この森は非常に深い。人の手の入った様子がないからどれだけこの森が深いのだろうと思い、ポチに乗って散歩して見たりしたのだが、丸一日かけても森の外側に辿り着けなかった。どれだけ広い森なのか。
散歩ついでに円の訓練をしてみたのだが、野生動物はいるものの視界に入った途端に皆逃げ出してしまった。我先にと逃げる様は、滑稽を通り越して俺を落ち込ませるのに十分な光景だった。偽熊事件から大分時間が経っているというのに、今だに怯えているのだろうか。勘が鋭いってもをじゃない。今度散歩する時は絶をしてやるか、と遠い目をしつつ、その日はポチとじゃれあって過ごすのだった。
それにしても、ポチも大きくなったもんだ。もう体長5mはあるんじゃないだろうか。組手の時も身長の格差を利用してごり押ししてくることが多くなってきた。デカイ、ハヤイ、オモイと三拍子揃ったポチの攻撃をまともに食らったら、ダメージいかんにかかわらず吹き飛ばされてしまう。そしてこちらの攻撃は面積が小さく、あてても大したダメージにはならない。結局黒目玉で先読み、攻撃を避け続け、隙があれば攻撃することに終始し、どちらかのオーラが尽きるまでの体力勝負になってきた。一回でもミスすれば負ける、というプレッシャーは黒目玉の能力を飛躍的に向上させるのに役立ったが、こちらの攻撃が通らずに相手の攻撃ばかりを避け続けるのはマッハでストレスが溜まっていく。何か面積の大きい攻撃方法が欲しい。人間相手ならともかく、今のポチを相手にするのは生身で象を殴るようなもので、不毛であるという印象が拭えない。そんなわけで、もう一つ能力を作ることにした。
いろいろ考えてはみたが、二つ目の能力はシンプルにいくことにした。纏で纏い、練で練ったオーラを『触れる』という性質に変え、オーラを巨大化した拳や脚の形へ変えるというもの。
系統としては変化系と具現化系の中間あたりの能力だと思う。具現化系で作るには人間の手足は複雑で、さらに言えばそこまでして手足を模倣する意味もない。それにこのイメージならこめたオーラの量で拳や脚の大きさも調節するという狙いもある。
黒目玉と違いシンプルなイメージで作ったので割とあっさり能力は出来た。これでポチ相手でも殴り勝てるぞ!と意気込んでみたが。
実際に戦ってみたところ、壮絶な打撃戦になった。
まだ能力は出来たてで制御が甘かったのもあるが、とにかくこちらの攻撃に対してカウンター気味にポチが攻めてきたのだ。面の攻撃に対し必要な分だけ硬でガードし、近づいてきた俺にでかい牙で噛み付いてくる。黒目玉で先読みし巨大化で牙を防ぎ蹴りを放つと前脚でガードされ、それを読んで追撃し……
強化系が戦闘でバランスがいいとはよく言ったものだ。純粋に、地力というか力で勝り、傷を受けても徐々に回復される。こちらの利点を押し付けなければまともに戦うことも難しい。
結局は能力を作る前と変わらず、拮抗したままの組手で終わった。しかし久しぶりにポチと殴り会えた気がした、サッパリとした組手だった。
森での生活は、悪くない。それどころか、ポチがいるため非常に充実したものだ。このままポチとここで一生を過ごすのもいいかも知れないと、と思い始めていた。
……後に思い出す。そして、後悔する。ずっと一緒にいたいと考えたこと。そして思考することから逃げたこと。俺は、どうしようもなく甘かったということを。
・
念の能力はイメージに多大な影響を受ける。具現化系はそれが特に顕著に現れる。何せイメージ通りの物質を念で作り出すのだ。きちんと想像出来ていなければ念は形になってくれない。
さて、俺が、念獣の黒目玉を作った時、イメージしたのは某心を読む妖怪だ。観察する、という点で読心はその極致のように思えたからだ。
そして凝の強化として使っていた念が、円も強化出来るようになり。
そして、視力すらも強化され。
『父さん、闘おう!』
いつの間にかポチの心の声が読めるようになってきた。
イメージが本当に大切なんだなとか何故父さん呼ばわりなのかとか、尻尾を振りながら巨体が身を摺り寄せる様は中々な恐怖だとか、色々言いたくなるのだが。
