やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

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第12話 刺青の男

 その男に出会ったのは、第2層。俺がまだオレンジプレイヤーだった頃だ。

 第1層でキバオウを攻撃してしまった俺は圏内に入ることが出来なくなってしまい、第2層に上がってからはしばらく森フィールドに潜伏していた。決して他のプレイヤーに出会わないよう、そこでは索敵スキルを常時使用して警戒していたのだが、まだスキルレベルが低かったからか森に入って2日目にそのプレイヤーと鉢合わせてしまったのだ。

 膝上まである黒のポンチョを羽織った、壮年の男。フードを目深に被っていて顔は良く見えなかったが、それでも整った顔立ちであることが伺える。そして右頬に刻まれた刀傷のような刺青が、俺に鮮烈な印象を与えた。

 

「よォ」

 

 妙な雰囲気を纏うその男に魅入ってしまっていた俺は、その声で現実に引き戻された。表情は見えないが、至極愉快そうな声色だった。

 いつもの俺ならこの時点ですぐに逃げていただろう。相手がどんな人物であれ、オレンジプレイヤーである俺が接触するのはリスクが高いのだ。しかし目の前の相手が放つ異様な空気が、俺に逃げることを許さなかった。

 相手は1人。距離は20メートルほど。この周辺の地理は熟知している。今からでも遅くない、すぐに踵を返して逃げるべきだ。頭ではそう考えても、足は動いてくれなかった。

 

「オレンジカーソルに、その槍……お前がハチって奴だな」

 

 妙なイントネーションを持った話し方だ。もしかしたら日本人ではないのかもしれない。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、男がゆっくりとこちらに近づいてきた。俺は警戒心を強め、咄嗟に背中の槍を手にして構える。これは逆に相手を刺激してしまう可能性もあったが、この時の俺にそんなことを気にする余裕はなかった。

 幸い、男は特に俺の行動を気にすることはなく、さらに足を進めながら平然と言葉を続ける。

 

「しかし聞いてた話とちょっと違うな。腐っちゃいるが、人殺しの目じゃねえ」

「人殺し……?」

 

 気になる言葉を聞き取った俺は、知らずに呟いていた。男はそこで足を止め、俺の疑問に答える。

 

「ああ。街じゃ噂になってるぜ。ボス攻略の後、お前がディアベルって奴を殺したってな」

 

 予想外過ぎるその情報に、俺は眩暈を感じるほどの衝撃を受けた。俺が、ディアベルを殺した?

 恐らく、どこかで事実が歪曲して伝わったのだ。さすがに人殺し扱いされるのは色々と都合が悪かったが、それを今ここで弁明する手段はなかった。

 

「まあ、その様子じゃあデマみてえだけどな……チッ、白けるぜ……」

 

 しかし男は俺の心の中の動揺を見抜いたのか、そう言って何故か落胆したようにため息をついていた。そうしてそっぽを向きながら、何事か考えるような素振りを見せる。数秒後、踏ん切りが付いたようにこちらに向き直った。

 

「しょうがねえ。なら予定変更して、お楽しみといくか。お前とは――殺し合った方が、面白そうだ」

 

 その時、初めてその男と目が合った。狂気を孕んだ、蒼い瞳。それを見て取った瞬間、全身の毛が逆立ったような感覚に襲われた。

 こいつは、やばい。理屈ではなく、本能でそれを感じ取った。

 

「――It's show time」

 

 間延びした声で、男が呟く。瞬間、弾けるように跳躍した。

 どんな動きをしたのか、自分でも良くわからなかった。攻撃されたことに気付いた時には、既に男と位置が入れ替わっていたのだ。どうやら自分は咄嗟に攻撃を凌いだらしい。ポンチョに隠れて武器はよく見えなかったが、恐らく短剣の類だろう。

 

「ハッ! いい反応しやがるじゃねえか! 俄然ノッて来たぜ」

 

 男が口角を釣り上げて、興奮したように声を上げた。常軌を逸したその行動を目の当たりにし、俺は逆に少し冷静になる。

 こいつは間違いなく異常者だ。俺が今まで絡まれたDQNなんて比較にならないほどに狂っている。こんな奴に付き合っていたら命がいくつあっても足りないだろう。プレイヤー同士の殺し合いなんて、死んでもごめんだ。

