やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

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第31話 休日

 2024年4月某日。

 早朝。日が昇ったばかりの街の中はまだまだ肌寒かったが、露地に植えられた桜は満開を迎えつつあった。ここ、始まりの街は西洋風の街並みになっているので少し違和感はあるが、これはこれで趣がある。そもそも海外にも桜の名所は多いので、違和感を覚える方が不自然なことなのかもしれない。

 空は雲一つない快晴だ。こんな日は外でシートでも敷いて花見でも――している奴らを家の窓からヌクヌクと眺めていたいところだ。4月ってまだ結構寒いよな。こんな中わざわざ外で花見をしている奴らの気が知れない。

 などと考えながらも、今日も今日とて俺はキリトとともに訓練所まで足を運んでいた。少し前まではアスナもよくこの朝練に参加していたのだが、最近はギルドの方が忙しいらしく俺たち2人だけでの活動だ。

 そうして対人戦を意識した訓練をこなし、いつもの如く模擬戦でキリトにボコボコにやられた後のことだった。

 

「――二刀流?」

 

 訓練所の片隅、藁で作られた打ち込み用のカカシの隣で座り込んで息を整えていた俺は、間の抜けた声を上げて振り返った。視線の先、戦闘用の装備から街歩きの楽な服装に着替えていたキリトが小さく頷く。相変わらず服の配色は上から下まで黒一色だ。

 

「ああ。この前スキル一覧眺めてたら見つけてさ。いつの間にか追加されてたみたいなんだ」

「へえ。ちょっと見せてみろよ」

 

 そう言って立ち上がり、キリトが開いていたシステムウインドウを覗き見る。スロットに様々なスキルが並ぶ中、確かに《二刀流》という名前のスキルがそこに存在した。

 キリトがそれをタップし、詳細を表示する。俺はそれを眺めながら、小さく唸り声を上げた。

 

「これは……すげぇな」

 

 まず攻撃力の補正が異常である。二刀流というだけあって片手剣を両手に装備できるようなのだが、単純に片手ずつ攻撃力が設定されているわけではなく、両手の剣の攻撃力を加算した後に0.75倍した数値が自身の攻撃力になるらしい。

 要するに片手剣の攻撃力の1.5倍になるわけだ。剣を2つ装備したことによって手数が増えることも考えれば、それ以上の効果を発揮することも想定される。さらには通常攻撃のダメージ倍率も高めに設定されているようで、ソードスキルを使用せずに戦った場合でも相当なDPSが稼げそうだった。

 

「さすがにぶっ壊れ過ぎだろ……。ソードスキルが弱いパターンだったりすんのか?」

「まだ熟練度たまってないから初期のやつしか使えないんだけど……」

 

 そう言いながらキリトはシステムウインドウを弄り片手剣を2つ装備すると、それをクロスするようにソードスキルを構えた。視線の先にあるのは訓練用のカカシだ。このカカシは破壊不能なのだが、攻撃を打ち込むことで与えたダメージ量を数値化して計ることが出来る。

 一瞬の溜めの後、放たれたのは2連撃。両手を時間差で払うようにして繰り出された斬撃は、恐ろしいほどのダメージ量をたたき出していた。

 

「……ぶっ壊れ過ぎて産廃ラッシュだな。あれ? もしかして俺もう働かなくていい?」

「んなわけあるか」

 

 俺のふざけた呟きにキリトは呆れて突っ込みを入れる。システムウインドウを弄って再び装備を解除しているキリトを眺めながら、次いで俺は真面目に口を開いた。

 

「しかしこれ、マジでチートクラスだぞ。ユニークスキルなんじゃねーの?」

「ああ、俺もそう思う」

 

 現在アインクラッドは第59層にまで到達しているが、ヒースクリフの神聖剣、PoHの暗黒剣が見つかって以来、ユニークスキルと見られるスキルは発見されていない。

 ユニークスキルは、このSAOのゲームバランスを崩すほどの性能を持っている――と、プレイヤーの間では認識されている。長い間攻略組でトッププレイヤーを張っているヒースクリフの神聖剣については言わずもがな。暗黒剣については能力を十全に発揮する前にPoHが監獄エリアへと収監されることになったので確かなことは言えないが、その能力の片鱗だけでも相当な性能だったことが伺える。かつて俺がPoHと対峙した時、もし奴が暗黒剣の熟練度をカンストしていたなら俺は手も足も出ずに瞬殺されていたことだろう。

 そんな規格外なユニークスキルが新しく発現したとなれば、これは相当なゲーム攻略の手助けになることは確実だ。しかしそれを手に入れた当の本人、キリトは微妙な表情を浮かべてこちらを見ていた。

 

「ハチは、これどうすればいいと思う?」

「どうするも何も、こんなおいしいスキル使わない手はないだろ」

「いや、まあそうなんだけど……多分、騒ぎになるよな」

「まあ、新しいスキルが見つかったら大抵そうなるからな。頑張れ」

「他人事だと思って……」

 

 そう言って恨みがましい視線をこちらに向けるキリト。「いや、実際他人事だし」と返すと大きくため息を吐いていた。「それでもハチとキリトゎ……ズッ友だょ……!!」とさらに追い打ちを掛けると無言のキリトに腹を一発殴られた。割とマジだった。

