アブソリュート・レギオス   作:ボブ鈴木

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05.道なき道を

グレンダン王宮内に在る通路の一角を、一人の少女とそれを伴う女性が歩いていた。

女性はカナリス・エアリフォス・リヴィン。天剣エアリフォスを授与された武芸者であるのと同時に、平時は女王の影武者を務め、グレンダン王室を警護する暗部とも繋がりのある存在だ。

少女はリリウム・ライヒハート。グレンダンに古くから続き、誰にも讃えられる事なく存続している貴族家の子女。

 

カナリスの後を歩くリリウムの両腕は後ろに回され、その両手首には手錠が填められている。

その様子は、余人が見れば一目で分かる罪を犯した者とそれを捕えた者の姿だ。尤も、それが女王の懐刀たる天剣授受者の仕事として相応しくないのは誰もが知る所であり、少女が何者か知らぬ者にとっては武芸者に取り押さえられねばならない凶悪犯とは到底かけ離れた人物にしか見えないのであった。

 

「リリウムっ! こ、これは一体、どうしてお前が……!?」

「騒々しいですよ、カルヴァーン。陛下の御座す王宮で声を荒らげるなど、誰に許されると言うのですか」

「カナリス、私の大姪に一体何の理由があってそのような無体を働いたッ! 事と次第によっては、貴様であろうと無事で済むと思うなよ――――!」

 

少女を連れたカナリスを遠巻きに眺める人々が避ける様に出来た道から、カルヴァーンが平時の彼には似つかわしくない早足で現れた。

カルヴァーンは混乱していた。ゲオルディウスも歴とした騎士階級には違いないが、天剣授受者の特異性と武芸者としての性質から、王命以外でカルヴァーンが王宮を訪れるのは稀だ。宮廷の集まりに参加する貴族にも天剣授受者との繋がりを欲する者は少なくないが、だからといって招待状など送れば物知らずと嘲りを受けるのは貴族の間では常識だ。

よって天剣授受者と宮廷人には一定以上の距離感が有り、王宮に立ち寄る機会は女王への謁見か、訓練に王宮内の施設を使う天剣授受者への用が殆どとなる。

 

そんなカルヴァーンがまるで虫の知らせ様に偶然王宮に立ち寄って見れば、何やら一刻ほど前に天剣授受者が緊急の勅命を受けたという囁き声を聞いたのがつい先ほど。

動いた天剣がカナリスだと分かり何やらキナ臭さを覚えて訝しんでいれば、現れた彼女の後ろには自分が愛して止まない大姪が両腕を拘束された姿で連れられていたのだ。

その光景を目の当たりにしたカルヴァーンの心境は困惑と言うにも生温い。まず自分の目を疑い、次に己が正気であるかを疑った。

元より柔軟さには縁遠い頭をしているのは自覚の在る所だ。この激し易い性格でなければ、目の前の現実を理解出来ずに知恵熱で卒倒していたのではとカルヴァーンは思う程であった。

 

「私は陛下より直接の命を受け、リリウム・ライヒハートを連れて王宮へ戻ったのです。陛下のご意思に背く気がないのであれば、邪魔立てはしないで頂きたい物です」

「馬鹿な、何故陛下がリリウムを私に何の断りもなく王宮へ呼ぶのだ……!? それ以前に、その手錠は何だ!? こんな衆目の眼前で、どうして私の大姪が連行紛いの真似をされねばならん!!」 

 

その両目をギラギラと怒りで燃え上がらせるカルヴァーンの威圧感を、涼しい様子でカナリスは受け流していた。

しかし、その内面は表の態度ほど穏やかな訳ではない。何せ目の前では、この都市で十一人しかいない自分と同等の武芸者が今にも得物を抜こうと肩を怒らせているのだ。

大義名分こそカナリスにあれど、言葉を間違えればカルヴァーンはカナリスが臨戦態勢へ移る刹那の間を見逃さず剄技を行使して来るだろう。

両者の間でぶつかり合う尋常の沙汰ではない空気に、周囲が恐怖で血の気を引かせ始めた時、それまで俯いていた少女が初めて顔を上げた。

はたと、カルヴァーンとリリウムの目が合う。その一瞬に、カルヴァーンは全身を支配する激情が凍り付く様な感覚に身を固くした。

カルヴァーンに出来た不可解な隙を察知したカナリスは、素早く口を開く。

 

「彼女には殺人容疑が掛かっています。被害者はライヒハート家当主、ユリウス・ライヒハート。貴方も良く知る人物の筈です」

「……殺人、だと? いや、今……今、何と言った!? 殺人容疑、一体誰の――――」

「ユリウス・ライヒハート、です。彼女には父殺しの嫌疑が有り、また並外れた武芸者であるのは調べが付いています。例え謁見が陛下のご意思であろうと、身体の拘束は最低条件であると私が判断したまでです」

「ユ、ユリウスが……死んだ!? 冗談ではない、その様な世迷い言が理由としてまかり通る物かッ!! リリウム、何故黙っている? 何があった、お前がこんな事になっている時にユリウスは何処で何をしている!?」

 

姪婿が何者かに殺害された、そんな荒唐無稽な法螺話を信じる気はカルヴァーンにさらさら無い。

ユリウスという男は、生まれ持った才こそ凡俗な物しか持ち得ない武芸者だ。しかしその反面、己を鍛え痛めつけるという極めて限定された一点に置いては、異常とも取れる資質を見せていた。一度は狂人とまで呼ばれ、それによって得た実力は天剣に遠く及ばずとも凡百の中に埋もれる物では決してない。

そのユリウスが汚染獣との戦いで果てたでもなく、何者かに遅れを取るなど考えられない事だ。それこそ、下手人が天剣授受者に匹敵する者でもない限り。

 

在り得ない、そんな事が起こり得るなど微塵の可能性すら有ってたまる物か。

そんなカルヴァーンの言葉なき懇願に応える事無く、リリウムはその宝石の様な瞳に何の揺らめきも見せず、ただカルヴァーンを静かに見るだけだ。

 

「私が斬ったのです、大叔父様。父は、もう居ません」

「誰だ……一体何処の誰がお前を唆し、そんな事を言わせている! 答えぬか、リリウムッ!! その様な輩、二度と巫山戯た真似が出来ぬよう私が叩き切ってくれるわ――――!!」

「それが最善だったのです。私たち家族の間違いを正す、私にとって最後の機会でした。参りましょう、カナリス様。私は貴女に全てを委ねます」

「良いでしょう。彼女の処遇は追って私から知らせます、それまで決して怒りに任せた迂闊な行動などは取らない様に、カルヴァーン」

 

カルヴァーンの縋った可能性を全て切り捨てて、リリウムはその小さな肩を翻して背を向けた。

遠ざかる大姪の姿を、ただ呆然と見送る事しかカルヴァーンには出来なかった。

 

