――母が死んだ。
夕暮れ時の小学校の帰り道、金木研は独りで家に向かっていた。
俯いている顔はどこか寂しげで、憂鬱そうだった。その足取りは重い。
日も落ちかけ、本来であれば、とっくに家に帰りついているはずの時間である。
トボトボと歩いていると、目の前に影が差す。何だろうと思い、顔を上げると、そこには自転車に乗った永近英良がいた。
「あれ? カネキじゃん。どうしたこんな時間に?」
「ヒデ……!」
カネキは孤独だった。
父を四歳の頃に亡くし、そして十歳で母も亡くなった。
病気でもなんでもなく過労で死んだのだ。
引き取られた叔母の家では歓迎されず、むしろ悪意を向けられている。
家に居場所はなく、引っ込み思案な性格のためか友達も少ない。そんな金木を支えてくれたのは親友であるヒデだった。
「べ、別に何でもない。ヒデこそ、どうしてこんなとこにいるんだよ?」
家に帰りたくないから、わざと寄り道していた――などと、正直に話す気にはなれなかった。単純に心配をかけたくないというのもあるが、ヒデに情けない姿を見せたくないというプライドが邪魔をしたのだ。
ヒデは直感的にカネキが強がっていること、それを自分に悟られたくないとカネキが思っていることに気づいた。
「いや、俺はマンガ買いに行った帰りだぜ」
「そうなんだ…ここの近くの本屋さんに行ったの?」
「おう! カネキも、たまには難しい本ばっかじゃなくマンガとか読んでみろよ」
気づいてしまった以上は、気づいていないフリをしよう――ヒデはカネキの下手な話題変換に乗っかることにした。
「僕はマンガはあんまり……」
「そんなこと言わねぇで読んでみろって。騙されたと思ってさ」
「お小遣い少ないから買えないよ」
「じゃあ貸してやるよ! えーと、今持ってるマンガは……」
ヒデは、リュックに手を突っ込み、がさごそと探る。そして、一冊の漫画を取り出した。
「あーこれか。カネキには合うかな」
「……見たことないね、どういうマンガ?」
「なんか凄いマンガだな」
「なんだそれ? 全然わかんないじゃないか」
「うまく説明できないんだからしょうがねーだろ。うっかり内容を教えちゃったら面白くねーし」
ヒデから手渡されたマンガをじっと見る。そこには二人の青年と犬が描かれていた。
絵は世代が少し違うような感じで、あまり面白そうには見えなかった。
「ヒデ、これ、ちょっと昔のマンガなんじゃない?」
「そうだな、家にあったのをなんとなく持ち出してきただけだし。俺は読んではみたけど好みが分かれるんじゃねーかな」
カネキはページを捲り、少しだけ読んでみた。その独特な絵や台詞に、ちょっとだけ興味がわく。
「やっぱし違うのにすっか?」
「……いや、いいよ。これを貸してくれる?」
「おお、いいぜ! 続きも何冊か貸してやるよ」
ヒデはリュックからさらにマンガを取り出し、カネキに渡す。それを背負っていたランドセルに入れるとパンパンに膨れてしまった。
「お、重い」
「そんくれー我慢しろって。んじゃ、俺はそろそろ家に帰んなきゃいけねーから行くな! また明日!」
「う、うん」
手を振りながら自転車で走り去っていくヒデを見て、カネキは小さく笑う。
他愛もないおしゃべりだったが、ほんのちょっとだけ元気が出た。カネキは心の中で親友に感謝する。
「……僕も帰るか」
家に帰ったら、このマンガを読んでみよう。
この“ジョジョの奇妙な冒険”を。
+
――八年後、彼はジョジョラーとなっていた。
東京都二十区にはとある喫茶店がある。
そのシックな店先には「あんていく」と書かれた看板。
昼下がりのこの時間。店内にはそこそこの客が入っていて、その中にはカネキとヒデの姿もあった。
二人は店に置いてあるテレビでニュースを見ており、その内容は二十八日に起こった喰種による捕食事件についてだった。
「おっかねぇなー高田ビルって結構近いぞ…」
ニュースでは胡散臭い喰種研究家が個人的な見解を述べている。
ヒデは喰種について雑談でもしようと思い、カネキに顔を向けた。
だが、カネキはテーブルのコーヒーに向かって、
「クン! うーむ、これはコーヒーだコーヒーの香りがする」
などと言っていた。わけがわからない。
「そりゃそーだろ。喫茶店だし、注文したコーヒーが目の前にあるもんな」
ヒデは喰種のことを話そうと思っていたのに、ついツッコんでしまった。
