑顔でハリーの手を取る。

 

「アリー。わたーし、またイギリスに来ます。英語が上手になりたーいので、絶対、ぜったーい、来ます。アリー、待っててくださーいね」

 

 美しい笑顔で熱烈にそう言う彼女は、本当に来年にはまたイギリスに来ていそうな勢いである。その目論見の先に何がいるのかは、ハリーは当然知っている。 

 どこかハリーに対して気遣わしげな様子も見られるので、それを和らげるためにもハリーは冗談めかしてこう言った。

 

「それは本当にぼくのためかい? ほら、牙のピアスをしたハンサムとかが目当てなのかなってさ」

「……もう! もう! アリー、あなーた意地悪です!」

 

 頬を朱色に染めて、ボーバトンの馬車の方へと走ってゆくフラーを見送る。

 太陽の光を受けてきらめくシルバーブロンドの髪を揺らし、振り返りながら彼女はこちらへ千切れんばかりに手を振った。とても美しい、そしてほがらかな笑顔で。

 

「アリー、さようなら。わたーし、あなたに会えて、本当によかった!」

 

 馬車の中に消えゆくフラーを見送っていると、クェンティン・ダレル校長がローズマリーの名を呼ぶ。グレー・ギャザリングの生徒たちも帰ってしまうらしい。

 それを受けて、隣のローズマリーがハリーに振り返る。そしておもむろにハリーの頭を引きよせて、自分の胸の中へと抱きしめた。ぎゅうっと強く力を込めるそれを、ハリーは振りほどかない。

 

「ハリー。おまえ無茶するんじゃねえぞ。大事な奴がいなくなるってのは、もう嫌だからな。親父んときみてぇな想いをさせてくれるなよ。絶対だぞ」

「……ローズ、心配し過ぎだよ」

 

 最後にハリーの胸に軽く拳をぶつけて、あっさりと身をひるがえして去ってゆく。

 その思い切りのよさは、実にローズマリーらしい。

 結局彼女は最後まで振り返ることなくアメリカ魔法学校の生徒たちの中へと消えていった。

 ふとハリーは、隣に背の高い偉丈夫が隣に立っていることに気付く。

 見上げてみれば、坊主頭の青年がこちらを見下ろしていた。クラムだ。

 ロンが彼を不機嫌そうに睨みつけ、ハーマイオニーが少し気まずそうに照れているあたり意中の彼女への別れの言葉は告げ終えているらしい。

 

「良い友を持っているな、ポッター」

「……そうだね。ぼくには勿体ないくらいだよ」

 

 にやっと笑ったクラムは、無言でハリーに右手を差し出してくる。

 ぎゅっと握るその力は、女性に対するものとしては強すぎるくらいだ。ただの少女ではなく、ライバルの一人として見てくれているのだ。ハリーもにやりと笑って、その手を強く握り返す。

 その後は彼がダームストラング魔法専門学校の生徒たちを率いて船で帰ってゆくらしい。聞けば、校長のカルカロフは姿をくらませてしまったのだそうだ。きっと彼が死喰い人であったことに関係しているのだろう。招集の時に姿が見えなかったことから、大方逃亡生活を送っているに違いない。

 最後に不敵に笑うと、世界最高のシーカーはそれ以上言葉を重ねず黙して去っていった。

 

「忙しい人たちですこと」

「ほんとだよな」

 

 ハーマイオニーとロンの二人がハリーの隣へやってくる。

 彼女らの言うことに間違いはない。あっという間に去って行ってしまった。

 ダンブルドアの望み通りに、彼らとの絆はしっかりと育まれている。

 ヴォルデモートとハリーには、強い因縁がある。彼が造りだした人造生命であるため、寿命の心配もある。一年生の頃ならいざ知らず、いまのハリーには十七歳かそこらで死ぬつもりなどさらさらない。とにかく、機能停止時期(タイムリミット)が分からない以上はこの数年のうちが勝負だ。少なくとも在学中にヴォルデモートから情報を聞き出し、そしてそれを解決するしかハリーに生き延びる方法はない。妊娠能力についての懸念もある。彼が何を思ってハリーが妊娠できるようにしているのかも解明しなければ、おぞましい未来が待っている可能性すらあるのだ。

 負けるわけにはいかない。来年には今年のように大量のイベントや、見知らぬ新たな友人たちもいない。ドラゴンだってコカトリスだっていないだろう。だが退屈することなど有り得ない。

