ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

38 / 52
38 砂の涙

 

 鼻筋にシワを寄せ、玉の汗を浮かべながら和平を引き摺っていたシュイの足がぴたりと止まった。

 

「シュイ、先を急いでくれ。言いたくはないが、俺もけっこうきつくなって……」

 

「静かに!」

 

 シュイに制され、ヤタカは先の言葉を口の中に閉じ込めた。

 

「聞こえないか? さざ波が押し寄せるみたいな、さわさわとした音。板の上に大量の砂をバラ撒いたみたいな」

 

「あぁ……たしかに」

 

 通路に反響してどちらから聞こえているのかわからない。だがシュイのいうような奇妙な音は、ヤタカ達の方へと近寄ってきていた。

 

「なんだか嫌な感じだ。何だと思う、荷物持ち?」

 

 瞼を閉じて耳を澄ませていたヤタカは、脇を歩いていたゲン太をそっと摘み上げ、懐の奥に押し込んだ。

 

「やばいぜ」

 

「何が? いや、言わなくていい……やっぱりいって!」

 

 逃げ場のない通路の壁にぴたりと背をすり寄せ、シュイはきょろきょろと丸い目玉を泳がせる。押し寄せる気配に、異物憑きの背が粟立った。

 

「異種だ」

 

「異種? 種が歩くか?」

 

「異種の宿った虫が押し寄せてるんだよ! こっちに来い! 和平から離れるんだ!」

 

 近づいてきた音の群れはザワザワと不気味な音を立て、闇の向こうすぐ近くまできている。飛ぶようにヤタカの脇に走ってきたシュイを抱え込み、ヤタカは和平と距離をとって身を屈めた。

 

――こんな場所で偶然に異種の群れと出くわすことなどあるだろうか? ただの偶然なら和平に危害は加えないだろう。何しろ和平はある意味で最高級の異種宿り……

 

 ヤタカの思考が止まった。

 頭上を、足元を、土の壁を伝って群れなす音が一気に通り過ぎていく。

 土壁の砂がぱらぱらと剥がれ落ちる。

 だというのに、音の正体は姿を見せない。

 

――背筋の寒気が止まらない。異物憑きの俺にとって、許容量を超える異種が近くにいるということか? なぜ見えない? 

 

 異物憑きに異種は宿らない。それはこの世の理だ。以前、シュイを育てた宿の主人は、シュイが異物憑きかどうかわからないといっていた。

 

――シュイが異物に好かれるだけの体質なら、まずいことになる

 

 

「シュイ、俺にはおまえを守れないかもしれないぞ。正体が見えない以上、手の打ちようがない。おまえが異物憑きなら問題ないんだがな」

 

 謎に包まれたシュイの何かを引き出せるかも知れない、という期待を込めた問いだった。

 

「これが異種なら大丈夫さ。この子が、オレを守ろうとしてくれているから」

 

 シュイの手の中、伸び縮みする異物がじっと身を固めている。勝ち気な表情を崩さないシュイだったが、ヤタカの背に回した右手がぎゅっと作務衣を握りしめていた。

 

「オレに手を出すなって。ここに異物がいるぞって、存在を放っている」

 

「らしいな」

 

 シュイの手にある異物とは反対に、ヤタカに宿る水の器は微動だにしない。

 まるで通り雨だとでもいうように、感心さえ示していない。

 

「まさか」

 

 ヤタカははっとして顔を上げた。

 

「偶然じゃない! 標的は和平だ!」

 

「もう遅い!」

 

 立ち上がりかけたヤタカの腰に、シュイが必死にしがみついて止めた。

 

「なんなんだ、あれは」

 

 異様な光景だった。

 和平の体を薄緑色した光を放つ砂が取り巻いている。ザワザワと音を立てて集まり続けるそれは、和平の間近に来ると光を放ち始め宙を舞った。

 

「荷物持ち、ダメだよ。近付いちゃダメだ。たとえ異物憑きでも、あれはヤバイ」

 

 ヤタカも本能で解っていた。奴らがしようとしていることに余計な手出しをしなければ、ヤタカ達に危害を及ぼすことはないのだろう。

 だが、邪魔立てしたら状況は変わる。異物憑きとはいえ、数の暴力に勝てるとは限らない。

 ヤタカは懐でかたかたと身を揺らすゲン太を取りだし、必死の眼差しで見上げるシュイに押しつけた。

 