 そこまで考えて、俺は大きく息をついた。刺青の男は微動だにせずこちらを伺っている。

 ――逃げるしかない。

 決めたら、もう迷わなかった。次の瞬間、俺は男の位置とは逆方向に全力で駆け出す。

 余計な小細工などは必要ないはずだ。ゲームの中では基本的にステータスがものを言う。移動速度は敏捷性依存であり、攻略組である俺はその数値も現時点ではかなり高いのだ。今の俺に追いつけるプレイヤーはそうそう居ないはずだった。

 

「――連れねえじゃねえか。遊んでいけよ」

 

 しかし、脇目も振らず全速力で走る俺のすぐ後ろから、そんな声が掛かる。悪寒を感じ、俺は振り返るのと同時に脇に抱えていた槍を横薙ぎに払った。背後に居た男がバックステップでそれを避ける。そのままお互いに静止し、再び睨み合いの態勢になった。

 

「逃げ切れると思ったか? 悪いが、AGIはこっちが上みたいだぜ」

 

 愉快そうに、男がそう告げる。俺は先刻の自分の浅はかさを呪いながら、槍を握りしめた。驕っていたわけではないが、相手のレベルを計り違えたのだ。単純な逃走は不可能だと考えた方がいい。

 

「……俺は、お前とやり合うつもりはない」

「そうか。まあ、だったら無抵抗で死んでいくだけだ」

 

 逃げる手段を考えながら少しでも時間を稼ごうと俺は口を開いたが、会話にはならなかった。これが本物のサイコパスってやつか……。

 当然、何と言われようと殺し合いなんてするつもりはない。相手が攻撃を仕掛けてくる前に、俺は再び駆け出した。先ほどは森の中でも比較的歩きやすい道を選んだが、今度は木々が鬱蒼と生い茂る隘路に向かって駆ける。走りながら、俺はシステムコマンドを操作し、隠蔽スキルを発動させた。そのまま目の前の藪を突っ切り、しばらく行ったところで身を潜める。一瞬の間が空いて、俺を追って男が藪の中から現れた。

 

「チッ……隠れやがったか……」

 

 俺の数メートル先で、辺りを見回しながら男が悪態をつく。相手の索敵スキルが俺の隠蔽スキルよりも低いことに賭けての作戦だったが、どうやら上手くいったようだ。

 普通なら木の陰に俺の姿が見えるはずだが、隠蔽スキルが作用している間はかなり視認しにくくなる。注意深く探せば索敵スキルが低いプレイヤー相手でも見つかってしまう可能性は高いが、相手が他の場所を探している隙に再び移動して埋伏することを繰り返せば、そのうち撒くことが出来るはずだ。まあ、諦めて立ち去ってくれるのが一番良いのだが。

 

 そこで、俺はようやく安堵のため息をついた。力が抜けてへたり込みそうになるが、少しでも動けば隠蔽の効果が著しく低くなるため何とかそれを堪える。肩の力を抜きつつも、まだ危機は去っていないのだと自分を叱咤した。

 未だ数メートル先で佇む男に視線を向ける。そいつは俺の居所を探すでもなく、ただじっとそこに立っていた。その後姿に、今さらながらじわじわと恐怖心が湧いてくる。

 あれほどまでに明確な悪意を人に向けられたのは、生まれて初めてだ。過去のトラウマが笑い話に思えてくる。まあ中学時代の話などはよく自虐ネタに使っているのだが、実際ちょっと思い出したくない出来事ではあるのだ。しかしそれが霞むほどに、あの男は強烈だった。

 

 集団の中で少しずつかけ合わさっていったような、陰湿で無自覚な悪意ではない。まるでそれが美徳だと言わんばかりの、能動的で鮮烈な悪意だった。

 あいつと関わってはいけない。長年のぼっち生活で培われた俺の観察眼が、そう告げていた。

 

 それから、1分ほど時間が経っただろうか。相変わらず、刺青の男は何をするわけでもなく静かに佇んでいる。その光景を見ながら、俺の頭に一抹の不安が過った。

 あいつは、何を狙っている? まさか仲間を待っているのか? いや、誰かと連絡を取る素振りはなかったし、その可能性は低いはずだ。しかし、本当に俺はここに隠れているだけでいいのか?

