全てを語り終えたゲン太はしゅんと鼻緒を萎れさせ、木肌を撫でるイリスの指先に甘える素振りさえ見せなかった。
「文字を浮かばせた慈庭に、意思があるわけじゃないよな?」
探るヤタカの言葉に、ゲン太は迷ったように木肌に薄墨をぐるぐると浮かべる。
――かこ のいし
――のこされた おもい
「そうか」
力ないゲン太の文字に、ヤタカは肩を落とす。慈庭と話せたなら……そんな期待が胸のどこかにないと言えば嘘になる。大人になった今でも、ふと夢の中で思い出す。あの大きな手を恋しいと想う幼い頃の自分が、心の隅に蹲っているようだった。
以前ゲン太がいった言葉。慈庭つまらない、慈庭大人なった、この言葉について尋ねると、ゲン太は自分と混ざり合うスエ吉の過去の思いだといった。
ゲン太に己の心の一部を託し、望まぬ道へ進んだスエ吉が、去って行く片割れに対して抱いた思いだと。
「寺は異物を回収していた。その後どうするつもりだったのだろう。聞かされたこともないし、あまり深く考えたことがなかった」
腕組みして顎を捻るヤタカは、目を細めてゲン太の奥に眠る慈庭の残滓に思いを馳せる。
「幼い日の慈庭は、森に散らばる異物を人の手から守ろうとしていた。だとしたら、寺とは違う思いを抱いていたことになる」
己の内面を見せなかった慈庭の、厳つい顔が鮮やかに蘇る。
「慈庭は俺に何をさせたかったんだろう。どうして、死に際に謝った? 何を謝った? めんどくせぇ謎だけ残しやがって、クソじじい」
横からイリスの小さな拳が飛んできたのをひょいと避け、ヤタカは言葉のあやだといって苦く笑った。
寺の内通者に慈庭の名があったとしたらどうだろう、そんな考えにヤタカはぶるりと頭を振った。慈庭が寺以外の組織に属していたとは思えなかった。動いていたとしても、ひとり密かに動いていたような気がしてならない。
素堂を嫌う素振りなど一度も見せたことがない。
ヤタカに寺を裏切るように示唆したこともない。
堂々巡りする思考は、木肌に渦巻くゲン太の薄墨のように行き場もなく、出口を見つけられずに溜息だけが幾度も漏れた。
「和平、おまえはどう思う?」
ひと言も口を挟まずに戸口の横で壁に背を預ける和平の声をかけたヤタカは、様子が妙なことに気づいて眉を顰めた。
「具合でも悪いのか?」
「気にしないで。背中が疼くんだ。こういうときは気力の全てを持っていかれる気になるよ。立ち上がるのさえ辛い。心配しないで、すぐに治まるから」
和平の背中に何が潜んでいるかを知らないイリスは、きゅっと小首を傾げヤタカを見たが、わからない、というように肩を竦めるヤタカを見ると何もいわずに小さく口を尖らせた。
和平の側へ行こうとヤタカが立ち上がったときだった。
誰も居るはずのない夜中だというのに、戸口を叩く音が響いた。気配を感じることがなかったヤタカは眉を寄せ、ゆっくりと来訪者との間を隔てる戸口へと向かった。
「誰だ?」
「辻読みのおばば……とでもいうたら、わかっていただけるかのう?」
嗄れた声に、ヤタカの記憶が蘇る。闇に舞う金糸の蝶が、鮮やかに記憶の中で舞う。
「どうされました? というよりなぜここが?」
用心しながら開けた戸口の向こうには、くの字に背を丸めた老婆が歪な枝ののぼりを手にひとりぽつんと立っていた。
「物が見えんと、噂だけはよう聞こえるもんでのう。それに、時が満ちたようじゃけ、辻を読んで差し上げようと思いましてのう」
訝しみながらどうぞ、というと辻読みの老婆は皺だらけの顔に更にシワを深く刻んで微笑み、ずずり、ずずりと黒い打ち掛けの裾を引きずりながら入ってきた。
「おばあちゃん?」
イリスの声がした方へゆっくり頭を下げると、辻読みの老婆はよっこらしょ、と床に座った。
「辻を読むとはいっても、年寄りの戯言と思ってくだされや。今宵は入り乱れた道が幾つにも重なって離れ、老いぼれが読み解くには少々難儀じゃったがの」
「誰の辻を読むのです?」
警戒心を解くことなくヤタカは問う。
「誰のものでもない、この場の辻ですわ。ここに集う者全てを巻き込む辻を、読み解いた故に、お聞かせいたしましょうぞ」
シワの隙間で見開かれた瞼の奥に、白濁した眼球が覗く。
