夜明け前が一日の中でもっとも暗い。そのわずかな時間は、世界が変わっていくことを「見る」ことのできる稀有な時間でもあった。
水平線に少しずつ太陽が昇ってくる。夜の黒と、朝の白が混ざり合って空が蒼く透き通っていくように染まっていく。その間を太陽のオレンジ色の光が幾筋か伸びて、天空へかかる橋の様にまっすぐ伸びていく。
遠くに見える島は黒い影のようだった。地上で明るいのはただ。太陽のまわりだけ。それでも空は星も月も隠れることを惜しんでいるかのように、一日で最後の輝きを見せてくれる。それがきらきらと天空を彩っては、少しずつ朝焼けの光の中へ消えていく。
そんな中を霊夢は浜辺で歩いている。イカ釣り漁船から解放されて、へとへとの状態で海の家に歩いているのである。彼女は髪をポニーテールにしているが、それはお洒落だからではない。機動性を重視してそうなったのだ。
よろよろと浜辺に足跡を残しながら霊夢は歩く。彼女の背中には青い髪の少女が背負われている。その背中にはさらに大きなバッグがあるからさらに重い。霊夢は今すぐにでも投げ捨ててしまいたいくらいである。
霊夢の背中でにとりが「うぇぇ」と気持ち悪そうに唸る。彼女は自分が水生生物だからと言って船を甘く見た為、このような結果になった。最終的に霊夢しか仕事をしなかったので日当も減らされるところだった。その点で言えば巫女が頑張ってくれて、漁師達は快く払ってくれた。おおらかなのも海の男である。
「な、なんで、私が」
その巫女はぶつぶつ言いながら歩く。河童を投げ捨てないあたりは面倒見がよいのかもしれない。ただ、今はとても眠くて今すぐにでも倒れて眼を閉じたい。体のいたるところが重いのも疲れている証拠だろう。
「こ、こんなのは、こ、工場に比べれば」
昔の暗い記憶を思い出しながら精神力にブーストを掛ける巫女。彼女の過去には「単純労働」という、人間の限界を極め続けた記憶が満載されている。考えてみれば八時間の間、パンをねじり続けるなど正気の沙汰ではない。
「れ、れいむさん」
「にとり。あんた起きたの? じゃあ、自分で歩きなさいよ」
「は、吐きそう」
「……」
波の音が霊夢には良く聞こえる。背筋がすうっと寒くなる。にとりはとても青ざめた顔をしているが、背中のことなので霊夢には見えない。そもそも少しでも刺激を与えれば、背中が大参事になることは間違いない。だから振り向くことができないのだ。
「や、やめなさい」
切実な思いを短い言葉で伝える霊夢。にとりも流石に恩人の背中に仇を返せないとこくりと頷く。ただ、小声で「お、降ろして」と言った。だから霊夢も砂浜に河童を降ろす。それこそゆっくりとである。
ごろんと転がるように浜辺でにとりは大の字になる。顔は死にかけた魚の様であり、息はヒューヒューとか細くしている。船に酔ったまま数時間の航海は本当の地獄だった。何度海に飛び込んでしまおうかと考えたかわからない。ただ、今の自分では夜の海で泳げるかもわからない。
それでこそ船をおちたら落ちたで「救出」という名目で漁師たちに船に引き上げられることも間違いない。それが本当ににとりを助けることになるかは、それもわからない。
「ふー。横になったら落ち着いたよ……」
力なく言うにとり。その横に霊夢もごろんと寝転がる。二人の目の前に広がるのは夜明け前の星空。都会から離れているここでは、いくつもの星々が散りばめられて輝いている。それは夜空ではない。夜と朝の狭間の空を、なんといえばいいのだろう。
そんな空のもとで、二人は浜辺の砂をベッドに寝転んでいる。
「つかれたわー。あんなにきつい仕事をしたからにはもう借金はチャラでいいわね。にとり」
「そうは……いかないよ霊夢さん。さっきもらった分だけでは半分程度だよ……」
「がめついわね。あんだけ頑張って……いや、あんた何の役にも立たなかったんだけど」
「本来であれば霊夢さん。私は働く必要はないんだよ……人材の派遣を指示するだけでいいんだけど。人手が多いほうが日当がよくしてくれるから、参加しただけさ」
