カフェの中は涼しい。現代では必須といえる空調が、静かな音をたてている。
十六夜 咲夜はレミリアに「おやつ」を出してから、言った。
「そういえば、よろしかったのですか? お嬢様」
「何がかしら、咲夜?」
レミリアはいつものカフェで、いつも通りにカウンターに座って何故か、今しがた咲夜に出された「きな粉餅」を食べていた。一つ一つを爪楊枝で刺しては、口に持っていき。血を吸うためにある牙で餅を咀嚼する。もぐもぐと噛んでからごくりと食べる。
「それで? 何かしら」
カウンターの向こうでコーヒーを挽いている咲夜にレミリアは言う。午後の昼飯時を過ぎて、店内にはほとんどお客がいない。居るとすれば、店の隅っこで頭を抱えて「よくわかる! 数学Ⅲ」と書かれた参考書を熟読している、長い髪の女性だけである。ちなみに彼女は一杯コーヒーで二時間粘っている。恥ずかしそうに。余談だが、その女性はレミリアがよく「無職」と言っている。
「いえ、妹様のことですわ。外に出して……それに勝負のことも」
「いいのよ」
レミリアは傍らにあったカップを持って、口に持っていく。中には砂糖の入ったコーヒー。彼女はそれを少しだけ飲む。それから咲夜にこたえる。
「フランは、家にいるときにはずっとゲーム、ゲーム、からのアニメ、マンガ。……流石に姉としては、どうかと思うわ。これも全て美鈴が甘やかした結果ね」
「でも、お嬢様。こちらに来てからはかなり明るくなったのではないですか? あの門番には少々頭が痛くなることもありますが……」
「それは、まあそうね……でもね、咲夜。私は別にフランへ意地悪しているわけじゃないのよ? この機会にもっと外へ出てもいいと思っているから、ちょっと焚き付けただけ……。だから、この勝負に私は何もしないわ。フランがあの天狗の物を見つけられればそれでいいし、駄目なら言ったことは実行するだけよ」
レミリアは軽い口調で言うが、フランには約束を守らせると明言する。彼女がそう言ったからには必ず実行されるのだろう。彼女は頭の片隅で、有料チャンネルを入れた時の経費についても考えている。つまり、フランが勝ってもいいようには考えているのだ。
咲夜は手元でコーヒーの豆を手動のミル(コーヒー豆を挽く器械) を使って挽く。ハンドルのついたそれを彼女は何度も回し、ごりごりと店内に微かなコーヒーの香りとともに音が響く。そのままレミリアに言う。
「外へ出るのは、確かにそうですね。この頃は夜に美鈴が連れて回ることがありますが……たまにですし。でもお嬢様、私が言っているのは少し違いますわ」
「……へえ、何か他にあるの?」
「他にと申しましても……」
咲夜は窓を見る。店の窓にはブラインドがかかっているが、外の様子程度はわかる。快晴と言っていいだろう。道行く人々は日傘をさしているものや、何故かタオルを頭から垂らしているもの。いろんな「暑さ対策」をしている。しかし、咲夜が心配しているのはそんなことではない。
「お嬢様も、妹様も。この天気では……」
「ああ」
それで合点がいったとレミリアは頷いた。先ほどプリンを頼んだら「きな粉餅」が出てきた意味はさっぱり分からないが、これについては説明を受けなくてもわかる。強力な力を持つ、吸血鬼としての弱点を咲夜は言っているのだろう。
「陽に『焼ける』と言いたいのね?」
「はい」
レミリアはそれを聞いて、カウンターの椅子から降りる。サスペンダー付の半ズボンだから、身は軽い。そのあたりも彼女はこの格好を気に入っている。力が弱まった状態で幻想郷でのいつも通りの服装は熱いし動きにくいのだ。
レミリアは端っこでこそこそと勉強している女性をちらりと見てから、入り口の前にいく。それからドアを開けて、日傘もささずに外へ出た。
「お嬢様!」
咲夜はその瞬間にカウンターを飛び出す。その前にレミリアの締めたドアについた鈴が、「からんからん」と鳴り。吸血鬼の少女は外へ出ていく。すぐに咲夜も外へ飛び出した。先に書いた通り、外は快晴。身を守るすべもなく太陽の光にさらされれば、レミリアとて無事では済まない。
だからこそ、いつも冷静な咲夜が慌てて、外へ飛び出た。しかし、彼女の眼には信じらないものが映る。カフェの中からいきなり出たので、少し光がまぶしい。
