商店街の小さなお店で食事を終えた永江 衣玖はよそ見をしながら歩いていた。蒸し暑い夏の熱気が頬を撫でる。彼女は家に帰ってから冷房をつけて、ソファーでごろ寝をする自分を想像している。それが彼女の願望だろう。
しかし、衣玖は真っすぐ帰ることはできない。何故ならば彼女の腰には何故かゴムひもが巻かれている。そこから延びる先っぽを握っているのは衣玖の後ろにいる、桃色の髪をした少女だった。言うまでもなく秦 こころである。
「きりきりあるけ」
無表情で「捕虜」に命令するこころ。店番から逃亡した衣玖をさがしていたら、行きつけの店でただ飯を食べていたのだから、少し怒っているのかもしれない。それでも表情は変わらないし声に抑揚もない。
紐は逃げないようにという保険だろう。それもとある嫉妬深い少女が切り盛りしている店でもらった。
「そこを右」
こころの指示は短く的確である。商店街の角を衣玖は言われたとおりに曲がる。どこに向かっているのかはわからないが、逃げる算段はなんとなくしている。そのあたりもぼんやりしているのは性格なのかもしれない。
こころの後ろにはルーミアとチルノが並んで歩いている。ルーミアは暑い暑いと手のひらで顔を扇いでいる。チルノは一人だけ手にペッドボトルを持っている。表面には「Crystal Kaiser」と書かれたミネラルウォーターである。英語とドイツ語が併記されているのは奇妙である。
「こころさん、どこに行くのですか?」
ふと、衣玖は聞いてみた。どこに向かうのかは聞かされていないが、少なくとも自分にとってプラスになる可能性は低いだろう。
「こんびに」
こころは短く答えた。衣玖はちょっと考えたが、別に考えるまでもない。彼女はこういったのだ「コンビニ」と。
☆☆☆
「で? あんたは朝からなにやってんの?」
飲み物コーナーの前ではたては呆れながら聞いた。彼女は青と白のストライブの制服を着ている。これは彼女の働くコンビニエンスストアの制服である。つまり、彼女は勤務中であった。
なのに、彼女の前にはへらへらと笑う同族の姿があった。
もちろんはたてと同じ「鴉天狗」である。七分袖のぴったりした藍色のパーカーを着ている。胸元が少し開いていて、中に着たブラウスのフリルが見える。下にはショートパンツを穿いている。動きやすい恰好が好きなのかもしれない。
艶のある短い黒髪を揺らしながらその少女は笑う。どことなくはたてに対していたずらを考えているような、そんな含みある笑みなのだが、整った顔立ちがそれを他人には感じさせにくい。ただし彼女、射命丸 文のだったら知り合いは普通に感じる。
普段の行いが悪いのであろう。それでも文はやれやれという風に肩をすくめて見せる。
「昨日言ったじゃないですか。付喪神を調べるんですよ。神社とかにいるみたいですし」
「ふーん。まあ、いまから調査するのね。私はまだまだバイトがあるから付き合えないけど、椛も誘ってみれば?」
はたては少し羨ましそうに言う。なんとなく自分が働いているのに、のほほんとしている文を見ると羨ましく感じてしまうのだろう。それでもはたては一人だけ蚊帳の外にいる気などはない。
「ま、バイトは夕方までだからそれが終わったら付き合ってあげるわよ」
「さっすがはたてですね。伊達にブログは書いていません!」
「か、関係ないでしょ! あと、あんた変なコメントしてくるのやめなさいよっ。気になるのよ」
「失礼な。私がいつそんなコメントをしたのですか。身に覚えがありません」
はたてはわなわなと震えたが、はあとため息一つついてからあきらめた。どうせ口では敵わない。文ははたての様子にちょっとだけ笑って、冗談ですと軽口をたたく。
「それよりもはたて、今日は何時にアルバイトが終わるのですか?」
「五時あがりよ」
「そうですか、それじゃあ先に椛を拾いに行きましょう。ダンボール箱で震えているかもしれませんし」
「捨て犬かっ! あんたいつか刺されるわよ」
「ふふっ」
少女らしい笑い声を漏らす文。
「まあ、椛はそんなことしますかね」
「…………」
