鈴虫の鳴く静かな夜。
秋の冷たい夜風と空にぽっかり浮かんだ、中秋の名月。
星の輝かない暗い現代の空の下、どれだけの人が月を見ているのだろう、彼らは酒を酌み交わすのか団子を食べているのか。この秋の夜空をそれぞれが楽しんでいるのだろう。
今日はそんな夜だった。
電燈が明滅する暗い道にかーんかーんと何かを打ち鳴らす音が響く。その後に調子の外れた声が響いた。あたりは住宅地であることもあり道にはほとんど人通りはない。たまに家屋の中から人の声が聞こえるくらいである。
「マッチ一本火事のもとー」
その声は可愛らしい響きを持っていた。一定のリズムでかーんかーんと何かを打ち鳴らす音がまた聞こえると、同じように防火を呼びかける声が夜の街に響く。伝統と言ってよい「夜の見回り」である。
しかし「声」の主は邪悪な考えを持っていた。いや、とてつもない野望だといっていいだろう。それも「彼女」の出自を考えると当たり前なのかもしれない。
道を歩く少女は奇妙な格好をしていた。
大きな紫の傘を器用に腕で支えながら首で押さえている。その傘には大きな「眼」の文様があり、舌のような巨大な飾りがだらーんと垂れ下がっている。それに取っ手の先は小さな下駄を履いたような作りになっている。
両手には「防火」と彫り込まれた拍子木(ひょうしぎ) を持っている。それは対になった木の道具で、打ち鳴らして使う物だ。少女はそれを一定のリズムで鳴らしていたのだ。
服装は白いシャツの上から、胸元を紐で結んだ青いベスト。それに水色のスカートには水玉の模様。そこから伸びた細い脚には何もつけておらず、直に下駄を履いている。
少し傾けた傘の下には肩まで伸びた青い髪にぱっちりとした大きな眼。その片方の目はオッドアイ。赤い眼を不敵に光らせて、彼女は夜の闇を歩いている。
この少女こそ幻想郷の恐怖の妖怪、多々良小傘であった。
小傘は町内会で決められていた夜の見回りに自ら志願していた。現在は命連寺に寄寓している身としては、他の者と来てもよかったのだが先に書いた通り、彼女にはとある目的があった。だからこそ言葉巧みに一人で見回りに来られるようにしたのだ。
その目的とは道行く人を恐怖のどんぞこに陥れることである。
幻想郷での彼女は人間の恐怖を食べて過ごしていた。人を驚かせることによって、その恐怖を食すのだ。ただし、グルメであるのか彼女はよくひもじい思いをしていたこともある。
現代に来てからは普通に食物を摂取しなければいけない体になってしまった。だから人を驚かせる意味もなければ、実利もないのだが小傘は毎日うずうずしていた。
――人を驚かせたい!
それは小傘の日々の欲望であった。最初は聖白蓮が怖いこともあり隠していたが、どうしても耐えきれなくなり今回の計画を想いついたのだ。
やはり、妖怪といえば夜である。そして魔性の月が欲しい。そんな条件のそろった日に小傘は誰にも悟られることなく外へ出ていかなければならない。そこで目を付けたのが「夜の見回り」であった。小傘もよく意味はわからないが「マッチ一本火事の元」と言いながら拍子木を叩くだけで外を練り歩けるのだ。
一人で外へ出れば後はこっちの物だと小傘はほくそ笑んでいた。普通ならば見回りは数人で行くところだが、どうしても一人で行くと言い張り、命連寺の面々からは怪しまれたことには気が付いていない。
「マッチ一本火事の元―」
それはそれとしても小傘は真面目に見回りしていた。カンカンと拍子木を打ち鳴らして、防火を近所の住人に呼びかけている。だが、小傘はこれではいけないと思う。元々ここにいる理由は自治体に貢献することではないのだ。其の為だけに幻想郷から着ていた一張羅をクリーニングに出して気合を入れたのである。
(そろそろかな? ふふふ、人間達よ恐怖におののくがいいわ!)
