ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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4 なごり蛍に泥の川

 ここから歩いて半日ほどの村に用があるといっていたゴテは、まだ日が登り切らず山がうっすらと青白く縁取られたころには、ひとり小屋を出て行った。

 軋みを上げて閉まる戸に目を覚ましたヤタカだったが、声をかけることなく目を閉じて、日が昇るまでの短く浅い眠りを楽しんだ。

 

 日が昇り仕度を調えたヤタカが道に立ち待っていると、着替えを済ませたイリスがきちりと目元に布を巻き、奇妙にねじれた杖を手に、小さな欠伸をしながら姿を見せた。

 

「水が飲みたいから、林の中へ寄り道するよ。十分くらい林の中にはいれば川がある。昨日立ち寄った川の支流だろうな」

 

「うん。わたしも水筒に水を入れたい。相変わらずヤタカは人間探知機だね、水の」

 

 ヤタカはイリスに鼻筋へ皺を寄せて見せると、少し進んだ先で猟師達が踏み潰した草の道を辿り森へと入った。

ヤタカが欲する水は水筒に入るようなものでは済まないから、水場からあまりにも離れることは死活問題となる。人並みの水が飲めたとしても、三日に一度は大量の水を飲まなければ体が我慢の限界を超え、生命維持の限界をも超える。

 死活問題なのはヤタカの体に宿る水の器も変わらぬようで、自ら宿った個体が死なないよう、水の在処を嗅ぎつける嗅覚を与えたのかもしれない。

 無味無臭と言われる水にも個性があり、目に見えなくとも汚染されていれば臭うし、澄んだ水流は流れる途中で含んだ木々や風の匂いを含ませる。

 水の器は己の生き残りを賭けて、ヤタカに水の在処を知らせるのだろう。

 

 辿り着いたのは大股三歩で渡れそうな細い川。水底の石が朝日を受けた水に揺れきらめく。

 

「イリス、水を飲んだらさっきの街道に戻って、先にある村に立ち寄ろう。ここに来るまでの林の中で、この時期にしか取れない薬草を見つけたんだ。量は少ないけれど、次の村で売って食料の足しにしようよ」

 

 こくりと頷くイリスに笑顔を向け、四つん這いになったヤタカは顔から川面に突っ込んだ。溶けた山の雪を含む川はこめかみがキーンと痛くなるほどに冷たくて、喉が洗われるような旨さだった。何度も顔を上げては呼吸して、ヤタカは胃袋から逆流する直前までたらふくの水を飲み込んだ。

 

 大切そうに水筒の口を締めなおすイリスに自分の腰辺りの布を掴ませて、ヤタカは林の中、雪解け直後に枝の根元から芽吹く新芽を探し歩く。

 周りに障害物が多く足場が悪い森や林の中では、ヤタカはいつもイリスに腰の辺りを掴ませる。取り囲む状況に敏感とはいっても、それを上回る危険が山には付きまとう。ヤタカ自身が崖や植物の棘などを大きく避けて通れば、腰にぴったりと張り付いて歩くイリスが怪我をすることもない。

 

「ねぇヤタカ、寺を出てからいつも思っていたけれど、山……変だよね?」

 

「変て、何が? お、あったぞ」

 

 木の枝の根元から顔を出す、ヨモギに似た葉の中央に身を竦める新芽を指先で摘み取る。

 

「わたしは植物に詳しくないけれど、ヤタカが取る植物も、夜に蝋燭の灯りで眺める山の景色も、子供の頃とは違う気がする。ここにあるはずのない植物が生えているよ? 寒い土地と暑い地方に根付く植物は違うでしょう?」

 

 そのことか、と新芽を探す視線を止めることなくヤタカは頷く。

 

「もともとはこの土地にいなかった動物や、鳥や虫が増えているだろ? 昔、世の中がこんな風になる前に飼っていた動物を捨てたのが繁殖したんだろうけれど、気候だよ。気候が目に見て変わっているんだと思う」

 

「どんな植物でも生きれちゃう気候?」

 

「あはは、そんな気候はないさ。でも、短く区切ったなら、生きていけるのだと思う。彼らにとっては短くとも適した気候が必ず巡ってくるってことだろうな。まあ、異種がはびこって以来、植物の分布図は意味をなさなくなっている。どんな理屈か知らないけれど、事実はそうなんだ」

 

 へぇ、納得したようなしないような呟きを背中で聞きながら、ヤタカは新芽を摘んでいった。量の取れる物ではないが、取れる季節が短いだけに買値は張る。

 

「そのうち、どんな人間でも普通に暮らせるときも来るかな? 命懸けの共存じゃなくて、あっちの命もこっちの命も、奪い合わない共存。……無理かぁ~むりだね~!」

 