はたては難しい顔をして腕組する。口調は荒っぽいところもあるが、椛はどちらかというと穏やかな性格である。それに甘い。なんだかんだといっても文に付いてきている。その点文も信頼のような物を持っているかもしれない。純粋に「信頼」とは言えないにしてもである。
ただし、はたてはあることを思い出した。
少し前に椛の住むマンションを訪ねた際「見てはいけない物を見た」ことで部屋に引きずり込まれたことがある。Rhineで文に助けを求めたが、最終的に返信もこの黒髪の鴉天狗はよこさなかった。今考えると少々恨めしい。
「この前ヘッドロックされたし……文もされるかもね」
「へ? そ、そんなことされたんですか? 詳しく話が聞きたいのですけど」
文はきらっと眼を輝かせる。面白いことを聞いたと、顔にありありと描かれている。はたては文に余計なことを言ったと悔やんだが、その前にピンポーンと入り口から客が入ってきた音がした。コンビニは防犯の関係もあり、ドアが開くと音が鳴ることが多い。
「い、いらっしゃいませー」
とはたてが接客モードに入ると文は「ちっ」と舌うちする。腹黒いところも彼女の魅力であり、欠点であろう。そのせいで多方面から恨みを買っているから、現実に財布からお金が無くなっている。
入り口の自動ドアからはぞろぞろと数人の少女達が入ってくる。先頭にいるのはリールのような物を腰に巻かれた竜宮の使いこと衣玖。その後ろにこころとチルノ、ルーミアである。
こころは中に入ってからようやく衣玖に何をさせようとしているのかを歩きながら言った。その間も四人は店の奥に進む。場所はレジの前。巨大な冷凍用の什器が置かれた場所である、それは上に蓋がなく、多くのアイスが入っている。そこでこころは言った。
「衣玖。アイスをたらふく買おう」
こころはぐっと片手でガッツポーズをとる。
提案の様だが、殆ど強制である。もちろん衣玖のポケットマネーを使う。食べるのは彼女以外の三人である。そしてここで無表情のこころの代わりに、歓声を上げたのはルーミアとチルノであった。彼女達はアイスの詰まった什器に駆けだした。
「そーなのか。わたしは月見大福とソフトクリームと……これと」
えへへと涎を垂らすルーミア。普段は冷静な表情をする彼女のバックにはアイスの幻想が見える。あのアパートにはアイスなぞほとんどない。あるのは毎日の食事という「糧」(かて) である。たまにさとりが他の二人に隠れて食べさせてくれる程度で、甘味は貴重なのだ。
はっとルーミアは表情を整える、はしたなかった。ただ胸が高鳴るのは抑えられない。甘い物は好きである。
「あたい、全部!」
チルノは器が違う。その言動から大器と言うべきだろう。反面、永江 衣玖の顔はこころなしか蒼くなっていく。少なくともこころの様に表情は消えている。
そんな彼女の腰ひもをこころは適当に向かいにあったおかしコーナーの什器に括り付けて、自分もアイス選びに参加した。衣玖の腰の結び目も、什器の結びも固く結んでいて取れない。まるで犬の様である。
「あの、こころさん」
「ん?」
衣玖がこころに問いかけると、こころはすでに両手いっぱいにアイスを抱え込んでいる。希望はないようである。衣玖は眼を閉じて「いえ」と言う。何をいっても無駄であろう。逃走の機は他にもあるはずである。
そんなこんなでワイワイとにぎやかなアイスコーナーを見ている二羽の鴉天狗は、思わず物陰に隠れていた。はたても文も特に隠れる必要はないのだが、アイスコーナーの少女達の中で桃色の髪の少女だけからはなんとなく隠れなければならない気がした。流石に店員ははたてだけではないから問題はないようだった。
隠れた理由は一つ。秦 こころは付喪神の一人なのだ。つまり、文が昨日から調べようとした少女達の一人なのである。
「これは、飛んで火に入る付喪神ですね」と文。
「ごろ悪いわね……ていうか、なんであの紫の髪のやつ紐でつながれてんのかしら」
はたてが言うが、その点文はわかっている。見た時に直ぐにわかった。
「何かして、アイスをおごらされているのでしょう」
口元がにやけている。ちょっと前に彼女も一人の吸血鬼と行動して、カツアゲに会い、大量のお菓子を買わされたことがある。既視感から直ぐに分かったのだろう。それに過去の自分と同じ「不幸」を味わっているだろう者を見ると、心が安らぐ。
