ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

41 / 52
41 鬼の面に子守歌を

宿屋あな籠もりを出た後、横道を早足で進みながらゴザ売りは眉間に深い皺を刻んでいた。

 あのヘタレ野郎にイリスの命を預けているのかと思うと、ヤタカに感じる不甲斐なさやや焦りより、思うように身動きの取れない己への憤りのほうが遙かに勝る。

 

「下駄の坊んずのほうが、よっぽど頼りにならぁ」

 

 自分が今動いて、イリスを助け出すわけにはいかなかった。隠し釘が、その意味を最大限に発揮できるのはおそらく一度きり。意思を掲げて面を晒せば、その後はただの錆び釘でしかなくなる。だからこそ見決めなければならない。

 時を違えて出過ぎれば錆び付く釘も、出損じればただの鉄釘にすぎない。

だからこそ、今は耐えるしかなかった。

 

 立ち止まった足元にけっ、と唾を吐き捨て細めた眼を凝らしたゴザ売りは、土中に蠢く無数の気配に片眉を上げた。

 

「俺の動きが気にいらねぇか……」

 

 伝えたい事の全てを口にするわけにはいかなかった。

 言ってしまえば楽になるであろうことも、今はいう時期ではない。

 そんな相反する思いへの憤りが、周囲への警戒を薄くさせたのは一瞬だというのに、気づけば異種に囲まれていた。

 隠し釘一の能を誇るゴザ売りが、不覚を取るなど有り得ることではなかったが、大動乱の最中に予想より早く実行されたイリスの拉致は、研ぎ澄まされたゴザ売りの勘さえ鈍らせた。

 近道を辿るため、複雑な脇道を幾つも潜っている。この辺りを人が通ることなど、まずめったに有り得ない。

 

「まずいな」

 

 味噌に漬けられた菜が急速に水分を吐き出すように、ゴザ売りの体から力が抜けていく。震えながら耐えた膝がついに折れ、ゴザ売りはがくりと地に這った。

 春先に大地を覆う青々とした若葉の香りが鼻孔をくすぐり、首の根元に痺れが走る。針金が伸びるように上へ登る痺れの筋が、頭の中の一点を突くように刺激した。

 

――セキシュンか

 

 現実と夢の境目で朦朧とする意識の中、ゴザ売りは異種の正体に辿り着く。

 ゴザ売りは反射的に息を止めた。

 過ぎゆく今の春を名残惜しむ〈惜春〉とは意を異にする。セキシュンは、過ぎた時を呼び戻す。忘れられない短い春を呼び戻し、現実と見紛う空間で再体験させ、夢に溺れさせる。

 

――俺が這いずってきた道に、春なんざありゃしねぇ。お門違いだ

 

「馬鹿やろうが……」

 

 細い横道に微細な花粉が立ち籠める。

 土壁の隙間から糸のように花糸を伸ばし、ふるふるとやくを振り花粉を撒く者達が、葉とも花とも見分けがつかない緑色の姿を現した。

 姿を見せたことで更に激しく振られる花糸から舞い上がる花粉が、ゴザ売りの周りを黄砂に似た濁った黄色に染めていく。

 自由を失った意識と引き替えに、ゴザ売りの肺が大きく息を吸い込んだ。

 鍛えられた体内へ忍び込んだ微細な花粉は、乾いたシワを刻むまで生きたゴザ売りの人生に、一度だけ色鮮やかに小花が咲いた春へと誘った。 

 

 

 

 

 

 浅黒く日焼けした肌に赤い鮮血を垂らし、男は山中を駆けていた。

 良心的な貿易に失敗して追っ手に追われていた。良心的な貿易など言葉のあや。手中にある集団の情報をそれぞれに流し、必要な情報を新たに仕入れる。

 今回は予定外の組織がひとつ絡んできたのが失敗の要因だったが、そんな言い訳をしている余裕はない。

 情報を横流しする者の存在は知れた。だから追われている。この上大事なことは……。

 

――この面を拝ませないこと

 

