誰一人身動きできなかった。
体の自由を奪ったのがなんであれ、仕掛けたのはミコマのお婆であろう。あたり一帯に微細薬を撒いたのか、あるいは元から仕掛けられていたのか。
昔話に語られる大妖にも似た、得体の知れない気だけを残してミコマは去った。
大地に立ち籠める朝靄のようにヤタカ達を絡めた妖気と違わぬ気配は静かに、けれど逆らえば喉元を掻き切る鋭さを含んでいた。
「和平!」
ヤタカが叫ぶ。
這い出た蜘蛛は足を含めれば、這いつくばる和平より遙かに大きい。わたるから這い出た蜘蛛が金糸の巣に渡ったのを確かめると、大蜘蛛は和平を節くれ立った足にひょいと引っかけ巣の上に引き上げた。
器用に吐き出される糸がゆっくりと和平を覆っていく。日の光を受けて白銀に細く輝く糸がやがて薄い膜となった。
ぼんやりと霞がかかったように、けれどまだはっきりと見て取れる和平の横顔はまるで眠っているように静かで、呼吸による微動さえ感じられない。
――まるで繭だ
ヤタカは歯軋りしながら、蜘蛛の糸に包まれていく和平を見ていた。
捕食する為に得物を糸で絡める様は山歩きの中で幾度となく見てきたが、どうも様子が違う。繭の中で、和平は膝を抱えて座っていた。
逆らうことなく、大蜘蛛のなすがままに。
和平は自分を喰らえといった。だが和平を囲む蜘蛛の糸は中に広く空間を残して編み上げられ、まるで割れたてっぺんの殻をつけ忘れた卵状の形をしている。
単純に動きを封じて捕食するには、あまりに不自然だった。
――わたるから離れた蜘蛛の目的は何だ?
小さな蜘蛛は金糸の巣を伝って迷うことなく進んでいる。
大蜘蛛が和平を糸で包んでいる方へ、ゆっくりと。
小さな蜘蛛が求めているのが大蜘蛛なのか和平なのか。何一つ読み取れないまま、ヤタカのこめかみにすっと一筋の汗が流れた。
何の理由があって下の方から丁寧に巻き付けたのか、胸から下はまったく様子が伺えない。
大蜘蛛がわさわさと足を動かし、吐き出した糸を巻いていく。その足を器用に避けて、 小さな蜘蛛は金糸の巣から、和紙のように薄く透けた繭へ身を移し、ゆっくりと這い昇るとぽっかりと口の開いた端まで辿り着いた。
ぽとり、と蜘蛛が和平の頭に落ちる。
――何をする気だ
和平の黒髪と同化して、小さな蜘蛛の動きは解らなかった。目を懲らす先で、重ねられた糸が和平を視界の向こうへと追い遣っていく。
――くそ、ミコマの婆は何を目的に蝶を放ち巣を張った? ここにいる者を殺すだけなら、その隙はいくらでもあったはずだ。和平が邪魔だったのか……いや、違う。婆は少なからずシュイの意思を汲んだはず。なら……
金糸の巣が繭を中心に大地に向けて沈みはじめた。ゆっくりと、ゆっくりと、まるで小さな蜘蛛が和平に辿り着くのを待っていたかのように。
和平を喰い殺させることが目的ではあるまい。いや、そう信じたかった。
わたるは泣いていた。
言霊を発しないということは、ミコマの婆と同様に、蜘蛛にもその力は通じないということなのだろう。
銀糸の繭が、てっぺんに穴をあけたままきらきらと輝いている。恐ろしく巨大な蜘蛛が吐き出した糸だと知らなければ、森にぽつりと現れた美しい造形物だった。
――術が解け始めている
ヤタカは微かに動く指先にそう感じた。
「和平、止めて! それは姉様の役目、わたしを喰らえ! 骨までくれてやる!」
絶叫にも似たわたるの願いが森に響く。
言葉を解するかのように、大蜘蛛がぴたりと足の動きを止め、黒く妖しい光を宿す複眼をじとりとわたるに向けた。
「やめて……」
囁くような懇願をわさりと動かした足で払い、大蜘蛛は自らが紡いだ白銀の繭に足先をかけた。てっぺんに開いた隙間を押し広げ、いっぽん、また一本と蠢く足が金糸の巣から離れていく。和平を包んでなお余る空間に、大蜘蛛がするりと入り込む。
すでに地面すれすれまで下がった金糸の巣は大地の模様となり、端を支えていた小さな金色の蝶はいつの間にか姿を消していた。
黒土に浸みた金糸が、巣の編み目をそのままにチラチラと輝いている。