 再び、俺の中で緊張感が高まってゆく。その時、木々の騒めきに交じって、遠くから話し声のようなものが聞こえて来た。

 

「で、でも急に2層になんて上がって大丈夫なんでしょうか……」

「大丈夫だって。この辺の敵は弱いらしいし、1層の奥に行くより安全だよ」

「そうそう。それにいざとなったら、僕が守ってあげるから!」

「お、俺も俺も!」

 

 か細い女の声に続いて、男の声が複数。

 会話の内容から、俺はそいつらが目の前の男とは無関係のプレイヤーだと悟り、安堵した。男女の比率から考えて、おそらく姫プレイでもしてるんだろう。男の媚びるような声が、だんだんこちらに近づいてくる。

 

「おい、聞こえてんだろ?」

 

 突然、刺青の男が口を開いた。低く、囁くような声。目線は近づいてくるプレイヤーたちの方に向けられていたが、その言葉は明確に俺に向けられていた。おもむろに歩き出しながら、さらに言葉を続ける。

 

「まだオレンジカーソルになるつもりはなかったんだが……1度ギア入っちまったら、誰か殺さねえと治まりがつかねえんだ」

 

 フードの端から、ちらりと男の横顔が覗く。狂気に歪んだ口元。右頬に刻まれた刺青が、生き物のように動いた気がした。

 

「――お前のせいだぜ?」

「な……!? 待っ――」

 

 言葉を発するよりも早く、男は動いていた。俺を凌駕する敏捷性を以って、弾かれたように駆けてゆく。そして男が藪の中へと突っ込んでいった次の瞬間――耳をつくような悲鳴が、森の中に響いた。

 一瞬遅れて、俺も藪の中を駆け抜ける。出たのは、少し開けた場所だった。

 力なくへたり込む小学生くらいの女子と、震えながらも剣を構える太った男が目に入る。そしてそれと対峙する、刺青の男。その背後で、2つの大きな塊がガラスのように砕けていった。青白い光を放つその残滓もやがて消えてなくなると、オレンジになった男のカーソルだけが、薄暗い森の中でいやに鮮やかに見えた。それの示す意味を悟り、俺は息を飲む。

 

「お前……!」

 

 怒りとも恐怖とも知れない感情で、俺は声を上げていた。こちらに背中を見せるように立っていたその男は、首だけ捻ってこちらに視線を向ける。その態度は、淡々としたものだった。

 

「何だ、気が変わったのか? まあ、ちょっと待ってろ。お前はこいつらの後だ」

 

 その言葉に、俺の中で何かが弾けた。

 

 咄嗟に槍を低く構え、無防備な男の背中に突きを放つ。しかし槍が届く寸前、男は体を捻りつつ俺の頭上へと跳躍した。眼前に、刃。それを見て取った瞬間、横に転げるようにして回避した。すぐに体勢を立て直し、再び槍を構えて対峙する。先ほどとは互いの位置が入れ替わった形になった。

 

「眉間に直撃コースだったはずなんだが……ホントに良い反応するな」

 

 男はそう独り言ちつつ、俺からゆっくりと間合いを取る。右手に持った短剣をひらひらと遊ばせているその仕草は、奴がこの状況を心底楽しんでいることを物語っていた。

 

「……おい。立て。さっさと逃げろ」

 

 男へと注意を向けたまま、俺は後ろにへたり込む少女に対して言葉を発した。ちなみにもう1人居た太った男は、俺たちの攻防中に既に逃亡している。いや、逃げるのは構わないんだが……こんな女子小学生(多分)を残して1人で逃げる大人ってどうなんだよ……。

 

「ひ、ひぐっ……! わたっ、私っ……」

 

 言葉を掛けた少女は、尻餅をついたまま手足をワタワタと動かしていた。腰が抜けているらしい。……マジか。

 これは本気で腹を括らなければいけないかもしれない。小町と言う妹を持つ俺としては、さすがにこんな少女を置いて逃げることは出来なかった。

 

「……なるほど。お前そういう系の奴か。ますます殺したくなってきたぜ」

 

 言いながら、男は短剣を突き出して半身に構えた。その姿を見て、俺も覚悟を決める。

 殺さず、撃退する。それだけだ。この男もさすがに劣勢になれば逃げ出すはずだ。それに後ろの少女も、時間を稼げば自力で逃げ出してくれるかもしれない。

 そこで俺は恐怖を振り切るように1つ深呼吸をした。正直逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、そんな怯懦を胸の奥に押しやって槍を握り直す。

 

「嬉しいねぇ……。本気の殺し合いなんて久しぶりだ。SAOサマサマだぜ」

 