 顔さえ知られなければ、姿形を変えていずれ情報の網に潜り込むことは容易い。

 ただの村人なら百人でも巻いてみせるが、追ってきているのはそんな甘い連中ではない。 確実に近付いている気配に反して、怒声の一つさえ発していない。

 山を駆け抜ける際に出るはずの、枝を折る音一つ聞こえはしなかった。

 

――街道まで出られたら何とかなるが……難しいか

 

 勢いを落とすことない追っ手に引き替え、男は失血による目眩と息苦しさに足を鈍らせていた。

 懐に忍ばせた黒い丸薬に手を伸ばす。

 正体を知られ、隠し釘本来の立ち位置を知られるくらいなら、自ら命を絶つ。それが隠し釘として育てられた者がみな、骨に浸みるほど教え込まれた人生の幕引き。

 

「チッ」

 

 背後で木葉がシャッっと立てた音に反応して、男は真横に転がった。

 葉を貫いて男を仕損じた投げ矢が、男の目前にあった木の幹に突き刺さっている。

 

――これまでか

 

息絶える前に面が外れることのないよう、紐をきちりと結び直した男は、片膝を立て短刀を胸の前に構えた。

 人影の見えない森の茂みにぎらつく視線を送りながら、懐から取りだした小さな紙の袋を素早く歯で引きちぎる。

 丸薬を口に含もうとした瞬間、腹部に向けて飛んできた矢を身を捻り反射的に避けた。

 ザッと引いた左膝に当たる筈の、土の感触がないことにはっとした。

 遅れて遙か遠く下の方で、土塊の固まりが砕ける音が響く。

 支えを失った左足に引かれて体が傾ぎ、抗う間もなく宙に放りだされた。

 細々と流れる川のせせらぎが、男の体から余計な力を抜き取っていく。

 

――水音か……嫌いじゃねぇ

 

 くだらない人生の末路に耳にするのが自由な川の歌でよかった、と男は微かな笑みを口元に浮かべ目を閉じた。

 

 

 

 

 口の中に溜まった少量の水をごくりと飲み込んだ。

 

――年寄りがいってたな。三途の川を渡る前に、古くさい井戸水を柄杓ですくって飲めば、綺麗さっぱり今生の出来事を忘れて生まれ変われる……だったか。

 

 鬼畜道を生きるしかない者達が縋り、語り継ぎそうな話だ。

 全て忘れて生まれ変われるなら、誰にも憎まれず傷つけることもない草花がいいと思った。 鬼畜にも、いや鬼畜だからこそ広い大地に堂々と咲く小花を愛でるの者は多い。くだらない哀愁だ。

 

――まぁ、柄杓で水を掬う前に、鬼に首を切られんだろうさ 

 

 地獄への道がいつ見えてくるのかと、ぼんやり思考を巡らせていた男は、口元にぴしゃりぴしゃりとかかる水の感触に、自分が目を閉じていることに気がついた。

 

「ヒッ!」

 

 男が驚きに喉を詰まらせたのも無理はない。

 目の前に自分がいた。

 自分の被っていた面がじっとこちらを覗き込んでいた。

 

「だれだ! てめぇ!」

 

 腹に力を込めて吐き出した怒声が、脇腹と肩口の痺れるような痛みを呼び起こした。

 刺し殺さんばかりの勢いで怒鳴りかかった男は、追い打ちを掛けようと吸い込んだ息をそのまま呑み込み、呆けたように目を見開く。

 怒声に驚いて豆のようにぴょんと飛び退き、勢い余ってでんぐり返った者の正体は、どう見ても幼子だった。

 大きな葉に掬って抱えていた水が、おかっぱに切りそろえられた髪をきらきらと日に輝かせている。

 

――俺に水を飲ませようとしていたのか?

