を踏まれる痛みにヤタカは目を覚ました。
「ゲン太か」
軋む上半身を起こすと、ゲン太がそわそわと不安そうに木肌に文字を浮かばせる。
――うなされてた
「そうか」
腕を指先でなぞられる感覚に慌てて袖を捲ると、水の玉が残した光を放つ濡れた筋の上を紅が泳いでいた。
「なんだ、これは」
不規則に腕に絡む光の筋は、無数に刺さったトゲの上を通っている。
意識を後追いして目覚めだした感覚が、刺さったトゲの違和感に気づいたように嫌な痛みを腕にもたらした。
――さきよみ
ゲン太の木肌に文字が湧く。
「このトゲ、異種なのか?」
鼻緒を上下させて頷くゲン太に、ヤタカは思わず顔を顰める。さきよみ……夢の内容から導かれる意味は不穏で、ヤタカはぶるりと身を震わせた。
先読み―――想像が外れていなければ、この異種のトゲはヤタカにこれから起こりうる未来を見せたことになる。
――なにを みた
不安げに鼻緒を寄せるゲン太に、ヤタカは片眉を上げて笑って見せる。
「俺がちょっかい出しすぎたんだろよ。ゲン太とシュイと和平に迫られて、ゲテモノを喰わされる夢をみた」
――ほんと?
「あぁ、最悪だ」
もう用は済んだとばかりに、紅がゲン太の木肌へ戻っていく。
背を向けたまま、柔らかく揺れる尾がぴしゃりと薄い水面を打った。
「あぁ……」
腕に絡んでいた光の筋が一気に盛り上がった。指の太さほどに盛り上がった光の川は、腕の皮を巻き込んで上へ上へと膨れていく。
楊子の先を折って刺したような黒いトゲが光の川に引き抜かれ、ふわりと浮かんでいる。最後の一本が抜けたときには、皮が剥ぎ取られそうな強い力にヤタカが眉を顰める程だった。
「消えた」
漂い浮かんでいた黒いトゲが、水の中でぼこぼこと黒い泡を吐き出し、最後に小さな黒い気泡を吹いて姿を消した。
無数のトゲが一斉に水に溶けた。
――ほんたい にげた
トゲを放った異種は逃げたということか。
――けいこく だって
木肌を泳ぐ紅に意識を向けているのだろう。聞き伝える言葉はたどたどしく、ゲン太自身も理解できてはいないようだった。
「まぁ、あれか。だらだらしてイリスの救出が遅れると、お前達に酷い目にあわされるってことだろ? 親切なこった」
――そうかな
納得いかない様子のゲン太をひょいと摘んで放り投げ、無理矢理黙らせる。
「あっ、忘れてた。シュイに持たされたんだ。これを浴びて気合い入れろだってさ」
荷から小さな竹筒を取りだし、ゲン太を手招きする。木肌を泳ぐ紅が気づいて水の玉に逃げようとしたが、ヤタカの手が早かった。
とくとく とく
ゲン太の木肌に酒が注がれる。
大地に流れることなく木肌に染みこんだ酒は、ゲン太を酔わすに十分な量だった。
「俺はもう寝るよ。遊ぶなら、静かにな」
――あい あい
千鳥足の下駄が、よたよたと横に歩く。
その木肌で腹を上にして、だらりだらりと泳ぐ紅。
酔っ払いの仲良しが、じゃれ合い遊ぶ。
ゲン太が遠くへ行かないように、水の玉が仲良しを囲んで光の筋を描いている。
「お休み」
先読みが刺さっていないなら悪い夢など見ないだろう。
わかっていても、鮮やかな幻が瞼に浮かぶ。
異種などなくとも、人は悪い夢を見る。
眠る事を躊躇したヤタカは、懐から丸い石を取りだし磨き始めた。
少しづつ磨き続けてきた石は、まだ灰色の表面が透けることなく固い手触りが冷たかった。それでもぶつぶつとした灰色の石肌は、荒いヤスリに磨かれ続けてつるりと滑らかになっている。
――もう少し細やかな目のヤスリに変えても良いだろう。
ヤタカは小道具を包んだ布から新しいヤスリを取りだし、力を弱めて細かく手を動かした。
しゃり、しゃり
「男のロマンを馬鹿にしやがって」
しゃり しゃり