握りしめられるようになった拳を突き出す自由はまだ無かった。ヤタカは動かぬ足で地団駄を踏む。
――繭のてっぺんが閉じていく
白銀から吹き上がる地獄の黒煙――
繭を閉じるために蠢く無数の足を見て、ヤタカはそう思った。細い足の先が白銀の繭に吞まれて消えた。
内包するモノを知らなければ、美しい白銀の繭だった。
「和平!」
繭が閉じたのを見計らったように体の自由が戻ったヤタカは、叫ぶと共に駆け出した。
絡まる足に何度も膝をつきながら、わたるが駆け寄ってくるのが視界の隅に映る。
繭を破ろうと体当たりしたヤタカは、ひどく打ちつけた肩を押さえながら弾き飛ばされた。
「やめろ」
繭に手をかけようとしたわたるの足首を掴み、激しく首を横に振る。
鉄のように冷たい堅さではなかった。かといって想像していた柔らかさもない。
勢いを付けたヤタカをはね飛ばすだけの弾力を持つ繭は、試しにと強く立てたヤタカの
爪にさえ糸一本切れることはなかった。
「わたる、こいつは破れない。気が済むなら、試しにこれを使ってみろ」
懐から取りだした短刀を渡すと、わたるは両手で振りかざし白銀の固まりに突き立てた。
からん
わたるの手から落ちて短刀が転がった。ヤタカの想像通りなら、わたるは腕が痺れるほどの衝撃を受けただろう。手首を押さえ、美しい眉を潜めてわたるは唇を噛んでいた。
「おまえには解っているのか? この後和平がどうなるか」
ヤタカの問いにわたるは静かに頷いた。視線は繭の奥を射るように鋭く冷えている。
――やはり、強い女だ
涙は通り雨のように去り、頬にはその跡さえ残していない。もとより泣いて蹲るだけの女ではないだろうが、この先何を決意し何を行おうとしているのかと、冷えたわたるの双眼の輝きがヤタカを不安にさせた。
「あの子の身に何が起ころうと、それは口にすべきことではないのだよ」
わたるが凪いだ声でいう。
「狼煙塚とはそういうもの。まるで……」
呪われたようにね―――そういったわたるの唇は微かに嗤った。
「今は和平を助けるのが先だろう。狼煙塚が飼っていた蜘蛛なら、この糸の切り方くらい解んだろ?」
「わかってりゃ短刀を突き刺すようなアホはしないよ」
「あぁ、まあな」
繭の向こうでは、同じように束縛の解けたゴテと野グソが険しい表情で立っていた。
着流しの襟から片手を出し、野グソが目を細めて顎を撫でる。
「狼煙塚の頭……わたるさんだったかな? なぜ俺達に言霊をかけない。予想外の展開だったが、お前達の首を取るのに不都合が起きた訳じゃないんだぜ」
わたるは低い声で問うたゴテをすっと流し見て、くだらない、というように指先で二人を払う。
「お前達がしようとしていることを、止める気などないさ。ただし、イリスは返して貰う。追っ手なら既に放ってある」
腕なら互角だと思うがねぇ、とわたるは含みのある言葉を吐き捨て、繭の全体を見るように数歩静かに後退った。
「舐められたもんだねぇ」
野グソが顎を擦りながら口の片端をにやりと吊り上げる。
「うるせぇ。和平を助ける邪魔をしたら、殺すぞ」
先を続けようとした野グソの言葉を、ヤタカの低く抑えた怒声が断ち切った。
「カッ」
茂みの向こうで、目を覚まし立ち上がった黒装束が、天を仰いで喉を鳴らした。首のど真ん中に突き刺さる黒い棒が引き抜かれると、血を吹き出して崩れ落ちる。
しゅるしゅると縄を引くような音が、倒れた黒装束の背後に広がる森から近付いていた。
「誰だ!」
咄嗟のことに、ヤタカはわたるの手をぐいと引いて自分の後ろへ放り投げる。
しゅる しゅる
丈の長い草を割って現れた男は笠を目深に被り、目を見開くわたるには一瞥をくれることなく悠然と歩いてきた。
「やぁ、何やら騒がしいな」
友を呼び止めるように上げられた手首で、ずり下がった袖の縁から二本の赤い痣が覗く。
――円大
「狼煙塚の放った追っ手なら、わたしが始末したよ。この手でね」
ヤタカの背後でわたるが舌を打つ。
盆の境に辿り着いたわけではない。何事も無ければ水の玉も紅も先へ進もうとしていた。
――なぜここに 奴がいる?
