光る羽虫の幼虫が壁を彩っていたのは入口だけで、その奥に続く横穴は大人二人が並んでやっと通れる程度の幅と高さしか無く、真っ暗な闇が何処までも続いていた。
それでも松明の火が時折さわりと揺れる所をみると、所々に細々とした風穴が通っているのだろう。
「ねぇ、横穴の隣に下がっている板の文字はなに? 漢字だけれど意味不明だね」
イリスの指差す先を松明で照らすと、更に横幅が狭くなる入口の横には、十センチ四方の煤けた板が打ち付けられていて<遜>と一文字書かれていた。
「さっきの脇道にも同じ札があったよ。そっちには<圭>と書かれていたな。意味は解らないけれど、おそらく道の続く先を指しているんじゃないか?」
うんうんと頷くイリスの肩を押して、ヤタカは先へと進ませる。
日の光の差さないここでは布を目に巻く必要がないから、松明の僅かな灯りといえど、イリスは歩きやすそうだ。何も無い細い洞窟だというのに、物珍しそうにきょろきょろと忙しく首を巡らせている。
「ほら、また脇道だよ。この洞窟から、まるで世界中へ行けそうな気がしちゃう」
見つけた横穴にイリスが立ち止まり、歩調を合わせてヤタカも足を止めかけたその時、右の足首にゴムを弾いたように長引く痺れを伴った痛みが走った。
「痛いっての!」
イリスに紐を引かれながら、二人のちょうど間を後ろからついてきていたゲン太が、ヤタカのくるぶしの後にがつりとぶつかった。
――くらい みえない
ヤタカの痛みなど何処吹く風、といった文字が浮かび上がる。
「だったらどうして俺だけにぶつかるんだよ、こら!」
ぶつかってきたのはこれで五回目だ。おまえが立ち止まったからと言わんばかりに、狙い定めて体当たりしてくる。
「松明が消えそうになったら、その鼻緒で明かりを灯そうか? いい案だよなぁ」
ぐいっと松明を近づけると、ゲン太はそそくさとイリスの陰に逃げ込んだ。
暗くて見えない? 嘘ばっかりだ。イリスの行く先に躓きそうな突起があると、それでなくとも横穴に煩く反響する下駄の音を、カカンカン、と鳴らしてはイリスを足止めしているくせに。
「拗ねていないで、行くよ。ほんと、ガキンチョなんだから」
「おまえなぁ」
ざまぁみろ、と言わんばかりに鼻緒をそらせて下駄が行く。
どうして男はこうも女と小さな者に弱いのか――情けなさにがっくり肩を落としてヤタカは、からんころんと響く下駄の音に合わせて土を擦る杖の後をついていった。
日の光を失うと、人の体は途端に時間の間隔が曖昧になる。
歩き始めてどれくらいたったか、体の疲労具合からみて、外はまだ日暮れ前だと思われた。とはいえ、それは体力のあるヤタカの感覚だから、イリスのことを考えるとそろそろ一休みした方がいいのかもしれない。
そんなことを思い、イリスに声をかけようとした時だった。
がらん、ががらん がらん
慌てたようにゲン太が高々と跳ね上がり、紐の先を持つイリスを後方へと引っ張った。
ぴんと張った紐にイリスが振る向くと同時に、ぱらぱらと音を立てて土と岩の混ざった壁から、小石と土の欠片がこぼれ落ちる。
「イリス! 下がれ!」
小さな背中を抱え込んでヤタカはざっと後退り、背中にイリスを庇いながら全身の神経を逆立てる。
地震のように突き上げる振動ではなく、小刻みな縦揺れが足の裏から体を揺らす。
興奮して跳ね回るゲン太の音を打ち消すほどの地鳴りがしたかと思うと、壁に無数の穴が穿たれた。
穿たれた大小の穴から伸びたものに、狭い横穴が塞がれていく。
「根だ。これは植物の、もしくは木の根だ」
四方から伸びた根が絡まり網のように道を塞ぐ。
地鳴りが止んだときには、ヤタカ達は完全に進路を塞がれていた。
「何してんだ? おまえ死ぬ気か?」
背後からかけられた突然の声に振り向くと、大きすぎる外套ですっぽりと体を覆った少年が立っていた。顎をそらせて片目を細める様は大人びているが、歳の頃はせいぜい十歳くらいだろう。声変わり前の、澄んだ声が生意気さに拍車をかけている。
「どこから付いてきた? 子供が一人でくる場所じゃないだろう?」
