やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

40 / 62
第39話 少女

 旅行2日目。温泉街の周囲を取り囲む広大なセーフティゾーン。

 雲ひとつない晴れやかな蒼穹の下、一面に広がる雪原には赤揃えの鎧武者たちの姿があった。

 俺、キリト、トウジや女子陣など一部のプレイヤーは着用していないが、ギルド《風林火山》のユニフォームである。デザインは完全にクラインの趣味嗜好だが、俺から見てもそれなりに格好いい装備だ。

 けどまあさすがに自分ではちょっと着る気にならない。俺が着ても落ち武者だ何だと揶揄されるのは分かり切っている。目か。目がいけないのか。

 

 そんな完全武装のプレイヤーたちが駆け回り、やんややんやと雪原を騒ぎ立てていた。鎧姿の男たちに交じってフィリアやシリカ、アルゴの姿もある。ちなみにクラインとトウジの2人は野暮用で他所に出かけているのでここには居ない。

 雪原を賑やかす彼ら彼女らは時に雪を高く積んだ陰に身を隠し、時に雪の上を獣のように駆け回り、それぞれ手に持った雪玉をさながら合戦の如く激しく投げ合っている――そう、雪合戦である。

 2つのチームに分かれて雪玉を投げ合いながら、敵陣に置かれたフラッグを奪うか敵を殲滅するかすれば勝利というルールだ。雪玉が体に当たったプレイヤーは死亡扱いで退場となる。

 

「おい! 投擲スキルは反則だぞッ!?」

「あぶなッ!?」

「くそ! ディレイの間に畳みかけろ!! ……今だ! 撃て撃て(ファイアファイア)ッ!!」

 

 いや、お前らガチすぎるでしょ。どこぞの軍隊か何かか。あと投擲スキルなんて使って雪玉当てたら普通にオレンジカーソルになるからな。ここ圏内じゃなくてセーフティゾーンだし……今さらだけどプレイヤー同士の攻撃は通るのにセーフティとは、もうこれ分かんねえな。

 遠く離れた位置で1人雪ウサギ作りに励んでいた俺は、心の中でそんな突っ込みを入れる。お、この雪ウサギ、かなりいい出来だな。今にも「ねえ、知ってる?」とか言い出しそう。いや、それ豆しばだ。

 

 そうして計6体目になる雪ウサギを地面に並べる。1人で時間を潰すことにかけては定評のある、どうも俺です。

 ……いや、別にハブられているわけじゃない。俺とキリトとアスナはステータスが高すぎるという理由で雪合戦に参加していないだけだ。ちなみにキリトとアスナは雪玉が当たったかどうか判断するための審判として雪合戦組に交じっている。あれ、やっぱり俺ハブられてね?

 

「へえー。上手いもんね」

 

 7体目の制作に取り掛かろうとしていた俺の耳に、感心するような声が届いた。見上げると、中腰でこちらを見下ろすフィリアと視線が合う。どうやら雪玉に当たってゲームから脱落し、暇になってこちらに来たらしい。俺の隣に腰を下ろし、雪ウサギの1つを手に取って眺めている。それを横目に、俺は再度7体目の制作に取り掛かった。

 

「まあ、大抵の1人遊びはある程度こなせるからな。お手玉とかあやとりとか得意だぞ」

「なんかのび太くんみたいね」

 

 フィリアがそう言って笑う。のび太くん。うん、まあ確かにちょっと親近感が湧くキャラではある。

 違いがあるとすれば俺にはドラえもんもしずかちゃんもジャイアンもスネ夫もいないということだ。ここまでなら俺の大敗北だが、こっちにはとっておきのラブリーマイシスター小町という存在がいる。よってこちらの逆転大勝利。やだ、小町ちゃんすごい。

 ……あ、いや、そういえばしずかちゃんなら俺の周りにもいたな。けどヘビースモーカーで酒癖の悪いアラサーしずかちゃんは子供の夢を壊しそうなのでちょっと勘弁して下さい。

 