「この馬鹿を連れて、できるだけここから離れるんだ」

 

「馬鹿はおまえだろ、荷物持ち! 近付いちゃ駄目だって!」

 

「馬鹿には馬鹿のやり方がある。和平を見殺しにはできない」

 

 作務衣にしがみつくシュイの手を振り切って立ち上がった。

 まるでヤタカの叫びを聞いたように、舞う砂が宙で動きを止めた。

 ザワザワと土壁を這っていた音もぴたりと止む。

 

「おうぇ」

 

 ヤタカが喉から絞り出した潰れ声に、シュイが後退る。

 和平を囲む淡い光ではなかった。日陰の岩に這う深緑の苔に似た細い光が蛇のように螺旋を描いて這い上がり、ヤタカの腕ごと体を縛り付けていく。

 指先一つ動かなかった。

 

――邪魔をするな、ということか?

 

 無理矢理に光の鎖を振りほどこうとしたヤタカは、もう一度嘔吐いたような音を喉から洩らす。

 

「荷物持ち……どうすればいい? オレ、どうしたら……」

 

 シュイの声を遮ったのは、シャラシャラとした音。

 耳の中に侵入した何かが砂だと気づくのに時間はかからなかった。

 頭蓋骨を通して響く音はヤタカの感覚を狂わせる。耳の奥深くに侵入した砂の列が、三叉神経を冒し、平衡感覚が失われる。

 ばたりと倒れたヤタカは、口で激しく呼吸を繰り返しながら両眼を見開き和平を見た。

 ヤタカが倒れたことに満足したように、薄緑色の光を放つ砂が再び渦巻き和平を囲む。

 砂のうねりが和平の体を転がした。まるでヤタカに見届けろというように、剥き出しにされた和平の背中が目の前に。

 

――アレはなんだ?

 

 蜘蛛の巣を模る背中の痣は赤紫に脈打ち、光を放つ砂の群れはこぞって痣の糸に飛び込んでいく。飛び込んだ砂は蜘蛛の巣の別の場所から吐き出され、光を失った砂となって宙に舞い地面に落ちて動かなくなっていく。

  和平の周りにこんもりとした、拳だいの小山が幾つも出来上がっていた。

 

――まるで、蜘蛛の巣に引っかかって死んでいく虫のようだ

 

 巣を襲われた蜂のようだった。個々の命など意味を持たない。盲目なまでの戦い方。

 

――和平を攻撃しているわけではないのか?

 

 耳の奥で砂がサワサワと呼応する。

 

――いったい何と、何と戦っている?

 

 砂に見える物は恐らく虫。

 異種に宿られ姿を変えたのか、あるいは人知れず地中に潜む者達なのか。離れろといったのに、何か叫びながらシュイがヤタカの横にひざまずいた。目の前にはシュイの手を逃げ出したゲン太がいた。叫ぶシュイの声は聞こえない。耳の奥に響くのはシャラシャラと蠢く砂に似た虫達の音だけ。

 ゲン太の木肌に薄墨が湧き上がり、思案を重ねるようにゆっくりと文字を成す。

 歪む視界を懲らして、ヤタカは目を細めた。

 

――いろ おなじ

 

  何のことだ?

 

――わへいに ついていった

 

  いつの日の話しをしている?

 

――ひかりの つぶ

 

 それだけいうと、ゲン太は黙り込んだ。

 そういうことか、とヤタカは辿った記憶から答えを導き出しす。夜の闇に浮き出て光る異種が山を渡ったあの日、和平についていったのは薄緑色の光の流れ。

 ゲン太はあの色と、砂の光が同じだと言っている。和平の敵ではないのではないかと、そう言いたいのだろう。

 和平の蜘蛛の巣から弾き出され地に積もる光を失った砂は、得体の知れない虫達の死骸の山なのだろう。

 

――命懸けで守る理由はなんだ? 何より、敵の姿が見えないのが気味悪い

 

