「うるっさい!」
横になって眠るイリスの足と壁の間に置かれたヤタカの荷物に、イリスの蹴りが入ったのは何回目だろうか。
カタ コト
荷物の中で逃げ道を探すように地団駄を踏む下駄がかち合う音が、一晩中ヤタカの睡眠を妨げていた。
最初は拳骨で下駄ごと荷物を叩いていたイリスだったが、どうやら拳の痛みと眠気に負けたらしい。下駄が鳴るたび寝言で文句は吐きながら、下駄以外の中身が心配になるほどの蹴りをかましている。
カタ コト
異物にも相性はあるのだろう。切り出された木は乾燥を好むせいか、水気の異物を宿すヤタカの側では、下駄は息を潜めて大人しくなる。
あるいは異物に感情や思考があるというなら、数多の異種を宿す下駄を明日の朝一に焼き払ってしまうべきか、本気で迷っているヤタカを恐れているだけかもしれなかった。
ぐっすりと安眠を貪りながら蹴りを繰り返すイリスと、耳障りなカタコトに合いの手を入れるような、壁を揺らす震動に耐えてほとんど眠れなかったヤタカにも、平等に朝は訪れる。
「おはよう、いよいよお寺の跡地へ出発だね」
「元気でなによりだな。イリス、足は痛くないか?」
何のことだと言わんばかりに首を傾げるイリスにひらひらと手を振って、ヤタカは先に小屋をでた。
荷物から下駄を取り出し鼻緒を摘むと、紐に吊した玉をぶつけたみたいに下駄がカンカンと跳ね上がる。
「燃やすぞ」
ぴたりと下駄の動きが止まる。
こうまで反応されると意思などないと解っていても、気軽に火を放てなくなるのが人情だ。自分の性格にうんざりしながら、ヤタカは下駄の鼻緒に紐を括り付けた。こうしておけば、勝手に逃亡することもないだろう。
犬の散歩のように地面に放つと、反抗的に片下駄の頭を持ち上げカン、と鳴らした。
「ヤタカ、下駄はどこ?」
目に布を巻き杖を手にしたイリスがでてきたが、手には一枚の紙と小さな竹筒。
「紐でくくって地面の上だよ。ゴテ達に話が付くまでは連れて歩くしかないだろう?」
「でもね、その姿。たぶん普通の人が見たら、紐を引きずって歩く変な人にしか見えないと思うよ? みょうな若いオッサン」
「若いかオッサンかどっちかにしろよ。他にどうしようもないだろう?」
するとイリスがくいっと顎を上げ、ちょっとだけ唇を突き出して見せた。得意な時にする表情は、子供の頃と変わらない。
「成長しないなぁ」
「へ? なに?」
カタ
往生際悪く鳴った下駄の音を聞きつけ、イリスはさっと駆け寄ると、片手で下駄をむんずと押さえ込む。
「本当に効き目があるか、まずは実験ね」
言うが早いか小さな竹筒の栓を抜き、中身の透明な液体を下駄の上にかけ始めた。
「おい! 何をやって……」
しーっ、と口元に指を当てるイリスは、布で塞がれて見えないくせにしゃがみ込んで地面の下駄に注目している。
まるで、ヒック、としゃっくりが聞こえるようだった。
よしっ、と呟いたイリスがヤタカの忠告を無視して紐を解くと、下駄は今だと言わんばかりに歩き出した……つもりだったのだろう。
「まさか、酒をかけたのか?」
「うん」
下駄が千鳥足でよろよろと歩いている。どこかへ行こうとしているのだろうが、つっかかっては横倒しになり、地面の代わりに自分の片割れを踏んでは転ける。
信じがたかったが、イリスがかけた酒に酔ったらしい下駄は、完全に目を回していた。
「いったいどこでこんな方法を?」
寺の書物を読みあさったヤタカの中に、酒と異物を結びつける情報はない。ひらひらと一枚の小さな紙を差し出すイリスから、訝しげに紙を取り上げたヤタカは書かれた短い一文に目を剝いた。
「いったいこれを何処で?」
「ゴザ売りのおじちゃんが、別れ際に手に握らせてくれたの」
ヤタカは頭を抱えて言葉にならない呻きを漏らした。
「罠だったらどうするんだよ。簡単に人を信じるな!」
見えていないと知りつつ睨み付けると、けろりとした表情でイリスが見返してくる。
「罠を仕掛けるくらいなら、あの小屋で殺されていたと思うよ?」
