やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

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第43話 虚ろの九天

 キバオウが、知っていることを全て吐き出した。

 俺の脅しが相当効いたようだった。あの後、奴は心が折れてしまったように、覇気のない表情で俺の質問に淡々と答えた。その弱々しい姿は一瞬にして老け込んだように思えてしまうほどだったが、同情する気は全く起きなかった。

 

 逆に勘ぐってしまうくらいにキバオウは全ての質問に素直に答えたが、おそらく口から出まかせを言っているということはないだろう。シンカーと雪ノ下にポータルPKを仕掛けたことを認め、キバオウがこちらに提供した情報の中には、《虚ろの九天》内部のマップデータも含まれていた。

 

「ここか……。しかし、始まりの街ん中にダンジョンがあるなんてな」

 

 クラインがそう言って見上げるのは、始まりの街最大の建造物。黒く重厚な艶を放つ宮殿、黒鉄宮だった。キバオウによれば、虚ろの九天はこの黒鉄宮の地下に広がるダンジョンだという。

 2ヶ月ほど前、誰よりも早くその存在に気付いたキバオウは、このダンジョンを《軍》、それも自分の派閥に属する者たちだけで独占しようと考えた。結局、当時のキバオウたちには難易度が高過ぎてほとんど攻略は出来なかったそうだが、1度だけモンスターに散々追い回された末にたまたま最深部まで辿り着き、そこで回廊結晶の地点登録をしたらしい。シンカーと雪ノ下のポータルPKに使用した回廊結晶はその時のもので、2人を殺そうという計画はかなり前からあったようだった。

 

 俺たちは黒鉄宮の正門には入らず、裏手に回る。宮殿を囲む高い壁と深い堀の間の細い道をしばらく歩いていくと下りの階段が目に入り、その先、右の石壁には暗がりへと続く通路がぽっかりと口を開けていた。ここから宮殿の下水道に入ることが出来るらしく、ダンジョンへの入り口はその先にあるようだった。

 

 ひとまずその手前で立ち止まった俺たちは、全員で顔を見合わせる。俺、クライン、トウジ、キリト、アスナに加えて風林火山のメンバーが数人。さらに誰かにくっ付いてきたらしいユイの姿まであった。かなりの大所帯だが、まさかこのまま全員でダンジョンに突入するつもりもない。

 

「本当にいいんだな、3人で」

 

 聞いたのはクラインだ。キリトは迷わずに頷いて答える。

 

「ああ。クラインたちには悪いけど、道さえ分かってれば俺たちだけの方が早い。敵のレベルは60層相当って話だし、仮にエリアボスに当たっても問題ないはずだ。ま、基本スルーで行くつもりだけど」

 

 俺たちの手元には、キバオウから入手したダンジョン内のマップデータがある。それによってシンカーと雪ノ下が飛ばされた座標とそこまでの経路は把握しているので、ここは小回りの利く少数精鋭部隊で迅速に救出に向かうのがベストだと思われた。敵のレベルが第60層程度ならば、俺、キリト、アスナの3人で問題なく攻略出来る。3人のうち2人がユニークスキル持ちだということを考えれば、むしろ戦力としては過剰であると言えた。

 

 実質戦力外通告されてしまったクラインたちにも思うところはあるだろうが、現在の差し迫った状況を理解している彼らは、真剣な表情でゆっくりと頷き返すだけだった。

 シンカーと雪ノ下がダンジョンに閉じ込められてから既に8日もの時間が経過している。ここまで2人が生きていることを考えれば、おそらくセーフティゾーンを見つけてそこに退避出来たのだと思われるが、ダンジョンの中と言う過酷な環境下にそれだけの時間閉じ込められれば自暴自棄になってしまってもおかしくはない。もう一刻の猶予もなかった。

 

 ダンジョン突入前に、3人で装備品やアイテムなどの最終チェックを行う。重苦しい空気が場を支配する中、しかしそれまでずっと黙り込んでいた1人の少女が唐突に声を上げた。

 