「ハチはみんなと一緒に雪合戦しないの?」

「いや、さすがにステータス差がでかいし」

「そこはほら、適当にハンデ付けてさ。装備全部解除したりすればいいんじゃない?」

「お前このくそ寒い中、俺にインナー1枚になれっていうの? イジメ?」

 

 俺のツッコミに、フィリアはあははと無邪気に笑って応える。いや、笑い事じゃないんですけど。

 そんなやり取りをしながらも、俺は雪ウサギ制作の手は止めない。丸めた雪にウサギの目となる赤い石と耳となる葉っぱを付けるだけの簡単なお仕事だ。ちなみにこの石と葉っぱはストレージから出した素材アイテムである。実はこれ、それなりに高価なアイテムだったりする。

 そうして7体目も作り終えた俺は再び地面にそれを並べた。先ほど手に取った雪ウサギをしばらく愛でていたフィリアも俺に合わせるようにそれを戻す。すると何故か彼女は意味深な笑みを浮かべてこちらに向き直ったのだった。

 

「ねえ、そういえばさ。アスナ、ちょっと元気になったよね。妙にスッキリした顔してるっていうか」

「……そうか? まあ、お前がそう言うならそうなのかもな」

 

 急に話題が変わったことに少し驚きながらも、俺は素っ気なく言葉を返した。しかし何故かフィリアはいたずらっぽい笑みを深くし、首を傾けて俺の顔を覗き込むように見ると、嫌に空々しく言葉を続ける。

 

「昨日何かあったのかなー。私、昨日の夜は結構早く寝ちゃったんだけど、夜中の1時くらいに1度目が覚めてね。そしたらアスナが部屋に居なかったんだよねー。ハチはどこ行ってたか知ってる?」

「さあ……」

「ふーん。あとさ、これはキリトから聞いたんだけど……ハチも同じくらいの時間に部屋には居なかったらしいじゃん。どこにいたの?」

 

 ……君のような勘のいいガキは嫌いだよ。

 そう口走りそうになるのを何とか堪えつつ、俺は隣でにやけ顔を浮かべるフィリアに目をやった。こいつ、昨日の夜、何かがあっただろうことを完全に確信して問い詰めてやがる。

 

 昨夜のアスナとのやり取りを思い出しながら、遠くを見やる。別にやましいことは何もないのだが、深夜に年頃の男女が2人きりで街に出かけたなどと知られれば要らぬ誤解を受けるかもしれない。何と返すのが正解だろうか……。

 そうして答えに窮する俺を見て、何が可笑しいのか、やがてフィリアは吹き出すように笑い声を上げた。

 

「あはは! ごめんごめん! 別に根掘り葉掘り聞こうってわけじゃないから安心して。けど……ありがとね」

 

 最後、少し真面目な表情を浮かべたフィリアは呟くように礼を言った。それはきっと、アスナが元気を取り戻したことに関してなのだろう。

 これ以上とぼけても無駄だということを悟り、俺は観念して大きくため息を吐いた。まあ実際、フィリアに詳しく知られたところで問題ないだろう。そういうことを吹聴して回るような人間ではない。

 

「……別に、俺が何かしなくてもアスナはもう大丈夫そうだったぞ。ていうかそもそもお前が礼を言うようなことでもないし」

「ううん。昨日私、ハチに責任感じさせるような言い方しちゃったし……。ハチって案外頼まれたら断れないタイプじゃない? 余計なこと言っちゃったかなと思ってちょっと反省してたの」

「それこそ余計な気を遣うなっつの。別に俺はお前に頼まれたからってわけじゃなくて……その、なんだ、成り行きだ成り行き」

「……うん。そうだね。きっと私が何も言わなくたって、ハチは同じことしたんだろうね」

 

 こちらをを見透かすような笑顔で頷くフィリア。俺は妙に居心地が悪くなって、頭を掻きながらフィリアから視線を逸らした。

 いつかも誰かと、似たようなやりとりをしたような気がする。あれは夏の日の夜だったか。

 

 ――事故がなくたってヒッキーはあたしを助けてくれたよ。

 