「どうかしら? まあ、平気よ」
レミリアは店の前に歩道の真ん中に立っている。その身に太陽の光を浴びて、輝くような白い肌が、麗しい。彼女は両手を広げて、どうだと言わんばかりに赤い眼を光らせる。それに咲夜は困惑した。
「ど、どういうことですか? お嬢様」
「あら、なんだかあなたが、うろたえるのは面白いわね。この頃は変ないたずらばかりだったから。でも何故か、なんて私も知らないわ。とにかく、陽の光は今の私には害じゃないわ。とはいっても、太陽なんて嫌いだけど」
レミリアは顔をあげて、光り輝く太陽をまぶしそうに見る。顔が熱くなる。
レミリアの横を、サラリーマン風の男が通り過ぎていく。道の真ん中で手を広げて何をやっているんだと顔に書いてあった。無論、それを注意などはしない。レミリアは子供のようだが、外国人のようでもあるので関わりにくいのであろう。ある意味日本人の特性でもある。
それでもレミリアは続ける。咲夜は困惑顔である。
「おかしいと思わない? 咲夜。私たちが幻想郷に入ったのはつい最近よ。その前には外の世界で暮らしていたのに、なぜ私たちも他の連中のように力が落ちているのか……。それがぴゃ!」
レミリアが言いかけると、彼女のお尻のあたりから音楽が鳴り始めた。それは、彼女のポケットに入っている道具から出ていた。レミリアは変な声をあげてしまったことにバツの悪さを覚えながら、ポケットから「スマートフォン」を取り出す。
画面には「アリス」と書かれている。レミリアは咲夜の手前、切るかどうか迷ってから、出る。
「何かしら?」
『何かしら? じゃないんだけど。約束は三時だったわよね? もう過ぎているわよ。そんなことじゃ、時給を減らしたくなるんだけど』
「……あなたがいくら儲けているのか、河童にリークしてもいいのよ?」
『……あなた。鬼?』
「吸血鬼ね、一応は鬼のような田舎者ではないけれど。……まあ、今から向かうわ。ちゃんと、茶菓子くらい用意しておくのよ?」
『私もい、一応の話で言えば、雇い主はこっちなんだけど。あなたが雇用者側なんて、信じられない言いぐさね。とりあえず、急ぎなさいよ』
「わかったわ」
レミリアはそれだけ言うと、通話を切る。ちらりと困惑顔のままのメイドを見てから、ふうと息を吐く。そして彼女はできるだけ何もなかったように言う。「アリス」との関係は咲夜にも言ってはいない。
「ちょっと用事ができたから、もう行くわ。……聞いているかしら、咲夜」
「あっ、はい。……なんだか、親しげにお話をされていたようですが、どなただったのですか?」
「ただの下僕よ」
レミリアは咲夜の疑問には明確に答えることなく、踵を返す。手をひらひらとさせるのは、カフェには戻らないという仕草。その姿を咲夜は見送る。彼女も疑問は心の中にしまってから、主人の後ろ姿に頭を下げる。
そのころ、文はフランから返して貰ったデジタルカメラに「さっきまでなかった傷」があったことで、心理的な修羅場に陥っていた。
「…………」
文はデジタルカメラを持ったまま、公園の中で固まる。彼女の前ではフランが怪訝そうな顔で文の顔を覗き込んでいる。彼女は自分が逃走している時にデジカメを「落とした」ことでついた傷に気が付いていない。
傷は小さなものである。カメラの端っこの方が少しだけ削れている程度であるが、このデジカメは文が一か月間の昼食を犠牲にして、その上であらゆる節制を行ったことで買ったものだ。そこにある小さな傷は、心の中に大きな傷を生み出す。
文の様子に後ろから椛が「キットカッツ」というチョコを食べながら覗き込んできた。
「どうしたんだ?」
「いえ、ここに傷が……」
「どこに……ああ。別にいいじゃないか、この程度」
文は傷を指さして、椛に示す。だがこの白い髪の少女は、全く文の心の機微に気が付かずに言う。まさか目の前の物を買うために、誇りある鴉天狗である文がいつも行くカフェのメイドから「パンの耳」を詰めた袋をもらっていたことがある、とは分らない。節制している時には「腹に入るもの」であればご馳走である。
だが、文は椛にわかりやすく説明した。文は笑顔である。心が愉快とは限らない。
「このカメラ、六ケタですよ?」
「……?……ろっけた? 一、十……! ば、バカじゃないの!?」