 ホグワーツとは、魔法界とはもとより刺激的なことでいっぱいなのだ。

 

「ハーマイオニー、ロン」

「なに、ハリー」

「何だいハリー」

 

 空を飛んでゆく馬車に和風の城、潜水艦のように徐々に沈んでゆく巨大帆船に豪華客船、何機もの木製ヘリコプターといったそれぞれの学校の生徒たちを乗せた魔法具がホグワーツを去ってゆく。

 船達は沈み切り、その姿を水中へと消す。馬車と城は優雅に飛び去り、雲の中へとその姿を消した。ヘリコプター群は最後まで派手な騒音を撒き散らして、色とりどりのカラフルなスモークだけを残していった。

 新たな友人たちが去ってゆくのを見て寂寥感を感じながら、それらを眺めつつハリーは言う。

 

「来年はやることがいっぱいだ。悪いけど君らにも、手伝ってもらうぞ」

「なにをいまさら。もちろんよ、ハリー」

「君が嫌だと言っても手伝うぜ」

 

 ハリーの言葉に、頼れる親友二人はにっこりと笑って答える。

 彼女らがそう言うことを分かっていたように、ハリーも振り返って微笑んだ。

 うなじを隠すくらいに伸ばされた黒髪に、小柄ながらも女性的に発育した身体。スパッツの上にはスカートを穿いて、上は少し袖の余ったカーディガンに包まれている。長いまつげの奥には赤々と光る、ワインレッドの瞳があった。その瞳の理由をハーマイオニーらは知らないが、この後の帰りの汽車で教えてくれるに違いない。

 彼女たち三人の間に刻まれている友情は、そう信じられるほどには強固なものだからだ。

 

 キングズ・クロス駅へと向かう汽車の中で、三人は好き勝手にお喋りを楽しんでいた。

 こうしていると、不思議とあの時のことを思い出すのも苦ではない。事情を知らない二人にも知っておいてほしくて、ハリーはあの日あったことの全てを話すことにした。優しい二人のことだ、苦痛を感じるだろう。それを知らないままでいてほしいという気持ちもあったが、きっと黙っているほうが彼女らにとっては辛いに違いない。

 そう判断し、ハリーは二人に全てを話した。代表選手たちとの死闘、ブレオの殺害、ヴォルデモートの復活、死喰い人たちの集結、セドリックの死。そして、ハリーの正体。

 思った通りにロンは怒り狂い、ハーマイオニーはハリーの代わりのように嘆き悲しんだ。

 ヘドウィグの羽根を撫でながら、ハリーは話す。これからどうするべきなのか、ということを。とにかく最優先は、ハリーの生命に関することだ。

 ハーマイオニーは出来る限りの書物を読み漁って調べると言ってくれたし、ロンは両親の伝手を使って情報を引き寄せてみると言ってくれた。

 これほど頼れる友人たちはいない。ハリーは微笑んで、ふたりに心からの礼を言った。

 

「ところでハーマイオニー」

「なにかしら、ロン」

「ずっと気になってたんだけど、その趣味の悪い小瓶はなに?」

 

 ロンが指差したのは、コンパートメントに備え付けられた棚の上に置かれたガラス瓶だ。

 その中には一匹のコガネムシが入っており、暴れることもなくがっくりとうなだれているように見える。なんだか人間的な反応をしているようにも見えるが、虫けらごときにそんな高尚な感情があるとは思えない。

 問いを受けたハーマイオニーは、彼女らしからぬいやらしい笑顔を浮かべる。

 

「それは日刊預言者新聞を読めばわかるわ」

「くだらない新聞がどうかしたの?」

「ああロン、もうむやみにハリーを貶すような記事は書かれていないわ。というか、不自然なくらい何も書かれていないわ」

 

 自分を貶す記事が書いてあったことなど、まったく知らなかった。

 知らないところで自分の評判が下がっていたことに、ハリーは微妙な顔をする。もうちょっと新聞を読むようにした方がいいかもしれない。

 

「まあ、あなたの知らないところでもうひとつの戦いを私が繰り広げていたってことよ。ちなみに、勝者はこのハーマイオニー・グレンジャーよ」

 

 勝ち誇った顔のハーマイオニーに抗議するように、小瓶の中のコガネムシがぶんぶんと暴れた。それを冷たい目で見下ろしたハーマイオニーは、無言で瓶を手に取ると乱暴に振り回す。当然のこと、中で暴れていたコガネムシは大ダメージを負ってしおれてしまった。