 

「で、実際どうすればいいと思う? 出来れば隠しておきたいんだけど……」 

「まあ、お前が舐めプで戦って、そのせいで誰かが死んでも良いって言うんだったら隠しておけばいいんじゃないの?」

「ぐっ……」

 

 そうして言葉に詰まったキリトは、眉間に皺を寄せて考え込んだ。ちなみに「舐めプ」とは「舐めたプレイ」の略だ。対戦ゲームなどでやると煽りになるので非常に嫌がられる。

 SAOでは命が掛かっているので、敵を舐めてかかるようなプレイヤーはほぼ存在しない。奥の手を温存しておくという考え方もあるが、このゲームでは基本的に敵は人間ではないのでそんな高度な駆け引きが必要になる場面は少なかった。

 

「まあボス戦以外は最前線で誰かに会うことも滅多にないし、しばらくお試しで使ってみてから考えろよ。熟練度上げてみないと最終的な使い勝手もわからないしな」

「……だな。そうするよ」

 

 さすがに可哀想になってきたので助け舟を出すように俺がそう言うと、キリトは再びため息を吐いて頷いた。

 最近はゲーム攻略も非常に順調なので無理をする必要もないかもしれないが、余裕があるに越したことはない。一度の躓きが大きな損害に繋がることなど珍しくもなかった。決して「キリトが強くなればその分俺が楽できるんじゃね?」などと言うことは考えていない。まあ結果的に俺が楽になるのなら大歓迎だが。

 

 そうしてキリトはその日から二刀流を使い始め、順調に熟練度を上げていった。しかし強力無比だと思われた二刀流にも致命的な欠点が――などということはなく、使い込めば使い込むほどにその有用性は増すばかりだった。うん。間違いなくユニークスキルだわ、コレ。

 結局アルゴを通じてその情報をすぐに公開することになり、吹っ切れたキリトはその後のボス攻略では二刀流を駆使し大いに活躍していた。そうして3人目のユニークスキル持ちプレイヤーとしてゲーム攻略を牽引し、キリトは《黒の剣士》としてアインクラッド中に名を知られていくことになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白い部屋の中、真ん中にポツリと存在する昇りのエスカレーターを見つめていた。

 足は鉛のように重く、踏み出すことは出来ない。手を伸ばしても、決して届くことはない。昇り続けるエスカレーターを、俺はただただ見つめていることしか出来なかった。

 やがて、そんな俺の目の前をキリトとアスナの2人が通り過ぎる。2人は楽しそうに笑みを浮かべながら、そのエスカレーターへと乗り込んだ。

 

 ――待ってくれ。

 

 その呼びかけは声にはならず、2人は俺の存在に気付かずにゆっくりとエスカレーターに運ばれて行ってしまう。どれだけ叫び続けても、2人は無慈悲に遠ざかっていった。

 どれほどの時間が経ったのだろう。既にキリトとアスナの姿は見えなくなり、その場には俺だけが立ち尽くしていた。

 白い部屋へと、不意に濁流が押し寄せる。俺はその中で溺れ、誰かに助けを求めることも出来なかった。

 

 そんな異常事態の中、却って俺は冷静になる。ああ、これは夢だ、と。

 水の中なのに、呼吸は出来る。夢の中でよくある感覚。

 最悪の夢見だ。早く覚めろと念じながら、俺は目を閉じて蹲った。しかしその瞬間、何故か本当の息苦しさが俺を襲う。

 

 あれ? ちょ、コレ夢じゃないの? マジで息が出来ないんですけど……! ちょ、マジで冗談抜きで苦し――

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ぶはぁッ!?」

「あ、起きた」

 

 大きく息を吐き出しながら、飛び起きた。

 生きている。水の中ではない。俺はその事実に安堵しながら、荒い息を整えた。そして俺は状況を確認しながら、周囲に視線を走らせる。

 自室のベッドの上である。いつの間にか、俺の手の中には妙にモサモサした物体Aが抱えられていた。物体Aは俺と目が合うと目を細めて「ピィ!」と元気よく鳴き声を上げる。俺の呼吸を妨げていた正体はお前か、と思いながらそれを睨み付ける。若干まだ顔に温もりが残っていた。

 

「お、おはようございますハチさん。ごめんなさい、そんなに驚くとは思わなくて……」

「いいのよシリカ。こんな時間まで寝てるハチが悪いんだから」

「お前な……」

 

 そう言って俺が抗議の視線を向ける先、ベッドサイドに立っていたのはシリカとフィリアの2人だった。申し訳なさそうに目を伏せるシリカとは対照的に、フィリアはいたずらっぽい笑みを浮かべてこちらを見つめていた。

 女というもの、とりわけ美少女というものに分類される奴らというのは卑怯である。そんな無邪気な顔をされては怒る気にもならず、俺はため息を吐いた。

 もし相手が材木座などならば数日間ねちっこく嫌味を言ってやるまである。そして戸塚だったら無条件で許す。むしろご褒美です。

 抱えていた物体A――フェザーリドラのピナをその主であるシリカへと手渡してから、俺は重い瞼を擦る。部屋の窓から外に目をやると、既に相当日が高くなっていることに気付いた。