「……じゃ、やるか!」
『うん、うん!』
そんな言葉を飲み込んで組手を選んでしまう時点で、俺たちが戦闘狂なのは間違いなかった。
そして、長くも楽しかった、充実した時間を過ごし。
考えないようにしていた、しかし心のどこかで恐れていた日がやって来た。
きっかけは、些細なことから。組手の時、動きか少し鈍いなと思ったのが始まりだった。次の日、攻撃に精彩が無くなって来た。ゆっくりと、ゆっくりとポチの動きは悪くなって行き。
そしてもう、ポチは満足に、立つことすら出来なくなっていた。
身体の筋肉は、始めて会った時のようにやせ衰え。もはや呼吸すらもが苦しそうで。
ポチは老いて、寿命を迎えようとしていた。
「なぁ、ポチ」
『なぁに?』
聞こえてくる弱々しい思念に叫びそうになりながら、ぐっとこらえる。
「俺さ、ずっとお前といられると思ってたんだ。一緒に修行して、一緒に飯を食って。ずっとずっと、一緒だと思ってた」
頬を熱いものが伝わる。言葉は、止まらない。
「永遠だと思ってたんだ。こんな時間がずっと続くって、信じたかった」
一番初めに考え、保留していたこと。途中からは考えるのが怖くなり、逃げ出していたこと。
「……どうして」
俺は。
「どうして俺は、お前と一緒に歳を取れないんだっ!」
人間ではなく、化け物だった。
ポチが、成長していく傍ら。ふと気になって、湖の水を覗き込み。
怖気が走った。髪の長さは違えど、この世界に来て覗き込んで見た顔と、何ら変わっていなかった。
以来、自分の顔を見なくなった。考えたくなかった。ポチが、成長し、周囲の風景すら微細に変わって行く中、俺だけが時間から切り離されていた、なんて。
そして。考えることから逃げ出したツケが。今、回ってきた。
「俺は、俺は、俺は!」
意味のある言葉が出てこない。悲しみ、絶望、負の感情が絶え間無く心を浸す。
「……いっそのこと」
一緒に生きることが出来ないなら、せめて。
一緒に死んでしまえれば。
そんな暗い感情が体を包み。
思い切り、頭をはたかれた。
「……え?」
何が起こったか分からず、振り返ると。
ポチが、しっかりとした二本脚で、こちらに唸っていて。
『ダメ、ダメ、絶対にダメだ!』
ようやくポチの心の叫びに気が付いた。
「お前、その体は……!」
ポチの体は、老衰でくたびれていた。それが今は、まるで最盛期の時のように立派な身体になっている。
だから、気づいた。
「やめろポチ!お前、残りの寿命をっ!」
『知らないっ知らない!』
ポチは、残りの命を全て、この瞬間に燃やしている。
『嫌なんだよ!父さんが死ぬのも、父さんのそんな顔を見るのも!……だから!』
そして、ポチは。
『やろう、父さん。最期の、修行を!』
いつもやっていたように、いつものように。組手の構えをとって見せた。
「……あは、は」
いつの間にか、笑っていた。相変わらず涙が止まらなかったが、強引に拭い去る。
「馬鹿だよ、馬鹿だ。俺も、お前も」
言って、口を固く結ぶ。これ以上、泣かないように。全力を出して、ポチに向かうために。
互いに構え、互いの時が止まる。そして、風が二人の間を通り抜け。
「はぁぁぁあああ!!」
『あぉぉぉおおん!!』
全力の咆哮が、森中に木霊した。
『ねぇ、父さん』
『僕がいなくなってもさ』
『父さんなら、絶対に大丈夫だよ』
『森から出ても、生きていける』
『僕がいなくても、生きてるから』
『だからさ、もし、また僕と会えたらさ』
『父さんの話を聞きたいな』
『森の外はどうなってるのか』
『父さんは、何を感じたか』
『聞かせて欲しいな』
『それじゃあ、父さん』
『最期は、笑顔で』
『バイバイ』
森を抜けるのに3日はかかった。その先は広い広い平原になっていた。
途方もなく広い世界、だがそんなもので挫けるほど、俺の心は細くない。
(行ってらっしゃい)
思わず、振り向いた。聞こえるはずのない声が、聞こえたような気がして。
もちろん、ポチはいなかった。薄暗い森が見えるだけだ。
だが、俺は胸に手をあて、笑顔で行った。
「行ってくる、ポチ!」
そして。
平原への一歩を踏み出した。
第一章終了。