「この中にはぜってぇ、不思議な水が入ってんだ」
石を磨くたびにからかってきたイリスはいない。
ビー玉みたいに小さくなっても水を抱いた透明な玉にならなければ、イリスは鬼の首を取ったように馬鹿にするだろう。
万が一にも透明な石に磨き上がったなら、馬鹿にしたことなど忘れて一緒に喜んでくれるだろうと思う。
どっちでもよかった。
ただ一緒にいて、イリスの豊かな表情を見ていたかった。
――イリス、死ぬなよ
ひとしきり磨いた石を懐に戻し、ヤタカは耐えきれないほど重くなった瞼を閉じた。
ヤタカの体温を吸い取ったように、懐に入れた石が温かい。
木肌に紅を泳がせ、ゲン太がからりころりとはしゃいでいる。
酒の力でも借りなければ、今のゲン太は沈んだままだったろう。シュイの気遣いがありがたかった。
――イリス
夢の入口にイリスがいた。
いつもと変わらぬ笑顔を浮かべている。
ほっとしたヤタカが一歩踏み出すと、イリスの足が一歩下がった。
イリスの細い指がゆらゆら揺れる。
手を振り笑顔のまま背を向けて、イリスが遠ざかる。
足が根付いたように動かなかった。
――夢だ
自分に言い聞かせて、ヤタカは夢の中で固く目を閉じた。
翌朝は分厚い雲が空一面を覆う曇天だった。
どういう体の構造になっているやら、酔っ払いのチビ助達の朝は早い。
一晩中途切れ途切れの夢を浅く渡り続けたヤタカが、顔を顰めて強ばった体を起こしたときには、朝露に濡れた葉の表面を泳ぐ紅の後を、ゲン太が元気に追いかけていた。
「紅、期日までに辿り着けるのか?」
ヤタカの問いに紅はぴたりと泳ぎを止め、愚問といわんばかりにびしゃりと派手に尾を打ちつけた。
――だいじょうぶ だって
「そうか」
――でも
「なんだよ?」
――さわがしい
「騒がしい? 山がか?」
ふるふると鼻緒をふって、ゲン太がとことこと近付いてきた。
――くうき しけっている
膝に前歯を賭けるゲン太を軽く指先で押して、ヤタカはほっと安堵の息を吐く。
「山の朝は湿って当たり前だろうに。朝露どころか、夜明け間際は朝靄で辺りが見えない。気にし過ぎだよ。せっかく酒で緩んだ緊張なんだから、もっと気持を大きく持てよな」
昨夜の様子を見ていても、ずっと一緒に過ごしてきたヤタカには、ゲン太の気持が手に取るように伝わって痛いほどだった。
ゲン太も紅も楽しく遊んでいるわけではない。楽しそうにしているだけだ。
自分を奮い立たせるために、まだ行ける、まだ元気だと装っているだけ。
そんなぎりぎりの精神状態だからこそ、周りの状況にも過敏になっているのだろうと思った。
水の筋を残しながら少しも大きさを変えることなく、水の玉が山を越えていく。
紅は決して認めないだろうが、おそくら昨夜の酒が残っているのだろう。悠然と左右に揺れるはずの尾は時々動きを止め、かと思うとイルカが泳ぐように尾を上下に揺らし、ふらふらと葉の上を泳いでいた。
「ゲン太、もしかして紅は酒を飲むの、はじめてだったのかな」
酒の中を泳いだことを、飲むと表現して良いのか微妙だが、他に喩えようもない。
――たぶん
墨の文字を浮かばせたゲン太は内緒話をするように、つつつっとヤタカの足元に寄ってきた。
――べに さけぐせわるい
「楽しそうに遊んでたじゃないか」
――やたか ねたあと
「ん?」
――おおさわぎ
世話が焼けるというように鼻緒をねじ曲げてふんぞり返るゲン太だったが、木肌に浮かぶ文字は楽しげだ。
「そっか。当分は飲ませないでおこうな」
――うん
全てが終わって、みんなで酒を交わせたらと思う。楽しそうな光景が目に浮かぶ。もう何の不安もない。全てを遣り切った安堵と未来への希望。紅を木肌に宿らせゲン太が腹踊りをしている。シュイと和平が笑っている。口いっぱいに肉を頬ばったイリスが、喉を詰まらせ目を白黒させている。