 耳の奥に侵入した虫を避けるように、水の器は完全に鳴りを潜めている。まるで今起きている出来事に介入したくないとでもいうように、介入すべきではないというように。

異物憑きは異種宿りや異種とは相容れない、拒否反応を起こすと教え込まれて育った。 それを信じて疑わなかったが、しかし。

 

――とっくに感じてはいたが、はたしてそれは真実なのか……

 

 そうである者が多いのだろうが、そうではない者も存在するのではないか。ヤタカは成長する中の経験でそう感じずにはいられなかった。

 普通の異物憑きならば、異種を宿すといわれるイリスと接触することは難しい。

 異種を集めるゲン太と戯れることなどあってはならない。

 だがゲン太はどうだ? 異物を宿した身に異種を宿す異質なる者。

 

――絶対とされた境界線が、薄れてきているのだろうか

 

 だが、とヤタカは思う。人間が勝手に信じ込んでいた物だとしたらどうだろう。あるいは、故意にねじ曲げて伝えられた情報だとしたなら。

 答えの見いだせない問答に見切りを付け、ヤタカは和平の背にじっと見入った。

 

 乱舞する光の粒を通して見える痣が波打つ。

 巨大なミミズ腫れと化した痣が、見えない指先につぶされたように端から平らく萎んでいく。細かに編まれた巣の中央に、ぶつり、と黒い固まりが頭を出した。

 濃い緑色の光はまるで小さな竜巻のように、赤黒い色を所々に混ぜては爆ぜた。和平の周りに溜まっていく砂の小山が増えていく。

 ヤタカの肩を揺するシュイの小さな手の温かさが、まだ残る正常な感覚があると教えてくれる。

 

「俺は和平の敵じゃない」

 

 耳の奥で暴れる砂に言い聞かせる様に呟いた。

 

「あいつを守る為なら、力を貸す」

 

 耳の中に静寂が広がり、大地が揺れている感覚も治まった。揺らいでいた視線が定まり、痣からぶつり、と顔を覗かせては沈む黒い固まりがはっきりと見えた。

 

 しゃらしゃら しゃら

 

 まだ横たわるヤタカの耳から、細い線となって砂達が流れ落ちていく。

 体を縛っていた緑色の光を放つ砂の鎖も解けど、ヤタカの体を離れていった。

 砂達には安全な役目も、前線に出る危険も関係ないのだろう。列成して地面を進んだ砂の列は、躊躇することなく和平の周りで乱舞する光の渦に飛び入った。

 すり寄ってきたゲン太に手を伸ばし、しがみつくシュイの肩を引き寄せ、ヤタカはゆっくりと身を起こし尻を擦って和平から更に距離をとった。

 助けたいと思うなら手を出すな、そんな砂の形を成す異種の意思を感じたからこそ身を引いた。

 

「中に潜む者が、和平の皮を突き破ることはないらしいな。まるで水面から浮き出ては沈むように滑らかだ。黒い奴の正体はなんだ? 砂は奴を閉じ込めようとしているのか、それとも引きずり出そうとしているのか……」

 

 ヤタカの独り言に薄墨を渦巻かせ、ゲン太はわからないというように鼻緒を垂れた。

 

「どっちにしろ、砂の連中が負けたら、まずいことになりそうだ。和平はもちろん、俺達もな」

 

「大丈夫なのか、荷物持ち?」

 

「あぁ、さっきからしがみついている誰かさんよりは、気持を保てているさ」

 ヤタカの衣を握り胴に抱きついていることにはっと気づいたシュイは、チッっと悔しそうに舌打ちして、恥ずかしさを隠す様にさっと離れて腕を後ろにまわした。

 そんなシュイの様子をからかう暇もないほどに、めまぐるしく状況は変化していく。

 ぶつり、と浮いては沈む黒い固まりが全貌の一端を現したのは突然だった。全体の一部であっても、それが何であるのか知るには十分。

 かくりと折れ曲がった長く細い足は、硬そうな短い黒い毛にびっしりと覆われ、巣のあちらこちらでぞりもぞりと蠢いている。

 

「あれは、蜘蛛だ」

 

 前足を追ってぶくりと膨れた胴が這い上がる。

 無数の目が砂の薄緑の光を受けてぬるぬると光っていた。

 

「でかい……でかすぎる」

 

