In the dark forest(暗い森の中で) 作:kanpan
バゼットと言峰綺礼が協力関係を結んでから2日目。
昨日は暗い空に小雨の続くどんよりとした天気が丸一日続いたのだが、今日は打って変わって気持ちのよい晴天になった。
封印指定の魔術師の館の庭には木漏れ日が差し、木々の葉に残る水滴が光を反射して輝く。すこしぬかるみを残した地面の上で、庭の草に乗った露が弾ける。
水たまりから飛沫を蹴上げてバゼットが駆ける。その先で構えるのは言峰だ。
バゼットが打ち込んできた拳を言峰は弾いて、その反動をつかって肘打を返す。それを感知してバゼットは素早く飛び退る。
両者の間にできた間合いに今度は言峰が踏み込んだ。
八極拳の技、絶招歩法。前に跳躍しつつ拳を突き出して攻撃する突進技だ。
言峰は中国拳法の一つ、八極拳の達人である。さらに彼の八極拳は正統派の功夫ではなく代行者の人体破壊術として進化している。その威力は肉体の上からでも骨も断つ。
バゼットの鼻先を言峰の突きの拳風がかすめていく。まともに当たればもちろん、ガードしたところで腕ごと粉砕されていただろう。
バゼットは言峰の拳をまさに紙一重の無駄のない裁きでかわす。
言峰が伝統的な中国拳法の使い手であるのに対して、バゼットが得意とするのは運動科学の研究成果を取り込んだ総合格闘技だ。
世界中に無数にある伝統格闘技を分析し、その極意を体系化した現代の
女性であり、体格や筋力で男に劣るバゼットの短所を補い、逆に長所に変えうる戦闘術である。
バゼットと言峰は魔術師の庭で互いに激しく拳を交わし合っていた。
館の二階の窓辺から魔術師は庭の様子を伺っていた。魔術師は先日の戦いで執行者を襲撃して仕留めた。だがその際に相手から傷を負わされ、それを癒す為に館に引きこもっている。傷はいくらか回復したものの完治には至らない。
だが、今日こそはこちらから討って出る必要がある。
執行者も代行者も生き残りは一人づつ。このままの状態なら魔術師側に分がある。まだ屋敷の中には
明日にでもなればおそらく魔術協会も聖堂教会も増援をよこすに違いない。そうなってしまえば魔術師には勝ち目がなくなる。おおかたこの館は周りの結界ごとふっとばされるだろう。
今日全力をもって生き残りの執行者と代行者を叩き、この館を脱出する。それ以外に魔術師が生き延びるすべは残っていない。
今、庭では執行者と代行者が一騎討ちをしているようだ。相打ちになるか、それかどちらかが負けて脱落することを期待している。そして魔術師が残した虎の子の
魔術師は窓辺を離れて地下の工房に潜り、最後の決戦のための準備を始めた。
昨日は冴えない天気の上に、魔術師おろか
もっともこの長い待機時間が何の役にも立たなかったというわけでもなかった。想いもかけず一時の協力関係となった代行者、言峰綺礼と共にひたすら魔術師の動きを待って過ごす時間はお互いの緊張関係をいくらかは和らげる役割を果たした。
二人とも戦士らしく無駄口をききたがる性分ではないが、それでも意思疎通の緩衝剤に必要なレベルの雑談くらいできる雰囲気にはなっていたのだ。
今日は天候が好転した事もあって、バゼットと言峰は午前の早いうちから庭に出て、堂々と魔術師が動き出すのを待っていた。
無駄な行動は謹んで体力を温存しよう、という言峰の意見で二人は庭の芝生の上に腰をおろし、館の様子を眺めていた。
小一時間ほど経ったころ、
バゼットはおもむろに立ち上がって近くの立ち木にスタスタと近づく。そのまま目の前の木を仮想敵に見立ててシャドーを始めた。昨日、今日と続けてじっと座ったままでは体力温存どころか、むしろ血の気が有り余る。
バゼットが突きや蹴りを宙に放つたびにピシリ、パシンという小気味よい音が周囲の空気を裂く。木々が風にゆれるざわめき、枝にとまる小鳥の声のなかにリズムよく響く衣擦れの音を言峰はしばらく黙って聞いていた。
そのうちにふと言峰も立ち上がりバゼットに声をかけた。
「ふむ、待ちくたびれたとみえる。このままでは退屈だろう。
よかったら軽く手合わせでもしないかね?