 

 葉の水を掬い上げ、なんども口に運んでいたのだろう。口に入らずほとんど漏れた水が、男の胸元を盛大に濡らしていた。

 敵ではない。しかも幼子と解って男はすっかり気を抜かれた。

 

「人違いだ、怒鳴ってわるかった」

 

 心底驚いたのだろう。立ち上がろうと土を掻く足は慌てるばかりで、小さな拳はぎゅっと握られ応戦するように、何度も男に向けて繰り出される。

 

「逃げたけりゃ落ち着いてさっさと行けや。行く前に面は置いていってくれよ、それは俺のもんだ」

 

 ぴたりと動きを止めた幼子は、四つん這いになるとそろそろと寄ってきて、俯いたまま外した面を差しだした。俯き過ぎた顔は前髪に隠れて見えなかったが、ここで顔を覚えたところでどうなるものでもない。

 転がり落ちた時に両足を酷く挫いたらしいから、このガキが居なくなれば死ぬだろうと思った。

 

――ガキに死に水取らせるわけにもいかねぇや

 

 へへへ、と心の中で苦笑いした男は、指し出された面を受け取り息を吐く。

 

「最後に聞かせてくれ。おまえが俺を見つけてからどれくらい時間が経った?」

 

 四つん這いで俯いたまま、幼子は指を折る。

 

「二かい、お日様がのぼったよ」

 

 細く幼い声が答える。

 二日以上気を失っていたことに男は驚いた。傷を負いさらに崖から落ちている。運良く致命傷を負わなかったとしても、崖から落ちた時点で男はそうとうな乾きを感じていた。水無しで二日以上を生きたなど到底ありえない。

 

「まさか、おまえがずっと水を口に運んでいたのか?」

 

 責められているのか褒められるのか解らなかったのだろう。肩をぴくりと竦め、俯いたままの頭がこくりこくりと頷いた。

 男は半ば呆れて息を吐き出し、まじまじと小さな体を見つめ直す。

 

「ご苦労なこった……ありがとよ」

 

 ありがとうという言葉が顎を突きあげた……そう思える勢いで小さな頭が上げられた。泥だらけの、けれど花咲くような笑顔だった。

 

「おまえ、女の子……なのか?」

 

 こくりこくりと頷いて、幼子は髪に結んだ花を得意げに指差してみせる。

 ばさりと下がった髪に隠れて見えなかった花は、すっかり枯れて萎れていたが、本人はそんなことなど気にしていないらしい。

 野草に詳しい男は不思議そうに首を傾げる。見たことのない黄色い小花だった。

 萎れて茶色い花はほとんど原型を留めていないに近いのだから、元の形を想像する方が無理というものだろう。

 

「それえにしてもおまえ、頭に巻いた布はなんだ? 目が悪いのか?」

 

 白い布で目元を覆う幼子は、再び顔を伏せて無言のまま首を振る。

 

「おひさまがね、目にわるいって」

 

「そうか」

 

 目に炎症でも患っているのだと、男はひとり合点した。それにしても、目隠しで川の水を運ぶことなどできるだろうか。浮かんだ疑問に男はぶるぶると首を振る。余計なことに首を突っ込まない。それは相手が幼子でも変わらない。

 

「家は近いのか? 日が暮れる前に森から抜けろ。おまえみてぇなガキが生き残れる場所じゃねぇよ、この森の夜は」

 

 四十メートルほど先に流れる川は細い。その向こうには寸分先もみえないほど生い茂った深い森が広がっていた。水が流れる音からして、おそらくは浅瀬が続ている。

 あの森に潜むものなら簡単に、川を過ぎってこちらへ襲ってくるだろう。

 幼子は立ち上がるとくるりと身を返して歩きだした。手には杖代わりの細長い棒が持たれている。そのまま行くのだろうと見送っていた小さな背は、しゃがみ込むと水を汲んだ葉を抱えて、てこてこと戻ってきた。

 

「あい、どうじょ」

 

 まだまともに口も回らないくせに、生意気なガキだ。

 そんなことを思いながらも、男は葉の中の水を飲み干した。どうせ夜中に獣に喰らわれるとしても、乾きがなければそれまで楽に過ごせる。そう思った。

 

「おいちぃ?」

 

「あぁ、うまかった」

 