 花火大会の帰り道。由比ヶ浜の言葉だ。

 あの時、俺は彼女の言葉を咄嗟に否定した。人生にもしもはなく、それは意味のない仮定だと切り捨てようとした。

 だが何故だろう。今のフィリアの言葉を、俺は否定するつもりにはなれなかった。

 俺は、変わったのだろうか。今の俺は、過去とは違った答えを出せるのだろうか。

 

 そんな取り留めのないことを考え、微妙な沈黙が場に広がる。しかしそれを打ち破るように、不意に遠くから歓声が響いた。釣られてそちらを見やると、ドヤ顔のアルゴがフラッグを掲げている姿が目に入る。そうして我に返った俺の隣、フィリアも気を取り直したようにその場から立ち上がった。

 

「終わったみたいだね。行こ」

「……いや、俺行っても意味ないし、先に宿帰ってるわ。あいつらにそう言っといてくれ」

「けど、何かハチのこと呼んでるみたいだよ?」

「は?」

 

 過去の記憶に思いを馳せ、若干メランコリックになっていた俺はもうこの場を後にしようとしたが、それはフィリアによって引き止められた。彼女が指差す先を見ると、何故かこちらに向かって大きく手招きするキリトと目が合う。俺はしばらく訝しんで立ち止まっていたが、やがてフィリアに手を引かれてそちらに向かった。

 

 フラッグを奪ったMVPであるアルゴを囲みながら、いまだ盛り上がる風林火山のプレイヤーたち。そこに近づいて行くと、やがてその輪の中からキリトがこちらに駆け寄ってきた。そして俺が何か言う前に、手に握り込んでいたものをこっちに投げて寄越す。俺は反射的にそれを受け取り、手に取ってマジマジと眺めた。

 

「何だよこれ。指輪か?」

 

 キリトから渡されたのは、ゴテゴテの装飾が施された金の指輪だった。しかし今これを俺に渡す意図が読めず、首を傾げる。さすがに愛の告白じゃないはずだ。……え、違うよね?

 若干背筋とケツに冷たいものを感じながら、キリトに目を向けた。そんな俺の内心など何処吹く風で、キリトの態度は飄々としたものである。

 

「いや、さっきまで完全に忘れてたんだけどさ、もしかしたらこの指輪使えるかもしれないと思って。昨日の射的屋で手に入れたアクセなんだけど、ちょっと面白い効果があるんだ」

 

 言いながら、キリトはストレージから同じ指輪をもう1つ出した。昨日は1人で射的屋に噛り付いていたキリトだったが、その甲斐あって狙いの景品は手に入れていたようだ。それも見たところ複数個所持しているらしい。昨日の夜にそれとなく成果を聞いた時には適当にはぐらかされたので、勝手に駄目だったものと思い込んでいた。

 

「へえ、どんな効果?」

 

 隣で見ていたフィリアが興味ありげにそう聞くと、キリトがニヤリと笑って指輪を右手の人差し指に嵌める。

 

「この指輪を嵌めるとな……武器が光るんだ!」

 

 言って、いつの間にかストレージから取り出していた片手剣を正眼に構える。黒い刀身のキリトの愛剣エリュシデータは、まるでソードスキルを放った瞬間のように眩い光を放っていた。そのまま、俺たちの間に数秒の沈黙が流れる。

 

「……」

「……じゃ、先帰ってるわ」

「いやちょっと待てよ!」

 

 閉口するフィリアに声を掛けて踵を返そうとした俺を、すがるようにキリトが引き止める。いや、そんなネタ装備を自信満々に見せられても……。

 

「そんなに馬鹿にしたもんでもないんだって! ソードスキル発動のタイミングが分からなくなるから、対人戦の駆け引きとかで使えるだろ?」

「それはまあ……一理ある、のか?」

 

 なにやら必死にもっともらしいことを言うキリトに向かって、俺は曖昧に頷いて返した。装備できるアクセサリーの数にも限りがあるので、その枠を1つ潰してまでやる必要があるのかは疑問だが、確かに言っていることの筋は通っている気がする。

 

「まあデメリットもあって、全ステータスが30%ダウンするんだけどな」

「完全に実用性皆無のゴミ屑じゃねえか」

 