なぜかぞわりと寒気を感じたヤタカは、ぶるりと背筋を振るわせた。
和平は瞼を閉じたままぐったりと壁に背を預け、小屋に入ってきた老婆をちらりとも見ようとはしなかった。
にこにこと笑顔を浮かべるのはイリスだけ。ゲン太でさえ、萎れていた鼻緒をぴんと立て、呑気に微笑むイリスの脇を守っている。
「双子星は離れ離れに。泉を飾る花は摘み取られ、泉は濁って朽ち果てる」
老婆の嗄れた声が、低く小屋の中に響く。
ぞくりとする声だった。
読むのではなく、この老婆が口にしたことに現実が寄るのではないかと錯覚させるほどに、ぞっとする声だった。
「無学なので、意味がわかりませんが……」
ようやっと絞り出した声でさえ、ヤタカの乾いた喉に引っかかる。
「なぁに、すぐにわかりますとも。辻読みとは、辻から読み取れるものとはそういうものじゃけ」
くくくっと痰の絡んだ嗤いと共に立ち上がると、声をかけられずにいるヤタカ達に背を向け、ずずり、ずずりと老婆は戸口へむかった。
からからと引き開けられた戸の向こうには、この世の闇を集めたような黒い空気が広がっていた。
しゃたり、と閉められた戸口を呆然と見ていたヤタカは、突然の爆音に顔を伏せた。
その一瞬が、大切な者を見失う隙を与えるなど思いもしなかった。
「イリス!」
振り返った時、イリスの体は既に宙に浮いていた。
蹴落とされた小屋の屋根には黒い穴がぽかりと開き、垂らされた紐に腰を結わえた黒装束が、人の技とは思えぬ速さでイリスの体を抱えて引き上げられていく。
「イリス!」
戸を打ち割る勢いで開け放ったヤタカの動きは、首元にぴたりと当てられた長刀によって阻まれた。勢い余って食い込んだ刃先の当たった首筋から、じんわりと赤い血が滲み出る。
老婆から少し離れた場所に、ぐったりと気を失ったイリスが男に無造作に片手で支えられていた。
「おんや? 天の辻が変わってしもうた」
長刀の向こうには、半分闇に溶けた老婆の姿が合った。
夜空を見上げ嫌そうに口元を歪ませる老婆の脇で、垂れ下がっていたぼろぼろののぼりがバサリと突風になびいた。
「イリス! てめぇら、いったい何を!」
叫ぶヤタカの前で、イリスががくりと膝を着く。片手でイリスの体を支えていた黒装束の男は、姿勢をそのままにばたりと後方へと倒れた。
ヤタカを留めるべきか、老婆を守りに動くか迷った長刀の持ち主の手元が僅かに揺れた。
「動かんでよいよ。もう遅いわ」
老婆の声と同時に、二つの黒い影が闇を過ぎった。
イリスの体を抱きかかえ、黒い影が後方へと飛んだ。
喉元へ長刀を当てていた男の体が、芯が抜けたように崩れ落ちた。
「イリスを返せ!」
「頓悟」
怒りに駆け出そうとしたヤタカの足がぴたりと止まる。
「解」
意思に反して、足はゆっくりと後退り小屋の中へヤタカの体は引き戻されようとしていた。
――わたる……なのか?
「おんやまぁ、火穏寺の嬢ちゃんじゃないかえ」
けけけっ、と辻読みの老婆が笑う。
ずずり ずずりと足を引きながら離れていく、老婆の姿が闇に溶けた。
「ここは引くしかなさそうじゃ」
闇の中、金糸の蝶がひらひらと舞い踊り去って行く。
代わりに闇から姿を浮かばせたのは、わたるだった。
「言っただろう? 平穏はそう長くはつづかない」
勝手に小屋へ向かう足を切り落としたい思いで、ヤタカはぐっと唇を噛んだ。
「そりゃ女の勘もあたるだろうよ。いった本人が、平穏を崩しに動くんだからな」
「どう取られようと、あたしのすることは変わらないさ」
「イリスをあの婆から守ったわけではなさそうだ。だったら、返して貰おうか」
ヤタカの体は、すでに半分小屋の中に入りかけている。
「返せといわれて返すような女はやめた方がいい。そんな女は、惚れたといわれる度にふらふら男についていく」
「そりゃ勉強になる。気をつけるさ」
戸口の壁に阻まれて、イリスの姿が視界から消えたことにヤタカは苛ついた。
「今は自分の身を案じた方がいいよ? 羽風堂の婆様とあたし以外にも、来客があるようだから」
五人の黒装束がすっと現れ、わたるを守るようにぐるりと囲む。その手には闇さえ反射しそうな刃がそれぞれに握られていた。