霊夢ははあとため息をつく。それ以上はこの金銭的なことにきっちりした河童に文句を言う気はない。ある意味では戦友と言えないこともないのである。彼女は星空を眺めながら、だんだん明るくなっていく空を見つめている。
「海の空ってこんなにきれいなのね。幻想郷じゃ絶対に見れないのよ、ね」
「まあ、海自体がないからね。霊夢さん。どうせなら帰ったら河童印のプラネタリウムをまた見せてあげるよっ。もちろん有料だけどね」
「帰ったらね」
霊夢は言う。ことも何気に河童は「帰る」と言うが、その目途など少しも付いていない。ただにとりはあまり気にしていないらしく、ころんと横を向く。目の前には小さな、小さな白い砂。彼女はそれを指でつまんでぱらぱらと落としてみる。川の砂とは似ているが違う。たまに白い貝殻が混じっている。
「霊夢さん」
「なによ」
横を向いたから河童は霊夢に背中を向けている。それでも聞く。
「幻想郷の外に来て、よかったと思う?」
「……難しいことを聞くわね」
にとりは表情を見せない。霊夢にとっては何気ない質問であろうが、にとりにとっては少し違う。曲がりなりにもこの「異変」の参加した彼女は、昔からそれを気にしている。河城商会という物を立ち上げたのも、それが原因でもある。
ただ、霊夢は知らない。だから彼女は両手を頭の後ろにやってから思う。枕替わりであった。そうして眼を閉じると潮風が心地よい。
キツイ仕事。毎日お金を考える生活。ぎゅうぎゅう詰めのバス。思い出すだけで辟易することはたんまりとある。ただ、いつものアパートのドアを開けると、いつものメンバーがいることは、幻想郷にはない。神社では殆ど一人で夜を過ごす。
霊夢は一人でいることが苦痛なわけではない。今まではずっとそうしていたのだから。
それでも家に帰るたびにチルノとおかずの取り合いをして、たまにルーミアも参加してきたり。慧音が仲裁して、さとりが困ったように笑っている。なんとなくいつかのアパートを思いうかべる。霊夢はそこまで思い出して、にとりに背中を向ける。
「……案外、悪くはないかもね。もちろん帰らないといけないけど」
「そっか」
霊夢が何を想像して答えを出したのかは知らないが、にとりはそれだけ言って黙った。彼女自身の聞きたいことは聞けたような気もする。だから次は霊夢の質問の番だった。霊夢は眠いはずだったのに、潮風が少しだけ冷たいせいか話をしたい気もする。
「そういえば、あんたよく河城商会って意味の分かんないことを言っているけど、あれなに?」
「い、意味わからないって。霊夢さん。法人企業だよ。株式会社さ」
「ほーじん? 何をいってるのよ、会社ってアレじゃない。お金がないと作れるわけないじゃない」
「……甘いねれーむさん」
にとりは体を起こして、霊夢を見る。ただ、見えるのはその背中である。だからにやにやと笑う河童の顔を巫女は見なくて済んだのだ。
「今の時代は一円あれば株式会社を立てることができるんだよ!」
「流石に、騙されないわよ……そんなの」
「えっ!? いや、ほんとだよ」
「はい、はい」
欠伸をしながら霊夢は河童の戯言を聞き流す。実際には登記などの手数料を取られるということがあるので「一円」では会社は立てることができない。それに施設費用もなければならない。
それでもにとりは「本当だけどなあ」とボヤキながらまた、ころんと寝転がる。だんだんと眠たくなっていくが、僅かな理性が「今から熱くなるから、浜辺で寝るのは死活問題」だととどまらせた。だからもう一度にとりはのっそりと起き上がる。
「とりあえず海の家に帰ろうか、霊夢さん。ん? れいむさん」
みるとすうすうと可愛らしい寝息を出しながいつのまにやら霊夢は寝ている。にとりははっとして。霊夢を揺さぶり、それから深刻な表情を作った。
「し、死んでる」
と河童は冗談を吐いておいた。
すでに太陽が顔を半分出して、暖かい日の光がにとりと霊夢を包み込んでいく。にとりはゆっくりと首を回して、眼を細める。潮風に青い髪がゆれて、ずり落ちそうな緑の帽子を整える。