 追加で提示された情報に、俺はすかさずツッコミを入れる。ネタ装備にしてもデメリットがエグすぎるだろアホか。けどこういう「使いどころあるの?」とツッコミたくなるネタ装備ほどキリトさんのお気に入りだったりするのだ。何故かガチゲーマーって妙なもの集めたりするの好きだよな……。

 そうして呆れかえる俺の隣、フィリアもしばらく苦笑いを浮かべていたが、やがて何かに気付いたように声を上げたかと思うと、次いで納得した表情を浮かべて頷いた。

 

「けど確かにそれ使えばみんなで雪合戦できるかもね。ハチとキリトとアスナにはいいハンデでしょ? あ、でも30%ダウンはちょっとやり過ぎかな」

「そこは技量でカバーするよ。攻略組に必要なのはステータスだけじゃないってところを見せてやるさ。な、ハチ?」

「いや、俺はやるとは一言も言ってないんだけど……」

 

 内心では「あ、これ何だかんだ強制参加させられるやつだ」と思いながらも、一応乗り気ではないというポーズを取っておく。いや、ここで食いついてがっついてるみたいに思われるのも嫌だし? 別に雪合戦したいとか全然これっぽっちも思ってないし? こういうのは2回までは断るのが礼儀みたいな? ……うん。我ながらつくづく面倒臭い性格してるな、俺。

 

「……ん? なあ、あれクラインたちじゃないか?」

「あ、ホントだ」

 

 俺が無駄な思考に頭を働かせていると、キリトとフィリアが遠方を見ながら声を上げる。彼らの視線の先を追うと、雪原の中を歩いてこちらに向かってくる2つの人影があった。よく目を凝らすと、確かにクラインとトウジの2人のようだ。

 2人はこの温泉街周辺を取り囲む広大なセーフティゾーンの正確なマップを作るために、朝から俺たちとは別行動を取っていた。ひとまずクラインとトウジで外縁を把握し、その後に全員で手分けして内側をマッピングしていくという打ち合わせになっていたはずである。

 ざっと見積もってもこのエリアの円周は5kmほど。進入禁止エリアなどを探りながら進まなければならないことを考えれば、2人のマッピング作業にはそれなりに時間が掛かるだろうと予想していたが、思っていたよりも大分早い帰還となったようだった。

 

「聞いてた予定より早いな。何かあったのか……ん?」

 

 そう呟いていたキリトが、2人を見つめたまま訝し気に眉を顰める。日差しを遮るように右手を額に当てて、小さく唸り声を上げながらさらに目を凝らした。

 

「クライン、何か背負ってるな。あれは……女の子か?」

 

 言われて、俺も再びクラインの姿をよく確認する。正面からなのでよくは分からないが、確かに誰かを背負っているように見える。黒く艶のある長い髪と華奢な手足から判断するに、それはかなり幼い女の子のようだった。

 背負われている少女には意識が無いようで、クラインが歩くたびにその手足が力なく揺れる。その体は暖を取るために毛布でくるまれていたが、そこから覗く手足は素肌のままで、この雪原地帯ではかなり寒々しい印象を受けた。

 そうして状況を分析しているうちに、クラインたちがこちらに到着する。その間黙って何か考えている様子だったキリトが、やがて戦慄したように口を開いた。

 

「お、おい、クライン……。お前まさか、その子誘拐して――」

「んなわけねぇだろッ! フィールドで行き倒れてんのを見つけて担いで来たんだよ!!」

 

 がなり立てるクラインを無視して、トウジの方へと視線をやる。すると彼はクラインに同意するように頷いたので、俺たちもようやく胸を撫で下したのだった。それを見ていたクラインは悲し気に「俺ってそんなに信用ねえのか……?」と呟いていた。

 ……いや、俺は信じてたぞクライン。まさかあまりの彼女欲しさにその辺の幼女を捕まえて光源氏計画でも始めたんじゃねえのかこの変態、とか全然思ってないし。

 まあ冗談はさておき、俺は改めてクラインが担いでいた件の紫の上(おんなのこ)に目を向けた。

 