 

「あー……。今、何時だ?」

「もう12時過ぎですよ」

「もうそんな時間か……」

「寝過ぎよ。ていうか朝キリトと訓練してたんじゃないの? 二度寝?」

「まあ、うん」

 

 頷いて、俺はベッドに腰かけたまま大きく伸びをする。寝起きは悪い方だが、ばっちり昼過ぎまで二度寝していたので頭は割とスッキリしていた。

 

「……で、お前らなんで居んの?」

「トウジさんにハチを起こしてきてくれって頼まれたのよ」

 

 俺の問いに、フィリアがそう答える。美少女2人が部屋まで起こしに来てくれるとか「これなんてエロゲ?」という思考が過ったが、口にはしない。まあベッドに潜り込んできたのはモサモサしたちびドラゴンというオチの誰得イベントだったのだが。

 しかしわざわざトウジが俺を起こすように2人に頼んだということは、何か仕事でも押し付けられるのだろうか。俺が若干憂鬱な気持ちでそう考えていると、シリカがその疑問に答えるように口を開いた。

 

「今ホームにユキノさんが来てるみたいですよ。ハチさんかキリトさんに、何か話があるって言ってました」

「あいつが? また何か厄介ごとじゃないだろうな……。キリトは居ないのか?」

「『今日は新しい剣を作るんだー』って言って少し前に出かけましたよ」

「ああ、そういえばそんなこと言ってたな……」

「ほらほら。ユキノさん待たせてるんだから、早く支度して」

「わかった、わかったからつつくな」

 

 ちょっかいを掛けてくるフィリアをあしらいながら、重い腰を上げる。支度とは言ってもここですることなどほとんどないので、軽くベッドを整えた後、すぐに俺たちは部屋を後にしたのだった。

 フィリアとシリカは午後から予定があるらしく、その後はそそくさと2人で出かけて行った。あの2人を見ていると仲の良い姉妹のようだ。うちは男所帯なので、数少ない女性メンバー同士気が合うところがあるのだろう。上手くやってくれているようでなによりである。

 2人を見送った俺はひとまず顔を洗いに洗面所へと向かった。SAOでは寝ぐせも付かないし睡眠中に顔が汚れることもないが、まあ気分的なものだ。そうして手早く支度を済ませた後、俺は応接室へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2024年6月26日

 第62層主街区《パストラル》

 牧歌的な情緒漂うこの街の一角、一際大きな木造の屋敷を数棟の家屋が取り囲む一帯がギルド《風林火山》の現在のホームとなっていた。

 今や風林火山もメンバー数が50名を越える中規模ギルドだ。ちなみにフィリアも数ヶ月前に風林火山に加入している。過去の経験から最初のうちはまだギルドに対して拒否反応があったようだが、うちに何度か通っているうちにそれも薄れていったようだった。今ではシリカと合わせて風林火山の美少女姉妹などと呼ばれているらしい。

 

 そんな感じでなんやかんやとギルドメンバーが増え、手狭になってきた第1層のギルドホームから第62層へと引っ越しをしたのが1ヶ月ほど前だった。

 このパストラルは上層にしてはかなり土地が安く、かつては万年金欠だった風林火山もそれなりに資金に余裕が出てきた頃だったので、なんとかこの一帯を購入することが出来たのだ。屋敷には牧場が併設されているが家畜は置いておらず、風林火山ではそこを訓練所代わりに使用していた。俺とキリトの朝練も最近ではここを利用している。

 

「あ、兄貴! おはざまーす!!」

「……兄貴はやめろっつってんだろ」

 

 廊下を歩いていると、短い金髪をツンツンに逆立て、左耳と唇の端にピアスを装備した見るからにチンピラといった風貌の男に声を掛けられた。俺はうんざりとした気持ちを隠そうともせず、男を見つめる。

 フィリアと同時期にうちに加入した、チンピラその1だ。確か名前はウォル……ウォルなんとかさんだ。かつて潮騒洞窟というダンジョンで起こった一連の出来事を経て、何を血迷ったのか俺のことを「兄貴」と呼んで慕っている。ちなみにチンピラその2とその3も似たようなものだ。

 その風貌に気圧され、こいつらが風林火山に加入した当初はその対応にかなりテンパったりもしたのだが、今ではもうすっかり慣れてしまった。見た目は中々厳ついが、その中身は案外悪い奴ではない。ただ頭が弱いだけなのだ。総武高の戸部に輪をかけて馬鹿にした感じである。

 チンピラその1は俺の話を聞いていなかったのか、「兄貴、兄貴!」と言って言葉を続ける。

 

「見ました? 何か今うちのホームにめちゃマブい女の子が来てるんスよ! 俺ああいう黒髪清楚系の子がめっちゃ好みで……」

「……ああ、うん。そう。でも絶対お前は関わらない方が身のためだぞ」

 

 「マブい」って単語久しぶりに聞いたわ……と思いながら、俺はチンピラその1にそうやって忠告してやる。雪ノ下のことを言っているのだろうが、間違いなくこいつとは反りが合わない。「混ぜるな危険!」と顔に書いてあるレベル。

 