ヤタカの問いに少年はふん、と鼻を鳴らす。
「誰が死に損ないのアホウの後なんか付けるもんか。ぼくはここに住んでいるんだからな。通りすがりのおまえと一緒にすんな」
鼻筋に皺を寄せてチッと舌を鳴らした少年が、びくりとして目を見開いた。
「あら、かわいい男の子。こんにちわ、わたしイリスっていうの」
ヤタカの背中からひょっこり顔をだしたイリスが微笑むと、目を見開いて口をぐっと窄めたまま、少年は三歩ほど後退った。
「こらシュイ、ちゃんとご挨拶せんか」
嗄れた声と共に姿を見せたのは、イリスより小さな老人だった。白髪と髭が伸びすぎていて、まるで境目がわからない。辛うじて見える目元だけで微笑むと、老人はヤタカ達を手招きした。
「巻き込まれなかったのが幸いじゃ。今夜はここに泊まるといい」
「あの、いったい何処から来たのですか? 俺にはあなたが、急に姿を現したように見えました」
ヤタカの言葉に、シュイがにやりと冷めた笑いを浮かべる。
「だからいっただろう? ここに住んでいるんだってよ」
生意気なシュイの頭をこつりと叩くと、老人は岩壁へと躊躇無く歩き出す。
「えっ……消えた」
イリスの言葉にヤタカも頷くことしかできなかった。
老人は腰の後ろに手を組んだまま、すたすたと岩の中に吸い込まれた。
「お姉さん、見ていてあげるから先に入りなよ」
お姉さん? シュイの口元で白い歯が爽やかに笑みを浮かべている。
「イリス、待て!」
呼ばれて小走りにシュイの元へ行くイリスに声をかけたが、逆に手招きされて何の抑止力も発揮しない。
「大丈夫だよ。そのまま歩いて行けば、中でじっちゃんが待っているから。ゆっくり歩いてね」
シュイが柔らかな言葉をかけながら、イリスの背中をそっと押す。
「じゃあお先に!」
いうが早いか、イリスの姿が岩に呑まれて消えた。その後をゲン太が意気揚々と追っていく。
「どうなってんだ?」
近くに立って目を懲らしても、イリスの吸い込まれた場所には灰色の岩と隙間を埋める土が見えるだけだった。
「あんたも来たけりゃ勝手に来な」
イリスへの気遣いは幻かと思うほど、そっけなく顎をしゃくり上げ、シュイはさっさも姿を消した。
「まいったな」
ゲン太が騒がなかったということは、当面イリスに害はないのだろう。入口の男の話から察するに、ゲン太はこの洞窟の横穴をある程度知っているはずだ。
ただし問題は、誰もヤタカのことを気に留めていないということだろう。言い換えれば、イリスには無害でも、ヤタカに多少の害が祟った所で気にする奴はいないということだ。
そっと指先を伸ばして岩壁へと近づける。
確かに岩面に触れている筈なのに、感じるはずの冷たさはなかった。目を閉じていたなら、そこに壁があることにさえ気付かないほど、自然に空気の中を指が潜る感触。
さらさらと細い縄暖簾に腕を潜らせたような感触と共に、岩肌がぐらりと揺らぐ。
「くっそ、万が一子供ができても、シュイとゲン太って名前だけは絶対つけるもんか。ついでにイリスもだ!」
ぐっと目を瞑り、ヤタカは一気に壁の向こう目掛けて駆け込んだ。
ゴ~ン
何かに体当たりした反動で仰向けにひっくり返った。ヤタカの頭と耳に腹を痺れさせるような銅鑼の音が響く。
「おっと、鳴らす手間が省けた。ありがとさん。外ではそろそろ日が暮れる刻だから、銅鑼を鳴らさなくちゃと思っていたんだ」
見上げた先で、シュイが声を上げて笑っている。
「ゆっくり歩いてねって、シュイがいっていたのに守らないからだよ?」
イリスの声に脱力したヤタカは、両目を腕で覆ってひとり呻いた。
気を取り直して眺めた天上は高く、細い白木の板張りに囲まれた空間は、まさに室内と呼ぶに相応しいものだった。
「宿屋あな籠もり、へようこそ。大した物はないが歓迎するよ。わしゃ、ここの主人で
シュイは孫みたいなもんだ。生意気じゃが悪い子ではないから、適当に相手をしてやっておくれ」
「ご主人、横穴を塞いだ根は、異種のものですよね? あまり驚いている様子ではありませんでしたが、見慣れた光景なのですか?」