時期を見計らっていた小傘はにやりとした。ここからは妖怪の時間である。人間達は驚き、すくみ、恐怖に震えるだろう。だから青い髪の少女は手始めとばかりに高らかに言った。
「マッチ一本、うらめしやー!」
カンカーンと拍子木を打ち鳴らす小傘。彼女は伝統にのっとり世の中へ恨みを込めて「うらめしや」と叫んだ。昔から人を驚かせる化け物の一言目はこれに決まっているのだ。ついでに防火を呼びかけられて一石二鳥である。
鈴虫の声が小傘には聞こえる。せっかく恨みを込めたというのに、全くを持って反響がない。そこにちょっとだけ不満顔を見せる小傘だが、彼女も歴戦の恐怖の妖怪。今まで怖がらせてきた人間の数は足の指を使わないと数えきれない。
しばらく歩いていると小傘はとある公園に差し掛かった。
そこはいつか天狗と吸血鬼が遊んだ由来のある公園ではあるが、もちろんのこと小傘にはわからない。彼女はなんとなく公園の中を覗き込んだ。
そこには小さなブランコがあった。そして女の子が一人座っている。
頭に烏帽子をかぶって銀髪の少女がブランコに座って、月を見上げている。ほのかに蒼い月明かりに彼女の白い肌が照らされている。身じろぎをしているのかキイキイと錆びたブランコの鎖が鳴っている。
少女は、物部布都であった。こんな時間に何をしているのかというと、月見をしに来たのである。できるだけ暗い場所のほうがよく見えるだろうという考えから公園にやってきたはいいが、普通に怖くなって動けなくなっていた。
布都は半ズボンを着ている癖に、上半身はコートを着込んでいる妙な格好をしていた。いや、烏帽子をかぶっている自体どうあがこうとも奇怪ではある。
小傘は布都を見て、思わずうずうずとしてしまった。物陰にしゃがみこんで布都の様子を見舞っている。遠くから見るとただの美少女なのだが、彼女の知り合いになるとそのことを完全に忘れさせる程度の能力を持っている。
小傘はぺろっと舌を出して、傘を小さく折りたたむ。その中に身を隠しながら公園に入り込んでいった。慎重に音を出さずに布都へにじり寄っていく。逆に銀髪の少女は月を見たまま動かない。視線を動かすとおばけとか妖怪とかが出てきそうだからだ。まさか本当に近づいてきているとはわからないだろう。ちなみに小傘は拍子木を首にかけている。
「ふ、ふふ。こ、今宵の月は綺麗ではないか……」
布都は強がりながら月をほめる。内心では月の光が唯一の救いなのである。尸解仙のくせに死者の霊が怖くて仕方ないのである。だが、小傘という恐ろしい妖怪が彼女の真後ろにまで回り込んでいることが、彼女の運のつきだった。
布都の肩をとんとんと誰かの指が叩いた。びくっと体を震わせて彼女は後ろを振り向く。
そこにはいたのはべろっと赤い舌を出した多々良小傘がいた。
「うらめしやー!」
傘を差してできるだけ怖そうな顔をしている小傘は力の限り叫んだ。傘のせいで顔に影が現れていて、布都を見下ろすような恰好になっている。それが布都には効果絶大であった。
布都の眼は小傘の顔を凝視したまま、だんだんとおおきく開かれていく。あわあわと口元が動き、彼女を指さしながら立ち上がった。
「ああぁああああわあぁああぁああぁぁぁぁあああああっぁあぁあああああああ!?」
振り返って一目散に逃げていく。目元には涙、走り方は両手を必死に振りながらのいかにも慌てているようだ。途中でこけそうになりながら、布都は叫びながら逃げていった。遠くまで行ってもその悲鳴が聞こえてくるくらいの驚きようであった。
ぽつんと残された小傘はポカーンと口を開けて舌を出したまま固まっている。見事としか言いようのない布都の逃げっぷりに圧倒されたのだ。しかし、小傘は自らに恐怖したのだと少しずつ理解できてきた。
そう理解したところでぼろぼろといきなり小傘は泣き始めた。大粒の涙が頬を伝っていく。彼女は茄子のような傘で顔を隠しながら言う。やはり泣く自体は恥ずかしいのである。
「あ、あんなに驚いてくれたの初めて……」
そう感極まって小傘は泣き始めたのである。心が温かいもので包まれていき、今までの苦い思い出が洗われていくかのようだった。近隣の住民はその子供に「悪い子にしていると小傘ちゃんが、来ない」と言い始めているこのごろである。