 男の言葉を無視し、俺はこちらから仕掛けた。攻撃は最大の防御、という奴だ。防戦一方になれば、ジリ貧になるのは目に見えている。

 1合、2合、上手く攻撃をいなされた。間隙を突いて男が斬撃を放つが、何とか石突でそれを弾く。

 大事なのは、間合いだ。こちらは槍で、向こうは短剣。懐にさえ入られなければ、致命傷を食らうことはない。そもそも武器の関係でこちらが有利なのだ。

 しばらく、同じような応酬が続いた。互いにまだソードスキルは使っていない。ソードスキルは威力の高い攻撃だが、同時に使用後の隙も大きい。モブとの戦いならともかく、対人戦においてはここぞと言う時にまでとっておくべきだった。

 大きく、槍を払った。男が身軽な動作でそれを回避し、距離を取る。しばらくの硬直。その隙に俺は後ろの少女の様子を伺ったが、未だ先ほどと同じ体勢でへたり込んでいた。目をパチクリさせながら、俺たちを見ている。出来れば今のうちに逃げといて欲しかったんだが……。

 次いで、俺は彼我のHPゲージに目をやった。軽微なダメージが蓄積し、互いに3分の1ほど削られている。対人戦では、このラインまで来ると地味に危険領域だ。この状態で急所に一撃ソードスキルを食らえば、HPが全損する恐れがある。

 冷静に状況を確認しながらも、俺は内心焦っていた。正直に言って、この男を撃退出来る気がしない。幾度かのやり取りで分かっていたことだが、こいつは相当の手練れだ。しかも何やら対人慣れしている気配だし、勘弁して欲しい。

 

「お互い、探り合いはこんなもんでいいだろ。そろそろフィニッシュといこうぜ」

 

 俺の気も知らず、男は愉快そうに口を開いた。良く喋る奴だ。

 言葉通り、次で決めるつもりなのだろう。男からは先ほどとは比べ物にならないほどの殺気が放たれていた。ゆっくりと、場に気が満ちてゆく。

 もはや、細かいことを考えている余裕などなかった。全力で闘う。それ以外の選択肢はない。

 構えもせずに、男は駆け出した。間合いに飛び込んで来たそいつに、俺は突きを放つ。1合、2合、男が器用に短剣でそれを弾く。3度目の刺突に合わせ、独楽のように回転しながら懐に飛び込んできた。そのままの勢いで、居合のように短剣を構える。瞬間、翻るポンチョの下で、その手に緑の光が宿ったのが見えた。

 退けば、斬られる。受けても体勢を崩すだろう。

 咄嗟に、一歩踏み込んだ。そして相手のソードスキルが発動するタイミングで、体を捻るように跳躍する。短剣が振り抜かれた瞬間、右ひざから先の感覚がなくなった。

 跳びながら、刺青の男と目が合った。胸。突ける。そう思った。しかし間もなく、俺は転げるようにして地面へと落下した。倒れこんだまま、足元へと視線を移す。やはり右ひざから先が無くなっていた。部位欠損の状態異常だ。

 それから、しばらくの間が訪れた。数秒か数十秒か、あるいは数分か。この最悪の状況を前に、既に俺の思考は停止していた。足がなくては、立つこともままならない。失った四肢を回復するには、5分から10分程度の時間が必要だった。

 

「……何で手を止めた?」

 

 不意に、声が掛けられた。ゆっくりと目線を上げると、忌々しそうにこちらを見下ろしている刺青の男と目が合った。短剣を持つその右手は、だらりと力なく垂れ下がっている。

 

「突けたはずだ。あの時」

「……知らねえよ。何となくだ」

 

 開き直ったように、俺は答えた。あの時、確かに突けただろう。ソードスキルを使えば、無理な体勢からでも一撃が放てる。あの状況でも奴の急所を貫けたはずだ。

 だが、躊躇った。何かが俺にブレーキを掛けた。

 

「……白けた」

 

 小さな、呟きが聞こえた。見上げると、男は右手に持っていた短剣をポンチョの中へと収め、再びこちらに強い視線を向けた。

 

「俺を殺さなかったこと、必ず後悔させてやる」

 

 吐き捨てるようにそう言って、男は踵を返す。奴の背中が森の暗がりに消えてゆくまで、俺はただ茫然と見送ることしか出来なかった。

 

 ――見逃された、のか……?