 哀れに思ったが、ハーマイオニーの嗜虐的な笑みを見ていると何も言えなくなってしまう。ロンに至っては少し怯えているようにも見える。目で問いかけてみれば、あとで話すといった具合のアイコンタクトを向けられた。いったいどんな戦いを繰り広げたのだろうか。

 ハリーの分からない話題がひっこめられようとしたとき、コンパートメントの扉が乱暴に開かれた。その向こうに居たのは、スリザリンの生徒。スコーピウスとクライルだった。

 

「ほーう、やるもんだねグレンジャー。それじゃまたグリフィンドールの英雄様はヒーローになったわけだ。いや、悲劇のヒロイン様気取りの、って、ちょっと待て閉めるな! 僕がまだ話してるだろうウィーズリー! 無礼なやつだな!」

 

 閉じられかけたドアをクライルが抉じ開けて、スコーピウスが憤慨する。

 ドアを閉めようと踏ん張っていたロンが吹っ飛んでゆく様子を目の当たりにしながら、ハリーはスコーピウスの姿を見る。どうにも余裕のない姿だ。いつものオールバックも多少なりとも乱れているというのに、それを気にしている余裕もないらしい。

 並びの良い白い歯をむき出しにして、スコーピウスはハリーの眼前まで顔を近づけて言う。

 

「あの始まりの日に、入学式の夜にドラコが言ったはずだ。友達は選んだ方がいいってね! そういういうのと付き合っていると、いつか身を滅ぼすと! そう言ったはずだ!」

 

 必死な彼の言葉は、どこか上滑りしていて虚しく響く。

 髪を振り乱して、何かに対して怯えた顔でハリーに向かって叫んだ。

 

「こいつら! 穢れた血と、血を裏切る者! そんな奴らは、闇の帝王が戻ってきたからにはすぐさまやられる! 犠牲になるんだよっ! ドラコじゃない、僕たちじゃあない、そういうやつらが殺されるんだ! ほぅら、お優しいディゴリーがそれを証明してい――」

 

 室内で花火が暴発したかのような爆音が、コンパートメントに響いた。

 真っ白になった視界の中でハリーはあらゆる魔法式が散乱している様を目にした。

 思わず杖を抜き放ち呪文を撃っていたのは、ハリーとハーマイオニーとロンの三人だけではなかった。他のコンパートメントから話を聞いていた者たちもまた、杖を向けて呪いを放っていたのだ。

 しかし光で眩んだ視界が晴れてまず見えたのは、倒れ伏したスコーピウスとクライルではなかった。杖を振るって魔力反応光の残滓を消し去るドラコ・マルフォイの姿だった。

 周囲で怒りと驚きの声があがるものの、ハリーはそれら一切を無視して目を見開いた。

 

「ポッター」

 

 ドラコがぽつりと声を出す。

 その薄いグレーの瞳は、まっすぐ彼女を見据えていた。

 

「物言いに問題はあれど、愚弟の言ったことに間違いはない」

「そ、そうさ! 言ってやれドラコ!」

 

 調子に乗って兄の威を借るスコーピウスが、ドラコに睨みつけられて黙りこんだ。

 恐らくこれ以上調子に乗れば、次は護ってくれないからだろう。

 ハリーはドラコからの視線を真正面から受けながら、彼の言葉の続きを聞く。

 

「帝王が復活した。そうなったからにはグレンジャーのようなマグル出身の魔法使いや魔女にとっては暗黒の時代になるだろう。それはお前も分かっているな、ポッター」

「……それがどうした」

 

 ぶっきらぼうにハリーが返せば、ドラコはそれを鼻で嗤う。

 それに腹を立ていきり立ったシェーマスが杖を向けるものの、ドラコの杖が閃いてシェーマスの杖が吹き飛んでいった。無言呪文の行使による武装解除だ。注視していなければ見逃していただろう。

 目を白黒させるシェーマスやディーンを放置して、ドラコは再びハリーに話しかけた。

 

「なに、分かっているのならいいのさ。君の力で、君の周囲の人間を、どれほど取りこぼさずに済むか……、じっくりと観戦させてもらうぞポッター」

「……それは、忠告のつもりか?」

「好きに受け取るといいよ。それじゃあなポッター、新学期に会おう。生きて会えたらね」

 