文の言っているのは「値段」のことである。
やっと事の重大さがわかった椛が女性らしい言葉を使って驚く。それほど、彼女には金額が衝撃的であった。それもそうだろう、なぜならば椛の一か月分の生活費がこのデジタルカメラ一つで賄えるのだから。それでも椛は恥ずかしさを隠してコホンと咳をする。驚いたことを隠したのだ。
少し離れたところでははたてが、あまり見たことのない「ブランコ」に興味を引かれて観察している。座ってみたりしているが、少し恥ずかしいのかそのまま遊んでみたりはしない。その様子をチラチラとフランは興味深げに見ている。
そのフランを文がチラチラと見ていて、文が持っているデジカメを椛がチラチラと見ている。そして文とフランと椛が何を話しているのか気になるはたてがチラリと彼女達を見て、変な流れが一周する。
文がフランを見ているのは、どうしようかと考えているからだ。責任を取らせるようなことはできそうにもない金髪の少女だ。彼女の姉に代償を払ってもらいたいような気もするが、恥ずかしい過去を拡散されるのは避けたい。
それでも文はこのままで終わらせるようなつもりはなかった。確かに椛が最初に反応した通りに傷自体は小さなものだった。しかし、文のデジカメは彼女にとって大切なものだ。子供がやったとはいえ、ただで済ませる気はない。
「椛」
「あ? ん?」
いきなり文に呼ばれて椛が気のない返事をする。だが、文はそれに構わずにびしっとフランを指さした。金髪の少女はいきなりのことに、驚く。それでも文は続ける。
「フランドールさん! おにごっこしましょう。『鬼』はこの椛です」
「えっ!? おにごっこ?」
フランはいきなりの文の言葉に眼を大きく開く。椛は一瞬何を文は言っているのかわからずに呆ける。しかも天狗に対して「鬼」などとは皮肉にすらも聞こえる。しかし、文はとある目的を持って叫ぶ。
「さっ! 早く逃げてください。あくまで公園内だけですよっ」
「う、うん」
フランはそれで「逃げ出した」。文は椛を振り返って言う。
「追いかけて!」
「あ、ああ」
文の剣幕に押されて椛も、逃げるフランを走って追い始める。文はそれを見ながら素早くデジカメを起動して、構える。そしてまず、一枚写真を撮った。そこには椛がフランを追う姿が映っている。
そう、文はフランを使ってとあることを思いついたのだ。確かに傷は手痛いが、それを言い募るのははっきり言っても天狗として情けない。ゆえに、文はフランを責めることなく、彼女から「利益」を取る気になったのだった。
フランは走る。その後ろから椛が追う。狭い公園内は直線的には走ることができないので、フランの足でも椛から早々追いつかれることはない。それにフランはくねくねと蛇行しながら逃げるので、この天狗の用務員も苦戦した。
「こ、の」
椛はたたっと加速する。その伸ばした手がフランの襟首をつかみそうになってから、フランがいきなりカーブしたことで掴み損なう。そして勢い余って、彼女は足をつんのめらせこけそうになる。
「うわっと」
椛は何とか踏ん張るが足が止まってしまった。横を向くと数歩先にフランがとどまって、彼女を見ている。その顔は何でこんなことをしているのかわからない困惑と、こけそうになった椛への心配が張り付いている。
小さな変化だが、フランは人のことを「心配」できるようになっていた。だが、往々にして純粋なものは邪悪なものに影響されやすい。
すすっと文がフランに近寄る。そして椛を指さしながら、フランに耳打ちをする。それで見る見るうちにフランが眼を輝かせても「いいの!?」と文に言う。もちろん、文は「いいんです」と返事する。
フランは椛を見て言う。その顔はすでに彼女へ対する遠慮はない。その代わりに自信と期待でにやけている。
「モミジ!」
フランは文に言われたのか、椛の名前を呼ぶ。
「このおにごっこで捕まらなかったら。好きな物を買ってもらうからっ! ちゃんと買ってくれないと文が『あのこと』みんなにばらすって」
「待て」
「絶対捕まらないから! でもあのことって何?」
「待てっ!?」