 

 真意は、わからない。ただ、何とか命を拾ったことは確かだった。

 

「あ、あのっ……」

「へっ!? あ、ああ……」

 

 思わず、変な声が出た。かなりの間放心していたようだ。我に返って視線を横にやると、先ほどまでへたり込んでいた少女が怯えた表情でそこに立っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――それで、その後はどうしたんだ?」

「放置するわけにもいかなかったからな。めっちゃ恐がられたけど、何とかそいつを街の近くまで連れてった。まあ、この話はそんなところだ」

 

 そこまで話し終えて、俺は目の前に置かれたお茶に手を伸ばした。かなり長い間話していたので、もうすっかり冷えてしまっている。それをゆっくりと飲み干して一息つくと、向かいに座る雪ノ下と目が合った。

 

「それにしても珍しいわね。あなたが素直に人に優しくするなんて」

「いや、さすがにあの状況で子供を放置するほど鬼畜じゃねえから……。それに俺は基本小学生以下の女子には優しいぞ」

「ああ、確かに、そうだったかもしれないわね。ロリ谷君」

「おい待て。俺はシスコンだがロリコンではない。つーか、本名もじるな」

「ハチ君、シスコンなんだ……」

 

 俺と雪ノ下のやり取りに、アスナが呆れた様子で呟いた。いや、千葉の兄妹だったらそれがデフォルトだろ?

 

「んで、何で今まで俺たちにその話をしなかったんだよ?」

 

 恨みがましい顔をして、キリトが問いかけた。こいつもアスナも、こういうこと隠すと怒るんだよな……。別に今回は意図して隠そうとしていたわけではないんだが。

 

「話すタイミングがなかったんだよ。わざわざ話したい内容でもなかったしな……。それにアルゴに頼んでそれとなくレッドプレイヤーの噂は流して貰ってたから、問題ないと思ったんだ。現にその話は耳に入ってたんだろ?」

「まあ、そうだけど……」

 

 俺の遭遇したレッドプレイヤー――刺青の男に関する情報は、後日第2層で会ったアルゴに、噂と言う形でプレイヤーたちの間に広めてもらっていた。警告の意味を込めて、という訳だ。

 要は件の男が危険人物であるという情報が共有出来ればいいのだがら、俺の体験談などは蛇足になる。だからあえて、今までこの話を人にするようなことはなかったのだ。まあ、単純に思い出したくなかった、という理由もあるが。

 人はあまりに強烈過ぎる恐怖体験などを、人格を守るために記憶から抹消してしまうという話を聞いたことがある。俺の場合、さすがに記憶から綺麗さっぱり消えたわけではないが、努めて思い出さないようにしていた。

 あの時のことを思い出せば、暗い感情が首をもたげてくる。奴に対する恐怖だけではない。あの時俺は選択を間違ったのではないのか、という不安。

 奴がこの世界に悪意をばら撒く存在だということは分かっていた。躊躇うべきではなかったのかもしれない。臆病風に吹かれるべきではなかったのかもしれない。俺が取るべきだった選択肢は――。

 

 刃を交えた、あの時。

 奴と視線を交わした、あの瞬間。

 俺は、この槍で、奴を――

 

「ハチ君。あなた、また馬鹿なことを考えてるんじゃないでしょうね?」

 

 いつの間にか1人思索に耽っていた俺を、雪ノ下の声が現実に引き戻した。伏せていた視線を戻すと、その凛とした眼差しが俺を射抜く。

 

「結果がどうあったとしても、あなたの選択は人として正しいことよ。後悔する必要なんてないわ」

 

 しばらく、呆然と見つめ合っていた。あの雪ノ下が、俺を励まそうとしてくれているのか。そう考えるだけで、気持ちは少し楽になった。

 数秒ほど経っただろうか。隣からアスナの大きな咳払いが聞こえ、我に返った俺はようやく雪ノ下から視線を逸らした。気恥ずかしさに大きく息をつきながら、頭を掻く。雪ノ下も調子を整えるように小さく咳払いをしてから、話を戻した。

 

「ともあれ、以前噂になったレッドプレイヤーは実在したということね。ハチ君の話の人物像を加味して、ジョーというプレイヤーとの繋がりを考えると……」

「まずい状況だな……。ハチの話からすると、刺青の男はオレンジカーソルの仲間を探してた感じもするし……」

 

 相槌を打つように、キリトが口にする。確かに、あいつは俺がレッドプレイヤーだと思って接触を計って来たのだ。結局、それが勘違いだと分かって襲い掛かって来たのだが、当初の目的は自分の仲間を集めることだったのかもしれない。