「あれ? 知ってたんスか? もしかして兄貴のコレっすか?」

「んなわけねぇだろ。お前、本人の前でそれ絶対言うなよ。殺されるぞ、俺が」

 

 小指を立てるチンピラその1に、俺は身の危険を感じながらつっこんだ。しかしそんな俺が抱いた危機感はこいつには伝わらなかったようで、何故か訳知り顔のチンピラその1はうんうんと頷きながら言葉を続ける。

 

「まあ、安心してくださいよ。兄貴のオンナに手を出すような真似はしないッスから。フリーとゲフャッハーにも良く言い聞かせとくんで」

 

 相変わらずその2人目の名前はどうやって発音してるんだ……。という疑問をとりあえず頭の隅に追いやり、俺は否定の言葉を口にしようとしたのだが、それを遮るようにしてチンピラその1は再び声を上げる。

 

「あ! そういや自分、クラインさんに呼ばれてるんでした! 失礼しゃす!!」

「あ、おい……」

 

 呼びかける間もなく、チンピラその1はその場を走り去る。本当に全然人の話を聞かないやつだな……。何となくひき逃げにでもあったような気分だ。俺はそうしてため息を吐きながら、その背中を見送ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ノックをして俺が応接室の中へと足を運ぶと、そこにはテーブルを挟んで向かい合わせに座る雪ノ下とトウジの姿があった。

 応接室とは言っても簡素なもので、小さな部屋の真ん中に木製のテーブルと椅子が6脚おいてあるだけである。ここを来客が利用するのは雪ノ下がうちのギルドに仕事の打ち合わせに来た時くらいなので、実質会議室や執務室と言った方がいいのかもしれない。

 

「久しぶりね。元気そう……ではないみたいだけれど、何かあったの?」

 

 げんなりとした気分が表情に出ていたのか、俺の顔を見て雪ノ下がそう口にした。トウジの隣の席に腰を下ろしながら、俺は首を振って答える。

 

「いや、大したことじゃない。ちょっとそこでチンピラに絡まれただけだ」

「チンピラ……確かに、あなたって何かと絡まれやすそうな風貌をしているわよね」

「そこ納得しちゃうのかよ……。まあ、否定できないけど」

 

 何を隠そう俺は千葉でカツアゲをされた実績がある。ぼっちというのはそういった標的にされやすいのだ。それ以来、俺はカツアゲ対策として現金はいくつか分けて持ち歩くことにしている。靴下の中にお札を入れておくとジャンプさせられてもバレないのでオススメだ。しかし稀にその存在を忘れてそのまま洗濯してしまうので要注意である。……なんだか少し泣けてきた。

 隣に座るトウジは愛想笑いを浮かべていたが、ややあってテーブルの上に散らばっていた書類を片付け始める。いつものように、中層から下層のプレイヤー支援について打ち合わせをしていたのだろう。しばらく前から若年層プレイヤーを対象とした学業指導なども本格的に行い始めたようで、最近はますます忙しくしているようだった。

 全ての書類をストレージへとしまい終えると、トウジは一息ついてこちらへと視線を向ける。

 

「ではこちらの話はもう済んだので、僕は失礼しますね。今日は一日ホームに居る予定なので、何かあったら呼んで下さい」

「はい。今日もありがとうございました。またよろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ。ではごゆっくりどうぞ」

 

 そう言って席を立つトウジに、雪ノ下も立ち上がって頭を下げる。割とビジネスライクな関係なんだなと俺は妙な感想を抱きつつ、そこでトウジを見送った。

 まあ俺と雪ノ下の関係も、今のところいうほど友好的なものではない。トウジが出て行った後、特に雑談などを交えることもなく本題に入っていった。

 

「それで、俺かキリトに話があるって聞いたんだけど?」

「話、というほどのことでもないのだけれど……。近いうちに、軍の部隊が最前線に復帰するかもしれないの」

「へえ……。ん? それってなんか問題あるのか?」

 

 言いながら、俺は首を傾げる。

 今では一般的に《軍》と呼ばれるようになったギルドALF。その前身となったALSの時代には一部のプレイヤーは攻略組として最前線で活躍していたが、第25層事件を機にその力は失われてしまっていた。それ以来、今まで最前線で《軍》の活躍を聞くことはなくなっていたが、それでもその規模から考えても潜在的には大きな力を持ったギルドだ。《軍》の一部のプレイヤーが最前線へと復帰するのは不自然なことではないし、戦力が増えるのなら攻略組としても歓迎すべきところだった。

 だが、何故か雪ノ下の言葉には何かを懸念するような響きがあった。そしてそれは勘違いではなかったようで、雪ノ下はため息を吐くように俺の疑問に答えたのだった。

 

「軍に所属する高レベルプレイヤーは、大体がキバオウの息がかかったプレイヤーなのよ」

「ああ、なるほど……。キバオウチルドレンってことな」

「言い得て妙ね……」

 

 そうして、俺は雪ノ下が言わんとするところを理解して頷いた。

 しかしその名前、かなり久しぶりに聞いた気がする。キバオウと言えば、あのトゲトゲとした奇抜な頭部のシルエットが特徴のプレイヤーだ。未だにあの髪型してるのかな、あいつ……。

 