羽風堂と火穏寺が姿を見せた。この上まだ来客があるとするなら……考えを巡らせるヤタカの脳裏に、残る三つの組織の名が浮かぶ。
「面倒に巻き込まれる前に、あたしはここを退かせてもらうさ」
完全に小屋の中に入ったヤタカの足はぴたりと動きを止め、釘で床に打たれたようにびくりともしなかった。
「さよなら……ヤタカ」
黒装束によって乱暴に閉められた戸の向こうから、わたるの気配が消えた。
まるで泡が弾けて消えるようだった。
「和平! しっかりしろ!」
動かない和平の足を蹴り続けていたらしいゲン太が、意気を荒げたように鼻緒を激しく上下させている。
「ゲン太、俺はどうにも動けない。何か打開策はないか? イリスを追わないと……なんだ? ゲン太、けむり臭くないか?」
びくりと跳ね上がったゲン太が、今まで以上に激しく和平を蹴り上げる。
風化して隙間の空いた板張りの隙間から、白く濁った煙が流れ込んできていた。
――まさか、小屋の周囲に火を放ったのか? わたるが……まさか
イリスを連れ去られても、そんな惨い殺し方を選ぶわたるが想像できなかった。
わたるなら、苦しませずに殺そうとするだろうと思った。
――俺が甘いのか
歯軋りしながら動かぬ足を睨み付けていたヤタカは、わたるとは違う気配にはっとして顔を上げた。
その間にも、小屋の中へ流れ込む煙はどんどん勢いを増している。
ふいに、戸口が開け放たれた。
二本の松明が、めらめらと炎を立ちのぼらせている。
「お前達……どうして」
表情なく立っていたのは、ゴテと野グソ。
「お前達が、小屋に火を放ったのか?」
尋ねたのではなく、確信だった。
「逃げられないよ。すぐに仲間が押し寄せる」
この場にそぐわないほど穏やかな野グソの声だった。
「イリスが此処にいなくて良かったぜ。さすがに、胸が痛む」
野太いゴテの声に、ヤタカは奥歯を食いしばった。どんなに睨み付けても、二人からは何の感情も返ってこないのが尚更に怒りを燃え上がらせる。二人の表情には憎しみも、使命をまっとうした喜びもない。
火を放った、ただの木偶の坊。
「一度は、友と呼んだ仲だというのに。くだらないな。共に過ごした時間など、時が過ぎれば色褪せた記憶に過ぎない」
炎上する怒りとは真逆に、ヤタカの声が凪いでいく。
「言っただろ? 二度と信じるなと。俺達は二度と、おまえに本当のことなどいわないと」
「あぁ。覚えている」
野グソが懐から取りだした小瓶に入っていた液体を、戸板の内側にぶちまけた。
かつての友は大きく一歩後ろへ下がり、ゴテの持つ松明の火が、戸板に寄せられる。
油の燃える臭いと共に、一気に戸板の上を炎が這う。
「生け捕りという甘い路線を唱える者も今ではいない。持ち帰るのは骨で構わないそうだ」
ゴテの冷えた声が、血の昇ったヤタカの頭を急速に冷やした。
この場を逃れる方法を探し出すことに、意識の全てを集中させた。
「浮き世の恨み辛みを、あの世まで持っていく趣味はないよ。いつの日か、あの世で会ったら、また酒を飲もう。俺達もおまえも、どうせ行き着く先は極楽浄土じゃないんだから」
炎の隙間から見えた野グソの口元が、微かな笑みを模ったのを最後に、松明の先で器用に戸板が閉じられていく。
炎の熱さが邪魔して、ヤタカは二人の気配を感じることは出来なかった。戸板もどうせ外から押さえ棒でも噛ませて開かないように細工されているだろう。
「和平、目を覚ませ! ゲン太を連れて逃げるんだ! しっかりしてくれ、俺は動けないんだ」
わたるは火が放たれることを予想して術をかけたのだろうか。
いや違う。いやそうかも知れない。
そんなことが頭の中を駆け巡った。
――わへい おきない
戸口のすぐ横で気を失っている和平に、容赦なく炎が迫る。ゲン太は炎を避けながら、和平に体当たりを繰り返していた。
万事休すか……ヤタカが目を閉じた刹那、部屋の隅に置かれた大きな水瓶が動いた。
まるで滑車のついた板に乗せたように、横滑りして動き出した瓶に目を見張るヤタカ。
その視線の先にひょいと顔を覗かせ、げほりと咳き込む者の姿がヤタカに希望を灯す。
「しっ……」
呼びかけようとしたヤタカを、自分の唇に指を当てて制したのは、土埃にまみれたシュイだった。