 つまりは少なくとも2人……或いはもっと集団的に、悪意を持ってプレイヤーを貶めようとする者たちがこのアインクラッドに存在するということだ。

 

「ひとまず、ALFではジョーと刺青の男の情報を集めてみるわ。あなたたちも警戒を怠らないで」

「一般プレイヤーに情報は公開しないのか?」

「混乱を招きたくないから、全てを開示するつもりはないわ。ただ、件のレッドプレイヤーについてだけはそれとなく噂を流して、もう1度注意を促しましょう」

 

 キリトの問いに、雪ノ下は簡潔に答えた。まあ確かに、ジョーに関する情報はプレイヤーに開示したところでプラスには働かないだろう。ジョーの居場所が探しやすくなるかもしれないが、そもそもからして1000人を超えるALFのギルドメンバーの情報力を以ってしても足取りが掴めていないのだ。相当巧妙に身を隠しているのだろう。ならば情報を開示して、疑心暗鬼になったプレイヤーたちがもたらす混乱の方を憂慮すべきだ。

 

「まあ現状、それがベストか……」

 

 顎に手を当てて少し考えるようにしていたキリトも、やがてそう言って頷いた。話すべきことは大方話し終わり、その場に沈黙が降りる。

 静寂の中、一息つくように雪ノ下がテーブルに置かれた湯呑に手を伸ばした。目の前の湯呑を仰視しながらも、何故かその位置を探るような、まどろっこしい所作だった。俺が何となく違和感を覚えてそれを見つめていると、隣のキリトが何かに気付いたように声を上げた。

 

「あ、なあ、ユキノさん。ちょっと話は変わるんだけど……」

「何かしら?」

「えっと……フルダイブの適合度、聞いてもいいかな?」

 

 その一言に、雪ノ下は大きく目を見開いた。珍しい反応だ。俺はと言うと、キリトの質問の意図も、雪ノ下の反応の意味するところもわからず、ただ困惑するだけだった。

 

「……驚いたわ。よくこの短時間で気付いたわね」

「前に1度、FNC判定を受けた奴に会ったことがあるんだ。ユキノさんの動きが、少しそいつと似ていたから」

「……どういうことだ?」

 

 基本他人の会話には無関心の俺だが、思わず訪ねていた。アスナも何か納得するように頷いていたので、置いてけぼりなのは俺だけのようだ。

 FNC……えふえぬしー……ふぬしー……ふぬっしー……ふなっしー? いや、絶対違うな。

 

「FNC――つまりフルダイブ不適合ということよ。人によってはナーヴギアとの互換性が悪くて、接続に障害が出ることがあるの。私の場合は視覚に少し問題があって、物の距離感が掴みにくいのよ」

 

 ふざけた思考を展開していると、雪ノ下が丁寧に説明してくれた。そう言えば、以前キリトがそんな話をしてくれたかもしれない。今さらになって、俺はそんなことを思い出していた。

 

「それは……大丈夫なのか?」

 

 実際それがどの程度の障害なのか分からなかった俺は、雪ノ下に問いかける。距離感が掴めないと言っても、その症状はピンキリだろう。人は片目では距離感が掴めないとよく言うが、慣れれば意外と問題は出なかったりするのだ。

 すました顔で湯呑に口を付けていた雪ノ下が、ゆっくりとそれをテーブルの上に戻す。そして俺に視線を移すと、何でもないことのように口を開いた。

 

「さすがに戦闘行為は難しいけど、日常生活では特に支障はないわ。今は何の不自由も感じていないもの」

 

 “今は”という言い方が、引っかかった。

 もっと早くに気付くべきだったのかも知れない。1人で何でもこなそうとしてしまう……そして大概のことはそう出来てしまうこいつが、組織という枠に収まっていることに疑問を持つべきだった。お為ごかしの嘘が何の役にも立たない、このSAOのような場所でこそ頭角を現すのが雪ノ下雪乃という人間だったはずだ。

 戦闘行為が行えないというのは、このゲームにおいて相当のハンディキャップになる。おそらく、アインクラッドでの生活では多くの困難に遭遇しただろう。シンカーやユリエールといったプレイヤーとは、もしかしたらその頃に出会ったのかもしれない。雪ノ下は簡単に人の好意を受け入れることが出来る人間ではないが、彼らのギルドに属していたということは、どこかで自分の意地と折り合いをつけたのだろう。