「ふ、ふふふふ」
黒い笑いをもらす文。普段は平気そうな顔はしているが、とある花の妖怪との戦いで鴉天狗としてのプライドは傷ついていたのだろう。はたては意味が分からずぞっとするが、文は仲間を見つけて嬉しそうに黒く笑う。愉快である。
そんな黒い視線には全く気が付いている衣玖はふうと息を吐く。特に何も言わない。ちらっと入り口を見ながら、そっとおかしの什器から紐を外そうとしている。たまにこころが振り返ると、なにもなかったように手を離す。
こころもこころで衣玖が逃亡を図っている程度のことはわかる。いままで何度も逃げられたのだから今度こそは逃がす気などはない。それはそれとして「メロンバー」なる棒アイスをこころは手に取る。
文は陰でニコニコしている。やはり過去の自分の溜飲が下がる様な気がする。
そんなことだから、アイスに群がる少女も鴉天狗の二羽も新しく入ってきた、お客に気が付けなかった。それは一人の少女である。彼女はアイスコーナーのチルノ達を見てぎょっとするが、すぐにニヤッと八重歯を光らせる。
ウェーブのかかった金髪をポニーテールにしている。片手にはピカチュウの団扇。
揺れる、藍色の布地に描かれた美しい華。ぱたぱたなる、袖。腰紐は胸の下あたりで留めて、衣玖のような本物の紐ではない。
「チルノっ」
少女は叫ぶように呼んだ。彼女は足に履いたつっかけをかちっとならして、仁王立ちをする。どうだと言わんばかりにその「浴衣」姿を見せつけた。ふふんと鼻をならしながら、頬をちょこっと紅くしながら。
おっ? と氷の妖精を初め、こころもルーミアも振り返る。聞き覚えのある声である。それに文も「おやっ?」とそちらを見た。聞き覚えがありすぎるのである。衣玖は逃走経路を頭に浮かべた、紐をこの一瞬で解いた。
「あっ」
と口を押えて思わず声を出したのはルーミアである。なぜならむわっと心にとある感情が浮かんだからだ。逆にチルノは純粋に反応した。思ったままに口走る。
「おまえは!? 誰だっ!!」
「えっ?」
金髪の少女はかくっと体を傾けさせた。力が抜けてしまったのだろう。しかし、チルノが見間違えるのも無理がないかもしれない。その少女は普段とは全く別の恰好をしていたこともあるだろう。チルノを擁護するとすればその程度の理由はある。
「わ、私よ!」
フランドール・スカーレットはそう自分を指さして言った。せっかく浴衣を着てみたというのにチルノの反応は予想外だった。しかし、チルノはそれでもわからないようで、頬に「ガリガリ様」という骸骨のイラストが載ったアイスを付けて考える。ひんやりして気もちいい。
「たわし?」
「わたし! フランよっ!」
「……! へ、変装するなんてヒキョウよ! あたいは最初からわかってたんだから!」
「へ、変装なんてだれもしてないわよっ! この馬鹿っ!」
「なにー! この、あほー!」
「だれがよ。ばーか、ばーか。馬鹿チルノ!」
「あほー! この布都フラン!」
しょうもない喧嘩が始まってしまった。ぐるる、歯を剥き出しにするチルノとフラン。吸血鬼の少女も氷の少女と一緒になると、少々精神年齢が下がるらしい。そのうち掴みあいの喧嘩に発展してしまうのは眼に見えているので、すっと秦 こころが間に入った。
「フラン」
「うっ、な、なによ」
「かわいい」
ぐっと無表情で親指を立てるこころ。一瞬ぽかんと口を開けたフランだったが、直ぐに意味が分かって、その間に衣玖は逃げて、フランはきゅっと胸が高鳴るのを覚えた。視線がすっと横を向いてしまう。それでポニーテーるが揺れる。よく見ると。カチューシャをしていて小さな赤い花の飾りがついている。
「……」
うちわで顔を半分隠しながらフランはそっぽを向いてしまった。こころの仲裁は成功したのだろう、しかし彼女のスカートを引っ張る者が居た。チルノである。こころが振り返ると彼女はばっと一歩下がって仮面ライダーよろしく、変身ポーズをとる。
「あたいは!? こころ!」
「……かっけぇ」
本心かはわからないが無表情で言うこころ。親指をたてて、「グッド」を表すジェスチャー。それだけでチルノの表情はぱぁと明るくなり、最後には胸を張ってふふーんと鼻息荒く踏ん反りかえる。