「そんなに険しい表情は似合わないよ、ヤタカ。久しぶりに対面したのだから、もうちょっとは懐かしんでくれてもいいだろう?」
笠の前を指先で持ち上げ、円大が目元だけでにやりとした。
それには答えず、ヤタカは状況を打開するために頭を廻らせた。繭を挟んでゴテ達と向かい合っている。その間に少し距離を置いて立つ円大。
――和平が囚われている以上、逃げの手を考えても駄目だ。
和平を置いて逃げる気など毛頭無かった。これから会うはずの円大に出会って逃げるなど妙な話しだが、事を進めるには準備がいる、心と体の構えが必要だ。それなしに挑むほど、ヤタカは円大を侮ってはいなかった。
「それにしても見事だな。捕食の為につくられた器としては、この世の何よりも美しい」
ヤタカの背後でじゃり、音が響く。円大の挑発を耳にした、わたるの怒りが拳に土を握る音だった。
「なぜ……慈庭を殺した」
訊かずにはいられなかった。
「慈庭? あぁ、あいつは……とっくに俺の正体に気づいていたからな」
くくくっと円大が口の中で笑う。
――慈庭が知っていた? ならなぜ放っておいた?
知っていて手を出せなかったのか、あるいは息の根を止める策があったのか。策を講じてそれが失策と終わったのではにかとヤタカは思った。
あの慈庭を出し抜いたなら……
――正面から向かって俺に勝ちはない
ヤタカはびくびくと痙攣する眉を押さえるため、無理矢理に大きく息を吸い込んだ。
「仲間を裏切り一族を根絶やしにして、円大。それでおまえに何が残る」
ヤタカの問いに、愚問だ、と円大は口の片端をねちゃりと引き上げる。
「仲間など最初から居はしない。探るために取り入るのと、盲信は違う。友であれば相手の行為に恩を感じることもあろうが、道具が何をしようがありがたみなどあるものか。道具とは、持ち主の役に立つために在るものではないのか?」
かくりと首を傾げた円大に、ヤタカは目の縁を振るわせた。
狂っている、いや狂った己が招き寄せた幻想の中に生きている。そうとしか思えなかった。
「寺という同じ場所に居ながら、得たモノはずいぶんと違うようだ。円大はあの場に居ながら、本質が皆と共にあることはなかったのだろう? 幻想の薄紙一枚隔てた場で、己への狂信に酔いしれていただけのことだろうに」
俺は違う
ヤタカの声が低さを増す。
「寺の意義は解っている。だが、俺はあの寺に人を見た。人の心を見た。歪みも独りよがりも含めた心だ。その心が、俺を今も生かしている。たとえばそう、慈庭の肉体は朽ちても、あの心は俺の中で息をしている」
くだらぬな。
円大が声を上げた笑う。寺での記憶に残る、明るい笑いなど影もない、引き攣れたような歪な響きだった。
「懐かしむなら教えてやろう。俺はおまえが好きだった。だから可愛がりもした。記憶を辿ってみろ。俺は」
優しかっただろう?