 

 

 

 

 

次第に小さくなるリリウムの背、カルヴァーンはそれに何者も受け入れぬ鉄の在り方を幻視した。

何よりも、それ以上にカルヴァーンを動揺させたのはリリウムの青い二つの眼だった。

何の感情も窺わせず、周囲で何が起ころうとも揺らめきを見せる事のない無感動な瞳。

――――あれは、アリシアの眼だ。唯一の理解者である母を失い、まだユリウスと出会っていなかった頃のアリシアの。

 

「また、私は間違ったのか? 何故だ、ユリウス……お前は正しく在ろうとした筈だ。夫として父として、家族の幸せを願うと。それは武芸者である己の存在意義に勝る物だとお前は言った筈だ。だからこそ私は、お前を信じてやりたいと思った。それが、このような……」

 

姪婿は愚直な男だった。武芸者であれば武芸者でなければと足掻き、父となれば父でなければと武芸者であることを二の次に置いていた。

後ろ向きで卑屈な性格には苛立つ事もあったが、不器用なりに前に進もうとする姿勢は彼の妻の叔父として、目を掛けてやろうと思えるくらいには好ましかった。

彼の隣で幼い頃の輝きを取り戻したアリシアを見て、これならば任せられると思っていた。生まれた娘の愛らしさと家族三人の仲睦ましさを見て、きっと幸せになるだろうと安堵していた。

……いいや、それは言い訳でしかない。カルヴァーンにはこうなる事に懸念が、本当はもうずっと昔から脳裏にこびり着いて離れた試しが無かったのだから。

 

アリシアは異端者だった。生まれながらにして人とは違う価値観を持ち、独自の目線で世の中を見聞きしていた。

それは武芸者という枠組みに在って異端であるカルヴァーンには一目で察しがつく物であり、同時に全く異質な存在として危機感を抱くに足る物であった。

亡き姉の娘であるが故の情、異端でありながら善性で在ろうとする姪の健気さ。例えその笑顔が偽りの仮面で在ろうとも、せめて人並みの幸せを得る時まで見守り続けようとカルヴァーンは決意していた。しかし、そうやって守れた物が一つでも有ったのか今では疑問を抱かずにはいられない。

 

ユリウスがアリシアを受け入れたのではない、アリシアがユリウスを選んだのだ。

世界の全てを無価値と断じていた、あのアリシアが。見失うのを恐れるように追い縋り、掴んだ。

カルヴァーンはそれをアリシアが変わったのだと思いたかった。人としての道筋の外側を歩く姪がたった一つの出会いで正道に戻れたなどと楽観視は出来なかったが、より良き方向に変わっていくのだろうと願っていた。

……結局、それはカルヴァーンの勝手な願望でしかなかった。アリシアは最期の時まで異端のままで、ユリウスはそれを受け入れるには余りに普通の男でしかなかったのだから。

 

「……だがなアリシア、リリウムは違う。あれはお前とは違ったのだ。瓜二つで在りながらお前に無かった武芸の才を持ち得ていようとも、それだけの娘だった筈だ。何故、狂わせようとする? 或いはユリウスでは足りなかったからなのか、お前が見たかった物を見る為には」

 

カルヴァーンは頭を振って、己の逸れた思考を振り払った。こんな物は唯の憶測でしかない。

白状してしまえば、カルヴァーンはアリシアにある種の恐れと罪悪感を抱いていたのだ。

優れた素養を持っていた姪は、世に出ていれば一角の人物になっていたのだろう。ミッドノットの名が有れば、起業するにせよ嫁いだ先で政界に足を踏み入れるにせよ、それに足る実力を持ち得ていれば成功を掴むのは不可能ではない。

仮にカルヴァーンがアリシアを手元に置かねば、彼女はそうやって己の居場所を作っていたに違いない。アリシアにはそれを成すだけの知性と教養があった。

 

カルヴァーンは自分が、姪がその能力の振るう機会を奪ってしまったのではないかと危惧していた。

生きる事に必死になれば、アリシアの中に在った何らかの衝動は薄れていたのではないか。屋敷で宝石の様に大切に扱ったが為に半ば世捨て人の様な生き方を選ばせ、結果としてユリウスとリリウムを巻き込んでしまったのではないかと。

 

「――――いいや。まだ、最後の機会が残っている。贖罪に成りはせずとも間違いを重ねる事を避けるだけならば、出来る。アリシアの父代わりも務め切れなかった不肖の我が身では、見守る事しか出来ないかもしれないが……」

 

身を翻し、意を決したカルヴァーンは今来た道を引き返す。

時に煩わしく感じる天剣授受者としての地位も、今こそは使い所だ。リリウムの謁見の理由が何であれ、女王の決定を覆すのが自分では不可能なのをカルヴァーンは良く知っている。

まずは凡その事情を把握しているであろうデルボネを味方に付けねばならない。最古参の天剣授受者として権力でも智謀でもカルヴァーンを大きく上回る人物であるが、彼女の人柄に加え姪が年端もいかぬ少女であるという点を踏まえれば勝算は有る。

その上でアルシェイラといえど無視出来ない人物の筆頭であるティグリスの説得をデルボネに託せれば、決して悪い結果にはならない筈だ。

アリシアの時には果たせなかった保護者としての責務。その為にカルヴァーンは己の持つ全てを使い切る覚悟すら決めるのであった。

 

 

――――だが、カルヴァーンは気が付かなかった。

アリシアの異常性を知っていた彼は、彼女の思惑が何かしらの理由によって今回の悲劇を招いたのだと察していた。

リリウムがユリウスを手に掛けたのが事実であれ、それはアリシアの遺志が二人の間に在った何かしらを狂わせたのだと、漠然とではあるが理解していた。

 

同時に、カルヴァーンは知る由も無かったのだ。

優秀な凡人でしかなかった姪婿もまた、この世界に受け入れられぬ異物であった真実を。

アリシアの異常性は所詮、引き金でしかなかったという事を。狂わせたのがアリシアであったとしても、自ら望んで狂ったのは他でもないユリウスであった事を。

そして、そのユリウスを異物足らしめていた要因はゼロへと還る事なく、不完全ながらもリリウムへと確かに受け渡されているのを、世界の理に踏み入る権利を持たないカルヴァーンが知る事は決して出来ないのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リリウムがカナリスに連れられて到着したのは、王宮内でも比較的奥に配置された一室であった。

金糸で文様の刺繍された紅い絨毯や、精緻な細工の施された肘掛け椅子を始め、豪奢な調度品の数々に彩られながらも決して品を損なわない優雅な内装。

仮にこの部屋をユリウスが見ることが叶っていたならば、在り得た未来でデルク・サイハーデンとリーリン・マーフェスの招かれた一室なのだと確信していた事であろう。

 