「あたいの勝ちね」
「ばーか」
フランは呆れたようにいう。もう喧嘩する気はないらしい。幸いチルノの耳にも届かなかった。フランはチルノに見えないところでべっと小さな舌を出す。
「これにていっけんらくちゃく」
腰に手を当てたこころは芝居がかった台詞を言う。表情は変わらないがどことなく満足げである。そんな三人の後ろでルーミアがぷくっと膨れて、フランの浴衣を羨ましげに見ているのには気が付けなかった。スカートをきゅっと掴んでいる。
「……よかったですね」
影で見ている文はぽつりと言う。誰に言っているのか、傍にいるはたてにはわかったが、彼女は静かに頷いただけで口は開かなかった。強いているならば「さっさとアイスコーナーからどいてもらわないと困る」とは思っている。その点は店員である。
しかし、今の数分でとんでもないことが起こっていた。その異変に最初に気が付いたのは秦 こころである。
「はっ。衣玖が居ない」
言われてみればその通り、いつの間にやら煙の様に消えた竜宮の使い。どのタイミングで消えたのかこころにはさっぱりわからない。こころは「ちっくしょう」と無表情で悔しがる。金蔓が消えてしまった。
「このままではアイスが買えないわ……」
こころは最大の懸念を口にした、その途端。
「な、なんですって!」
「そ、そうなのか!?」
とルーミアとチルノが分かりやすく落胆する手に持っていたアイスに視線を落として、ついでに肩も落とす。フランには何が何だか訳が分からないが、とにもかくにも彼女達が落ち込んでいることはわかった。
フランはちらっと後ろを見る。そちらにあるのは入り口である。
そもそも今日彼女は一人で行動しているわけではない。単に連れだって来た「従者」と多少離れただけであった。その証拠にコンビニの駐車場に入ってきた、大きなエコバックを二つほど持った赤い髪の女性がいる。顔の左右で三つ編みにして、何故か野球帽をかぶっている。
彼女はのっそのっそとコンビニに入ってくる。入り口が開いて、ピンポーンと音がした。その女性はカーキ色のハーフパンツに白のシャツを着たラフな格好である。それでも整った顔立ちをしていた。
「妹様ぁ。やっと追いつきましたよ」
フランにとって頼れる女性。紅 美鈴がそこにいた。彼女こそ、今日のフランの付き人である。手に持っている袋をメイドから頼まれた買い物であろう。妙に量が多いのは、一回の買い物で一気に買い込む性格なのかもしれない。両手がふさがって額もぬぐえやしない。
フランが入り口を見た理由はこれである。チルノ達の落胆を自分で解決することは難しいかもしれないが、美鈴ならやってくれるという妙な信頼がある。ポケモンの時もそうだったのだ。
「美鈴! いいところに来たわ。こいつらに美鈴のすごいところをみせてやって!」
「えっ? は、はあ」
美鈴にフランはかつかつとつっかけを鳴らしながら歩み寄る。いきなりのことで意味の分からなかった美鈴だが、チルノとルーミアそれにこころがどことなく暗い雰囲気を出していることに気が付いた、彼女達とは殆ど面識などないが美鈴はフラン可愛さにいってしまう。
「な、なんのことか、わかりませんが……妹様。私に任せておいてくださいっ!」
フランはにっこり笑ってえくぼを見せる。それにつられて、ぱあと美鈴も笑顔になる。次の瞬間には世の中、契約書も読まずに契約した場合にどのような破滅を迎えるのかを学ぶ顔には思えないほど、美鈴は幸せそうだった。
「まじか! チルノ、ルーミア。やっぱりアイスが食べられるわ」
こころが即座に現状を理解して、二人の少女に伝える。ルーミアとチルノも笑顔になって「やったー」と声を合わせる。この場にいる者たちはみんな笑顔であった。美鈴は何も理解していないだけである。
「それで、妹様。私は何をすればいいのですか」
いまさら聞く美鈴。
「うー? さあ?」
フランもよく知らない。だからこころに聞いた。
「ねえ、こころ。何をすればいいの?」
「アイスをおごってほしいわ」
「だってさ、美鈴」
さあ、と顔から血の気が引く。それを美鈴は感じた。なぜなら、こころとルーミアとチルノは両手に抱えられるだけのアイスを持っている。もちろん一人が持てる量などは所詮少女だから多くない。一人千円分程度だろう。
