まだ春になりきらない薄ら青い空の昼下がり、ヤタカは先を行くイリスの歩調に合わせてのんびりと街道を歩いていた。
どうやらこの辺りは水場が少ないらしい。しばらく街道脇の村が見当たらないのも、その辺に理由があるのだろう。水場が少ないとはいっても、所々で細々と湧く澄んだ水の匂いは感じられるから、飲むのに時間がかかるのが手間だというだけで、ヤタカにはそれで十分だった。
「イリス?」
急に足を速めたイリスに声をかけたが、ヤタカのことなどすっかり意識の圏外に飛ばされたようで振り向こうとさえしなかった。
「あぁ、あれか」
ゆるく曲がる道を左に行くと、広い道の端でゴザ売り達が所狭しと店を広げていた。
呼び名の通りゴザを一枚ぺろりと広げ、その上に品を並べて商っている。
ゴザ売りの列とは少し離れた場所で、旅人に食い物を売る小さな屋台が幾つか並んでいた。屋台が引かれて店開きしているということは、次の村までそれほど遠くはないのだろう。
美味そうな匂いを運ぶ風が旅人の鼻をくすぐり、自然に足は店へと向かう。食べ物の香りにまんまと釣り上げられて、我を忘れている連れの背にべっと舌を出し、ヤタカは薄い財布を指先で確かめ口をへの字に曲げた。
てっきり屋台まで直行だと思っていたのに、イリスの足がぴたりと止まる。
追いかけていたヤタカの足はそれより先にぱたりと止まり、視線は一人のゴザ売りの男に注がれていた。
「すごい汗だけれど、大丈夫ですか?」
目の前を通る客に呼びかけることすらせずに、右手で腹を押さえて額に汗を張り付かせていた男は、姿勢を変えることなく上目使いにヤタカを見て、開きかけた口をむんずと閉じた。
「あんた、その足」
胡座をかいて外套からはみ出た足首に、膿んだ傷が丸く腫れ上がっている。
「ちょっと待っていてくれ」
男の返事を待たずに、ヤタカは飴を商うのゴザ売りの前にしゃがみ込むイリスを促し、林へと入っていく。
人なつっこい笑みを浮かべた若い男がイリスに差し出していたのは、先が三つに割れぷつぷつとした盛り上がりが葉の縁を飾る、一枚の葉を模った飴細工だった。
客に逃げられたゴザ売りは残念そうに眉を下げ、大きな黒子のある耳をポリポリと掻いた。
「飴、買っちゃだめ?」
珍しくお伺いを立てるイリスに、ヤタカは口元を綻ばせる。先日の宿代で飛んだ金のことを気にしているのだろう。
「飴くらいいいよ。まずは水を汲んで、手持ちの薬をあの男に渡してからな」
ゴザ売りをしている以上、自分の管理を出来ないほどに山の地理や野草に疎い訳もない。
あの足では山へ入ることができずに、水のない状態で脱水を起こしているのだろう。
水を飲み、傷に練り薬を貼れば直ぐに回復するだろう。
歩きながら感じたように川はどこにも見当たらず、微かな匂いを辿って岩の割れ目からちょろちょろと流れる湧き水に辿り着いた。
ヤタカ自身も腹一杯に水を飲み、それから水筒に水を溜め、荷物からすり潰して乾燥させた薬草を取りだし水を含ませた。
「戻る頃には、いい具合に練れているかな」
携帯している小さなすり鉢で薬草を練りながら、腰に捕まるイリスを連れてヤタカは街道へと戻っていった。
「ほら飲みなよ。湧き水だから腹はこわさないから」
戻ってきたヤタカを見た男は、少し驚いたように目を見開いたが、水筒の中で揺れる水に喉の渇きが勝てるはずもない。ひったくるように水筒を手にすると一気に飲み干し、口の端から零れた水さえおしいように、指先で拭って口へと入れた。
「それとこれ、足の傷に貼っておくといいよ。信頼できる野草師から譲り受けたものだから心配せずに使って。膿が引けば治りも早い」
乾燥したままの薬草を一欠片ゴザに置き、水で溶いて明日貼り替えてくれと言い残す。
「あの娘……あんたの連れか?」
よく見ると上目遣いでなくとも三白眼の目立つ、貧相な面立ちの男だった。お世辞にも人好きがするとは言えない男が、礼も言わずに発した言葉にヤタカは指先でこめかみを掻く。
「あぁ、俺の連れだよ。今日は飴細工にご執心でね。おや、あんたも飴売りだったのか」