扉を潜ったリリウムの目に最初に入ったのは、肘掛け椅子に足を組んで座る女性の姿だった。

その女性を表現するなら、一つの芸術品としか言い様が無い。ウェーブの掛かった黒い長髪と鮮やかな碧眼はグレンダン三王家を象徴する外見的特徴であり、優美な容貌と併さり高貴の極みとも感じられる風格を醸し出している。

そして何より女性から発せられる圧倒的な存在感が、リリウムの意識を釘付けにしていた。どんな高価な調度品も横に彼女が居るだけで色褪せ、全てが呑まれてしまっている。

その深い碧の瞳に自分が捉えられると同時に、リリウムは己の感覚が最大限の警戒を訴えるのを自覚する。リリウムの並外れた才覚は、目の前に在る人物が己を容易く踏み潰せる、途方もなく巨大な存在である事を余す事なく理解させていた。

 

しかし、それを一瞬でも表に出す不敬は間違っても働けない。この人物こそがグレンダンの民として最も敬い、武芸者として崇めるべき存在なのだから。

そんなリリウムを見た女性は面白い物を見つけた様に眼尻に笑みを浮かべ、カナリスは凍る様な冷たい視線を向けた。

リリウムの超越的な才も、この場に置いては決して無二の物でないとの証明であった。

 

「陛下。ご命令に従い、リリウム・ライヒハートをお連れ致しました」

「そ、ご苦労様。それで、それは何?」

 

如何にもと言った様子で硬い態度を取るカナリスに、アルシェイラは心底呆れたと言わんばかりの声音で労りの言葉を掛けた。

天剣授受者エアリフォスの主君である、女王アルシェイラ。彼女の指さした先には、リリウムに嵌められた手錠が在った。

 

「僭越ながら、必要な措置と判断し拘束致しました。陛下の御身に万一があっては―――」

「要らないって先に言っておいたのは、もしかして忘れたのかしら。まさかとは思うけど、随分と時間が掛かったのはそんな小芝居を私に見せたいが為、なんて言わないわよね?」

 

特に不機嫌な、という様子ではない。ただ目に付いた不備を指摘しただけの確認作業、それだけの事で部屋の温度が数度は下がった錯覚を受ける。

アルシェイラが発する圧力の種類が変わった事にカナリスはビクリと肩を震わせたが、気丈にも主君の顔から目を離す事はしなかった。

それを見たリリウムは都市最高の武芸者を改めて尊敬し直すのであった。自分であればまず、何よりも先に膝を付いて謝意を示していただろう。

 

「時間が惜しいから私は君に頼んだのだけど? わざわざ君の流儀に合わせて勅命なんて形にしたのは、これが重要な案件だって言わなくても理解してくれると思ったから。ねえカナリス、私の剣。私は君たちに天剣に足る強さ以上の物まで求めようと思わないけど、他のお馬鹿達と違って君にはこういう機微も察して貰えると思っていた私の信頼は……ひょっとして見当違いだったのかしら?」

「へ、陛下……わ、わた、私は――――!」

 

話している最中で徐々に苛立って来たのか、アルシェイラの表情にははっきりと険が刻まれていた。

王座に君臨すべき者として生まれつき、その才覚を存分に発揮するアルシェイラは些事に拘らない。故に彼女は煩わしさに苛立ちを覚えようとも、本当の意味で怒りを露わにするのは滅多な事では在り得ない。

そんな主君が明確な怒りを自分に向ける様は、天剣として女王の最も身近に在るカナリスを恐怖させるには十分過ぎる物であった。

 

 

 

―――アルシェイラの視界の端にふと、何やら淡い金色が舞った。

見れば本題としていた筈がそっちのけになっていた少女が膝を付き、アルシェイラへ跪いていた。

その行為は沸点へと確実に近づきつつ在ったアルシェイラの怒りを押しとどめる。流石の彼女も年端もいかぬ少女に後ろ手錠を掛け、自らの前に跪かせて無関心で居られるほど人として終わっていなかった。

 

「ライヒハート家当主ユリウスの子、リリウムと申します。僭越ながら、どうか発言のお許しを頂きたく……」

「面を上げなさい」

 

椅子に座ったままの己と向けられた顔をまじまじと見る。

綺麗な娘だ。顔の造形も然ることながら、蒼玉石の様な瞳は意図せずとも人を惹きつける蠱惑的な輝きを放っている。

少女時代のアルシェイラと比べればその鮮烈とも言える華やかさに見劣りするかもしれないが、アルシェイラには無い魅力がリリウムにはあった。

例えるなら月。"グレンダン王家と何かと縁深い"それと、である。酔狂と自覚しながらも、アルシェイラはこの出会いに運命的な物を感じたいと思い始めていた。

 

「カナリスから聞いたかしら? 私は女王のアルシェイラ、つまりこの都市で一番偉い人ね。まあそれは良いとして、私に言いたい事って何かな」

「陛下の元へのご参上が遅れたのは私の大叔父、カルヴァーンが事情を知らぬ故にカナリス様を引き止めていた為に御座います。どうか、ご寛容の程をお願い申し上げます」

「おやおや。そうなの、カナリス? 待たされてイライラしたのは確かだけど、あの頑固者に邪魔されたってのなら許してあげようかしら」

 

言外に「天剣がこんな子供に庇われて恥ずかしくないのか」と意地悪く笑みを向けてやるが、カナリスは深々と礼をして沈黙を選ぶだけであった。

流石に主の怒りを蒸し返す程、カナリスも意固地にはなれなかったらしい。まあこれも側近の癖に主人の思惑を察せなかった罰である、せいぜい肩身の狭い思いをして貰うとしよう。

そんな事よりも、とアルシェイラは改めてリリウムを見る。今はカナリスの事などより、この少女の方が余程アルシェイラの興味を惹き付けている。

 

 

まず外見。先ほども思ったように、非常に整っている。

ライヒハートが色々と面倒なしがらみの多い家なのは女王として当然把握している事実だが、その辺りの事情を無視できるなら側に置いても良いとさえ思える。ぶっちゃけアルシェイラの好みだ。同姓愛者という訳ではないが、気に入った物は観賞するだけでなく手で触れて愛でたくなる性分なのであった。

採点するなら100点満点中90点をあげても良いだろう。この少女性は中々背徳的な情欲を煽られるが、惜しむらくもう少しだけ膨らみが欲しい所だ。

 

次は内面。歳不相応の落ち着きと教養高さを感じさせるのは良い。だが、それが何処か歪な印象を与えるのに引っかかりを覚える。

それに目の前の人物をこの都市の女王と知ってその部下を庇うのは頂けない。弱い者いじめを見兼ねて庇い立てたくなった、なんて子供らしい情動が理由なら良いが、この娘がそれが意味する所を理解してやったというのはアルシェイラの目から見て確定的であった。