 自分の思いに深く沈んだ声色を消すように、イリスの巫山戯た口調が尾を引く。

 どこかで合いの手を入れるようにカラスがクワァー、とひと声鳴いた。

 

「良かったな、カラスが返事してくれたぞ?」

 

 ふん、と膨れるイリスの鼻息を感じながらヤタカは口を結ぶ。答えられないし、答えたくもなかった。答えたら、何もかもが現実になってしまいそうで嫌だった。

 

 新芽を五つほど集めると、街道へでた二人は隣村へと足を進めた。

 

「それにしても人が少なくないか? すれ違う人さえほとんどいない」

 

 奇妙なことだった。異種を恐れる人々は、奥深い山間に平地があろうと村をつくることはない。ほとんどの村が街道に沿って点在しているというのに、物流や人の往来の要となるこの道を行き交う人が少ないなど、珍しいことだった。

 

「歩きやすくていい」

 

 杖をつくのではなく、歩く先の地面をするように歩くイリスにとって、人にぶつかる心配がないのは楽なのだろう。

 薄雲がかかっているとはいえ、空はどこまでも晴れている。街道から人を払う嵐がくるとも思えなかった。

 

 太陽がすっかり西に傾いた頃、ようやく目的の村に立ち並ぶ屋根が見えてきた。

 

「もう少しだよイリス。あの村で買い物をしたら、飯屋によって少し休もうか」

 

 飯という言葉に反応したのか、こくりと頷いたイリスの歩みが明らかに早くなる。

 

「太るよ?」

 

「かやぼっことか言うくせに」

 

 口を尖らせるイリスが見えるような拗ねた口調に、ヤタカはふっとひとり笑う。

 

「太ったって、どうせ余計なところに肉が付くだけだっ……イッテ!」

 

 杖を振り回してヤタカの脇腹に一撃を喰らわせたイリスは、腹を押さえるヤタカなど振り返ることもなく、先に待つ飯屋目掛けて歩いて行った。

人の声を耳にして、村の前まで来たことを知ったのだろう。道の真ん中で立ち止まったイリスはゆっくりと首を捻り、不思議そうに地面に顔を向ける。

 

「どうしたんだ、イリス?」

 

 確かめるように土の道を杖の先でなぞり、イリスは眉を顰めた。

 

「土が、ゆるい」

 

「なんだそりゃ?」

 

 意味がわからないまま、ヤタカも片足で土の道を強く踏んでみたが、行き交う人々に長年に渡って踏み固められた道なだけに、心地よい振動を足の裏へと返してくる。

 

「土の結び目が、(ほど)けかけている。だから、土がゆるい」

 

 嫌なモノから大切な物を守るように、イリスは杖をぎゅっと胸に抱え込む。

 

「大丈夫か? 取りあえず薬草を売って金をつくろう。何か甘い物でも食べるか? 少しは落ち着くかも知れない」

 

 きゅっと身を固くしたまま動かないイリスの腕を引っ張って、ヤタカは表に立ち並ぶ店の一つを選んで暖簾をくぐる。

 

「いらっしゃい! 宿への口利きなら任せとくれ、ちょどよく幼なじみが宿をやっているからさ」

 

 店の奥から愛想の良い笑顔で出てきた女将の言葉に面食らいながら、イリスは人好きのする笑顔を浮かべて手を振ってみせた。

 

「いえ、宿じゃないんです。表に薬草の看板がでていたから、これを買い取って貰えないかと思って」

 

 摘んだばかりの新芽を台にのせると、女将は大きな目をくるりと見開く。そしてくたりと目じりを下げて微笑むと、ふくよかな頬にえくぼが浮かんだ。

 

「こりゃ珍しい。ヨモギモドキじゃないの。異種とはいえ新芽なら宿られる心配も無し。そうだ、これは珍しく木に宿るんだったね。野草師お勧めの痛み止めだよねぇ」

 

 人に疎まれる異種ではあっても、中には条件を満たしている限り害がなく、野草師が認めてひろめ、人々に薬の元として受け入れられているものがある。

 百年近い月日の中、幾人もの命を摘み取りながら、蓄えられた知恵と知識。

 

「このくらいでどうだい?」

 

 女将が台に乗せた金は、ヤタカがはじき出した相場より少しばかり高かった。だがそれを口に出すほどヤタカもお人好しではない。ここで浮いた金で、イリスに食わせる甘い菓子がただになるなら、口のひとつや二つ喜んで閉じていられる。

 

「交渉成立だ。ありがとう」

 