ふん、と鼻から息を吐く男の膝元には色とりどりの飴が並び、その他にも日持ちする干菓子が並べられていた。
「あの娘をこっちへ呼びな」
急に男の声が小さくなる。故意なのか、イリスがしゃがみ込むゴザ売りの方へは目をくれようとさえしなかった。
「でも、あの店で気に入った飴があるみたいんだ」
肩を竦めてヤタカが歩き出すと小さく、けれど鋭い男の声が背を掴む。
「いいから呼べっつってんだろうが」
躊躇しなかったと言えば嘘になる。まずい男を助けたかと意識の表層を後悔の念が擦ったが、ヤタカは振り返った先でじっと見つめる男を黙って見返すと、前を向いて肩で息を吐いた。
「イリス、ちょっと来いよ」
しゃがんだままイリスは不思議そうに首を傾げたが、ヤタカの声を頼りに土の道に杖を滑らせながらやってきた。
「どんな飴があるか、ヤタカに教えて貰おうと思ったのに」
菓子を取り上げられた子供みたいに少し頬を膨らませ、イリスがぷいっと顔を背ける。
「飴ならここにも売っているよ。買っておいて、泊まった先の小屋でゆっくり食えばいい」
万が一……を考えての予防線だった。
自分の売り上げを伸ばしたいだけの礼儀知らずならそれでいい。問題は、この男がただのゴザ売りなのかどうか。
素朴な暮らしが素朴な思考の人間ばかりを生みだすとは限らない。いつの時代も、この世は損得勘定で簡単に人の命がやり取りされる。
「どんなのがあるの?」
少し機嫌の直ったらしいイリスが、しゃがみ込んでいう。
男が一本の棒飴をすっと差しだした。
「葉っぱの形したのはどう? きれいな紅色だよ。葉先が三つに分かれていて、すごく良い造りだし何よりでかい」
説明してやると、少し考えてからイリスが頷いたのを見て、ヤタカは金を差し出し男の手から棒飴を受け取ろうと手を伸ばす。ヤタカの指先が棒に触れた途端、なぜか男はさっと棒飴を引いた。
「勧めたくせに、何だよまったく」
ここまでくると文句の一つも言いたくなる。更に口を開こうとするヤタカを、男はすっと手の平で制して紅色をした鳥の飴を差し出すと、戸惑うヤタカを無視してイリスの手に握らせた。
「水と薬の礼に、いい唄を教えてやる。ある者達の中では常識、普通に暮らす者にとっては一生知る必要のない唄だ」
ふらりと立ち寄ってゴザを覗き込んだ客を男が三白眼で睨み付けると、客は泳ぐ視線をそらして足早に立ち去った。
男の声が籠もるように小さくなる。
「三つ葉も四つ葉も甘汁零し、棘ある三つ葉は毒汁零す……てな」
無表情だった男の口元がにやりと歪む。
男が左手に握る飴、最初に差し出した飴は葉の縁に所々、ぷつぷつと盛り上がりが見てとれる。
――あれが棘?
はっとしてヤタカは男の三白眼を見返した。向こうのゴザ売りでイリスが勧められていたのは、ぼこぼこと突起のついた葉の形の飴細工だった。
男がさっさと行けというように、指先を払う。
「食べさせてあげたいな、素堂の爺ちゃまにも」
ヤタカに腕を引かれて、立ち上がりながらイリスが呟く。
「素堂……」
声に振り返ったヤタカは、伏せる直前に男が大きく目を見開いていたのを見逃さなかった。
「素堂のじっちゃんを知っているのかい?」
顔を伏せたまま男が首を横に振る。
「知らねぇな。とっとと行けよ」
しばらく黙っていたが、男が顔を上げることはなかった。
「行こう」
ヤタカの言葉を受けてイリスがゆっくりと歩き出す。左の手の中で、紅色をした鳥の飴細工がくるくると回っている。
「あの人、素堂っていったよ」
「あぁ、聞こえたさ」
どのゴザ売りの前も、目さえ向けずに立ち去った。
あの男の言葉が本当なら、今ごろイリスの手の中で楽し気にくるくると回ってるのは、毒の汁を含んだ三つ割れ葉の飴だったのだから。
知る者の居ない通りすがりの道で、命を狙われる理由などわからない。わからないが、無愛想なあの男が、どうにも嘘をいっているようには思えなかった。
日が暮れて最初に見つけた小屋に宿をとることにしたヤタカは、埃っぽい室内にごほごほと噎せ返った。この辺りは行き交う者の数に見合うだけの小屋が多く建ち並ぶせいか、先客はいない。