「安心させてから牙を剝くのが、詐欺師の上等手段なんだ」
「おじちゃんは詐欺師じゃなくて、草クビリでしょう?」
だからこそ詐欺師よりまずい、という言葉は呑み込んだ。今の段階ではイリスにとって草クビリは、慈庭や素堂へ繋がる人という括りでしかないのだろうから。
「他の異物に勝手に酒をふりかけたりするなよ? 約束しろよ」
「うん」
意外と素直に頷いたイリスの足元で、下駄は変わらず同じ場所をぐるぐると回っている。 ヤタカは異物憑きだ。だからこそ男は紙をイリスに渡したのだろう。異物へ影響を与える方法を、ヤタカに宿る水の器が好むとは思えない。
――異物の内を覗くは酒の力なり
紙に書いてあった短い文。この様子では、酒が異物に影響を与えることがあるのは事実とはいえ、内を覗くという意味がわからない。
酔っ払いの下駄など、どれだけ眺めても飲んだくれの阿呆の足元を見ているようにしか思えなかった。
あるいは……とも思う。男の言葉が本当なら、草クビリは寺の書物よりも豊富な知識と経験を持っていることになる。
異物に人が覗ける真意などあるとすればの話だが、そんな与太話など昔語りにさえ聞いたことがなかった。
「やっぱり邪魔だから荷物に入れていこう。朝一で暖を取る焚き火でも贅沢に燃やして、その中にくべてやろうと思ってたんだがな」
「村人に害はないって、この子は言ったんでしょう? 人に異種が宿る前に回収しているだけなら、悪い子じゃないかも」
「その言葉さえ、こいつがあの人に見せた幻だという可能性が高いだろう? これを履いていた奴は忽然と姿を消したんだ。幽霊じゃあるまいし」
「異物は謎だらけなの。目的も解らないのに火にくべたら駄目でしょう? それにヤタカだって最初みたいに目が疼いたりしないんじゃない? わたしは平気。この下駄にはいっぱい異種が取り込まれているのに不思議だね」
あぁ、と小さく息を漏らし、ヤタカは指先を目に当てた。いつの間にか近くに異物があるとき特有の違和感は消えている。
「あんたは何者? 何をしようとしているの? 教えてくれないと焚き火にしちゃうけれど……いい?」
物言わぬ異物に話しかけてどうする。人に火にくべるなといっておいて、同じ手口で脅したら意味がないだろうに。
まだ日が昇りきっていないからと、薄ら明るい中イリスは目を覆う布を取った。
「しゅっぱつするぞ。寺に行くには何日もかかる」
肩で息を吐いて歩き出したヤタカの背中を、待って、と驚いたようなリスの声が押さえつけた。
「この子、話せるんだ」
「下駄に酒をかける前に自分も飲んだのか? 巫山戯てないで早くいこうって……」
イリスの肩に手をかけようとしたヤタカの手が止まる。
細く小さなイリスの肩越しに、地面に並ぶ下駄が見えた。
酒に濡れて濃い飴色になった下駄の木肌に、薄墨を垂らしたごとく文字が浮かぶ。
「ほらね、この子が自分の意思を見せた」
呆然と薄墨の文字を目で追った。
「冗談だろう、有り得ない」
揺れる文字はまるで湖面に浮かんでいるようだった。
――たきびはだめ
形を成していた文字が、墨が水に溶けるように消え、次の文が浮かび上がる。
――てらへいく
平仮名のみの文字が揺れる。
――みちをしっている ちかい
文字が薄れて、散った。
「近道を知っているのね?」
「罠かもしれない。人前に姿を見せる異物には、必ず人が絡んでいる」
ぷうっと膨れるイリスにも、ヤタカは甘い顔は見せなかった。判断を誤ればイリスの身が危なくなる。
「おまえは誰なんだ?」
――わからない
文字が浮かんでは消える。
――ばばにあう
「なんだそりゃ?」
――ばばがまっている
下駄は同じ言葉を繰り返す。まるで覚えているのはそれだけだとでもいうように。
「何かあったら、わたしが火にくべる。だからわたしが連れて行く」
ゆるく結び直した紐を手に、イリスがまっすぐにヤタカを見る。
黒曜石に似た瞳が、ヤタカの反論を完全に喉の奥に押し込めた。