 ヤタカがにこりと微笑むと、女将は少しだけ頬を赤らめ奥の籠へとヨモギモドキを放り入れた。

 

「それと日持ちしそうな塩漬けの魚か干物、漬け物もあったら少し買いたいんだけれど、あるかい?」

 

 「うちの店には何だってあるよ! 干し肉だって……え? あんた達、今日中にこの村を立つつもりじゃないだろうね?」

 

 女将の口が、呆けたようにぽかりと開く。

 

「そのつもりだけれど、どうして?」

 

 すると呆れたように胸の前でひょいと手を振った女将は、いやだよぅ、と口をへの字に曲げた。

 

「あんた達、ここへ来る道で人とすれ違ったかい?」

 

「確かに人通りは少なかったね。半日で二、三人てところかな」

 

 だろ? はぁ、と肩で息を吐くと、女将は呆れたように首を振る。

 

「てっきり知っていてこの村に来たとばかり思っていたよ。何も起こらなければここ二、三日はこの村から出ちゃいけないって。本当に何も知らないのかい? 今この辺りを歩いている連中なんて、知ってて来た物好きばかりだからねぇ。とにかく街道沿いの宿はほとんどうまっているんだから」

 

 ヤタカ達は確かに外の世界には疎い。知らないのかと言われても、思い当たることは何もなかった。

 

「今年はさ、この村が『お引き受け』なんだよ」

 

「お引き受け?」

 

 どこかかで聞いた言葉だった。どこだろうかと考えるが、思い出せない。

 

「あ~んもう、はなっから知らない人に説明すんのは難しいやね。とにかく、今夜はあたしの幼なじみの宿にお泊まりよ。悪いことはいわないからさ、お引き受けが済むまで、間違っても先を急ごうなんて思っちゃいけないよ?」

 

 ヤタカの返事も待たずに、女将は暖簾から顔を出すと大声で隣の宿屋の主人を呼んだ。

 女将にそっくりな笑顔で、くたりと目じりを下げる宿屋の主人に引かれるまま、ヤタカとイリスはこの村に泊まることとなった。

 部屋に腰を落ち着けてから、甘い物でも食べに行くかと誘ったが、ぺたりと座り込んだままイリスは小さく首を横に振るだけで、情けないことに好きな食い物を与える意外に元気づける方法を知らないヤタカは、日が沈んでイリスが目の周りの布をほどくまで、ひとり黙りを続けるしかなくなった。 

 

 それでも日が暮れて豪華とまでいかないが、旅暮らしのヤタカ達にはご馳走といえる温かい夕食が盆に乗せて部屋に運ばれると、イリスの表情も和らぎ得体の知れない不安気な影はなりを潜めた。

 

「この煮物美味いな。越冬芋を使っているんだってさ。今夜の飯は美味いけど、美味い分金もかかる。ここを出たらしばらくは、燻製肉も甘いものもなしだな」

 

「しょうがないからいいよ」

 

 芋の味噌汁を啜りながらイリスが答える。

 

「怒ってる?」

 

「怒ってない」

 

 ずずずっ、と汁を啜る音が大きく響く。上目遣いにイリスがちらりとヤタカを見た。

 

「怒ってないってば……ぜんぜん怒ってない」

 

 怒ってるじゃねぇか、ヤタカは喉元まで上がる言葉を唾と一緒にごくりと飲み込んだ。

 危険に晒されたときイリスを置いてヤタカが逃げても、多分イリスは怒らない。いつの日だったか、どんなことを想定したのか知らないが、本人もそう言っていた。

 でも食べ物だけは駄目だ。

 きっと七代先まで祟られる。

 余計なことをいわないようにと窓の縁に腕をついて外を眺めると、『お引き受け』とやらはまだ始まらないのか、宿の軒先で碁を打つ姿が見えた。春に足を踏み入れたとはいえまだ寒いのに、きっと軒先で温かい茶を啜りながら打つのが粋なのだろう。

 前に立ち寄った村は、綿入れを着込む人の姿が多かったが、この村は毛糸を編んだセーターやカーディガンを着ている者が多い。男性はズボンを、女性はくるぶしまである長いスカートを身につけている。

 

「ここの特産は毛糸で、編み物の技術を持つ者が多いってことか」

 

 百年以上前に村へと分散した人々は、自分の持つ技術でその村を支えてきた。技術と知恵は後生に受け継がれ、人の手で作れる物だけが今を生きる人々の生活を支えている。

 大昔のように、機械や科学というものが人の生活を支える時代は終わっていた。

 大きな町と共に、豊かな物質を作り出す巨大な工場も科学薬品といわれる物も、すべて森が呑み込んだ。

 人の手で作れる物を使い着るしかない今、それが洋服であれ着物であれ気にする者など居はしない。

 人のいなくなった町は、放っておけば百年で森に返る。人間が何百年もかけて造りだした人工物など、所詮は地球の鼻くそでしかないのかもしれない。

 