「イリス、さっきの飴だけど」
「なに?」
小屋に入って腰を下ろしたばかりだというのに、振り返った先でイリスは既に飴をぺろりと舐めていた。
「気分悪くなったり、腹が痛くなったりしていないか?」
「今日は元気だよ? この飴とってもおいしい」
満足げな笑みを浮かべるイリスに、ヤタカはほっと肩をなで下ろす。
自分達を見かけただけで、異物憑きと異種宿りだと気づく人間などほとんどいない。たとえ野草師やゴテ師の類でも、余程の鍛錬を積み素質を持った者でなければ、すれ違ったくらいで見破ることなど不可能だ。
――なおのこと、どうして目をつけられた。
思考は堂々巡りで、何の答えも導き出せはしなかった。水筒の水を飲み仰向けにころがると全身を倦怠感が襲う。
この辺りの水源では、今夜の水浴は無理だろう。水浴びの嫌いなヤタカは、イリスに睨まれないなら一生カラスの行水で済ませたいところだが、水浴びが好きなイリスは残念がるだろうと、そんなことを思いながら目を閉じる。
――やっぱり、あの男にからかわれただけかもしれないな。
ギイィィ
歪んだ戸口が擦れる音を立てて開かれた。
「一緒にいいかい?」
ぺこりと頭を下げて入ってきたのは、ひょろりとした中年の男と、これまたひょろりとした若い男。若いと思ったのはぐるぐると巻いた防寒の布から見えた目元が、皺ひとつ無かったからに過ぎないのだが。
「どうぞ、この時期は日が沈むとまだ冷えますね」
あぁ、そうだねぇ、挨拶代わりに他愛のない言葉を交わし、二人はヤタカ達とは反対側の壁に背を凭れて腰を下ろす。
「ヤタカ」
ぺたりと床に座ったイリスが、向かい合ったヤタカの襟首をぎゅっと掴み、真っ直ぐに視線を向ける。
橙の蝋燭の灯りに照らされて、漆黒の双眼がゆらゆらと揺れた。
イリスの瞳を直視すると、いつだってヤタカの心臓は不規則に波打つ。
まるで月明かりが僅かに差し込むだけの、闇を満たす小さな泉みたいだとヤタカは思った。
「どうした?」
ふわりと小さな唇が何か言いたげに隙間を広げるが、しばらくの沈黙の後、イリスは小さく首を振って襟首からするりと手を離した。
「何でもないや」
何を言おうとしたのか自分でも解らない、とでもいうように小首を傾げるイリスの額を小突いて、ヤタカは乾パンを手に握らせる。
「腹が空き過ぎて記憶喪失? それ食ってカラカラおつむに栄養をってな」
ひょっとこの面かと思うほど唇を突き出したイリスが文句を言う前に、軋んだ音を立てて再び戸が開かれた。
頭からすっぽり外套のフードを被った小柄な男は、ヤタカとの間に背負っていた荷物を置くと、挨拶もなしにそのまま膝を抱えて眠るように下を向く。
誰もが利用できる小屋だからこそ、誰もが愛想がいいとは限らない。ヤタカは気に留めることなく男に頭を向けてごろりと横になる。
「イリス、この辺りは川も泉もないから、今日の水浴びは無理だよ」
「うん」
じっと見下ろすイリスの視線に耐えかねて、ヤタカが「何だよ?」と口を曲げた。
「ヤタカ……汚い」
「俺だけか!」
女の子の文句はいつだって理不尽だ。イリスの視線を避け、壁に向けて寝返りを打ったヤタカは、早く寝るに限ると目を閉じた。
「若いのに乾パンだけじゃ足りないだろ?」
声をかけてきたのは、反対側に座る二人組の中年の男だった。
よっこらせと立ち上がると、握り飯を三つ手に抱えてこっちへとやって来る。
「減った腹に任せて買ったはいいが、余っちまったんだ。明日まで置いておくと固くなるから、良かったら食ってくれないかい?」
旅は何があるか解らないから、旅人は互いに助けあう。こんな親切に甘える日があってもいいだろう。
「では遠慮なく。ありがとうございます」
ヤタカに二つ握り飯を渡すと、無言のまま俯く男の前にもひとつ、丸い握り飯がそっと置かれた。眠っているとばかり思っていた小柄な男は、声を出すことなく小さく頭を下げた。
――なんだ、起きていたのか。無愛想な男だねぇ。