 男の言葉に幼子は両手で自分の頬を包み込み、嬉しそうにくるりと回った。細い髪が孤を描いて日に透ける。

 

「さあ、いけ。もう戻るんじゃねえぞ。親が心配してんだろうよ」

 

 幼子は不思議そうに首を傾げたが、こくりと頷き歩き出した。

 何度も振り返っては、小さな手を振りぴょんと飛ぶ。

 岩陰に小さな体が隠れて消えるまで、男はじっと見送った。

 二日も面倒をみてくれたなら、すぐ帰れる場所に家があるのだろうと思った。

 追っ手が死体を探しに来ることも十分有り得る。あの子がここにいることは危険過ぎた。

 追っ手と生きたままここで出くわすのが一番拙い。落下したとき、男の手に握られていた丸薬は何処かへいってしまった。

 この季節でも山間の夜は冷える。

 

――ちきしょう、寒いのは嫌いなんだが

 

 寒いのも痛いのも嫌いだ。ただ寒さや痛みに耐える術を教え込まれた。辛さを感じない振りが上手くなった。それと同時に、幸せを感じることもなくなった。

 幸せや喜びを知れば、対極にある理不尽な痛みやくだらない人生を思い知る。

 塞がりきらない傷口から、じわりじわりと命が流れていく。

 うつらうつらとした後に、目を細く開けると山間に夜の色が濃くなっていた。木々に覆われた山の縁が茜色を残している。

 

――寒ぃな

 

 血が流れすぎた。息を吸っても息苦しさだけが残る。夜の帳に冷やされた風が、男の体温を更に奪い、力の残っていない体が反射的にぶるりと震えた。

 次ぎに瞼を開けた時には、月が空高くに昇っていた。

 風は止み、冷え切った森の空気がヒリヒリと肌を刺す。

 

――ちぇ、集まって来やがった

 

 月明かりに誘われて湧きだしたように、濃い獣臭が辺りを漂う。

 抗う気など無かった。抗えば抗うだけ、苦しむ時間が引き延ばされる。多くの命を手にかけてきたが、なぶり殺したことはない。どれほど腐った野郎でも、無駄に苦しまぬよう命を奪ってきた。

 言い訳にもならないが、出来ればひと思いに首筋を噛み砕いて貰いたいと男は願う。

 

――こういうとき、夜目が利くってのはありがたくねぇ

 

 浅い呼吸を繰り返しながら、男は胸の中で苦く笑う。川向こうに森から出てきた獣が彷徨く影が見えた。離れた位置で互いにけん制し合っている。どこで嗅ぎつけたのか、川のこちら側でも左右から寄ってくる気配があった。

 一匹が動けば、瞬時に餌の奪い合いが始まるだろう。急所を狙う前に餌の引き合いとなる。

 

「最悪だぜ……きたか」

 

 川向こうから一気に飛び込んでくる影。糸で繋がれたように無数の影が押し寄せる。目の前で、激しい餌の奪い合いが始まった。

 獣の咆哮が山に木霊する。

 抜け出した一匹を、横殴りに飛びだした別の獣がなぎ倒す。

 男は目を閉じなかった。

 多くの命を奪ってきた者の、それは義務だと思う。

 最後に命を奪う者の影を、己の罪の代償に見届けようと思った。

 

――おまえが、勝利者か

 

 絡み合う影を飛び出し、バネのような跳躍で襲い来る影に、男は最後の時を知った。

 目の前に着地し牙を剥いた頭部が、首をねじ曲げて男の首にかかろうという刹那、濃い獣臭を放つ影がぴたりと動きを止めた。

 すっと首を引き、けれど未練がましく振り返りながらゆっくりと獣が立ち去っていく。

 訝しげに目を細めた男の目に移ったのは、同様に森へと返っていく獣たちの影だった。 獲物が野ざらしだというのに、一匹たりとも向かってくるものはいない。野生には有り得ない異常な行動だった。

 

――天災の前触れなら、奴らはもっと素早く動く。何があった? 何が奴らを遠ざけた?