「もう、私も眠いけど……今日も一日頑張って儲けるか!」
ぱんぱんと頬を叩く。ちなみに頑張るというのは他人をできる限り効率よくこきつかうことを言うのだ。
◇◇◇
河城にとりは激怒した。
海の家に帰ると誰もいないのである。代わりに文鎮代わりに小銭を上に置いた「領収書」が置かれてあった。どうにも旅館の宿泊費用らしい。しかもその人数が尋常ではない。二桁に上る数の宿泊人数。もちろん料金もそれなりである。
海の家には人影ならぬ、河童影はない。どこに行ったのかはわからないが旅館で領収書を切ってからここに置いて、眠りに戻っていったのかもしれない。にとりは領収書を破り捨てたくなる衝動を押さえつけ、とりあえず奥の座敷に霊夢を寝かせた。体にはタオルケットを一枚かけておいた。
にとりには労働基準法がわからない。にとりは河童であるから仕方がないであろう。だが、経費については人一倍ならぬ河童一倍敏感であった。それでもにとり自身が河童の労組の強さを知っている。それこそヘソを曲げたらテコでも動かなくなる。
なんといっても河童の労組は神への反逆を行ったことがあるのだ。自分にその牙を向けたらどうなるのかわからない。
「……絶対回収してやる……」
領収書を握りしめて、机に突っ伏すにとりだったが、その心の底ではメラメラと情熱が滾っている。投資した分は取り返すのが商売である。もちろん経費を使ったからには利益が必要なのだ。だからこそ、今日に「ビーチバレー」を企画したのだ。
実は種目なぞどうでもよかった。だから内容を決めたのは昨日である。そもそも計画の骨子はそこにはない。
にとりは背中のカバンを下ろして、中からノートパソコンを取り出す。防水のためだろうか、ビニール袋にまかれている。出すとメタリックのボディー、ロゴは「松下電工」である。商品名は「レッツ&ノート」である。
にとりはパソコンを立ちあげて。カタカタと打ち込み始める。エクセルを起動させて、何やら数字が大量に打ち込まれたタブが表示される。にとりはそれを見ながら「仕入れ……粗利……」と謎の呪文のような言葉をつぶやく。
かたかたと打ち込んでターンとエンターキーをにとりは押す。それから彼女はばっと立ち上がり、ぐっとガッツポーズをする。
「今日一日で全て回収してやるぞっ! あの尼とかを使って大儲けだ!」
「うるさい!」
「あぶなっ!?」
にとりに向かって水鉄砲が銃弾のように飛んできた。にとりは慌ててしゃがみこんで避ける。もちろんそれを投げたのは霊夢であった。せっかく気持ちよく寝ていたのに起こされてしまったらしい。
霊夢は海の家の柱に寄りかかって、眠たげにしながらもにとりを睨んでいる。充血した両目が普通に怖い。しかも強いのはイカ釣り漁船で同乗したにとりがもっともよく知っている。
「れ、れいむさん。あ、あぶないなぁ」
「何をぎゃあぎゃあ言っているのよ。この朝っぱらから昨日から働きづめなんだから静かにしなさいよ!」
「は、はい」
にとりはなんとなく答えてしまう。霊夢は額に青筋を立てているから、本気で怒っているらしい。社会人の休日を邪魔するものは万死に値する。しかし、霊夢は呆れたようにため息をついた。それから座敷に引っ込んでいった。
にとりは真顔で突っ立っている。うるさくしてはいけないのだが、一人なのでやることがない。だからぽつねんと突っ立ているのだ。
「しかたない、仮眠をとろう」
にとりはやっと動き出して座敷に向かう。座敷と言っても大した広さではない上に、吹き抜けである。とりあえず先に寝ている霊夢の邪魔にならないようにのそのそと上がり込んでにとりは横になった。そして眠りに入った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
にとりが眠っていると、ゆさゆさと揺り動かす影がある。それは赤い髪をしていて、お下げの可愛らしい少女であった。口元には笑みを浮かべている。どことなく猫の様だった。
