火星の生存者、イネス・フレサンジュは科学者である。
彼女は相転移エンジンとディストーションフィールドの開発者だ。
開発だけではなく、ナデシコの基本設計をした紛れもない天才。
理論研究から開発、実用化まで手がけ、彼女の手は余りにも長い。
ナデシコの性能的限界を誰よりも知るのは彼女に違いない。
性能を知っているからこそ、彼女は一つの残酷な結論を下した。
エステバリス経由で通信を取り、救助の手筈を整えた俺たち。
予定位置に着陸し、そして避難民を待ち構えていたナデシコに。
実際に姿を出してきたのは、テンカワさんと彼女だけであった。
ナデシコ一艦では木星トカゲには勝てない。
そう結論付けた彼女はナデシコに避難しないとハッキリ告げた。
避難民の纏め役である彼女の方針、それと違うものはないようだ。
火星に生存し、誰よりも木星トカゲの戦力を見てきた。
ナデシコの限界も知っている、だからこそ彼女たちは乗らない。
彼女の知っている情報からすれば、その選択肢は取りえない。
火星の生存者、イネス・フレサンジュは科学者に過ぎない。
幾ら彼女が優秀でも、彼女は軍人でも現場の技術者でもない。
ましてやこの場においては避難民であり、救助者ではない。
作ったものがその性能を知るのは当然だが、運用は違う。
運用をするのは現場にいる軍人と技術者で、科学者ではない。
ナデシコは民間人多めなので、軍人とは言葉の綾だけど。
現場にいる人間にとってはその場にある兵器だけが全てだ。
例え高い性能を持っていても、性能通りに動くとは限らない。
寧ろもっと酷い条件の中で、あるもので戦うことしかできない。
一艦では多数に勝つことが出来ないのは、当然のことである。
そんな当たり前かつ判りきったことを今更言われても逆に困る。
戦って勝つなんて前提はナデシコには当初より存在していない。
一艦であるからこそ、真っ向から勝負する必要がない。
機動力で翻弄し、時々ぶっぱし、適当な所で切り上げて逃げる。
相手が無人兵器でそこまで柔軟でないから取りうる戦法だ。
ナデシコの性能を活かしきれる人材を集め。
ナデシコの性能が落ちるより早く救助を達成し。
色々なボロが出る前に全てを終わらせる。
今回だって、そうだ。
まともに戦っていられないから、さっさと終わらせて逃げる。
その戦法を活かしきるだけの要素はそれなりに揃っていた。
艦長の判断は出来うる限りの最速と言って過言でないし。
ゴートさん主導の避難案内と生活班の準備にも大きな粗はない。
ただ、勿論足りないものが幾らでもあるのは事実ではあった。
戦力はともかく、避難民の状況や感情、木星トカゲの情報。
「あなたたちは木星トカゲの何を知っているの?」
そう言ったイネス・フレサンジュの言葉は間違ってはいない。
しかし、それはそれこれはこれという素敵な言い回しがある。
この際、木星トカゲの正体だとか目的の情報は必要がない。
目の前で銃口を向けてくる相手に、自己紹介はいらない。
取り敢えず必要なのは、どうにかして安全を確保する方法。
色んな理屈とかは後から考えて、知ることでしかない。
寧ろ相手の情報なんて、その方法を作る手段にしか過ぎない。
――ああ、まあ所謂ブーメラン、全体攻撃である。
結局彼女の視点から、ナデシコが安全に見えないのは事実。
実際安全ではないからこそ手段を限定されているわけで。
ただナデシコ側から見れば、彼女のその視点で策が潰れた。
最速で、というのは最初に彼女だけの時点で既に終わっており。
彼女の話で避難民の協力が望めないと判った時点で全て終了。
無理やり乗せる準備などしてないし、そんな時間もない。
説得の時間などないし、説得の内に彼女の正しさが証明される。
出来たのは、きっともっと早い段階での離陸ぐらいである。
別の見方をすれば、どうやっても協力は望めなかった。
例えヒナギクで救助していても、それに関しては変わらない。
……ああ、まあ犠牲者数は変わっていただろうけれど。
彼女視点での正論は、ナデシコの救助を無意味なものにした。
予定よりも長く掛かってしまった時間は機動兵器の襲撃を招き。
襲撃を掛けられたナデシコは生きるためにそれに対抗した。
――というわけで、着陸中に襲撃があって。
倒せもせず、逃げられもせず、ナデシコはフィールドを張った。
自分たちの命の為に、地面の下の避難民を全て犠牲にして。
その選択を下した艦長は、過ぎた重圧に耐えかねて。
駆け込んだトイレの洗面台で、その胃の内容物を吐き戻した。
追うべきかと思ったが戦闘中で、テンカワさんが行ったから止めた。
「アキトに早く会いたいからって私、間違えちゃったのかな」
心配だからとつないで置いた通信も、その言葉を聞いて切った。
間違えたとしたらナデシコに乗っている全員で、俺も共犯だ。
慰める言葉なんて持たないけれど、俺にも責任逃れなどできない。
……多分、俺も結構今、精神的に荒れてるんだと思う。
イネス・フレサンジュが悪くないと判っていても、当たってる。
彼女は彼女の視点の中で、最適行動をしたと判っていても尚。
いや、本当に最適な判断だったと断言してもいいのだろうか。
避難所の上にナデシコがきた時点で、選択肢はなかったのでは。
だってそれ自体が発見が時間の問題になったということなのだから。