 

 森の濃い闇に溶けて姿を消した獣の影を訝しげに見送りながら、男は呻きにも似た息を漏らす。瞬時に死ぬか、真綿に首を絞められるようにだらだら死んでいくかの違いでしかなかった。

 

「寒ぃな……」

 

 親にさえ抱かれた記憶がない。こんな凍える夜に思い出す人の温もりなど、男の記憶には欠片もなかった。

 寒さと痛みを飛び越えて閉じかけた目をかっと見開き、男は暗闇に視線を走らせる。

 河原の石を踏み走る小刻みな音が近付いていた。

 それとは別に足音とさえいえない微かな動きが三つ。人と呼べぬほど鍛え上げられた男の聴覚に届いていた。 

 獣の気配はない。それ以外の気配が近付いていることに男の神経を緊張が駆け巡る。

 身動きできないと知って、追っ手が足音さえ消さずに近付いてきた可能性は拭えない。

 

――なめられたもんだ

 

 役に立てそうもない懐の刀に、それでも男は手を伸ばす。

 挫いた足を引き摺って、もたれていた大木の裏へ回り、湧き上がる殺気を内に閉じ込め気配を消した。

 感じ取れる動きは四人。その内三つは包囲網を縮めるように近寄ってきているが、男の気配を感じ取るにはまだ遠い。

 

――だが、一つは近い

 

 影の様に忍び寄る気配とは別に、近寄る者がいた。

 これほどあからさまに近付かれては、男の場所を教えようとしているとしか思えない。

 

――まさかとは思うが、草の根に見られたか……

 

 草の根とは、それぞれの組織が隠密に抱える情報屋のこと。何の技も力もない者達が草の根として使われている。その役は代々受け継がれ、知られる名もなく平凡に暮らしている村人や旅人達だが、そのすそ野は広い。

 石ころのように監視の目が転がっていると思えば、これほど厄介なこともない。

 それが草の根と呼ばれる存在だった。

 

――草の根とあらば……

 

 この世の裏の蠢きなど露程も知らない人々を殺めることなど決してしない。だが、草の根となれば話は別となる。彼らが情報と引き替えに得る金には、自らが侵す危険が摘み取るかも知れない、命の代金も含まれている。

 

――来た

 

 臍の下にあらん限りの力を込め、大木の向こうから回り込んでいた人影を腕に絡め取り地にねじ伏せた。

 

「おまえは」

 

 男の目に驚きと失望の色が濃く宿る。

 

「こんなガキまで使いやがって。おまえ、草の根だな。親に頼まれたか? 奴らにこの場所を教えたんだろ。」

 

 男の筋肉質な腕に肩を押さえ込まれているのは、昼間水を与えてくれた幼子だった。

 

「恨むなら親を恨め。顔を見て声を聞いた以上、生かしてはおけねぇ」

 

 腕を広げた範囲の者にしか聞き取れない特殊な声で、男は低く命の終わりを相手に告げた。

 男が刃を振り上げたとき、距離を縮めて包囲した三人の一人が、「シュイッ」と動物が鼻から息を抜くような音を上げた。

 仲間へ位置を知らせたのだろう。

 

「チッ、見つかったか。クソガキ、せめて苦しまずに死ね」

 

 暗がりで表情の伺えない幼子の、心の臓めがけて一気に刃を振り下ろす。

 

「なっ!?」

 

 肌を切り裂く手前で、ぴたりと刃が動かなくなった。いつの間に絡め取ったのか、男の手首を太い蔦が巻いていた。

 唐突な出来事に、同じ蔦が自分の背から腹へ貫いて穴を開けたと気づくのに一瞬の間が空いた。

 

「どうなって……いやがる」

 

 包囲網が狭まってくる。

 男は細い肩から手を放し、手を絡め取る蔦を切ろう藻掻いた。

 

 ズボリ

 