要はこの娘は女王がどんな存在であるか正しく理解していながら、地位その物を重要視していない。

典型的な実力偏向型武芸者の思考だ、それもかなり行き過ぎた。アルシェイラの知る限り初対面でここまで不遜な態度を向けて来る武芸者は十二人しか居ない。

お転婆な所は歳相応と笑っても良いが、それで済ますにはリリウムという少女は完成され過ぎている。一体どんな境遇で育てばここまで歪で頑なに子供が成長するのかと俄然興味が沸く有り様だ。

 

 

そして最後に最も重要な、武芸者としての実力。

アルシェイラはふむ、と少し考える様な仕草で間を置き、パチンと指を鳴らした。

するとカシャンと儚い音を立てて、リリウムの両手首に嵌められていた手錠が崩れ落ちた。

 

「今の、見えたかしら?」

「……ご無礼を致しました。お許しを」

「いいのいいの。分かる様にやったんだしね」

 

まるで魔法の様な現象に違いなかったが女王本人にしてみれば何の事はない、剄技のちょっとした応用だ。

基本的にこの手の小技はアルシェイラにとって必要が無い故の不得手ではあるが、有り余る剄量というリソースを余人が見れば暴挙としか言えない程に無駄遣いすれば、真似事程度の体裁は整えられる。

刹那の瞬間、大叔父を凌駕しつつある自分の剄量が到底及ばない凄まじい圧力を見せ付けられたリリウムは、身体が己の意思を無視して臨戦態勢に切り替わるのを抑え切れなかった。

合格だとアルシェイラは口角を釣り上げた。並の武芸者ならただ指を弾いただけとしか思わなかっただろう、相応に優秀な者でも剄の残滓を辿ってそれが剄技だったと当たりを付けるまでが精々だ。

しかしリリウムは技の行使を目で捉えていた。それだけで相手の実力が即座に行動せねば対処にも当たれない物だと察し、状況と立場が許せば迎撃の態勢に移っていただろう。

間違いなく、奴らの同類だ。アルシェイラを最も苛立たせ、アルシェイラが最も必要とし、アルシェイラの最も愛しているロクデナシ(天剣授受者)共の。

 

これだから運命という物は分からない。リリウムという少女が現れたという事実はライヒハート家にとって余りに遅く、グレンダン王家には唐突過ぎた。

三王家とライヒハートの因縁は本来、多くに知られている物ほど浅くはない。時代が時代ならば、彼女の才能は王政を揺るがす劇薬になり得ていただろう。ライヒハートに鬼才が現れたのがアルシェイラの代であった事は、三王家にとってまさしく僥倖と言う他なかった。

 

「カナリス、私はこの子に話が在るわ。席を外しなさい」

「……私が側に居ては不都合がお有りでしょうか」

「ご先祖様の尻拭いになるかもしれないからね。知ってるでしょ? この子、ライヒハートよ」

 

そう言われてしまえばカナリスがこれ以上食い下がる事は不敬に当たってしまう。

実の所、ライヒハートの歴史には謎が多い。世に伝わる風評がさも当然の様に受け入れられているが、一方でそれが真実であったという確固たる証拠が殆ど残されていないのを知る人間は驚く程に少ないのだ。

在るのは断片的な記録のみ。まるで意図して虫に食わせた様な過去の秘匿は歴史を検証する者にとって、主君の秘密を暴く事なかれという迂遠な警告に他ならなかった。

恐らくこの時代に三王家が持つライヒハートの秘密を握るのは女王アルシェイラとロンスマイア家当主ティグリス、そして今は亡きユートノール家前当主、ヘルダー・ユートノールのみだったのだろう。

王家の隠すその真実がライヒハート側にどの様な形で受け継がれ、どの程度の精度を保っているのかは、カナリスには想像する事しか出来ないのだが。

 

「承知致しました。それでは謁見が終了するまでの間、私は周囲の警戒に当たります」

「要らないわ、私を付け回そうなんて骨の有る諜報員は君くらいしか居ないのだしね。一応デルボネに見張らせてあるから、カナリスは通常の業務に戻りなさい」

「……では、先にカルヴァーンにある程度の話を付けておきます。あの男の事です、デルボネ様が陛下の御用向きに伺っているとなれば、ティグリス様の下へ直訴しに向かい兼ねません」

「ああ、そう言えば放ったらかしなんだっけ……まあ良いわ、悪い様にはしないとでも言っておきなさい。この話はティグ爺も取り合わないから、文句は謁見が終わってから直接言いに来いと伝えておいて」

 

盗聴対策にデルボネを動員した。要は天剣授受者にも聞かせたくない話をこれからするという意味だ。

天剣授受者は女王に忠誠を誓っている。厳密に言うなら天剣授受者は諸々の個人的な事情から、他の王家亜流なりに肩入れしてアルシェイラの不興を買う事に欠片ほどの意味も存在しないのだ。

カナリスは三王家亜流からなるリヴァネスの武門出身である故それなりに微妙な立ち位置だが、それでもティグリスとデルボネという例外の枠組みから外されるとなれば大事であった。

 

「カナリス様、ありがとうございました。どうか大叔父の事をお願い致します」

「頼まれましょう。くれぐれも、陛下に失礼のない様に」

 

形容できない歪な違和感。カナリスはリリウム・ライヒハートという少女を測りかねていた。

そもそも女王の命に背くのを愚と理解しながら拘束したのも、この未知の感覚を無視する事に本能的な危機感を覚えての事だった。

武芸者としての実力に当りを付けられないのは良い。この少女は間違いなく自分と同じ領域に立つ者だ。年齢を考慮に入れれば驚愕と言う他無いが、レイフォンという前例が居る今では"そういう時代"だったのだとある種の納得の方が先に来る。

 

問題はこの短い観察の中でも察せられる、異常なまでの人間性の希薄さだ。

有無を言わさず連行したカナリスへ何の不満も見せず、向けるのは天剣授受者への敬意のみ。

それも強さや名高さへの尊敬なら分かるが、彼女のそれは公人としての目上の人物に対する礼節だ。そこに私人としての感情は存在していない。

自身への理不尽を単なる状況の変化として容認し、それを押し付けた相手が女王であれ天剣授受者であれ恐怖も畏れもなく、唯そうなのだと理解するのみ。

この少女は余りにも容易く己を殺し、故に自身に関わる事象への関心が薄い。まるで空気に話し掛けている様だとすら感じる。

ひた隠された感情は何を想い抱くのか、無表情の下に秘められた情動が何を求めるのか。この得体の知れない少女が天剣授受者に匹敵し、カナリスに刃を届かせ得るに足る武芸者という事実は、捨て置くには重大過ぎる懸案であった。

 