 わたるのこめかみに巣くう蜘蛛の痣とは比較にならない大きさだった。足の関節を折り曲げ和平の背をひたりひたりと進む蜘蛛は、大の男が両手の平を広げたより遙かに大きい。

 ヤタカとゲン太を守るように、握りしめた異物を前に翳しながら気丈に振る舞うシュイの体は、微かに震えながらぴたりとヤタカに寄り添っていた。

 

――わたるは おとこ

 

 ゲン太が鼻緒を振るわせながら薄墨を浮かべた。

 

――あれは おんな

 

「まさか、いや有り得るか」

 

 自然界でもメス蜘蛛がオス蜘蛛の五倍も大きい種は存在する。大抵はメスがオスより大きな体を持ち、生殖後オスはメスに喰われて短い一生を終える。

 渡るのこめかみに潜む痣の蜘蛛がオスで、和平の背に姿を見せた蜘蛛がメスだとするなら。どちらが和平の背に張り巡る巣の本当の主なのか。元々は一緒にあるべきものだったと和平はいっていなかったか? だとしたら目の前の蜘蛛はあの巣に居るべきではないことになるだろう。

 

「一つになろうとしたとき、わたるのこめかみで蠢くオス蜘蛛を喰らうとしたら……それで何が変わる?」

 

 答えの得られない自問自答は、目の前で爆ぜた砂の光に打ち切られた。

 蜘蛛が激しく暴れ、次々と襲いかかる砂の攻撃を跳ね返している。和平は以前として気を失ったまま、指先一つ動かそうとはしない。

 

「こいつらはいったい、地中にどれだけ存在しているんだ?」

 

 蜘蛛に弾かれ光を失った砂の小山はどんどん増えていく。それでも蜘蛛を取り巻く砂の嵐は勢いを取り戻し光の嵐となる。

 少し離れて見守るヤタカ達の周りで通路を成す土の表面を、さらさらち砂が渡っていく。 風もないのに土の表面を砂が行く。

 

――やたか わへいが

 

 膝を激しく突き墨を浮かせた、ゲン太に急かされて目を懲らす。意識を失ったままの和平の肢体が、見えない糸に操られているかのようにバタリバタリと動き出した。

 右腕が持ち上がり、地を擦って左足が曲がっては伸びてを繰り返す。左腕と右足は半円を描いて激しく動かされ、頭部から腰にかけては巫山戯たようにのたうって、蜘蛛を乗せた背中の巣が激しく波打った。

 

「二手に別れた」

 

 目を見張るヤタカの目前で、乱舞するだけだった砂の光が湖面を割るように二つに分かれた。一つは巨体を巣に張り付けた蜘蛛の体表を覆い尽くし、もうひと手は和平の体内に通じる穴という穴から侵入し始めた。

 荒々しい動きで蜘蛛を絡める砂と別に、和平へ向かった砂達の動きは素早いながらも優しさを感じさせる。閉じられた瞼の隙間から、浅く呼吸を繰り返す鼻の穴から、耳たぶを伝って耳の奥へ砂はさらさらと入っていく。

 和平の体を波打たせているのは、蜘蛛に気づかれることなく最初に侵入していた砂達なのだろうとヤタカは思った。

 

――わへい どうなる?

 

 そわそわとゲン太が揺らす身を、ヤタカはそっと手の平で押さえた。

 

「目の前で起きているのが、あれは別次元で起きている出来事だ。俺達に手出しはできない。介入しても、和平を助けることにはならない。少なくとも、今はな」

 

 ヤタカは真一文字に唇を引き絞り、傷口の痛みを忘れるほど目の前の光景に見入っていた。寺の知識が全てではないのだと、目の前で繰り広げられる攻防が教えてくれる。

 寺に教え込まれた、境界線という名の理が壊れていく。

 存在の区分けが、隔てる壁がヤタカの中で音を立てて崩れ始めていた。

 

「あっ、目を覚ましたぞ!」

 

 驚いて目を丸くしたシュイが指差す先には、衣をはだけたまま四つん這いになって身を起こす和平がいた。鼻の穴耳の穴から流れ出た砂は、申し合わせたように和平の右手へ集まり、薄緑の光であっという間に膜を張った。

 

「和平! 大丈夫なのか?」

 