「わかったよ。取りあえずは寺までだ。案内するのはいいが、イリスに無理のない道なのだろうな? 近道でも危険が伴う道は駄目だ」
――あい あい
「あい? ばかイリス! なにやってんだよ!」
人が腰に刀を差していたという、昔話にでてくる子供のような返事に首を傾げ、ふっとイリスの手元を見たヤタカは額を叩いて目を瞑った。
「お酒が好きみたいだから、ちゃんと答えてくれたご褒美」
残っていた酒の最後の一滴が、小さな竹筒の口からぽとりと落ちた。
「喜んで千鳥足なわけじゃないと思うぞ。単に酔っ払った下駄ってだけだ」
再びよろよろと足元の覚束なくなった、下駄の鼻緒に巻いた紐をイリスが緩める。
「これで歩きやすいでしょう?」
へげれけに酔った下駄の表に文字は浮かんでこない。
「さあ行きましょうね」
目元に布をきゅっと巻き直し、杖を擦りながらイリスが行く。
意気揚々と紐を引くイリスに引きずられ、酔っ払った下駄がよたよたと歩いて行く。
かからん ごろん
「威厳の欠片もない下駄の音だな。イリスが先に歩いちゃ意味がないだろう? こりゃ駄目だな」
道案内を買ってでた下駄は口先ばかりとみえる。転がってはとてとてと進み、つんのめってはまた転ぶ。
「そいつの酔いが覚めるまで、順当な道を辿って戻るぞ。もう飲ませんなよ!」
「あい」
下駄の真似をしてイリスが答える。
たびの道行きがいっそう不安になった。異種宿りに異物憑き、そこに加わったのは得体の知れない下駄ときた。異物とはもっと神聖なものではなかったのか?
「こんな与太郎下駄じゃ売れもしないな」
使い古された飴色の下駄が、紺色の鼻緒を紐でくくられ右へ左へ千鳥足。
喜々として下駄を先導するイリスの後を、ヤタカは肩を落として歩いて行く。
月の半分以上は歩かなければ、寺の跡地に辿り着けないだろうと予測していたヤタカの予想は、得体の知れない下駄によってあっさり覆された。
あの日ぐでんぐでんに酔って最後は自ら歩くことさえできなくなり、イリスが手にした紐にガラクタのように引きずられて土まみれになっていた下駄は、次の朝にはすっかり酔いをさまし、下駄の表面、鼻緒の下から人の踵が乗る部分にかけて、するすると薄墨の文字を浮かび上がらせた。
――かいどうから ぬける
この言葉にはヤタカもイリスも首を傾げた。下駄の言う近道とやらは、てっきり山を越えていくとばかり思っていたからだ。
――さきの わきみちへ
「街道を離れるには、おまえを信用するに足りるだけの情報がないとな」
少し考えるように、下駄の木肌で消えかけの文字が揺らぐ。
――ばばにあう
「ばばとやらを、俺は知らない」
――あのばしょ まもるもの
「寺の縁者か?」
――そどうの ち
「素堂のじっちゃんに血縁者が?」
あの寺の者にまともな縁者がいるなど聞いたことがない。だが、でてきた素堂の名を無視することもできなかった。
「わかった。いってみよう。妙な動きをしたら、火にくべるからな」
紺色の下駄の鼻緒がぴんと立つ。
「おっかないオッちゃんですねぇ。大丈夫だよ? ヤタカに火にくべさせたりしないから」
ほっとしたように、下駄の鼻緒がへたりと下がる。
「火をつけるのは、わたしのお仕事だもん。ねぇ、下駄のゲン太」
再び跳ね上がった鼻緒を紐でぐいと引かれ、がちゃりがちゃりと下駄がぶつかり引きずられていく。
「ゲン太って、安直すぎないか?」
口ではああいっているが、いざという時火を放つのは、どうやらヤタカの仕事になりそうだ。あいつのどこを気に入ったのか知らないが、あだ名までつけた奴に簡単に火を放てるようなイリスではないだろう。
その時がきたら、イリスの目に付かないところで事を済ませようと、ヤタカはひっそりと心に決めてひとり溜息を吐いた。
脇道を半日ほど進んでゲン太が示したのは、知らなければ目に付くことも無いほど小さな横穴だった。
荷物を背から下ろして、やっと大人一人が這って通れるほどに小さな横穴だった。