椛は文に騙されている少女を止めることができない。このまま捕まえることができなければなし崩し的に生活が崩壊する。子供の欲しい物というのは、たいていがゲームだとか漫画など安価な物であるが、すでに椛の財布事情は「花の妖怪」により壊滅されている。これ以上出費すれば、死ぬ。
一応椛は、自分がとあるぬいぐるみを集めていることをばらされることをあきらめれば、生活は崩壊しない。代わりに羞恥心がからいろんなものが崩壊する。
そんなことは露知らないフランは椛から距離を取る。椛は「まて!」と三回目の言葉を言いながら、フランを追いかける。フランは遊びであるが、椛は生活が懸かってしまっている。文はその様子を薄く笑いながら、写真に収める。
日差しの中で逃げるフラン、それを必死で追いかける椛。そんな写真が、デジカメのモニターに映る。とりあえず文はそれを保存して、彼女達の動きを観察する。また、よいアングルで撮れるように構える。
しかし、公園内は狭い。如何にフランのほうが小回りが利くとしても、体格的に椛のほうが有利なのである。身体能力は筋肉の質も重要ではあるが、純粋に歩幅の大きさなども換算される。だからこそ、フランが逃げるには工夫が必要なのだ。
フランは公園の真ん中にある、滑り台に上る。椛はやっと捕まえられそうになったところで、取り逃す。だが、小さくても椛には手の届かない滑り台も、逃げ場のない場所でもあった。
「はい! こっち見てください!」
「えっ」
フランを呼ぶ声。それは文の声だった。フランは滑り台の頂上で振り返った。そこを文に写真に撮られる。それから文は椛に話しかける。
「椛。もう少し、右のほうに行ってください」
「右? な、なんだいきなり」
反射的に椛は動く。その一瞬で文はフランにウインクする。片目をパチリとつむって、合図したのだ。今、椛は文に気を取られている。右に動けと言うのは単なるブラフに過ぎない。フランもそれに気が付いて素早く動いた。
フランは滑り台から「滑った」。銀色の金属部をお尻で滑る。目の前には砂場、子供が怪我しないような設計なのだろう。フランはそこに降り立って、砂を蹴って逃げだす。
椛はそれに気が付いて、しまったと臍を噛む。文にしてやられたのだ。せっかく逃げ場のない場所へ追い詰めたというのに、虎を野に放つのではなく吸血鬼を広場へ放ってしまった。
「あやぁ!」
「なーんですか? ほらほら、捕まえないと大変ですよ」
腹黒い鴉天狗を椛は睨みつけてから、急いでフランを追う。フランはブランコ方面へ逃げて、ブランコを囲む仕切りを飛び越える。動くブランコに当たらないように作られているのだろう。しかし、椛はその仕切りのせいで、減速せざるを得ない。
「あんたたち何やってんの?」
はたてが逃げてきたフランに聞く。はたては先ほどからずっとブランコに座ったまま、蚊帳の外でフランたちを見ていた。だから、少々覚めたような口ぶりとは裏腹にちょっとだけ、笑っている。やっと輪に入れたような気がしたのだ。
そのはたてがブランコに座っている瞬間を文はシャッターに収めるが、誰も気づかない。それどころか仕切りを乗り越えた椛にはたてとフランの注意が向く。
フランははたての後ろに隠れた、つまり盾にしたのだ。椛ははたてが邪魔である。
「はたて! 邪魔だ」
「なっ、なによ。その言いぐさ」
ストレートな物言いにはたては立ち上がる。いきなり罵倒されたようだが、椛は生活が懸かっているのだ。そんなことに頓着している余裕などない。邪魔なものは邪魔である。それでも椛ははたての後ろに回りこもうとする。逆にフランはそれから逃げる。
「まてっ」
「いやよ!」
椛とフランはぐるぐるぐるぐるはたてを中心に周回する。はたてはそこから一歩も動くことができない。この奇妙な状況を文は、撮る。しかしその行為がはたてをはっとさせた。
(よ、よくわかないけど。絶対文が変なことを考えているに決まっているわ)
付き合いが永いからか、はたては文のたくらみに勘付く。その内容は流石にわからないが、ろくでもないことを考えているに違いない。だからこそ、この状況を終らせようとはたては手を伸ばした。フランを捕まえようとしたのだ。しかし、掴み損なう。
先に書いた通り、フランと椛ははたてを中心に周回している。それはつまるところ、はたての腕を伸ばしたところに椛が「走ってくる」わけである。それにフランは背が小さい、だからこそはたての手も少々下向きである。