……とはいえ、既にリリウムの裁定は女王の手に委ねられている。

カナリスがリリウムにどんな懸念を抱こうともアルシェイラが直接関わると決めた時点で、それは些事であり杞憂だ。

結果は全てが王者の望むままになるだろう。ならばカナリスに出来るのは最終的な落とし所に少しでも波風が立たない様に用意をしておく事だけだ。

不本意な仕事は何時もの事だが、今回は殊更気が進まない。何せ天剣授受者が天剣授受者を相手に錬金鋼を抜くか否かの交渉に臨むなど、王命一つでどうとでもなるアルシェイラの代ではこれっきりの可能性すらある珍事だ。

天剣絡みとなれば実害を伴う問題も今まで散々見て来たが、それでも今回はとびっきりの貧乏くじであった。相手が天剣の中では比較的良心的だったカルヴァーンというのも一層カナリスの気分を暗くさせる。

これがサヴァリスのアホ辺りであればこの機会にどちらが上か教えてやるべく叩きのめしている所だが、カルヴァーンにそんな事をすれば致命的な確執を残すだけだろう。そもそも若輩のサヴァリスほど易い相手ではなく、間違いなく死闘になる。

最得手である力尽くが最低の悪手となった現状に悲壮な覚悟を抱きながらも、カナリスは己が使命を果たすべく部屋を後にするのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、まずは座りなさいな。前置きが長くなってしまったけど、君には色々と聞かなければならない」

「何なりと、陛下」

 

アルシェイラに促されたリリウムは一礼をしてから、肘掛のソファに腰を降ろした。

大きなソファは子供の体躯には不釣合いで、クッションの柔らかさで身体が沈む様子は思わず頬が緩みそうになるほど愛らしいが、アルシェイラは努めて平常を装った。

残念ながら、そんな和やかな空気で有耶無耶にしていい話ではないのだから。

 

「じゃあリリウム。君はなぜ自分がここに呼ばれたかは理解しているかしら」

「はい。私の父であるユリウスが天剣授受者、レイフォン・ヴォルフシュテイン・アルセイフ様の暗殺を企てた為です」

「そう。そして君は、レイフォンを殺そうとしたユリウスの首を自分自身の手で撥ねた。その事実に相違は無いわね?」

「相違ありません。私が斬ったのです、陛下」

 

父親を手に掛けた事実を口にするリリウムが無機質な表情を崩す事は無かった。

しかし、その雰囲気に剣呑な物が混じるのをアルシェイラは見逃さなかった。何の事はない、如何に完成されたこの少女も、結局は年端もいかない娘だったというだけの事だ。

だが、そこに在るのは後悔や嘆きではなかった。在るのは苛烈なまでの使命感、そして道半ばにして全てを投げ打った父親への怒りだ。

人は自分が何者なのかを知る為に一生を掛けるとも言うが、この少女は既に自分が何をするべく生まれ育ち、何の役割に就くべきかを確固としている。

リリウムは人としての終着点に居た。残した負債を清算する事だけに余生を費やす老人の様な境地に、在るべき過程を無視して辿り着いてしまっている。

憐れむべきは、リリウムがそこに至れてしまうだけの才能が有った事だ。この少女は折れる事も、曲がる事もしなかった。完璧な器として届く事無く途中で壊れてしまえば、この子が父親を斬る事は絶対に無かったのだ。

 

「ユリウスは何故、謀反など起こしたのかしら。君たち親子の動向はそれなり以上に重要な意味があったからデルボネには定期的に報告をさせていたけど、行動指針は都市の安全を守る事に一貫していた筈よね?」

「……陛下は、狼面衆についてはご存知なのですね」

「王家に生まれたら必ず付いてくる責任の一つだからね。尤も、私やティグ爺は意図的にあれを"見えない"様にしている訳だけど」

「賢明な御判断だと思います。かの存在は人にとって毒性になり得る物です。容易く焼き払える塵だとしても、焼けば生まれる灰を吸い続ければ何時か身体に毒は回ります。毒は人の運命を、最も自分たちの都合のいい領域へと引き摺り込みます」

 

興味深い考察だと、率直にアルシェイラは思った。

始祖の末裔たる三王家とイグナシスの塵である狼面衆の関係は、誕生の経緯から歩んだ歴史、根源的な存在意義まで全てが敵対しているといって過言でない。

だがその三王家の頂点に立つアルシェイラでさえ、狼面衆との戦いに置いては第一人者ではないのだ。

今のグレンダンで最も長く、多くの狼面衆を斬っていたのはユリウス・ライヒハートだったのだ。そして次点が、その後を継ぐリリウムであるのに疑いは無い。

 

「つまり彼は、連中に唆されたという事? にわかには信じ難いわね。人の弱さに付け込むのが奴らの十八番だとしても、ユリウス・ライヒハートが十年以上も前から狼面衆と戦っていたのは事実でしょう。今さら付け入られる隙が有ったとは思えないけど」

「父は弱い人ではありませんでした。けれど、自分の持つ強さを自分では肯定できない人間だったのです。狼面衆とは父にとって敵であり、同時に選択肢でもありました」

 

そう、ユリウスには狼面衆に関わる上で三つの選択肢があった。

一つはオーロラ・フィールドを感知する自身の能力に無視を決め込み全てを無かったとする事、二つ目は都市を脅かす敵でありながら自分しか見つける事の出来ない狼面衆と戦う事だ。

 

ユリウスが選んだのは、この二つ目だ。当時のユリウスには自身が特別な存在である証明への欲求があった。

知られざる世界の真の敵と対峙し、自分の運命が世界の中心にあると実感したい。そんな浅はかな欲望がユリウスに身の丈に合った平穏を選ばせる事をよしとはしなかったのだ。

客観的に見ればユリウスの実力は天剣授受者に遠く及ばないまでも、本来なら三王家だけに許された察知能力を持つ点を踏まえて、世界の運命に関わる上で十分な物を持ち得ていただろう。

 

問題はユリウスの人間性だ。言ってしまえば、彼の気質は武芸者向きでは無かったのだ。

努力に伴う苦痛への耐性はあったが、それは苦痛から逃げた先にもっと大きな苦労があるのを知っていただけであり、結局はルーチンワークに浸かりきった現代人の性質が訓練の効率化に一役買っていたに過ぎない。

挫折を知る以前のユリウスは訓練に夢中になっていたが、それは強くなる自分とその達成感に満たされていただけなのだ。

そんなユリウスが誰に知られる訳でもない孤独な戦いなど、長く続けられる道理は無い。仮に彼が挫折を知らないまま狼面衆との戦いに明け暮れていたとしても、何れは摩耗し道半ばで心を折られていただろう。

ユリウスの抱えた最初の矛盾は、娘を伴い再び狼面衆と対峙した時になっても矛盾したままだった。

――――そして矛盾は矛盾を呼び、ユリウスに三つ目の選択肢を選ばせてしまった。

 