この場合、イリスを先に見送っても外に残しても同じように危険が懸念される。ゲン太を信用できない以上しかたがない。考えた挙げ句、ヤタカはゲン太を先頭にイリス、そして最後に自分が行くことに決めた。
「げふ!」
少しでもイリスから離れないようにと、後を追って近づきすぎたのが悪かった。後方が見えるはずもないイリスの足が、地面を漕ぎ損ねて跳ね上がり、ヤタカの顎を蹴りつけた。
ヤタカの顔面に散った火花など知るよしもないイリスが、横穴の奥で声を上げた。
「すごい、ヤタカすごいよ! 壁が天の川みたいに青白く光ってる!」
横穴から抜けた先で頭をもたげて見上げると、ちらちらと青白い光りを放つ帯が、洞窟の奥へと続いていた。
「こりゃなんだ?」
「そりゃあ、羽虫の幼虫さ」
不思議な光りに見とれるヤタカとイリスの横からいきなりかけられた声に、ヤタカはイリスの肩を掴んで飛び退いた。
「逃げるこたぁないだろ? ここを通るのは初めてらしいな」
「誰だ? どうしてこんな所にいる?」
男が手に持つ松明が、辺りをゆらゆらと照らし出す。
目尻に深く皺が寄る程度には、年を重ねた男だった。まだ冬のように冷える洞窟の中で、綿入れを着込んだ男がにこりと笑う。
「ここを通る奴らのためにここにいる。おまえさん達こそ何者だい? 見たことのない顔だが、道に迷って入り込めるほど広い横穴じゃなかったと思うが?」
男の後ろには竹を編んだ大小の籠が並べられていて、男が眠るためのものか、細長い台も置かれている。竹を持ち込み自ら編んでいるのだろう。編みかけの籠が、無造作に転がっている。
何をどこまで答えていいものかと、口を開けずにいるヤタカの様子に、男はくすりと笑いを漏らす。
「目を布で閉じた娘さん、もしや寺にいた子では? 噂には聞いていたが、たしか少年だと記憶していたのだがね」
「この子は事情があって男ということになっていました。寺の事を知っているのですか?」
「あぁ。あちらこちらへ飛び回り、寺の足となった者達が、順当な道を辿っていたのでは時間がかかりすぎる。こういう道はあちらこちらに点在しているからね。もちろん、寺の最後も大まかにだが聞いている。残念だよ」
寺を知っているなら、ここを通る理由を隠す必要もないか。
「寺の跡地へ、みんなを弔いにいこうと思っています。弔うと言っても、石を積む程度しかできませんが」
そうか、と男は僅かに睫を伏せる。
「ここへ連れてきたのは、その下駄かい?」
男が指差す先で、ゲン太が鼻緒をぎゅっと窄めた。
「すごいな、こいつが見えるんですね。ちょっと理由があって、しばらく連れて歩くことになりました。厄介事を起こした時は、責任をもってこいつを焼き払いますから」
ははは、と楽しげに声を上げて、男は胸の前で手を振った。
「詳しく語る必要はないよ。ここを通る者に必要な物を貸し出し、手を貸すのが仕事だから。裏の事情を聞く耳まで持っちゃいないさ」
男は油を染みこませた松明に火をつけ、暖かそうな綿入れと一緒にヤタカに渡す。
「出口には別の男がいる。これはそいつに返しておいてくれ。普段なら道を教えてやるところだが、その下駄が一緒なら道案内はいらんだろう。この先の道は寺へ続くだけではないから、細かく枝分かれしているからね」
「この下駄を信用するんですか?」
「さあね。信用できるかどうかなんて、人間でも究極死ぬまでわからんものさ。さぁ、そろそろ行きなよ。途中には飯を食える宿もある。簡素だがね。この札を見せれば直ぐに泊まらせてくれるよ。入口で揉めた奴ではないという証になるから」
男がくれた赤く長細い木札には、何の文字も書かれてはいなかった。
「ありがとう」
礼をいって洞窟の奥へと歩き出す。振り返ると、イリスが男に向けてぺこりとお辞儀をしていた。目尻に皺を寄せて微笑み手を振る男を後に、ヤタカ達は山の下を這う狭い道を進んでいった。
読んで下さったみなさま、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただけますように……。