「あなたとは因縁が深い相手だと聞いているわ。過去の不祥事があるから実際に指揮権は持たせないようにしているけれど……曲がりなりにも第25層までは攻略組を牽引していた男だから、未だにギルド内での発言力は強いのよ。シンカーさんの派閥には武闘派が居ないからなおさらね。今のキバオウは部隊の顧問のような立ち位置にいるわ」

「顧問ってことは、キバオウ自身が前線に出てくることはないのか?」

「ええ。それはまずないと思っていいわ。ただ、あなたもわかっているでしょうけど、キバオウは独善的で自尊心の高い男よ。部隊に何を吹き込んでいるかわかったものではないわ」

 

 雪ノ下は俺に警告するようにそう口にする。

 こいつの他人に対する人格評価は過剰に辛口であることが多いのだが、キバオウに至っては俺も同じような印象を持っていた。そんなトラブルメーカーが、ゲーム攻略という一点においては地味に優秀な能力を持っているというのも厄介なところだった。

 そんなキバオウと俺の関係はあまり良好とは言えない。第1層で俺がキバオウをぶん殴った事件は言わずもがなだが、一応の和解を経たその後もあいつが最前線にいた頃は何度か衝突を繰り返していた。

 

「まあ、だからっつって俺に何か仕掛けてくるってこともないだろうけど……。あー、けどキバオウチルドレンっていうと、なんか暴走して突っ走りそうな気はするな」

「私も概ね同意見よ。身内の不始末を押し付けるようでとても心苦しいのだけれど、気に留めておいてくれると助かるわ」

「ん、覚えとくわ」

 

 そんな雪ノ下の頼みに、俺は素直に頷いた。攻略組に合流するというのなら最終的にはヒースクリフやハフナーの指揮下に入ることになるのであまり俺には関係ないかもしれないが、一応頭の片隅に留めておく。

 大方用件は終わったのだろう。雪ノ下は目を伏せ、小さくため息を吐いていた。長いまつ毛が目元に落ち、白い肌と相まってその主張を一層強くする。不覚にも俺がそれに見とれていると、ポツリと呟くように雪ノ下が口を開いた。

 

「それにしても、組織というものは中々ままならないものね」

「……珍しいな。泣き言か?」

「いいえ。ただの感想よ」

 

 間を置かず、雪ノ下は毅然とした態度で返答する。だが、心なしか雪ノ下の疲れたような表情が一瞬垣間見えた気がした。そこに若干の不安を覚えたが、他のギルドの内情について俺が深く踏み入ることなどできはしない。それはシンカーやユリエールに任せるしかないのだろう。

 俺が気を揉んだところで無駄なことだ。そうして懸念を振り払うように、軽く頭を掻いた。しかし、雪ノ下がほんの少し見せた儚げな印象だけが、何故か俺の心の中に強く残って消えてくれないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪ノ下を見送った後、すぐに俺も1人ギルドホームを後にした。今日は特にクラインやトウジから指示がなかったので、久しぶりの完全なオフだ。

 とは言いつつも、何だかんだとやることは多い。適当な店で飯を済ませた後は消耗品の買い出しにNPCの店を回り、それが終わるといくつかのプレイヤーの店を見て回った。

 現実世界では具体的に買いたいものがある時だけ買い物に行くタイプの俺だが、SAOの中ではそうもいかない。常に市場をチェックしていなければ、有用なアイテムや装備などはさっさと他のプレイヤーに買われてしまうのだ。攻略組の強さがそのままゲーム攻略の速度に繋がるため、エギルのところや一部の店舗は攻略組に対して優先的に品物を売ってくれたりするが、相手も商売なので絶対というわけではない。迷宮を攻略している間などはあまり他の層を回っている余裕もないので、こういった休みの日に市場を見て回るのはほとんど日課になっていた。

 それでも基本的に収穫がある日の方が少ない。今日も特に気になるアイテムなどはなく、プレイヤーの経営する商店をただ冷やかして回るだけに終わりそうだった。エギルの店の品物をチェックした後は装備品のメンテナンスのため第48層でサチが経営している店へと向かったのだった。

 

 

 

 第48層、主街区《リンダース》

 主街区とは言いつつも、ここはそれほど発展した街ではない。高台から見下ろす景観には赤茶けた桧皮葺(ひわだぶき)の屋根がぽつぽつと並び、その中に点在する茅葺も相まって田舎臭い印象を受ける街並みだった。

 それでもこの街に店舗を構える生産職プレイヤーは多い。その大きな要因は、街の中を縫うように駆け巡る水路と、それを利用した水車という動力の存在だ。現実世界でも脱穀、製粉、製糸などに広く利用されていたという水車だが、このゲーム内でも生産系スキルの使用に際し多岐に渡って利用されている――らしい。まあ、この辺の話は全部サチからの受け売りだ。

 

 転移門から徒歩3分。俺は迷うことなく《L&S》と看板に書かれた店舗へと足を運んだ。

 店内はそれなりに広く、大きく戦闘用の装備品と普段使いの衣類の2つに分かれて陳列してあった。衣類はその大体が女性もので、店内を物色しているのも女性プレイヤーばかりだ。奥まった場所には下着コーナーなども置かれているらしい。