 嫌な音を立てて、腹に刺さった蔦が引き抜かれた。

 腹のど真ん中に空いた風穴から、どくどくと命が流れ出る。

 ざざりと音を立て、引き抜かれた蔦が男の前に回り込んだ。夜目が利く男の目に、迫る蔦の先がはっきりと映る。

 しゅるりと布が擦れ解ける音がした

 鎌首をもたげた蛇の猛攻を思わせる蔦の勢いが、ぴたりと止まった。

 

「だめ、だめだよ」

 

 いつの間に立ち上がった幼子の、小さな手が蔦を掴んでいた。

 

「おまえ、何者だ? その目はいった」

 

 覆う布を取った幼子の目は、黄緑を織り交ぜた緑色に光っていた。

 まるで緑に輝く水を目に汲み取ったように、白目も白目もなくゆらゆらと輝き揺らいでいる。

 不意を突かれて動けなかった。男の首に両腕をぎゅっと回して抱きつく幼子に抵抗する力さえ残っていない。

 

――地震

 

 男がそう思うのも無理はない。突きあげる震動と共に、周りの地を割り大木の根が迫り上がる。あっという間に絡み合い、まるで最初からそうであったかのように二人を包んで土からせり出た大木の根となった。

 僅かな隙間から外の様子が伺える。暗闇で見えはしないが、男が情報を得るには十分だった。

 

「気配が消えた」

 

「確かにここら辺りだったのだが」

 

「遠くまで行ける体でもないだろうさ」

 

 くぐもった三人の男の声には聞き覚えがあった。

 五体満足だとしても、打ち勝てる保証はない手練れだった。 

 

「散れ」

 

 音もなく、三方向へ散らばっていく男達に安堵する間もなく、男は消えかかった命を浅い呼吸で繋いでいた。

「おまえ、草の根じゃねぇのか……なら……なぜ戻った……ぐえぇ」

 

 胃に流れた血が、口から沸いて吐き出される。

 

「これ、これあげる」

 

 幼子を照らすように、周りを囲む太い根の表面がちらちらと光る。

 幼子の手には、丸く小さな石がふたつのっていた。

 

「これ持って。死なないで、ね?」

 

 眉尻を下げ今にも泣き出しそうな顔で、幼子は必死に男の手に石を握らせようとした。

 

「いらねぇよ」

 

 手に押し当てられた瞬間、男にはそれが異物だとわかった。

 寺なら喉から手が出るほど欲しがるだろうと、薄れる意識の端っこで思う。

 視力を失った者、もしくは命を失いかけた者に宿り、宿る代わりに命を繋ぐ。時代の影に時折姿を見せたとされる伝説の異物は、裏を生きる者達の間でさえ眉唾物とされ幻扱いされてきたというのに、今それが目の前にある。

 

――俺には必要ねぇ。 やっと死ねる

 

 痛みから逃れたくても、これ以上生きていたいとも思わなかった。生きていても、先の道に光など欠片もない。

 石を受け取ろうとしない男に、幼子は緑の瞳から涙を流す。傷口を小さな手で押さえ、石を頬に押しつける。

 石を押しつけても、宿主と成る者に受け入れる意思がなければどうにもならない。それがこの石の持つ理とされていた。

 

「どうして助ける……」

 

 死ぬ前に聞いておきたかった。

 

「おじちゃん、これくれた」

 

 血に濡れた手で幼子が懐から取りだした物を見て、血と一緒に乾いた笑いを吐き出した。

 半年前の記憶が蘇る。

 幼子の手にあるのは、アメを包む紙で折った鶴と、くれてやった腹痛の薬。

 偵察の隠れ蓑に、ゴザを広げて商売していた暑い日だった。

 道の端っこ腹を抱えて蹲る女の子に、気まぐれで薬をくれてやり、戯れに鶴を折って慰めた。

 

「馬鹿か……おめぇは。こんなクズ相手に」

 

 どうして幼い子がひとりでここにいるのか、夜に家を抜け出せたのかなど考える余裕はなかった。この子が自分を助けようとした理由など、実にくだらない。

 それでも―――意識が途切れかけた男の目尻に薄く笑みが浮く。

 