 大人になったら美人になるんだろうな、と確信できる整った顔立ち。歳の頃は小学校低学年くらいだろうか。このフロアはアインクラッドの中でもかなり寒いエリアになるのだが、掛けられた毛布以外は白いワンピースしか身に着けておらず、防寒具はおろか靴さえ履いていない。クラインの言う通りこの少女がこの辺りのフィールドで行き倒れていたのだとしたら、かなり妙な話である。

 同じように少女をまじまじと観察していたキリトもこの異常な事態に違和感を覚えたようで、困惑した表情を浮かべている。

 

「けど、何でこんな小さい子が1人で……。しかもこんな上層に……ん?」

「気付きましたか?」

 

 呟きながら、何かに目を留めたキリトがいっそう困惑した表情を浮かべる。トウジが訳知り顔で言葉を返すが、俺には何の話をしているのかすぐには理解できなかった。しかし疑問に思った俺が「何が」と口にするよりも早く、少女の頭上を見つめていたキリトが小さく呟く。

 

「カーソルが、ない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とりあえずこの子を暖かいところで休ませてあげましょう、というアスナの常識的な言葉によって我に返った俺たちは、すぐにその場を後にして拠点にしている宿に戻ってきていた。

 もしかしたら何らかのバッドステータスに侵されているのかもしれないと、念のため少女に治癒結晶(キュアクリスタル)を使用してみたりもしたが特に変化は現れなかった。現状これ以上は打つ手がなく、意識のない少女のことはひとまず女性陣に任せ、男たちは自分たちの部屋に集まってクラインとトウジに詳しい話を聞いてみることになった。まずは簡単な状況の整理だ。

 

 当初の予定通りセーフティゾーンの外縁をマッピングするためにフィールドを歩き回っていたクラインとトウジだったが、その途中、深く積もった雪の中に1人倒れる少女を見つけたらしい。

 初めは何かのクエストの開始点かと思ったそうだが、少女に接触してもそれらしい反応はない。訝しんだ2人が少女を詳しく調べていると、やがてそれに気付いたのだ。少女の頭上、そこにあるはずのカラーカーソルが影も形もないということに。

 

 通常、アインクラッドに存在するキャラクターにはNPC、プレイヤー、モンスターオブジェクトを問わず、その頭上にはカーソルが存在する。特性によってカラーリングが変わったりはするが、カーソルが存在しないという事態は今まで確認されたことはなかった。

 

 かなりイレギュラーな事態だが、ともあれこの雪原フィールドに意識のない少女を放置しておくことは出来ない。そう判断したクラインとトウジは予定していたマッピング作業を一旦切り上げ、少女を保護して帰ってきたというわけだった。

 

 

「何かゲームに不具合が起こってるのは間違いない。問題はこの子がNPCなのかプレイヤーなのかってことだけど……」

「少なくともただのNPCにゃ見えねえな」

 

 キリトの呟きに言葉を返したクラインが、ちらりと部屋のソファを見やる。そこには先ほど目を覚ましたばかりの少女が、アスナとフィリアに挟まれて座っていた。

 少女は2つの小さな手のひらで大きめのマグカップを大事そうに持ち上げ、ゆっくりとココアを飲んでいた。そしてクラインの視線に気付くと、そのまま不思議そうに首を傾げる。なにこの子可愛い。

 

 少女の名前はユイと言うらしい。

 幸い宿に着いてから5分ほどで意識を取り戻したようだ。そしてこちらの部屋に来る前にアスナたちは本人に軽く事情を聞いてみたそうだが、今のところあまり有益な情報は得られていない。

 どうやら記憶が大きく欠落しているらしく、少女は自分の名前を名乗るのが精いっぱいだった。さらにその振る舞いは見かけの年齢よりも一段と幼く見え、幼児退行のようなものも引き起こしているのではないかと思われた。

 何か相当怖い目にあったのかもしれない。そう言って少女を見つめるアスナの瞳には慈愛が満ち、何かと甲斐甲斐しく世話を焼いていた。少女の方もこの短い時間でかなりアスナに懐いているようで、少女のことは彼女に任せておくのが一番良さそうだと感じた。