 

「ヤタカ」

 

 いつの間にか隣に来ていたイリスが、ぎゅっとヤタカの腕を握った。

 

「来るよ、土の結び目が完全に解ける」

 

 見下ろすと碁を打っていた親爺達は姿を消し、立ち話をしていた店の女将達も居なくなっている。土が解けるという意味がわからなかったが、おそらくイリスにも説明はできないだろう。イリスは感覚で表現する。宿る異種なのかイリス自身なのか、感じたままを、あやふやなまま言葉にする。

 

 ――この目で見るしかないか。

 

 用心のため全開だった障子を引いて、拳ほどの隙間から土の道を眺めた。

 始まりは些細な変化だった。茶色い土をむき出した広い道を、這うような風が通って土埃を巻き上げた。

 いつの間に灯されたのか、軒先にはうっすらと道を照らす提灯が並べられている。

 作務衣から飛び出たヤタカの腕へと下りたイリスの手は、冷たくじっとりと汗ばみその瞳は表情もなく道を見下ろしていた。

 

「解けた」

 

 イリスの細い声が呼び水となったかのように、土の道が一気にうねる。

 まるで土の中を何匹もの大蛇が通っているようだった。うねうねと盛り上がっては沈む土の道は、乾いた茶色の土から黒い泥へと変貌していた。

 大量の水を含む泥の川。

 ヤタカの中で水の器がカタコトと心臓を高鳴らせる。あれは普通のモノではないと、跳ね上がる脈を通して告げていた。

 

「異物だ。あの泥の川は異物なんだ。人の道を利用して移動を繰り返す異物」

 

「ここにいて大丈夫?」

 

「あぁ、干渉しなければ害はない。逆に泥の川にちょっかいをだせば……」

 

「どうなるの?」

 

「その近辺の村を呑み込んで、姿を消す。思い出したよ。異物を記した寺の巻物に、泥の川のことが書かれていた。記憶が正しければ、見物になるのはこれからだ」

 

 害がないと知って少し安心したのか、腕を握るイリスの力がふっと抜ける。

 

「わたしは異物にはそれほど敏感じゃない。ヤタカに宿る水の器しか気にならない。だったらわたしが感じたのは泥の川だとしても、それだけじゃないってこと」

 

 イリスの推測は正しい。だが実際に見るまではヤタカにも説明のしようがない。

 

「来るよ」

 

 かくれんぼの鬼が来たよ、まるでそう告げたように、こっそりとしたイリスの囁きだった。 

 泥の川が流れを緩めると、その様はまるで月の下で川面を眺めたときそのもの。月明かりの代わりに提灯の橙の薄明かりを反射して、泥の水面がちらちらと光る。

 隣り合わせた部屋から、おおぅ、と感嘆の声が漏れ聞こえた。

 

「まるで、大きな蛍だな」

 

 街道の向こう側に立ち並ぶ木々の間の闇から、ふわりふわりと小指の爪ほどの淡い光りが姿を見せる。青白い光りはひとつ、またひとつと現れて数十の群れとなった。

 

「あれは何? 異種だよね?」

 

「あぁ、火点し草だ。またの名をなごり蛍。桜の狂い咲きよろしく、宿られた虫は少しばかり早く羽化する。あと一月は先にならないと飛び回らない虫達だ」

 

 なごり蛍が泥の川へ吸い込まれる様は、まさに青白い牡丹雪のようだった。

 

「虫の首もとから小さな花を咲かせて種を落とす。ほら、よく見ると泥の川の真上に来たら、ゆっくりと光りを失いながら落ちていくだろう? 光りが消えるのは花が散って種が剥き出しになったということだ。種が剥き出しになった瞬間、虫の命は終わる」

 

「泥の川に落ちていくのは、虫が死んだから?」

 

「そうだよ。異種にしちゃ数が多いだろう? これだけのなごり蛍が飛んでいても、虫に種を宿らせた個体は一つから二つといわれている。泥の川に流されて次の土地に身を顰め時期が来たら土から芽を出す。そこで数十ともいわれる一番種を実らせ、近づいた虫の背に宿り、こうやって二番種を泥の川へ落とす。ほとんどは泥に呑まれて地表に出ることなく腐っていくか、芽吹く前に虫が死ぬか。魚と同じだよ。生き残るモノが少ないから、無数の卵を産む」

 