 ぼっちの男性客にとってはあまり居心地のいい空間とは言えないので、さっさと用件を済ませることにする。店内奥、清算カウンターに待機している店番NPCに声を掛けると、「少々お待ちください」と口にしてバックヤードへと下がっていった。そして間を置かず、作業着なのだろう可愛らしい青のエプロンドレスを身に纏ったサチが顔を出した。

 

「あれ、ハチ? どうしたの急に?」

「いや、装備のメンテナンス頼もうと思ってな」

「そんな、連絡してくれればこっちから行ったのに……」

「いや、そんな気遣わなくていいから。お前も忙しいだろ」

「ハチほどじゃないよ。それに好きでやってることだし」

 

 そう言って薄く笑顔を浮かべるサチ。最近は店も繁盛しているようだし、充実した日々を送っているようだ。そんな忙しい仕事の合間を縫って度々風林火山のギルドホームまで出張メンテナンスサービスに来てもらっているので、本当にサチには頭が上がらない。

 

「とりあえず、中に入って? 今ちょうどアスナも来てるんだ」

「あ、いや、別にここで……」

「いいからいいから」

 

 返事を待たず、サチは先導するように店の奥へと入っていってしまう。固辞する理由もなかったので、俺は潔くその背中へと付いて行くことにした。

 店の奥には下へと続く階段があり、その先がサチの作業場になっている。表通りよりも一段低地の水路に面した立地なので地下という訳ではなく、窓からは陽の光が差し込んでいた。ここは店を一緒に経営しているという女鍛冶屋の作業場も共用となっているようで、奥には炉や鍛冶に使用するのであろうよくわからない道具が乱雑に放置されていた。

 その一角、テーブルと椅子が用意された休憩スペースと思われる席には先客の姿があった。血盟騎士団のイメージカラーである紅白の騎士服を身に纏った少女――アスナは俺と目が合うと軽く手を振って声を上げる。

 

「ハチ君。やっぱり来たんだね」

「よう。……ん? やっぱりってなんだよ?」

「ハチ君も休みだって聞いてたから、ここに来るんじゃないかなと思ってたのよ」

「ああ……。まあ攻略組って大体行動パターンが似てくるよな」

 

 サチに勧められるままアスナの向かいの席に腰かけ、そんなやり取りを交わす。心なしかアスナの機嫌が良さそうだ。たまの休みだし、仲の良いサチのところに顔を出して英気を養っていたのだろう。

 作業場の端に置かれた棚からカップを取り出し、サチがお茶を淹れてテーブルへと置いてくれる。それに礼を言って返すと、サチはシステムウインドウを開きながら俺の横に立った。

 

「じゃあ、いつも通り装備のメンテナンスだよね?」

「ああ。防具だけでいい。よろしく」

「わかった。少しかかるからゆっくりしてて」

 

 装備品の修繕について、システムウインドウを弄って手早く取引を済ませる。サチはすぐ隣の作業台へと向かい、準備を始めた。

 

「表の店の方はいいのか?」

「うん。最近は他の人とかNPCに任せて私はここで仕事してることが多いの。その、接客ってやっぱり苦手で」

「ああ、うん。よくわかるぞ。俺もコンビニのバイト始めて3日でバックレたことがある」

「さすがにそれはちょっとどうかと思うよ……」

 

 サチの冷たい視線が俺に突き刺さる。いや、千葉ってヤンキー多いからコンビニの接客は辛いんだって。さらにはバイトの先輩もヤンキーのパターンまである。

 などと言い訳をしても俺がC級バックラーである事実は変わらない。アスナも残念なものを見るような視線をこちらに向けてきていたので、俺は咳ばらいをして話を変えた。

 

「そういや、今日はあの鍛冶屋は居ないんだな」

「リズベットね。いい加減名前くらい覚えなさいよ」

「いや、覚えてもほぼ絡む機会ないし」

「それはハチ君が避けてるからでしょ」

 

 言って呆れた表情を浮かべるアスナから、俺は目を逸らす。いや、だってあいつ今どきの女子って感じが強くて絡み辛そうなんだよ……。

 苦笑いを浮かべたサチが、再びこちらに視線を寄越した。手慣れた手つきで針仕事を始めながら、ややあって俺の質問に答えてくれる。

 

「リズなら今日はキリトと一緒に出かけたよ。武器を作るインゴットを探しに行くんだって言ってたけど。聞いてない?」

「あー、キリトが確かそんなこと言ってたな……。けど、2人でか?」

「うん。なんかマスタースミスが一緒じゃないと手に入らないインゴットがあるんだって」

 

 マスタースミスとは鍛冶スキルをカンストしたプレイヤーを指す俗称だ。どうやらキリトは武器を作るインゴットを手に入れるために、マスタースミスであるリズなんとかさんを連れてどこかに出かけたようだった。

 キリトも今まであの鍛冶屋とはほとんど絡んでいなかったはずなのだが……やっぱり地味にコミュ力高いよなあいつ。

 

「あ、そうそう。聞いてよ。それで今日キリトが来た時にね――」

 

 思い出し笑いを堪えるようにしながら、サチが口を開く。その間も決して淀むことなく作業を続けるサチの手元を魅入るように眺めつつ、俺は話に耳を傾けた。

 どうやら本日のキリトとリズなんとかさんのファーストコンタクトにはひと悶着あったらしい。リズなんとかさん力作の片手剣を、キリトが店内で叩き折ったというのだ。耐久を試したいと言って、持参した自分の武器と打ち合わせたそうだ。アホだな。隣のアスナも呆れたように笑っていた。

 戦いの中では恐ろしいほどの冷静さで的確な判断を下すことのできるキリトだが、私生活では割と年相応のポカをやらかすことが多い。なるほど、これが所謂ギャップ萌えか……。誰得なの、それ?