「ユイもっ。ユイも行く!」

 

 その言葉に、全員の注目がユイに集まった。俺たちは一瞬だけ顔を見合わせたが、すぐにアスナが諭すようにユイへと言葉を掛ける。

 

「ごめんねユイちゃん。中は危ないから、クラインさんたちと待ってて。すぐに戻って来るから」

「でも――」

「ごめんね」

 

 なおも食い下がろうとするユイの頭を撫でて、アスナは済まなそうに笑いかけた。ここで押し問答をしている余裕はなかったし、ましてやユイをダンジョン内に連れて行くことなど出来るはずもなかった。

 

「じゃあ、ユイちゃんのことよろしくお願いします」

「ああ。任せとけ」

 

 力強く頷くクラインにユイを預け、俺たちは暗がりの中へと入って行く。後ろからはアスナを呼ぶユイの声が響いていたが、俺たちは振り返らずに歩を進めた。

 

 

 

 

 

 情報通り、ジメジメとした下水道を抜けた先には、さらに地下へと続くダンジョンの入り口が存在した。その中へと足を進め、マップで現在地の情報を確認するとダンジョン名は虚ろの九天と表示されており、俺たちは頷き合って更に先へと進んで行った。

 

 マップによれば、虚ろの九天はかなり大きなダンジョンである。まともに探索して行けば最深部に着くまで2、3時間程度は掛かる規模だが、今回は目的地までのマップデータがあるので大幅に時間を短縮できるはずだった。

 

「ハチ、結局あれから休憩取れてないだろ。途中の雑魚は俺が相手するから休んでろよ」

「私も戦うわよ。しばらくちゃんと戦ってなかったから、体鈍ってそうだし」

 

 血の気の多い2人にそう提案され、俺は素直に頷いた。

 キバオウとの対峙以降、妙に気持ちが高ぶってあまり疲労は感じていなかったが、これがどこまで持つかは分からない。ダンジョン深部でエリアボスとエンカウントする可能性を考えれば、体力は温存しておきたかった。俺は道中の索敵とサポートに専念することを決め、薄暗いダンジョンの中を進んで行った。

 

 キリトとアスナの気合いの入った声が、ダンジョンに響く。その度に、相対するモンスター群は紙細工でも切り裂くかのように蹂躙されていった。

 この辺りは水棲タイプの敵が多いようで、黒光りする外殻を持ったザリガニ型モンスターや、全身がヌメヌメとした粘液で覆われた巨大なカエル型モンスターが群れとなって出現した。敵とのエンカウント率こそ高くかなりの頻度で戦闘になったが、しかしその程度アインクラッドでも屈指の実力を持つキリトとアスナの前では物の数ではない。高レベルプレイヤーがレベルの低い狩場を荒らすのはあまり褒められた行為ではないが、周囲には他にプレイヤーも居ないので自重することもなく敵を蹴散らしていった。

 

 ダンジョン中層まで潜るとゾンビだのゴーストだのといった所謂オバケタイプの敵が出現するようになり、そう言ったものが苦手なアスナは途中で戦線から後退するという事態も発生したが、もとからキリト1人でも問題のない相手である。攻略のペースは落ちることなく、俺たちは順調に先へと進んで行ったのだった。

 

「2人が飛ばされたのは、この辺りか……」

 

 もはや何体目になるかもわからない黒い骸骨剣士を撃破した後、キリトは一息ついて周囲を見回しながら呟いた。

 ダンジョンに突入してから既に1時間以上が経っていた。ここまではそれなりに入り組んだ道が続いていたが、今は大きな一本道だ。見渡す限りでは敵の気配はない。

 俺はマップを確認し、キリトの言葉に頷いて返す。

 

「キバオウが寄越したマップデータもここまでだな。来た道にはセーフティゾーンなかったし、シンカーたちが居るとしたらこの先か」

「そろそろエリアボスが出て来てもおかしくない頃合いよね。ちょっとペース落として慎重に行きましょう」

「……ああ」

 