壁を掘った竈の中で鍋を掻き回しながら、宿の主人はにこりと頷く。
外へ抜ける縦穴があるのか、立ちのぼる煙も湯気も真っ直ぐに見えない壁の内側へと昇っていく。
「この道を行く者の動きを、良しとしない異種もいる。異種といえど色々だ。人の思想を一括りにできないのと同じことじゃよ」
「まるで異種にはっきりとした意思があるかのようなおっしゃり方だが……」
「だたの宿屋の爺に、難しことはわからんよ」
柔らかく、しかしはっきりとこれ以上の質問を遮られた気がした。
ふと横を見ると、イリスを案内しているシュイが壁際に設置されたベットを、一生懸命整えているのが見えた。
「ありがとう、シュイ」
イリスの言葉に、少年らしい得意げな笑みを顔一杯に浮かべ、シュイはイリスのベットを簡素な竹細工の置き板で間仕切りする。
「じっちゃん、飯はまだ?」
「もう少しだ。スープを入れる深皿を用意しておくれ」
壁の所々に見られるへこみは全て収納用なのだろう。少し高めの場所へと背伸びして手を伸ばし、シュイは一枚ずつ深皿を下ろしていく。
「お姉さん、布のかかっている椅子に座って。じっちゃんのスープは栄養満点でおいしいから」
にこりとよそ行きの笑顔で微笑みながら、一つだけ布をかけられた、丸太を立てただけの椅子に腰掛けたイリスの横で、飼い犬の特権といわんばかりにゲン太が行儀良く下駄を並べてちんまりと居座った。
イリスの横に勝手に座ると、目の前で磨いていた深皿を一枚大事そうに抱えたシュイは、主人もとへ行くとたっぷりとスープを入れて貰い戻ってきた。
「はいどうぞ。お姉ちゃん、食べ終わったら皿の底をよーく見てね。面白い物があるからさ」
「うん」
それぞれの皿にスープが入り、簡単な祈りの言葉とともに食事が始まる。
「おいしですね。この食材はどこから調達するのです?」
「この洞窟には様々な者がそれぞれの場所で役目を果たしている。それと同じように、外の世界にはわしらを支える役目がある。持ちつ持たれつなのだよ」
あんたらのように、この道を必要とする者がいるということは、外の世界はまだ混迷しているということか――宿の主人は落とすように呟いた。
「そうだ入口の男性に、これを見せるようにといわれました」
懐から赤い木札を出して渡すと、宿の主人は何も書いていないその表面を丹念に視線でなぞっていく。
「ふぉふぉ、どうりで誰も案内人が付かんはずじゃ。おまえさん達は、あの寺の子供達か。寺は、惜しいことをした」
あの札には、見えない言葉でも書かれているのだろうか。この老人は、やはり寺を知っているの。
「その下駄は?」
「こいつはある村で異種の種を故意に呼び寄せ、この身に宿しています。害があるかさえ解らず、仕方なく連れ歩いています」
宿の主人は黙って頷いた。
「不思議に思われないのですか? 異物が異種を宿すなどありえない。本来異種と異物は、互いに住み分けるように互いを避けて存在していたはずでは? 異種同士、もしくは異物同士にも同じことが当てはまる」
ヤタカの問いに答えたのは、生意気な澄んだ声。
「別に珍しかねえよ。見て見ろよ、お姉さんの深皿。おまえだって、見ればこれが何かくらい解んだろ?」
お兄さんだろ、という言葉を呑み込み、ほとんど食べて終えて底の見えたイリスの深皿を覗き込む。
「すごいよヤタカ。赤い漆の金魚が泳いでいる――きれい」
イリスに返す言葉が見つないまま、ヤタカは呆けたように口を開けた。。
木で造られた深皿の内側を、赤い漆で描かれた金魚がひらひらと、尾ビレを揺らして泳いでいる。呆気に取られるヤタカの目の前で、赤い漆塗りの金魚は木の深皿の縁を越え、外側へと泳ぎ出た。裏側へ回った金魚を見ようと、イリスが深皿を持ち上げ覗き込む。
「ありえない。寺の書物にはこんなこと……。異物に異物が宿っているなんて」
「寺には届けられた情報が、正確に残されていたはずじゃよ。嘘が届けば嘘が残る。もちろん、全てではないがな。宿るというより、共存であろうな」
宿の主人は、困惑するヤタカを見つめたまま長い髭を指で撫でた。