カネキはコーヒーの香りを楽しんだあと、口をつけてじっくりと味わう。ヒデは、ちょっと呆れていた。
「……まーいいか。カネキが変なのは平常運転だし」
ヒデは友人の奇行には慣れているらしく、あまり気にしなかった。それよりも話したいことがあるのだ。
「でさ、喰種の話だよ! 喰種!」
「屍生人じゃなくて?」
「…ジョジョもほどほどにな」
ヒデが本格的に呆れているのを見て、カネキは素に戻ることにした。
「ごめん、さっきジョジョ読んじゃったからさァ」
「あーはいはい、わかってるって」
「で、喰種の話だっけ?」
「おう、ヒトに化けてるらしいぜ」
「日光が弱点だったりしないかな」
「いや、それ吸血鬼。そーじゃなくて喰われないように気をつけろって話だよ」
「大丈夫だ、いざとなったら波紋で倒す」
「現実を見ろ。お前はただの大学生だ」
二人の会話はいつもこんな感じであった。
「なぁなぁ、話は変わるけどよ。あの子かわいくね?」
「ん……? あぁ、バイトの子か。確かにね」
「名前、なんていうんだ?」
カネキが知らないという風に首を振ると、ヒデは何を思ったのか、
「すいません!」
と、店に響くほどの大きな声でバイトの子を呼んだ。
「はーい」
「注文いいですか!? 俺カプチーノ、お前は!?」
「僕も同じのを頼みます」
「カプチーノ二つ…」
バイトの子が注文を書いていると、またもヒデが声をかけた。
「あーすいません。お名前なんて言うんですか?」
「霧島トーカですけど…」
ヒデは霧島トーカという名前を聞くなり、勢いよくトーカの手を取る。
「霧島さんはッ恋人はいるんで…ッつぁ!」
恋人の有無を質問しようとしたヒデだったが、耳に痛みが走り、言葉を遮られた。
「ッたく、何やってんだよヒデ」
「ちょッ! 耳、引っ張んなって!!」
「店員さんに迷惑かけちゃダメだろ? スイませェん…よく言っときますから」
カネキが謝ると、トーカは苦笑いしながら店の奥へ戻った。
「はぁー、恋人がいるのか聞きそびれた……」
グデーッとテーブルに突っ伏すヒデ。それを見て今度はカネキが呆れる。
「そんなに気になったのか?」
「そりゃあ、健全な十八歳なら気になるだろ!」
「そうかな?」
「そうなんだよ。カネキはもう少し恋愛というものを知れ」
確かに僕は恋愛をしたことはないが、ヒデは積極的すぎるような気がする――などと思いつつ、カネキはふと、店の出入口に目を向ける。
そのとき、ちょうど眼鏡をかけた女性が入ってきた。カネキは彼女のことを何度か店で見かけたことがあった。
「なんだ、カネキの好みはああいう子かよ? すげー美人じゃん」
カネキが女性を見ていることに気付いたヒデが、ニヤニヤしながらからかってくる。
「そんなんじゃあないけど……なぜか最近、僕と同じ時間に来るんだよな、あの人」
「つまり彼女が、お前に会うために来ているのではないか、ということか……自意識過剰なんじゃねーか?」
「失敬だな、ヒデ。そういう意味で言ったんじゃあないぞ」
カネキが誤解を解こうとするが、ヒデはニヤニヤしている。おそらく変な勘違いをしているのだろう。
もう一度、耳でも抓ろうかとカネキが考え始めたとき、ヒデが店の時計を見て、ハッと立ち上がる。
「やっべッ! そろそろバイトの時間じゃん!」
「おいおい……急げよ」
ヒデは残っていたカプチーノを一気飲みすると、
「じゃあな! カネキ!」
と、言って慌ただしく店を出ていった。
いつものことながら騒がしい奴だな――そんなことを思いながら、カネキはカプチーノに口をつける。
深い意味はないが、なんとなく気になったのでさっきの女性を見やる。彼女は高槻泉の作品である黒山羊の卵を読んでいた。
偶然だろうが、その作品はカネキが読み進めているものだった。今も手元にある、それを見てカネキは少し考える。
なぜ、彼女のことが気になるのだろうか?
なぜ、彼女は僕の事を気にする素振りをするのだろうか?
カネキは漠然とした違和感を感じていた。
なんとなく観察されている気がする。
確かに知的で魅力ある女性だとは思うのだが、何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。
何か妙だ。
しかし、それは本当に僅かな違和感でしかない。
(ヒデの言う通り、ぼく自意識過剰気味なのかなァ?)