 急く気持ちをなんとか抑えつけて、頷いた。度々フレンド欄で雪ノ下の名前を確認しているが、まだ無事である。その位置情報を見る限りでは移動もしていないし、ここは急ぐよりも確実に行くべきだった。

 

 それからは3人とも無言になり、5分ほど歩いた。ダンジョンも最深部に近づいてから、明らかに雑魚敵とのエンカウントが減っている。その静けさは不気味なほどで、アスナの言う通りエリアボスの出現ポイントが近いのではないかと思えた。

 そうして俺は警戒心を強める。しかし、ダンジョンに突入してから常にアクティブにしていた索敵スキルがこの場で捉えたのは、モンスターの気配ではなかった。それを確認して、俺は口早に呟く。

 

「プレイヤーが、2人……この先だ!」

「あっ、あそこ! 何か光ってる!」

 

 しばらく一本道だった通路の先にあるのは、大きな十字路。そのさらに向こう、アスナが指差した先には、薄暗いダンジョンの中、暖かな光が漏れる小さな通路があった。目を凝らすと、その中に人影のようなものが映る。線の細いシルエットは、恐らく女性。

 

 ――雪ノ下。

 

 気付くと、駆けだしていた。

 遠く見えていた明かりが段々と近付き、その中に見えていた人影も徐々にはっきりとしてくる。黒く艶を放つ長い髪に、華奢な身体。一目見ただけでも鮮烈に印象に残る、冷たい美貌。その姿を、俺が見紛えるはずもない。そこにあるのは、間違いなく雪ノ下雪乃の姿だった。

 

 少し、やつれただろうか。無理もない。こんな場所に数日間も閉じ込められたのだ。だが、生きている。それだけで、もう十分だった。

 

 俺の存在に気付いた雪ノ下が、大きく目を見開いた。そのまましばらく固まっていたが、次いで慌てて何事かを口にする。雪ノ下が声を張り上げるなんて珍しいな。そんな暢気な思考が俺の頭を過った。

 

「来てはだめ――っ! その通路は……っ!!」

「ハチ! 止まれッ!!」

 

 雪ノ下とキリトの声が、同時に耳に届いた。その意味を理解する前に、我に返る。

 右方。巨大な気配。気付いた瞬間、全力で後ろに跳んだ。

 一瞬遅れて、先ほどまで俺が立っていた場所を何かが通りすぎた。地面を転がりながら、それを視線で追う。最初に目に入ったのは、黒く巨大な鎌だった。

 

《The Fatal-scythe》

 

 視界にモンスター名が表示される。運命の鎌という意味であろう固有名と、それを飾る定冠詞。ボスモンスターの証だった。

 

 息を呑み、槍を構える。

 薄暗いダンジョンの中、虚空に浮かぶのは2メートル半はあろうかと言う人型のシルエット。身に纏うぼろぼろの黒いローブの中には実体のない闇が蠢き、赤い眼球だけがこちらをぎょろりと見下ろしていた。

 

 虚ろの九天。その深き場所に座して俺たちを待っていたものは、赤い血の滴る大鎌を携え、命を刈り取る死神の姿で揺らめいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒鉄宮裏手。地下の暗がりへと続く小さな通路の前。

 ハチ、キリト、アスナの3人がダンジョンに突入してから既に10分ほどの時間が経過していたが、クラインたちはずっとその場から動かず、彼らの帰りを待っていた。

 虚ろの九天の最深部に到達するまでは攻略組の3人と言えどおそらく数時間かかる。加えて転移結晶で帰還する可能性があることも考えれば、ダンジョン入り口のこの場所で待ち続ける必要はなかった。それでもクラインたちが移動しなかったのは、ユイがこの場を動こうとしなかったからだ。

 

「ユイちゃん、3人なら大丈夫ですよ。すぐに帰ってきますから、僕たちと一緒にサーシャさんのところで待ちましょう?」

 