だからこそ布都の驚きの様は小傘には感動的であったのだ。しかし、彼女は強く涙を払い、ぐっと気合を入れる。
「今日はいけそうな気がするわっ!」
そんなこんなで小傘は妙なやる気を出したのだ。
小傘は恐るべき計画を立てた。それは住宅地の角にひそみ、曲がってきた住民を驚かせようと思ったのだ。今日ならいける、それが小傘を突き動かす原動力であった。それに満月に暗い夜は妖怪にはこれ以上ないほどの絶好の条件である。
「……やっぱり、驚かせるのにはシュチュエーションが大切ねっ」
人を怖がらせようというのに、明るい声を出している小傘だが、彼女を批判できるものはいないだろう。なんといっても今宵の彼女は一人驚かせているのである。実績さえあれば多少のことは許されるのだ。
そんなことをしていると、道の向こうから哀れな標的が現れた。
小傘は高鳴る胸を抑えて、そっと曲がり角から顔を出す。歩いてくるのは赤い髪をした小柄な少女のようである。なぜ性別が分かるかというと、赤いスカートを穿いているからだ。それに長い袖の黒いシャツ。首元にはマフラーを付けているので、口元が隠れている。
「ふっ、ふふ。これから驚かされるとも知らないで……」
顔を隠して、小傘はほくそ笑み。本当に嬉しそうに口元を綻ばせる。それだけを見ればただ可愛らしいが、彼女は恐るべき妖怪なのである。
道の先からは赤い髪の少女がかつかつと歩いてくる。背は小傘より小さそうである。頭のは大きな紫のリボンをつけていることもわかった。小傘はタイミングを計りながらそおっと少女のことを観察している。
よくよく見ると手には「マツモトキヨハル」と書かれたビニール袋を持っている。明らかに買い物の帰りなのであろう。しかし、こんな夜には軽率な行動しか言えない。そんなことだから小傘のような妖怪の標的にされるのである。
赤毛の少女は曲がり角に差し掛かった。小傘は今だっとばかりに飛び出す。くるりと大きな傘を回して、べろっと舌を出して少女に叫ぶ。
「恨めしやー!!」
「うわっ」
赤毛の少女は眼を見開いて身を引く。明らかに驚いている。先ほどの布都にははるかに及ばないが、小傘の心は充足感に満たされていた。やはり妖怪は人を驚かせてなんぼであると彼女は想うのだ。
赤毛の少女はのけぞって、首を動かす。そして、
首が落ちた。
比喩ではなく首が赤毛の少女から離れて、地面に落ちる。何が起こったのかわからない小傘は小さな声で「驚いた?」と聞いたが、もはやそんなことを言っている段ではない。
小傘の足もとに赤い髪をした「首」が転がってくる。やっと状況を理解したのか舌をだしたまま小傘は固まってしまう。ただ眼だけは足もとに注がれていた。目の前には首のない少女が立っている。
足元の首が小傘の足に当たって、ごろりと「動いた」。その眼は恨みがましげに小傘を睨んでいる。
「お……まえ」
切り離された「首」がしゃべる。それに気を取られていると小傘は両肩を掴まれた。そう、首のない体にである。小傘はその時まで舌を出したままである。現在の状況が全く理解できてないのである。
「お」
小傘はぽつりとそう口にだす。だんだんと肩が震え始めて、それが大きくなる。
「おばけえぇええええぇええええ!!」
小傘は叫んだあと、必死に暴れて目の前の「首なし」を引きはがす。それからくるりと踵を返すと、全力で逃げ出した。
「く、くびなし、おばけぇあぁ、でたぁああぁあっぁああああぁあ! ひゃぁあぇぁあああ」
力の限り叫びながら夜の道を走る小傘。眼からは涙、口からは涎、手に持った傘を壁やらゴミ箱やらにこすりまくって逃げる。逃げる途中で脱げたのかいつも何やら裸足になっており。走るたびにペタペタと音を出すのが少々可愛らしい。
それでも止まらなかったのは後ろからは首なしの妖怪が追ってこないか不安で不安で仕方なかったのだ。やはり、良い月の元には恐怖があるらしい、誰が恐怖するかは決まってはいない。
こうして、人を驚かせようとした忘れ小傘の夜が終わりを告げた。本気で泣きながら裸足で「おてら」に逃げ帰った時には何度か転んだのか、服は砂に汚れている。近隣に響く叫び声をあげながら帰ってきたから後日もっと恥ずかしい目にもあった。おいてきた下駄も状況証拠にされてしまった。
小傘は唯ただ純粋に人を驚かせたいだけであったのだが、
――それがこのざまである。