――などと。気を抜けばやっぱり恨み節になってしまうのだ。
本当に恨み節を言いたいのは、彼女自身であるはずなのに。
俺は、どうしても“自分は悪くない”が抜けてくれそうにない。
また人が呆気なく死んだ。今度は救えたかもしれない人が。
それだけではない。戦闘によって、ナデシコ自体も傷ついた。
得たものは少なく失ったものは多く。次は一体何を失うか。
救助には失敗したわけだが、それだけでは終わっていない。
少なくともここにいる限りは、俺たちだって要救助者である。
ナデシコが負傷してしまった以上は、余計に。
あの襲撃で集中した敵砲撃は、ナデシコをボロボロにした。
見た目的にも勿論だが、もっとやばいのは中身の話。
火星圏を脱出出来ないほどにエンジンが傷んでしまった。
戦闘行動も、本格的になると大分厳しいだろうとのこと。
あらら、これは詰んだのかしらとぼんやり思い。
放送されているなぜなにナデシコも頭に入っていかない。
オーバーオールより少女少女した格好の方がいいと思うな。
あとガチ着ぐるみではなくて艦長の体型を前面に出そう。
……っていうか、あんな着ぐるみ資材に入ってたっけなぁ。
まあとにかく。生きている限りは生きる努力をするべきだ。
正直あんまり怖くないのは、現実感がないからかどうなのか。
それとも、それでいいと諦めちゃってるからかな、なんて。
そんな感傷はどうでもいいとしても、微妙に俺は忙しい。
ナデシコの自動姿勢制御が上手く機動してないので手動である。
手動と言っても手入力という意味での手動ではあるけれど。
なんというか、こう。左斜め後方に若干グイーンとね。
基本姿勢が変になってるだけなら、差分で調整すればいいが。
少しずつ少しずつグイーンとなるから、一々面倒臭い。
そうしてなんとかかんとか逃げながら。
修理出来るかもと、北極冠のネルガルの研究所を目指す航空中。
微妙に変なものをメグミさんが見つけてしまったのである。
護衛艦クロッカス。地球でチューリップに飲み込まれた艦。
それがどうしてか火星の表面上にボロボロになって落ちている。
……氷が張っており、恐らく生命維持装置は動いていない。
救助、それ以前に生存者の確認をするかという問題で。
少なくとも通信には答えず、システムも全落ちしてるのを確認。
素人判断だと、生存者はいないだろうなと思ってしまうけど。
艦長は義務としての確認を提案、プロスさんが反対。
実際に現状でそんな時間があるかというと、また微妙な感じ。
どっちが正しいのかね、と悩むうちにテンカワさんがきた。
イネス女史と連れ立ってきて、艦長が呼んでたと思い出す。
簡単に説明しようかと思って近寄ると、違和感に気付く。
――違和感つーか、テンカワさんなんか思い詰めてないかこれ。
一瞬、声を掛けるのを躊躇っていると彼は俺に見向きもせず。
ブリッジの奥へと進んでいって、集団――提督に向かった。
すっごく嫌な予感がしてきたので、俺はこっそり後をつけていく。
なんというか、最近誰も自棄にならないといいなぁとかね。
思ってたからこそ気付けたわけなのかも知れないですけどね。
なんで俺はこういうのに気付いちゃうのかなぁとも思うわけで!
この場合の自棄になり方って、外に出るか内に向くか。
人によると思うけれど、テンカワさんは一体どうだろう。
その実証なんていらないが、念の為に近くに立っておく。
いやいや、まさか、そう自棄になった行動なんてねぇ?
起こすわけがないよねぇと、握られた拳から目を逸らし。
そして提督に話しかけたテンカワさんの口から漏れたのは。
「――提督。
第一次火星会戦の指揮を揮っていたって」
……はいアウトー!テンカワさんアウトー!
なんでこう俺の胃を痛める行動ばっかするかなぁこの人は!
胃から血が溢れて多分目からも出そうな感じすらしてくる。
テンカワさんにすり足差し足でこそこそと近づきつつ。
周りの人は異常に気が付いてないのか、平然としている。
流石に、俺がやるしかないのかぁと覚悟を決める時がきた。
激高するテンカワさんが振り絞るような叫びを上げて。
驚いて誰も動かない中で俺だけがぴょんと走って羽交い絞め。
まあ体格差的に、後ろからしがみつく程度ではあるが。
いきなり後ろから止められるとは思っていなかったのか。
少し力が弱まったので、そのまま後ろに下がってずりずり。
直ぐに立ち直られてしまったが、距離だけは離せた。
「ゴートさん、ゴートさん!
ヘルプヘルプ、回収して俺の部屋に!」
「了解した」
俺だけじゃあんまり長時間抑えてもいられないので援軍を。
やっぱね、こういう時って大きさが武器だって偉い人が言ってた。
というわけで、大きくて強そうなゴートさん頼みである。
――そしたら、テンカワさんを羽交い絞めする俺ごと担がれ。
あれ?あれ?何この状況?って思ってる内に部屋にポイされた。
ブリッジから近かったために、突っ込む間もなかった。
その間もテンカワさんはムギュムギュ動いているし。
俺はなんかその付属品的な感じで軽々運ばれちゃってるし。
俺も軽いってもそれなりに重いはずなのに、なんだろうこれ。
流石に下ろす時には、割と丁寧にぽんと床に置かれた。
ゴートさんはうむと頷いてからそのまま外に出てしまった。
微妙におかしい空気の中、俺は取り敢えず扉のロックを掛けた。