 

 そうしてしばらく3人で談笑しているうちに、装備品の修繕が終わる。作業開始から15分も経っていないだろう。装備品一式を全て修繕したことを考えると、かなり早いタイムだ。やっぱりサチは腕がいいなと感心しながら、俺は料金の支払いと装備品の受け取りを済ませる。

 SAOの世界には、ブーストと呼ばれる技術が存在する。これはソードスキルなどのシステムアシストの動作にさらに自分の動きを合わせることで、その速さや攻撃力が底上げされるというものだ。本来は戦闘用の技術として普及していったものだが、生産系のスキルでもこれを応用することで作業時間の短縮を図ることができるらしい。ちなみに結構難易度の高い技術なので、知識としては知られていても実践できるプレイヤーはあまり多くない。

 

 さて、女子トークの邪魔をしては悪いし、用件も済んだのでこの場はさっさとお暇しよう。そう考え、俺はカップの中に残っていたお茶を一気に飲み干して席を立つ。しかしそんな俺に先んじて、何故か同じように席を立ったアスナが口を開いた。 

 

「ハチ君、この後の予定は?」

「ん? 適当なフィールドで軽く体慣らしとこうと思ってるけど……」

「ならちょうどよかった。ちょっと付き合ってくれない?」

「……何かあんのか?」

「サチが《レッドボムビークス・モリーの繭》ってドロップアイテムが欲しいんだって。あんまり市場に出回らないらしくて」

 

 アスナの言葉に、サチが申し訳なさそうに頭を下げる。どうやらアスナはこの後サチの頼みで素材アイテムの収集に行くつもりのようだった。

 レッドボムビークス・モリーと言えば、確か第60層に生息する巨大な虫型のモブだったはずだ。サチのレベルでは厳しい敵だし――そもそもサチはしばらく圏外にすら出ていないはずである――ドロップアイテムが市場にも出回っていないとなれば、誰かに頼んで直接収集に行ってもらうしかないのだろう。

 レッドボムビークス・モリーには幼虫、蛹、成虫の3種類が存在し、その全てが虫のくせに炎を吐いて攻撃してくる。炎は完全回避しないと防御を貫通して地味にダメージを与えてくるというタンク泣かせなモブだが、スピード型の俺たちにとってはあまり問題にならない。

 軽く体を動かすにはちょうどいい相手だ。サチには日ごろから世話になっているし、たまには彼女のために働くのも悪くないだろう。そう考え、俺はアスナの提案を承諾する。

 

「わざわざごめんね。お金は多めに払うから」

「だからそんな気遣わなくていいっつーの。むしろいつもこっちが世話になりっぱなしだからな。それに本気で面倒な時はちゃんと断る男だぞ、俺は」

「そこで『何でも任せろ』って言わないあたりがハチ君よね……」

 

 アスナのつっこみを聞き流し、俺はその場を後にするべく歩き出す。まだ仕事があるというサチに別れを告げ、俺とアスナはそのまま第60層へと向かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第60層《緋の森》

 名前の通り、緋色の葉を茂らせた特殊な桑の木が並ぶ森のフィールドである。森とは言っても下生えは綺麗に刈り込まれたようになっているので歩きやすい。

 緋の森は層全体の5分の1程度の面積を占め、フロア中央に位置する高台から遠目に眺めると山火事かと見まがうほど鮮やかな木々が広範囲に広がっている。一見すると紅葉のようでアインクラッドの中でもかなり景観が良いフィールドであると思うのだが、しかしここはあまりプレイヤーに人気がない狩場だった。

 

 先に言った通り、ここに生息するレッドボムビークス・モリー、通称《赤ボム》はタンクとは相性が悪い。そして基本的にこのSAOではタンクと相性が悪い敵は嫌厭される傾向が強かった。一般的にタンクが最も生存率が高いという考えがプレイヤーの間に浸透しているために、デスゲームと化したSAOではタンク職を選ぶ人間が多かったのだ。そしてそれは上の層に行けば行くほど顕著になる。

 

 そんなわけでタンクと相性の悪い上に第60層というかなり上層に位置するこのフィールドには、他のプレイヤーの姿が全く見当たらない。まあ問題なく赤ボムを狩ることが出来る俺たちにとってはかえって好都合だ。他のプレイヤーとモブを取り合う必要がないので素材の収集が非常に捗る。ここに着いてから2時間程が経つが、俺たちは既に相当な数のモブを狩っていた。

 

「目視2体。奥の木にもう1体蛹がいるっぽい。とりあえず正面任せた」

「了解!」

 