違和感は、カネキが黒山羊の卵の内容に没頭し始めると、どこかに消えてしまった。
本に集中していると彼女がこちらに歩いてくる。そのとき、彼女の手とカネキの本がぶつかってしまった。
「あっ」
「あっ」
二人の声が被る。
カネキはうっかりと本を落としてしまった。
彼女は謝りながら、カネキの本を拾った。そしてカネキが自分と同じ本を読んでいることに気付く。
彼女はカネキに笑顔を向けた。
「これ面白いですよね。私もちょうど今読んでて…」
+
あれから、カネキは彼女に遊びに誘われ、人生初のデートを楽しんでいた。
彼女と本の話題で盛り上がり、休日に本屋へ行くことになったのだ。
彼女の名前は神代利世というらしい。
昼食を二人で食べた後は、本屋に行きオススメの小説を教えあった。
同い年、同じ血液型、おまけに読書の趣向まで似ている。そんな彼女との休日はカネキにとって、とても有意義なものであった。楽しいものであった。
夜、家に帰る途中でリゼが『喰種が怖い』と言ったときには紳士として家まで送ってあげることにした。
『恋愛』というのはこういうことをいうのかと、けっこう呑気してた。
つまり! 浮かれていた! 油断していたッ!
彼女のことを、まったく警戒していなかったのだ!
そして今、カネキは全力で走っていた!!
「アハハ…待ってェ…」
人間の死肉を漁る化け物――喰種から必死で逃げていた!
(ッぐ! 『リゼさんはまるでエリナさんみたいだ』とか、馬鹿なことを考えていた、さっきまでの自分をラッシュしたいッ!)
なんとリゼは巷で噂になっている化け物――喰種だったのだ。
カネキは、まんまと騙され襲われているのだ。
意外なことに頭は冷静だが、このままでは捕まるのは時間の問題だった。後ろからはリゼの足音が聞こえてくる。
(せ、迫ってきている! 僕を喰うためにッ! 何か策を練らねば……なッ!?)
その瞬間! カネキは何かに足を取られ、転倒!
アスファルトに勢いよく、体を打ち付けた。
固い道路に寝そべったまま足を見ると、そこにはリゼの赫子が巻き付いていた。
「くッ! と、取れないッ」
「つかまえた♡」
全力で走っていたのに、もうすでに追いつかれている。
カネキは、まさか自分がホラー映画のワンシーンのようなことを味わうとは思ってもいなかった。
「カネキさァん…“喰種”の“爪”は初めてでしょう…? お腹のなか優しく掻き混ぜてあげますよ…」
リゼは、とんでもないことを笑いながら口走っている。
カネキは、とっさに近くにあった自分のボールペンを手に取り、
「オラーッ!」
リゼの赫子に渾身の力でブッ刺した!
喰種の強靭な肉体は、その程度ではちょっとの傷もつかない。だが、獲物の予想外の反撃にリゼは一瞬怯んだ。
その隙に、カネキは全力で走り出す。
(今はとにかく逃げなければッ! そして、携帯で助けを……)
そこまで考えたところで、ハッと気づく。
さっき携帯が入っていた鞄を落としてしまったことに。
「し、しまったッ! さっき倒れたときに――」
カネキの言葉はそこまでで途切れた。後ろから赫子による強烈な一撃を受けたからである。
その攻撃によって、工事中のビルにめがけて叩き付けられた!
(……い、意識が。ダ…メだ、ヤツ…が来…る)
吹っ飛びそうになる意識を無理矢理に繋ぎとめる。
「…あら死んじゃった?」
リゼは、ゆっくりと確実にカネキに近づいていく。それは死が迫ってくるのと同義だった。
意識はかろうじてあるが、体はピクリとも動かない。絶体絶命の状況。
だが! そんなときであっても金木研の性質は変わらない!
彼は誇り高きジョジョラーであったッ!
「ボクのそばに近寄るなああーーーーッ」
そう叫んだカネキは、悲痛な言葉とは裏腹にどこか満足気であった。
(この台詞を…心の底から…本気で言えた……悔いはないッ)
別にカネキは死にたいわけではなかったが、どうせ死ぬならジョジョっぽく死にたかったのだ!
だからこそ断末魔にボスの言葉を選んだのだッ!
もはやバカだが、これが彼の生き様なのだッ!
「ふふッ元気そうでよかったわ。今週喰べた二人とどっちが美味しいかしら…」
だが、そんなことリゼには全く関係がない。
リゼはもうすでに目の前にいる。カネキは死を覚悟した。
しかしッ運命は彼を生かすッ!
なんと!
リゼの頭上から鉄骨が落下してきたのだッ!
「……あら?」
突然のことに反応できず、リゼは鉄骨に潰されてしまった!
「アア……なんで…あ………たッ…が…」
リゼは絶望に染まった表情で呻くと、すぐに動かなくなった。
カネキは生き残ったのだッ!
+
――…僕は小説の主人公でも何でもない…ごく平凡などこにでもいる読書好きのジョジョラーだ…
だけど…
もし仮に僕を主役にひとつ作品を書くとすれば…
それはきっと…
“奇妙な冒険”だ。