どこまで話して良いものか――ヤタカは戸惑いに口を噤む。心中を察したかのように、宿の主人がヤタカの肩に手を置いた。
「あの頃は、この横道を行き交う者も多かった。宿に泊まる間も無い忙しさだったろうな。知る者達はみな焦っていた。寺から情報が漏れている。その確信が、寺へ嘘の情報を流す事につながったのじゃから」
「ぼくでさえ先日耳にしたばかりです。半信半疑だったのに」
「寺に探りを入れても、結局裏切り者は見つけることができなかったそうじゃよ。だが確かに裏切り者はいた。その所為でみな、実質的には素堂様を裏切る形になったことをどれほど悔やんでいたか。全員を縄で括ってでも、裏切り者を炙り出すべきだという意見も、決して少数ではなかったらしい」
雁首を揃えて話し合っていたのは、草クビリ達だろうか。縄で括る面子には、もちろん、イリスとヤタカも含まれていたのだろう。
イリスとシュイは、飽きずにまだ器の表面を泳ぐ金魚を眺めている。
「あの子もな、最後の数年あれほどまでに寺が危うい状態でなければ、慈庭様が迎えに来るはずじゃった」
思わずシュイの顔を振り返った。
「異種宿り……ということですか?」
「さてどうだか。素堂様にも慈庭様にも会わせる前に、わしが引き取ると決めてしまったからのう。シュイには異種を感じる能力があり、異物を見る力がある。そして何より、異物はあの子を好み、あの子の側にいるためなら、深皿のように身を重ねさえする」
ヤタカは目にそっと手の平を当てた。
「シュイは、異物憑きなのですか?」
「それも解らんよ。あの小さな体に先住するものが居るのかも解らぬが、ここへ身を寄せる異物は、決してあの子に宿ろうとはしない。ただひたすらに、共に在ろうとするだけらしい」
この部屋に入った瞬間、銅鑼にぶつかって脳震とうを起こしかけたから、耳の奥がぐわんぐわんと鳴るのも、周りの景色が揺れるのもその所為だと思っていた。
今ならわかる。銅鑼のせいだけじゃない。ここに集まる異物に、ヤタカに宿るモノは確かに反応していたのだろう。
確かに異物に囲まれたぞわりとした感覚が肌を這っている。だが、本来であればヤタカなど、この場にいることさえ耐えられないほどの感覚が襲ってもおかしくないはずだというのに、そそろと肌を這う感覚は、ここに泊まるのを躊躇させるほどのものではなかった。
――シュイの存在の影響だろうか。
ヤタカはふとそんなことを考えた。
「ご主人、あなたは自身は何者なのでしょう」
この問いに、白髪と髭を撫でながら宿の主人はふぉふぉ、と笑う。
「わしゃ、ただの宿屋の主じゃよ。どうして異物が見えるのかなどわからんが、子供の時からそうだった。道ばたに落ちる石ころを見るのと何らかわらない。まぁ、そんな体質だからして、この歳になってもここにいて人の役に立てておる」
外にいたなら、イリスとヤタカには異種宿りと異物憑きを簡単に見極められる。だがここでは、あまりに混在した存在の主張が、ヤタカの感化を麻痺させ、目の前に居る老人の内側に宿るモノがあるのかさえ解らなかった。
「ねぇお爺ちゃん、外の道にわっさり出てきた根っこ。明日になったら無くなるの? あれがあるとお寺へ行けなくなっちゃう」
イリスが珍しく心配そうに眉を顰める。
「勝手にいなくなってはくれないが、大丈夫。この年寄りの感が外れなければ、寺への道は開けるよ」
「よかった」
安心したように息を吐きにこりと微笑むイリスだったが、ヤタカの気持ちは晴れなかった。寺の情報に嘘が混ざっているなら、ヤタカの記憶は当てにならない所か、この先の旅を危うくする。
――裏切り者か
寺で過ごした仲間達の顔を一人一人思い浮かべて、ヤタカは肩で息を吐きながら頭を振る。どうしたって、懐かしいあの顔の中に裏切り者がいるとは思えなかったし、思いたくもなかった。
「寺が滅んだ時の、最後の記憶がないらしいのう?」
「どうしてそのことを?」
「この道は情報を運ぶ道じゃよ。こんな老いぼれの耳にも、わりと早く話は届く」
ゴザ売りの男だろうか。違うか、まだ此処まで来るほど足は回復していないだろうに。
だとしたら誰が?