街道の小屋に笑いが溢れ、異種に怯えなくなった遠くの村から久々に催される祭りの囃子が響く。
だが……。
どんなに願っても、夢だけでもと想像の羽根を伸ばしても、そこに自分の姿はない。
思い浮かべる事ができなかった。
――くだらない。目の前に集中しないと。
ひとつ頭を振ってヤタカは歩き出す。
ゲン太のいうとおり、空気がヤケに湿り気を帯びている。空を覆う雲は、時間を追う事に濃い灰色となり、重みで今にも天から落ちてきそうだった。
――それにしても、妙だな。
朝露に覆われた後、日の光を浴びていないというのに山の土が乾き過ぎている。
葉陰でほどよい湿り気を帯びている筈の土は、灰を混ぜたように色を変え乾き切っていることを示していた。
ゲン太のいう騒がしさを、ヤタカは感じ取れない。だが踏みしめる土が砂のようにさらさらと進む足を取り始めたとき、違和感は確信に変わった。
「なあゲン太。あの水の玉は紅の泳ぐ道を作りつづけても、容量を変えないんだよな」
――うん あのまま
ひょいと鼻緒を摘み上げ、ゲン太を胸の前にぶら下げた。
「水の玉が朝より小さく見えるのは、俺の気のせいか?」
葉の上から倒木の幹へ実を移した水の玉は、朝より二回りほど小さくなっていた。
――おかしい
「俺も今気づいた。おまえも上から見下ろせば良くわかるはずだ。水の玉が小さくなって、後につくられる水の筋が細くなってきている。このまま転がって先へ進むほど小さくなるなら、紅はそのうち水の筋を泳げなくなる。なにしろ、自分の身の幅より細い筋になるだろうからな」
目の前を行く紅をじっと見ていたゲン太が、びくりと体を震わせた。
「一滴の水もなくなったら、紅はどうなる?」
鼻緒をつままれたままのゲン太が、震えに木肌をかちかちと鳴らす。
――べに しぬ
「今すぐ水の玉を止めるんだ。紅に伝えろ」
指を離すと、ゲン太は鉄砲玉のように紅の元へ駆けていった。
無言の会話の後、紅はぴたりと進みを止めた。それに合わせて止まった水の玉がゆらゆらと揺れる。
「紅、水の玉に入っていた方がいい。これ以上進めなくても、お前がいなくなる方が困る。ゲン太に方角を教えるとか、方法はあるだろう?」
紅が大人しく水の玉にぽちゃりと入り込む。
ほっとしたように鼻緒を上下させたゲン太が、蹴られたように跳ね上がった。
「どうした?」
ふらふらと振り返ったゲン太が、苦悩の色濃い墨の文字を木肌に浮かばせる。
――もう ておくれ
「なんだって?」
――べに いってる
小さくなった水の玉は、紅を宿すぎりぎりの大きさだった。手遅れという言葉とは裏腹にゆったりと揺れる柔らかな尾の先は、水の外壁を掃く箒のように半分ほど折れ曲がっている。肩の荷を下ろし乱暴に中の物を引っ張り出したヤタカは、水の入った竹筒を取りだし水の玉に身を預ける紅に駆け寄り膝をつく。
「紅、その水玉の不思議な力はもう消えた。道案内はもういい。自力で必ず辿り着いてみせるから。早くこの竹筒の水に入ってくれ。蓋をして持ち運んでやる。どこかに湧き水くらいあるさ。そしたら新鮮な水を……」
飛び上がったゲン太が、ヤタカの膝を当て身を喰らわせた。
――むり
「どうしてだよ! 竹筒の水を紅にかけたって普通の水はすぐ土に浸みちまう」
ぴしゃり
水の玉は更に身を縮め、中に居られなくなった紅が水の表面に無理矢理身を張り付けている。
――べには
ゲン太が次々と木肌に文字を浮かばせる。
焦りと悲しみに泣いているのだろう。文字は滲んで揺れていた。
ゲン太の途切れ途切れの言葉を繋げると、その内容は絶望的なものだった。