君の腕前をみてやろう」
こうして魔術師との決戦を前にして執行者と代行者による軽い
言峰の重い突き蹴りをバゼットはギリギリで見切る。その場からあえて動かず巧みに体を捻り、芯をずらして威力を殺す。
胸元をかする豪拳。少しでも間合いを見誤れば体ごと吹き飛ばされているだろう。そのスリルが彼女の闘争本能を否応なく刺激する。
バゼットは全力で打ちかかることのできる人間に出会えてはしゃいでさえいた。むろん執行者の同僚の中には彼女同様に格闘技に長けた者は何人もいた。だが、若くして特例で執行者に配属されたバゼットは周りの年長の執行者たちとそれほど打ち解けられなかった。そもそも言峰のようにその存在に興味を抱くにあたいする大人は彼女の周囲にいなかったのだ。
言峰はバゼットを侮ったりはしない。代行者にも歳若い者はいる。言峰自身もバゼットくらいの年頃から代行者としてならした。バゼットの戦闘力が優れているのは確かだ。執行者側の最後の一人として生き残っているのはまぐれではない。敗れさった仲間の代行者の中には彼女の手にかかった者もいたかもしれない。
最初はあくまで準備運動程度のスパーリングだったのだが、二人とも腕自慢の格闘家である。相手の腕前が気になるし、キレのよい技が飛んでこようものなら、負けじとそれを上回る切れ味で返さずにはいられない。
時間が経つにつれて、この模擬戦闘は真剣勝負の殴り合いとしか思えないくらいに白熱していた。
実のところ、バゼットはルーン魔術を使わず、言峰は黒鍵を取り出さないし魔力による身体強化も行わない。彼らは本気で殺し合っているわけではない。
だが本気でないものの真剣なことに違いはなかった。二人は互いの格闘技術において、その腕前を全力で披露し合っていた。
何も知らない者が端からみれば一見激しい戦いのように見えるが、これは戦好きの二頭の獣が互いにじゃれて、その牙で徒に噛み合っているだけである。
本当の戦の前に滾る血を収める為の前戯にすぎない。
言峰が使う八極拳は中距離からの踏み込みの加速度を利用した突き蹴りの技に特徴がある。八極拳の歩方、活歩は一瞬で相手との距離を詰める。
したがって中途半端な間合いを作ってしまえば、即座に言峰が飛んできてその勢いを乗せた縦拳、衝捶が叩き付けられる。言峰の衝捶の破壊力は胸の上から人間の体内の内蔵を粉砕できる威力がある。当てればまさに”二の打ち要らず”というわけだ。
これに対するバゼットの戦法はむしろ超接近戦である。むろん一撃で相手に致死級のダメージをあたえうる八極拳の間合いの中に踏み込んで行くのは危険がともなう。しかしバゼットも接近戦主体の戦闘スタイルを主とする戦士なのだ。
言峰の上背はバゼットより二周り高く、手足のリーチはそのぶん長い。加えて踏み込みのパワーを威力に変える八極拳の技。中途半端に離れた間合いは言峰に有利だ。それに対抗するには逆に言峰のリーチのなかに入り込んでしまえばよい。
バゼットが得意とする総合格闘技は突き蹴りだけでなく投げや関節技も取り入た格闘術である。相手の攻撃をかわし内懐に入り込んでから本領を発揮する。
八極拳の突き蹴りは突進力を活かすため、半身を切った体勢になりやすい。言峰の体が突きで伸びきった瞬間を狙って、バゼットは言峰の正面に潜り込んだ。
言峰はすぐさま拳を引き構えを戻す。バゼットはそれに構わず言峰のガードの上から突き蹴りを叩き込んだ。流れるような
だがそれでも言峰はバゼットの攻撃を確実に弾き続ける。このまま防御を続ければバゼットの連打は必ず途切れる。連続攻撃はほぼ無酸素運動なのだ。息がつづくまい。
案の定バゼットの連打は単調になってきた。攻撃が途切れた瞬間が攻守交代の時だと、言峰は着実にバゼットの攻撃をさばく。
バゼットは右ミドルキックを蹴った足を即座に後ろに引き戻し、そのまま腰を落としながら左半身を切って体をひねる。
右耳の後ろに引いて構えた拳。体を引きざまに作った溜めを、右拳を握り込みながら弓を引き絞るように右足に蓄える。
その
相手のガードの上からでも構わず連続攻撃を叩き込み続けたのはこの隙を誘うためだった。バゼットの瞳に会心の輝きが宿る。
取った——————!
バゼットは右足に溜めたパワーをバネのように弾けさせる。相手の油断をついてガードを下げさせ、絶妙のタイミングを見計らって放った渾身の右ストレート。拳の軌跡が一直線に言峰の顎を打ち砕こうと伸びる。
「え———?」
バゼットが次の瞬間に期待した拳の手応えはなかった。言峰は間一髪でバゼットの右ストレートの軌道を外したのだ。
全体重を乗せた一撃を反らされて体勢を崩したバゼットの脇で言峰が素早く屈み込む。そして一度大きく体を内側に巻き込んだ後、その反動を背中と肩口に乗せてバゼットの体に叩き付けた。
大柄な言峰の体当たりをまともに喰らいバゼットは思いきり吹き飛ばされた。立ち木に背中から叩き付けられ呼吸が止まる。
「……ぐ……ごほっ……」
たまらず、そのまま木の根元に崩れ落ちた。
言峰は立ち上がって呼吸を整える。バゼットも一瞬地面に座り込んだもののすぐに頭を一振りして意識を回復させた。
「さすがです、綺礼。
あの右ストレートは間違いなく当たったと思っていたのに。まさかあそこから軌道をそらされるとは」
立ち上がりざまにバゼットが先ほどの感想を述べる。派手に飛ばされたわりにはけろりとした様子だ。案外こたえていないように見える。
言峰は本気ではなかったにしろ、バゼットもこの程度の攻撃は受け慣れているらしい。
「あれは
マクレミッツ、君の格闘技にも似たような技はあるだろう」
言峰は軽く先ほどの技の解説をした。バゼットを見ると一本取られたのを悔しそうにしている。放っておいたら、もう一本お願いしますと言い出しそうな表情だ。
「さて、その意気込みやよし、というところなのだが、
どうも、そのぶつけ先は変えなければならないようだな」
言峰はそう静かに言って魔術師の館の方を向いた。
バゼットも強い魔力の発動を感じてそちらに向きなおる。
館から濃厚な妖気が漂ってきていた。先ほどまで庭でさえずっていた小鳥たちは姿を消し、のどかだった庭先の空気のなかに死臭が混じり込み始めている。
魔術師がこの勝負を終わらせるべく、ありったけの
長かった暇つぶしの時間が、ようやく終わる。