下顎に迫った抜き手を半歩下がってよける。するりと抜けたその手は、しかし形を変えて今度は首を薙いできた。瞬発的に腕を振り上げ、首を守る。接触。まるで重い金属同士がぶつかり合ったような衝突音がリングに響く。一瞬もおかず鳩尾へと蹴りを放つも、小さな体はブリッジのように上体をそらして攻撃をかわす。そのままバク転の要領で距離を取られた。あれほど歓声と怒声で盛り上がっていた観客席も、今では水を打ったかのようにシンと静まり返っていた。響くのは俺と対戦相手の戦闘音のみ。実況することが仕事のアナウンサーも、話すことを忘れてしまったかのようにリングにくぎ付けになっている。
後でレアに聞いてみたところ、観客の半数にとってこの試合は、小休止のようなものだったらしい。天空闘技場190階。200階一歩手前ということもあり、修羅場を潜り抜けた本物の猛者たちが戦いあう決戦場。そんな戦場に、まだ十にも達していないかのような子供と、引き締まってはいるが細い体に帽子とサングラスで顔を隠した怪しい風体の男が紛れ込んできたのだ。場違いだ、と感じる者達がいてもおかしくない。この試合で存分に罵詈雑言を消費し、すっきりとした気持ちでこの後の素晴らしい試合に備えよう、と。そんな軽い気持ちでこの試合を見ることに決めたらしい。
だが、どういうわけか二人の選手は見事に戦い抜いている。普段の190階の試合と比較しても何ら遜色ない、それどころか頭一つ飛び抜けている。子供の方は消えるような速さで的確に人体の弱点を狙って抜き手や足を放ってくる。攻撃の瞬間は観客の視線から完全に消え去っている。
対して細い男の方は、子供ほど素早いというわけではない。時折ぶれて見えることはあっても、動き自体にはついていける速さだ。
だが、その動作は洗練されていた。武術の極みのような動きではない。野生そのものというかのような、獣を思わせる本能的な動き。型も何もない、だがまったく無駄な動作を見いだすことができない。その動作は獲物を仕留ようとする狼を思わせた。
もはや疑う余地もない。この試合は超一流の試合であると。今では彼らは驚愕と興奮を持って、この試合に臨んでいた、とのこと。
だが、驚愕しているのは俺も同じだ。
「……おにーさんさぁ、いい加減本気でやってくれない?だんだん、イライラしてきたんだけど」
目の前の銀髪少年はむすりと機嫌が悪そうに言う。ポーカーフェイスを決め込みながらも、内心どうしたものかと困惑していた。
なにせ目の前の銀髪少年、キルア君だと来たものだ。ファミリーネームがゾルディックだというあたり、間違えようがない。そういえば親父さんに天空闘技場(ここ)に放り込まれたとかいってたっけ、そうかこの時期にここに来ていたのか。今の今まで忘れてた。
一目見たときは子供が天空闘技場の上層にいることに驚き、アナウンサーに名前を呼ばれて二度驚いた。そして驚いたまま試合が始まってしまったのだ。
「へぇ、無視とかしちゃうんだ。」
黙っているとキルア君の機嫌がいよいよ悪化してきた。声が平坦になっている。更に両手が軋むような嫌な音を立てて変形してくる。いやいや、暗殺モードとか洒落にならない。確かに手は抜いていたが、真剣に戦っていたというのに。
だが、弁解する間もなくキルア君が突っ込んできた。今までで最高の速度。襲い来る両の抜き手はきっちり心臓を狙っている。話をしても聞いてくれそうにない。仕方なく、その変形した手をするりと掴む。何やらキルア君は目を見開いているようだったが、かまわず手に負担がかからないよう投げ飛ばした。キルア君は宙高く飛んでいたが、猫のように体を回転させて着地した。また突っ込んでくるのかと思ったが、彼はひどく驚いた顔でこちらを見てきた。少しの間その状態が続き、ふと、彼は顔を緩ませた。
「まいった」
そのまま敗北の宣言をした。周囲が唖然としている間にキルア君はリングを降りてしまった。
『……あ!き、キルア選手、唐突!唐突な降伏宣言です!よって勝者はフェル選手!フェル選手です!』
今更なアナウンスを聞きながら、俺は審判に手を掲げられた。
「まっさか、キルアと出会うとはねぇ」
今や行きつけとなったレストラン。レアはどこか楽しそうにカレーライスを頬張っていた。賭けていた金が2億を突破したそうだ。よく見れば服も前よりいいものを着ているように見える。
「俺も驚いたよ。この時期にココに来てたんだな」
「私も自分のことばかり考えてて忘れてたわ」
割とどうでもいい雑談を交わしていると、そういえば、とレアが切り出してきた。
「フェルはこれからどうするの?200階からは賞金でないみたいだけど」
「何戦かは戦ってみるつもりだよ。ここに来たのは戦い方を学ぶためでもあるから」
人相手の戦い、人の戦い方。ポチと戦うだけでは得られない経験を得るために、ここに来た。もちろんお金を稼ぐためでもあるが、金は必要な分だけあればいい。貯金がたまり金を稼ぐ必要がなくなったので、これからは戦闘訓練に集中できる。残念ながら180階までの試合はほとんど役に立たなかったが、キルア君のような戦い方をこの目で見れるのなら200階から先は期待していいのかもしれない。
「ふぅん」
「……もしかして、また俺に賭けるの?」
何事かを考えていそうなレアに、聞いてみた。
「いや違うわよ。200階から先は賭けてもどうなるかわからないし。そうじゃなくてね」
そこでレアは、ひどく真剣な表情で俺を見てきた。
「もし、もしよ?あなたが良ければなんだけどさ」
一呼吸置き、レアは頭を下げてきた。
「私に、念を教えてください」
「……ええと」
急な頼みごとに驚いていると、レアはゆっくりと話し出した。
「無理な願いだというのは分かってる。だけどね、身元のない私が生きるには、やっぱりお金だけじゃ難しいの。だから……」
「いや、念を教えるのは問題ないんだけど」
そういうと、レアはぱちくりと目を瞬かせた。
「……へ?」
「ただ、何かを人に教えたことなんてないから、ちょっと戸惑っただけ」
そこまで言っても、レアは呆然としたままだった。
「ただまぁ、俺が教えてばかりというのもなぁ。レアって何か勉強できる?」
「……数学なら少しは。これでも前世は教師だったし」
「……そうなの?」
てっきりレアも俺と同じような学生だと思っていた。
「じゃぁさ、レアが俺に数学を教えてよ。それで、俺がレアに念を教えるのと対等ってことにしよう」
「いえ、教えてあげるのは構わないのだけど……」
レアは困惑したような表情を見せた。
「……念の対価が数学って、どうなのよ」
「俺は別に気にしないけど」
そういうと、何が納得いかないのか、レアは唸り始めた。互いにものを教え合うということで対等だと思ったのだが、何が気に入らないのだろう。
しばらくして、ようやくレアは顔を上げた。心なしか、少しばかりヤケクソの気がする。
「……OK。それで行きましょう」
「ん。それじゃ、これからもよろしくってことで」
レアとがっちりと握手をした。何故かレアは俺の手を力いっぱい握りこんでいた。