紅はたとえゲン太を通じても、言葉で境の谷がある場所を伝えることはできない。行く先は進むたび僅か先の道が見えるだけで、ここに留まってもわかる訳ではないという。本能のようなものなのだと。
竹筒の水に宿ることはできないのは、そもそも竹筒の水は蓋を開けた途端なくなるからだという。
「そんな馬鹿な。竹筒の水が飲みもしないのに減るものか!」
そういって紅に向かって突きだした竹筒の重みに、ヤタカははっとした。
荷から出したときより軽くなっている。
いっぱいに詰め込んだ水が、中に広く空間が空いている事を示すように、揺らすとちゃぽりちゃぽりと音を立てた。
――せん ぬくと
――みず すぐきえる
すぐにでも紅を入れようと栓を握った指を、ヤタカは慌てて離した。
――常識で考えるな。違和感はあっただろう。
朝露で湿っていた山は、カラカラに乾いている。黒々としている筈の山肌は、たん、と足を着くだけで砂埃が舞い上がる。ヤタカの体に乾きはない。山の木々も葉の潤いを失ってはいない。だが、これだけの乾きが土の深部にまで進んだなら、内包する水分を使い果たして木々は枯れるだろう。川や泉も枯れる。いや、水筒の水が失われた事を考えると、野ざらしの川や泉が元の形で水を湛えているとは思えなかった。
更に厚みを増した鈍色の雲は、低い小山から手が届きそうにどんよりと天から垂れ下がっていた。
「まるで地上の水を全て吸い上げたような、嫌な鈍色だ。ゲン太、雨! この雲行きなら雨が降る可能性があるだろ?」
――あめ ふらない
あぁ、とヤタカは力なく返事を返した。雨が降るならヤタカにはすぐ解る。体がそうできているのだから。こんなに空気が湿り気を帯び、空は泣き出しそうな雲に覆われているというのに、水の器を宿すヤタカの体は雨を感じていなかった。
「日照りが続いた後のような乾きだ。自然が引き起こす現象じゃない。ゲン太、紅は何かいっていないか?」
――むりやり
――したがわされてる
「誰がだ」
わからない、とゲン太は鼻緒をしょげさせた。
「あれは何だ?」
ヤタカは空一面に広がる雲を指差した。一見なんの変哲もないが、ちらちらと黒く光る筋が無数に雲の隙間を縫っている。絡めて押さえ込むように、鞭でいうことを訊かせるように。
「紅!」
ビー玉ほどしかなくなった水の玉に身をすり寄せ、乾いた土の上で苦しげにエラを動かす紅の尾は、土にまみれてべたりと力なく垂れている。
目の前で見る間に体積を減らしていく水の玉は、息を吸う間もなく乾いた大地のシミとなり、その黒いシミも時間を早送りしたように消えて行った。
竹筒の蓋を開け、僅かに残った水を一気に紅にふりかけた。
一度大きく呼吸したように紅の腹が膨らんだのも束の間、焼け石に垂らした水滴のように影もなく蒸発してしまった。
――べに べに
水気がなければ紅はゲン太に宿れない。為す術なくゲン太が鼻緒を大きく上下させる。
「空気の湿り気が消えて行く」
じっとりとした湿気が急速に失われていくのを、ヤタカは肌を撫でた乾いた風に感じた。
「全てあの雲に吸い上げられたんだ。土が含む水も、竹筒の水も」
水気の主が造りだす水の玉が消えたなら、自然界に存在する川や泉など、この辺り一帯からとっくに姿を消しているだろう。
――べに くるしい
「くそ、どうすりゃいい!」
紅のエラの動きが浅く遅くなっていく。こんな事態だというのに、水の器はぴくりとも動きをみせない。
「あの黒い筋、あいつを断ち切れたら雨が降る。吸い上げられた水は大地に戻る」
異物憑きの感だった。根拠など何処にもない。
あれが異種なのか異物なのかヤタカには判断できなかった。少なくとも寺に所蔵されていた物ではない。記録にも残ってはいなかったのだから。
――ほうほう ある?