「泥の川となごり蛍の共生ってとこかな? 珍しいね」

 

 なごり蛍に利はあっても、泥の川にとってなごり蛍を迎え入れることにどんな理由があるのか、巻物には不明としか記されていなかった。

 異種に心があるのかは知らないが、何を思っているかなど人にわかるはずもないのだから。

 

「あれ? なごり蛍だ。屋根の上から降ってきたよ?」

 

 イリスの声に暗い空を見上げると、酔っ払いみたいにふらふらと一匹のなごり蛍が飛んでいた。

 

「群れからはぐれるアホウは、どこの世界にもいるんだな」

 

 よろよろと覚束ない飛び方で辿り着けないのではと思ったが、這うように低い位置を飛んだなごり蛍は、泥の川の端っこで力尽きたようにぽとりと落ちた。

 

「虫にしか宿らない異種。飛べない人にはけっして宿らない。だからみんな、のんびり見物できるんだよね」

 

「異種だって色々さ。泥の川だって、何を目的に人の道を流れ続けているんだか。それがわかったら、イリスがいう平和な共存てのも有り得るかもしれないのになぁ」

 

 次の年、この先の村が『お引き受け』になるとは限らない。お引き受けとなる村の周辺に見られる予兆を、その村に出入りする野草師やゴテ師が見極め、村人におおよその時期を告げることで人々は『お引き受け』に備えるのだろう。

 遅いなごり雪の最後の数粒を眺めるようだった。なごり蛍の最後の一匹が、泥の川へと落ちていく。

 長く柔らかな反物を広げて端を大きく煽った時のように、泥の川面のうねりが道向こうの闇と消えると同時に、ヤタカの胸で波打つ鼓動も引いていく。

 

「終わっちゃったね。異種が呑み込まれたからかな、わかっちゃうんだ。あの泥の川、怒らせたらとっても恐いよ」

 

「そうだな」

 

 異物の含む水気など、この世の物であってこの世の物とはいえない代物だ。

 泥の川が流れ去った後には、乾いた茶色い土の道が何もなかったように横たわる。

 

 

 

 次の朝、小量の食料を買い込んで、宿を紹介してくれた女将に礼をいった。

 

「ここに立ち寄らなければ、泥の川に呑まれていたかもしれません。危ないところでした」

 

 胸の前で手を振りながら、目じりをくたりとさせて女将が笑う。

 くぐって外に出た暖簾の下から、女将の足回りで緑色のスカートがふわりと揺れるのが見えた。

 

 朝も早いというのに、どこから湧いたかと思うほど街道を行き交う人の数が多い。

 見慣れたいつもの風景だった。

 

「幾つか先の村は、去年になって急に異種が数を増やしたって噂だ。とりあえず、行ってみないか?」

 

「うん」

 

 取りあえず手当たり次第に行ってみるしかないのが現状だ。

 寺が消失したあの日、最後の瞬間の一時間にも満たない、僅かな記憶を思い出すことができたなら、もっと別の道の辿り方もあるはずなのにとヤタカは思う。

 旅を続けるヤタカの胸にある思い。ひとつはみんなを呑み込んで寺が消失した訳を探り当てること。

 もう一つは、子供の頃からイリスが望む、ささやかな願いを叶える方法を見つけ出すこと。子供の頃イリスが見た故郷の湖を囲んで一面に咲く花を、イリスはもう一度見たいのだといった。両目に宿る異種を取り出せたなら、イリスはまた日の光の下で景色を見ることができるだろう。

 不可能といわれる異種の取りだしだが、それを成した者が遙か昔にいたという。その時の文献もしくは聞き伝えられたことを知ることができたなら。

 それだけがヤタカが生きる理由であり、足を動かす原動力だった。

 

 横を歩いていたイリスが立ち止まり、羽織った薄衣を摘んで膨らませる。

 

「かわいかったな、スカート」

 

「スカートをはいてみたいのか? 欲しいの?」

 

 するとイリスは激しく首を横に振る。

 

「止めておく」

 

「どうして? 暖かい季節なら街道を歩くくらい平気だろ?」

 

「ぺら」

 

 杖を脇に挟み、イリスは両手でスカートをまくり上げる仕草をすると、それからビシッとヤタカを指差した。

 

「しねぇーよ!」

 

 イリスの澄んだ笑い声が街道に響く。

 黒い大蛇の群れにも似た泥の川が通った後の街道は、朝日に照らされて吹くそよ風に、乾いた薄茶色の土埃をさらさらと転がしていた。

 

 

 




読んで下さったみなさん、ありがとうございます。
ちんまりした進み方ですが、次話もお付き合いいただけますように……。

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