 トウジが声を掛けても、ユイは頑なに首を横に振るだけだった。目を離すと1人でもアスナたちを追ってダンジョンへと向かおうとしてしまうため、風林火山のメンバーの数人は通路をブロックするように立っている。

 

 ユイが何故ここまでアスナたちのことを心配しているのか、トウジは腑に落ちないものを感じていた。この数日、ユイはアスナとずっと一緒にいたというわけではない。昨日までは、フィールドに探索に出かけるアスナを笑顔で見送っていたのだ。

 もしかするとユイは、この場所に何かを感じているのかもしれない。そしてそれは、彼女の失われた記憶に関係しているのではないか。トウジはそう考え始めていた。

 

「……ここは、ダメ。ここはダメなの。危ない……あれが、あるから……」

 

 ユイの小さな呟きをその耳に捉え、トウジの中にあった疑念は確信へと変わった。

 

「あれ、とは? ユイちゃん、何か知っているんですか? もしかして、ここに来たことが……」

「あれ……あれって、何……? あたし、あたしは――」

 

 次第に、ユイの呟きが支離滅裂になってゆく。これはまずいと思ったトウジが彼女を落ち着かせようと手を伸ばしたが、触れた体は発作を起こしたように小さく震え、それは次第に大きくなっていった。

 

「あたし、ここには居なかった……もっと、ずっと、暗いところで……!」

「ユ、ユイちゃんっ!?」

 

 深い悲しみを滲ませた声を上げ、ユイの体が弾かれたように仰け反った。同時に、周囲に異変が巻き起こる。

 頭が痛くなるほどの、耳鳴りのような金切り音。始まりの街の景観を蝕む、黒いノイズ。

 そんな中トウジはユイを強く抱きしめたが、彼女の小さな体は一瞬大きくぶれたかと思うと、まるで質量を失ったかのようにトウジの腕をすり抜けてしまった。

 目の前の光景に驚く間も無く、さらに強まる金切り音にトウジは頭を抱えて蹲る。

 10秒ほどが経過し、ようやくその異変は収まった。

 

「な、なんだぁ!? 今のは……」

 

 周囲を見回しながらクラインが言った。

 先ほどの金切り音が嘘のように静寂を取り戻した始まりの街。既に異変は去ったかに思えたが、同様に周りを伺っていたトウジはあることに気付くと焦って声を上げる。

 

「クライン! ユイちゃんが居ません!!」

「はぁ!?」

 

 見える限りの範囲に、ユイの姿はなかった。周囲は黒鉄宮を囲む高い壁と深い堀に挟まれた細い道が続いており、街の中へと向かったのならその姿が見えるはずである。

 クラインは咄嗟に黒鉄宮の地下へと続く暗がりに目をやった。通路をブロックしていた4人の男たちは、ようやく先ほどの異変から立ち直ったところだった。

 

「おい、おめぇら! ユイちゃんそこ通ったか!?」

「わ、悪い、わかんねぇ……。妙な音のせいで、まともに立ってらんなくて……」

 

 1人が答えると、他の3人も頷いた。この場の全員の顔に焦りが浮かぶ。

 

「まずいです。もし1人でダンジョンの中に向かったんだとしたら……」

 

 ユイは戦闘用の装備品を一切身につけていない。バグの影響でプレイヤーレベルは確認出来なかったが、第60層相当の難易度と言われるこのダンジョンを単身で突破出来るとは思えなかった。

 先ほどの妙な現象のことも気になるが、今はまずユイのことだ。このままあの少女の身に何かあれば、アスナたちに顔向け出来ない。クラインはそう考えて、すぐにその場のプレイヤーたちに指示を飛ばした。

 

「とりあえず、トウジは他の奴らと連絡とって一応街の中を探してみてくれ! 他の奴は俺と一緒にダンジョンに入るぞ!!」

 

 クラインは返事も待たずにダンジョンへと向かって駆け出した。暗がりへと続く道を走りながら、彼はひたすら少女の無事を祈り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一閃、振り下ろされた。