よって三千円。美鈴は単純計算で頭にはじき出す。小さな額ではない。一週間分の昼飯代よりも多い。
「ま、マカセテクダサイヨ」
ぎこちなく言う美鈴。明日から、アルバイトは昼飯を抜けばいいのだ。簡単な話である。一応メイドから共通の財産をいくらか預かっているが、手を付ければやられる。美鈴はまだ死にたくはない。だから、あくまでポケットマネーを使うのだ。
「ふ、ふふ。美鈴はね。この浴衣も借りられる場所も知っているのよ。今日はそこに言ってきた帰りよ」
無邪気なフランドールは、無邪気にお気に入りの彼女を自慢する。自らのことを語るよりもどことなく嬉しそうである。しかし、ルーミアがぱっと反応した。
「そのゆかた、レンタルできるの?」
何か期待している目である。フランはうんうんと頷いて、八重歯を光らせながら胸を張る。そこでふっと何かを思いついたらしく、ピカチュウの団扇を軍配のように美鈴を指す。
「そうだ! 美鈴。こいつらにも浴衣を着せてあげよう!」
「ぇ」
美鈴はびくんと震えた。
これには多少説明がいるだろう。浴衣のレンタルというのものは全国的に行われてはいる。相場として一日数千円であろう。実際的には返すのが翌日などになれば、多少料金を取られる。
美鈴はエコバックを掴んでいる右手を見た。何故か震えている。
すでにフラン一人で数千円の経費、いやフラン費が飛んでいるのだ。そこにこの人数を知り合いの呉服屋に連れていけば、破滅する。昼飯どころの騒ぎではない。銀髪メイドに冥土に送られかねない。
「い、妹様。ちょ、ちょっとまってください」
「え」
言われてフランはきょとんとする。可愛らしい瞳、実際美鈴はかわいくて仕方がないわけではある。そのせいで美鈴は「できません」とは言えない。エコバックを下ろして、ポケットから財布を取り出す。余談だかその財布は真っ赤ながま口であり、中央に「しばにゃん」の顔が描かれている。
「ひー、ひーふみ」
美鈴は数える。札束をであるが「福沢」ではない。「野口」である。とてもではないが難しい。むむむと美鈴は唸ってしまう。眉を寄せて、頬を無意識に膨らませていることが少し可愛らしい、ただ修羅場である。
「美鈴」
「は、はい。い、妹様」
フランはちょっと残念そうに言う。
「無理ならいいわ」
責めるでもなく、すねているでもなく、只々美鈴にぎこちない笑みを浮かべている。それは紛れもなく美鈴を慮った言葉であった。少し前の騒動からフランは多少変わったのかもしれない。
美鈴は唇をかんだ。ここで折れるわけにはいかない。
「い、いえ。まっかせて下さい妹様! 楽勝ですよ」
胸をどんと叩いて、必死に余裕のある表情をする。ただ、それだけでフランの顔が、少しずつほぐれて、やったとその場で飛び上がった。そばではルーミアがガッツポーズをしている。よくわからないがチルノとこころも喜ぶ。
「めーりん!」
フランは思わず美鈴に抱き付く。美鈴はかわいさに心を奪われながらも「は、ハハッ」と乾いた笑みを浮かべる。眼には涙がたまってきた。嬉しいのか、それともこれから待ち受けるであろう試練を悲しんでいるのかはわからない。
だが、世の中には救世主はいるのだ。物陰に。
美鈴は幸運だった。誰か助けてほしいと心の底では思っていても、口には出せなかったが、その思いが届いたのか店の奥の方の「彼女」と眼があった。黒髪の美少女である。流石としか言いようがないタイミングで目を合わせてくれた。
射命丸 文がそこ居ることに美鈴は気が付いた。あちらも気が付いたらしく、はっとしている。
思わず美鈴はにこぉと笑みを浮かべた。汗をかいて、ひきつっている。重ねてになるが「笑みを浮かべた」だけで「笑っている」わけではない。むしろ眼は座っている。逃がすわけにはいかない。死がかかっているのだ。
美鈴は私に危険はないよ、と鴉天狗に必死にアピールしているのだった。
しかし、美鈴とて鬼ではない。少しお金を融通してもらおうと思っている程度で、ちゃんと後で返す気はある。それでも鴉天狗は厳しい表情をした。
「逃げます」