 レイピアを構えたアスナが、短く声を上げる。正面に立つのは2体の巨大な赤い芋虫――赤ボムの幼虫だ。それをアスナへと丸投げした俺は、レッグシースから取り出した投げナイフを構える。アスナが敵に突っ込み、2体のモブのタゲを取ったことを確認してから俺は右手に構えたそれを投擲した。

 正面敵の後方、背の高い木の梢に向かって青い一閃が走る。瞬間、赤い茂みの中から、これまた赤い繭を纏った赤ボムの蛹が転げ落ちた。

 ピィピィと煩い声を上げるそいつに、次いで俺は槍を構えてソードスキルを放つ。蛹は地面に落としてしまえば最早まともに動くことすらままならないので、しばらく攻撃を繰り返すとあっさりと荒いポリゴンとなって砕け散っていった。

 その頃にはアスナも赤ボムの幼虫を1体倒し終えていたので、残りの1体を挟み撃つように2人で攻撃する。度々吹きかけてくる炎の息に注意しながら着実に敵のHPを削っていった。そうして間もなく敵はHPを全損し、断末魔を上げて消えて行ったのだった。

 

 一息ついて、槍を納める。投擲したナイフもすぐ近くに落ちていたので回収しておいた。貧乏くさいと言われそうだが、こういった消耗品の値段も積もり積もれば馬鹿にならないのだ。

 その後アスナと互いの労を労いつつ、システムウインドウのログを弄って今のドロップ品を確認する。サチに頼まれたアイテムも既に結構な数が集まっていた。

 

「結構時間掛かっちゃったけど、目標数くらいはいったかな」

「だな。そろそろ引き上げるか」

「うん。もう少しで夜になっちゃいそうだし」

 

 そう言って、隣に立つアスナが空を見上げる。足元の影は既に相当長く、西に沈もうとする夕日は緋の森をさらに赤く染め上げていた。

 遥か彼方を飛ぶワイバーンの鳴き声が、どこか物悲しいBGMのようになってフロア全体に響いている。そんな中、俺たちはどちらからともなく帰路を求めて歩き始めた。

 

「それにしても、やっぱりハチ君と一緒だと狩りが楽ね。索敵のために1パーティに1人は欲しいかも」

「その言い方だとなんか家電みたいだけどな」

 

 おそらくは褒めてくれているのだろうが、なんとなく気恥ずかしいので俺は茶化すように言葉を返した。それを聞いたアスナが軽く笑い声を上げる。

 ここに生息する赤ボム、その中でもとりわけ蛹タイプは木の上からの奇襲を得意とするので、索敵を疎かにすると思わぬ攻撃を受けることとなる。体中に火を纏った赤ボムの蛹がいきなりターザンしてくる光景は中々ホラーだ。まあ俺はモブの気配などを探るのが得意なので、不覚を取ることはほとんどなかった。何故かアスナにはよくズルいなどと言われるが、別に悪いことをしているわけではない。

 

 その後もぽつぽつとアスナと言葉を交わしながら足早に歩く。転移門のある街まではあと15分ほどだろうか。気まずいというほどではなかったが、あまり会話は続かない。

 

「……ねえ、ハチ君。もしかして、最近何か悩み事でもある?」

 

 しばらくの沈黙の後、不意にアスナがそう切り出した。その表情は至極真面目なもので、丸い大きな瞳は真っ直ぐにこちらを見つめていた。

 ――本当にこいつは、どうしてこんなにも敏く優しいのだろうか。

 胸を衝かれたような気分だった。しかしそれでも、心を伏せるようにアスナからゆっくりと目を逸らす。俺にはその問いに頷くことが出来なかった。

 

「何だよ急に。言っとくけど、この目は元々だぞ」

「それは知ってるわよ。……って、そうじゃなくて」

 

 多分、自然に振る舞えたと思う。だがアスナは引き下がらずに話を続ける。

 

「少し前から思ってたんだけど、なんとなく最近元気ないでしょ。ハチ君って定期的に変になる気がするのよね」

「気のせいだろ。つーかもともと元気キャラじゃないし。元気いっぱいの俺とか、むしろ気持ち悪いわ」

「すぐそうやって誤魔化すんだから……頼ってもらえないのも、結構寂しいんだからね」

 

 最後の言葉は、消え入るような呟きだった。それは確かに俺の耳まで届いたが、俺は気付かなかった振りをして歩を速めた。

 

「おい、あんまりのんびりしてると夜になるぞ」

「あ、ちょっと待ってよ」

 

 アスナの硬い具足の靴音が背中に響く。それでも俺は振り返らずに歩き続けた。

 心底、自分が嫌になる。救いようのないほど肥大した自意識。歪な虚栄心。命を預けても構わないと思える相手にさえ、俺はその殻を破ることが出来ない。

 欲しいものが、確かにあったはずなのに。そしてひと時でも、それを手に入れたと思えたはずだったのに。今の俺には、もはやその輪郭さえ捉えることが出来なくなってしまっていた。

 だがそれでも、立ち止まることは許されない。

 

 東の地平は、既に菫色に染まっていた。もう間もなく日が沈むだろう。

 若干の疲労を体に感じていたが、俺は構わず歩き続ける。長く伸びた自分の影が、何故だかこちらを見つめているような気がした。


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