「失った俺の記憶に、何か意味はあるのでしょうか」
「記憶は鍵となる。誰として存在が掴めなかった敵の顔が、おまえさんの記憶の底に眠っているのではないかな?」
ヤタカは俯いたまま頷いた。思い出すのが怖いのかもしれない。寺に関わった者達が口にするように、裏切り者が寺の内部にいるとして、記憶の沼から這い上がるその顔を、知るのが辛いのかもしれなかった。
「記憶を取り戻す妙薬なんて、ありませんよねぇ」
「無いのう」
二人とも口を閉ざすと、シュイとイリスが楽しげに笑う声だけが部屋に響く。
「イリス、あんまりはしゃいでいないで、早めに寝ろよ。明日も長い道程になる」
「うん、わかった」
「ところでシュイ、俺はどこに寝ればいい?」
笑顔でイリスと話していた、シュイの眉間にぎちりと皺が寄る。
「空いている場所で勝手に寝なよ」
「空いている場所ねぇ」
見回しても、岩が剥き出しの台に掛け布団が一枚あるだけだ。
「敷き布団はどこだい?」
「そんなもの、お姉ちゃんが二枚敷くにきまってら。一枚じゃ背中が痛くなる」
何を今更という表情のシュイがふん、と鼻から息を吐き出すと、宿の主人が笑いながら薄っぺらい敷物を出してくれた。
「たまたま日干しにだしておってのう。これで我慢しておくれ」
「はい、十分です」
もういい、掛け布団に丸まって寝るしかないだろう。だがひとこと言わねば気が済まない。
「おい、シュイ! おまえ布団どころか、深皿だってイリスの分しか磨かなかっただろう?
商売なのにいいのかよ、そんな贔屓してさ!」
「商売以前に人としての問題だろ? 男子としての振るまいの問題だ。おまえより体力のないお姉ちゃんを、岩肌の冷たさが直に感じるほど薄い布団の上で寝させるのか? 細かいささくれがあるかもしれない、剥き出しの丸太の上にすわらせるのか? 埃の被った器で腹をこわしたらどうする? 商売のまえに人で在れ! じっちゃんの教えだ」
「はい……すみません」
いや、何か変だろう? 器を拭くのに手間などかかるか? 言いくるめられた感がぬぐえずに、それでも言い返せないヤタカは腕を組んでうーんと呻る。
生意気で小さな紳士が腰に手を当てヤタカを睨む様を、イリスと宿の主人がくすりと笑いながら眺めていた。
その夜ヤタカは夢を見た。
異物に囲まれているせいか、眠る前からヤケに鼓動が早かった。
夢の中でヤタカの心臓は、血流を押し出す音が聞こえそうに心拍数を上げていた。
濃い霧の向こうへ手を伸ばし、必死に叫ぼうとするのに声が出ない。
恐怖と呼べるほどの焦りに支配されているいうのに、視界を遮る霧が入り込んだように、頭の芯はぼんやりとしている。
――イリスの名を呼ぼうとしているのか
まるで他人事のように、ぼそりと思った。
――逃げろ
声がする。
――逃げろ
二人目の声……いったい誰だろう。
霧の向こうでしゅるしゅると、何かが伸びる音がする。
吸い込んだ濃厚な草の香りに、声帯の呪縛が解ける。
「イリス!」
叫んだ途端、霧に閉ざされた視界ががくりと揺れた。
体が霧に溶けていくように、自分の手足さえ見分けの付かなくなったヤタカは、夢の中で気を失った。
宿屋あな籠もりに四つの寝息が流れる中、一枚の掛け布団に丸まって眠る、ヤタカが体を横たえた平らな岩の表面を、赤い漆の金魚が緩やかに背ビレと尾ビレを揺らして泳いでいく。
ぴしゃり
跳ねるはずのない水音を立てながら、赤い金魚が岩の中を泳いでいく。
読んで下さったみなさん、ありがとうございました。