 

「NPCって言っても色んな奴が居るから一概には言えないけど……この場合はプレイヤーだと考えた方が自然かな。NPCだとしたら最初にクラインが接触した時点で警告が出るはずだ」

 

 女性NPCなんかの身体に男プレイヤーが触れると、割と簡単にハラスメント警告を受けることになる。キリトが言っているのはそのことだろう。プレイヤー同士でも同様の警告は出るのだが、NPCと比べると大分その基準は緩い。

 

「NPCでもプレイヤーでも関係ないわ。こんな小さな子を1人で放っておけないもの」

「だな。もしかしたらどっかにリアルの知り合いとか、親御さんが居るかもしれねぇし、とりあえずうちで保護してその辺探してみるか」

 

 強い意志を感じさせるアスナの言葉に、クラインも同意して頷いた。

 クラインの言う通り、この少女がプレイヤーだとするのなら保護者的な立場の人間が一緒にログインしている可能性もある。……生きていれば、の話だが。

 まあ悪いことばかり考えても仕方がない。クラインの提案自体に異議はないので、とりあえずことの成り行きを見守って全体の方針に従うとしよう。

 

「サーシャさんにも連絡を取ってみましょう。もしかしたらあそこで保護されている子供たちと関係があるかもしれません」

「それならもう直接行った方が良くないか? この辺大体セーフティゾーンだって言ってもこんな上層に子供を置いとくのちょっと怖いぞ」

「そうですね。じゃあもうここは早々に切り上げて――」

 

 トウジとクラインが中心になって、話を詰めていく。この分ならさっさと決まりそうだな。そう思いながら俺は立ったまま壁にもたれ掛かり、何とはなしに窓の外へと視線を移した。

 いい天気だなー……などとぼけーっと考えていると、不意に何者かに服の裾を引かれる。そしてそちらに目を向けると、いつの間にか近くまで来ていた白いワンピースの少女、ユイの大きな瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていたのだった。

 

「ん、どした?」

 

 体に染みついたお兄ちゃんスキルがオートカウンターの如く発動し、自然な動作でしゃがみ込んで少女と視線を合わせる。ユイは俺をじっと見つめたまましばらく動かなかったが、ややあって躊躇いがちに口を開いた。

 

「……な、まえ」

「ん? ああ、そう言えばまだ自己紹介してなかったな。俺の名前はハチだ」

「あ……ち?」

「ハチな。まあ好きに呼んでいいぞ」

「あ、ち……あち。……ぱぱ?」

「パパはやめろ」

 

 妙なことを口走るユイに、つい語気を荒げて突っ込んでしまった。いや、でもここはしっかりと否定しておかなければならないだろう。こんな子にパパなんて呼ばれてしまった日には、きっと新しい扉を開いてしまう。お巡りさん、俺です。

 俺の突っ込みに驚いたユイはびくっと体を震わせて後ずさりし、後ろに立っていたアスナへとしがみついた。アスナは宥めるようにユイの小さな肩を抱きながら、俺を睨み付ける。

 

「ちょっと、ユイちゃんを怖がらせないでよ」

「あ、いや、スマン。けど、パパはまずいだろ」

「……なんでよ。いいじゃない、呼び方くらい」

「いやお前よく考えろよ。自分にこんな可愛い娘がいたとして、その子がどこの馬の骨とも知れない小僧のことをいつの間にかパパとか呼んでたら、俺だったら発狂するぞ。相手の男を殺して俺も死ぬまである」

「さすがにその親バカっぷりにはちょっと引くけど……」

 

 一瞬、冷たい目をこちらに向けるアスナだったが、俺の言葉に対してそれなりに思うところもあったようで、しばし考えるように黙り込んだ。そうして何かを思い悩む様子で視線を伏せていたが、やがて決心するようひとつ頷いて顔を上げる。

 

「でも確かに、一理あるかもしれないわね。私も――」

「ママ?」

「ん、なーに? ユイちゃん?」

「おい」

 