饅頭を岩牢に持ってきてくれた円大。慈庭から逃げ回るヤタカを、悪戯な笑みを浮かべながら匿ってくれた円大。寺での円大を思い出すと、笑顔しか浮かばなかった。兄のように優しく頭を撫でた、マメの出来た手の温かさしか思い出せない。
「紛い物の愛情だ」
「いや違うぞ? 本当に大切にしていたのだよ。何の障壁にもならない小物を敵視する必要がどこにある? 用心する必要がどこにある? 大いなる野望を妨げない人間なら、そいつが良い奴なら大切にしなければバチが当たる」
くくくっと円大は喉を鳴らす。
「だっておまえは、俺の大切なモノを預かる器なのだからね」
円大の言葉に強がりも嘘もないのだろう。円大に警戒の念さえ抱かせることさえ出来なかった己の無能に、ヤタカは唇を真一文字に引き絞った。
水の器を必要なそのときまで安全に保管する箱に過ぎないといわれても、言い返す言葉がない。円大が予想したように、警戒する必要さえない能なしだったと自覚せざるえなかった。
――だからイリスを失った
それにね、と円大は続ける。
「ヤタカがこんな大事に関わる人間でなければと、本当に何度も思ったのだよ? 悪がきのせくにヤケに素直で、おまえは優しい子だった。人としてのおまえは、本当に愛しかったよ。だが、水の器を宿していたからね。その時点で、俺にとっておまえは人ではなくなった」
円大は口元だけで微笑みながら、胸の前で両手の平をするりと動かし、壺の形をなぞって見せた。
手首を隠す袖口から、細い蔦の先が幾本もちょろちょろと顔を覗かせる。
「そんなくだらない話しより、境の盆で会うはずではなかったのか? 俺の道案内人は、まだ境の盆に着いたとはいっていなかった。だったらここは境の盆じゃない。奇襲をかけようという腹づもりなら、失敗というところか? どっちにしろ登場の仕方が粋じゃない」
「奇襲などかけはしないよ」
笑顔で答える円大へ、次ぎに投げるべき言葉を拾っては捨てる。円大が奇襲をかけるつもりなどないことは百も承知だ。正面切って勝てないなら、出来るだけ隙をつくりたかった。気を緩める為の愚鈍な問いでもいい、円大の神経に根元から熱を与えるような挑発でも良い。どちらが利を生むか、ヤタカは必死で頭を廻らせた。
――毒草の耐性ばっか鍛えやがって、少しは脳みそも鍛えてくれりゃ良かったのに。完全に子育ての仕方を間違ってるぜ、慈庭のクソ親父。
心の中で愚痴りながら、ゆっくりとすり足で体を横にずらしていく。動き始めは無意識だった。気づけば、わたるを背に庇うように立っている自分がいた。
「お人好しも、度が過ぎるとただの馬鹿だよ」
背後で吐くように呟いたわたるの声に、ヤタカは自嘲する。
「おまえさんを庇うわけじゃない。あとで和平に恨まれるのが嫌なだけだよ」
地についた銀糸の繭は、巣という支えを失っても傾ぐことなくそこにある。
あの中で和平は外の会話を耳にしているだろうか。聞こえているなら、どんな行く末を望んでいるのかと、ヤタカは胸の中で問いかけずにはいられなかった。
「ところでヤタカ、風の噂だが……この毒を二度も身に受けたそうだな?」
ちょろちょろと覗く蔦の先に目をやりながら円大がいう。
「痛い目にあったが、こうやって無事に生きてるぜ。おまえも知っているだろう? 俺は毒への耐性が人とは違う」
「普通の毒草なら……な」
含みのある笑いが、ヤタカの傷を疼かせた。
「二度受けた毒、もしも三度目に受けたなら、いったい人はどうなるのだろうね」
まるで小鳥をあやすように、ちょろちょろと蠢く蔦に口づけながら円大は目元だけでニヤリと笑った。
「心配するな。こうも距離が離れているなら、槍を飛ばされても俺は避けられる。三度目はない」
ヤタカの不適な笑みに、ほう、と円大が目を細めた。
受けて立つと言わんばかりに胸を張り、ゆったりと腰の後ろに回した手を払い、ヤタカはわたるに逃げろと伝える。
慈庭の体からずぼりと先を見せていた蔦の先が、まざまざと蘇る。
本気を出した円大が、どのように蔦を操るのかなど想像もつかなかった。避けられるなど、これっぽっちも思ってはいない。
ズドン
大地が揺れてヤタカ達を突きあげた。