 音も無く迫る、黒く巨大な鎌。いち早く反応したのはキリトだった。一瞬遅れて、俺とアスナもソードスキルを放って迎え撃つ。

 交叉する剣閃。打ち合わされた瞬間、複数の剣戟の音は同時に響いた。

 

 想像以上に重い手応えに、目を見開く。辛うじて攻撃を相殺するも、俺たちは大きく後方へと弾き飛ばされた。

 冷たい床を転がり、止まる。すぐに槍を構えなおしたが、幸い、相対する死神は不気味に沈黙していた。

 

「……3人がかりで、これかよ。洒落になんねぇぞ」

 

 戦慄とともに呟いた。

 鈍重な大型のボス相手ならばともかく、目の前の死神はボスとしては特別大きいわけではない。手にしている大鎌も重さで押し切るタイプの武器ではなく、高い切断判定と鋭さが強みの武器だ。それにも関わらず、3人合わせて放ったソードスキルを相殺され、力任せに大きく弾き飛ばされた。おそらく、相当なステータス差があるのだ。

 

 敵に注意を向けつつ、ちらりと隣を伺う。

 俺たちの中で唯一《識別》スキルを持つキリトならば、遭遇した敵のステータスやスキルを測ることが出来る。しかし、剣を構えるキリトの表情は固かった。

 

「あいつ、やばい。俺のスキルじゃステータスが全然見えない。多分、強さ的には90層クラスだ」

「90層って……」

 

 アスナが目を見開く。俺も息を呑み、槍を持つ手が強張った。

 第90層クラスのボスモンスター。アインクラッドの攻略がまだ第70層までしか到達していない現在、第1層のダンジョンでエンカウントする敵としては異常な強さだった。

 過剰なまでに安全マージンを取っている攻略組ならば絶対に対抗できない強敵というわけではないはずだ。しかしそれもフルレイドを組み、犠牲を覚悟した上で戦った場合の話だった。正規のタンクも居ない今の俺たちのパーティでは、まともにやり合える相手ではない。先ほど3人で敵の攻撃を弾いた方法も、それなりに知能の高いAIを積んでいるボスモンスターが相手ではそう何度も通用するものではなかった。

 

 何故こんな場違いなボスモンスターがここに居るのか。いや、今はそれよりもどうやってここを切り抜けるかだ。

 何か手はないかと考えるが、どうにも思考が鈍い。頭の中に靄が掛かってしまったかのようだった。この4日間、寝ずに探索を続けていたツケが今まわってきていた。

 

「……俺が囮になる。2人は奥のセーフティゾーンに走れ」

「1人じゃ無茶よ。私も残る」

 

 抑揚のない声でキリトが提案し、すかさずアスナもそう口にした。キリトは何か言いたげにアスナに目を向けたが、すぐに説得が無駄だと悟ると苦い顔で頷いた。

 

「いや、お前ら――っ」

 

 ハッとして、声を上げた。そんな提案など、到底許容できるはずもない。しかし俺が口を挟むより先に、静かに漂っていた死神が動き出した。

 薙ぎ払われる大鎌。今度は、回避を選択した。1人でまともに受け太刀すれば、耐えきれずに大ダメージを食らうだろう。

 

 紙一重で、大鎌が俺たちの鼻先を通過する。攻撃を空振った死神は、すぐに目の前のキリトに向かって再び大鎌を振り下ろした。

 スピードだけなら対処できないレベルではない。だが、このままではジリ貧なのは明らかだった。それを理解しているだろうキリトは、死神の攻撃をなんとか回避しながら俺の顔を見て、叫んだ。

 

「行けッ、ハチ! どっちにしろ3人一緒には逃げられない!!」

「でもっ……!!」

「お前は何のためにここに来たんだ!! ユキノさんを助けたかったんじゃないのか!!」

 

 キリトの言葉が俺の胸を衝いた。

 そうだ。雪ノ下。俺はあいつを助けるために、ここに来た。だが、そのためにキリトとアスナを見捨てるのか。

 答えの出るはずのない葛藤に、意識が朦朧としてくる。

 