「げふうぉ」
はたての腕が椛のミゾオチを的確に攻撃する。正確にいえば、伸ばしたはたての腕に椛が全力で突撃しただけである。だからこそ椛は自らの勢いでダメージを受ける。もちろんはたても痛いが椛はその場でお腹を抱えて膝をつく。
その間にフランはにげだす。椛とはたての文は写真を撮る。
はたては椛を気遣って声をかけるが、椛の返答は、
「うぇ、ぇえ?」
である。眼には涙がたまって、息が苦しそうであった。冗談ではなく、辛そうであるが彼女は生活の為によろよろと立ち上がる。はたてはそれに凄まじいほどの罪悪感を覚えて、椛にいう。
「あっ、えっ、し、仕方ないわね。私も加勢してあげるわ」
「…………」
余裕のない椛ははたてを赤い眼で見る。赤い眼とは妖力などで赤くなっているのではない、純粋に涙目なのだ。声を出すことはキツイ。はたてはその眼から逃げるように顔を背けて、頬を掻く。
「と、とりあえず。そこの吸血鬼……あれ、そういえばなんで太陽の下で……ま、まあいいわ。覚悟しなさい」
「もじゃ毛も遊んでくれるの!?」
「もじゃ毛!?」
はたては多少ではあるが、くせ毛である。フランは名前を知らないからそう、彼女を表現した。だが、その顔には嘲りなどの侮蔑の感情はない。
フランはすでに遊ぶのが楽しくなっていて、勝ったらどうのということはどうでもよくなっていた。彼女はくるくると太陽の下で、身を回転させる。動くことが、誰かと遊ぶことが堪らなく楽しい。
「いいですね!」
文はそれも写真に収める。今の光景は記事にしてもいいかもしれないと彼女は想う。しかし、まだまだ文は写真を撮る気だった。後々に役に立つようなものをできるだけ、回収しておきたい。
はたてと椛は二人がかりでフランを追い始める。しかし、中々にフランは曲者であり、小さな茂みや木陰を作ってくれている木を使って、賢く逃げ回る。天下の天狗が二人でかかっても捕まえることができない。
「そっちにいったわ、椛っ」
汗をかいてはたてはフランを追う。言われた椛はフランの目の前に立ちふさがる。だが、フランとて毎日のように姉が見る「甲子園」を見ているのだ。だから勝手に体が動いた。身を沈めて、足から滑り込む。
「なっ、スライディング!」
驚愕する椛の股の間から、フランは彼女を突破する。椛の肌にも玉の汗が浮かび、作業着の前を開けている。すでに勤務中である椛の昼休みなど終わっているのだろうが、彼女も夢中になって忘れている。
「ちょっと、どいて! 椛」
「うわっ! 来るなっ」
フランを後ろから追っていたはたては、勢い余って椛に突っ込む。はたても身をかばっていたからショルダータックルのようになった。もちろん椛のミゾオチに肩がクリーンヒットする。
「ぐふぅ」
椛はその場でうずくまる。流石にはたても周りの蝉の声がクリアに聞こえるほどの罪悪感を覚え、眼が泳ぐ。その様子もかまわずに文は写真に撮る。
先ほどと同じように見えるが、今度は少し違った。椛を抜いたフランだったが後ろを振り向いて、苦しんでいる椛を見つけると、心配そうに近寄ってくる。
「大丈夫? モミジ」
「……」
椛は何も言うことはせずに、近寄ってきたフランの足首を「つかんだ」。それで鬼ごっこの結果は決まった。
「あっ」
フランはそのことに気が付いて、頭を掻く。下を見ると、また涙目になっている椛が口元に笑みを浮かべている。ちなみにこのことを狙ったのではなく、気力ではたてからの攻撃に持ちこたえている時に、近づいてきたフランへ臨機応変な対応をしただけである。最後は生活への執念が勝利した。
「な、なんだ狙っていたのね、さ、流石は椛」
そんな椛をほめているようで自己弁護をしているはたて。椛が狙ってやったのならば、先ほどのことも問題はないはずである。しかし、フランは捕まったというのに、心底嬉しそうに笑顔になる。
「楽しかったわ」
その笑顔に、はたても椛も毒気を抜かれてしまう。
「いやあ、たくさん写真が撮れましたよ!」
文はぱちぱちと拍手をしながら、近づいてきた。三人は彼女の方をみるが、フラン以外は胡散臭げにみている。仲間、それも基本的に同じ種族にこのような態度を取られるのは、ある意味では才能であるのかもしれない。