ズドン
一度目より強い衝撃に思わず腰を落とし辺りを見渡したヤタカは、円大に視線を戻した瞬間、片足を軸に身を捻り、曲げていた膝と後方に振り上げた足の反動で宙に身を浮かせた。回転の先をいく視線が、片膝をついて大きな目を見開くわたるを捕らえる。
「わたる! 飛び退け!」
回転の反動を緩めることなく、わたるの体が後方に飛ぶように弾き飛ばした。
先までヤタカが立っていた場所に、三本の蔦が飛び出した。
「くそ!」
着地した反動を使ってわたるが居た場所から逃れようと、ヤタカは背を反らして大地を蹴った。
「遅い……」
円大の声が耳に届くのと、太股に熱した鉄くいを打たれたような衝撃に襲われたのは同時。
「くっ!」
咄嗟に顎を引いたヤタカは、太股から突き出た太い蔦を見て取ると頭に腕を回し引き戻される衝撃に備えた。
「くそ! がぁあぁぁ!」
地中から突き出た蔦は、ヤタカの動きを止めるに留まらず、更に傷口を広げようとするようにザッと上に伸びた。
びちゃり
大地をヤタカの血が濡らす。水の器が激しく藻掻いていた。
――命も危ないということか
水の器の尋常では無い反応に、蔦に受けた傷は致命傷なのだと確信した。
蔦が一気に引き抜かれ、吹き出した血と共にヤタカはどさりと地に落ちた。
わたるが帯のヒモを解いて傷口を止血する。
両手をぶらりと下げた円大の手首に、大地に潜ってヤタカを襲った蔦が戻っていく。
シュルリシュルリと音を立て、幾本もの蔦が絡まってはぶわりと隙間を広げる。
まるで意思を持った生き物をみているようだった。
「わたる、すぐにここを離れろ。奴の蔦が届かない所まで走るんだ」
「逃げたいところだが、医術者の性なのさ」
怪我人を放って逃げられない、わたるは眉根を寄せて憎々しげにそういった。
「俺の手当は止血で十分だ。繭が割れない以上、蜘蛛からも守れないが円大に襲われることもない。だから、今は逃げろ」
「あんたはどうするのさ」
「さあどうするかな。おまえは……イリスを取り戻せ」
怪訝な顔をするわたるに、ヤタカはふんと鼻をならす。
「円大の手に落ちるくらいなら、あんたの方が取り返しやすいんでね」
「嘘ばっかりいって。いつ気づいたんだい? あたしがイリスを攫った目的に」
「この場におまえが囚われて姿を見せた時に疑問に思った。ゴテ達の手に落ちた草クビリなら、本来ここへ連れてきたかったのはイリスだろう。だが、やっと捕まえられたのは火隠寺の頭だった。イリスが捕まらなかったのは、おまえが逃がしたからではないかとな。あの時点では確信などなかった。淡い期待ってやつだ」
「まったく余計なことには頭が回る男だね。その話は後でいい。イリスが円大の手に落ちるのも時間の問題だよ。ここを抜け出さない限り、誰一人生きてはいられない」
「あぁ」
火隠寺の者達はわたるの行動の真意を知っているのか―――そう聞きかけてヤタカは口を噤んだ。
聞いたところでどうしてやることもできはしない。一族を率いると決めた者が自らの行動に、取るべき言動を用意していないことはないだろう。
「話し合いは済んだかな?」
円大が欠伸をして、目尻に浮いた涙を指先で拭った。
「そして、効いてきたんじゃないのか? 三度目の毒が」
白い歯を見せ円大がにかりと笑う。
「効かねぇな。いっただろう? 毒には強いんでね」
ヤタカも白い歯を見せゆったりと微笑んだ。
怒ったように、作務衣の生地を鷲づかみにしたわたるに向き直り、心配するなと片目を瞑ってみせる。
全身が熱かった。二度受けた毒と同じとは思えない、まったく違う影響が全身に及んだことに、ヤタカは内心驚いていた。
首筋が熱い。吐く息にさえ熱を感じた。
――このままじゃまずい
二度目に毒を受けたのは偶然だと思っていたが、円大が自らの毒が及ぼす三度目の影響を知っていたとするなら、あのときトゲに触れたことさえ――
奴の計算の内だったとでもいうのか
熱い息を吐きながら、ヤタカは舌を打つ。水の器は水気の性質であるせいか、ヤタカの体が高熱を出すことを昔から嫌がった。毒草に触れて熱にうなされたときも、水の器は出口を求めてヤタカの中で震えていた。
「どうした? 辛いか?」