「狼面衆側に付く事は常に頭に在ったって事? それこそ分からないわね。ユリウスは自分の行動がデルボネに監視されていたのは知っていた筈。あの隠密性は確かに脅威だけど、プラスで頼りない人手を借りられるとして、そんな物で得た一時の栄光に意味が無いのは理解していたでしょうに」

「父にしても本来ならばこの選択は最も下策としていた物でしょう。父は狼面衆以上に自分自身の力を何より信用していませんでした。狼面衆の特異な能力に自分の実力が加わろうと、何かを成せるなどとは露ほども考えてはいなかった筈です。逆に言えば、だからこそ父はかの者達と敵対し狙われたとしても"その背後に居る存在"に縋る事はしませんでした。臆病なまでの自身への不信は、同時にかの存在たちへの何より頑強な鎧でもあったのです」

 

ピクリと、僅かにアルシェイラの眉が釣り上がる。今のリリウムの言葉の中に決して聞き逃せない一点があったのだ。

しかしまだ話を中断させはしない。女王として帝王学からなる深い教養を持つアルシェイラは臣民の心がどれだけ難解な物かを理解している。

自分で自分を弱いと思っている武芸者の考えなど尚更だ。自分には一生掛かっても理解する事が出来ない物だと割り切ってすらいる。だからこそ此度の一件は自分の憶測で済まさず、当事者である少女を招いたのだから。

 

「父は栄光に縋ったのです。母を亡くした父に頼れる物とは、自分が自分であると証明出来るのは、それだけしかありませんでした。自分一人なら思い出を胸に諦観を生きたでしょう。ですが、父は私という剣を手に入れてしまった。己の血を分け与えた娘が世界の救世主足りえる。その為だけに父は天剣を欲し、ヴォルフシュテインの座からレイフォン様を退けようとしたのです」

「だとしたら、私も甘く見積もられたと言う他無いわね。いくら君が天剣を持つに不足が無かろうとも、張本人が雲隠れした程度で謀反人の娘にやすやす天剣を与える気にはなれない。リヴァネスの爺さま方を黙らせるだけでも安くはないし、他の天剣も全員が無関心ではいない。確実に内憂の種になっていたわね。もしレイフォンが本当に死んでいた場合、君を抱える事はリスクが実益を遥かに上回っているわ」

「いいえ、父には勝算がありました。私自身が謀反に一切関わらず、陛下への叛意が無ければ。私の力を十全に発揮させる為に陛下は天剣を貸し与えると、父は半ば確信して行動に踏み切った筈です」

 

チリ、と。アルシェイラの脳髄に随分と懐かしい感覚が蘇った。

まだ自分が物心付くより前は何時も感じていた感覚、自分が倒す為に生まれた敵の手下共をまだ目で捉えていた頃に在った感覚。前王やティグリスから王家の存在する本当の意味を教えられた時に胸中で疼いていた、この感覚。

これは最も濃い血を持つ武芸者の本能だ。アイレインの因子を最も濃く受け継ぐアルシェイラの身体が、リリウムという少女に惹き寄せられている。

リリウムの持つ運命が、アルシェイラの運命と交わろうとしていた。

 

「父は言いました。近い未来、月より大いなる災厄が降り注ぐと。汚染獣や狼面衆などではなく、我々武芸者が本当に打倒せねばならない敵とはそれであるとも。そして大厄の到来を狼煙として創世に纏わる者達と、王家の祀る武芸者の原点たる存在の顕現が成されると――――ッ……!?」

 

 

 

 

 

 

「一度、黙りなさい」

 

 

 

 

 

 

自身に襲いかかる凄まじいまでの殺気に、リリウムは指一つ動かす事も出来なくなっていた。

自分の身体に何が起こったのかを理解するのに数瞬を要する程の圧力。その発生源がアルシェイラと分かっても、直視する事を意思を無視して身体が拒んでいる。身体中から熱が奪われ、血液が凍り付いたかのように冷たい。

リリウムは己の迂闊さを悟った。自分にとっては全ての前提にある知識であるが為に、厳重に秘匿されるべき物であっても、女王の逆鱗に触れるほどの物とは認識していなかった。

もはやリリウムは平伏する事すら叶わず、生殺与奪の全てを女王に委ねられていた。

これが女王。これが、アルシェイラ・アルモニスという存在だったのだ。

 

「お前は知り過ぎている。それは狼面衆から聞き齧った程度の情報ではないわね? ライヒハートの創始者が子孫に残した物だとしても、余りに具体性があり過ぎる。答えなさい、お前は何を知っている。お前の父親はどうやってそれを知り、どこまでの事を知っている? 狼面衆側に付いてまで本当にやろうとした事は、一体何?」

 

ユリウス・ライヒハートが握っていた情報は、紛れも無く王家のアキレス腱に相当する物だった。

これ程の秘密を知りながらイグナシスの尖兵に加わったのが、まさか娘に天剣を与えてやりたかったからなんて生易しい理由で済む筈がない。

そして、アルシェイラが懸念していた最悪の状況が現実性を帯び始めていた。

 

ユリウスが狙ったのがレイフォンであれば、それはそれで構わなかった。

天剣授受者など狙われているくらいが丁度良い。替えの効く戦力とは訳が違うが、だからこそ暗殺などで死ぬならその程度でしかなかったという事だ。

だが狼面衆に与したユリウスが本当に狙ったのが、レイフォンでなかった場合。天剣授受者など物のついででしかなく、ユリウスの本来の目的が、その時レイフォンの隣に居た幼馴染の少女だったのならば。

それはアルシェイラにとって最も忌むべき、最も恐るべき策謀を企てられていた事になる。

 

リリウムの身体は感情を無視して小さく震え、縺れる舌を懸命に動かそうとした。

喉を通って出る声はか細く小さくなろうとも、己の使命を放棄する事だけは許されなかった。

 

「……分かり、ません。分からないのです、陛下。父の秘密主義は娘である私にも全てを教えはせず、前提となるこの知識だけを私に渡しました。父は抽象的な表現を多様し、私たちの敵を俗称的に例え、本来の名を口にする事は滅多にありませんでした。ただ――――」

 

アルシェイラは無言で続きを促した。

小さな少女に向ける、物理にさえ干渉する剄の圧力は決して緩める事はしない。

自身の認識が甘過ぎたのだとアルシェイラはようやく理解した。汚染獣の事など他人事だとばかりにアルシェイラの座る王座を欲しがる俗物共などより、天剣を得ただけでは足りぬと何時かアルシェイラに磨いた牙を向ける事を望む狂犬などより、この少女の父は遥かに油断して良い相手ではなかったのだ。