「あたし、いたいの、なおったの。おじちゃん、やさしいでしょ?」

 

 小さくとも人の役にたったのかと、知っただけで死ねると思った。

 しゅるしゅると、根が大地へ戻っていく。まるで幼子を守りきったというように。

 

「これあげる。ね、ね?」

 

 これが自分の物だというのか? まさかという思考さえ風穴から血と共に流れ出る。

 

「奴らが戻るまえに……かえれ」

 

 言葉で幼子の想いを払い、命を手放そうと閉じかけた目がかっと見開かれる。

 男を見つめていた幼子も、何かを感じたのか押しつけていた手を引いて辺りを見回すと、ぴたりと背を男に寄せて小さな手を一杯に広げて立った。

 大きく広げて立つ足が、かくかくと震える振動が男の膝に伝わってくる。

 利害無しに守られたことなどなかった。

 利害なく、守ろうと想う者などいなかった。

 男の中に残る命の燻りが、膝に伝わる幼子の足の震えに再び燃え上がった。生きる意味を見いだした男の手が、少女の手から石を取る。

 

「こいつは、俺がもらうぜ」

 

 すでに気配を消すことさえ止めた足音が、すぐそこまで迫っていた。

 草の根ではないというなら、この子も一緒に殺されるだろう。

 

「体を貸してやらあぁ。だからこの体……今すぐ動かせや!」

 

 咆哮に似た叫びと共に、二つの石を眼球に押しつけた。

 目玉が焼かれたと錯覚する痛みが、稲妻のように走ったのも一瞬、石は男の中に吸い込まれる。

 血は流れ続けているが、今男を生かしているのは血ではない。

 この世の日陰に在り続けた異物が足の痛みを退け、男に紛い物の命を与え体を突き動かす。

 

「隠れていろ!」

 

 いうが早いか、幼子の首に結わえられていた面を素早く奪って顔に括り付けた。

 幼子が慌てて大木の向こうに回り、しゃがみ込んで隠れたのを目の端で確認した男は、

幼子から敵を引き離す為に素早くその場を離れ、近寄る影との間合いを一気に詰める。

 そして、その場に倒れ込んだ。

 一瞬にして囲まれた男は微動だにしない。手にした短刀を握る指はだらりと延び、脇腹に入った蹴りにもぐらりと揺れたきり、俯せて転がったままだった。

 

「何にやられたんだ? こりゃもう虫の息だぜ」

 

 囲む男達の殺気が迷いを見せる。小刀を構え、寸分の隙もなかった体勢に僅な緩みが生じた。

 俯せて息を詰め、空気の流れさえ聞き漏らすまいと神経を研ぎ澄ませていた男の感覚は、その緩みを見逃さない。

 攻撃に移る支点のない体勢から一気に跳ね上がり、虚を突かれ一歩引いた男の懐に入り込む。肘で顎を砕くと同時に相手が手にしていた小刀を奪い取り、躍りかかってきた二人を交わして立て続けに急所へ刃を突き立てた。

 

 喉を潰したような呻き声が上がり、ばたりと黒い影が大地に伏せて重なった。

 顎を砕いた男に歩み寄り、砕けた顎を無理矢理押さえ口を開けさせた。

 森に悲鳴が響き渡る。開いた口に一粒の種をねじ込み、口の中に溜まった血と一緒に飲み込ませる。

 顎を砕かれ話すことさえ出来ず、驚きと恐怖に目を見開く追っ手の顔が、雲間から顔を出した月明かりに照らされた。

 

「今のは双子草の種だ。吐き出そうったって無理だぜ。胃に届く前に、肉の中に潜り込む。そしてこれが、片割れの双子草の種だ」

 

 男は血まみれの紙を懐から取りだし、指先で摘んだ種をゆっくり包んで手の中に握り込む。

 

「こいつを埋め込まれた意味は、わかるよなぁ」

 

 追っ手の男はぜぇぜぇと息を荒げ、血走る目を見開いた。

 