かかかっと咳き込むように声を上げて笑う円大を睨みながら、ヤタカは表情を歪めることなくまっすぐと見据えながらニヤリと笑う。
「慈庭のクソ爺にやらされた、山歩きより辛い肉体の試練なんてねぇよ。本当にあのオヤジはクソだ。たぶん禿げツル頭の皮の下には角を隠し、尖った爪を袈裟で隠してた鬼さ」
「その鬼に俺は勝った。鬼など所詮は外道よ」
ヤタカの眼差しが無意識にすっと据わる。
「一皮剥いだら鬼の面。その下には更に、何かがあったらどうする?」
「何があったか興味はあるが、死人に残るのは骨だけだ」
「そうだな」
熱をもってぼやける眼球が血走るほど力を込め、ヤタカは怯むことなく円大を視線で射る。
「ヤタカは境の盆というものを勘違いしている。どこであれ、境の盆になりうるのだよ。
境の盆とは、時の成り行きを動かす者が集う場のこと。最終的に集うと言われる場を、古から境の盆と称してきた。おまえは寺で何をならったのやら……いや、教えた者が愚かだったのだろうな、おまえに罪はないよヤタカ」
だとしたらまるで、今ここでと円大が選りすぐった場と時が境の盆になり得たということになる。
――最悪だ
ヤタカはふらつき始めた足で何とか立ちながら、答えの見えない打開策を模索した。
「さて、決着をつけようか」
円大がすっと手を前に伸ばした。
「俺を殺しても、水の手に入らないぞ。水気を含まない大地など無い。水気を含まぬ大気もない。水の器は、人の手の届かないところへ身を隠すだろう。二度と人の手の届かない場所へ」
これは真実でもあり嘘でもあった。
水の器を滞りなく体外に出すには、体を覆う程の水が必要だった。少なくとも、水の器が自由に動き回れる状態で放出するとなれば、大量の水場あるいは大雨が必須。
例外として水の器がイリスの種を受け入れる時、それが条件とは聞いていない。そのときにどうなるかなど、正直ヤタカにも解らなかった。
「体外に出てくれればかまわないよ? よく考えてごらん、血液だって水の気だろうに」
円大は不思議そうに首を傾げた。
そして水平に伸ばされた腕から伸びた蔦が、ヤタカの腕の肉を切り裂いたのは一瞬の出来事だった。
「くそ!」
太股に比べれば浅い傷だった。だが自由に逃げ回れない以上、攻撃は避けられない。この程度の傷でも、数が嵩めば流れる血は無視できないものになるだろう。
血が枯れたなら、水の器はヤタカから出ざるえない。
――みすみす円大に取られるくらいなら……
ヤタカは膝を折り短刀で手の平にさっと傷を付けると、手をどんと大地に押し当てた。
――水の器を大地に逃がす
逃げ切れる確率は少なくい。それでもこのまま流血して、外に出るためにヤタカの死骸を這って水の器が逃げ出すよりはリスクが低い。
――血の流れに乗って大地に逃げろ! そしてイリスの元へ!
ヤタカの思いに反応した水の器が、手の方へ血流を辿って動き始めるのが感じられた。
「それは良い策だ。恐れ入ったよ。自分の命を省みないとは」
さも感心したように円大が目を細める。次の瞬間、細めた眼に鋭く無慈悲な光が走った。
「これでも、のんびり水の器を逃がしていられるかな?」
ばっと前方に伸ばされた円大の手首から蔦が走る。
穿たれる、とヤタカは思った。
だが次の瞬間、既に捨てたも同然の自分の命など円大は狙ってないいないと思い知る。
「和平!」
ヤタカとわたるの絶叫が重なった。
白銀の繭が、下からゆっくりと色を変えていく。
赤い血を吸い上げ、徐々に染まっていく。
沈んだ夕日が逆行したように、血の赤が昇る。
円大の蔦は、刃さえ通さなかった繭を易々と突き破っていた。
「どうするヤタカ。俺を早く倒さないと中にいる子が……死ぬよ」
押しつけられていたヤタカの手が、大地からざっと離れた。
般若の形相で仁王立ちになったヤタカを嘲笑うように、細い蔦の先が白銀の繭を貫通して先を出し、細い蛇の舌のように蠢いた。
舌の先からは得物から舐め取った血が、たらりと滴り土の染みとなり消えて行った。
間があいてすみませんでした。
雪が降って、やっと落ち着いた長期アレルギー鼻炎……
読んでくださったみなさん、ありがとうです。