文の言葉はそれから始まった。はたては「は?」と言うが、文は全てを悟っている。このまま此処にいれば、生活的に死ぬ。今でも毎日の食費を切り詰めているのであるから、これ以上の出費はまずい。
「それじゃあ、はたて。また連絡しますから。私はこれで」
「あっ。ま、まあいいけど。じゃあ。後でね」
文はそう言いつつ、いったん店の奥に向かった。はたては「?」を頭に浮かべたままである。しかし、これは心理戦がすでに始まっているのだ。美鈴は入り口付近にいる。奥に向かうことでそれを「釣っている」のだ。
お酒コーナーは他からは死角。文はそこに身を隠す。
『あっ美鈴。どこにいくの』
遠くでフランの声がする。敵は動いた。
「つかまりませんよ」
文はぺろっと唇を嘗める。汗が?でて、ブラウスを濡らす。お金を失う恐怖は十分すぎるほど知っている。国営放送から居留守を使って逃げる技術を磨くこともした。一日パン一枚で過ごすことも編み出したのだ。
文の横には柿ピーの袋。つまみの什器だろう。敵がどこから来ても逃げることができる体勢をとっている。
『妹様! あちらからこのお店をぐるっと一周してきてくれませんか』
声がする。姿は見えないが、フランをつかって挟撃を画策していることは明白である。
文はちらっと什器から顔を出す。見ると首を傾げたフランが歩いてきてる。文はすばやく顔を隠した。逃げ道の一方は崩されたのだ。
コンビニは長方形の形をしている。文のいる位置はレジの反対。入り口の対角線。つまり一番奥である。間にある什器の棚を考えれば逃走経路は数本。しかし、入り口は一つ。つまり最終的にはそこを突破しなければいけない。
時間もない。フランに見つかれば、なんとなくではあるが文は逃げられない気がしている。
「ここは、いちかばちかですね」
文は移動する。身を低くして飲み物コーナーに沿って動く。ガラス張りで雑誌コーナーになっている方向である。あとは入り口まで走り抜ければよい。だからこそっと彼女は入り口を見る。ちなみにはたては「なにやってんだろう」と首をかしげている。
入り口に佇む桃色の髪。何故か仁王立ちをしている秦 こころ。あれも敵であろうが、おそらく意味は分かっていないはずである。文はふうと息を吐く。このまま一直線に駆け抜けて、入り口から一目散に脱出すればよい。こころは押しのけるしかない。
そこで気が付いた。文は美鈴がどこにいるのかさっぱりわからない。ただ、後ろからはフランが来ている。数秒の猶予もない。
『うおおおおー』
遠くからチルノの声が聞こえる。おそらく意味はないだろう。
文はかっと眼を見開いて、物陰から飛び出した。雑誌コーナーに飛び出したのだ。こころははっと気が付くが、わっと両手を上げて無表情で驚くと、後ろを見せて逃げていく。何故かわからないが文にとっては好都合である。
たたたと数秒。文は短い回廊を駆け抜け、入り口の前にいく。そして、ぞくっと首筋が粟立った。
真後ろに美鈴。そう、全ては布石だったのだ。門番をこころだけに見せかけて、実は物陰にいたのだろう。伏兵を置くその知略は流石の年季である。つまり、こころは囮、本命の美鈴が鴉天狗の首を断つ(とやばいので気絶させる) 策だった。
しかし、ずる賢さならば文はぴか一である。彼女はさっとしゃがむ。一瞬遅れて彼女の「頭」があった位置に美鈴の手刀が通りすぎる。高速の攻防の中で文はちらっと後ろを見る。美鈴は初撃を外して体勢を崩している。
にやりと鴉天狗が笑う。
「ちぃ」
「あまいですねっ」
視線が交錯する。文は勝ち誇った顔を一瞬だけ見せて、だんと床を蹴る。その勢いで入り口を抜けようというのだ。完璧であった。あとはガラス張りの自動ドアを超えれば逃走は完了する。
――自動ドアがゆーっくりひらく。
「あ。あのちょっと。ねえ」
文は素に戻った口調で、ガラスを叩く。自動ドアは人が来れば感知して動くが、走って通り抜けようとすると、ひっかかる。その間にぽんと文の方に手が置かれた。美鈴だろう。
やっと開いた自動ドアの外は、とても明るい。コンビニの奥に引きずり込まれながら文は思った。
ただ、僅かな救いは、
「あっ文だ!」
と無邪気そうに喜ぶフランの声だけだろう。こうして幻想郷の少女達以外はコンビニ客が唖然として見ていた状況は終わったのだった。