壁に向かってごそごそと水筒を取りだしたイリスは、両手で持った握り飯にさっそく齧り付こうとぱくりと口を開ける。
「イリス、いただきますは?」
開けた口を閉じて、イリス丁寧に握り飯にお辞儀をした。
「いただきます」
ゴン! 丁寧すぎたお辞儀が祟って、古びた壁板にイリスの頭がごちりとぶつかった。
ヤタカの視線は、頭を擦るイリスではなく頭の当たった先に注がれる。
古いとはいえ細々と管理される小屋だというのに、イリスの頭が当たった程度で一枚の壁板が明らかに外へとずれていた。
迷惑をかけたかと振り返ったが、二人の男はこちらに背を向け横になり、何やら楽しげに笑いながら話し込んでいる。
「食ったふりをしろ。だが、口にはするんじゃねぇよ」
痛い痛いと頭を撫でるイリスの声に、掻き消されるほどにぼそぼそとした声は、外套を目深く被った小柄な男のものだった。
頭を擦りながらも片手で持った握り飯に齧り付こうと、口を開けるイリスが目の端にうつる。
ヤタカはとっさに手を伸ばし、イリスの口を手の平で覆う。
「久しぶりの握り飯は美味いな。イリス、ゆっくり食えよ」
ヤタカが明るい声でいうと、口の付けられていないヤタカの握り飯に、すとんとイリスの視線が落ちる。
「うん、わかった」
イリスがそっと握り飯を懐に入れるのを見届けて、ヤタカも自分の分を荷物の中に放り込んだ。
少し腰をずらして、小柄な男の直ぐ横にごろりと転がった。
男達の笑い声を隠れ蓑に、小柄な男の声が囁く。
「あの娘がでこっぱちをぶつけた辺りで、二人固まって横になっていろ。俺が合図したら、きつく目を閉じろよ。外に出るまで絶対に開けちゃならねぇ」
聞き覚えのある声だった。
「どうしてそんなことを? あんた昼間会ったゴザ売りだよね」
男は黙って頷いた。
「あの二人はどうする気さ」
「こうするのさ」
男は首に提げていた守り袋の中から、もみ殻に似たぱさぱさと軽く細かい物を取り出すと、ふっと強く息を吹きかけ、背を向けて話し込む男達の方へとバラ撒いた。
カスのように軽いそれは、ふわりゆらりと宙を舞って床に散らばる。
男が明かりを灯す蝋燭に目配せしたのを受けて、ヤタカはひとつ頷いた。
「お二人さん、蝋燭を消させて貰うよ。話はいつまでだってしていて構わないから」
返事を待たずに灯りを吹き消すと、おうよ、と暗がりの向こうから承諾の声が返ってきた。
そっとイリスに耳打ちして壁際に横たわらせ、体が付かないぎりぎりの所で小さな体を覆うようにヤタカも横たわる。
男が尻をずらしてこっちへ近づく気配が、外套が床を擦る音で伝わってくる。
「全面的にあんたを信用したわけじゃない。こうしなけりゃならない理由も解らないのに、信用しろという方が無理だろう?」
空気に声を乗せるようにヤタカが囁く。
「俺なんざ信じなくてけっこうだ。、素堂様が生涯でなしたことを信じろ」
やはりこの男、素堂のことを知っていたのか。
「わかった、いいだろう」
「寝たふりをしていろ。本当に寝るんじゃねえぞ」
男達は、小声で今だ話を続けている。
イリスが眠り呆けてしまわないよう時々背中を突きながら、ヤタカは何も見えない闇の中、じっと目を見開いて男の声を待っていた。
――眠ったか。
男達の声が止んで、けっこうな時間が経つ。見えないとわかっていても、思わず振り返ろうとしたその時だった。
シャリリ カシュリ
男がバラ撒いたカスを踏む音が、ヤタカの背筋をぞわりとさせた。
事情を知らない者には、埃だらけの床のゴミを踏んだくらいにしか聞こえない、その程度の僅かな音。
忍びきれない足音が一歩また一歩と近づく気配に、ヤタカは手をかけていた荷袋の紐を持つ手に力を込める。
「行け!」
ドンと蹴り飛ばす音と同時に張った声が響き、壁の側から冷えた外気が流れ込む。ぐっと目を閉じて、ヤタカはイリスを蹴り飛ばされた壁板の外へと押し出した。
外へ顔が出る寸前、甘ったるい香りがヤタカの鼻孔をぬるりと撫でた。
読みに来て下さった皆様、のぞいて下さった皆様、ありがとうございます。