 ユイのママという言葉に反応し、緩み切った笑みを浮かべるアスナ。俺がツッコミを入れると我に返ったようで、「はッ。つい……」などとベタなことを呟いていた。うん。今の流れで大体のことは理解できた。

 大方さっきの俺の自己紹介と同じようなやり取りをして、アスナはママ呼びを受け入れてしまったのだろう。というか、さっきの満更でもないアスナの反応を見る限り、もはや彼女は新しい扉を開けてしまっているようだ。お巡りさん、こいつです。

 

 ただまあ、それはきっとアスナの優しさでもある。何処かでユイのことを心配しているかもしれない両親のことよりも、彼女は今ここにいるユイの心を慮っているのだ。それは決して間違っていることではない。

 だから、今はアスナのその意志を尊重しよう。そう思いながら、俺は改めて口を開く。

 

「……ま、非常事態だしな。お前が良いなら良いんじゃないの。相手の親も許してくれるだろ」

「そ、そう? うん、そうよね」

 

 躊躇いがちに頷くアスナ。それを認め、俺は次いで彼女が大事そうに手を添えているユイへと視線を移した。

 

「さっきはごめんな。仲直りしよう」

 

 言って、右手を差し出す。ユイはまだ不安気な表情でこちらを伺っていた。

 

「俺はパパにはなれないけど……まあ、とりあえずお友達ってことで。それじゃ駄目か?」

 

 アスナの意志を尊重するとは言ったが、それと俺がパパ呼びを許容するかはまた別の話だ。というかアスナがママと呼ばれているなら、なおさらパパなんて呼ばせられるはずがない。親代わりとなってユイの心のケアをするのはアスナに任せて、俺は別のアプローチで攻めるとしよう。

 

「……おとおなち?」

「ああ。お友達だ。一緒に遊んだり、何処かに出かけたり、自分の都合のために講義の代返を押し付けたりするあのお友達だ」

「なんか最後だけおかしくなかった?」

 

 アスナから突っ込みが入ったが、別におかしくはない。なんなら普段は全然話さないのにテスト前だけノートをコピーさせてくれと頼みに来るあいつらだって世間一般的にはオトモダチのはずだ。ぼっちというのは大体が割と真面目に授業を受けていてノートもきっちりと取っているので、テスト前にはよく使われ……いや、頼りにされるのである。

 

 ユイは差し出された手を見てしばらく固まっていたが、やがて俺と目を合わせて小さく頷いた。同時にひんやりとした小さな手が、俺の指先を躊躇いがちに包む。その手を優しく握り返すと、ようやく彼女は笑みを浮かべてくれた。

 ほっと胸を撫で下ろし、俺も自然と頬が緩む。しかしすぐに妙な視線を感じて顔を上げると、何とも言えない表情を浮かべたアスナと目が合った。

 

「……ハチ君って、小さい子に対しては妙に素直で優しいわよね」

「いや、子供相手に意地はって厳しくする奴の方が珍しいだろ」

「そういうことじゃなくて……まあ、いいわ。よかったねユイちゃん。お友達が出来て」

 

 アスナは諦めたような表情でかぶりを振ってから、再びユイへと笑顔を向けて語り始めた。戯れる2人の姿を見ていると母娘というよりは姉妹のようだ。まあアスナの年齢を考えれば当然だろう。

 ふと、俺は周囲が妙に静かになっていることに気付いた。いつの間にかクラインとトウジの話は終わっていたようで、今は全員の注目がこちらに集まっている。

 さっきのやり取りを一部始終見られていたのだとしたら、ちょっと恥ずかしいんですけど……。そんなことを考える俺の耳に、部屋の隅から必死に笑いを堪えるような声が届く。

 

「ぷっ……お友達……。いつもぼっちがどうとか言ってるあのハチが、お友達だって……!」

「ちょっとフィリアさん、笑っちゃ悪いですって……」

「おいそこ、聞こえてんぞ」

 

 こそこそとやり取りをするフィリアとシリカ。俺は気恥ずかしさを隠すように、ガシガシと頭を掻きながら声を上げたのだった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。