「考えている。考えろ、考えるんだ」
自分に言い聞かせるように言い、震える唇を一文字に結んだヤタカは、拳で胸をどんと叩く。
どん
「誰でもいい、手を貸してくれ」
どん
「紅を助けろ」
どん
「このままじゃ、山が死ぬ! 生命の源が断たれたんだぞ!」
思い切り振り上げた拳がびくりと止められた。
「熱い!」
乱暴に胸元に突っ込まれた手が握って放り出したのは、石。ヤタカが戯れに磨き続けてきた灰色の石が、ころりと転がって紅の横でぴたりと止まる。
ヤタカの手で荒削りながらも滑らかになった表面が、小さな穴を無数に開けたように内側からちらちらと輝きを放つ。
心奪われる輝きだった。
夏の太陽にきらきらと輝く湖面を、生い茂った葉の隙間から見ている錯覚に陥って、ヤタカははっとして額を押さえた。
「熱をもっていない……」
慎重に触れた指先に感じたのは、きりきりと冷え切った冬の泉に似た冷たさ。ずっと懐に入れていたヤタカの体温さえ僅かにも残っていない。紅の側から離れなかったゲン太が、ゆっくりと後退る。困惑を表すかのように、木肌に薄墨が意味を成さずに漂っている。
「ゲン太、離れろ……来い!」
ヤタカの怒声に弾かれて、ゲン太が胸に飛び込んだ。身を翻して木の陰に飛び込んだヤタカの耳に、どすん、と地鳴りを伴った雷鳴が響く。
ゲン太を胸に抱き目の端だけを幹から出したヤタカは、予想を越えた光景に驚悸した。 厚い雲に遮られ、影に覆われた山々を幾筋もの閃光が走る。
乾いた空気中の全てを集めて放電したように、折れ曲がる閃光が無数に地を這う。
草木に覆われた地表を走る閃光は強い光を放ち、視界を遮断するもの全てを物ともせず存在を解き放っていた。
「石に集まっている」
遠くを起点に駆け抜ける閃光は、どこから始まろうと全ての終点は石だった。ヤタカが戯れに磨き続けた石が、稲妻に打たれたように身を震わせる。閃光を一筋浴びるたびに、ぽろぽろと石の表面が剥がれ落ちて、石は姿を露わにしていった。
灰色の皮を脱ぎ捨てた石は、気泡を含まない透明で大き過ぎるビー玉のようで、見る者を虜にする美しさだった。透明になった石は集めた閃光で光を放つ。石に押し込められた金色の閃光は外へ出る時を覗うように石の中を縦横無尽に飛び回り、幻想的な小宇宙をつくりだしていた。
水の器がカタリ、と身じろいだ。
「ゲン太、ここから離れるぞ」
――べに べに
暴れるゲン太を両手で強く押さえ込み、ヤタカは石から目を離さずに後ず去る。
大地を這う稲妻は、紅とヤタカの足元を避けて石へと集まっていく。
広い山の中、まるでヤタカと紅の存在を認知しているように奇怪な動きだった。
大地を駆ける稲光が消え、突きあげる振動が止まった。天の雲はさっきよりずっと下まで重く垂れ下がっている。
ヤタカが僅かに力を弱めた隙を突いて、ゲン太が手を振りほどいて地面に降りた。
「まて、ゲン太!」
追いかけて手を伸ばしたヤタカの体は、不意の爆風に吹き飛ばされた。
胸を蹴られたようにくの字になって飛んだヤタカの腹に、更に前方で飛ばされたゲン太がぶつかった。
「なんだ……あれは」
紅を助けに行こうとしたゲン太も、我を忘れて見入っている。
立ち上がる事さえせず、ヤタカも目を見開いた。
人という種族が立ち入れない領域が目の前にあった。
人が手を出してはならない世界、いや介入する余地などない偉観。
――べに べにが
飛び上がって木肌に浮かべた文字を見せるゲン太を押さえつけ、ヤタカは自分の了見を越えた事象に息を呑む。
息も絶え絶えだった紅を、いつのまにか石が包み込んでいた。既に石とは呼べない黄金色の固まりになったそれは自在に姿を変え、横たわる紅の命を繋いでいた。
閃光を集めた黄金色の溜まり水の中、何事も無かったかのように紅が悠然と尾を揺らしている。大木の幹ほどに平らに広がる黄金色が、天に向けて一筋の稲光を放った。
ぴしゃり
尾を打ちつける音が聞こえた気がして、ヤタカは紅の姿を探した。
「紅?」
再び打ち上げられた稲光が小さな紅の体を突きあげた。稲光の消失と共に落下し始める紅の体を次の稲妻が更に上へと持ち上げる。
「紅が大きくなっていく。まるで金色の透かし絵だ」
幾本もの稲妻に上へ上へと運ばれるたび、紅の体は大きく半透明になっていく。
赤い模様はそのままに、体表を黄金色の光が舞う。