まだ閉じられた瞼の隙間からさらさらと砂が零れ出る。まるで涙のようだとヤタカは思った。

 ヤタカの声に反応はない。ゆっくりと開かれた瞼の奥に在る目は、人の目ではなかった。 黒目も白目もなく、眼球を薄緑色の光が泳ぐ。

 自由を取り戻そうと背で藻掻く蜘蛛のことさえ眼中にないように、右手をじっと見入った和平は、この場に似つかわしくない優しい声を唇から流し出した。

 

「お前達、ぼくの願いをきいてくれるかい?」

 

 和平の声に、砂が光を増して答える。

 

「もう少し、もう少しだけ時間が欲しい……すまないな」

 

 和平の口元が微笑みを浮かべる。

 同時に素のままの左手を膝の脇に落ちている尖った石に押しつけた。

 

「頼んだよ。謝るのは、いつの日か……ね」

 

 石に強く押し当てた手の平が勢いよく引かれ、石の尖端に切り裂かれた傷口からとくとくと血が流れ出る。首の前から回した手がが右肩の後ろへ当てられ、赤い血がたらりと流れ落ち、脈打つ蜘蛛の巣の痣を通って藻掻く蜘蛛へ運ばれる。

 緑の光を激しく放って蜘蛛を覆っていた砂が色を変えた。

 和平が流した血の色と同じ赤に染まる。

 ざざりと音が立つほど大きく足を跳ね上げた蜘蛛の動きがぴたりと止まった。

 赤い光の膜が色を増す。見えない圧力を受けたように、蜘蛛を包んで縮んでいく。

 

「蜘蛛が小さくなっているのか? 和平は助かったのか?」

 

 和平の声は震えていた。

 手の平程に縮んだ蜘蛛は、足一本動かさない。命が無くなったわけではないだう。 ただただ、和平の血を含んだ赤い光に押し潰されていく。

 すっかり小さくなった蜘蛛が、和平の背からぽろりと落ちた。

 

「今は駄目だ。まだ早い」

 

 そういって和平は赤い膜に覆われ蜘蛛を摘んで手の平にのせた。蜘蛛を覆う赤は薄く塗られた漆のように滑らかで、砂がそこにあった名残はない。

 

「時がきたら、好きなだけ喰らわせてやる。その時まで……」

 

 薄緑に染まった和平の目から感情は伺えなかった。

 左手に乗せられた赤い蜘蛛。薄緑の光を放つ砂が纏わり付く右手が翳され、ゆっくりと蜘蛛に近づいていく。抑揚のない、和平の声が地下通路に響き渡る。

 

「今一度、眠れ」

 

 だん、と音を立てて和平の右手が赤い蜘蛛を押し潰した。右手から色を失った砂がぱらぱらと零れて落ちる。

 

「和平!!」

 

 和平が喉を仰け反らせ、芯が抜けたように倒れ込んだのと、瞼からさらさらと砂がこぼれ落ちたのは同時。

 駆け寄ったヤタカは首筋に指を当て、脈があることにほっと胸を撫で下ろした。

 安堵に息を吐き出した肺が呼吸を忘れて喉の奥がヒッ、という音と共に張りついた。

 駆け寄ったシュイも、ぺたりと尻を落として口を押さえる。

 ゲン太は辛さから顔を背けるように鼻緒を萎めた。

 

「和平、何をしたんだ? おまえはいったい……」

 

 蜘蛛が潰された筈の手には何も残っていなかった。

 日に焼けた和平の手首から蜘蛛が腕へと這い上がる。

 力なく気だるそうに足を蠢かせ、小石ほどに小さくなった赤い蜘蛛が、皮膚の下を這い上がる。衣のはだけた和平の肌の下を肩まで進むと、蜘蛛の前足が巣の痣にかかった。

 まるで我が家の戸口を潜ったとでも言わんばかりに、赤い蜘蛛は姿を消した。

 迎え入れた巣の痣は一度だけうねり沈黙した。

 

「まるで、泣いているみたいだ」

 

 色を失った砂が一筋、和平の目尻から流れて頬を伝う。

 死してもなお和平を守るように、砂の死骸が小山となって和平を囲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 




 よんでくださって、ありがとう……!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。