「行って! ハチ君!」

「こっちは自力で何とかする! 俺たちを信じろ! 行け!!」

 

 2人の声が、頭に響く。俺は半ば思考を放棄するように駆けだした。雪ノ下の待つ、ダンジョンの最奥へと向かって。

 

 光の中に佇む、雪のような少女。普段のような鋭利な目つきはなく、今は焦った表情でこちらを見つめていた。

 生きて帰れたら、何と言葉を交わそう。お前に話したいことが、聞きたいことが、本当はたくさんあるんだ。

 

 そんな思考を、途中で振り切る。セーフティゾーンまでの道半ばで足を止め、俺は槍を構えて振り返った。

 キリトたちを狙う死神の虚ろな後姿が目に入る。そこを目がけ、思い切り槍を投擲した。

 投擲スキルは使用していない。しかし槍は吸い込まれるように死神の背中へとヒットした。軽微なダメージが発生し、死神がゆらりとこちらを振り返る。

 キリトとアスナが逃げるだけの時間を稼ぐのだ。セーフティゾーンまではまだ距離があるが、これ以上離れると俺の攻撃が届かない可能性が高かった。

 

 死神のターゲットがキリトから俺に移ったことを確認して、再び走り出した。武器を手放した分、速さは上がっている。それでも死神を振り切って雪ノ下の下まで辿り着けるかは微妙なところだった。

 走りながらポーチから2つの転移結晶を取り出し、空いた両手で握り締める。最悪、これをセーフティゾーンまで投げることが出来れば雪ノ下とシンカーは助かるはずだ。

 

 背後に、巨大な気配が迫った。追いつかれる。そう悟り、俺はすぐに転移結晶を放り投げた。2つの青い石は、硬い音を立てて雪ノ下の足元へと転がった。

 

 安堵する間もなく、頭上から振り下ろされる殺気。直感に従って、横に回避した。大鎌が地面を削り、火花を散らす。なおもセーフティゾーンを目指して走る俺を狙って、再度死神は大鎌を振るった。

 2度、3度、黒い刃が頬を掠める。死神に背を向けて走り続ける俺がそれを避けることが出来たのは、奇跡に近かった。しかし、そんな運が長く続くはずもない。

 セーフティゾーンまで、あと少しのところだった。死神の大鎌が、俺の右二の腕を浅く刈った。それだけで俺のHPバーは一気にレッドゾーンまで突入し、右腕が切断された。

 

 急に軽くなった右半身に、バランスを崩す。しかし、這いずるようにしてなんとか走った。やがて、意識が混濁してゆく。自分が生きているのか、死んでいるのか、それすらわからなくなった。それでも走り続けた。

 

 不意に、暖かい光が俺の体を包む。白く、狭い部屋。気付くと俺はそこに立ち、目の前には雪ノ下の姿があった。

 俺を見る雪ノ下の瞳が揺れる。酷い顔だ。今にも泣いてしまいそうな、弱々しい表情。

 

「あ、あなた、腕が――」

「雪ノ下……」

 

 手を伸ばす。もう大丈夫だと、言ってやりたかった。しかしそれは言葉にならず、視界が明滅する。足がもつれてよろめいた俺を、いつの間にか雪ノ下が抱き留めていた。

 温かい。ナーヴギアの電気信号が作り出す、偽りの温もりだ。だが、今ここで、彼女は確かに生きていた。

 張り詰めていた感情が急激に弛緩していった。同時に、長い間ずっとわだかまっていた心も解きほぐされてゆくような気がした。

 

「雪ノ下、俺のとこに……風林火山に、来い」

 

 朦朧とする頭で、うわ言のように呟いた。

 口をついて出たのは、多分ずっと前から心の奥底に沈められていた言葉。

 

「俺は、俺は……お前たちのこと――」

 

 意識が、遠く霞んでゆく。何を口にしたのか、自分でもわからない。ただ俺は、今腕の中にある確かな温もりを、強く抱きしめていた。


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