 言いたいことだけを言うと、ドラコはさっと身を翻してコンパートメントから出ていく。

 それに置いていかれそうになったスコーピウスが情けない声を出しながら、クライルを引きつれて兄の後を追う。去り際に、ハリーに向けてまるで親の敵のような目で睨みつけてきたスコーピウスの瞳が、随分と印象に残った。

 ドラコ・マルフォイの、挑発しに来たのか警告しに来たのか、わけのわからない言動に首をかしげながら周囲の面々は渋々といった具合にそれぞれの席へと戻っていった。セドリックを侮辱しようとしたスコーピウスに制裁を与えてやれなかったことが、みな不満なのだ。

 そんな中で席に残ったウィーズリーの双子達が、弟を押しのけてハリー達のコンパートメントに居座る。いったい何事かと思いきや、悪戯商品についての相談だったようだ。

 

「なあハーマイオニー、我らが秀才、可愛い子猫のハーミーちゃん」

「なによ気持ち悪いわね」

「辛辣だな! 僕たちは君の豊富な知識を頼りにしに来たっていうのに!」

 

 あからさまにハーマイオニーをおだて始めた二人の思惑は、なんとなく察せられる。

 悪戯商品の開発に難航しており、その材料などに心当たりのありそうなハーマイオニーを頼りにしに来たのだろう。しかし上手いものである。ハーマイオニーの自尊心を的確にくすぐる言葉選びを繰り出し、彼女の真面目で厳格な規則守りの精神を打ち崩しているのだ。

 モリーおばさんが彼らの将来のために阻止すべきは、悪戯専門店の開業ではなくナンパ師になることかもしれない。彼ら二人のためにも、世の女性のためにも。

 

「それで? ヒトの精神を麻痺させる植物だなんて、いったい何に使うおつもりかしら」

「「適度な発熱湿疹を誘発する『ずる休みスナックボックス』さ!」」

「正直でよろしい。では教えてあげるわ、……なんてこと! 言うと! 思ったかしら! あなた達が後輩たちを使って実験してるのは知ってるんだからね! もし来年私が監督生になったら、あなた達の悪行を阻止して見せるわ!」

「「おおっと、怖い怖い! んで、植物の名前は?」」

「教えるもんですか!」

 

 三人のやり取りに、悪戯グッズに興味のあるロンが加わって大騒ぎする。

 先程までの殺気だった空気が、まるで嘘のようだ。ロンが加わったことによって、一気にハーマイオニーの形成が不利になる。惚れた者の負けだ、いいところを見せたくなるのは仕方のないことだろう。何だかんだ言っていつもロンに宿題を見せてしまうところから、彼女の陥落は時間の問題とみた。

 後輩の犠牲者を増やすまいとして必死に抵抗するハーマイオニーが、助けを求める顔でハリーを見る。しかしハリーは、それに対してウィンクして知らんぷりを決め込んだ。

 親友に裏切られたハーマイオニーは、言葉巧みに聞き出そうとしてくる双子と、下手な話術を使ってくるロンの相手に戻らざるを得なかった。

 ぎゃーぎゃーと大騒ぎする彼らの様子を、ハリーは楽しげに眺める。

 いま必要なのはきっと、こういう光景だ。ドラコの言う力でもなく、笑顔にさせてくれるもの。帝王の復活によって心が荒む時代になると言うのならば、なによりもそれが必要ではないか。

 きっとそうに違いない。こんな時代だからこそ、楽しく笑うべきなのだ。

 ハリーは再びこちらに向けられた助けを求める視線を受けて、仕方ないなと笑って助勢に入るのだった。

 




【変更点】
・ハリーの大人たちへの信頼度がた落ち。
・ダンブルドアの秘密主義が少し緩和される。
・ハリーの謎と、タイムリミットが追加。悩め若人。
・ハリーの瞳の色が変化。
・ドラコの忠告(意味深)。

大変遅くなりました。
まず、前話において致命的なミスを行っていました謝罪をば。赤ん坊ハリー少年は、お辞儀様の死の呪文を受けた時点で死亡しております。だから魂が抜けていたのですね。それを「泣き叫んでいた赤ん坊が残った」と書いたせいで、何故生き残っていたのかということになりました。死んでいれば、愛の守護は切れているのでお辞儀憑依も出来たということです。誤解を招いてすみません。
さて、今回で炎のゴブレット編は終わりです。多くの仲間を得て、貴重な仲間を失ったハリエット。次回からは不死鳥の騎士団……原作でもハードモードになっていく巻です。
頑張れハリエット、幸せを掴み取るのだ。

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