愚かだったと言う他無いだろう。誰より強く、誰より世界の真実に近い場所に居るという自負に胡座をかき、喉元に刃を突き付けられているのをまるで理解していなかった。

予感はあった、予測もしていた。しかしここまで想定した最悪の、さらに先に進まれていたのは完全に予想を外れていた。

 

己の膨大な剄を活剄に、らしくもなく意識して十全に廻らせる。

視覚と聴覚へ集中力を最大限に高め、リリウムの僅かな仕草から心拍数、微かな声の揺れまでを観測する。

力技も良い所だが、これにアルシェイラの女王としての見識と天性の勘が加われば、武芸者の虚言を見抜くのにも一切の不足はない。

そしてリリウムは、それを口にした。

 

「我々の戦いは、所詮アイレイン・ガーフィートとイグナシスの戦いの延長線でしかないと。イグナシスがアイレインに倒されるべき存在でしかないのなら、大厄を迎え討つグレンダンもまたアイレインの代行者に過ぎないと」

 

それは分かっていた事だ。

創世は戦いの過程の一つでしかなく、決着は未来へ持ち越された。

グレンダンの役目は何時かアイレインとイグナシスの永き戦いに終わりが訪れた時の為、この世界を作り人に生きる為の術を与えたサヤを守り続ける事だ。

アイレインが勝てば、現世に武芸者の祖たるサヤの守護者が降臨し、イグナシス勢力の残党を狩る掃討戦に移れる。

 

もしアイレインが敗れイグナシスが現世に降り立ったとしても、まだグレンダンにはサヤが居る。

その時の為にグレンダンは強き武芸者を集めた。よりアイレインの因子を濃く持つ者同士で子孫を残し、理想とされる存在に少しずつでも近づけ、気の遠くなる程の時間と労力の果てに第二のアイレインを完成させようと決戦の時に備えた。

天剣授受者も結局はその目的の過程で副次的に揃う物でしかない。グレンダン史上最強の武芸者であるアルシェイラでさえ、最も重要な要素を欠く為に完成まで届いていないのだ。

だが、後一手で届く所までは来た。ヘルダー・ユートノールの愚かさが最後の一手を目前にして遠ざけたが、それでもグレンダンはイグナシスと戦える所まで届いている。確実を期すか五分の賭けに出るか、その程度の差異にまで距離を縮めているのだ。

 

「ですが月に封じられた物全てを倒しただけでは、最早この戦いは終わらないと父は考えていました。イグナシスの死そのものは然程重要な意味は持たず……いえ。或いは既にイグナシスはアイレインに打倒されていると、父は確信していた様にも思えます」

「イグナシスが、死んでいる? 月は未だ健在だし、汚染物質は依然として月より降り注いでいるわ。月での戦いに終止符が打たれたのなら、どちらかが目に見える形で変わる筈。そもそもアイレインの勝利を確信していたのなら尚更ユリウスが狼面衆に肩入れした理由が分からなくなるわ」

「……私にはこれ以上を推測する事しか出来ません。イグナシス本人が消え去ったとしても、イグナシスの遺物は厄災として世界に残るのだと思われます。アイレインの現世への降臨は、同時に月に繋ぎ止められた物の一斉開放を意味します。アイレインは機を待たざるを得ない、父はそこに隙を見たのでしょう」

 

ユリウスはあくまで狼面衆を利用する気でいたのか、それとも思考を侵されイグナシスの走狗と成り果てていたのか。

リリウムにそれを知る術は無い。ユリウスの計画をリリウムが察知した時には全てが遅過ぎた。

あの場で斬らねば、狼面衆の亜空間増設技術を得た父を捕捉する事は二度と叶わなくなっていただろう。

狙われるのが自分であれば良かった。だが父の狂気に、自分たち家族の過ちに、他人を巻き込むなど。あの仲睦まじく肩を寄せ合う少年と少女が命を付け狙われる事になるなど、絶対に許される筈がない。だからリリウムは斬った、あの場で斬らねばならなかった。

そうでなければ、斬れる訳が無かった。

 

「マスケイン家の末男、そして獄炎の餓狼。私が討つべきと定めた敵を、父はそう呼びました」

「マスケインの男、つまりこの世界の住人という事? 獄炎の餓狼はイグナシス側の兵器か……いえ、電子精霊なり廃貴族だと思ったほうが妥当なのかしら。何にせよ、そんな物は聞いた事もないわね」

「確かなのは、その両者を打倒しない限り本当の意味でイグナシスの脅威を根絶出来ないという事です。恐らくその存在が意味する本当の理由は狼面衆も知らない事なのでしょう。イグナシスの敗北が濃厚である現状、マスケインは我々が勝利を確信したその時、背後を突くべく行動を開始すると考えて凡そ間違いは無い筈です」

「……ユリウスは、マスケインがグレンダンやアイレインの喉元に喰らい付く程の存在だと認識していたって訳ね」

「無礼を承知で申し上げれば、大厄との戦いで疲弊した所を突かれれば陛下とて即座には対応出来ないと判断したのでしょう。陛下や始祖をも窮地に陥れる大敵を、娘である私が討ち倒す。父の当初の目的は其処に在った筈です」

 

全てが憶測、想像の域を出ない。

しかしユリウスが遺した物は余りも大き過ぎた。それはリリウムの身には余る物だった、人生の行く先を定めれてしまう程に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、君はこれからどうしたい?」

「……私の処遇のお話でしょうか。如何様にも陛下の御意思に従う所存であります、なんなりと」

「勿論、君をこのまま釈放する訳にはいかないんだけどね。私が聞きたいのは、父親を斬った上でまだ戦う意思は有るのかって事」

 

全てを終わった事として裏側の世界から身を引くのならそれでも構わない。

父親の目的の為に刃を振るってきた少女だ。父の死と共に戦う意思も失ったと言うのなら、今後の面倒は自分が見るのも吝かではない。

リリウム個人は、言ってしまえば王家の都合に巻き込まれたに過ぎない。ユリウス・ライヒハートが王家に弓引く大逆人であった事に疑いはないが、少女はその手で以って王家への忠誠を示したのだ。

世界の命運と天秤に掛けられる物ではないとしても、リリウムが父親を失った責任はアルシェイラにある。それを口封じの為に年端もいかぬ彼女をどうこうしようなどと、許される事ではなかった。

 

知り得る情報の度合いからすれば軟禁生活は已む無しだが、底辺貴族である実家の財産を切り崩すなり武骨者のカルヴァーンに任せるなりするよりは、余程優雅な暮らしをさせてやれるだろう。

何より、この美しい少女を手元に置けるとなれば私財を投じても出費の内には入らない。問題はやはりカルヴァーンだが、王家の問題という大義名分がある以上、この手の諍いの時に緩衝材となるティグリスもアルシェイラ側に付くしかない。