 妙に気持ちがざわついた。分かっている。これは、不安だ。

 

「……今日話した件は、こっちでも色々調べとく。お前もあんまり危ない橋渡るなよ」

「あら、心配してくれているのかしら?」

「まあ……人並みには、な」

 

 からかうようにして尋ねる雪ノ下に、俺は目を逸らしながら、そう答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「仲良いのね、ユキノさんと」

「……は? 目腐ってるんじゃないか、お前?」

「ハチ君に言われたくないわよ……」

 

 風林火山ギルドホーム。1階、エントランス。

 用事を終えた雪ノ下をそこから送り出した後、俺とアスナは向かい合って置かれたソファにそれぞれ腰を掛けて、そんなやり取りをしていた。ちなみにキリトはアイテムを整理したいとか何とか言って自室に籠っている。俺がここでアスナの相手をしているのは、「クラインさんたちが帰ってくるまで暇だし、話し相手になってよ」と仰せつかったからだ。いつもの俺ならそんなのは華麗にスルーして自室で寝ているところだが、アスナに対しては色々と借りが多く、基本頭が上がらない。

 

「……凄い人よね。綺麗で、頭も良くて、真っ直ぐで……ずるいわ」

 

 向かいのソファに浅く腰かけたアスナは、そう言って目を伏せた。……何を馬鹿なこと言ってるんだ、こいつは。

 

「いや、お前も似たようなもんだろ……。つーか、お前みたいのが卑屈になっても嫌味にしか聞こえないぞ」

「……どういうこと?」

 

 本気で分からないと言った表情で、アスナが首を傾げた。こいつ、自分がハイスペックだという自覚がないのだろうか……性質の悪い奴だ。仕方ないから、かみ砕いて分かりやすく説明してやろう。

 

「例えばくまモンに敵わないってふなっしーが愚痴こぼしても、チーバ君からしたら嫌味にしか聞こえないだろ? つまりそういうことだ」

 

 いや、俺はチーバ君が1番好きだけどね? だって横から見た姿が千葉県の形してるんだぞ? 千葉愛さえあれば、犬にしてはとんがり過ぎな鼻もチャーミングに見えてくるのだ。ただまあ、やっぱり世間的にはくまモンとふなっしーの足元にも及ばないわけで……。

 

「いや、余計わからなくなったんだけど……チーバ君?」

 

 俺の例え話を聞いたアスナは、さらに疑問が増した様子で首を傾げた。マジか……チーバ君知らねえのかよ……。

 

「……まあ、お前みたいな奴は堂々としてろってことだよ。劣等感を持つのは、俺みたいな奴の特権だ」

「一応、褒めてくれてるのかしら……?」

 

 そう言ったアスナの顔は相変わらず困惑した様子だったが、少し照れたように頷くと、それ以上は言及してこなかった。

 

 それから小一時間ほどアスナとたわいないやり取りをしていると、外での用事を終えた風林火山の面々が徐々にホームへと帰って来た。クライン、トウジと続き、幹部として働いているプレイヤーが数名だ。予想通り、アスナの訪問を知ったクラインはテンションをマックスにさせて喜んでいた。度が過ぎてトウジに鉄拳制裁を食らっていたが、まあそれは割愛しておこう。

 その後、俺は今日雪ノ下からもたらされた情報を、そいつらに順を追って説明した。これは雪ノ下にも許可を取っていることだ。ある程度信用のおける人間とは、情報を共有しておいた方がいい。

 風林火山の面々は一様に暗い顔をしていたが、現状俺たちに出来ることもほとんどないので、しばらくするといつも通り、それぞれの仕事へと戻って行った。その流れに乗って俺も自室へと引きこもろうとしたが、あと少しのところでいい笑顔のトウジに捕まった。「ハチさんは暇そうなので、仕事はいつもの2割増しにしときますね」だそうだ。マジかよ……。

 

 ジョーというプレイヤーに、刺青の男。露わになった問題は、俺たちの前に大きな影を落とした。だが、恐れてばかりもいられない。そうして俺たちは、心に湧いた不安を押し込めて、それぞれの日常へと戻って行ったのだった。




・補足
 原作に出てくるジョーというプレイヤーはジョニーブラックなのではないか、という見方が強いのですが、この2次創作では別物として扱ってます。
 刺青の男はみなさん気付いてると思いますがあの人です。性格とかビジュアルは情報少なかったのでほぼ自分のイメージで書いてあります。

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