「結局はあんたの思い通りだったのね、文」とはたて。
「ええ、もちろん。今日はとても良い日です。あの苔頭を除いてですけど」
「苔? まあ、なんのことかわからないけど、あんた。そんなにこの吸血鬼の写真を撮ってどうする気なの?」
「えっ?」
はたての言葉に文は笑った。屈託のない笑顔、のはずなのだがはたては彼女の後ろに闇が渦巻いているように見える。それもそうだろう、この鬼ごっこは文が「利益」を取るためにやったのだ。
だからこそ、文は黒く笑う。そしてその真意を話す。
「確かに、フランさんの写真もいっぱい取れましたけど……」
いつの間にか、親しげにフランを呼ぶ文。本人も無意識である。
「はたてと椛の恥ずかしい写真もいっぱい取れました!」
「!」
「!」
はたてと椛ははっと文を見る。そう、この鴉天狗は最初からフランだけを被写体にしている振りをしていたが、その実仲間の弱みを握ったのだ。文のデジカメにはいい年した二人の女の子が楽しそうに「鬼ごっこ」しているデータが数十枚ある。
椛がよろよろと立ち上がって、真っ赤な顔で言う。今度は羞恥からそうなった。
「お、おまえ最初からそれが狙いで」
「おや、椛。お昼休みはいつまで続くんですか?」
「げっ」
やっと自分が勤務中だと気が付いた椛は慌てて、懐から懐中時計を取り出す。腕時計ではないのは趣味だろうか。ともかく時間を見て、彼女は脂汗を浮かべる。それでも文を糾弾したいが、仕事に戻らなければまずい。
「く、くそ。地獄に落ちろ、文!」
椛はそう言い捨てて、全力で公園から走り去っていく。文はその後ろ姿を見ながら、言う。
「地獄は勘弁ですね。鬼様もたくさんいるそうなので」
勝利からのほくほく顔で言う文。それを見てはたてはため息をつく。
「もう……今回はしてやられたわ。でも文、それ悪用するんじゃないわよ。するだろうけど」
「もちろん! あっ、ところではたて」
「そのもちろんの意味が気になるんだけど、何?」
「実は私のUSBがないのですが、はたての部屋に落ちてませんでした?」
「ないわよ。そんなの。あればRhineしているし」
「そうですよね……わかりました」
文ははたてを信頼している。それは信義といったたぐいの物よりは、彼女の性格上変な嘘は付けないと思っているのだ。長い付き合いだからこそ、その性格は把握している。
ただ、フランははたての言葉を聞いて、言う。
「文、このもじゃ毛も容疑者なの?」
「ええ、もう一人赤い髪の人がいますけど、たぶん違いますね。だからこのもじゃ毛が最後の容疑者ですよ」
「あんたら、喧嘩うっているのかしら……」
フランははたてを無視して、顎に手を当てる。頭の中でパズルが出来上がっていく。彼女は今日一日遊んでいるようでも、ずっと鋭い感覚で物事を見ていたのだ。そしてフランは言う。
「文! 犯人が分かったわ」
「えっ、でもUSBは見つかってませんよ」
「大丈夫よ。犯人は見つかったから」
「それ大丈夫なのですか? 何も解決していない気がするのですが」
「とにかく容疑者を全員、集めて! あっでも眠いから、明日」
「……」
文はそれで小さく笑う。ずいぶん悠長な探偵だとくすりとする。はたてはなんのことかわからない。彼女も夜ご飯を作るために、そろそろ帰らなければと思っていた。
夕日が世界を染めていく。
暗い夜に向かう前、最後の輝きを残して、太陽が沈んでいく。それでもなかなか沈まないのは夏だからだろう。
「花の、妖怪めぇ」
文はふらふらとする足取りで歩いていた。財布の中からには一円もないから、電車など使えない。一応定期はあるが、フランを置いて行くわけにいかない。そして、そのフランはすでに文の背中ですやすやと眠っている。
「遊び疲れたんですね、本当、今日は遊んだだけな気がします……」
文はフランを抱えたまま、歩いていく。たとえ、フランが子供だろうと、重い物は重い。だが、その文の背中でフランが言う。
「……あやぁ、それは、食べれない、わ」
「おやおや、夢の中で私は何を食べているんですか?」
寝言に聞く文。返答など期待してはいない。だが、フランは顔を綻ばせて言う。
「けむし」
「大丈夫ですよ、絶対食べませんから」
文はとフランは夕日の光を浴びて、帰る。