太い稲光が宙を及ぶ紅を、暗雲の際にまで押し上げた。
ぴしゃり
巨大な紅の尾が、雲目掛けて打ちつけられた。
「黒い筋が途切れた……雲を縛る何かを、紅が断ち切っているのか?」
鎖が切れていく様を見るようだった。雲を絡める黒い筋が断ち切られていく。風船のようにゆったりと落下する紅の体を間を置かずに次の稲妻が突きあげ、別の場所へと運んでいく。運ばれた先で紅が尾を打ちつけると、絡まった黒い筋がぼろぼろと砕け散った。
紅の体がゆっくりと落ちてくる。
鎖の要が切れたのだろうか。天を覆う雲に絡まる黒い筋が、そちらこちらでばらばらと砕け消えて行く。
「紅? 目を覚ませ! そのまま落ちたらただじゃすまないぞ!」
気を失っているのか、風に尾がなびくままに落下してくる紅。あの巨体を受け止めることなど不可能だ。
元居た場所に戻ると言わんばかりに、目の前に広がる黄金色の水たまりに紅の体が沈み込む。震動の代わりに、顔を背けるほどの風圧に襲われた。
息も吸えない風の中、指の隙間から見る光景にヤタカは手をだらりと下ろした。
落下した紅を完全に包み込むほど巨大な黄金色の水柱が立ち、上へ上へと昇っていく
最後の一滴が吸い上げられたとき、それは宙で弾けて形を成した。
「龍神……」
思わず口から漏れた言葉。あれの正体などわからない。だが、山の緑を宿したような半透明した緑の肢体は巨大な龍そのもので、金糸の長い髭が悠然と宙を裂き昇っていく。
今にも垂れ下がりそうな灰色の雲を突き破って、龍神が一筋の穴を開けた。穴からは厚い雲の上で輝く日が絹衣さながらの、光の帯となって暗い大地に降り注ぐ。
――しばり とけた
ゲン太のも文字が、木肌に浮き上がる。
ふと目を遣った先で、元の大きさに戻った紅が苦しそうにエラを広げて横たわっていた。
「紅!」
助けに行こうとしたヤタカを、ゲン太が身を鳴らして押し留めた。
――いっちゃだめ
「どうしてだよ!」
――はじまるから
ゲン太が前の歯を上げて空を見上げる。舌を打ちながらヤタカもそれに従った。
「どうなっている……」
水の器が嫌そうに身を振るわせた。危険を知らせる震えではないというのに、拗ねた子供のように不機嫌さを露わにしている。
水の器の震えに同調するように雲が蠢く。
各所でゆったりと渦を巻いた雲が、古家を支える柱のように下へ伸びていく。伸びる事に先細りしていく雲の尖端からは、雫が垂れるように千切れた雲ぼたり、ぼたりと落ちては山の各所に散っていく。
「ゲン太、何が起きている」
――はんらん
「雲のか?」
――そくばくが とけた
木肌の文字が渦巻いて、すぐに次の文字が浮かび上がる。
――いしゅの はんらん
――いのちを すてて
「なんだって?」
地表にある全ての水分を溜め込んだ雲が幾本もの柱を下ろしていく様は、見る者に平衡感覚を失わせた。
――いのちが さく
ゲン太に視線を戻した途端ふらついたヤタカは、頬を叩いて再び空を仰ぎ見た。
降りてきた雲の柱の尖端が一斉に渦巻いた。
ネジのようにぐるぐると巻いて、太く平たく縮まった雲の柱。
吹き付けた風は天空から。一瞬顔を背けたヤタカの目の前で、とぐろを巻いた雲が一気に解けて弾け飛ぶ。
「まるで花火だ」
火花咲かせて散っていく花火と違うのは、天から放たれ、地に向かって大輪の花びらを広げ咲き誇るその姿。
薄い花びらを幾重に重ねる雲は真っ白で、重力に逆らうようにゆっくりと広がり落ちる。雲と大地の間で、外側から花びらが散っていく。
ふわりと本体を離れ急速に落下する白い雲の花びらは、大地に着く前に大粒の雨となり山々を濡らしていく。
痛いほどに大きな雨粒に顔を打たれながら手を翳すと、黒く濡れた地面を紅が泳いでくるのが見えた。
いつものように、何事もなかったように、優美に紅の尾が揺れる。
駆け寄るゲン太の尻をほっとして見送りながら、ヤタカは額に翳した手の下で空を眺めた。手の平を、頬を打つ雨粒が痛い。
上空では次々と雲の花が咲き散っていく。空で咲き、大地に落ちる前に花としての生涯を終える雲の花。
ゲン太の文字が胸に蘇る。
命を捨てて……
異種の命を内包した雨が降る。
散った命が、山に命を与える雨となった。
空に咲いた雲の花。
誰に名を知られることなく、信念のために散った雲の花だった。
ちょっと長くなりんした……
読んで下さってありがとうです!