その少女は白いレースのキャミソールに紺のスカート。ただ赤い髪に大きなサングラスを載せているのはミスマッチだった。それをつけると雰囲気が変わる。それもそうだろうまるで昭和の刑事ドラマで出てきそうな黒サングラスであった。
彼女はお燐である。本名は火焔猫燐と言うが、この小難しい名前を本人が好いておらず、親しい相手には「お燐」と呼ばせている。彼女はこの早朝に海の家にやってきていた。旅館から抜け出すことはそんなに難しいことはなかった。
「オヤブン、オヤブン。起きてください」
「ん? あれ、もう朝……?」
にとりはゆっくりと体を起こして壁にかかっている時計を見る。さっき眠りに入ってから十分程度しかたっていない。本当に仮眠程度の休憩であった。にとりは少し恨みがましげにお燐を見る。
「オヤブン」
お燐は冗談めかして言う。どことなく親しみを込めているが、その表情には「いたずら心」の加わっているように見えた。事実、半分はふざけているのであろう。しかし彼女が「準備ができた」と言ったことは本当である。
「昨日のうちに近所の印刷会社に頼んでおいた件、さっきあたいがもらって来ましたよっ」
「お」
よく見るとお燐は手にポスターのような物を持っている。にとりはそれを受け取って広げた。ポスターとは言うが上質紙で作られたもので経費は抑えている。ただポスターとしての「光沢」はない。
ただし、そのポスターは人をひきつける力があった。
――ビーチバレー大会やります
という文言がでかでかと書かれたポスターに青い髪の少女がアップで載っている。
その少女は少しウェーブのかかった髪をしていて、笑顔の可愛い少女である。ただ、紫のビキニタイプ水着を着ていて、白い肌とふくよかな「女性らしさ」がある。まさに美少女と言っていいだろう。
要するに雲居 一輪の盗撮ポスターである。昨日のうちに河童か猫がデジタルカメラで撮影しておいたものを近くの印刷所に入稿、出来栄えが多少荒くなってもよいと急ピッチで作ってもらったのだ。ある意味では地方の印刷所には仕事が少ないので「win-win」と言えないこともない。残業は発生しただろう。
不思議かもしれないがこのような早い印刷方法が安くつくこともある。
にとりはまじまじとポスターという「撒き餌」を見てから笑う。これを見た人間はぞろぞろと海の家に釣り込まれてくるだろう。それこそ大会が盛り上がれば盛り上がるほどにとりは甘い蜜を吸うことができる。
「けけ」
邪悪な笑い声を出す河童。その横で猫が、
「にやり」
とわざわざ口に出して笑う。いたずらと言えばそれに近い。しかし、彼女は自分の主人を宣伝することも忘れてはいなかった。ポスターの下の方には海の家の場所などが書かれているが小さく「さとり様もでるよ!」とデフォルメされたさとりのイラストとともに描かれている。もちろんそのイラストは昨日から海に張り出されていた絵である。
実際「さとり様も」と言われても「さとり」が誰なのか殆どの者が知らないはずである。それでもお燐は主人の為、無理を言って入れてもらったのだ。見事な忠誠心であろう。
「それで、これは何枚できたのかな」
にとりが聞くとすかさず猫が応える。
「五十枚! この朝のうちに全部張ってくるよ」
「完璧だね。これで宣伝して寄ってきた連中に私たちはあれを大量に売るんだ、人間達には堪らない一品さ」
と言ったところで河童ははっと気が付く。彼女は指をたてて、口元にあてる。しーと猫に合図するのだ。なぜなら横で霊夢が寝ているから、これ以上騒げば顔にビール瓶が突き刺さっても不思議ではない。
幸い霊夢は幸せそうに眠っている。にとりはほっと胸をなでおろしつつ、にやりと笑う。それから「ひひ」と笑い声をかみ殺し、それを受けてお燐も「にゃふふ」とわざとらしい猫笑いをする。どちらも小声である。
おまけ
<土蜘蛛の一日>
6:00 起床
7:00 出社(9時までぼおーとする。出勤時間には換算されない)
9:00 朝礼(地獄開始)
パンねじり
~17:30(退勤)
18:00 帰宅、シャワー
19:00 夜ご飯。
21:00 生きることに悩む
22:00 寝る