「命は助けてやる。てめぇの仕事は報告だ。仲間は殺された。だが自分が仕留めたというだけでいい。その一言で、俺はこの世から消えた存在になる」

 

 男が首を横に振る。

 

「別にかまわんぜ? おまえが余計なことを話せば、俺に追っ手がかかる。その時はこの種を割るだけだ。そうしたら、おまえの中に根付いた種も爆ぜて、おまえは死ぬ」

 

 追っ手の体内に仕込んだのは異種。この異種本来の使い方ではないが、素人ではない追っ手の者には、この説明だけで十分だと思った。

 命など省みず組織に義を尽くすことも十分にありえる。

 だが家族がいる者なら、自分が死んだ後の報復を恐れるかもしれない。望みは薄いが、賭けてみようと思った。

 

「裏切ったり、勝手に死にやがったら、草の根わけてでもお前に近しい奴の息の根は止めさせて貰う。逃がさないぜ」

 

 追っ手の目が泳いだ。

 人には必ず弱みがある。

 弱みを持たない人間など、この世にいない。

 弱みなどというしがらみをもたないからこそ、男は今までを生き抜けた。

 

「行け」

 

 男の言葉に追っ手は小さく頷き後退ると、月明かりの届かない森の闇へと姿を消した。

 大木の根元へ戻ると、男は芯がぬけたようにドサリと座り込んだ。

 異物といえど神具ではない。腹の風穴が塞がるには時間がかかる。

 

「足を癒し命は繋いでも、痛みはそのままか」

 

 今すぐ死ねたら楽だろうと思う。幾度となく死線をくぐり抜けてきた男でも、経験したことのない痛みだった。腹を中心に全身を焼かれている様にさえ感じられた。痛みにシワを寄せる男の眉根に、ぴたりと冷えた手が当てられた。

 

「いたい?」

 

 幼子が緑の瞳で覗き込む。

 

「大丈夫だ。だから帰れ」

 

 ふるふると首を振って幼子は座り込む。

 帰らないつもりか、と男は肩で息を吐く。

 

「それにしても、寒ぃな」

 

 目を閉じた男はふんわりとした温もりを胸に感じて薄目を開けた。幼子が男の膝に乗って頬を胸にぴたりとつけて抱きついていた。

 寒いといったから温めようとしているのだと気づいて、男の口元がふわりと緩む。

 気まぐれな月が顔を見せ、大木の根元で寄り添う二人を照らし出す。

 夜風から守ろうと小さな体に血まみれの腕を回すと、幼子はくるりと首を回してにこりと歯を見せ、もう一度胸に顔を当てて頬ずりした。

 

「いたいの、いたいの、とんでけ~」

 

 何かのまじないかと男は首を傾げる。なんども同じ言葉を繰り返し、男の体を撫でていた幼子は、そろそろいいかというように顔を上げた。

 

「どう? いたいの飛んでった?」

 

――俺の痛みを取ろうとしていたのか

 

「あぁ、痛みがへった。ありがとよ、少し眠ろう」

 

 嬉しそうに首を竦め頬を預けた幼子に再び腕を回し、その温もりを大切そうに男は抱きしめる。

 異物を持っていた理由を聞くのは明日にしよう。

 たとえこの子が化け物と呼ばれる者であろうと構わない。

 この小さな温もりを守る力になれるなら、生きていたいと思った。

   

「おまえ、名前は?」

 

「イリス! おじちゃんは?」

 

 俺の名か……

 

「おじちゃんは……アメ売りのおじちゃんだ。おやすみ、イリス」

 

「おやすみ、アメ売りのおじちゃん」

 

 聞いたことのない子守歌をイリスが歌う。細くあどけない歌声に、獣も眠り森の木々さえ耳を傾ける静かな夜だった。

 

――弱みができちまったな

 

 日溜まりのような優しい後悔に身を任せ、生まれて初めて自分の為に歌われる子守歌に、男は耳を澄ませて目を閉じた。  

 

 

 

 

 

 




 今回はゴザ売りとイリスの過去話しでした。
 読んでくれたみなさん、ありがとうですっ

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。