8月11日。
またこの日、この時間に戻ってきた。
今までは、この終わることのないループの始まりの日に嫌気がさしていたものだが、今は違う。
携帯を開き、時間を確認する。
14時27分。
『捕食事件』の現場まではおよそ1時間半ほど。
事件が起こるのが夕方だったはずなので、ちょうどいいだろう。
ソファーの上、PC前の椅子、開発室にそれぞれ肉塊がうごめいている。
俺は誰にも悟られないように静かにラボを後にした。
「ここか……」
『捕食事件』の最初の事件現場である家へとたどり着いた。
時刻はまだ夕方に差し掛かろうかという時だ。
中には誰かがいる気配がする。
捕食される肉塊たちだろう。
しばらく逡巡した後、家から少し離れた自動販売機の横に腰を落ち着ける。
さて、どうやって彼女に会おうか。
彼女は人に会うのを避けていた。家の周りをうろついていたら逆に会えなくなってしまうのではないだろうか。
いやしかし、人を避けるようになったのは警察から追われてからでは?
ただ、彼女の姿のこともある。
特に事件前後になにがしかを発見したという噂もない。
やはり、捕食直後に現場で会うのが一番だろう。
事件も翌朝まで発覚しなかったのであれば、誰かに見とがめられる心配もない。
そうと決まれば後は待つだけ。
心の高まりから喉が渇いたが、自動販売機から何かを買うのはためらわれた。
以前、ドクペらしきものを飲んでみたが、それはもうひどいものだった。
汚水を強烈な炭酸でブレンドしたような。
即座に吐き出し、二度と飲まないと決めた。
また、ただの水でもそれなりに不快な味わいなのだ。
喉の渇きよりも精神の安定を取り、ただひたすら家を注視する作業に戻った。
「……っ……」
ん?
今人の声が聞こえたような。
人の声。
気づき、思わずに立ち上がる。
人だ。
彼女だ。
駆け出したくなる欲求を抑え、周りを確認してみる。
肉塊はいない。
どこからか見られている心配もない。
それでも慎重を期して何気ない風を装いながら玄関まで足を進める。
玄関の前。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。
鍵はかかっていない。
鼓動が早くなる。
呼吸が荒くなりそうになるが、平静を装うため我慢する。
「……失礼します」
バタン、と中から大きな音がした後、何も聞こえなくなった。
声を掛けたのは失敗だったろうか。
ただ無言で入って、いきなり殺されてはたまったものではない。
殺される。
不意に、今まで殺されてしまうことを考えていなかったことに気付く。
だが、そんなもの。
彼女に殺されるのだったら、それもいいかもしれない。
この地獄の世界が終わるのだ。彼女の手で。
そんなことを思いながら足を進める。
「あのー……すみません」
トタ、トタと自分の足音だけが静かに響く。
無音の家。
それは生物の生活音が全くない、死んだ空間だからだろうか。
彼女も気配を押し殺してこちらの様子をうかがっているのかもしれない。
つばを飲み込み、少し大きな声で相手に呼びかける。
「俺はあなたに危害を加えるつもりはありません」
ピクリと、身じろぎするような気配があった気がする。
もうひと押ししよう。
「俺は、あなたと話がしたい。人と……話してみたいんだ」
右奥から、またも物音がした。
右奥はリビングだろうか、そちらのドアをゆっくり開ける。
開いてすぐ、緑の液体と不思議な果実が目に入る。
初めて直接見た。恐らく、ここの住人の死体だろう。
きれいなものだ。
なるべく踏まないようにして歩を進める。
するとソファーの奥から人影がでてきた。
それは紛うことなき『人』だった。
「あなたは……私に乱暴しない?」
鈴のなるような涼やかな声。
腰まで伸ばした美しい髪。
天使が顕現したような神々しい顔で。
不安げにこちらを見上げていた。
「あ……ああ……俺はそんな野蛮なことはしない」
見とれたせいで少し戸惑ってしまった。
気恥ずかしい。
「ただ……俺は話がしたかったんだ……唯一、人に見える君と」
真っ直ぐ彼女の目を見て告げる。
心からの声だった。
俺はただ純粋に、それだけを願ってここに来たのだから。
「怖く……ないの……?これ……あたしがやったんだよ……?」
「いいや、まったく。肉塊がいくら壊れようが知ったこっちゃないな」
彼女はひどくおびえた様子だった。
それがかわいそうに思えて、なるべくこちらの心情が伝わるよう明るい声で答える。
「それに怖いどころか、その……かわいいと思うぞ」
さらに一言付け加える。
すると彼女は驚いたように目を見開きこちらを見る。
何となく恥ずかしくなって、目をそらしてしまった。
かっこつけたセリフをあまりいうものじゃないな。
「なんか君って……変わってるね」
彼女はそういってはにかんだ。
俺も自然と笑みがこぼれる。
緑色の静かな空間の中、俺と彼女は微笑み合った。
「あーところで……君は名前はあるのか?」
「もちろん!でも、名前を尋ねるときはまず自分から、だったっけ?」
「そうだったな……俺は鳳凰い……いや、岡部倫太郎だ」
あやうくクセで真名のほうで名乗るところだった。
しかし、クセとは。
人に名乗ることなど何百日以来だというのに。
「おかべ……りんたろう……うん、覚えた!あたしはねぇ、沙耶っていうんだ!」
「沙耶……沙耶か……いい名前だな」
「倫太郎もかわいくていいと思うな♪」
「かわいいってのはよしてくれ」
微笑み顔で俺をからかう沙耶に苦笑気味で答える。
心の氷が解けていくような感覚がする。
こういう日常を、俺は求めていたのだ。
「あー……しかし、ここはお話をするにはあんまりいい場所じゃないようだが」
「そうだねー。ここの人たち殺しちゃったから、警察がきちゃうね」
なんでもないことのように俺と彼女は話をする。
実際、肉塊がいくつか散乱しているだけなのでどうってことはない。
少し、面倒なだけだ。
「じゃあね、ここの近くに空き家があるからそこで落ち合わない?あたしの隠れ家なんだ」
「いいな。そうしよう。ああ、落ち合うのはここの人たちを食べた後でいいからな?」
そういうと彼女は再び驚いた顔を見せる。
そしてにっこりと微笑み、答える。
「ありがとう、倫太郎。優しいね」
「……どうってことない」
やはり気恥ずかしくなって顔をそむけてしまう。
彼女の笑顔はどうにも毒気を抜かれるというかなんというか。
とにかく、胸の奥がこそばゆくなる。
彼女に空き家までの道を聞いて、その屋根裏で待機することにした。
「待っててね、倫太郎♪」
「ああ、待ってるよ沙耶」
家から出て空き家に向かう。
その道中で俺は、沙耶の捕食シーンを夢想していた。
きっと緑の果実で口を濡らし、可愛らしく食べていることだろう。
味の評価を聞いてから、俺も口にしてみるのもいいかもしれないと考えていた。