元より何事も無かったとリリウムを親戚筋に返す事など不可能だ。カルヴァーンとの衝突はユリウスが行動を起こした時点で避け様もない。まあ、必要な労力だと割り切るのが落とし所だろう。

 

 

だが、この少女にまだイグナシスと戦うつもりが有るのならば。

正直な所、アルシェイラとしては望むのはそちらの方だ。天剣級の武芸者だというのも在るが、何より対狼面衆用の戦力が今のグレンダンには致命的に存在していない。

 

ユリウスを今の今まで好きに泳がせていたのも、結局はそれが理由になる。連中が原因の被害も馬鹿に出来た物ではないのだ。金が掛かるのもそうだし、人的被害など容易く取り戻せる物ではない。

色々と怪しい点は在ったが、やはりユリウスは稀有な人材だったのだ。その即応性はデルボネをも凌駕していたのだから、こと狼面衆相手に限っては世界屈指とさえ言えただろう。ユリウスが所帯を持ち活動を休止させた時など被害の数が目に見えて増えた物だ。

別に契約が在った訳でも報酬を支払っていた訳でもないのだが、当時の事に関しては一言文句を言いたくもなる。

捨て置いても特に大きな問題は無い実力、そして狼面衆に近い得体の知れない男に関わるのを避けるのを理由に不干渉を通して来たが、こんな事になるのならもう少し慎重に扱うべき事柄だったと思うのも已むを得ないだろう。

 

今ある狼面衆に即応できる戦力と言えば、クラリーベルとミンスの二人だ。

だがアルシェイラからするとクラリーベルは今ひとつ期待出来ずにいる。継承したアイレインの因子は合格ラインだとしても、気質が自分の求めている物とは微妙に異なっていた。

言ってしまえばヌルいのだ。やや過剰な向上心や戦闘狂の傾向は結構だが、それが趣味嗜好で留まっている内は貴人の傲慢に過ぎないだろう。アルシェイラが欲しいのは、そういう物が渇望や生き方その物なっている様なクソッタレ共だ。

ミンスはそもそも評価に値しないが、女王の目線から見ればクラリーベルも五十歩百歩だ。頼んでもいないのに手当たり次第に狼面衆を食い散らかしていたユリウスと同程度の戦果を今の二人には望めはしない。

 

「君を私の監視下に置くのは決定事項。もう覆らないわ。向こう側へ二度と関わらないと誓うならば、今後の生活に一切不安は与えないと約束しましょう。けれど、君たち親子が退く事で狼面衆に対応する人間が居なくなるのもまた事実。君にその気が有るのなら、王家として可能な限りの支援をするわ」

「……ありがとうございます、陛下。罪人の娘には過分なまでのご配慮、感謝の念に堪えません。ですが、その前に一つお聞きしたい事がございます」

 

リリウムの瞳には、覚悟の火が灯ったままだった。

アルシェイラは頷いで続きを促す。嫌な感覚だった。最高に厄介な面倒事の前触れだ、これは。

 

「父の遺体がどうなったか知りたいのです。陛下のご指示で内密に運び出して頂けたのでしょうか」

「……明日までにカルヴァーンを呼ぶわ。父親に会いたい気持ちは分かるけど、今はそれで我慢して貰えないかしら」

「違います、陛下。運びだされた父の身体は、まだ残っていますか? 私が落とした首は見つかったのでしょうか。それが知りたいのです」

「何ですって? ――――デルボネ!」

 

リリウムの言わんとする事を理解したアルシェイラが虚空へ鋭く声を放つ。

すると部屋に淡い輝きを放つ光の蝶が舞った。リリウムに何の気配も察知させずに現れたのは、天剣授受者デルボネ・キュアンティス・ミューラの使役する念威端子だった。

 

『ええ、把握致しました。安置所に運び込まれた所までは確かに確認したのですが』

「この娘の言う通り、失くなっている?」

『……煙の様に消えたとはこの事ですね。まるで初めから存在していなかったかの様です』 

 

穏やかな老女の声にも、普段には無い緊迫とした雰囲気が隠し切れていなかった。

狙われた対象が対象だけに、後処理は迅速に行われた。しかし、その男は既に死んでいる。そう思っていたその隙を、これでもかと言う程に突かれたのだ。

こうもあからさまな行動にも関わらず一切の痕跡を残さないなど、狼面衆でしか有り得ない。しかもデルボネの索敵網を掻い潜ったとなると、ユリウスの回収は余程入念な下準備の上に計画されていたと考えるべきだ。

 

「やはり……予感は在ったのです。身に纏う狂気に比して、余りに容易く手応えが無さ過ぎました。自身の生き死にすら興味を失ったのかとも思いましたが、そもそも自分の命に保険を掛けていたとすれば」

 

それは正史において、絶対に有り得ざる可能性の一つだった。

本来選ばれた者だけが手にする真実を、踏むべき過程も踏まずに十全に理解し。世界の命運を決すべく各勢力が巡らせる策謀の顛末を、答えだけ抜き取った様に全て知る男。

浅はかにも、その資質を救世の為にと足掻くのなら救いは在った。その半ばで男の愚かさ故に生まれる筈の無かった損害を世界が被ろうとも、不確定な未来とはそういう物だった筈だ。その男は今、世界にとって最大最悪の敵となった。

冒涜だ。男が抱いた最初の野心にも、歩んだ道での後悔にも、後悔の先に見つけた希望にも、その全てに唾を吐きかける最も下劣な行為だった。

 

「父は、ユリウス・ライヒハートは生きています。私は斬らねばなりません。父と、父を追った先に待つマスケインの存在を。私はまだライヒハートの業を捨てる訳にはいきません」

 

転生者、ユリウス・ライヒハート。

この世界に置ける最もたる異端である男は正真正銘、倒されるべき敵となってしまった。

 

 

 

 




まだ生きてます、作者もユリウスも。
どう見てもエタってる状態からおめおめと戻って参りましたが、ここまでお付き合い頂けた方には本当に感謝しか御座いません。

ブランクが有ったりなんだったりで、今回はもう厨二部分もガッツンガッツンぶち込んで書きたい様に書くしかないと開き直って次回への繋ぎとしたのですが、クドい暗い無駄に冗長と自分の悪癖の集大成みたいになってしまっています……
読み手の耐性に賭ける、というのは本当に申し訳ないし無念ですが、これだけドン底まで落としたので徐々に日常とかで明るくしていけたらとは思ってます……思ってるだけじゃ駄目なんだよなあ(汗

今回からはトゥルールート的な流れだと自分では思ってます。
ユリウスが主人公だったら最後の方で微妙に触られる程度の設定が、分岐直後から胸焼けするくらい出てくるみたいな。

※タグ追加しました。不慣れで警告として機能してるか正直かなり不安なので、不足がありましたらご指摘頂ければ幸いです。

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