「シュイ、わたるという女に術をかけられて動けないんだ。和平とゲン太を連れて逃げてくれないか」
声を潜めるヤタカに、シュイは片眉をひょいと持ち上げちっ、と舌打ちした。
よっこいしょ、と小さなかけ声と共に床に空いた穴から這い出てきたシュイは、顔を真っ赤にしながら和平を炎から引き離し、生意気な目つきのままヤタカを見上げて顎をしゃくってみせる。
「誰にいってんの? 術なんて、こうすりゃ大抵解けんだよ」
真っ直ぐに伸ばしたシュイの足が、ヤタカの背中を蹴り飛ばす。
「ぐえ!」
「静かにしろってば! 敵に気づかれたら荷物持ちの所為だからな!」
「あ、体が動く」
蹴った程度で解けるような術をわたるが使うとは思えなかったが、そんなことは今はどうでも良かった。
「よし、シュイはゲン太を頼む。俺は和平を担いで運ぶ」
「助けに来たのはこっちなのに……荷物持ちのくせに」
シュイの指示にしたがって和平を穴に押し込み、その後にヤタカが続いた。床のあちらこちらからメラメラと赤い炎が上がり始めていた。
ゲン太を抱いたシュイはひょい、と身軽に穴に飛び込むと仕掛けを引いて、瓶を元の場所に戻して蝋燭に灯りを灯した。
「ここにちょっとだけ爆薬を仕掛けていくんだ。小屋が燃え尽きたら、必ず捜索の手がはいるだろう? そのとき荷物持ちの骨がないから、怪しまれるだろうけれど、それよりもっとまずいのは、この道が見つかることだからね。爆破でこの穴は完全に塞ぐのさ」
穴は人が四つん這いで進める程度の広さしかなく、シュイはあの伸び縮みする妙な道具を使って器用に和平を運んでくれた。
暫く進むと、遠くの方でドスンと鈍く爆発音が響いた。
傷口から血が滲み出て、凪いでいた筈の痛みが猛烈な勢いでぶり返しはじめたヤタカは、奥歯をぎちりと噛みしめる。
気を失ったイリスの姿が目に焼き付いていた。
「今回は助けたけれど、イリス姉ちゃんを助け出すまで、荷物持ちなんか大嫌いだからな!」
「一番悔しいのは俺だ」
「そんなの……知ってら!」
ぶつぶつと文句を言い続けるシュイの額にも、玉の汗が浮いていた。異物の力を借りているとはいえ、この狭い通路で和平を運ぶのは骨が折れるのだろう。
「シュイ、俺達の情報をおまえに知らせたのは誰だ?」
和平を引いていたシュイの手が止まり、それからまた素知らぬ顔で動き出す。
「オレ様の能力を全開にしたら、こんなの朝飯前さ! ただのガキだと思うな!」
「そうか」
今はいえないのだろうと悟ったヤタカは、それ以上言及しなかった。
知る必要があれば、そのときシュイは口を開くだろう。
「シュイ」
「なんだよ!」
「たすかった。ありがとう」
苦虫を噛んだように身を震わせ、シュイは手当たり次第の土をヤタカに投げつける。
「急に素直にならないでくれる? 気持ち悪いっての!」
ふくれっつらのシュイに、ヤタカはくすりと笑って見せる。
傷口に心臓があるように痛みは増していく。
「姉ちゃん、絶対助けろよな」
「あぁ、言われなくてもそうするさ。まったくクソ生意気なガキだな、相変わらず。いったい何様なんだか……」
くるりと振り向いたシュイが、くいっと顎を上げてゲン太を顔の横に並べて見せる。
「オレ様!」
生意気なシュイの強がりな声が、今は痛みから気を逸らせてくれる。
「オレ様か……マセガキめ」
からり ころり
無理矢理に元気を出しているのは、シュイだけではないらしい。
無駄に元気な下駄の音が、狭い通路に響き渡る。
「まずは和平だ。先を急ごう」
ヤタカの声に大きく頷いたシュイの後を、もくもくとヤタカは追いかけた。
腕を濡らすのが汗なのか血なのかさえ解らない。
――イリス、無事でいてくれ
小屋が燃え尽きる頃には、ヤタカ達は細い道を抜け、山二つ越えた先の地下道をひたすら先へと進んでいた。
手を伸ばせなかった炎の向こう側に、イリスを置いてきてしまった。
炎に隔てられた向こう側にいた者全てを、敵と呼ぶべきだろう。
――敵なんだ
自分を納得させるように、何度も心の中で繰り返す。
呪文のように、ヤタカは胸の内で呟き続けた。
読みに来てくれた皆さん、ありがとうです。
次話以降は、週一で(たまに十日に一)くらいでいけそうです。